俺が研究にしてやる。

慶應義塾大学諏訪正樹研究会の、メタ認知な日々。

人は歳を取ればとるほど、「おはよう」を言う回数が減っていくのではないかと思っています。「おはよう」1回の価値がよりニュートラルなものに近づいていって、「おはよう」自体が形骸化していくからです。中学生のときは生徒会の「あいさつ運動」で何度「おはようございます」を言ったか分かりませんが、今はもうおはようを言わなくなってしまいました。本質的な「おはよう」を復活させていきたいです。

対して、歳を取っても毎年言う回数があまり変わらないと思うのが「はじめまして」です。いくつになっても新しい環境に飛び込むことができるし、常に新しい環境に僕らは出会い続けていると思っています。毎年4月、「はじめまして」を言うたび、「はじめまして」の価値に気づかされてハッとしています。果たして本質的な「はじめまして」を僕はできているのか、常に考えたりしています。ときどき、寝たりご飯を食べたりしています。


はじめまして。

今季から諏訪研にお世話になることになりました、環境3年の松田蓮です。1学期休学を挟んでいるため、来期4年生になります。

諏訪研を含め、これまで3人の先生のゼミにお世話になってきました。1人目の先生は広島生まれ、2人目の先生は兵庫生まれ、そして諏訪先生は大阪生まれということで、生粋の西日本研究者トラベラーになってしまいました。私は新潟県出身です。好きな食べ物はハンバーガー、趣味は銭湯とサウナめぐり、好きなパンはちぎりパンです。パンなのに「契り」ということばが入っているからです。絶叫遊園地のアトラクションで叫びすぎて肺に穴を開けたことがあります。それとは別に5か月前に肺に穴を開けたばかりです。病弱ではないとは思うのですが、よく負傷するので、1年の医療費をどのくらいまで抑えられるかのチャレンジをずっとしています。今年はもう病院に行くことがないといいなと思っています。3週間後に肺の定期診察があります。


今回の授業では内田繁「普通のデザイン」から編み出した問いに対して各自意見をまとめ、発表し合う時間でした。

特に、「虚」が「現」になる瞬間、所謂「仮設空間」のなかに何かがもたらされて、輝き出す瞬間について考えた時間が印象的だったと思っています。私は新潟県出身であるほかに、音楽家や劇作家、俳優という属性があり、その立ち回りで「ステージ」にかかわらせていただくことがあるのですが、からっぽで真暗なあのホールが、ある条件がそろうとこの世界のどこかで本当に起こっているような「出来事」を切りとったものになるのがとても面白いな、と思っています。同時に、これまで私なら21年間積み上げてきた人間としての歴史を一旦捨て、全くなったことのない人間になる=演じるというよく分からないことをしだします。いったい、演じるって何なんでしょうか。別に僕は「松田蓮」という名前を捨てたいわけでもないし、どちらかといえば「松田蓮」という名前で空間を「現」に変えられたらどれだけ嬉しいだろう、とは思います。ですが、必ず舞台の上で求められることは「松田蓮」という名前を捨て、新しい生命として生き、その生き方はその生命の長い歴史が垣間見えるような生き方をすることです。その生き方を獲得するために、私たちは途方もない練習をします。しかし、練習すればするほどにその新しい生命としての「リアルさ」からは離れ、「練習したリアルさ」へ接近してしまいます。どちらかといえば、そこで練習すべきなのは「新しい生命としての視点」であり、松田蓮というエヴァ初号機を、新しい生命が操縦したらどうなるのか、といったような、実験的なことです。常に実験をし続け、「演じる」が飽和しないようにしなければなりません。松田蓮が新しい肺の穴を空けてしまう可能性を常に持っているように、その新しい生命も、例外や突然変異が起きる可能性を常に持っていなければなりません。つまり、本当に「普通の人間」としての性質を持たせることが必要です。もう1人の人間を身体の中に共生させる感覚です。でも喧嘩はしません。お腹も2人分は空きません。だから、厄介だなあと思います。ここまでつらつらと考えても、結局「演じる」ってなんなのか分かりません。ところで、「分からない」っていいですよね。「分かったかも」と言えるような日がやってくる可能性を孕んでいるからです。


書いているときに乗っていた小田急線が下北沢駅に着きました。ふとエスカレーターを見下ろすと、浜辺美波が居たような気がします。2度見したら浜辺美波かどうか明らかになってしまうので2度見はしません。シュレディンガーの浜辺美波です。もしかしたら本物の浜辺美波かもしれないし、偽物かもしれない。もしくは、浜辺美波を演じている違う誰かかもしれないし、浜辺美波に限りなく外見を寄せた違う誰かかもしれない。それって浜辺美波なのでは?と思いながら、2度見しました。浜辺美波ではありませんでした。では。






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こんにちは。環境四年の小谷です。この4月でついに四年生になりました。自分の大学生活の多くは部活とSFCの往復によって構成されてきましたが、年々、SFCへ足を運ぶ機会が減ったことで、月日の流れを感じている今日この頃です。


先週の研究会では内田繁「普通のデザイン」第一章〜森林に覆われた風土〜を読み、本に出てくる「坐俗的、立俗的」「虚、現」という概念についての理解を深め、各々が感じたこと考えたことを議論しました。


個人的には昨期の「陰翳礼讃」に引き続き、「普通のデザイン」は日本という国の考え方、文化の起源を辿るような内容であり、個人的に好みです。日本列島という同じ土地で何千何百年と紡がれてきた人間の生活、集団としての活動これらが複合的に絡み合った先に存在する今の社会と私たち。この複雑な出来事の連続の先にこの土地に住む人間に共通する何かが存在するということがとてつもなく面白い事象であると思います。そんなことで本では日本の風土から日本人に根付く死生観から物事の捉え方の癖を見出しています。その一つとして「空、現」という概念が出てきました。日本の空間の捉え方は「空」という何もない箱や枠組みが存在することが前提でその中に何かが入ることでその空間が現実になる、つまり「現」になるというわけです。そしてその中が移ろうことで、また「空」になるという。この移ろいこそが日本の空間の捉え方だと筆者は記しています。研究会の議論ではこの「空、現」という概念を感じた瞬間やモノコトを挙げていきました。個人的にその話の中で心に引っかかったのは組織の移ろいはまさに「空、現」なのではないかという話です。この話を聞いた時に真っ先に頭に浮かんだのは自分が所属する慶應体育会ソッカー部でした。部活では3月に新チームが始動した時、状態としては「空」であると考えます。シーズンを通した目標を志向する集団としてまとまりはありません。しかし、一年という期間の中でその目標を志向する中で起こった事象、現象を考え、集団は変化していきます。そしてチームがシーズンの最後に何らかの結末を迎えた瞬間、チームは「現」になります。しかし、すぐに四年生は引退し、三年生が新四年生となり、新チームが始まることで「空」に変わります。この移ろいが繰り返されるという意味で部活には「空、現」があると思います。

 

ソッカー部には昔から続く習慣や風習が数多く存在します。それらは部に所属したことのない人間からすれば理解し難いものなはずです。とてつもなく長い時間行われるミーティングや非常に細かく規定された部則などなど、一見意味のないように思えるものがたくさんあるかもしれません。実際、私も入部した当初にはそれらに対してよく懐疑的な考えを持ってちまちまと愚痴を垂れていました。ですが人間とは不思議で入部当初感じていたそんな違和感は部に3年もいれば、綺麗さっぱりなくなっているわけです。部の目的は簡単に言えば、サッカーの試合で勝利することです。その勝利というシンプルなものを志向する集団に一見、その勝利と直接的な繋がりもない風習や文化が存在するということがこの部を一つの大きな「空の箱」であることを示しているように感じました。「空、現」というものの移ろいの中で重要なのは「空」という状態は何らかの枠組みや箱がなければ、生まれないということです。それがなければ、「無」です。この箱、枠組みは何であるか。それはその組織の志向するものから逆算された思考やそれによって積み重ねられた思想ではないかと思います。規則や文化はそれが一つの形として現れているだけで、その根源には部に根付く思想があり、精神性があると思います。

部に所属する人間は4年間を通して、身体的にも精神的にもその思想と繋がりを持ち、自分なりの生き方を模索し、また同期とともにチームとしてのあり方を探究し、勝利を志向します。1年生であれば1年という立ち位置から、4年生であれば4年という立ち位置から、。それらの活動を経て、最後に「現」となるわけです。故に毎年、その「現」の瞬間は違うものになりますが、自分はその瞬間に強く心動かされてきました。その年の四年生が勝利を志向し、作り上げたチーム、その考えは次の年にチームを作る下級生のどこかに残り、受け継がれていきます。その積み重ねによって今の慶應体育会ソッカー部という箱が作り上げられてきたということだと思います。その勝利を志向し、チームとしての生き方を模索した痕跡が積み重なり、箱が作られたわけです。私はこの組織に入り、3年が経ちますが、非常に濃い時間を過ごすことができています。それはこの組織の箱が非常に難しく、かつ奥深いものだったからだと思います。自分もその組織に所属する部員の一人として何かを部に残せればと思います。


ソッカー部という組織から「空、現」で考えたことを綴ってみました。

この世には様々な「空、現」が存在しそうです。面白そう。


今期から諏訪研に入りました。総合政策学部3年生の大塚みな美です。どうぞよろしくお願いいたします。あっという間に3年生になっていました。早いです。ほんとうに・・・

今期の諏訪研の本「普通のデザイン」を読んでいて、この話をしたい!と思いましたので、今日はそのお話を、つらつらと。

この本の中に、「弱さ」とは、合理的でないもの、目に見えないもの、手に触れられないもの、あいまいなもの、不定形なものなど、近代合理主義の枠から外れるものであり、それらの抹消によって、近代はその「強さ」を実現したのです。という文章がありました。

大学生になってから、自分の「やりたいこと」がわからなくなったときがありました。「みなみはなにがしたいの?」と聞かれるのがすごく嫌で、いつも答えられないでいました。ある日、そんな私を見兼ねた行きつけの居酒屋のおっちゃんに「高い学費を払って大学に行かせてもらっているのに、やりたいことがないなんてそんなことあるか!!!」と言われました。私は自分と向き合うことから逃げていたのだと、気がつきました。涙が止まりませんでした。同時に「そんな時期もあるよね」と慰めてくれていた自分の周りの人たちの顔が浮かびました。申し訳なくて、申し訳なくて、たまりませんでした。

私にも好きなこと、やってみたいことはたくさんあって、ギター、音楽、野球・・・。でもどうも「これです!!」って言えない。好きの程度なんてそれぞれでいいのに、自分の好きを考えると、同時に自分よりもそれが好きな人、知識がある人がたくさんいることを考えてしまうんです。

なんで好きなの?どうして好きになったの?「なんとなく・・・」なんだか自分の好きが「ちっぽけ」に思えてきて。でも私も人に対してそれを聞いてしまうし、知りたいから、純粋に。「なんとなく」と答える自分に、自分がなんで好きなのか考えてこなかったからだ、とも思ったりもしました。

でも、きっとみんななんとなくなんですよね。それを誰かと一緒にやったり、私にしかわからない「なんとなく」を知ってほしい!!っていう時に頑張って言葉を紡ぐものだと思うんです。今思うと私は、自分自身と向き合うことから逃げていたのではなくて、「やりたいこと=ちゃんと説明できるもの」と思い込みすぎていたのかもしれません。だからはっきりとした理由のないものに自分自身の「弱さ」を感じていたのかもと。

わたしの言語化はまだどうもむずむずしてしまいます。ほんとうはそんなこと思っていないのになーと。本当のことは自分もよくわかっていないのだと思います。でも言葉を選んでいくうちに、自分も納得できるものにたどり着くのかもしれない。

いろんな話を聴いて、聴かせてくれる大好きな兄のような人に「みなみのかっこわるい歌、今度聴かせてよ!」と言われたのを思い出しました。

 かっこわるい歌を聴かせられるように、一生懸命、頑張りたいと思います。今期、どうぞよろしくお願いいたします! 

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みなさん。お久しぶりです!いつもありがとうございます。

総合政策学部2年 安井優介です。いよいよ今学期にて僕も2期目、昨年度は不完全燃焼だったので、ラストイヤーぶちかましたいところですね!と、言いつつすでに負荷に負けてだるい日々が続いています。。。

2026年度春学期は内田繁「普通のデザイン」を読んでいます。その中で「時間の経過とは、死に向かうもの」と言及されています。そして、日本人は時間の経過から逃避をするために、「永遠のいま」という「仮屋」、仮設空間にこもることで復活、再生を行うと内田は主張しています。

 時が流れていることを実感すると、怖くなってしまいますね。自覚せずに物事が動いているのが嫌いな性なんでしょうかね。スマホを見ていたら3時間経ってた!とか、電子機器を回しながら外出してしまうとか、帰ってきた時に悔しいと以上に思いますね、。時空間を操るほどかっこいいと思ったことはないです。その時空間を操る例として、「手を叩く」行為を挙げてみようかと思います。実は先日、日吉のとある演劇サークルの新歓公演を見に行ったのですが、、、感動しました。というのも、その演劇では演劇の魅力を「魔法」に準え、時空間の支配の仕方を実践しながら学生を模した役者が演劇を学んでいくお話なのですが、演劇の中で学生が演劇をする際の役の切り替えのタイミングで、彼らは手を叩いていました。「パンッ」と鳴り響いた小教室は雰囲気が一変します。何か時間の流れ、空気の成分、はたまた自分まで何かに切り替わるような(瞬発力がありますね)空気を作り出します。どんどんと変化していく役柄、その度になりわたる拍手の音、立て続けに空気を切り替えていきます。

 日常では、注目を集めたい時なんかも手を叩いたりしますよね。「さてと、、」と言いながら(それも場面の切り替えですね!)叩くこともあります。

 拍手なんかも、少し意義は変化しますが、劇の最後に行われますよね。あれがないと閉まらないし、腑抜けた感じのイベントになってしまう。締めるで言えば、一本締めや三本締めなども。

 呪術廻戦の東堂葵くんの不義遊戯も面白い例ですよね。(不義遊戯とは、彼が持つ術式(特殊能力のようなもの)で範囲内の呪力を持った物体の位置を入れ替えるというもの)瞬間が切り替わる。これは自分の手だけではなく、他人の手との接触でも効果を発揮します。これも面白いですよね。ハイタッチとも繋がってくると思います。

 やはりあの音が重要なんですかね。手を叩く音って工夫のしようがあるのでしょうか。重低音になれば、大砲のように威圧的になることによってより注目を得るようなドラムロールや何か大きい衝撃がくるような予兆になったりするし、高く鋭い音になれば不快な音として、不吉な音に感じるのかもしれない。どのような効果があるんでしょうね。

 ひとまず、拍手は瞬発的な音によって場面を切り替える効果を発揮しているんですね。


何はともあれ、今学期も楽しみますよ!みなさん、今学期も何卒よろしくお願いします。





こんにちは。環境三年の小谷です。今期もどうぞよろしくお願いします。


前回の研究会(10/28)はお互いの構成的体験記述についてレビューしあって後、研究室の電気を消して、蝋燭に火を灯した部屋で陰翳を感じながら、陰翳について議論しました。そんな蝋燭でできた暗がりの中で議論をしていると、幾つかの出来事がふと記憶から湧き上がってきました。それは高校の頃、秋ごろに友達とキャンプで焚き火を囲んで喋っている時の情景でした。私は火が大好きです。特にキャンプなどで火をおこすこととかその火に団扇を使ってたくさんの空気を送り込み、火がバチバチ燃え盛るのを見るのがたまらなく好きです。そして、日が落ちてからその火を囲んで少し肌寒い中で暖をとりながら、友達といつもより少しだけ真剣な話をしている空間が幸せでたまりません。なんだか皆が真ん中にある大きな火にぎゅっと抱き寄せられているかのように、自然と話題や視線も火に向かって吸い込まれていくようでした。 ここで感じたのはその空間の一体感で、目の前にある火、周りを囲む自分と友人、足元に転がっている河原のゴロゴロとした石が一つの場としてそこにありました。陰翳は何か境界がはっきりとしていない曖昧な部分の深みやふくみを意味している側面もあると思います。火が発するエネルギーが光や熱として自分に届く。そして火とその火のエネルギーが届かない空間の間にある無限に広がる熱や光の波紋の中に自分がいてその波紋によって自分という存在から発せられる言葉や感情といったエネルギーが影響を受け、また新しい形の波紋となって広がっていく。そして周りにいる友人たちが発する波紋も加わり相互に影響しあって何か一つの場が作られていく。素晴らしい調和が取れた良い空間だったと今振り返っても思います。ただこんなことはただ非日常であるキャンプで焚き火をしたから特別心地よく感じただけで、普段の生活でも当たり前のようにこのような現象は起こっている気がします。誰かと喋ることもスポーツをすることもそんな一つの環境や一人の人が放つ何らかのエネルギーが相互に影響を与え、一つの場が作られる。それが心地よいと感じる時もあれば、気持ち悪いと感じる時もある。それは人の好みであって、そこに特定の理由はないと思います。世界が豊かになり、人がお互いのエネルギーを受けすぎなくても生きていける時代になった今、人と深く関わり合うことが都会を中心に少なくなっていると思います。自分は体育会で毎日、練習でお互いのプレーや行動に声を荒げて干渉しあってます。部活に入っていない人がその光景を見たら若干、引いてしまうくらい相手に干渉します。人のエネルギーに押されて揉まれて、自分が大きな影響は受けることは不安定な状態を作り出しはするけど、お互いの世界に境界を作らず、陰翳でお互いに干渉しあって、生まれた何か大きな場やエネルギーは自分の価値観や生き方を大きく揺さぶってくれるものだと思います。はっきりした繋がりがあるかわかりませんが、陰翳をどんどん身体で感じていきたいです。今学期もよろしくお願いします。



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こんにちは、総合政策学部3年の加藤です。大変ご無沙汰しておりました、長期休みを挟んで今学期はじめてのブログ担当ですから、随分と時間が空いたような気がいたします。

世の中はすっかり涼やかになった様子で、都心の皆様などはいかにも寒そうに外套を羽織っていたりなどしていますが……ぬるいですね、私は北国の人間なのでこれからがオンシーズンなのです。寒い分にはいくら寒くても構いません。過ごしやすいったらないですからね。例えば肌を刺すような冷たい薄氷の空気を肺いっぱいに感じながら寝るのなんて、一番心地が良いじゃないですか。ええもちろん、窓は開けて寝るんですよ。


そういえば話の切り出し方に困ったとき、どうも時候の話題から始めるきらいがありますね。個人的には決して社会常識として=知識として獲得した観念ではなく、自らコミュニケーションの経験を積む中で見つけた「大抵うまくいく話題」の知見だろうと思います。こういう極めて汎用性が高い話題をネットスラング的に「会話デッキ」と言ったりもしますが、天気の話、季節気候の話、所属する組織での話、趣味の話、etc…この辺りは何やらメジャーらしく。なぜと問われるとパッと答えられないが、実感値として「だいたい円滑に会話できる」ということは分かる。この謎の暗黙知は一体なんでしょうか。

考えてみましたが、やはり「生活」ではないかなと私は思います。はい、今学期の課題図書に引っ張られていますね(『陰影礼讃』)。まずもって初対面の人や久しぶりに会った友人など、会話の共通項が見出せない状態からでも話を始められるというのが、この「会話デッキ」の良いところでしょう。穿った見方をすると、天気や季節は(今こうしてお互いが外出をして出先で会っているからには、という条件付けで)会話をする全ての人にとってリアルタイムに起こっている"出来事"です。何の脈絡もなく唐突に「あなたは〇〇ですか」などと質問を投げるのは少々手荒な印象で、それが相手のパーソナルな情報であるほど、此方の会話に対する主体性は相手にとって攻撃性として映る可能性がある。それに比べれば天気や時候の話題は今まさに自分たちが体感している事象であって、共通項どころか出来事・時間を"共有"している事柄。引き合いに出す道理も、そこで発話が生まれるべく連続性も双方にとって納得的なものがある、ということなのだろうと思います。趣味の話だって、道端で出会ったご近所さんに吹っ掛けるのは流石にストロングスタイルというものですから、例えば「仕事仲間の紹介で初対面の人と会う」だとか「授業で同じグループになったから」といったような、何らかの文脈を背景に持っている場合において専らの使用感を発揮するでしょう。

それに、天気や季節といった対象は少なからず個々人の生活に対し祝祭的なニュアンスを孕んでいます(諏訪先生にいつも「祝祭はハレの日のお祭り騒ぎ的なモチーフが強すぎる」と指摘されるのですが、私は語感的にこっちの方が好きなのです……。ほら、"言祝ぐ"という言葉があるじゃないですか。"祝祭"単品だと確かにパレードカーニバルな印象が強いですが、"祝祭的"とすると実際に祭りを催しているわけではなく、別の方法≒言葉などによってその賛美を模倣しようとする意味合いの機微が生まれると思うのです。言葉は常に日常と異常の両方に根を下ろしており、両方に橋を渡し、両方の境界を捻り続けるものですからね)。……知らない間に話の腰が折れた音がしましたね。それはもう鈍い音が……

閑話休題、例えば相手と共通の話題を探すだけであれば最近のニュースで一面を飾っているようなホットトピックを探すでも良いはずです。それ季節のニュースも普通にあるだろというツッコミは胸ポケットにしまっておいてください。しかしそれを選択しないのは、往々にして最近の代表的なニュースというものが世相の悪いところにばかりスポットを当てるものだからではないでしょうか。他の自然災害や事件事故といったニュースは、相手との会話の一発目に放り込むにしては少しどんよりし過ぎている。まぁ自然災害といったら天気も季節も似たようなものではありますが、いわゆる「会話デッキ」として用いる天候の話には、反語的に「このように変わってくれたら生活が楽しい」といったような反転のニュアンスを実際の発話の先に想定しているような気がするのです。恐らくこれは趣味の話などでも同様、この手の「会話デッキ」を回す時というのは、大抵その話の展開形として「私はこういう風に(工夫して)過ごしている」といった実生活の内容へ進むことが多い……のではないですか。どうですか、違…いますか…。実感値としてそうだということを仮に真として話を進めると、これらの「会話デッキ」は、言い方を変えれば「あなたはどんな暮らしをしているのですか」という質問へ自ずから収斂する、ニアリーイコールの関係になっているのではないかと思ったのです。そしてそれは、多くの場合聞くのが楽しいことでしょう。毎日会う小中高のクラスメイトでさえ、彼らがどんな生活をしているのかは殆ど断片的にも知ることはできないのですから、相手のそういう面を知ることは、相手も自分と同じように生活しているんだと仄かな絆を感じたり、親近感を感じたりします。

「会話デッキ」を使うのは会話下手な人だ、といったような暗黙の了解が(ネットの空間、諸事情により特にVtuberの界隈などには)若干あるような気がしていますが、「会話デッキ」はむしろ初対面から滑らかに話を盛り上げお互いの距離感を適切に取り持つコミュニケーションツール(≒開発された道具)といっても過言ではないと思います。どんどん使っていきましょう。

なお、実際の「会話デッキ」を使った様子については以下を参考にすると良いのではと思います。

このぎこちなさ、伝統芸能にして継承していきたいですね。

それでは、


会話が続かない人必見!「天気の話」がヤバいと話題にwww【まとめ】【にじさんじ / 公式切り抜き/ VTuber 】  (Youtube「にじさんじ公式切り抜きチャンネル」より)

https://youtu.be/9v9HHdWxB_o?si=-NtIHUUE2LIz4VK_


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