俺が研究にしてやる。

慶應義塾大学諏訪正樹研究会の、メタ認知な日々。

今回のブログは昆布、桃々さん、じっちーさんの3人で担当させていただきます。是非最後までお付き合いくださいください!


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こんにちは今回のブログを担当させていただきます、総合政策学部2年吉川昂希です。

ブログを書く順番が回ってくるのが思ったよりも短くて驚いています笑


さて前回の研究会では、各々タイポグラフィーを作りました。56の触覚の文章からそれぞれが感じたことを表現しました。


自分は文章の言葉を少し変えてニュアンスの違いに注目しました。

最初は、全部漢字に直してみました。最初のバスとかだったら、大型自動車にしてみたり、ひらがなで書いてあって、漢字に直せるところは直してみました。全文思いつくままに、漢字に変えていきました。


正直、全然しっくりこない、、、ぴくぴくとか漢字でどうやって直したらいいか全然わからない。悩んだ末に、「小刻みに動く」と書き換えたけど、なんか違う。ぴくぴくは体が動いているし、動いているものの中には血が通っている感じ。きっとそのぴくぴくしているものは触れると温かいと思う。

でも、「小刻みに動く」はもっと冷たい。自分の体からの距離が遠すぎて、体温を感じれない。やっている時は思いついて自慢気になったけど、見返すとまるで違う。


今度は逆に、全文をひらがなやカタカナに直してみる。いったん、カタカナの部分はひらがなにしてみたり、ひらがなの部分はカタカナに直してみたり。漢字はどっちにも直してみて、しっくりきた方を書いてみる。


こっちは逆に結構気持ちいいものが多かった。特に、自分のお気に入りは電線。

電線の場合だと、「でんせん」か「デンセン」に書き換えができる。自分はカタカナの電線を見た瞬間に「これが電線だ!」と思った。

簡単に言うと、カタカナの方が電気感があると思ったから。「デ」の濁点の部分は電気が走る驚きを伝える。「セン」は静電気が体に走る速度を伝えてくれている。それでいて、「デンセン」は斜めの字体で書いて、デンとセンは左右に少しずらして書いてみたいと思った。


それでいくと有刺鉄線はどうだろう。第一印象は電線と近い感じがしてる。電気は走っていないけど、あのトゲのびっくりする感じが少し似てると思った。

いざ文字に起こしてみる。


「ゆうしてっせん」 「ユウシテッセン」


いやひらがなの方が面白いかも。ひらがなになるとすごく柔らかくなって、可愛い。

「子どもが触っちゃダメ」って言ってる感じがする。カタカナだと、トゲだけじゃなくて電気流れちゃってる。多分触れたら失神するタイプ。

有刺鉄線って意外と触れることが前提のもの。見るとちょっとトゲに触りたくなる。それがひらがなの方がうまく表している。


こんな感じで全部カタカナやひらがなに直してあげると、字が意味だけに囚われていたのが一気に体感と近しいものに変化した気がした。言葉って深い、、、


さ、準備は整った。いざタイポグラフィる。

、、、、

字の表現の仕方はわかっているのに、色の使い方がわからない。全然伝わらない。。。。今の自分の作品はタイポグラフィって感じ。本当に作りたいのはたいぽぐらふぃだな。次回はたいぽぐらふぃに近づけよう。


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こんにちは、環境2年の岡崎桃々です。ずっとオンラインだったので、正直まだ対面に慣れていません。


前回の研究会は個人での作業がメインでした。56番「触覚」の文章中からのタイポグラフィです。皆さん黙々と取り組んでいましたが、自分自身も全く余裕がなく、完全に沈黙して作業を終えました。ああでもないこうでもないと色々試行錯誤しながら作業をしましたので、折角ですからその間の思考を共有できたらと思います。


まず、スタートの画材選びから大いに悩みました。画材と言っても、「水彩か油彩か」とかそういうものとはちょっと違います。自分の最初の選択肢として、アナログかデジタルかという二択があるんですね。既に多くの方がお分かりかとは思いますが、デジタルはアナログとは異なり、コンピュータ上でイラストレーションソフトなどを用いて作成する方法のことです。自分が普段から慣れ親しんでいるのはデジタルのイラストソフトなので、何も悩まずさっさとPCを立ち上げて描き始めろという話ではあるのですが、そう簡単にも決められない理由がありました。前述しましたように、今回のテーマは「触覚」です。手触りが生まれないデジタルには少々不利なお題ですよね。自分の慣れ具合と引き換えにしても、手触りを捨てるのはちょっとなぁ、とかなり渋りました。

でもまぁ結局、さんざん悩んだのちにデジタルに決めました。技術的な問題で表現したいものが表現できない、ということがあったら後々後悔しそうだということで、慣れ親しんだツールを選択した次第であります。実際、デジタルは自分の制作スタイルにはあっていたように思えましたね。思った色味が確実に出ますし、後から修正が簡単にできますから、「とにかく手を動かしてから、違うなと思ったらちまちま変えていく」という方法にマッチしていたわけです。


さぁ、いざ真っ白なキャンバスに向かってタッチペンを構えたわけですが、手が動きません。思いつくまま描けばいけるだろうと思っていたのですが、そう甘くはありませんでした。文を読みながら「なんとなくこうしたい」というものは思いついていたのですが、それをキャンバスのどこに配置するかまでは考えていなかったんですね。仕方がないので、とりあえずキャンバスを本来より大きめのサイズに作り直して、書けそうなところから書いて後で構図を決め、本来のサイズに戻していくという方針にシフトしました。

ちなみに、文章中から選択した箇所は「そのほかにも、びくびくと~撫でることもできる。」の部分でした。他にも同じ箇所を選んだ方がいらしたので、是非理由を訊いてみたいですね。自分は、一つのモノに対して様々な形容が連続して現れる様が愉快だったので選びました。それに、読みながらタイポグラフィしやすそうな要素が特に多いなと感じていた箇所だったんです。「間の抜けた騒音を吐き出す長い筒状の物体」のところなんて最高にやりやすそうじゃないですか。次週のお披露目のネタバレになってしまうとよろしくないので具体的には書けないのですが、筒状の物体をかたどった文字から「騒音」が吐き出されているさまがありありと目に浮かんでいましたね。


さて…。本当は考えていたこと全てを書く予定だったのですが、まだ真っ白のキャンバスを目の前にしている段階を振り返っている時点でこの文章量になってしまいました。全て書いていると本当にキリがなさそうなので、残念ですが、作業中一貫して持っていた方向性だけ書いておしまいにしようと思います。以下の通りです。

まずテーマとして「触覚」なので、あまり視覚的な具体性をもったタイポグラフィにしたくはありませんでした。しかし、文字という具体的なモノを書かなくてはならないので、抽象絵画のような作風するのは難しい。そこで、文章全体の持つバスの話の文脈を完全に無視し、そこにある文字情報のみを忠実に描き起こすことで、夢で見る世界のような「繋がりを持たない」という具体性の無さを演出できないか、と発想しました。例えば「螺旋状に編まれた細い毛羽立ったもの」の部分について、元の文脈ならきっと帽子のことだろうと思われるところを、それを無視して徹底的に「螺旋状に編まれた細い毛羽立ったもの」を文字で表すことにしたわけです。そして、それぞれの文字のフォントや配置によるデザインを行ったあと、背景色・模様によって文字に与えたいキャラクター色を強めることにしました。例を挙げるならば「間の抜けた騒音を吐き出す」の場合には、気持ち悪さやはっきりしないキャラクターを与えるために背景に黄色や緑の渦巻き模様を配置する、といった具合です。文字に加え背景にも、具体的な関係性や規則性のようなものは持たせたくない、と考えていたように思いますね。こう振り返ってみると、自分の制作テーマは「夢っぽい脈絡のなさ」だったかもしれないなと感じます。


まだまだ書き足りないですが、今日はこのくらいにしておきたいと思います。皆さんのタイポグラフィを見るのが待ち遠しいです!私からは以上となります。


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こんにちは。

環境情報学部4年の伊地知真優(いじちまゆ)です。ブログを書くことが久々すぎて、どうやって書くのか忘れました、、なので、文脈がぐちゃぐちゃでも目を瞑ってもらえると嬉しいです。


ブログ恒例の最近のこと報告から始めると、私は体育会端艇部でボート競技をしています。埼玉県の戸田市に部員全員で寮生活をしながら日々頑張っています。この生活にもすっかり慣れてしまい、実家よりも居心地がいいのでは?!と最近は思っています。この居心地の良さを獲得するまでに色々試行錯誤して、ベットの位置とか物の配置とか時間の使い方とか、これはメタ認知するべきかなと今思いました。


しかもついに自分も4年生になってしまい、4ヶ月後にある引退試合を残すのみとなってしまいました。最近は、「あーこれ最後なのかな」とか思いながら生活していて、部員からは「思い出に浸るのはまだ早すぎるよ」と言われます。最後、笑って終われるように頑張りたいです。






本題に戻ると、先週はタイポグラフィーの制作を行ったと聞きました。先週は大会で参加できなかったので、家にボードを持ち帰って作りました。


最初は、触覚の文書がコピーしてもらった紙の文体にしか見えなくて、とても困りました。なので、一回放置しました。それで、1週間後に再びその文書を見たときに、色んなものが浮かんできて、この差異はなんだろうと思いました。この1週間に起きた出来事とのつながりがあるのか、その時の注目地点が違うのか、流れるように文章を読むことができました。(前半の方だけ)



流れるようにと文字にした部分は、舌で絡まし、歯で噛み砕き、喉仏に触れ、食堂を通って、胃に流れるように文書を読みました。1つの物体を感じながら、取り込みながら、少し理解しながらからだの中を流れるように文書を読んだからかなと思います。




あと、モノを取り込むのも、用意してから取り込むのと、用意しないで取り込みたいと思うのかは違うなと思いました。家にあるものをとりあえず机の上に並べてみてから、もう一度文書を読んだときに、これを取り入れたいと思えるものに出会えました。でも、それは目の前にモノを準備したから繋がったという結果論で、無数の選択肢の中からこのモノを選んだわけではないなと。これは果たして100%合っているのか。そんな考えにも至りました。






次回はタイポグラフィーを持ち寄ってみんなで議論するらしいので、みんなのタイポグラフィーを見るのが楽しみです。みんなの見てから、またタイポグラフィーしたら、どのくらい自分のが変わっているのか、何に影響されたのかとかも知りたいなと思いました。

今回のブログは快馬くん、小川さん、齊藤でお送りします。よろしくお願いします!


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はじめまして。今学期から諏訪研究会にて活動いたします、総合政策学部2年の吉田快馬です。

私にとって諏訪研での学びはまだ3回目ですが、ここまででひとつ思ったことがあるのでまずはそこから。


私は諏訪研に限らず、研究会や勉強会に入るとまず、「ここの学びにおける問いはどこにあるのか」をよく考えます。例えば私は以前別の研究会でホワイトヘッドという哲学者の思想を学ぶ機会があったのですが、そこにおいては「ホワイトヘッドから研究会の思想との関連する概念装置を見出す」といった問いが中心でした。このように問い(ここでは目的と言い換えても良いですが)がはっきりしていると、情報を「取捨選択」しながら前へ進むことが可能になります。このことはしかし裏返していうならば、気をつけないと一方的で少し閉鎖的な学びにもなってしまいがちなように感じていました。


では、諏訪研でのこれまでの文体練習の学びにおいて、問いはどこにあったか。数回をとおして、そこに問いは「不在(未在)」であるか、もしくは問いの問い、メタ問いがあるのではないかと私は思いました。文体練習を読み始め、研究会でもすでに3回扱いましたが、未だこの題材から何を中心的に学べば良いかが見えてこない。そしてまた、ほとんどの方がその答えを知らないようにも思います。そのことはさらに言えば、「文体練習における問いはどこにあるのか」、「私たちはどこへ向かえば良いのか」という問いをめぐる問い=メタ問いがあると言えるでしょう。

思い返せば、はじめに伝えられた4つへの動詞、「浸る・浴びる・絡まる・戯れる」という行為もそれぞれ、寝るやほどく、食べるといった動詞と違って問い=目的がないことに気づきます(*目的語がないという意味ではない)。こうした試みのなかで私たちの身に何が起きるのでしょうか。

私はもちろん歴とした答えを持っているわけではありませんが、感じたことのひとつに、「偶然性からやってくる学びに開かれてくる」ことがあるように思います。前回だけでも、例えば誰かの音読を聞いて解釈が刷新され、課題をとおして自らの新しい読み方に出会ったこと、佐藤優さんのメトロノームに合わせて朗読することが試みられたことから見えてきた「リズムにつくりながら音読すること」と「リズムに乗りながら(強制されながら)音読すること」の差異、岡崎桃々さんの音読と森さんの音読を比べて見えてきた「抑揚」と伝わり方の関係等々。あらかじめ問いを設定しないからこそ、問いが問いをよび、それぞれの問いや語りと相互作用しながら学びがつくられているように感じました。


前述した問い=目的が明確な学びと対比してみます。問いが明確な学びでは図と地が固定的である一方、その輪郭をはっきりさせて、図の解像度を高めていくこととするならば、メタ問い、あるいは諏訪研的な学びは、図と地が反転したり、図の輪郭がひらいたりとじたりするなかで予想外の学びを受け入れ、相互作用のプロセス自体が学びであり次の学びを構成することと言えるのかもしれません(諏訪研の「構成的手法」、郡司ぺギオ幸夫さんの「天然知能」、に関連しそうですね)。もちろん、どちらが優れているという話では全くなくて、その学びの性質に視点をおいたときに、こうした差異が見えてくるかもしれないという点が重要だと思います。

この話を小川さんにしたところ、「それで、あなた(私)の今の問いは?」と聞かれました。そのときこの文体練習においての自分の問いをあまり明確に答えられなかったので最後にそのひとつの応答をしたいと思います。


現段階での自分にとっての問いは、「ある文体の変化が、ひとつの身振りとして、読み手に伝わったときに、読み手の受け止め方と、その後の読み手の身振りはどう変化するのだろうか」というものです。前回はこの問いに関連して個人的に面白い例があったので、それをもとに話します。

森さんの音読を聞いて、伊地知さんが「耳元で聞きたくない」と話されていました。その一方で、岡崎さんの音読は、アニメの声優さんのような仕上がりで、伊地知さんは「これなら聞ける」とおっしゃっていました。諏訪さんはこの違いに、「抑揚」の加減が関係しているのかもしれないとコメントされていましたが、この一連のやり取りは私にとってとても印象的でした。抑揚がはっきりしていて、バシッと決まる岡崎さんの音読に対する「アニメのようだ」という受け取り方は、裏を返してみればアクチュアルな人間味が希薄になっていると捉えられるかもしれない。岡崎さんが精緻に抑揚や間をコントロールしたことで伝わりやすく、聞きやすくなったことの裏返しに、肉体をもった人間の声としての生々しさが薄められていると言えるかもしれない(アニメの声は、極端にいうならば人工的とも言える)。一方で、耳元で囁かれているような、若干の気味悪さが漂った森さんの音読は、抑揚はないけれど、緻密に音読の仕方を練るのではなく「組長のように」という人物像を先行させていたことで、抑えきれなかった生々しさ、森さんの「見せたことのない裏の姿」と言われるようなアクチュアリティがあふれでた。だから耳元で聞くことが耐え難くなってしまったと言えるかもしれない。この学びは先述の問いにひきつけると、「音読における間と抑揚の変化が、ひとつの身振りとして読み手に伝わったときに、読み手(ここでは伊地知さん)の受け止め方と、その後の読み手の身振り(聞くこと等)はどう変化するだろうか」となります。


こうしたミクロなやり取りとそこに生じる生きた体感に注目して、その一方でさらなる問いへとひらかれて、諏訪研での学びを楽しみたいと感じました。以上です!


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どうも、環境4年の小川功毅です。対面授業はすこぶる良いです。皆様の感染対策の賜物でもありますので、本当にありがとうございます。おかげさまで私の調子も良好です、来週以降も張り切っていきましょう。

 

さて、今週の研究会では、宿題となっていた14「主観的な立場から」の各々の音読をみんなで聴いて語るということと、新たな題材となった56「触覚」をタイポグラフィとして表現してみるということを行ないました。着々と戯れています。

 

まず、14「主観的な立場から」を音読することにおいて、私は「キャラ」や「演じる」というワードに違和感を覚えました。私は、キャラクターを思い描いて設定したり、そのキャラクターを演じたりという気持ち/過程/心構えで音読をしていませんでした。どちらかといえば、主体(私自身)に変化を加えて、あくまでも私として音読をするといった感覚です。この感覚は、この文体の題が「主観的な立場から」であるからこそ、鮮明に“一人称として音読する“ことを意識したためかもしれませんが、「キャラ」や「演じる」とは違うのです。

三人称的に文章を眺めながら膨らませ、そのキャラクターに二人称的に関わることによって私自身との距離を詰めるというアプローチではありません。私という一人称のままえっちらおっちら環境や身体に変化を加えていきながら、にょっこりと分人が顔を出すようなアプローチ。文章をゴクリと飲み込んで、孕んだような状態。もはやそれは「キャラ」や「演じる」ではなく、私という主体に文体を孕ませ、自ら自身として振る舞っている。

アレアレ、ここまで書いておきながら、いやこれ私自身が「演じる」という行為を甘くみていただけなのでは、と感じ始めました。「演じる」という行為にだって、「文章/役/キャラをゴクリと飲み込んで、主体に孕ませ、自ら自身として振る舞う」という過程があって良いはずです。「役が抜けない」という話があるのも、きっとこういう感覚なんでしょう。「演じる」について、一つ腑に落ちました。

 

次に、56「触覚」のタイポグラフィという課題を与えられた際、ふだん私の触れている文字はなんて無味乾燥しているんだろう、ということに気づき、少し悲しくなりました。

文字は記号です。「バス」というこのかたち/文字の記号表現は、乗り物それ自体としてのバスという記号内容を代表してくれています。単にバスそのものという存在/概念を伝えたいのであれば、まぁ「バス」というかたちだけでも十分でしょう。しかし、私たちはもっと「バス」に対する記号内容を溜め込んでいるはずです。バスといえば神奈中が思い浮かんだり、ジャンボゴルフを過ぎたあたりから(?)望む富士山にうっとりしたり、相鉄の改札前まで続くバス列にうんざりしたり、いつボタンを押そうかなぁとドキドキしたり、いろんな体感や記憶が張り付いているはずです。このとき、こうした体感(記号内容)を表したいと思っても、「バス」という明朝体だかゴシック体だかのかたちに押し入れることは叶いません。

そうとわかれば、私たちは文字のかたち(記号表現)に、どうにかして私たちの体感(記号内容)を埋め込んで、できる限りリッチな記号をつくってみたい。


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こんにちは、こんばんは、はじめまして!今学期から諏訪研に仲間入りした3年の齊藤光来です。普段はフリスビーを投げて追いかけるアルティメットというスポーツを河川敷でやっています。まだまだ諏訪研をつかむのに必死な私ですが、ひよこなりに考えたことをつらつらと書かせてもらいます!


さて、今週はレーモン・クノーの『文体練習』の「No.14 主観的な立場から」をそれぞれ音読し録音してきたものを聞いた感想を話し合うところから始まりました。そして後半では新しく「No.56 触覚」を改めて読んで浸って、この文体をタイポグラフィにするためのブリンストーミングを行いました。


まず、前半の録音の回から考えたことです。私が今回特に面白い!と思った部分は、話すときの体制が意外と口調に影響を及ぼしているというところでした。みゅうさんのいじめられっ子のように聞こえるver.も、小川さんのなんだかナルシストに聞こえてくるver.どちらも本人たちは体制に言及していました。体を縮こまらせてみたり、寝転がってみたり。確かに私たちは日常の中で棒立ちのまま話す場面ってあまりなくて、むしろそのときの気持ちや状況によって体制を意識的にも無意識的にも変えて話しています。今までそもそも話す体制にたいして意識を向けたことがなかったからか、口調と体制に関係があるかもしれないというのは私的にはすごく大きな発見でした。確かに家族に怒られるときは下を向いて喉をつまらせるような体制でごにょごにょとごめんなさいと言っていたり、愛猫に語りかけるときはだいたい猫の横に寝っ転がったリラックスした状態でふにゃふにゃと話していたな、と。体制が変わることによって喉の開き具合や声の発しやすさなども変わり、その結果どもりが増えたり、抑揚が減ったり、鼻声が効いたりするのかもしれない。そうなるとたまたま話したときにその体制だった、ではなく、実は体制が優位で話し方はその体制によって左右されるのかもしれないと考えられます。

身体に目を向けて新しい視点を得る。諏訪研にいたから気付けた学びのような気がしてワクワクしています。


続いて、後半のタイポグラフィです。


難しい。


No.56とそのタイポグラフィに関してはこの一言で尽きるぐらい授業中苦戦していました。どうも「触覚」という観点から書かれている文体が頭に入ってこない。それがどうしてかを考えていたところ、研究会後の振り返りで、触覚と文体は五感の中でも一番距離があるから難しいのではないかという議論になりました。もちろんこの感覚には個人差がありそうですが、少なくとも私は今までどんな文を読むときも触覚を介して読解したことがない気がして、むしろ頭を使って意味を介して想像力で読んでいたなと思いました。目の前に並べられている言葉の意味を自分の中で消化して、文の世界を体感する。第一回で話したお気に入りのNo.5まさかさが好きだったのも、出来事が時系列を遡って説明されることで、徐々に言葉の意味に気づいていける感覚を面白いと思ったからかもしれません。「意味を介して」読んでいるから文体そのもの、すなわち1文字1文字には個性を感じない。これに対して、触覚を介して読むことは、並べられている言葉それぞれをつまみ出して個別的に捉えている印象が私にはあります。それは「触れる」という行為が具体的で、意味で理解するよりもよりリアルに言葉を体感し捉える必要があるからなのかなと思っています。意味を介して読みがちな私は文を全体として捉えているからこそ、どちらかというと個別的で物事を分けて捉える触覚で文体を読もうとすると難しさを感じるのかもしれません。


そんなところに難しさを感じている私ですが、小川さんにも振り返りで言われたのですが、タイポグラフィを完成させることに一生懸命になるよりも、つくるプロセスの最中に生まれる試行錯誤と学びを存分に楽しみながら挑みたいと思います!

今回のブログは佐藤、岡崎、永石が担当します!『文体練習』の14番、「主観的な立場から」を音読して、その中で感じたことや考えたことを深めました!ぜひ最後までお付き合いください!

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初めまして、佐藤優です!普段はストリートダンスしたり映画見たりしてます!B型です!

今回は14番「主観的な立場から」を音読して、他の人の音読を聞いて、また音読して、、ということをたくさんやりました。

音読したり聞いたりする中で僕は読む人によってリズムがあるのではないかと考えました。自分が音読した録音を聞いていた時に僕は句読点をだいぶ無視しているなと気づきました。読点があっても無視してつなげてしまったり、句点の箇所で作る間の秒数がそれぞれの句点で異なったりしていました。わざとそうしようと計画したわけではなかったので、これが自分の自然なリズムなのだろうと思います。そこで、家で一人で読むときには句点や読点をあえて意識的につなげたり、句読点を全部消したりして読んでみたら、かなり噛んだり、読み違えたりということが起きました。やはり自分のリズムに合っていないことをしたからとつまづいたのかなと思いました。人それぞれ話す時のリズムが異なるとしたら、それは何によって生まれるのでしょうか、、。

また、読むときの姿勢や環境も気になりました。研究会の時間ではその場に自分の音読を聞く人が三人いて、家で読んだときは一人でした。一人で読んだ時の方がキャラになりきったり、シチュエーションを想像したりしやすいなと感じました。自分一人だから気に入らなかったら途中でやめて最初からやり直したり、自室でリラックスした状態で読めたことが影響していそうだなと思いました。さらに、研究会の時間で読んだときは座って読むのと立って読むのを両方試したのですが、両方とも台本を読むために頭を前に垂らして読んでいたなと思い出しました。家で読むときはその辺の姿勢まで意識的に変えて色々読んでみたのですが、やってみて感じたのは、慣れない姿勢だとやっぱり読みにくいってことです。

ここまで書いてきて、慣れてないことをするのは難しいというとても当たり前のようなことに気がつきました。しかし、この当たり前の考えを利用すると、何かしらに難を感じる瞬間を普段の自分が何に慣れているのか、何が自分にとってしっくりくるのかを理解するチャンスにできるかもしれないなと思いました。

この気づきを活かして次回からも文体練習を楽しんでいきたいです!

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初めまして、環境情報学部2年岡崎桃々です。ブログ経験皆無なのでお手柔らかにお願いします。
文体練習第2回では、『文体練習』より14番「主観的な立場から」を音読しまくりましたね。そういえば、ひとつの文章の音読に対してこんなに真剣に取り組んだのは小学生ぶりかもしれません。最近はあまり声に出して読むなどといった機会はありませんでしたし。久々の音読はとても新鮮で、素直に楽しかったです。
今回のブログでは、「主観的な立場から」を改めて家で1時間くらい読んでみたので、そこで自分が感じたこと・思ったことをつらつら書いていこうかなと思います。
第一に感じた、言わなくてはならないこと。やはりこの文章非常に読みづらいです。家に帰って何度読み返しても、最後まで読みづらかった。これは研究会でも言われていたことですが、音読そのものの難しさはさることながら、「主観的な立場から」の文体がとても読みにくいのです。
頭の中で音読している時は完璧に読めるんですよね。とても自然に、つっかえることもなく。しかし、実際に声に出して読み上げを始めた途端に、何とも言えない読みづらさが襲ってくるのです。これは何なのだろう。
何度も声に出して読み返しているうちに気づいたのは、どうやらこの読みづらさは句読点の位置によるものかもしれないということでした。
一度全文を暗記して読み上げた時の録音を聞いてみると、区切れるポイントが結構元の文と違ったんですよね。もともと句読点があった位置はさらりと流れていて、逆に何も書かれていなかった位置では一時停止をしている。
もしこの暗記したときの区切れ方がごく自然な自分のリズムなのだとしたら、文字として書かれている句読点はそのリズムからずれてしまっているのです。だから息継ぎもやりづらいし、間も、声の強調部分もなんとなく掴みづらい。研究会で出たような、語彙やシチュエーションがかけ離れていることももちろん理由として大きいと思いますが、個人的には句読点の位置に一番ペースを乱されている感じがしました。
少し脱線しますが、句読点は文字上ではただ区切れるだけの記号であるものの、読み上げるとなるとどれくらいの間区切れるかという別の問題も生まれてきます。文字の上では表現されない時間をどれくらい取るべきなのか、という問題ですね。暗記せずに文字を目で追いかけながら読んでいた時は、なかなか思い切った間の取り方に踏み切れなかったので、もしかしたら文字の上で表現できる句読点による間には時間的な限界があるのかもしれません。
そういえば研究会では、読み方について、キャラクターを想定して読んでいたところからだんだん自分自身に寄って行ったという方も少なくなかったと思います。自分は完全にキャラクターを演じる気持ち止まりになってしまったので、なかなかその近づけ方がわからなかったのですが、暗記した際には少しだけ理解できたような気がしました。研究会の時点で自分に寄せていくことができていた方は、無意識のうちにリズムを引き寄せることができていたのかもしれませんね…?(こういうことを考えながら何度も読んでいだら、そんなものはないのに「これが正解だ!」みたいな読み方を固めようとしてしまう自分がいて、色々な読み方を試すことにかなり難儀しています。)私からは以上です。次回も楽しみです!

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こんにちは、4年の永石真理愛です!
今学期からやーっっと対面での研究会が始まり、そうそう、この刺激〜!と一年生以来のフレッシュな気持ちとともに残り1年の大学生活がスタートしました。一度失って気づくじゃないけど、ここ2年のオンライン授業生活を経て、対面授業のありがたさを改めて実感し、一年生の時よりもなんだか、学ぼう!というやる気に満ち溢れてる気がします(笑)
さてさて。今回は、「主観的な立場から」というタイトルがつけられた1つの文体を、何度も繰り返し声に出して読むということをしました。
同じ一つの文章なのに、読み方は三者三様で、なぜ今その読み方になったのかを一人一人聞いていくと、この文体への個々の解釈の違いが見えてきました。
誰かに話しているていで読む人もいれば、独り言として読む人もいたり、独り言でも、怒っていると捉える人もいれば、呆れていると捉えている人もいたり。
このようなさまざまな解釈が反映された他の人の朗読を聞いたり、自分も読み重ねる度に、この文体に新たなストーリーやキャラが想起され、それに伴って読み方も更新されていきました。
全体議論の中で、一つ興味深かったのが、読み重ねていくうちに段々と最初に想定したキャラが自分に寄ってきたと感じる人が何人もいたことです。
私にはキャラが段々と自分に寄ってきたという感覚はありませんでした。
というのも、言葉も口調も、普段の自分とは全く異なっており、読み重ねていくうちに多少は読み方に変化が生まれても、最後までこの文体が自分に馴染むことはありませんでした。他人によって語られている経験を、自分の語りではなく、あくまでセリフとして言葉が流れていくような感覚でした。
しかしおそらく、キャラが自分に寄ってきた人にとっても、ここで使われている言い回しや口調は馴染みがないはずで、それなのになぜ想定したキャラが自分へと近づいてくる感覚が生まれたのだろうと不思議に思っているうちにふと、「二人称的」という言葉が頭に浮かびました。
私は口調や言い回しへの馴染みの無さをうまく消化できず、この文体と一定の距離を保ちながらの読んでいました。一方で、キャラが寄ってくるということは、読み手と文体との距離が近づき、自分ごととしてこの文体を消化している。
この文体への関わり方の違いが、「二人称的」という言葉を私の中で想起させました。
私はこの文体を三人称的な立場から距離をとって読んでいたのに対し、キャラが自分に寄ってきたと感じた人たちは、この文体に二人称的な関わっているのでは、との考えが生まれました。
そして、この二人称的という言葉の想起は、当初の諏訪先生からのお題にも新たな解釈をもたらしました。当初のお題は、
『文体練習』に浸るもよし浴びるもよし絡まるのもよし戯れるもよし! 思う存分好きなように接してきてください。
というものでした。
最初読んだ時は、はて…浸るとは…?浴びるとは…?という感じでしたが、今回の議論を通して、この動詞だらけのお題は、もしかすると『文体練習』に二人称的に関わってみろ!ということ示唆しているのでは!?と感じました。
この文体の中で繰り広げられている出来事を他人事として見てしまっている私はおそらく、まだこの文体に二人称的に関われていないのだろうと思います。
果たしてどのように二人称な関わりは可能なのか、模索しながら来週も取り組みたいと思います!
それでは、また!

今回のブログは以上になります!
次回も楽しみです!

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