俺が研究にしてやる。

慶應義塾大学諏訪正樹研究会の、メタ認知な日々。

みなさんこんにちは!総合二年の森井美陽です。
ブログの更新が半端なく遅れてしまいました…。
期末期間直前の担当だった気がするので、遅れたなんてレベルじゃないレベルでの遅延です。ごめんなさい。
2025年に入って四年生がいなくなってしまった研究会は少し寂しい感じがしていましたが、引き続きマイペースに研究会の時間を過ごさせていただきました。
とても楽しく、充実の秋学期でした!

今学期を振り返ってみて、やはり詩人の今宿未悠さんに自分が作った詩を講評していただいた最終回がとても強く印象に残っています。
現代詩の書き方って自由なんじゃないの、なんでもありでしょ、とかなり軽い心持ちで自分の詩を作っていたので、開始早々ビシバシと展開される講評の様相に冷や汗をかきながら自分の番を待つ羽目になりました。(笑)
(結局一番最後まで緊張は続いた…(・_・;))(厳しくも愛のある講評でした!)
詩の書き方は自由とはいえ、ただ自分の感覚に従って書くのでは自己満に終わってしまうみたいです。講評の中で、プロにしか持ち得ない詩に対する視点をいくつも垣間見ることができました。

全体に対する講評の中で、「空白や改行に逃げてはいけない」「テクニックが先に来てはいけない」などといったご指摘がありました。
ただテクニックや形に頼るのではダメで、もし改行や空白、特殊な形式を使って表現しようとするのであれば、それを使う必然性についてしっかりと考えなければいけない。なかなか耳に痛いご指摘でした。言葉での表現に対する忍耐力って、普段から心がけていないとなかなかついてこないんですよね…。
これは、クラシックバレエで踊りと向き合う時と一緒だなと感じました。結局は読み手や観客に「どう感じさせるか」にかかっている”詩”と”踊り”。何か表現しなきゃいけないのはわかっているけど、役に対してどういう表現をしたらいいかはっきりしないから、とりあえずそれっぽいテクニックや表現で楽に誤魔化そうとする。表面的には踊れているように見えても、なんだか質感が伝わってこない、流れていくような踊りは、その表現方法やテクニックのあり方について考える忍耐力が足りていない証拠として現れてしまうのだと思います。
実は詩を書いている時も、自分の中で腑に落ちる言葉や表現をじっくり取捨選択して組み立てていく過程が、踊りを磨いていく時の感覚となんだか似ているなあと感じていました。それは、詩、あるいは踊りの「質感」を保とうとする、表現に対する自分の心持ちが共通して存在していたからかもしれません。

“言葉”の質感、”踊り”の質感、、、自分では最大限表現しているつもりでも、いざ周りにひらいてみると、まだまだ全然足りていないことがほとんどです。私の場合、考え過ぎで逆に表現が固く、具体的になり過ぎて伝わらない、みたいな時もあったりするので、そうなってくると忍耐力が全てではないし、力の抜きどころが難しいなと感じます…。ちょうど良い塩梅で「質感」を表現できる自分の在り方を見つけたい、というのが最近の課題です。

最近は春休みに入ってやっと心に余裕ができたので、久しぶりに小説を読んでいます。
三浦しをんさんの『舟を編む』。
辞書作りを生業とする人々の、言葉に対する鋭い感覚に感銘を受けるとともに、知識としての言葉を集めるだけでなく、それを辞書での限られた小さな範囲内でどこまで伝えるか、という難しさも同時に感じ、ここでも言葉の「質感」の重要性を感じたり…。
今学期に詩を書くことで得られたものが、バレエとか読書とか、日常の色々な場面で膨らんでいっていることを実感し、改めて充実の秋学期だったのだなあと思い返す今日この頃です。

休みボケで自分が何を書きたかったのかだんだんよくわからなくなってきたので、今回のブログはこの辺りでおしまいにしようと思います。

来学期のテーマは何になるのか…今から楽しみです!
みなさま良い春休みをお過ごしくださいませ。では(^^)/

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こんにちは。環境2年の北川陽太です。
非常にブログが遅延しまくってしまいました、私からも申し訳ございません。今学期の振り返りでも、つらつらと書いていきたいと思います。

担当だった会は、「今学期の体験はなんだったかを、A3一枚に描いて発表」という日でした。その日で何よりも印象に残っているのは、「もっと発表でふざけてほしい」という自分の発表に対するフィードバック。なかなか強烈。しかし面白い。
私は春学期に石川初さんのゼミにもいたのですが、そこでも同じようなことを言われた気がします。演繹的に考えるのではなく、ボトムアップで考えるといいというコメントだったかな。そのときもらったコメントを踏まえて、諏訪研での発表では研究会の体験を各回ごとに思い出して、それぞれの振り返りを並べる、という形式にしてみたのです。
しかし今思い返してみると、一つ一つの回をボトムアップで取り上げるところまでは良くても、それを結構論理的につないでしまっているというか、取り上げた対象を全部同じものとして解釈してしまっていた気がします。印象に残っている回、そうでない回があるわけで。なんなら忘れている回がある方が自然かもしれない。なんというか、ある種の「飛び」がないのだろうと思ったのです。
しかし飛ぶって何だろう。諏訪先生的に言うと、身体が勝手に意味付けをしてくれることで飛ぶと考えられますが、どうも実践するのは難しい。飛ぶというのが身体の力でその場勝負、出たとこ勝負をするという意味ならば、この飛び方をブログでじっくり考えるというのは矛盾しているのかもしれない。あらあら。これが飛ぶことの難しさな気がします。真面目に考えまくる戦法が、自分の足元を掬うことがある。

飛ぶという話に関連して、思い出したことがありました。担当だった会の二週間後についてです。もう一人のブログ担当者、美陽さんが書いているように、その週には詩人の今宿未悠さんの講評を受ける機会がありました。そこで頂いたコメントも面白くて、「部分部分を修正して作品をつくりあげていく(という私の作戦)はいいが、その割に詩のフォーマットが修正されずそのままになっているのが良くない。」(意訳)というものでした。ぐぬ!確かに!と思いました。このフォーマットを疑わないという話は、詩だけではなくプレゼンでもいえるのかもしれない。
発表で飛べないというのを、フォーマットをどう面白くできるかという問いに変えてみる。確かにそれなら、ちょっと自覚的に取り組めそうです。面白い発表というのもまた、いろいろ試す中でコツを探していくものなのかなあ。そう信じて来学期も楽しんでいこうと思います。

それでいうと諏訪研の発表でフォーマットが面白かったものとして、絵を一枚書いてそれに何枚か写真を添付した資料を使っていた人がいました。文字はほとんどない、ものすごい勇気。勇気という言葉が出てきましたが、私は発表としてちゃんとしているかしていないか、提出物としてしっかりしているかを考えすぎる規範が抜けきっていないのかもしれません。しかしいずれにせよなかなかの勇気。おそらく、毎回発表中に即興的に話す内容を考えている様子なので、見ていて私は個人的にひやひやしています。
しかし発表がちゃんと面白い。突飛な意味付けがあったり、発表中に「これはこういう意味だったかもしれない」といった意味付けの変更も行われます。AIにはできないことですよ、これは。この発表のことを考えていて今気づいたのは、即興的にやるっていうことは、失敗する可能性を担保することなのかなあということです。発表を失敗しないように、失敗しないようにと作っていくと無味乾燥なものになってしまう。程よく滑ることがあるような、面白く失敗できるような、派手に失敗できるような。そんな意識をもって資料を作ってもいいのかもしれない、なんて思います。

今学期の最後はなんと諏訪研出身の詩人、今宿未悠さんが私たちの自作の詩を講評してくださり、とっても充実した秋学期になりました!みゅうさんお忙しい中ありがとうございます!
(諏訪先生の詩からスタートし、zoom中の緊張のあまり切れた瞬間、「あーーー終わったぁぁ!!!」と皆安堵し走り切った最終回でしたね^^)
今回はあいりさんとさらです。

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お久しぶりな気がします、環境三年の桐本です。

今回は前回みんなで詩を書いたものを詩人の今宿未悠さんに講評していただくというものでした。詩を生業としていらっしゃる方に見ていただけるということでドッキドキ、、


私の詩は、歌詞みたいで音楽が付きそう、擬音語から始めるあたり、音の人なんだと思ったと言っていただきました。私自身は耳で聞いたことをすぐ忘れてしまいやすい一方で目で見たものは覚えていられたり、音痴なので歌で表現するより絵を書く方が思ったものを紙の上に出せるので好きになったり、話すよりも文を書くほうが得意に思っていた節があるので、目の人であることはあっても耳の人であるとは思っていませんでした。初めて音の人と言われて、ほーそんなこともあるかと思っていましたが、あることを思い出しました。


私は高校時代、コロナで休校になった時にフジファブリックというバンドに大ハマりして、バンドやりたい!と思うようになりました。そこから学校が再開されるまでずっとギターの練習やら歌の練習やら作詞作曲もやっていました。記憶が正しければ、当時作詞に関しては150くらいは作っていた気がします。当時はバンドで歌えるような曲を作ろうとしていたので、J-POPや邦ロックを真似て作詞をしていました。作曲は音楽理論の勉強に挫けてほぼしませんでしたが、、、

今回の音の人という評価を受けて、久々にこのことを思い出しました。当時は紙のノートに書いていたのですが、これを思い出して恥ずかしいですが怖いもの見たさでノートを探してみました。結果見つからず。きっと大学に入り、バンドをしないで自分は弓道をするのだと決めた時に捨てたのだと思います。もったいないことをしました、、、

でも、当時ドキュメントも使用していて、そこに残っていた歌詞はいくつかありました。なんか懐かしくなりました。恥ずかしさもすごかったですが。


当時は今よりもメンタルが不安定でした。なので、音楽だったり絵だったり文学だったりという娯楽というか芸術というものを浴びるほど求めていました。弓道を頑張れたのもどこか弓道にそういった要素があったからだと思っています。だから、詩も大量に書くことができたんだと思います。ものすごいスピードで、掃いて捨てるほど書いていたのを覚えています。一瞬で厚めのノートが埋まりました。だから掃いて捨てたんだと思います。今は当時ほど急に不安な気持ちになったり、落ち込んだり、泣きたくなるような夜は減りました。同時に、創作意欲と言いますか、「言いたいこと」も減った気はしています。そして、就活をするようになり、烏滸がましくもビジネスマンをして生きていけるような気がしてきています。当時はどこか普通になれていないという体感が付き纏っていました。ですが、今は前よりは普通になれたんだと思います。思春期だったんでしょうと結論づけています。なので、思春期を卒業した時にノートも捨ててしまったのだと思います。1,2年前の大掃除で捨てた気がします。


そのことが悲しくもあり、だが日々を生きやすくなっているのでありがたく思ったり、でも当時憧れたミュージシャンや画家、文豪に共鳴していた素質が蒸発してしまったようで悲しくもあり。でも取り戻そうとして取り戻すことのできるものではないのだろうとも思うので、当時の形でのお付き合いをすることはもうないでしょう。多分。


ここに書いてしまうと長くなるので控えますが、なんかでも詩とも他の芸術とも今なりの付き合い方があるんだろうなと思うので改めて自分の今の付き合い方を振り返り言葉にしたいと思います。


今学期、とても楽しかったです。また来期(・ω・)ノシ
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環境2年のさらです。

今学期の取り組みは新しい挑戦も多く刺激的なものでした。最終日のミュウさん講評はなかなかに疲れましたが、、(精神的に)

今学期印象的だったのは「二人称視点の構成的体験記述」でした。相手の心に寄り添いながら視覚的に得られる情報(笑ったとか)だけでなく、心の内を想像しながら書くのですが、最初はどう手をつければいいのか迷ったものの、慣れると自分のことよりも書きやすかったです。モヤモヤと自問自答する時間も楽しいですが、相手の思いを想像する行為はある意味無責任に行えちゃうのでしょうか、純粋に楽しめました。 自分のことを二人称視点で書いてみるのありだなぁ試してみよ、って思ってます。

さて最近は学期末になりレポートを書く機会が多かったのですが、講評の中でミュウさんが指摘していた「空白」について、形式的なレポートですら私は「空白に逃げていた」かもしれません。

論理展開に疲れてとりあえず空白を作り、論が途切れるのを誤魔化していたような気がします。これに関しては実生活の会話でもありますね、。「まぁまぁ、、ね、、わかるでしょ?」と場を濁す感じ。身に覚えしかありません。 iワードを使えない私たちにとって具体的に語る能力は欲しいものですが、、なかなか言葉が見当たりません。うまく伝えたいのに伝わらないもどかしさに日々苛まれています。 実際にミュウさんが空白行を少なくすることを「空白に逃げない」「忍耐力がない」と言う表現をしたことは印象的で、流石詩人の方だなぁ言い回しに驚かされました。

表現したいことが相手にも質感を伴って伝わる言葉を使えるようになりたいものです。

これには訓練が必要なんでしょう。試しに昼に食べたチキン南蛮を思い返し言葉にしてみました。


チキン南蛮を食べた

タルタル鬣百ジュワの王草むらに寝そべり登場荘厳な黄金

ツッパリ揚げ衣と丸腰卵

咀嚼劇場開幕勝利宣言、卵のオウンゴール閉幕

胃袋に刺さる頃の衣、大人の余裕は何処

舌上のバタばた油脂寝ベトペト


なんとなく時系列を意識して書いてみましたが、大喜利? 正解というものはないにしろ、正直よくわかりません。面白そうな言葉を適当に繋げてみた、という印象になってしまって、質感をありありと想像できる表現を探したいという目的からすればなんだか違うような気がします。

でもここでめげないで、せっかく春休みになるので言葉のトレーニングしてみようかなと思います。

強い名詞を並べることを「体力がある」とミュウさんが仰っていたことも印象的だったのですが、陸上では最近長めの距離も走って体力をつけようとしている私、言葉の体力もつけてみようかな。

とりあえず安易に形容詞を使わないで人と会話してみようと思います。

最近の厳しい寒さにより、外に出る洋服選びに悩んでいる渡邉創太です。外はとても寒いのに、電車の中はなんであんなに暑いのでしょうか。外にいるときの格好のまま電車に乗ると必ず汗だくになります。もう少し、電車の暖房を弱くしてほしいですね。

さて、今週は詩を自分で作ってみるという内容でした。詩を自分で作ってみるというのは小学生の頃に国語の授業で作った以来でした。小学生の頃、詩を作る授業がとても好きでした。最近、私が自分の部屋の片付けをしていたら、小学校時代の思い出のアルバムが出てきました。それをみていたら、小学生2年のころ、私が作った詩が出てきました。お恥ずかしいながらも、このブログを読んでいる人はあまりいないと思うので、公開します。



「こどもいきもの」

小さな体で生きている
大きないきものに まけないようにと
ゆられながら すすんでいる

しょうらいのゆめはなんですか

カマキリは きょうりゅうかな
トカゲは わにかな
でめきんは まんぼうかな

もしかするとそのままでよかったのかな



この頃は、ペット(笑)として、家でカマキリ、トカゲ、出目金を飼っていました。その生物たちを見ながら書いた詩なのだと思います。小学生らしい詩だなと思う反面、小学生にしかできない発想の豊かさや、全く意図せずに使っている対比などに驚かされる部分もあります。

まず、小さなもの=子供に見立てるという発想が面白いですね。今の年齢になって小さな虫を見ても、「そういう大きさの生き物だから」と考えて、当たり前にその大きさを受け入れてしまいます。

また、小さなもの=子供に見立てるという発想からさらに発展させて、「しょうらいのゆめ」を持っているかどうかに至るところも面白いと思いました。今思うと、小学2年生前後が、いちばん自由に将来の夢を考えていました。そんな小学2年生であったからこそ、自分の状況と当てはめて、小さな生き物に対して将来の夢を聞くということをしたのでしょう。小学生らしい自由な発想だと思いました。

さらにここからすごいと思うのは、将来の夢の内容です。もし今このような詩を書くのであれば、「カマキリは一番強い剣士かな トカゲは世界一のスピードスターかな 出目金はすごく可愛いアイドルかな」みたいな内容になると思います。しかし、ここで全く現実を見ずに、小さい生き物に同情した上で、全く違う動物になろうとしているところが柔軟な発想ですよね。

そのまま小学生らしい無邪気な詩で終わるのかと思いきや、最後に「もしかするとそのままでよかったのかな」という問いかけで締めくくるところに、この詩の奥深さを感じます。この一文には、小学生ながらに感じ取った「存在のままの価値」や「変わらないことの意義」が垣間見えます。子供にとって、「変わること」や「成長すること」は大きなテーマです。大人から将来の夢を問われたり、理想の自分を描かされたりすることが多いからです。しかし、ここで詩を書いた当時の自分は、その問いに対して「そのままでよかったのかな」という答えを提示しています。この視点は非常に新鮮で、大人になった今でも考えさせられる部分があります。

また、「もしかすると」という言葉が、絶対的な答えではなく、あくまで柔らかい疑問として終わらせている点も興味深いです。小学生の目を通して、純粋に観察し、感じたままを表現しつつも、その結びが示すのは「変わらなくてもいい」という包容力に満ちた視点です。

今改めて読み返すと、この詩の中に、単なる子供らしさ以上の普遍的なメッセージを感じます。「変わること」や「成長すること」に価値を見いだすだけではなく、「そのままでいること」にも目を向ける。この詩に込められたその問いは、まさに私たちが日常の中で見失いがちな大切なものを思い出させてくれるような気がします。小学生の頃の無邪気さや自由な発想の中に、大人にはなかなかできない純粋で鋭い観察力と哲学的な問いが潜んでいる。そんな詩を読むと、自分自身の幼い頃を振り返ると同時に、今の自分を見つめ直すきっかけにもなるものだと感じました。この詩は、単なる懐かしさだけでなく、現在の私にも大きな気づきを与えてくれるものだと思います。このような、小学生の思い出などの変わらない大切なものこそ、私たちの中にある「心」だと思います。この「心」を発掘することの重要性は諏訪研究会を通して知ることができました。

さて、小学生の頃に書いた詩の振り返りをおこなっただけでブログが書き終えてしまいそうな文章量となりました。果たして、渡邉創太はこの小学生2年生の頃に書いた詩以上のいい詩を書けるのでしょうか?来週乞うご期待。

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完全に、振り返りを書き忘れていて猛スピードで書こうとしています。 総合政策学部3年の廣瀬です。 今期のまとめで、よくわからない構造があるらしいみたいなことを言ったくせに何にもならなかったので、詩を書く機会がもらえて結構嬉しかった。 卒業生の詩人が来るということで、かなり気合を入れて詩作に取り組んだ。 書いているうちに、今まで、というか去年は静かにしたかったのではないかと思えてきた。音楽家みたいなものは、基本的にうるさい人で、片方にとっては薬でも、その他大勢からしたら毒でしかない。 僕自身うるさい側の人間で、音の出しすぎでしょっちゅう壁を叩かれる。最近はさらにそれ以上に、電車の音がうるさすぎる(コロナの名残で窓が開いたまま走ってる)(イヤホン、ヘッドフォンをしてる人が多いからアナウンスが馬鹿でかくなるなど)と常日頃思ってしまう。音楽家による選別すらもされていない、破壊的な音に晒されることが多かった。それは、精神的にもそうで、中高の友人らと話せばサッカーやら、彼女やら、就活やらと誰とでも出来るような(大は小を兼ねる的な)話ばかりを聞かされ、さらに制作の佳境になっている時に、思いっきりサークルが崩壊しかけるなど、考えもしなかった、ことばかりが襲いかかってきた。 こうなってくると、静かな場所へ行ける悪魔の契約をしたくもなってしまう。 その相手として、ノイズキャンセリングイヤホンを感じていた。どこにいても静けさが生まれるようなそんな都合のいい話は同時に恐怖をもたらすような気がしていて、そこからなんとか逃れようと、カーテンを抜けた先に行こうと考えた。 正直カーテンの外が正しいとも思えない。 カーテンは破れない これが重要な気がしています。 膜であれば突き抜けるために敗れてしまうし、フィルターであればそもそも、フィルターの形は変わらないでしょう、ただカーテンは通過を知らせてくれていて、それでいて破れることはなく、また重力で垂れ下がる。 破れないカーテンだったのかもしれない。 幽霊は、お化け的なカーテンをかぶったお化けのようなものでありながらその中身でもあるような気がしていて、そのことがお化けからはうまく感じ取れなくて幽霊を選んでしまったけど、かなり幽霊は、刺されました。 お化け、抜け殻、カーテン、幽霊 みたいな言葉が使えていればよかったなと後悔もあります。 これはブログなのかよくわからなくなってきたのでここらへんで終わろうかなと思います。 今期も楽しかったです。詩はもう少し練ってみようかなと思います。

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