2012年02月

2012年02月28日

消費税で忘れられがちな「直間比率」の論点

 アメリカの大統領選挙で減税、特に法人税の減税を巡る議論が一つの焦点になっているようです。

 その一方、我が国においては消費税の増税議論ばかりで、他の論点がおざなりになってしまっている印象を受けます。このところ消費税の議論が盛んにされていますが、実は法人税については復興の名目で昨年決定された減税は事実上先送りされてしまいました。また、所得税についても増税が決められようとしています。

 以前このブログでも指摘させていただきましたが、法人税所得税増税の理由とされている復興に必要とされる資金は当面十数兆円。一方、例えば平成19年度と21年度を比較すると、わずか2年の違いにも関わらず、法人税・所得税の税収は10兆円以上落ち込んでしまっています。このことは、景気状況を数年前のレベルに回復させることができれば、それだけで、復興のための費用は十分にまかなうことができる、そして法人税や所得税の増税は必要ないということに他なりません。にもかかわらず復興増税はうやむやのうちに決まってしまいました。

 このことでもわかるように、消費税にあまりにも焦点が当たりすぎていて、本当に必要な議論が税制全体についてされていないのが今の実態です。

 現在の社会は、納税者たる企業や個人が納税先の国を選ぶ時代です。そんな中、納税者の海外への流出を避けるために、さらにはそもそも厳しい国際競争の中で日本企業が勝ち残るための支援を実施するためには、可能な限り所得税や法人税といった直接税についての減税を進めることが必要です。経済成長しなければ増税しても増収しないといった事態にもなりかねません。

 また、そもそも、少子化・高齢化にともなって、労働人口の全人口に占める比率が減少してきている今の社会構造を考えれば、いわゆる直間比率をどうするかという議論も必要です。いつまでも働いている人だけに(法人税・所得税というかたちで)過重な負担を強いていていいのか。必要な負担をどの年齢層(あるいは「働いている人」とその他と)で配分するのが最も「公平」なのかという論点は、所得層別にどのように負担を配分するのが「公平」なのかという議論と同じくらい重要なものです。

 本来であれば消費税の問題は、この社会構造の変化に伴う直間比率の組み替えの一環で議論されねばならない問題です。

 「消費税を増税すべきかどうか」という問題だけ取り出せば、もちろん誰でも税率は低い方がいいに決まっている以上、「必要なサービスのファイナンスをしつつ、金利等も勘案した将来の負担を最小限に抑えるためにはいつどのようなかたちで消費税増税したらいいのか」という点を巡る、技術的な議論となります。増税自体は他に選択肢がない「現実」であって、その中で可能な限り増税幅を抑えるという技術論です。決して価値観の「選択」ではありません。一方、直間比率の問題は、負担の割合をどこにどのくらい持っていくのが「公正」で「公平」なのかという価値観を巡る「選択」の問題でもあります。本来これこそ政治が議論し結論を出さねばならない問題です。

 今の増税論議ではあまりにこの観点が抜け落ちてしまっている、今後の日本のあり方を考えるとき、そのことが非常に危惧されます。



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2012年02月21日

ニセモノの「国から地方へ」

 消費税を巡る議論が続いています。

 確かに金利や高齢化の問題を考えれば、消費税の増税は必要最小限の範囲内でやむを得ないと思いますが、国民に負担を強いる以上は徹底的な行政改革が必要なのは言うまでもありません。今の公務員400万人・政治家4万人体制にメスを入れることが最優先課題の一つであることは明らかです。

 さて、今日はそのうちの「政治家4万人」の方について若干書かせていただきたいと思います。

 国会議員の削減については、参議院を廃止し一院制にするなどいくつかの提案が出ていますし、議論もされているところです。将来道州制に移行し国の権限の多くを地方に移管することができた暁には、州ごとの調整をする機能を担う院が国会に必要になりますが、それまでの間は衆参両院が存在する異議はあまりなく、私も一院制に移行した方が良いと考えています。

 一方で、政治家が4万人近くいるうちの、その多くがいわゆる地方議員です。しかもその地域ごとの偏在が激しい実態も否定できません。例えば私の選挙区で言えば、人口が32万人の港北区の市会議員の定数は8人、20万人の都筑区では4人となっています。4万人から5万人に一人です。その一方で破綻する前の夕張市では人口が一万人強にも関わらず18人もの市議会議員がいました。これは極端な例ですが、議員の数が多すぎる自治体がまだまだあちこちにあるのが今の状況です。

 地方議員の定数はこれまで地方自治法の中で上限が規定されていました。人口ごとにその上限人数が規定され、それ以下の範囲で条例で定めるとなっていました。市議会で言えば、人口5万人未満の場合には26名が上限といった規定が定められていました。そして、例えば平成15年の法改正で従来の30人から26人に改められるなど、地方議員の数を減らす方向に進んできたのがこれまでの流れでした。市町村合併も進められた結果、地方議員の数も、4万人というと非常に多い気がしますが、10年前には6万人近くいたわけですから、その当時よりも大幅に減ってきたわけです。

 しかし、実は政権交代以降こうした削減の流れと逆行する動きが顕著になってきています。

 例えば、この地方議員の定数を規定する地方自治法においても、地方分権の名の下に、この上限が取り払われてしまったのです。同じようなことは、公務員人件費の問題で、今回の改革案では国家公務員だけが対象で地方公務員は最終的にのぞかれてしまったことにも現れています。

 地方分権という名のもとに事実上の行政の焼け太りが野放しになっている、この状況には怒りを覚えざるを得ません。

 よく改革の方向性ということで、「官から民」「国から地方」ということが言われますが、この二つが同時に行われるなら問題ありませんが、「国から地方」が「官から民」「小さな政府へ」という動きを事実上骨抜きにして行政の焼け太りを野放しにする方便として使われているケースが特に最近目立っています。

 今本当に必要とされている地方分権はそんなニセモノの「国から地方へ」ではないはずです。地方分権とは、国の意思決定の仕組みを徹底的に改革して、二重行政や三重行政といった無駄をなくす、より地域の実情に根ざした意思決定ができる政治・行政に変革することでなくてはなりません。

 今の我が国の財政状況・経済状況は、政治が既得権保護に一生懸命になるような甘いものではありません。消費税問題に向き合うためにも、この点を明確にし、厳しい行財政改革・公務員改革・政治改革を断行せねばなりません。こうした痛みを伴うかもしれない真剣な改革こそ、若い世代の政治家の大きな使命だと私は確信しています。


suzuki_keisuke at 16:42トラックバック(0) 

2012年02月13日

東シナ海の日中境界問題について

 最近再び東シナ海での中国によるガス田の採掘の問題が取り上げられています。

 今回話題となっているのは「樫」(中国名:天外天)というガス田。2008年6月に日中間で政治合意した文書では、「4.双方は、東シナ海のその他の海域における共同開発をできるだけ早く実現するため、継続して協議を行う」とされている「その他の海域」に含まれています。

 そのため、我が国では、明確な合意違反なのだからきちんとした対抗措置を打ち出すべきだといった議論がある一方で今の政治は非常に動きが鈍い感じを受けますし、メディアも今ひとつ積極的ではない印象を受けます。

 おそらくその理由は、この「樫」が以前議論の中心となっていた「白樺」と異なり、東シナ海における我が国の主張する日中中間線よりも中国側に明確に位置しており、油層についても白樺のように我が国の排他的経済水域(EEZ)にも広がっているといった見解もさほどないことによるものと思われます。

 しかしここで一つ、日中の東シナ海における境界問題で明確にしておかねばならないポイントがあります。政治家、行政、メディアを通じて認識を共有せねばならないものです。

 私も議員当時は任期を通じて外務委員会の委員でしたので、ずっとこの問題に取り組んできましたが、平成21年5月21日の衆議院外務委員会(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/171/0005/17105220005011a.html)における私の質疑に対する外務省の答弁で明確にされている点です。

 それは「(委員御指摘のとおり、)我が国としましては、日中間においては、今、境界画定がなされていないという現状におきまして、国連海洋法条約、この関連諸規定を解釈しますれば、日本側からいいますと領海基線から二百海里までの大陸棚及びその排他的経済水域に対する権限を有している」という点です。

 今なぜこの海域で、いろいろとここまで日本と中国の間でもめているかと言えば、通例領土から200海里の範囲で認められているEEZの範囲が、東シナ海においては両国間の距離が200海里に満たないので、重なってしまっているからです。そして、そこで折り合いを両国で見つけねばならないのですが、我が国が国際的な通例である両国の中間で線をひくという中間線を主張している一方(実は中国も南シナ海でベトナムに対しては「国際的な通例」ということで中間線を主張している)、中国側は、大陸棚は陸地の延長であるから、大陸棚が続く範囲、つまり沖縄トラフまでが中国のEEZだという主張をしていて合意ができていない、というのが今の状況です。

 そうした中で、中国側は、既成事実の積み上げの目的もあって中間線よりも日本側の海域を係争海域として、調査を行ったり様々な行動をとっています。その一連の流れの中にあるのが今回の東シナ海のガス田問題です。

 本来であれば外務省が国会で私への答弁で明らかにしたように、日中間で合意ができていない以上は、我が国が我が国の領土から200海里のEEZの権利を放棄していないわけで、我が国にとっての「係争海域」は当然中国が盛んに主張しているような日中中間線の日本側ではなく中間線よりも中国側の海域になるわけです。どうもここのところの民主党政権や政府の対応を見ていると、我が国までも日中中間線よりも日本側が係争海域と捉え、それよりも中国側の海域については権利の主張を控えているような気がしてなりません。

 例えば今回の「樫」ガス田などは実はその係争海域の中にあるわけです。従って、境界の画定合意ができていない段階では、我が国の排他的な権利を主張すべきものであり、開発を進める権利も(反古にされつつある日中合意で自発的に留保してはいますが)存在しています。そうした主張をキチンと国際社会に対しても行いつつ、係争中の海域での調査、あるいは場合によっては試掘などの具体的な行動も中国側の中間線への態度を見極めつつとっていくことが今こそ必要とされています。

 またもし、政権や政府がこうした態度を中国への過剰な配慮の結果とれていないとすれば、中国海軍の急激な軍拡・近代化も明らかになっている状況では、この東シナ海の境界問題は大きな禍根を将来に残しかねないわけですから、我々一人一人が声を大にしてこうした要求をしていかねばなりません。
 
 今年は中国でトップリーダーの交代が予定されています。最初が肝心です。はじめの対応で配慮しすぎれば、おそらくそれ以上に強硬な態度を中国側は今後とってくることになる可能性が高い。それが歴史の教訓でもあります。

suzuki_keisuke at 14:48トラックバック(0) 

2012年02月09日

保守派、ということ

 アメリカ大統領選の共和党の候補者選びが進んでいます。優位に戦いを進めているロムニー氏に対して保守派の候補が善戦しているというのが構図のようです。

 ここのところ、アメリカの選挙の度に言われているのがティーパーティーと言われる保守派の強い影響力。しかしここにジレンマがあるとも言われています。強硬な保守派に配慮しなければ共和党の大統領候補としての指名を受けることはできないが、その結果右に主張が振れてしまうと中道の人たちの支持を得られず本選挙で勝つことができない、というものです。

 実はそのような事態が起こっているのはアメリカだけではありません。多くの国において、もちろん日本においても同様のことが見受けられます。

 「保守」というのは難しい言葉で、100人いれば100通りの解釈があるといってもいい言葉です。私も「日本の良き伝統をしっかりと受け継いでいい日本を創る」ことが政治の柱の一つであり、お前は保守かと言われれば間違いなく保守だと答えます。しかし、保守の中には、もちろんそれは保守に限りませんが、非常に排他的な傾向を持つ人がいるのも事実です。自分の中の「保守」に少しでも合わない人を「あの人は保守ではない」と非難したり、あるいは「○○はけしからん」という感じで。そしておそらくそれは我が国を前に進めることにはつながりません。

 政治の根幹にある思想や信念は断固たるものでなくてはなりませんが、その一方で決して排他的なものであるべきではなく、多くの人の共感を得て巻き込みながら進められねばなりません。保守という価値も、政治的な意味で使うのであれば同様です。

 非常に抽象的な話で申し訳ありませんが、5年後、10年後の我が国の、そして日本人のために最善の選択が一体何なのか、政治が一刻も早く結果を出すことを求められている中で、ふと感じたことを書かせていただいたところです。

 私なりの政治という意味での保守の解釈を書かせていただけば、それは、日本の良い伝統をしっかりと守るために、世界の中で日本が国として強い競争力を維持し国益を最大限にできるような政策を進めること、そして我が国の国土や人の安全を守ること、ではないかと思っています。もちろんこれも「私なりの」解釈に他なりませんが。

suzuki_keisuke at 17:36トラックバック(0) 

2012年02月03日

秋入学移行のインパクト

 ここ何日か、朝の駅頭活動をしていると受験生らしき小学生がちらほら通ります。母親と一緒に行く姿が多いのが「今の時代」を感じさせますが。。

 とはいえ、いまでも、いい学校に行けばいい大学に行く可能性が高くなっていい会社に入れる可能性が高くなる、というのは事実であって、家族ぐるみで一生懸命になるのもわからなくはないところでもあります。

 しかし、その「いい会社に入る」ことが、本当に充実した人生につながるのか、についてはいささか議論がある点かもしれません。

 そもそも、健康寿命自体が延びていて、また高齢化のことを考えれば、おそらく社会全体として、望めば75歳くらいまで働くことができる環境が求められていくことは容易に予想がつきます。定年の延長にはならないにしても、終身雇用のような環境で例えばホワイトカラーで50年以上同じ会社で勤め上げるというモデルは、はたして社会のダイナミズムという意味でどうなのかという気がしなくもありません。

 それに社会の活力ということを考えれば、本当の意味でその時代時代での適材適所を実現できるシステムをキチンと作っておくことが、今必要とされているのではないでしょうか。

 先日、東京大学が秋入学への移行の検討を正式に表明しました。国際競争力、それは日本人がうって出ていくのと、外国の優秀な人材が入ってくるのとの両方ですが、その強化をしていくためには非常に有効な改革だと私は思います。

 そして、実はそれに加えて、これがいわゆるgap yearつまり大学入学前なり大学の時期に1年間、学校の勉強を離れてみて色々な経験を自発的に行う、といった人間形成のチャンスの拡大につながるかもしれないという可能性を秘めています。

 一時期言われていた「ゆとり教育」は、結局「ゆるみ教育」にしかなりませんでした。なぜならつけるべきはメリハリで、教育そのもの自体を緩めることは百害あって一利無しだからです。むしろ学校教育自体はレベルを高めてその代わりgap yearを設定してonとoffを自発的に設定できる生産性の高いグローバル人材を育成する、ということのほうが本当の強い個人をつくることに直結するはずです。

 そうする中で、人や社会の評価でなく、自分の価値判断で人生を積極的にデザインできる若者が増えることは我が国の停滞を打破する切り札にもなります。

 そうした意味で今回の秋入学の試みは高く評価したいと思います。

 しかし、その一方で、今でも制度や法律という意味ではgap yearを阻害するものがほとんどないにも関わらず我が国でこうした考えが普及しないのは、大学卒業後に関わりを大きく持つ企業の硬直した雰囲気や考え方が影を落としているとも指摘されています。

 有為の人材とは何か、それを真剣に考えれば、今の様な単線型のキャリアパスが大半を占める人事体系では、右肩上がりの時代、大量生産時代には意味があったとしても、これからのフレキシビリティー・独創性・突破力が求められる時代に必要な人材を確保し育成することが難しいことは明らかです。

 またこのような社会の通例となっている単線型のキャリアパスを見直すことは、女性が出産や育児を経て再び社会に復帰できる環境をつくることや、失敗しても何度でもチャレンジできる社会環境の実現にもつながります。

 こうした教育も含めた一人一人のキャリアパス、さらにはそれに影響を与える社会の空気全体が、今回の秋入学の問題で変わるきっかけとなればと願ってやみません。

 朝の駅頭での受験生たちの姿を見ながらそんなことをふと思ったところです。


suzuki_keisuke at 13:29トラックバック(0) 
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