超エリートには聖道門、聖道門についていけないエリートには19願、19願も無理な人には20願、どうしようもない落ちこぼれである十悪五逆の極重の悪人には最初から18願が説かれたのです。

正しい三願転入

には図入りで説明してありますので、そちらも御覧下さい。

このことを踏まえておかなければ、経典や善知識方の御著書を読んでも理解できません。
親鸞会のように、十方衆生は「唯除五逆誹謗正法」の者と考えていたら、聖道門など全く無意味な教えになってしまいます。

しかし、善知識方は聖道門を否定されたことはありません。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

超エリートの方々は、聖者の位を証してゆかれました。しかし、我々凡夫は落ちこぼれですので、これまで出離の縁のない者であったのです。
それが同じく『散善義』で機の深信に

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と仰ったのですが、『往生礼讃』では言葉を変えられて

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と仰っています。親鸞聖人も『教行信証』信巻に引かれています。「善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

法然上人は『選択本願念仏集』に

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

このゆえに知られる、諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

と仰っています。
諸行は「時を失す」なのです。末法にはあわない、ということは正法・像法の時期には、あう人もあるということです。
親鸞会でも教えていますが、聖道門は、正法では教行証が揃っていますが、像法では教行はあっても証はない、末法では教だけしか残らないのです。行体が同じ19願も同様です。

また『勅伝 第六』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

ともあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、19願にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。当たり前のことです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

とあります。像法の時期は、証がありませんので、親鸞聖人は、釈尊在世自体と正法の時期に限定され、像法は除いておられます。

例を挙げれば、像法の時期の龍樹菩薩は、大変な修行をされて、初歓喜地まで覚られましたが、仏の覚まで至ることは無理であると18願に帰依されたのです。龍樹菩薩は、行体が聖道門と同じ定散二善を行じることのできる方です。行はあっても証はない、その代表です。正法・像法の時期には、19願の対機である「定散諸機」と呼べる方は他にも多くおられたでしょう。

しかし、末法の極重の悪人である我々は、時も機も聖道門、19願の教えは不相応なのです。『観無量寿経』を説かれた時でも、韋提希や下々品の者に対して、善を勧めておられません。念仏1つです。『観無量寿経』を読めば明らかです。

だから、

『往生要集』には、

『観経』に、極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得

と仰り、
『高僧和讃』では

 極悪深重の衆生は
  他の方便さらになし
  ひとへに弥陀を称してぞ
  浄土にうまるとのべたまふ

と教えられ、『正信偈大意』には

 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と同じことを善知識方が仰っているのです。
善人に対しては、聖道門、19願、20願が説かれたのです。

『観無量寿経』『観無量寿経疏』も読まずして、「極重の悪人は、他の方便なし」の意味など理解できる筈もありません。