平成最後の夏が終わりました。
もうとっくに、と肌寒い秋田で思われてしましますが
私たちは毎年、ハイコーフェスが終わるまでが夏でした。
今はそのキラキラとした余韻の粉末で包まれている気分ですが
この粉末がなくならないうちに、と慌てて言葉を探しています。
すずらん舎のブログですが
久し振りに個人的なおはなしです。
わかる人にしかわからない話でごめんなさい。
いつもより長めですが
ハイコーフェスの進藤くんや
ハイコーフェスの渋谷くんほどではないと思うので
最後までお付き合いください。

ハイコーフェスってなに?って方もいると思うのですが
わかりやすく言うと秋田県は仙北市田沢湖で9回開催された
音楽フェスで、廃校になった潟分校を会場にしていて
旦那さんも私も毎年お手伝いさせていただいています。
ただ、何故か「音楽フェス」ではくくれない何かがあって
それが何なんだか毎年考えているのですが結局わからなくて
いつもその得体のしれないもののしっぽを掴んだくらいにして帰ります。
それぞれに、それぞれの感じ方があって
ただ、楽しかった!でももちろんそれはオーケーで大成功!なのですが
なんでこんな気持ちになるんだろう?っていう
その「何か」の答えが今年は見えるかなと迎えた最後のハイコーフェス。
少し昔のお話をすると
ハイコーフェスは7回目で終わる宣言があって
私は終わるだけの理由も勝手に感じていたし
最後かもなって思っていた中で8回目があって
そしたらその8回目(去年)がすごく楽しくて
全出演者が本当に良かったし
天気も良くて、体育館の外で音楽を聞きながら
給食のカレーと豚汁をアイちゃん(幼なじみ)と、つんつん(の子ども)
と食べている時なんてあー、幸せって本当に思って
あー、これはボーナスステージだ、これは今年で最後だな。
なんて良い最後だ、満足だ、ありがとうさようなら私のハイコーフェス。
と思っていたら9回目があるという。で、こんどこそ最終回、卒業式となって
あー、あのまま満足したままじゃ終わらせてくれないんだなと
私はできれば全ての別れが旅の別れのように、
良い旅を!とお別れして、後であぁ、あれが最後だったと思いたい。
それを「逃げるな」「向き合え」と言われているようで
最終課題だ、卒論だ、さすがだ、ハイコーフェス。と思っていました。
でも不思議なことに、本当に気持ちが穏やかで
毎年の儀式のように、ハイコーフェスの進藤くん(主催)の
演者紹介を全部読んで、ハイコーまでの日常を過ごしてきました。
あの人のあの曲が聞きたい、とか、わー、楽しみとか一切なく
雨でも台風でもなんとだっていい
私は終わった後にどんな気持ちになるかそれを確かめに行く。
これが「どうでもよくなってからの本当のハイコーフェス」かとやっとわかりました。
毎年前日に入れる人だけ、前準備に入るのですが
潟分校までの1時間半を、もらった今年の出演者CDを聞きながら
「ハイコーフェス」って何だったんだろうと考えながら向い
到着したらあれやこれやと準備して、たわいもないお喋りをして
夜にまた1時間半かけて帰る間にも、同じことを考えて
当日の朝もまた向かいながら考えて、とうとう本番迎えました。
始まると終わるしかなくて、始まったら本当にあっと言う間にフィナーレ。
もちろん当日は素晴らしくって、朝からもみじさんの涙に涙して
キャンディキャンディの思いの入りように
トムボーイズは本当に可愛くて才能に溢れていてキラキラしてて(しかも毎年ババヘラを食べてくれる超良い子)
マドベはひとりぼっちのサニーサニーさんが見つけた仲間に、ハイコーの歴史をみて
プルタタ+は神さまが下りてきたかと思ったし(アイスを食べる子どもたちは可愛いし)
デリシャのプロ感、華やかさ、年期の素晴らしさ
サニーカーウォッシュの音圧に
聞く度に響くようになる美貴子ズ
ハイコーがくれた宝物の音楽のひとつ、キャメルさん。(やっぱりすごかった。ずるい、勝ち逃げだ。)
もうひとつの宝物、奇跡。平井正也BAND(誰が何と言おうと、私はマジックバスが永遠に好きだ。告別式で流してほしい。)
錯乱前戦が、私達の感傷をぶちこわしに来てくれて
レテパがとどめを打ってくれた。
さあ、何だったんだ?と確かめるはずのものが
それはそれは不確かで、やっぱり帰り道は同じ様に
「なんだったんだろうか」と。帰って泥のように眠り
起きてお義母さんの作ってくれた朝ごはんを食べ
ぼやぼやして午前が終わりお昼ご飯を食べ
夕飯の芋の子汁と炊き込みご飯を作りました。
そんな中で斉藤キャメルさんの
「スタッフのみんなも、何かを信じてやってきた」
「それが何なのか、仲間なのか音楽なのかわからないけれどとにかく何かを信じて続けてきた」
ってような言葉があって、それがすごく附に落ちたんです。
「そうだ、私はハイコーフェスを絶対的に信じていた。それは人なのか、音楽なのか
それはわからない。でも絶対的に、その一日は奇跡になる。」
なんでこんなに愛されてるのか。予算だってキャパだって限られたもので
運営スタッフだってみんな素人。ただ、みんな自分のできることを最大限に差し出している。
しかも、ボランティアですらない、入場料を払った上でスタッフをしている。
それって、もの凄くないですか?
でも、自分の最大限を差し出すぐらいの何かはハイコーフェスにはあって
個々の最大限で、あの会場は作られる。
それに私も、そして来てくれた人、出てくれたも感動するんだと思う。
じゃあ一体何を信じてかと言うと、光る何かとしか言いようがないけれど
みんな、同じ方を向いて、同じものを信じて、できたもの。
それが素晴らしくないはずがない。
私はめったにしか起きないすごい奇跡なんていらなくて
日常の中にあるささやかな奇跡を愛している。
だから、1年に1度の奇跡の1日を信じて疑わなかった。
ただこの気持ちが相当重いことも
最大限以上を差し出している人もいることもわかっていて
いつ終わってもいい。ただ、やるなら私の最大限は差し出すよって
それくらい沢山のものをもらったからって気持ちだった。
平井さんの「本当の出会いに別れはない」って
その言葉を胸に、台風が行った後の明るい朝を迎えました。
音楽の傍らにいれば、またきっと会えるから
たくさんの人と「またね」ってハグして手を振り合った
それが私の答えのようなものだと、ようやく着地しました。
もっと個人的な話だけど、少し前に大きな選択をして
その時に「どっちでもきっと後悔はするよ。どっちを選んでも、60点だよ。」というようなことを言われて
もしかしたら自分がしてきた選択なんて、結局60点なのかも
でも、選ばなかった方より、ちょっとはいいはずだ、それが救いだ。
ハイコーフェスも続けても、やめてもきっと後悔する。
でも、選ばなかった方より少しはいいかもしれない。
そんなことをとりとめもなく考えています。

この写真は去年の最高の気分の時に
除雪さん(ハイコーカメラマン)が撮ってくれたアイちゃんとの写真。
この写真がものすごく好きで、私が永遠の眠りにつく時に
棺に入れてほしいくらい好きです。
3回目から、あいちゃんのお母さんが作ってくれたお揃いのユニフォームで
毎年ババヘラを盛りました。
仙台に住んでいた頃は、お盆にも帰らないのに
ハイコーには帰ってきて、実家には家族が揃っていて
今思うと有り余る幸せがあった。
私の周辺の最大限の幸せ。
この写真も一つの答えのようなもの。
「あの場所が世界で一番面白いと思って集まって本当に良かった。」
「私の思い出になってくれてありがとう。」
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もうとっくに、と肌寒い秋田で思われてしましますが
私たちは毎年、ハイコーフェスが終わるまでが夏でした。
今はそのキラキラとした余韻の粉末で包まれている気分ですが
この粉末がなくならないうちに、と慌てて言葉を探しています。
すずらん舎のブログですが
久し振りに個人的なおはなしです。
わかる人にしかわからない話でごめんなさい。
いつもより長めですが
ハイコーフェスの進藤くんや
ハイコーフェスの渋谷くんほどではないと思うので
最後までお付き合いください。

ハイコーフェスってなに?って方もいると思うのですが
わかりやすく言うと秋田県は仙北市田沢湖で9回開催された
音楽フェスで、廃校になった潟分校を会場にしていて
旦那さんも私も毎年お手伝いさせていただいています。
ただ、何故か「音楽フェス」ではくくれない何かがあって
それが何なんだか毎年考えているのですが結局わからなくて
いつもその得体のしれないもののしっぽを掴んだくらいにして帰ります。
それぞれに、それぞれの感じ方があって
ただ、楽しかった!でももちろんそれはオーケーで大成功!なのですが
なんでこんな気持ちになるんだろう?っていう
その「何か」の答えが今年は見えるかなと迎えた最後のハイコーフェス。
少し昔のお話をすると
ハイコーフェスは7回目で終わる宣言があって
私は終わるだけの理由も勝手に感じていたし
最後かもなって思っていた中で8回目があって
そしたらその8回目(去年)がすごく楽しくて
全出演者が本当に良かったし
天気も良くて、体育館の外で音楽を聞きながら
給食のカレーと豚汁をアイちゃん(幼なじみ)と、つんつん(の子ども)
と食べている時なんてあー、幸せって本当に思って
あー、これはボーナスステージだ、これは今年で最後だな。
なんて良い最後だ、満足だ、ありがとうさようなら私のハイコーフェス。
と思っていたら9回目があるという。で、こんどこそ最終回、卒業式となって
あー、あのまま満足したままじゃ終わらせてくれないんだなと
私はできれば全ての別れが旅の別れのように、
良い旅を!とお別れして、後であぁ、あれが最後だったと思いたい。
それを「逃げるな」「向き合え」と言われているようで
最終課題だ、卒論だ、さすがだ、ハイコーフェス。と思っていました。
でも不思議なことに、本当に気持ちが穏やかで
毎年の儀式のように、ハイコーフェスの進藤くん(主催)の
演者紹介を全部読んで、ハイコーまでの日常を過ごしてきました。
あの人のあの曲が聞きたい、とか、わー、楽しみとか一切なく
雨でも台風でもなんとだっていい
私は終わった後にどんな気持ちになるかそれを確かめに行く。
これが「どうでもよくなってからの本当のハイコーフェス」かとやっとわかりました。
毎年前日に入れる人だけ、前準備に入るのですが
潟分校までの1時間半を、もらった今年の出演者CDを聞きながら
「ハイコーフェス」って何だったんだろうと考えながら向い
到着したらあれやこれやと準備して、たわいもないお喋りをして
夜にまた1時間半かけて帰る間にも、同じことを考えて
当日の朝もまた向かいながら考えて、とうとう本番迎えました。
始まると終わるしかなくて、始まったら本当にあっと言う間にフィナーレ。
もちろん当日は素晴らしくって、朝からもみじさんの涙に涙して
キャンディキャンディの思いの入りように
トムボーイズは本当に可愛くて才能に溢れていてキラキラしてて(しかも毎年ババヘラを食べてくれる超良い子)
マドベはひとりぼっちのサニーサニーさんが見つけた仲間に、ハイコーの歴史をみて
プルタタ+は神さまが下りてきたかと思ったし(アイスを食べる子どもたちは可愛いし)
デリシャのプロ感、華やかさ、年期の素晴らしさ
サニーカーウォッシュの音圧に
聞く度に響くようになる美貴子ズ
ハイコーがくれた宝物の音楽のひとつ、キャメルさん。(やっぱりすごかった。ずるい、勝ち逃げだ。)
もうひとつの宝物、奇跡。平井正也BAND(誰が何と言おうと、私はマジックバスが永遠に好きだ。告別式で流してほしい。)
錯乱前戦が、私達の感傷をぶちこわしに来てくれて
レテパがとどめを打ってくれた。
さあ、何だったんだ?と確かめるはずのものが
それはそれは不確かで、やっぱり帰り道は同じ様に
「なんだったんだろうか」と。帰って泥のように眠り
起きてお義母さんの作ってくれた朝ごはんを食べ
ぼやぼやして午前が終わりお昼ご飯を食べ
夕飯の芋の子汁と炊き込みご飯を作りました。
そんな中で斉藤キャメルさんの
「スタッフのみんなも、何かを信じてやってきた」
「それが何なのか、仲間なのか音楽なのかわからないけれどとにかく何かを信じて続けてきた」
ってような言葉があって、それがすごく附に落ちたんです。
「そうだ、私はハイコーフェスを絶対的に信じていた。それは人なのか、音楽なのか
それはわからない。でも絶対的に、その一日は奇跡になる。」
なんでこんなに愛されてるのか。予算だってキャパだって限られたもので
運営スタッフだってみんな素人。ただ、みんな自分のできることを最大限に差し出している。
しかも、ボランティアですらない、入場料を払った上でスタッフをしている。
それって、もの凄くないですか?
でも、自分の最大限を差し出すぐらいの何かはハイコーフェスにはあって
個々の最大限で、あの会場は作られる。
それに私も、そして来てくれた人、出てくれたも感動するんだと思う。
じゃあ一体何を信じてかと言うと、光る何かとしか言いようがないけれど
みんな、同じ方を向いて、同じものを信じて、できたもの。
それが素晴らしくないはずがない。
私はめったにしか起きないすごい奇跡なんていらなくて
日常の中にあるささやかな奇跡を愛している。
だから、1年に1度の奇跡の1日を信じて疑わなかった。
ただこの気持ちが相当重いことも
最大限以上を差し出している人もいることもわかっていて
いつ終わってもいい。ただ、やるなら私の最大限は差し出すよって
それくらい沢山のものをもらったからって気持ちだった。
平井さんの「本当の出会いに別れはない」って
その言葉を胸に、台風が行った後の明るい朝を迎えました。
音楽の傍らにいれば、またきっと会えるから
たくさんの人と「またね」ってハグして手を振り合った
それが私の答えのようなものだと、ようやく着地しました。
もっと個人的な話だけど、少し前に大きな選択をして
その時に「どっちでもきっと後悔はするよ。どっちを選んでも、60点だよ。」というようなことを言われて
もしかしたら自分がしてきた選択なんて、結局60点なのかも
でも、選ばなかった方より、ちょっとはいいはずだ、それが救いだ。
ハイコーフェスも続けても、やめてもきっと後悔する。
でも、選ばなかった方より少しはいいかもしれない。
そんなことをとりとめもなく考えています。

この写真は去年の最高の気分の時に
除雪さん(ハイコーカメラマン)が撮ってくれたアイちゃんとの写真。
この写真がものすごく好きで、私が永遠の眠りにつく時に
棺に入れてほしいくらい好きです。
3回目から、あいちゃんのお母さんが作ってくれたお揃いのユニフォームで
毎年ババヘラを盛りました。
仙台に住んでいた頃は、お盆にも帰らないのに
ハイコーには帰ってきて、実家には家族が揃っていて
今思うと有り余る幸せがあった。
私の周辺の最大限の幸せ。
この写真も一つの答えのようなもの。
「あの場所が世界で一番面白いと思って集まって本当に良かった。」
「私の思い出になってくれてありがとう。」
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