『大無量寿経』には異訳本がいくつかありますが、阿弥陀仏の本願についての表現がそれぞれ違っています。『大無量寿経』での18願と19願の対機は、共に「十方衆生」と表現されていますが、『平等覚経』『大阿弥陀経』では、救いの対象、対機が明らかに異なっています。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

つまり、『大無量寿経』18願は、すべての生物です。漏れているものはいません。一方、『大無量寿経』19願は、菩薩の行を行える人と限定されています。虫も入っていませんし、人間でも菩薩の行を行えない悪人は入りません。ですから同じ「十方衆生」でも『大無量寿経』の18願と19願とでは対機が大きく異なるのです。

では、『大無量寿経』上では18願と19願とで対機の違いがないのかと言えば、違いが表現されています。それが「唯除五逆誹謗正法」です。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありますように、「唯除五逆誹謗正法」のある18願は、漏れるものがないが、「唯除五逆誹謗正法」のない19願では、漏れているものがあると親鸞聖人は仰っています。また「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉は、『平等覚経』『大阿弥陀経』にはありません。つまり18願の「十方衆生」と「唯除五逆誹謗正法」はセットになっているのです。ただし、親鸞会で言っているような「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」ということではありません。「十方衆生」の中に「唯除五逆誹謗正法」のものも含まれるということです。

経典は、訳者や原本によっても表現は変わっていますが、意味は同じです。『大無量寿経』の18願と19願の中で、「十方衆生」のところだけを取り出して同じと考えるのは、断章取義です。「十方衆生」に込められた御心を他のお言葉から読み取れなければ、正しく理解できません。

『大無量寿経』19願については、菩薩行を行える善人が対機であることを踏まえられた上で、『教行信証』化土巻の要門釈の最初に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰ったのです。
直訳をすれば、

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

です。
親鸞会では、後半の部分を断章取義して、要門19願は一切衆生のための願と主張しましたが、前半を読まれれば判る通り、半満・権実の法門(聖道門)の修行に行き詰まった人を導くのが19願だと親鸞聖人ははっきり仰っています。
菩薩行を行える善人が対機の19願ですから、親鸞聖人の解釈は極めて自然なものです。

これは親鸞聖人独自の解釈ではなく、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあります。聖道門の人を18願に帰せしめるための願と仰っています。
また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。隆寛律師のこの告白に影響を受けられて、親鸞聖人は三願転入の文を書かれたといわれています。

聖道門の人を浄土門に誘引する願と法然上人、隆寛律師は解釈されたのですが、親鸞聖人も同様のことを仰ったのが要門釈の最初のお言葉です。

また『高僧和讃』には、

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらえて
 正雑二行方便し
 ひとえに専修をすすめしむ

と仰っていますが、訳せば、

釈尊は要門を開いて、 定善・散善の人々を浄土門に誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

19願意から「定散諸機」に対して釈尊が要門を開かれたのです。ただし、ここでの「要門」とは、『観無量寿経疏 玄義分』の

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。

で、19願のことではありません。

こしらえて」は誘うということです。

ですから、

定散諸機」≠すべての人

です。『正信偈』には、

矜哀定散与逆悪

と「定散」と「逆悪」と分けられています。
蓮如上人の『正信偈大意』では、

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

と解説があります。

同様に、某会で善の勧めの根拠とする『浄土和讃』大経讃で、「十九の願のこころ、諸行往生なり」と頭註のある三首を見てみましょう。

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

(現代語訳)

第十九願には、 自力をたよりに自分の心を真実にして、 往生を願い、 浄土に生まれたいと思えと、 十方衆生を方便誘引し、
どのような善を修めてでも浄土往生を願えと、 諸善万行によって往生を願う方便仮門を開き、 この人々の臨終にはその人の前に来迎すると誓われた。

 
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(現代語訳)

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

 
諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。

第1首目は19願の直訳に近い解説、第2首目は19願から釈尊が『観無量寿経』を説かれて「定散諸機」を浄土門へ誘引されたことの解説、第3首目は欣慕浄土の善の解説です。

逆悪の機」に対して、定散二善を勧められたとは、どこにもありません。

先の高僧和讃1首とこの3首を通して読まれれば、

(19願の)「十方衆生」=「定散諸機

と釈尊が19願意を明らかにされ、それを親鸞聖人が教えておられることが判ります。

浄土門の人にも19願が必要であるという根拠として親鸞会が出しているのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

です。
権仮方便ということが少しでも判れば、何も難しい御文ではありません。釈尊がそれぞれの機に応じて説かれた教えを「八万四千の法門」といいます。その「八万四千の法門」で説かれた善は、浄土門へ導くための「方便の善」であるということです。聖道門の人を浄土門へ、そして18願へという流れを仰ったものであって、浄土門の人を要門に導くという意味になる筈がありません。読解力が少しでもあれば判ることです。
つまり、上記の要門釈と同じことを親鸞聖人は教えられているだけのことです。

浄土の方便の善」が、18願に入るために必ず要る善ではなく、その前の、聖道門の人が浄土門に入るための「方便の善」ということです。

浄土の方便の善」は、『教行信証』化土巻には、善導大師の釈を承けて、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。阿弥陀仏の18願とは異なる方便、浄土を欣い慕わせる善根ということです。

浄土の方便の善」とは、聖道門から浄土門へ導く善

親鸞聖人の教えは、一貫してこのことを仰っています。

 

『観無量寿経』で、三福の後に、

この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり

と説かれています。

(現代語訳)

この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである

『観無量寿経』に説かれている三福は、もともと「三世の諸仏の浄業の正因」である聖道門の行ということを教えられているのです。聖道門と『観無量寿経』の定善・散善とは、此土入聖と彼土得証の違いはあっても、行は同じなのです。ですから、聖道の「八万四千の法門」で説かれている善は、『観無量寿経』に収まるのです。

それを、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。

と仰り、更には

これを要門といふ。これを仮門となづけたり。

と聖道門を要門に収められているのです。

このことを『教行信証』化土巻・隠顕釈には、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

です。これは、善導大師の『散善義』深信釈を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

『観無量寿経』に説かれている善は、「欣慕浄土の善根」、浄土往生を願わせるために示された善なのです。

以上のことがよく理解できれば、親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願っている人にとって、必ず19願を通らなければならないという考えは、邪義とお判りになられるのではないでしょうか。

ついでに、「捨自帰他」したならば、

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

となります。つまり、善知識方の教えと明らかに異なる親鸞会の考えが邪義であったと知らされるのです。それを親鸞聖人は『唯信鈔文意』で、

自力のこころをすつといふは、(中略)みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っているのです。

『教行信証』化土巻には、

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

ともあります。
19願についての総括をされたお言葉です。
19願では化土往生になると繰り返し仰ってきて、最後に、自力の行をまじえているものは、報土往生はできないと断言なされているのです。それで19願は方便の願と結論付けられるのです。
19願について親鸞聖人は、要門釈の最初に、「修諸功徳の願」「臨終現前の願」「現前導生の願」「来迎引接の願」「至心発願の願」と仰っています。
しかしここでは「仮令の誓願」と、19願文の「仮令」のお言葉を使われて、19願のことを仰っています。「仮令」の意味は、もともとは「たとえ」「もしも」ですが、親鸞聖人はここでは「かりに」「方便」という意味に変えられて仰っています。つまり、19願は権仮方便として、それが必要な機に対して「かりに」建てられたものであるということを19願文のお言葉を使って、説明をされているのです。それ故に、

仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり

なのです。
『観無量寿経』及び19願は、聖道門の人に、浄土を願い慕わせ、誘引するためのものと明らかであると親鸞聖人は明言なされました。
従って、浄土門に入っている人は、すでに浄土を願い慕っているのですから、19願の役割は、浄土門に入っていない聖道門の人を浄土門に導くためなのです。

同様のことは『三経往生文類』でも仰っています。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

19願は、「浄土を欣慕せしむる」のであって、善のできないことを知らせるために善をさせる願ではありません。

救われたか否かは、二種深信で判定されると親鸞会では教えています。

二種深信とは、『散善義』にある七深信の最初の2つです。
親鸞聖人は『愚禿鈔』に七深信について簡単に説明されています。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

この第三が先の

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

です。
第三深信を否定するような人があれば、救われたか否か、判定されてしまいます。

方便だからしなければならない

などと考えているならば、方便の意味を知らなさ過ぎます。

親鸞聖人の御著書を読めば判りますが

方便だから捨てよ

なのです。

聖道門は方便だから捨てよ
化土は方便だから願うな

です。同じように、

19願(諸善)、20願(自力念仏)は方便だから捨てよ

です。

19願、諸善だけは方便だからせよ

になる訳がないです。誰でも理解できることです。

もっといえば、方便が方便と信じられず、方便を真実と信じているから方便になるのです。
親鸞聖人は真実と方便を教えられました。しかし、親鸞聖人の真実18願の仰せを信じられず、方便と仰った聖道門、19願、20願をそれぞれ真実だと信じている人がたくさんあるのです。信じている人にとってはそれが真実ですが、そういう人にそれが真実ではないと説いても信じられないから、暫く機に応じて用いられる随他意の法門を説かれたのです。それが真実でなかったと理解できたならば、真実に誘引する権仮方便となるのです。

浄土門の人でも18願が真実と思えず、19願での往生、20願での往生を信じ願っている人が親鸞聖人の時代も、今もたくさんいるのです。18願での往生を信じられる人は少ないのです。
だからこそ、親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であり、19願を実践しても化土往生しかできない方便の願だから、真実18願を信じなさい、と仰っているのです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈の一番最後に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

現代語訳は

以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。

これこそ、「三願転入の教え」を否定する結論です。

もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

19願の対機である「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られたのです。
要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と、親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引するための願と仰っていますが、聖道門から19願に入った「定散の諸機」に対してさえも、19願の方便を勧められず、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。
「定散の諸機」も「極重悪人」であるから、18願他力念仏だけを勧められているのです。
更にこの後に「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と結んでおられます。

法然上人は『選択本願念仏集』に、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

と仰っていますし、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解釈をなされています。
善知識方が揃って、末法の極重の悪人である我々には、19願は不要と仰っています。

そこまで善知識方が仰っても、やはり信じられない人がありますので、蓮如上人は『御文章』3帖目第12通で

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と、親鸞聖人の教えを信じられる「宿善の機」と、信じられない「無宿善の機」を区別なされているのです。善をせよという意味でないことは、通常の読解力があれば分かると思います。

「宿善の機」には、

他の方便なし

です。
真実と方便について親鸞聖人が教えられている通りと信じられる人は、「宿善の機」です。

極重の悪人にも、19願の方便が必要だと考える人は、親鸞聖人の教えを疑って、親鸞聖人の教えとは別の考え方をもつ「無宿善の機」です。