こんにちは、将人です!
年の瀬となってしまいましたね
20日の研究会で誕生日を迎えたまり沙と共に年内最後のブログをお届けしたいと思います!(まりさおめでとうーJ!!)
先週の研究会では前回の議論を諏訪先生に共有しながら、より内容を深める回となりました。その上で、①村上春樹の「小説家は例えばを繰り返して語る、別の文脈の置き換えて語ること」ということばの意味をひらき、各自が精緻化に挑戦するというものと、②実験真理学で語られている「ゆらぎ」を踏まえ、マイクロスリップ、試行錯誤との関係性(相違点)について議論をしました。
前回でも困難を極めた議論内容でしたが、さらに絡まってはほぐれ、また絡まり・・・という時間に。各自がグループワークで話し合い、最終参加である卒論生のみ最後に発表する回となりました。
「たとえばを繰り返して語る。」
これってどういうこと?みなさんはどのように考えますかね。
村上春樹によると「賢い人」は、伝えたい事柄を正確にスパーンと言葉で伝えられてしまう。ただ、小説家みたいな「どんくさい人」は【例えば】を何度も使い、伝えたい事柄を別の文脈に繰り返し置き換えて語るのだそう。
僕の高校時代、とても話が上手な友達「Sくん」がいました。
Sくんの話は何と言っても面白いし、難しい事柄でもするすると自分の中に入ってくるのです。一方僕は話がド下手でいつも感心してばかり。ただ、それだけでは悔しいので彼の言動をひたすら観察し続けました(ストーカーですね笑)。そうすると、一つの解が見えたのです。
話し上手なSくんの得意技。それは「例え話」でした。
毎回が秀逸of秀逸。
たとえ話を活用しながら、自分の頭の中にある「絵」と同じものを他人の頭のなかに丁寧に絵筆で描いてあげているようでした。
ところで、「例え話」の特徴とはなんでしょうか。
「人に説明する」という切り口の場合、伝えたい事柄を相手の経験や既知分野にひも付けて、相手にとってそれを「じぶんごと」に変換してあげることだ、と僕は思います。だからわかりやすい。想像しやすい。そこにはある種、身体性があるような気がします。
Sくんにしても、「じぶんごと」にしてあげる変換が上手だったのだと思います。自分が考えたことを、相手の文脈にのっとって再現してあげていたんでしょうね。
ただ、小説家の場合。
彼らにとっての「相手」とは不特定多数です。誰に届くかもわかりません。また、自分の頭の内側のもくもくとした雲のような考えを言語というカタチにし、活字というモノに落とし込んだ時点で、様々な大切なことが失われてしまった!と感じるのかもしれません。
僕もそういう経験があります。
書けど書けど相手によってその「例え」の効力は違うし、自分の思惑もことばにする度ぽろぽろと取りこぼしてしまう。だから、何度も繰り返して繰り返して。「例えばを繰り返す」というのは、そういうことなのかもしれませんね。
「賢い人」が円周率を“π”(パイ)だと言い切ってしまうのに対し、小説家は“3.1415…”と限りなく精緻化して伝えようと延々と戦い続ける様子が、僕は目に浮かびました。(僕にしてはナイス例えなんじゃないでしょうか笑)
ということで将人からの前回の振り返り&考察でした!
後半はまりさからの1年の振り返りコメントが届いています。
まりさにとって2016年はどんな一年でしたか??
私にとって2016年は新鮮な一年でした。
SFCという新しい環境に入り、秋にはこの諏訪研にも足を踏み入れました。
今年の初めはまだ高校生だったなんて自分でも信じられないくらいです。
今年を振り返ってみると、私にとってビッグイベントといえばORFでした。実は私、ORF3年目なんです。(あれ?)高校2年生と3年生の時に、参加者としてORFを訪れていました。そして2016の3年目、私は参加者としてではなく、諏訪研究会のメンバーとして参加することができました。
参加者とどう接するか、それぞれの班が説明しやすい空間デザインとはどのようなものか、人の流れをどう利用するかなど、出展者として初めて気付くことや考えることが数多くあり、ORFが更に刺激的なイベントであると感じました。2日間、研究会についてやコンストラクティブスケッチについて語り倒し、自分のなかでも理解が深まりました。
前回は今年ラストの研究会でしたね!
同時に、4年生最後でもありました。
短い間でしたが、一緒に参加できたこと、嬉しく思っています。
次回から研究会にいらっしゃらないのが残念です。遊びにきてくれるといいなあ。
ということで、まり沙と将人がお送りしました。
みなさん、よいお年を!