こんにちは!
今回のブログは竹田と吉田でお送りしたいと思います!
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みなさん、1月31日ですね。ついこの間に年を越してからもうひと月が経ってしまいます。信じられない...。気づいたら2023年も終わっていそうでとても怖いです僕。
さて、今回の研究会は写真日記発表会でした。内容は、前回の研究会中に書いたものと新しく宿題として出された写真について書いたものです。写真だけでなく、そのスケッチもするというところが今回の新鮮ポイントでした。時間オーバーしながらも、スケッチを添えた写真日記を一人一人発表し、あらかじめ指定された人が質疑やコメントをするという形をとりました。こうしたメンバー全員の発表を一気に聞くときは、メンバー間の相違点や共通点が発見できるいい機会なのでとても楽しいです。ただ楽しかっただけでなくうっすらと「自分のものの見方」を自覚できたことが今回の収穫だったように思います。メンバーの発表を聞いていくと、「比較的自分はこうかもしれない」というような仮説的な自分が立ち上がりました。その比較項目になったものをあげていきます。
まずは「事象への眼差し」です。事象に対する注意力があるメンバーが多かったように思います。これは事実記述が豊富であると言い換えることもできますが、写真日記に占める事実記述の文量がたくさん揃っていると、解釈記述も妄想記述もリッチになっていく印象があります。他にも記述がリッチになる要因はありますが、事実に対する眼差しやそれを言語化する能力が高いことはいい写真日記を書く条件の一つでしょう。
次は「スケッチと記述」です。今回はただ単に写真を見て記述していくのではなく、写真をスケッチした上で写真日記を書いていくという形をとりましたが、スケッチと記述が影響しあっている写真日記がいくつかありました。ある方は二つのうちの一つをスケッチ→記述という順番で写真日記を書いたところ、逆の順番で書いたものより妄想に引っ張られた記述になったそうです。スケッチすることが対象の細部に対する意識を尖らせることは自分の経験でわかっていましたが、スケッチと記述の順番によって日記の内容が変わってくるというのは発見的でした。
最後は「一貫したテーマ」です。例えば、ドス黒青い大きくてうねうねとした葉っぱを見て妖艶な女性を想像するとします。そうすると、その周りの空間に存在する事象が、「妖艶な女性」を補完する形で立ち現れてくるように知覚される。一つの対象を軸に事象についての想像を派生させていき、結果的に写真全体の一貫したストーリーとも言えるものを作り上げる。これはメンバーの発表を聞くなかで一番面白かった部分です。自分が予想だにしなかったストーリーたちが、自分が予想だにしなかった事象の解釈によって紡ぎ上げられているのです。
今回のワークでは、私は一度も筆が乗っていません。扱われていた写真が多少関係しているかもしれませんが、おそらくもっと根本的な原因があると思っています。冒頭であげた「自分のものの見方」によるものでしょう。「一人称研究の実践と理論」では、ものごとへの心身のむきあい方3種類として次のものが紹介されています。
・絶対無分節の存在として対峙する(身体システムの第一のむきあい方)
・多種多様な側面に着眼し、焦点化する(ことばシステムのむきあい方)
・個々の側面が織りなす全体性(ゲシュタルト)を感受する(身体システムの第一のむきあい方)
これを考慮すると、おそらく私には多種多様な側面に着眼して焦点化する習慣がない。習慣がないということはその能力も今のところない。だから私の写真日記には事実記述が少なく、その影響で解釈記述も妄想記述も少ない。あっても断片的なものばかりで、一貫したストーリーがない。写真日記がスムーズに書けなかったのは、なんとかゲシュタルトを感受しようと多種多様なものごとに気づこうと気張っていたからに他なりません。これは常日頃からただ漫然と身体だけでものごとに向き合ってきた結果なのでしょう。反省、精進。こんなふうに、ワークを通じて自分のものの見方の癖みたいなものが見えてきた人も少なくないのではないかと思います。自分が研究会を通して何をどうしたいのか、考えるスタートラインに立ったような気がします。
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お久しぶりです。二年のかいまです。
どうやら、このブログは2022年度秋学期最後の記事のようですね。いつも私は割としっかりめに構成を練ってブログを書いていますが、今日は学期最後ということもあり、(私が最終課題に追われているということもあり)、あらかじめ何も決めずにフリースタイルで書いていきます。
私はこれで2学期を諏訪研で過ごしたことになる。およそ1年、この研究会とともに学んできてもなお、この研究会を説明することは難しい。分野としては認知科学であるが、身体にモーションキャプチャをつけて実験するわけでも、心理学的なテストやアンケートから統計的処理を学ぶわけでもない。廣松渉のような難解な哲学者が出てくるのは、カビ臭い図書館のなかではなく、湘南台の大地を練り歩くなかであった(そこは豚くさいのだけれど)。学期はじめも、学期中間も、何を学ぶのかが、まるで見えてこない。学期が終わっても何を学んだかをメンバーに問えば、おそらく全員それぞれ異なる解答を教えてくれるだろう。
私がそうした諏訪研に対して何を語りうるか。それも確信とともに。たとえば、キャンパスのなかで、それとなく問われた「かいまはなぜ諏訪研にいるの?」という問いに、どのような応答が可能だろうか。たしかに私は哲学が好きで、それもメルロ=ポンティをはじめとする現象学、知覚の哲学、身体の哲学全般に関心がある。しかし、哲学をやるだけなら、別に諏訪研ではなくてもいいだろう。三田には斎藤先生という現象学の専門家がいるし、SFCであっても、学部で思想をやるには十分な研究室がいくつかある。なぜそこではなくて諏訪研なのか?
ティム・インゴルドに聞けば、こうした問いに一つの解答を与えてくれるだろう。哲学についての学と、哲学とともにする学は区別される必要がある。あるいは、身体についてする学と身体とともにする学、他者についてする学と他者とともにする学。哲学を対象とする、哲学についての学は、かえってむしろ哲学から隔たりを設ける必要があるのかもしれない。よく観察するのに、眼球と観察対象がくっついていては、何も見ることができないのだから。かといって、まるでピン留めしたカブトムシの標本を眺めるようにしてよく観察することは、死体をもとに世界をつくりなおしていることと何ら変わりなくなってしまう。メルロ=ポンティは世界を対象化して、反省的に考えることが生まの世界を「考えられた存在」、すなわち表象として脳の中の小人が再構成した幻影に置き換えることであり、主観と世界とをそのうちに閉じ込めることだとして批判する。いずれにせよ、隔たりをとおして世界を対象化し、世界について見ているかぎりでは、私たちが経験しているのは、一度殺した死体を蘇生した世界を、シアターの一席から鑑賞するウォーキングデッドでしかないのである。現実を、野生を生きるには、それとともに生きるほかないのである。表象に幽閉された私たちが、アクチュアリティを取り戻すために。
哲学とともに生きるには、哲学とともに世界を眺め、身体を生きなければならない。世界にしたがって哲学をし、哲学にしたがって世界を生きるのである。この相互陥入性、共犯関係こそ、私の諏訪研の学びなのである。
この意味で、諏訪研に対して確信的に言えることは、諏訪研がかぎりなくポジティブであるということだ。表象としての世界が、資本主義の生み出したスペクタクルに食い潰されてしまった以上、世界はほとんどクソ同然となってしまった。何の広告にも、舞台にもならないような湘南台の田舎は、意味や価値を私たちに投げかけることはしなくなる。教育において再生産されていく有用性の価値観は私たちに内面化し、あらゆる道は省略可能で、ないほうがよくて、チャップリンの足取りを真似してそそくさと通り抜ける移動経路として表象される。価値はインスタグラムのハッシュタグ数に還元されてしまう。「インスタ映えスポット10選」。諏訪研は、こうした表象の自明性を一時停止する。
SNSやマスメディアの教えるスペクタクルを媒介せず、実際に世界に身を浸してみる。問いとしてあらわれる世界からの呼びかけに耳をすましていく。すると、まるで淡白であった世界は、少しずつ意味を取り戻していく。思い返せば、私が初めて取った諏訪先生の『学びのデザインワークショップ』という授業の最終レポートには、何でもない都市の街並みが、カフェの居心地を記述していくワークを経て、意味の物語を開示するようになった、ということを書いたと記憶している。構成的ループが示すのは、表象の外へと追い出されてしまった、世界からの呼びかけ、「沈黙の声」(メルロ=ポンティ)を、ふたたび肯定することなのではないだろうか。諏訪研の学びはかくして、私にとっては資本主義へのラディカルな闘争となるのである。