Q.親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と仰っていますが、後生は無間地獄に堕ちることは必定ではないのですか?

A.これは『歎異抄』にある親鸞聖人が仰ったとされるお言葉ですが、親鸞聖人が御自身の罪悪観を述べられたものです。罪悪観については、以前にも詳しく述べました。

仏教でも真宗でも一般には、死後は六道輪廻と教えられ、我々のような悪凡夫は、三悪道に堕ちると書かれてあるものが多いです。
その中で、罪悪観を突き詰めていけば、三悪道とは言いながらも地獄しか行き場のないものという親鸞聖人のお言葉になる訳です。罪悪感とは、自己の内省です。自己を厳しく顧みられた時に、地獄に堕ちても文句の言えないものと親鸞聖人は、懺悔されたのですが、だからといって、死後に地獄に堕ちることが決まっているということではありません。あくまで、罪悪観であり、懺悔です。仏でもないのに、自分には未来を知る能力があると考えることがそもそもおかしいです。
しかもここで言われている罪業は、十悪のことであり、五逆謗法の無間業ではないことをよく知って頂かねばなりません。ですから「無間地獄に堕ちる」という言い方ではありません。

親鸞聖人の御著書の中で、我々が無間地獄も含めて、地獄に堕ちると教えられた箇所は全くありません。これまでにも、何度も何度も述べてきましたように、親鸞聖人は「一切衆生必堕無間」を完全に否定しておられます。
もし親鸞聖人が「一切衆生必堕無間」という意味のことを仰ったお言葉があれば、是非とも教えて下さい。

蓮如上人も、地獄に堕ちると仰った箇所は、異安心、邪義の者に対してという条件付きの場合が多いです。そうでない場合は、六道、三悪道という表現になっています。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。(一帖目第十一通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。(二帖目第十四通

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(一帖目第十一通

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、つゆちりほども心にかけずして、(二帖目第一通

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。(二帖目第四通

総合的に考える能力が完全に欠落している高森会長、講師部員と偽装退会者は

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通

この1つの文章をもって、これに反する膨大な根拠をすべてを否定するという典型的な断章取義です。

なお、江戸時代に大谷派で地獄が強調されたことがありましたが、それもそのような学説があっただけのことで、それを紹介したところで、

それで何?

となるだけです。「念仏無間」と誰かが言っていたら、それに飛びつくのと同じ位愚かな思考です。そんなブログを書いていて虚しくならないのでしょうかね。

負け犬の遠吠え、論点ずらし、詭弁でしか語れないのが親鸞会です。

親鸞聖人の教えを語る前に、人間として、大人として恥ずかしくない主張を展開してほしいものです。

と何度言っても、改めることの絶対にしない親鸞会でした。


Q.仏教を聞く目的は、後生の一大事の解決のためと親鸞会では教えていますが、それも間違いということですか?

A.親鸞会の言っている意味では、間違いです。

後生の一大事とは、往生浄土の一大事、往生浄土できるかどうかの一大事、ということです。約30年前に紅楳英顕師が、そのことを『派外からの異説について』で指摘されています。

最近親鸞会では、後生の一大事には必堕無間と往生浄土という二つの意味がある、とこれまでの必堕無間一辺倒から転換して説明しているようです。紅楳師がこの指摘をした際に、高森会長が、往生浄土の一大事も一大事だが、信前は必堕無間の一大事のことをいうのだ、と30年近く前に説法で話をしていたことがありましたが、それ以来きいたことがありませんでした。嵐のような親鸞会への教義批判に対応する形で、また詭弁を使っているだけのことです。

浄土門において、仏教を聞く目的は、浄土往生して仏に成ることです。必堕無間から逃れるためではありません。無間地獄から逃れるためだけであれば、無間業を造らなければいいだけです。先にもいいましたが、親鸞会で教えているように神を拝めば蛇に生れる筈ですので、積極的に神を拝んでもよいと勧めてもよいことになってしまいます。もっとレベルを上げれば、化土往生ができれば万万歳です。

しかし、親鸞聖人は化土往生を願うことさえも誡めておられます。報土往生だけを願えとしか教えられていません。従って、必堕無間の解決のために仏教を聞くというのは、親鸞聖人の教えではありません。単なるカルトの教えです。

『涅槃経』には、「一切衆生悉有仏性」と説かれていて、親鸞会でいう「一切衆生必堕無間」の教えは、浄土真宗でも仏教でもないのです。


Q.「一切衆生悉有仏性」とはどういうことですか?

A.親鸞聖人は『教行信証』信巻・信楽釈に引かれています。

『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。

大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。

このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。

仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。

(現代語訳)

『涅槃経』に説かれている。

「善良なものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形にしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。

また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」

一切衆生悉有仏性」というと、衆生の中に仏性があると理解しがちですが、そうではありません。衆生の側に仏性があるのではなく、阿弥陀仏から大慈大悲を具えた大信心を賜るから、一切衆生は悉く仏性が有ると説かれているのです。

これを『浄土和讃』では

平等心をうるときを
 一子地となづけたり
 一子地は仏性なり
 安養にいたりてさとるべし

(現代語訳)

煩悩の火が消えて、一切のとらわれがなくなり、 自他、 善悪、 その他すべてを平等に見る 「平等心」 を得るとき、直ちに如来の大悲心が起こる。
その大悲心は、 迷いの世界の一切の衆生を一人子のように愛する心なので、『涅槃経』では 「一子地」 と名づけられた。
一子地は、仏としての性質であるから 「仏性」 ともいわれる。
一子地といわれる仏の慈悲心は、 安養の浄土に往生して身に得ることができるのである。

如来すなはち涅槃なり
 涅槃を仏性となづけたり
 凡地にしてはさとられず
 安養にいたりて証すべし

(現代語訳)

すべてのものにとらわれるべき本性がないという真理そのものが法身の如来であり、またそれが涅槃の本質である。
涅槃の本質は、仏の本性という意味で、仏性とも名づけられる。
このような涅槃の境界は、凡夫の世界ではさとることはできない。
安養の浄土に往生してさとるはずである。

信心よろこぶそのひとを
 如来とひとしとときたまふ
 大信心は仏性なり
 仏性すなはち如来なり

(現代語訳)

『華厳経』にも、信心を得てよろこぶ人は諸仏と等しいと説かれている。
それは、 信を得たそのとき、往生成仏が約束されるので、もう仏となったようなものだという意味である。
また、『涅槃経』 には、 大信心は仏性なり、 仏性は即ち如来なりとある。
如来回向の大信心は、衆生の心にはたらく仏のはたらきである。この仏のはたらきである仏性を、如来ともいわれている。この信心によって、仏のさとりを得させていただくのである。

と仰っています。

仏性のないものが大信心を賜って報土往生し仏になるのですから、一大事なのです。無間業を造ったものが地獄に堕ちるのは、当たり前のことで一大事ではありません。親鸞会の教えは、極めて低いレベルの話をしているのです。

それと、衆生の側に仏性がないことと、闡提とを混乱しているお目出たい人がいますが、親鸞聖人の御著書を読んだことがないだけのことです。


Q.領解文の「一大事の後生」は地獄に堕ちる一大事ではありませんか?

A.前回紹介した紅楳英顕師の論文をよく読まれれば、以下の領解文の意味も判られると思います。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

後生の一大事とは、”地獄に堕ちる一大事”、という先入観があると、全ての御文がそういった意味だとしか思えなくなりますから、難しいかも知れませんが、一度その先入観をなくして読んでみて下さい。

ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、

衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。

とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。

親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。

阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。


Q.「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは捨自帰他が判っていない、というところをもう少し説明して下さい。

A.『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

について、高森会長の解釈が間違っていることを以前に

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

で指摘しました。『執持鈔』と比較することで、高森会長の間違いがよく判ります。以下は親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

如何でしょうか。『歎異抄』の「総じてもって存知せざるなり」を高森会長の『歎異抄をひらく』では、

「知らん」は「知らん」でも知りすぎた、知らん

と書いていますが、『執持鈔』には関東の同行が出てきませんので、状況が違います。『執持鈔』を読めば、高森会長のような解釈にはなりません。

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

死後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないのです。要するに、死後が判るものではないということです。
捨自帰他については、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。「自分は地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。

救われるとき、あるいは救われたら、地獄一定と歴然と知らされる、極楽一定と歴然と知らされる、などと思っているのを自力というのです。それを捨てよです。

従って、「知らん」は文字どおり「知らん」で、平たく言えば、「阿弥陀仏か法然上人に聞いてくれ」、ということなのです。


Q.しかし、『執持鈔』でも「このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし」とありますが、これはどういうことですか?

A.断章取義をせずに、全体をよく見なければなりません。
全く同じことを

明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身

と仰っています。「地獄」が「悪道」になっています。この他にも、

善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば

とやはり、「地獄」が「悪道」に替っています。更に続いて

さればただ地獄なりといふとも

とありますので、親鸞聖人が仰っている「地獄」とは「悪道」の中で極論を仰っていることと判ります。
それでも地獄秘事の親鸞会では、「地獄」に固執するでしょうから、更に後にある親鸞聖人のお言葉を読んで下さい。

  • おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくより
  • かかるあさましきものが、六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なき
  • 十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ

とあります。仏教で教えられている通り、我々凡夫は死後に六趣、四趣、三悪道(三途)に行くのだ、と親鸞聖人はそのまま理解されて仰っています。従って、親鸞聖人御自身が地獄に堕ちるとはっきり知らされたというのではありません。教えの理屈から仰っているのであって、救われても地獄が見えて、地獄行きとはっきり実感されるのではないのです。同様に、阿弥陀仏に死後のことをすべてをおまかせしたから、本願の通り浄土往生間違いなしと理解するのであって、浄土の様子が見えたり、浄土往生が実感できたというのでもありません。

地獄一定も往生一定も体験として歴然と知らされるという高森会長の信心は、法然上人、親鸞聖人、覚如上人の信心とは明らかに異なっています。
さて、高森会長及び親鸞会でいうところの信心は、一体誰の信心と同じなのでしょうか?


Q.親鸞会では最近、「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて」という帖外御文をよく引用して、後生の一大事とは地獄に堕ちる一大事のことだという根拠としていますが、これはどうでしょうか?

A.以前は、『帖外御文』をできるだけ使うな、と高森会長が言っていたこともありましたが、これだけ教義批判が激しくなると、調べにくい『帖外御文』を敢えて引用して誤魔化しに必死で、なりふり構わずといったところでしょうか。

この根拠ももちろん断章取義です。前後も含めて紹介しておきます。

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

後生は永生の楽果なれば」というお言葉は、親鸞会にとっては実に都合が悪いので、そこは出せません。
ここの部分は、『御文章』1帖目第10通

まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべし

あるいは、『御文章』2帖目第7通

人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と同じことを仰っています。そこに「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば」と付け加えられただけです。

ここで蓮如上人は「後生」を「永生の楽果」と「ながき世まで地獄にをつる事」と2つの表現をされていますが、これは死後には、最高の「永生の楽果」と最低の「ながき世まで地獄にをつる事」という両極端があることを仰って、短い今生のことにとらわれずに、永い死後のことを考えなさいと誡められたものです。

ですから、「後生の一大事」は後の「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」に続きますので、ここでの「後生の一大事」も、往生の一大事、もしくは往生できるかどうかの一大事、という紅楳英顕師の説明通りになります。

蓮如上人がここで地獄という極論を仰ったのは、先の『執持鈔』にある親鸞聖人のお言葉と似ています。

親鸞会では断章取義ばかりを行っていますので、親鸞会が出してくる根拠は前後を読んでから、その解釈が正しいかどうかを判断しなければなりません。

親鸞聖人は、化土往生についての誡めは多くありますが、報土往生も化土往生もできない人の死後については、念仏を誹謗し、邪義を唱えている人に対して地獄と仰っている以外は、ほとんど言及がありません。それは死後についてはすべて阿弥陀仏におまかせするのが他力で、死んだら地獄に行くのだろうと詮索するのが自力であることを示されるためと思われます。


Q.『執持鈔』は親鸞聖人のお言葉の伝聞ですので、親鸞聖人の直のお言葉で、そのようなことを仰っている箇所はありますか?

A.『教行信証』行巻に、曇鸞大師の『浄土論註』を引かれています。

まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。

かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。

(現代語訳)

さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。

自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない。

曇鸞大師が

愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。

と仰っている通り、親鸞聖人も「他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」、としか教えられていません。

死後に行く世界を恐れさせ、自力にこだわっているのは、全く親鸞会の教えそのものです。
愚かなる親鸞会の教えを離れて、他力18願のみを聞いて、信心決定し報土往生を遂げよ、これが親鸞聖人の教えです。