野沢君。うむ、原稿は出来ているんだ。そのテーブルの上にある。確認しながらで構わないから、少し、年寄りの思い出話に付き合ってはくれないかね。
君は今年で何歳になった? 三十五か。いい歳だ。いや、若くて羨ましいという意味だよ。そう何でも言葉の裏を探りなさんな。若い人の悪い癖だ。
君は、私の生まれた土地のことを聞いたことがあるかね。N県のT村。うむ、遠慮することはない。誰に尋ねても知っている人はいなかったからね。
山沿いのね、小さな小さな村だった。自然だけは豊富にあった。人の生きる手段は、田や畑にしがみついて農作をするだけでね。うん、それがね。不思議と私は、さほど苦労はせずに育った。
蚕、という虫のおかげでね。
そうそう、養蚕だ。よく知っているね。さすがに一流国立大出身だ。いやいや、嫌味じゃないよ。だって君は私の後輩だもの。
うん、蚕からは絹がとれる。明治以来、生糸、紡績は日本の産業の幹を担ってきた。質の高い絹は、農家のいい現金収入になったんだ。
みお、という名だったよ。うん、娘さんがいた。いや、妻とは別の。故郷に。いわば姉のような女性だったねえ。
なんだろうね、照れくさいが、打ち明けさせてくれないだろうか。
いや、何も、ないんだ。いや、ないわけじゃなかったが。
一つ、二つ年上なだけで、なんで女性というものは、あんなに大人びて見えるのだろうね。
みおは――みおさんは、おかいこ様の世話をしていたんだね。
当時は、彼女の家の蚕の世話だけをしているものだとばかり思っていた。そう、桑の葉だけを食べて蚕は育つ。そして、絹を吐いて繭を作る。そうそう、よく知っているね、君は。ほう。なるほど。
桑の葉は蚕の食糧に、実は甘くて、子供のおやつになる。みおさんはよくお椀に桑の実を盛って、私にくれたものだったよ。食べると口の周りが紫に染まってね。
背中にしょった籠に桑の葉を満たして、家と畑を行き来していたね。初夏の緑に村中が染まり、その中にすっと背筋を伸ばしたみおさんが歩いて行くと、私はなんだか、そわそわしてしまってね。彼女の後姿を、目で追いたいような、逃げ出したいような。
ふふ、そうだ。初恋だったねえ。そんなに嬉しそうな顔をするなよ、野沢君。
その頃、私は、村では神童と持て囃されていてねえ、はは。まあ、その、ちょっとばかり出来が良かったんだな。中学へは当然、もっと上の学校へもやらせてやろうと親だけでなく、村の人も思ってくれたようだ。
期待に応えようと、私も頑張ったよ。都会の学校に進めると解った時には、そりゃもう有頂天でねえ。
張ってもらった祝宴の帰り、酒の勢いも手伝ってか、私はね、みおさんの家を訪ねたんだ。
きれいな星空の夜だった。
照れくさくて、私は、みおさんの顔をまともに見られなくてね。
それでも、つっかえながら、私は、みおさんに、迎えに来るので待っていてほしいと伝えた。伝えられた、と思う。
みおさんからの返事は、すぐにはなかった。彼女は黙ってしまったんだよ。もうすでに言い交わした人でもいるのかと、私はやきもきしてねえ。
わたしはねえ、ってみおさんが喋りはじめて、私はほっとしたね。でも、お嫁には行けないの、って言われて、すぐに息が詰まるように感じた。
何故か、と私は当然みおさんに尋ねた。
だいぶ長いこと、みおさんは沈黙したままだった。打ち明けようかどうか迷っていたんだね。
そして私は聞いた。みおさんが私と結婚できない理由をね。
時に、野沢君。君は、雄の蚕と雌の蚕。どちらが上質の絹を吐くか、知っているかね。うん、雄なんだよ。卵を産む必要がないからね。雄の蚕が吐く絹は、上質なんだ。素人考えならば、雄だけを選べば上質の絹が採れると思うだろう。だけど、蚕の雌雄を見分けるのは、それは大変なことでね。とてもそんな手間はかけられない。雄の蚕だけから作られる絹は、貴重なものだったんだよ。
みおさんは、『視える』人だったんだ。
驚くだろう。彼女は、卵を見ただけで、雄が生まれるか雌が生まれるか、わかる人だった。もちろん、幼虫を見れば一目で見分けてしまう。
それがどういう意味を持つか。
うちの村から採れる生糸は、とびきりの高値で買い取られていたんだよ。そんな名もない小さな村から採れた糸を、織り元は競って手に入れて、高価な布になり、華やかな場所を彩ったんだ。
天長さまの御直衣にもなりました、みおさんはたしかに頬を紅潮させてそう言った。それは彼女にとって大変な誇りだったろう。そして、何が私たちの生活を支えているのか、誰のおかげで私は都会に学びに行けるのか、同時に思い知ったんだ。
うん? ああ。彼女の『視える』力は、結婚してしまうと――まあ、直截な言い方をしてしまうと、生娘でないと消えてしまうんだそうだ。一種の巫女だね。
私の村では、昔からみおさんのような女性がいて――跡を継ぐ者が育って、代が変わるまでは結婚は出来ないことになっていた、そうだ。
みおさんが自分の立場をどのように感じていたか。それは私にはわからない。私とて少しは自惚れたいからね。彼女は残念に思ってくれたと信じたい気持もある。
天から授かる糸を、人には作りえない糸を、虫が吐く。みおさんが天から授かった力で虫を選り分け、極上の絹を生む。
それは、ある意味、幸せなことのようにも、私には思えるようになった。
ずいぶん後になってのことだけれどね。
どうかね、野沢君。私の吐いた今回の糸は。そうか、ふふ。それは、嬉しいね。
ありがとう。
五十二歳のホームヘルパー、久保妙子は手慣れた動作で老人の襁褓を取り換える。半ば白濁した眼球は薄く開き、何故か今日は、軽く微笑んでいるようだと彼女は思った。