Q.聖道門と浄土門の違いについて詳しく教えてもらえますか。
A.聖道門では、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も尊重します。
聖道門は、此土入聖といって、諸行によってこの世で聖者の位に入り、成仏を目指すものです。19願は、聖道門と同じ行を阿弥陀仏に回向することで、往生して成仏するというものです。ですから、聖道門の人にとりましては、19願は聖道門に近いものと考えてきました。
ところが、法然上人は往生のためには念仏1つと教えられ、諸善を捨てよ、18願だけが阿弥陀仏が選び取られた本意の願であると仰ったので、聖道門から激しい非難があったのです。
判りやすく言えば念仏弾圧の背景には、法然上人が、聖道門の尊重する19願と諸善とを排斥したことがあったのです。
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、
ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。
とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけというのはおかしいと言っているのです。
また法然上人が亡くなられた後、明恵上人高弁が『摧邪輪』を著して、
解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。
と具体的に19願を出しています。
一方18願、念仏に対しては、『興福寺奏状』に
善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。
とあり、また『摧邪輪』には、
往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。
とあるように、18願、念仏は悪人のための方便の願であるのに、それを万人にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。
要するに、18願だけ、念仏一行を説かれた法然上人は間違っている、と非難している訳です。これは真実と方便が反対で、善人悪人の意味の違いはありますが、高森会長が本願寺を非難している論理と同じです。
逆に言えば、それほど法然上人は18願1つ、念仏だけを強調された方であったということです。実際に法然上人は19願については、言及さえほとんどありません。
この『摧邪輪』に反論されたのが、親鸞聖人の『教行信証』です。もちろん、親鸞聖人は、法然上人が18願念仏往生1つと仰ったことの正しさを、膨大な経論釈を引かれて証明されたのです。浄土真宗の常識中の常識です。
たとえ聖教を読んだことがなくても、日本の浄土仏教の歴史を少しでも学んでいれば、高森会長のような主張が、浄土門から大きく外れた、それどころか破壊するものであることがお判り頂けるのではないでしょうか。
Q.19願に「十方衆生」とあるから、19願は我々に関係がない筈がない、と親鸞会では教えていますが?
A.完全なトリックですね。
聖道門の人は、18願に「十方衆生」とあっても、自分たちが18願に関係あるとは思っていません。18願の「十方衆生」とは、下劣根機、つまり悪人のことだと思っています。19願の「十方衆生」とは、上根機、つまり善人のことだと思っています。
一方で、浄土門の善知識方は、19願に「十方衆生」とあるから、全ての人に関係があることだとは言われていません。
先に述べたように、法然上人は19願についてほとんど言及さえされていませんでしたので、聖道門から非難されたくらいです。蓮如上人の『御文章』を読んでも、19願について書かれたところはありません。
高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領選挙に立候補した人が、「私が大統領に当選したら、所得税を撤廃します」と公約したとします。国民全員と約束したのですが、国民全員に直接関係があるのではありません。所得税を払っていない人には、関係のないことです。
これが、「国民全員に、定額給付金を出します」となれば、関係のない人はありません。国民全員との約束ではあっても、約束の内容によって、国民全員に関係があるかないかが分れるのです。
高森会長が、人集め金集めのために19願を利用する口実として、「十方衆生」を持ち出しただけのことです。
Q.三願転入は親鸞聖人の教えの根基といわれていますが?
A.高森会長が勝手に言っているだけです。高森会長は、親鸞会の35周年大会の際に、”三願転入の教え”を突如言い始めて、その直後から、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」と言い出しました。つまり、そんな大事な「親鸞聖人の教えの根基」を今まで話をしてこなかったのです。いわば、秘密の法門です。
元々は大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、
「大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ」
と書かれたのが最初です。大沼師は、本願寺の無帰命安心を批判するために、信前信後のあることを親鸞聖人の三願転入の文で説明しただけで、高森会長の言っている意味で、三願転入を使っていた訳ではありません。
Q.では、親鸞聖人には19願についての言及がありますが、どのようなものですか?
A.親鸞聖人も、19願の「十方衆生」については、聖道門の人と同じで、上根機と解釈されています。
それは、『大無量寿経』の異訳経からもいえますが、まとめると以下になります。
大無量寿経19願の十方衆生 | |
平等覚経 | 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者) |
大阿弥陀経 | 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人) |
尊号真像銘文 | 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている |
化土巻・要門釈 | 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人 |
西方指南抄 | 諸行の人 |
浄土和讃 | 定散諸機 |
要するに、19願の「十方衆生」とは善人のことであるというのが、聖道門、浄土門共に共通した見解なのです。
従って、高森会長の解釈は、浄土門でないことはもちろんですが、聖道門とも違っているのです。
18願は悪人正機
19願は善人正機
ということです。このことを法然上人は判りやすく教えておられます。
『勅伝』に
上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」
とあります。善人に勧められた教えと、悪人に勧められた教えを区別されていることを知った上で、我々最下の凡夫は、悪人に勧められた教えを聞いていくことで、信心決定し、往生ができるのです。
高森会長の教えは、まさしく「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり」なのです。
まともに真宗の先生について仏教の勉強をしたことがないから、阿弥陀仏の本願を独自のデタラメ解釈に陥り、浄土門でも聖道門でもなくなった新興宗教と化しているのです。
Q.そうなると、善人には18願は関係ないということですか?
A.この疑問が、念仏弾圧の原因になったことは、先に説明した通りです。法然上人は、18願1つを説かれたのですが、聖道門の人たちの考えでは、18願は悪人に対してのことで、聖道門の修行をしている善人には19願や聖道門を勧めるのが筋ではないのか、という非難です。尤もな理屈です。
懐感禅師は『群疑論』に
『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。
と書かれ、それを源信僧都が『往生要集』で
『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
と言い換えられています。それを親鸞聖人はそのまま承け継がれて『高僧和讃』で
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
と仰っているのですから、極重の悪人には18願しかないことは間違いないことですが、善人には関係ないように思うのもある意味しかたのないことです。
確かに、善人には聖道門や19願といった法門があるのですが、最終的には全ての人が18願に帰依しなければ真実の報土に往生できないと、聖道門からの非難に対して反論されたのが親鸞聖人の『教行信証』なのです。
化土巻・要門釈には、19願では化土往生しかできないことを仰った後、結論として
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
(現代語訳)
また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。
と仰ったお言葉に、親鸞聖人の19願に対するお考えが集約されているでしょう。
『正像末和讃』にある
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
と共通するものです。龍樹菩薩や天親菩薩のような方でさえも、18願に帰依されたのだから、自分の能力をよく知って、18願他力念仏を信じて下さい、というお言葉です。
このようなことを踏まえられて三願転入の文を読まれれば、三願転入が我々に関係があるのかないのかが、自ずとお判り頂けるでしょう。
もちろん聖道門自体に対しても
まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
(現代語訳)
いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。
と仰っています。
Q.親鸞会では、過去世からたくさん善をしてきた宿善の厚い人が早く救われると教えていますが、これはどうですか?
A.間違いです。
それは善人が早く救われ、悪人が遅く救われるということを言っているのと同じです。もしそうであれば、今生で聖道門の修行を真面目にしている人は、過去世から善をしてきた善人ですから、直ちに18願で救われてもよい筈ですが、聖道門の修行をしている人は、18願を悪人のためのものと見下していますので、無宿善の機といえます。
一方で、『観無量寿経』には、五逆罪の下品下生のものが、平生に悪ばかりし続けてきて、仏法を聞くこともないのに、臨終に善知識に遇って、臨終の苦しみの中でやっとやっと念仏を称えて往生すると説かれています。
このことを『選択本願念仏集』には
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。
(現代語訳)
この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。
とありますし、『唯信鈔文意』でも解説をなされています。
「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。
(現代語訳)
『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。
因果の道理を元に考えたならば、過去世の行いが現在世に影響するのですから、下品下生のものは、過去世から無善で、悪ばかり造ってきたことになり、親鸞会でいう無宿善のものとなる筈です。これでは無宿善のものが、往生することになり、矛盾でしかありません。
Q.ということは、今生で善を好んでいるかどうかという有様をもって、宿善の厚い人が早く救われ、宿善の薄い人が遅く救われるという親鸞会の宿善論はおかしいということですか?
A.全くその通りです。
親鸞会でも教えている実例をだせば、耳四郎は強盗、殺人、放火を平気でしてきた人でしたが、法然上人の御法話に盗みに忍び込んで、そこで法然上人の話をたまたま聞いて救われたとされています。ここでも矛盾がありますので、最近は耳四郎の話はなくなりました。
親鸞会の発想は、聖道門と同じです。天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』では、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので往生できるのだ、と『観無量寿経』の下品下生を解釈しています。今生では、悪縁によって極悪人になってはいますが、元々は善人であるという苦しい解釈です。
しかし、浄土門の善知識方で、そのように解釈された方はありません。過去世からの極悪人がそのまま救われるのが18願です。
『口伝鈔』では、
機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。
宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし
と教えています。過去現在の善悪は、往生とは関係ないのです。更には、
たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。
とまで仰っています。
一方、親鸞会では
今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめることは間違いでしょうか?
と教えており、浄土門とは相容れないのです。
聖道門と浄土門の違いは、善人正機と悪人正機の差です。親鸞会の宿善論は、善人正機の聖道門の発想です。
Q.そういえば、高森会長は盗作・浄財の私的流用を何十年もし続けていますし、講師部員も窃盗などの犯罪を行ったものがいると噂で聞いています。宿善が誰よりも厚い筈の高森会長と講師部員が悪を好む姿は、宿善論の破綻を教えてくれているような‥‥
A.親鸞会の宿善論は、完全に破綻しています。
会長や講師部員は、18願の救いは悪人正機なのだから善をしなくてもいいし、善をしていると嘘をついても構わないと思っているのではないですかね。
耳四郎は、信後も泥棒は止められなかったそうですから、会長や講師部員は耳四郎の真似をしているつもりかも知れません。しかし、耳四郎の場合は、泥棒を止めようと努力して止められなかったので、昔よりも益々嘘をつき通そうとする会長とは違います。
会長の目的は、会員に善を勧めて、献金と人集めを促して、私欲を満たすこととしか言えません。
三願転入論、宿善論、方便論、すべてが同じ理由で教えが故意にねじ曲げられています。
ちなみに、18願の救いと、善の有無を関係付ける心を自力の心というのです。
自力の心を捨てよ、ということは、親鸞会の三願転入論、宿善論、方便論を捨てよということです。親鸞会の間違った考え方を捨てない限り、他力に帰すことはありません。
それが『唯信鈔文意』の
自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず
(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。
です。経典にも、善知識方の御著書にも書かれてなく、そんな解釈を誰もしていないことを
これこそが誰も明らかにできなかった親鸞聖人の真意だ
などと言っていること自体が、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。
>高森会長のような主張が、浄土門から大きく外れた、それどころか破壊するものであることがお判り頂けるのではないでしょうか。
とありますが、具体的に高森会長のような主張とは、どのようなものでしょうか。説明していただきたいです。