俺が研究にしてやる。

慶應義塾大学諏訪正樹研究会の、メタ認知な日々。

早いもので今学期も最終回!
今回は酒井&吉田の新規性コンビが担当させていただきます〜!

<酒井>

早いもので先週の721日で春学期の研究会が終わりました。オンライン授業に初めは戸惑った春学期ですが何とか乗り越え、謎の達成感があります(笑)

今学期最後のブログなので、今学期を振り返りながら感じたこと・考えたことを纏めたいと思います。今学期は大きく分けて概念理解・タグ付け・写真日記・住み慣れた街をアート作品で表現、その4つに分けられます。吉田くんとの振り返りの中で、その4つの取り組みの根底には「一人称視点」があるのではないかと気付きました。概念を一人称で考えて議論して肚落ちさせる・一人称視点から見た世界に付けるタグ・写真に入り込み一人称視点での記述・一人称視点から見た街、このように取り組みの根底には「一人称視点」がありました。研究会の時間で数回散策をしたのですが、諏訪先生はしきりに先入観を持つなとおっしゃっていました。それは先入観を持つことで「一人称視点」が阻害されるからではないでしょうか。一人称視点を阻害せずにその場に身を置いて、一人称視点で感じたことを緻密に語る事で目新しい視点が獲得できると思います。その目新しい視点の獲得は、ひいては世界への身体の感じ方の変化に繋がります。そしてその結果、諏訪研の目指す「豊かな感性を持つからだ」を育むことに繋がっていくんだと思います。今回は研究会での取り組みでしたが、いつでもそして何事にも「一人称視点」を持って世界に身を置く事はできます。秋学期まで約2ヶ月という長い夏休みに入りますが「一人称視点」を持つことを忘れずに日々過ごし「豊かな感性を持つからだ」を育んでいければと思います。 


<吉田>


こんにちは。

三田の授業をとったらあまりのエグさに泣きそうになっている吉田です。

文学部の授業は専攻によってキツさが大きく異なるようです。履修には事前情報が必要不可欠かも。


さて、本日も先週に引き続き、住んでいるまちの新しい側面を表す作品についてのプレゼンテーションです。

一言で作品と言っても、本当に色々な形の作品があり、毎回驚きが止まりません。街を見る目も、批評する観点も、人が違えば全く違うということを痛感させられます。

自分は街に隠された暗渠をTシャツにプリントし、「川が道の下にある!」という発見をこれを着て歩くことで街の人にアピールしようか、なんて思いで作品を制作しました。


アートには色々な種類がありますが、そこに作り手の強い個性や感情が含まれていることが、一つアートとデザインを分ける節目になるかと思い、あえてみんなが挑戦しないであろうTシャツに手を出して見たという経緯がありました。自分なりの表現ができ、それを受け止めてもらうという経験は尊いものです。



本日の研究会を持って諏訪研春学期の活動が終了しました。

オンラインの開催ではありましたが、だからこそ普段目を向けない地元を多面的に見れるといういう意味で有意義な学期だったと思います。

先に酒井くんが「一人称視点」の話を出していてくれていますが、まさにこの学期は「意識のベクトルを自分に向け続ける」時間だったと思います。


ふとすると「他人にいかによく見られるか」ということに、我々は意識が向きがちです。それはそれで自分を高める上で必要なことではありますが、

時としてそれは「本当の自分」を見失ってしまうことにつながります。


「身体と環境にむきあい、身体の固有性や個人が置かれている状況に依拠した「多様なる知の姿」を丹念に記述し、自分なりに意味のある知をデザインする実践研究を行うこと。」

この諏訪研の理念に立ち返るとき、「丹念に記述」という言葉が、今回の作品作り、それに至るまでのタグ生成や写真日記にはぴったりなのではと感じます。


人の心という流動的かつ有機的な存在を捉えようとするとき、自分の心の声に批判的に向き合うこと、それが「自分なりに意味のある知をデザインする」ことにつながるんじゃないかと、この学期を通して考えていました。


秋学期もオンラインになることが確定し、それはそれで残念でもありますが、また何か気づきがあるのだろうと思いつつ、しっかりと取り組んで行ければと思いますので、皆様も体調にはお気をつけて。秋に出会うかもしれない新規生のみなさんにも期待しています! 良い夏休みを~!

 

梅雨も明け、夏らしい暑さがやってきています。コロナ対策でマスクをしつつも熱中症にも気を付けなければなりません。過酷な夏になりそうです。

今回は、橋本と西村が担当させていただきます!

 

<橋本>

今回は、「住み慣れたまちを歩き、目新しい側面を拾い集め、自分なりに分析し、作品をつくる」というワークの発表会第1週目でした。私は前回の研究会を休んだこともあり、第2週目になりました。私自身、何か発見や考えたことを記述してデータとして残したりすることは良く行うのですが、そのデータを元に「作品をつくる、作品として表現する」ことは大の苦手分野ですので、今回のみんなの発表を参考にしようと思い聞いていました。

 

1週目のみんなの発表は、とても興味深く、多種多様でした。小説を書く人、料理で表現する人、動画を作った人、もはや研究では?と思うような人もいました。今回、全員の発表を聞いて、自分の感じた街への感覚が、色濃く反映されるような作品をつくりたいな、と思いました。まずは何も考えずに、街のデータを集め、そこに新しい側面を見出し、その後、自分がどのようにそれを作品として表現するのか、という過程が重要なのでしょう。

また、こーまと木崎とのグループワークでも議論になりましたが、「作品」とは、私がずっと思っていたような、狭い定義ではないと皆さんの発表を見て感じました。私は、作品=形のあるもの、という捉え方をしていましたが、今回、ハザードマップをつくる人、動画、隆仁さんの不器用仕事など、で、作品の定義を広げることができました。極論は、自分が感じたことを表現できていれば、それがどんな形、表現であろうと、作品と呼べるのだと思います。だからこそ、自分の身体が感じた想いが、作品と密接に結びついていることがポイントでしょう。あまり狭い考え、捉え方をせずに、自分が集めた生データをもとに、自由に作品づくりしたいです。

 

また、普段であったら自分の体感を生データとして記述しておくところで止まっている私が、作品をつくる、体感を表現する、という行為を通して、どのように自分の体感が変化するのかはとても気になるところではあります。実際に、上羅は、コラージュを作ってみて、「Uber Eatをやりたくなった、小説を書いてみたくなった」と言っていたり、「意外と都会な感じなんだね」と諏訪先生にコメントされて、「確かに」と改めて自分の暗黙知を掘り下げられていたような風に見受けられました。作品を発表し、みなさんからの質問を受けることで、また新たに自分の暗黙知を掘り下げることができる気がします。

 

 <西村>

こんにちは。庭のししとうが豊作となり大喜びで素揚げにした西村です。やっぱり自分で育てると何倍も美味い!!今週は住み慣れたまち歩きを通じてつくった作品の発表第1週目でした。
僕は2週目に発表なのですが、正直まだどのように街を歩きそれを形にしたらいいのかあまり見えていませんでした。
それに対して1週目の作品は、着眼点も表現方法も、自分が考え付きもしないような作品がたくさんあってとても刺激になりました。そんな中、街の恐怖度を様々な観点から数値化してハザードマップを作るというまるさんの発表の時に、「これ卒プロの研究になりそうだね。」という話がありました。それを聞いた時、ふと「作品と研究の違いってなんだ?」という疑問が浮かびました。「今まで感じた(解釈した、知覚した)ことのない新たな側面を拾い集め、それらを基に何か形あるものをつくる」という営みは、アートと定義されていながらも、同時に研究という行為にも当てはまるのではないかと思いました。
振り返りの時にそれを話したところ、「感じた側面や分析結果を例えば単にA4何枚かで表すのは研究ではあるかもしれないけれど作品とは言えず、それらを一旦自分の身体や他者の視点(ピンタレストなど)を通した上で表現した時に、それは作品になるのではないか」という話になりかなり腑に落ちたと同時に、ピンタレストから集めた画像を使ったコラージュの意義を理解したような気がしました。
「手の画像とかであればピンタレストではなく自分で撮影すればいいのではないか」という三好さんの指摘について、僕自身同じような疑問を抱いていました。けれどこの振り返りを経て、ピンタレストで画像を集める意味というのはコラージュの素材を探すことではなく、自分が持つある言葉の認識と他者が持つそれには少なからず差があるということに自覚的になることで自分の言葉の解釈や感性を開拓することにある、ということが実感を伴った理解になりました。
同時に、今回の課題における「作品」とは、それを見て意味が伝わるということが必ずしも前提ではないのではないかというようにも思いました。
前々回に先生がおっしゃっていたように、作品を作る前に「何か現したいもの」をはっきりと準備するのではなく、作品を作りながらさらにプラスアルファ新しい側面を見出しながら創作していくということが要であり、作品の意図当てゲームというわけではないということです。
もちろんどのような形に表すかという点については自身の一人称的経験に基づく独自性とその街ならではという視点がやはり重要なのですが、それらはボトムアップ的に構成されていくものであり、その過程のメタ認知が成された時、今学期の学びの集大成としての意味を持つのだと思います。
その意味では個人的に今までの創作がかなりトップダウンに偏りがちだったこともあり、今回の課題がいまいち掴めていなかったのだろうなと思いました。
ここまでなんとなくわかった気になっていますがとはいえまだ自分の体を通した知にはなっていません。そういう意味では2週目の発表で良かったような気もします。どんな作品になるか最後まで自分でもよくわかりませんが、その分からなさを楽しみながらつくっていきたいと思います。

こんにちは。
あれ、梅雨ってこんなに長かったっけ、と太陽が恋しい気分です。

今回は、新規生の宮島と小川が担当します!


〈小川〉

今回の研究会では「住み慣れたまちを歩き、目新しい側面を拾い集め、自分なりに分析し、作品をつくる」というお題が与えられました。研究会の時間には、各々が自分のまちを歩き、目新しいと感じた物事を共有しながら、どんな作品をつくっていこうかと考えていました。そして、12週間の間に、自分なりで作品をつくり、発表するという内容です。
私はこの、「目新しい側面」「作品をつくる」というところを少し考えたいと思います。

私は産まれてから約21年間同じ場所で暮らしています。そのため、歩けば歩くほど見慣れた景色に飽きてくるし、逆に探そうと思ってもなんとなく予想のついている「目新しい側面」を意図的につくりあげてしまって、もはや目新しくもなんともない側面になってしまいました。そしてさらに、作品をつくらねばなりません。何をつくろうかと考えながらまちを歩いていても、やっぱりありきたりで「目新しい側面」を表す作品は思いつきませんでした。

ここで大切なのは、目新しい側面というのは「無名の質」であるということと、作品を通じて「つくりながらつくられる」ということだと思います。
「無名の質」というのは、人//建物などに在り、もっともいきいきと生命に満ち溢れるような質ですが、客観的かつ正確に名付けることはできません。名付けようとしてもその質が十分にあらわしきることはできず、無理やり名付けてしまうとその質は失われてしまいます。今回の「目新しい側面」というのも、このような類の質を探る行為なのかもしれないと私は感じています。まちにある質感というのは、その質感が豊かであればあるほど、そう簡単にヒョイと拾い上げたり〇〇だと名付けたりすることはできないはずです。

だからこそ、早々に名付けようとせず、まちの豊かな無名の質をどうにか理解できないか、表せないか、と探っていく姿勢が必要なのではないかと思います。
また、「つくりながらつくられる」というのは、作品のつくり手も、作品をつくる中でつくられていくということです。つくり手は一方的に作品をつくっているのではなく、作品によってなんらかの気づきを得たり、見方が変わったりしながら、つくり手自身も作品につくられていきます。今回の作品においても、自分が見つけた〇〇という側面を表現するために作品をつくるのではなく、自分が体感した「無名の質」を探るための道具として作品をつくり、つくり手がその質についての理解や気づきを得られるようにしなければなりません。


〈宮島〉

今週の研究会では、最終課題のアート活動に向けて、「住み慣れたまちを歩き、目新しい側面を拾い集め」るフィールドワークを行い、そのあとグループに分かれて発見したことを共有しました。

僕は今住んでいる街には3年ほど前に引っ越してきたばかりなので、「住み慣れた」と言って良いのか微妙ではありますが、しかし改めてまちを歩き回っていると、たくさんの新しい発見がありました。

このワークをするまでは、私はこの街が、いかにも管理・計算され尽くした、アスファルトと直線の道路だけで構成された都市のように思えていたのですが、実際に街を練り歩いてみると全くそんなことはなくて、歩くと息切れしてしまうほど高低差は激しく、行き止まりかと錯覚するほど曲がりくねった道も多く、さらには道路の舗装も度重なる区画整理などでつぎはぎだらけであり、建造物も古いものと新しいものとが乱立しているということに気がつきました。特に、私はもともと田舎出身なこともあって、都会では土の匂いがあまりしないなあ、なんてことを思っていたのですが、今回のフィールドワークが湿気の多い中でやったこともあり、自分の今住んでいる周りでは実は意外と(舗装されていない)土の地面が多いなということ、そして土や草の匂いを感じられるなと思い、なんだか嬉しくなりました。

今回のフィールドワークで特に驚いた発見がありました。新たな側面を発見するには、トップダウンの先入観をできるだけ無くす必要がある、ということで、今回のフィールドワークでは地図を使わず、目的地も設定せずに単純に自分の興味が向かう方へひたすら歩き回っていたのですが、そうこうしている道に迷ってしまいました。時間には余裕があったので適当に歩き続けていると、自分が今まで見たこともない川のほとりにたどり着きました。川の流れや周りの建物は、私が住んでいる場所の近くにあるものと似てはいたのですが、私はそれを「似て非なるもの」として認識しました。しかし、その川沿いにずっと歩いていくと、やがて自分の住んでいるマンションが見えてきたのです。その時、私の身体中に鳥肌がたちました。私はその川を初めて発見したものと思い込んでいたのですが、実際には、その川は普段から散歩道としてよく歩いている道からいつも見ている川で、それまで歩いていた道も、いつも使っている道だったのです。「知らない道」を歩いていたはずなのに、それが突如として「知っている道」に変わってしまったときの不思議な感覚は忘れられません。恐怖と言っても良いかもしれません。なぜこんな現象が起こったのか考えてみると、いつもその道を使うときは、必ずマンションの方から川の周りをぐるっと一周するように散歩しているのですが、今回はマンションとは反対側からいきなりその散歩道に入っていったためだったのかなと思います。しかし、この体験は非常にショックでした。幼い頃から私は道に迷うことほとんどなく、観光地などでも一度行った場所には二度と迷うことなく行けるくらいには、方向感覚に自信がありました。今回の経験で、自分の認識、ないしは人間の認識というのは「分かったつもりになっているから分かっているだけ」くらいのものなのだろうか、と思いました。自分が特定の場所や物事に対して理解できている、と思っているから「理解」は生まれているのであって、理解できているという感覚、自信が無ければ、どんなものでも未知の存在として認識してしまうのではないかな、とすら感じます。特に私が今住んでいる東京の住宅地のように、目立ったランドマークが認識しづらく、道や区画、高低差などの要素が複雑に絡み合っている場所では、どの場所でも似たような場所として認識できてしまうし、だからこそ逆にどの場所も自分が理解できている場所なのか否かを判断しづらいので今回のような現象が起こったのかな、と思いました。

これを逆に考えれば、どんなに自分が研究し尽くした、味わい尽くしたと思っているものでも、見方や手法を一つでも変えることができれば、その新たな側面を見出せるかもしれない、ということかもしれません。もちろん、世の中の全てにこの法則を当てはめることは必要でないし不可能でもあると思いますが、研究対象について多角的に観察する必要があるときには、このことは忘れてはならないなと思います。

このページのトップヘ