その夜も芦屋や神戸の友人に電話連絡をしまくり、ようやく電話が通じました。
皆、大阪の北部地域を除き、地震翌日から通常生活を送っていること、阪急西宮北口駅から大阪・梅田駅に出られることを知りませんでした。幸い彼らは大阪におばあちゃんや親戚・友人がいてたから、そこへ行くことを薦めました。

元彼の実家は東灘区でも芦屋市との境界線沿いの山の手だったから家屋倒壊等の被害はありませんでしたが、私の兄の会社でいちばん仲良しの同僚宅は東灘区青木で、しかも木造文化住宅。

その兄の同僚は兄の家にしばらく住んでいましたが、彼の話は悲惨でした。
彼の家族が住んでいた木造文化住宅は、ぺっちゃんこにひしゃげてしまったらしい。2階に住んでいた彼の家族は皆無事でしたが、1階の人の声が聞こえているけれど、いくらがんばっても人力では住宅の瓦礫をどかすことができず、ひしゃげた1階の人の声の主に泣いて謝ったらしい。そのうち声が聞こえなくなったそうです。泣きながら、震えながら、語ってくれました。

もうひとりの兄の元同僚は、職場を辞めてそんなにたっていない頃で、取りあえずトラックの運転手になっていました。
彼は何度となくテレビニュース画像で映された、阪神高速が崩れトラックが宙ぶらりになった、あのトラックのすぐ後ろのトラックだったそうです。
「突然海の上みたいに揺れて、高速が無くなってたし、理解でけへんかった。目の前のトラックも半分消えてるし…」と言ってました。


地震から1ヶ月後ぐらいに電車と代替バスを乗り継いで三宮へ行くと、まるで原爆投下後のようでした。ガス管が破裂しているから街中ガス臭い。粉塵が凄いから数メートル先の景色が見えず、また人々は粉塵防止用にマスクやゴーグルを着けていました。
ゴーストタウン。
別の惑星。
一面、望月峰太郎の漫画『ドラゴンヘッド』の世界。
道も道らしくなく、景色が全く変わってしまったから、よく知っている街なのに迷いそうでした。


それから半年。
素晴らしきマンパワーによって、徐々に元通りに戻ってきた街々。
三宮~元町間にある神戸で有名な繁華街・センター街には『がんばろう神戸』の垂れ幕がずらり。

「なんや。今まで軟派で個人主義な街やったのに、硬派で体育会系になったなぁ。」
と元彼に言うと、お腹を抱えて大爆笑。
「ほんまやなぁ!カオちゃんの言う通りや!!」