つぶやきコラムABCDE

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『はじめて学ぶ生命倫理』


第一章「いのちの『終わり』は誰が決めるのか」を読みたくて手にした一冊です。
SOLQOLについての葛藤。
SOLは、生命の神聖さ。
QOLは、生命の質。
この二点の違いと重なる点について、小林さんは、シドニ-・シェルダンの『女医』に登場する末期腫瘍患者と担当医師のやりとりを主事例に挙げて考察します。
その考察の際に、手塚治さんの『ブラックジャック』のブラックジャックとDr.キリコとの対話を比較関係付けていくために、『女医』の担当医師が示した終末医療患者への営みや判断がいかなるものかを明確に考えさせる誘いをしています。
これは見事だし、そして、この本に向き合おうとする読者への案内地図を希望と共に示しています。
どんな命だって救うことこそ医師の使命だというSOLの考えを徹底するブラックジャック。
そのことを理解しつつ、それでも「この傷みから自分の肉体を解放してあげたい」と願う患者を安楽死させる手伝いをするキリコ。
どちらも、命に寄り添う誠実さはブレていない。
いのちの「終わり」を決めるのは、本人なのでしょうか?
れとも・・・・・・。
いのちは、本人だけのものなのでしょうか?
本人が判断できないなら、家族が?
でも、家族ではない人も、その人のいのちからたくさんの恩恵を得ています。
その人たちの想いは、無下にしてよろしいものか?
次々に重なる問いたち。
生命倫理の根底には、この「問う」という行為に至らせる大切なことたちへの「感応」こそが問われていることに気付かされます。

『小さな幸せ46こ』

小さな幸せ46こ (中公文庫)
よしもと ばなな
中央公論新社
2018-06-22

しもとばななさんのエッセイ集。
ウイスット・ポンニミットの装丁と挿絵が、言葉の色彩とマッチしているのが好ましいです。
p121「もっとちかくに」が特に印象的でした。
両親を喪った傷みが深く、傷心の日々を送っていたばななさんが、あえて両親といつも足を運んでいた西伊豆の旅館を訪ねるのです。
きっと淋しい気もちになるはずだろうという、本人の予想とは反して、「両親が若い時の姿でいっしょににこにこと喜んでいる感じが胸にせまってきた」というのです。
「むねの奥から両親の気配が湧き出してくるような感じ」だったそうです。
身体感覚として生々しく感じられたというこの経験から、ばななさんは、両親の死と共に生きてゆく、という感じを少しずつ理解し、自分をゆるすようになってきたのだと実感し始めたのでした。

絵本『こんもりくん』

こんもりくん
山西 ゲンイチ
偕成社
2011-01-08

の絵本がぼくの目に留まったエビデンスが本を手に取ってすぐにわかりました。
吉本ばななさんの小説の装丁や挿絵でみたことが在る絵だったのです。
読書は、こういうつながりを創り出すから、やはり魅力的です。
そして、新たな一冊との出逢いをもたらすのでした。

奇想天外の物語。
髪の毛を切るのが苦手な少年は遂に、その髪の毛の森林の中にねずみの世界を許容したのでした。
やがて、その世界の国王になってしまう少年。
しかし、「おなら」は、国王追放の憂き目に遭うのでした。
何のことやら?
というわけで、
是非、
読んでください。

髪の毛を切っても、自分は自分だった。
この奇想天外な物語の向こう側には、少年の「成長物語」「再生物語」の比喩が視えるようで、なかなか侮れない作家だ!と想いましたよ。

『あの画家に会いたい個人美術館』


この夏、群馬県にある松本竣介さんの美術館に行きたくて、この本を手にしました。
著者は、作家の大竹昭子さん。
大竹さんの👓を通した、「ガイド」なので、所謂、顔がみえづらい一般的な紹介本とは異質なのが、善い。

ピアニストの辻井伸行さんもそうなのですが、「きこえない人」「見えない人」は、「こころの眼や耳」で感じる力が、宿るのです。
前者である松本俊介さんの、「あの」独特な光と陰の感覚と色彩感は、そのことと無関係なはずがないのです。
ぼくは、その世界に半日かけてどっぷりつかってみたいと切望しています。
いつ行こうか?
いや、いつ行けるのか?

ショスタコ-ヴィチと室内楽

弦楽四重奏曲は、全部で15曲。
交響曲も15曲。
この2つのジャンルだけで30曲を書いています。

交響曲と比較すると、演奏時間は短めです。
交響曲は、演奏者や演奏時間の規模が大きく、大ホ-ルで演奏されるので、特に旧ソ連当局の目に留まるものでした。
ですから、作曲者は、一番伝えたい「ラルゴ」や「レント」「アダ-ジョ」楽章の隠れ蓑として、早くて快活な楽章を全体の中に巧みに配置したのです。
当然、演奏時間が伸びてゆくのは納得です。

それに比べて弦楽四重奏曲は、ホ-ルでなくても、街の広場、建物の一室で演奏できます。
当局の目に留まりづらいのです。
そこで、作曲家は、一番言いたい事をより真っすぐに伝える術として、室内楽作品に注力したのだと察します。
例えば、第8番は20分程度の演奏時間の内の13分を3つの「ラルゴ」楽章に費やしています。5楽章中3楽章が「ラルゴ」なのです。
交響曲では、ここまではやりませんでした。

ショスタコ-ヴィチは、自分の作品の大半を、不条理に人間の尊厳をはく奪された人々のために献呈すると語っています。
その意思を信じたとして、演奏家たちは、どのような距離感や想いを、楽譜に重ねて模索するのでしょう。
このCDのハ-ゲン弦楽四重奏団は、曲に付きまとう前述したような先入観を一度リセットしているように想います。
そしてあらためてスコアを読み抜き、純粋な一人の作曲家に誠実に向き合おうという新風を注ぎ込んでいるように感じるのです。


クマと少年

クマと少年
あべ 弘士
ブロンズ新社
2018-05-17

べ弘士さんの創作の背景には、旭山動物園の勤務経験が色濃く息づきます。
原田マハさんの学芸員経験の「強味」にも通じます。

ぼくは、この絵本を読んで、椋鳩十サンから脈々と生き続ける、動物と人間の境界線に関する壁と、その超克について思い知らされました。
そういう意味では、写真家・星野道夫さんの眼差しとも重なります。
成長した少年とクマのキムルンの再会場面の画が、ぼくのオススメの一押し場面です。
目に見えない台詞や無言歌の何という多弁さでしょうか。

M.M.ポンセの多彩な作風 福田進一さんの新しいディスクから

ポンセ作品集〜カンシオン・メヒカーナ〜
福田進一
マイスター・ミュージック
2018-04-25

没後70周年を記念して編まれたアルバム。
メキシコの楽聖と形容されるM.M.ポンセの優れた作品集です。

福田さんをはじめとした、このアルバムの制作者たちの意気込みが伝わります。
その根拠は、アルバムの構成が、個々では、ポンセの作風の多彩さに目を向けつつ、生涯の音楽性の変遷が辿れるような視野の拡がりも意識されていることです。
一押しは、『3つのメキシコ民謡』と『ソナタ第3番』です。特に後者は、楽章ごとに作曲家の多面体的な音楽性が発露していて、ポンセを初めて知る人にもお薦めしたいですね。

福田さんのギタ-の響きが「いつも」と違うなあ、と想っていると、なるほどと合点しました。
ポンセ弾きの名手であるセゴビアが使っていたドイツの名工ハウザ-一世を意識して、ハウザ-三世(一世の復刻モデル)を弾いていたのでした。
梅雨明けまでこのCDがぼくの生活の大切な伴奏者になりそうです。

なんだか、あたたかい


長新太さんの傑作だと、ぼくは想っています。
さんは、「超現実主義」の作家としてとても優れた人だと常々感じてきました。
その視点からするとこの一冊は、「捲る美術館」としての最高傑作です。
交通事故で無くなった犬を背負い続ける少女。
途中で、犬に顔をペロペロとなめられます。
「なんだか、あたたかい・・・」。
呟く少女。
この少女は、愛情の系譜を順繰りに受け継ぐひとりです。
だからお互いに背負い、背負われる関係として、惹き合ったのだと想います。
おばけになっても忘れてはならないものがある。
そこに行きつくために、長さんの芸術は、実り、ぼくたちに幸を届けてくれたのでした。

横山大観

横山大観 (日経ポケット・ギャラリー)
日経
1993-11




東京近代美術館の横山大観展も閉幕しました。
原画のすばらしさを想いつつ、画集を視返すのも悪くないなあ。

大観は、長寿でした。
だから、共に切磋琢磨した盟友たちの逝去を見送り続ける存在でした。
時代は、大観に期待をし続けました。
その「孤高」ぶりたるや、計り知れない重圧だったと察します。
大観は、最期まで、『無我
(1897年)』に示したような、「初志」を貫徹しました。
大観に魅かれる人は、そのブレない生き方に、現代的な様々な課題や不安を重ねて、希望を探っているのだと、想うのです。


『眠りゆくとき』


高校生だったと記憶しています。
アンナ・トモワ・シントウの歌唱で、シュトラウスの『4つの最後の歌』をライブで初めて聴いたのです。
その時に魅了されたのが、
第3曲『眠りゆくとき』でした。
いまでも、即、鮮明に思い出すことができます。

晩年のシュトラウスは、ホルン協奏曲第2番が示すように、
室内楽的で、飾り気のない、真っすぐな情感が伝わる音楽性が、ある意味での境地に達しているかのようです。
『眠りゆくとき』もその趣をもちつつ、甘美さも備えていて、その抒情は、なかなか形容し難いほどの美点を湛えています。

25年前の名演でご堪能ください。
ステュ-ダの声は、伏流水のようにじわじわと心に染み入る魅力をもっていて、至福の時間を過ごせます。

彷徨う故郷 『荒木町奇譚』

荒木町奇譚 (ハルキ文庫)
有間カオル
角川春樹事務所
2018-01-11

ぼくは、とてもよく自覚しているのですが、自分の中の彷徨う故郷をいつもどこかで探し続けています。
そこには、かつての後悔や懐かしい人、もの、こと、場所、そして時が関係し合って混沌としながら浮遊しています。
ですから、そのことを主題に小説をつくろうとするのならば、時空を超えて、人やもの、こと、場所がつながるという設定を必要とするのだと最近よくわかってきました。
ぼくの嗜好する文学や映画の多くに、その共通点を見出せます。
この『荒木町奇譚』も、まさにそこに通じます。
主人公の行原暁生は、故郷や恋人への後悔、喪失感、諦念を心の中に淀ませています。
その情念が、架空の街を時空も超えてつくらせます。
その中だからこそ、叶えられる過去への再会と再生がこういった小説の生命線になるわけなのです。
ぼくは、こういった筋道がわかっていながら、この小説世界に自己を没入させることに危険な歓びをもっています。

今年も第五福龍丸展示館へ

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三年連続で展示館へ小学6年生を連れてゆく。
改修工事前のラストチャンス。

スケッチをしてみる。
描くことで、船の傷の傷みが直に伝わってくる。
釘やボルトの夥しい数。
手術の跡だ。
傷むでしょ?
しんどいでしょ?
でもね、あなたは確かにここに
いる。

ぼくのみたもの
みなみななみ
いのちのことば社
2015-10-22

絵本『ぼくのみたもの』。
3つの力についてふれています。

「こわれたところをなおす力」

「うつくしいところをつくる力」

「みんなでおうえんする力」


人類が、希望の力をもつための絵本だ。

船越保武『石と随想』

舟越保武・石と随想
舟越 保武
求龍堂
2005-02

1987年、船越さんは、脳こうそくで右半身が麻痺します。
しかし、左手で描画、彫刻の制作に挑むのです。
当然、作風の「見た目」は、変わります。

『石と随想』のP122に、「死と言うものと死滅というものが、いま、私の中で混同されていて甚だアイマイになっている。(中略)生と死の中間の、アイマイな空間に浮遊している漠然とした存在の自分を意識するときに、私は今までの自分の生命力の余韻のようなものがまだ燃え残っていることを知ることができる。」と記されています。

その「生命力の余韻」の実感は、創作でしか確かめられないということを、船越さんは、誰よりも知っているのです。P124には、「私が自分の中の血液の流れる音を聴いたあの同じ音が、とんぼに顔を近づけている間じゅう、私の耳の中には私の血の流れの音がきこえている。それは私の血の流れの音であり、また、私の生命の音でもあるのだ。私がとんぼの眼にすれすれに顔を近づけている間は、私は七十年の私の生命に再会していることなのだ・・・・・・」とあります。
生命が重なり、共鳴しているという実感。それは、創作という原点の意味や価値について、改めて思索する契機になったのだと推察されます。そして、その思索が、1987年以降の作品たちに、間違いなく染み込み息づく原動力になっているのだと、感じ入りました。

横山大観展


近代までの優れた作家の共通する特徴は、存命中までは「異端」だったことです。
逝去し、次の時代のページが捲られる足跡の中で再評価されることが多いのです。
では、なぜ、今、横山大観なのか?
の問いづくりは、非常に重要だと想っています。
横山大観の最大の師匠であり、「同僚」だったのは、岡倉天心です。
当時の「権威」を捨てて、新しい学校をつくったり、既存の常識や「ふつう」に縛られない創作の方向性を生み出し、実践し続ける気性にぼくたちは、学びの在り処を探せそうだと、直観しています。
現代社会に蔓延するコピペの虚偽。
他者の発案や言葉をあたかも自分が生み出したと思うがごとく使う。
すまし顔で。
引用元や出版元を明らかにしないで貼り付ける。
そこには、思考や判断の欠片もない。
そんな時代に横山大観は、どんな「喝」を入れるのでしょうか?
東近美(東京国立近代美術館・竹橋)で、企画展が展開中です。
『生々流転』は、まるで静謐なアニメ-ションのような作風で、生と死の自然の輪廻を表現し、静かで深奥な哲学を醸し出していて圧巻です。
靄や霧、霞の向こう側には、人智が及ばない「問い」が満ちている。
その「謙虚さ」がすばらしいのだ、と実感しました。

アートという仲介者の強味 原田マハ『ザ・モダン』


モダン (文春文庫 は 40-3)
原田 マハ
文藝春秋
2018-04-10

東日本大震災や同時多発テロなどの喪失体験を核にして、魂の救済にあがく人たちの姿を描きます。
自己再生」は、時代を超えた、文学における重要な主題です。
たとえば、吉本ばななさんの小説は、まさにそこに尽きると言えます。
でも、原田マハさんの出色さは、そこに美術館勤務の経験を入れ込むことで、その独自性の輝きを放つのです。
自己再生や魂の救済の代理人、仲介者、助言者、癒しの相談者としてア-ト作品が大きな役割を果たすことになります。
ア-ト作品は、時間や国境を超克してきた「タフさ」「生命力」を備えています。
その逞しさが小説の登場人物の生きる所作に重なり、ドラマに多面的、多重的な広がりや深まりを生み出すのです。
収録されているどの作品もお薦めです。
ぼくの、そしてあなたの大切な一冊になるでしょう。

本音と建て前 ショスタコーヴィチの入門として

ショスタコーヴィチ:交響曲第6番&第9番
バーンスタイン(レナード)
ユニバーサル ミュージック
2015-10-14

ショスタコーヴィチの交響曲の入門は第何番だと思いますか?」。
知人から質問を受けました。
ぼくは迷いなく、「第6番です」と応答しました。

ショスタコ-ヴィチの音楽の特質は、「本音と建て前」です。
6番は、第1楽章に曲全体の3分の2近い時間を要します。
特にこの晩年のバ-ンスタイン盤では22分30秒を要しています。
続く第2第3楽章は、7分台ずつです。
この第1楽章ラルゴの「悲劇的な抒情」の中に、当時の社会体制への訴追や圧政者によって不遇の死に追いやられた人への鎮魂の想いをこめていると解釈されることが多いのです。
ここが「本音」の部分に相当します。
ところが、続く2つの楽章は、まったくもって対照的なテンポと楽想が展開されます。
これが建て前です。
そして、一見陽性に聴こえるこれらの楽章の中にも、和声や反復の技を駆使した「悲劇的抒情の変形」による仕かけが、巧みに織り込まれています。
つまり、建て前の中にも皮肉な文脈を潜ませて、聴き手にその読解を求めています。
自分の作曲家としての伝達能力の自信と共に、読みとる聴き手への信託をそこから感じてしまうのでした。

「生活の肌理が生動している」という表現 『採集と思考のはざま展』より

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岡本太郎美術館の企画展が一昨日から始まりました。
写真を通して、岡本太郎さんは一体何を視てきたのか?
ぼくの問いはその一点に尽きます。
第一章の「道具」。
芸術以下だと想われている民芸たち。
しかし、芸術ぶっているものがあふれている世の中で、その存在感を視抜く岡本太郎。
「肌理の生動を直観した時の感動」という表現で、カメラ越しに対象に接近します。
その距離感に「らしさ」が表出しています。
垂直や平行といったバランスよりも、対象の「肌理」を視ようとする意思が写真から伝わるのです。
スキルの「技」ではない、ア-トの「技」。
岡本太郎さんは、人間の根源的な所作の中に、生きる力の在り処を探していたのではないでしょうか?
駒場の日本民芸館が提唱し続ける思想とまさに重なっています。








自分は自分でしかない


いままで、岡本太郎の伝記は大人向けのつくりが多かったのです。
あかね書房の最新刊は、最初から子どものためにつくられています。
それは、内容ではなく、「読ませ方」において、子どもを主権者に置いています。
内容は、岡本太郎をきちんと知ってほしいという点で所謂「子ども扱い」はしていません。
そこがとても共鳴できました。
「あとがき」に著者である平野さんの「願い」が息づきます。

「キミはキミのままでいい。弱いなら弱いまま、誇らかに生きてみろよ」。太郎は自分自身、人生を賭けてそれをやり通しました。どんなに頑張ったところで、ぼくは、ぼく以外にはなりようがないし、ぼくのまま生きるしかありません。自分を責めたりなげいたりしてもしかたがない。ぼくなりの“生き方のスジをつらぬくしかない。キミだって同じです。そうでしょう?「人間だれでも、生きている以上はつらぬくべきスジがある」。岡本太郎はそう言いました。次はキミの番です。

思考回路をネ-ミングやコピ-で増やす 『伝わる人は一行』






視点変換のために、表現力が翼になり得るのだ。
ネ-ミングやキャッチコピ-は、ものごとや人、時、場などの対象に宿る内容や特長抜きには生まれ得ない。
「呼び水」は、思考の回路として働き、やがて視点変換を促すのだと実感している日々である。
例えば、よくありがちな学校生活の目標をこんな風にしてみたらどうかしら?
<従来のものをコピーの工夫で視点変換>

4月 あいさつなんて意味ないじゃん?~それなら みつけちゃう?

⇒悪態をつく、問う

5月 相手と自分をチェンジしちゃえ!~ろうかテクテク大作戦~⇒自分に関係があると思わせる

6月 雨を悪者にするなッ!~「雨の日と相思相愛」大作戦~⇒比喩や名言を使う

7月 教室を「ぼくの店」にする。~整理整頓は「愛」なのだ~

8/9月「612ミニ・ツミ・ダイ作戦~ゴミひろい 一人1個すごいんです~⇒数字を使う

10 時間をずっとまもらなかったぼくの人生は・・・⇒物語の続きをつくらせる

11月 「ウチのいいとこ みつけてくれよ」

12月 皆勤賞をつかむのは、だっ!

1月  運動の力で校庭をホットにします

2月  気づく 動く 笑う~ものを大切にしよう~

3月  ぼくだって ありがとうって言われたい


絵本『こもりくん』

さかさのこもりくん
あきやま ただし
教育画劇
2006-04-01

ふつう(多数決の多数派)」の逆さなことしかできなくなっているこもりくん。
「ふつう(逆さではない)」の動物たちと相容れない日々が続きます。
しかし、くまさんだけは、そのことに気付きます。
そして、くまさんは自分がこもりくんに合わせるという行動に出るのです。
その行動が、こもりくんの視点変換と行動変容を後押しするのです。
この互恵的な関係性に、共有の知とも言える平和の種の発芽を視たぼくは、またまた絵本に生きる希望をもらうのでした。

「第21回、岡本太郎現代芸術賞展」

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毎年、恒例の「岡本太郎現代芸術賞展」に足を運びました。
上の作品は、小暮奈津子さんの『くらげちゃん』です。
まず、ひとつひとつのくらげちゃんをみます。
どれひとつとして「同じもの」はありません。
次に、700体を「総体」としてみつめます。
「どれひとつとして同じものはない集まり」としてのコミュニティを感じます。
この世界は、異なる自他によってつくられています。
そして、そのことを共有することで、ひとつの共同体が生まれ得るという平和への希求の歌が、聴こえてきました。
これをどこに飾るか?
周囲の環境との化学反応も面白そうです。

毎日が始まりの日

はじまりのうた BEGIN AGAIN [Blu-ray]
キーラ・ナイトレイ
ポニーキャニオン
2015-10-07

ボブ・デュランの詩『始まりの日』を体現したような映画です。
でも、映画の中で、主人公の音楽プロデュ-サ-が、ボブ・デュランを印象主義だと揶揄するのが面白いですね。
「自己表現と魂の救済」という主題は、ぼくにとっての永遠の追究課題ですが、この映画は、その課題に大きな追い風を吹かせてくれます。
“「世の中の流れ」”とかいうやつに、従順な人が評価されていく世界。
自分で考え、判断していくということは、あたえられたものをそっくりそのまま「こなすこと」ではないはずです。
ぼくの仕事は、そうではない人材をひとりでも多く育てることだと、肝に命じています。

素直にわがまま


中目黒の古書店「デッサン」での、本漁りにおける成果の一冊。
絵本についての対談リレ-。
対談が終わると、一人ずつ残りつつ、次の対談者へと「席替え」していくのです。
今から、30年近く前の本なので、写真の中の人物は、皆、若々しい。
そして、亡くなった方も少なくないのです。

こういう読書の愉しみは、「いま」と「当時」の言動を比較することです。
現在と過去のどちらを基準にしても善い。
過去が基準でしたら、「変わっていない」「変わった」と言える。
現在が基準でしたら、「ずっとブレなかったんだ」と言えますから、ね。

ぼくは、谷川俊太郎さんと宮崎駿さん、長新太さんが絡んだ対談がすきなんだなあ、と改めて想いました。
宮崎駿さんの最近のドキュメンタリーで言っていたことが、この本にも出てきました。
それは、作画における「観察」の重要性です。
本物をみて、感じて、捉えるという感性の在り処について、ずうっと言い続け、やり続けている人だと想いました。
テクニカルに溺れない、ア-トとしての「技」の原点みたいなことを宮崎さんは、とっても大切にしています。
この本を読んでいて、未来の自分に託していたように感じました。
実際、未来の宮崎さんは、きちんと「それ」を受け取って生きていたという事実!
何だか胸が一杯になり、ぼくもそんな仕事人で居続けようと強く強く念じた次第です。



「~沿い」という視点

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ぼくは、目黒区の東山という街で育ちました。
だから、中目黒は最寄り駅のひとつだったのです。
中目黒は、東横線の高架と山手通り、目黒川という「線」が同居しています。
しかも高架線は、高さがあるために、立体的な活用が可能です。
この「~沿い」に街づくりデザインの視点をもったのがこの街を面白くしている「いま」を生み出しています。
目黒川沿いの桜。
目黒川沿いの「郷さくら美術館」。
<美術館で花見後、本物の花見へ>みたいなテーマで遊べます。
目黒川沿いの小さくて個性的なショップ。
高架線の下を活かした「蔦屋書店」。
小路に沿った個性的古書店、カフェ。
ひとつの目的ではなく、複数の要素をリンクさせたり、関係付けることが自らできたりする愉しみ方は、能動的な街巡りにつながります。
開店時から足を運んでいる川沿いの「COWブックス」。
選書のセンスが善いのと、真ん中のテーブルが落ち着く。
滞在型ののんびり感に味があるよね。
この街づくりは、神楽坂にも視えます。



小曽根真さんの新譜 『不安の時代』の名盤がやってきた

ビヨンド・ボーダーズ
ニューヨーク・フィルハーモニック 指揮:アラン・ギルバート ピアノ:小曽根真
ユニバーサル ミュージック
2018-03-14

L.バ-ンスタインの交響曲第2番『不安の時代』に決定的な名盤が登場しました。
しかもライブ録音です。
バ-ンスタインは、「異なる私」から構成されるこの世界は、複雑だけれど、きっと解り合えるはずだという願いと信託をもっていたのです。
彼のやってきた活動はすべてそこに直結するものだと言ってよいと想います。

『ミサ曲』に代表されるように、多様性への理解とそれへの渇望が強すぎるために、作風が「とらえどころがない」と評価されることが多かったのです。
でも、時代は、レニ-の音楽の真価を問う状況になってきたのではないのでしょうか。
そして、その状況は、あまり好ましい状態ではないということも付記します。
ミュ-ジカルにみられるような「明晰」な音楽とはコントラストを為す「シリアス」な音楽は、大衆の期待を裏切った、とまで言う人がいます。
果たしてそうなのでしょうか?
大切なのは、見かけではなく、その奥にある伝言に聴き手が気付けるか否かが問われているのだと想っています。
レニ-は、「宿題」が好きな人です。
それは、自他共に課す難解な宿題です。
つまりなかなか答えが出るものではない現代的課題をはらんでいるはずです。

小曽根真さんとA.ギルバ-トさんのこのすばらしいCDは、L.バ-ンスタインとG.ガ-シュインの生誕記念として企画されたコンサ-トでした。
小曽根さんが示すソロやカデンツの創造的なアイデアは、作曲家たちの想定を超えた領域に達していて、聴き手を既成の枠から引きずり出す引力すらもっています。
『不安の時代』は、一見すると交響的なピアノ協奏曲のような作品です。
ピアノは、唯一無二の個人=「かけがえのない自己」なのです。
オ-ケストラは無数の「他者」=複雑で多様な社会なのです。
そう想って聴くと、この音楽の奇抜さは、まったく消えて、ひとつの託として、その伝言を受け取ろうとする聴き手の在り方が視えてくる気がします。
バ-ンスタインは肉体は滅んでも、まったくその魂と意思をもってして、いまを生きる私に宿題を問いかけ続ける「現役」そのものなのです。

浜田知名さんの展覧会

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ぼくが、初めて浜田さんの作品に出遭ったのは、遠藤周作さんの小説の表紙絵や挿絵の中でした。
この『狂った男(1962年)』は、ずっと強烈な印象をもっていたひとつです。
みているぼくは、「この男の人は狂っている」と想ってみていたとしても、本人は解っていないであろう「無自覚な状態」が怖かった。
だからこそ、「狂っている男」なのだけれど。
でも、人は、こういう状況に陥る可能性を誰もがもっているという恐怖。
集団心理における社会的な、「麻痺」という恐怖です。
それが堪らなく怖かったのです。

浜田さんは、美術学校を卒業後、すぐに兵役に就きます。
想像を絶する過酷さ。
肉体よりも精神や人間性が破壊されていく世界。
不条理な暴力がはびこる世界の中で、止められず流されていく自分の無力感への絶望。
何度も自殺を考えました。
それでも、浜田さんを生き続けさせた力とは何でしょう?
この問いこそが、この展覧会に臨むぼくの主題です。

皮肉なことに、この兵役体験が、浜田さんの創作の核をつくったのです。
権力の前に、自分の中の正義や思想が押しつぶされていく無念さ。
その現実を諦めかけている自分への責め。
自殺する前に芸術家として為すべき使命があるはずだ、という自問が、浜田さんの生を蘇らせます。
今回の展覧会は、その足跡を、時代の局面に区切って考察を誘っています。

浜田さんの国家権力の体制批判や全体主義へのアンチテ-ゼは、質的変容や方法論的多様性を伴いながらも、変わらずその熱意と反骨心を失わないのです。
そして、その反骨心は、暴力を容認してしまった自分の弱さへの訴追でもありました。
誰もが回避したくなるこの現実への直視こそ、浜田さんの芸術の真価だと痛感しました。
「生き残った自分の責任」を果たすという強烈な使命感とその意志が途切れないことに、驚嘆します。
浜田さんは、創作の原点を忘れずに貫き続ける芸術家として称賛されます。
1980年代になると立体作品も加わり、若い鑑賞者への伝播力をさらに自ら獲得した感が強いと言えます。

『ボタンA(1988年)』も、とても印象的です。
核兵器のボタンを押す人間の軽さ。
顔すらみえない軽さ。
この軽薄さの下に戦争の殺戮が展開される不条理を徹底して直訴しています。
ブラックユ-モアの軽妙さが、事の深刻さを対比的に際立たせているのです。
そろそろいい加減にしろよ!という激しい抗いが、みている人に突き刺さります。

いまこそ、浜田さんの「声」に耳を傾けるときだと、想います。
浜田さんは、昨年12月に100歳を迎えました。
人生からの問いや期待に傷みながらも応える芸術家としてぼくは、心魅かれます。
町田市国際版画美術館で4月8日まで開催中です。


ディテールより全体の雰囲気をイメ-ジする人 映画『ポール・スミス Gentleman Designer 』

ポール・スミス Gentleman Designer [DVD]
ポール・スミス
日本コロムビア
2011-11-30

トラディショナルを土台にして、そこに時代を読んだ要素をほんの少し入れてゆくセンス。
その「ほんの少し」を求めて、視点変換のための思考回路を増やす旅に、年中走りまわる人、P.スミス。
ロンドン、パリ、東京・・・・・・。
若いスタッフたちのアイディアを面白がるP.スミス。
彼は、絵が苦手なデザイナ-だ。
だから、言葉や手振り身振り、表情を駆使したコミュニケ-ションのライブ感の中で、デザインをカタチにしてゆく才能を磨いたのでした。
ディテ-ルより、全体の雰囲気やイメ-ジを示し、若いデザイナ-たちの発想を乗せやすいキャパシティを築く手腕に長けています。
その特長が、映像の終盤の写真家としての顔にもよく投影されています。
相手は、ロイヤルバレエ団のダンサ-たち。
短時間でなぜあれだけの表情が引き出せるのか?と驚くギャラリ-来館者たち。
全体の雰囲気やイメ-ジを放射し、関わる人たちとの「共有の知」を築く類まれなデザイナ-なのです。

第4の革命は?


人類の約700万年の歴史(いまのところ)の中で、3つの革命があったという論調で、編集されています。
①認知革命
②農業革命
③科学革命
が、そうです。
③の肥大、万能感と、それが及ぼす精神医学的な課題について、1970年代末から、故小此木啓吾さんは、その多くの著書や論文の中で何度も繰り返し語っていました。
③の先は、果たして訪れるのでしょうか?
ぼくは、「認知革命 第2章」の必要性を感じています。
「見えないものを視る」という力は、視点変換の回路であり、偏見や呪縛、差別を打破する種子のようなものです。
②③は併存しながら、①の再発見により、均衡と抑制が施されるのでなければ、やはり人類は自らの「進化」の墓穴を掘ることになるのでしょうから。

「ふつう」への揺さぶり、として

学校ななふしぎ
斉藤洋
偕成社
2014-07-02

ぼくたちは、多くの場合、ものごとを「昼の視線」で評価しています。
の視線」は、眼で見えることが中心になります。
ところが「夜の視線」は、眼で見ることよりも、音が聴こえるようになるので、音への語感が敏感になります。
意識していれば、視えたり聴こえたりできるのですが、そうでないと、突然違和感のある世界が訪れたように感じます。
「ギャップの認知」は、人の感覚を研ぎ澄ませる働きがあるようです。
それを巧く活かしたのが、怪談やSFです。
この絵本は、「夜の学校」を描いています。
昼の喧騒を「定番」とするのであれば、夜は「非定番」「非日常」です。
本当は、そんなことはないのですが。
闇の住人からすれば、夜が「定番」なのですから。
語感や「ふつう」に一石投じる絵本として、ぼくは読みました。

絵本『おなかのなかの、なかのなか』

おなかのなかの、なかのなか
あさの ますみ
学研教育出版
2012-01

れぞ、絵本。
ねずみ、ねこ、ライオン、大蛇。
食物連鎖の最下位であるねずみ。
それが、視点変換によって逆転現象が起き、最上位へと入れ替わる。

丸のみされた動物が、胃袋の中で、食べ物を待ち構えて食欲を満たす・・・という突飛な視点変換。
すると「弱者」ほど、たくさんの供給を得られるというところへ話が落ちてゆくのです。
・・・なんて書くと、堅っ苦しいのですが、これをユ-モラスに描く長谷川義史さんの画が、やはりすばらしい。
絵本の定番、「反復と変化」。
そして、そこに逆転現象という思考回路の仕かけが、きちんと仕組まれている巧さ。
やりますねえ。

絵本『いっしょにあそばへん?』

いっしょに あそばへん?
岡田 よしたか
金の星社
2014-10-28

『ちくわのわ-さん』の岡田よしたかさんの絵本。
この絵本にも、ちくわがでてきます。

「反復と変化」の話は、これまでよくしてきました。
絵本をデザインする時の不動の定番のひとつです。
この絵本は、それを④段階に分けて、つなげてゆく豪華版だとわかります。
①最初から楽器な楽器の登場
②食べ物だけど楽器の登場
③動物だけれど鳴き声が楽器の登場
④人間が演奏する楽器の登場
①から④が重なってゆき、最後は
まるで巨大なクレシェンド。
つまりラベルの『ボレロ』みたいな絵本です。
「一体、次は何が登場するの?」
子どもが心から待望するから、絵本は、善いのです。

絵本『おむかえパパ』


思考のif」全開の本。
全部なくしてしまう「if」。
でも、結論は簡単だった。
自分のあしでゆくのだ。
何という「確かさ」でしょう。
オレリ-・ギュレのポスタ-的な色彩感は、美しい。
特に、しろくまちゃんの部屋の絵がすごい。
赤、白黒のコントラスト。
鮮烈だ。
これ、ギュレさんのアトリエの色なのかもね。

映画『アリスのままで』

アリスのままで [DVD]
ジュリアン・ムーア
ポニーキャニオン
2016-01-06

コロンビア大学の言語学の教授として輝かしいキャリアを積んできた主人公アリス。
その彼女が50歳で若年性アルツハイマーを患う。
その過程を家族や友人との関わりを交えて描いた秀作です。

アリス演じるJ.ム-アの役者魂は凄い。
徐々に進行してゆく症状をメイクや表情、倦怠感を全身全霊で吐露するように演じ切っています。
周囲も「未知」のことで、いつも「寛大」なわけではない。
人は、日々の生活を営んでいます。
個々人に様々なドラマを抱えつつ、アルツハイマーとも向き合います。
その確執や苛立ちや・・・でも、諦念から滲み出る本物の「寄り添い」が実に深い。

遺伝性のアルツハイマ-で、三人の子どもも全員ではないけれど、受け継いでいることもわかってゆきます。
それでも長女は双子を授かる幸福を噛みしめます。
アリスが赤ちゃんを抱きかかえる場面。
周囲は、ハラハラします。
でもアリスは、こう言うのでした。
「抱き方なら知ってるわ」。

アリスは、アルツハイマ-についての講演を医師から依頼され、挑戦します。
「“なくすわざ”がいくら上達しても、自分を責めないようにしたい」と語るアリス。
「なくすわざ」でさえ、消すことができないもの。
それはアリスが築き合ってきた愛の物語です。
「抱き方ならしっているわ」という言葉にその情愛が深くとけていて、ぼくの一押しお土産言葉として引用したいです。
この映画は、愛の歌なのです。
甘さなど断じてない優しさに包まれた愛の歌。
アルツハイマ-は悲劇かもしれない。
でも、「私の人生は悲劇などではなかった」。
アリスは、アルツハイマ-と共に、「なくすわざ」と共に、愛そのものの人生を改めて確認していったのだ、と想いました。
決して消せないものがこの世界にはあるのだという信託が、芽生える映画です。

人生からの期待に応える生き方への転換


 
 
昨年の夏、私は、『残像』という映画を観た。社会主義リアリズムの荒波に抗うひとりの芸術家の生き方を描いた作品である。国家による、個人の表現の自由を徹底して潰す圧力。芸術家が絶命するラストシ-ン。ネキンのディスプレイの狭い空間で崩れ落ちる様に倒れる象徴的な場面。ガラスを一枚隔てた向こう側の街には、多数決に迎合し、流される市民が行き交う。芸術の自由を奪うことは、優れた作家を冷血なマネキンと化してしまう残忍さをもっているのだと、ワイダ監督は、真っすぐに訴える。しかし、それは同時に、最期までガラスの向こう側には行かなかった人間の尊厳そのものの表現ではないだろうか。A.ワイダ監督の遺作となった作品である。どんな圧力にも自分の信念を曲げない芸術家の思想でさえも、空腹をしのぐことはできない。映画は、圧政によって自由を奪われる芸術家の生々しい葛藤をも描き出す。だからこそ、その人間性の崇高さがさらに際立つ。歴史は、戦争が異質なものをその国の内外で、排除し、全体主義的な思想に傾倒させる病理をもっていることを繰り返し、私たち人類に示してきたはずである。しかし、人間は、忘れやすい生きものなのだ。/ A.ワイダ監督は、逝去する間近までそのことを訴え続けるアーティストだった。そして、その集大成とも言えるこの『残像』を最晩年に世に出したことに、私はとても「意味」を感じている。「晩年」とは、死をより意識するという意味でも、だからこそ「生」を意識するという意味でも、その両面において重要な「事柄」(「時期」ではない)だと想う。/晩年の岡本太郎さんの作品に「目玉」が顕著に描かれるようになったのはなぜだろう?/中村正義さんは、晩年、夥しい数の「自画像」を描き続けた。しかし、その自画像は、「内なる自画像」と言い換えられるほどの激しい自分の内面を吐露する“自我像”だった。/日野原重明さんは、「人生をどう生きるかということと、死を迎える覚悟は表裏の関係にあります」と語っている。またこうも言っている。「生きるとは、死に近づくこと。死の床で死を彫刻することはできない。死に至る前に、その死の顔づくりが自分でなされなくてはいけない」。/「晩年」は、死に向かう「生」をより意識して、自覚的に「私」の在り処を追究していくことなのだと想う。ということは、実は、人間は、年齢に関わらず、常に「晩年」を生きているとも言い換えられないだろうか?そう視点変換した時に全身に満ちていく血流の激しさを禁じ得ないのは私だけだろうか?人工知能の一般化によって利便性や合理性に拍車が掛かるであろう近未来。そして、異質性を排除する空気感を漂わせている世界の風潮。『残像』の主人公である芸術家が、体制側から「先生はどちら側か?」と、問われる場面があった。そしてこう応じる。「私は私側だ」。この言葉を私は、時代を超えて生きてゆく懸け橋として、未来に連れてゆきたいと想っている。

黄金期の歌声 久しぶりにパバロッティを聴く

誰も寝てはならぬ ~パヴァロッティ / プッチーニ・アリア集
パバロッティ(ルチアーノ)
ポリドール
1993-12-20

のCDは、プッチ-ニのオペラの愛のアリアと二重唱ばかり集められたアルバムです。
『ラ・ボエ-ム』『西部の娘』『蝶々夫人』『トスカ』『トゥ-ランドット』の5作。
もうひとつの大きな特長は、L.パバロッティの70年代初頭から80年になるかならないかの録音に絞ったオムニバスであることです。
この時期のパバロッティは、歴代のテナ-たちの追従をゆるさない、まるでロシアントランペット(T.ドクツェルみたいな)の遠い地平線の彼方に広がっていくような、輝かしい響きをもち合わせていました。
そして、この響きは、いまだに誰も成し遂げられていません。
唯一無二の歌手だったと想います。

安藤忠雄さんの「窓」

DSC_0042 (7)


































安藤忠雄さんの設計した「東京ア-トミュ-ジアム」。
安藤さんの建築における「窓」の存在感に注目するだけでもとても面白い。
窓の配置、大きさ、形、そして窓の「意志」には物語を感じることが多い。
この建物のこの窓、一回部分で唯一、「外界」が視える。
この窓の前に佇んでいると、外界の風景が、まるでアニメ-ションのように変わり続けるのです。
窓を「定点」だと考えると、外界はその真逆で「変わり続ける風景」。
その動的でありながら静謐な「額縁」のような「窓」に、安藤さんの美学が詰まっていたのでした

『日本の音』 ふとした音への感受性


稲城市に住むぼくは、「上谷戸公園」の愛好家でもあります。
早朝や宵闇時に行くと、周囲の喧騒が消え、音が際立つ。
音の主は「瀬音」「川音」。
そこに「鳥のさえずり」「虫の音」が交響し、"音の風景"が、できあがります。
そこへさらに夕日や風の音が加わると、もはや「交響的絵画」そのものなのです。
ぼくは、そういう他愛のないひとときに夢中です。

映画『Every Day』

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手塚悟監督の映画。
愛する女性が交通事故で昏睡状態になります。
ところが、毎日のように現れては、お弁当を彼氏につくり、会話し、ふと姿がみえなくなる。
幻なのか?
毎日の当たり前のような生活が突然そうでなくなった喪失感。
その時、初めて人は、凡事こそが倖せだと悟る。
お弁当を会社の屋上で食べながら、そのつくってくれた人は、病院で意識が戻らない。
この切ない感覚。
お弁当は、「温もり」「愛情」を嫌なくらい実感させてくれます。
おにぎりは、彼女の手の温みを通して、「生」を感じさせてくれます。
死に向かっている「生」です。
ところが、彼女が彼には視える。
「おかえりなさい」と心から言いたい。
でも、現実の彼女の肉体は、死に向かっている。
果たして彼女は、現実を受け入れようともがく男性が生み出した幻だったのか?
最後のシ-ンで、「ただいまごっこ」をする2人。
男性は「おかえり」と言わない。
敢えて言わない。
それは「死に向かってゆく生」ではなく、「死に進んでゆく生」として、彼女の死を受け容れようと努める男性の精一杯の愛だったのではないでしようか。
彼は、いつかこの死と「共に生きてゆくこと」ができるのだと、希望を想い、祈りたくなりました。
そして、彼女に死が訪れても、彼にとっては「落命」ではなく、傍にいて生き続ける存在になるのだと信じています。





小曽根実さん、安らかに


小曽根実さんが亡くなりました。
魅力的な演奏とその人間性は、セッションの愉しさを包み込む包容力に満ちていました。
だからこそ、実さんの死を、天国へ旅立つ「お祝い」だと敢えて想いたい。
息子の真さんが、ニュ-ヨ-クフィルと協演した『ラプソディ・イン・ブル-』を追悼の音楽として愉しもうと想います。
セッションの愉しさを全身で感じて音楽に奉仕する真さんに、実さんのソウルの面影を視抜いたのは、ぼくだけではないはずです。
ありがとう、小曽根実さん。
そして、真さん。

藤田メガネによる『すごい美術館』


藤田令伊さんは、「引っかかり鑑賞法」と「ディスクリプション」を組み合わせた鑑賞をはじめ、ものの視方の視点づくりを提案する類まれな「鑑賞案内人」だとぼくは尊敬しています。

その藤田さんが、「すごい」と言っている美術館本が出たと聴いて、読まずにはいられない!
「すごさ」は、一般論ではなく、“藤田メガネ”を通した「すごさ」なのです。
この本の章立てをみただけで、この著者の観点や視野の魅力が伝わってきます。

第一章「一度は見たい名品のある美術館」
第二章「ココロとカラダが喜ぶ美術館」
第三章「訪れた人の心が揺さぶられる美術館」
第四章「建築や庭が見事な美術館」
第五章「鑑賞力がアップする美術館」
第六章「スペシャルな個性化が際立つ美術館」

例えば、第一章の「名品」について、「最終的には各自が(名品を)決めればよい」と言っています。そこを前提にして、一般的な「名品」と呼ばれるものをみてゆきましょう・・・と問いかけてくるのです。この「前提」の有無は、人の観点や視点を育てたり喚起したりする上で、とても大切な所作です。藤田さんのア-ト鑑賞の足元にはいつも「それ」が呼吸するように在るのです。

絵本『雪窓』

雪窓
安房 直子
偕成社
2006-02-01

妻と娘を喪ったおでん屋のおやじさん。
真っ暗闇の山の麓に灯りをともすおでん屋。
・・・という幻想的な設定自体が、すでにお伽噺です。
ぼくは、このおでん屋は、故郷や郷愁や懐かしいもののシンボル化だと想っています。
その灯りには、魔物やら動物やら喪ったはずのものやら懐かしいものやらが、引き寄せられてゆくのです。
そして10年前になくなった娘さんも。

おでん屋を始めて10年。
娘を喪ったのも10年前。
そうか、死別とおでん屋の開業は無関係ではない。
おやじさんは、寂しさを紛らわせながら、どこかで異界とつながるきっかけを願っていたのではないでしょうか?
病に臥せていた娘を背負って峠を越えた記憶。
背中で冷たくなってしまった娘の感触。
峠の何処かに急いでゆけば、魂を拾えたのではないか?
自問と自責が幻想的なおでん屋開業と結びついた時、喪失と共に生きてゆくおでん屋のおやじさんの「生」が、もう一度再生を始めたのではないでしょうか?
再び、「生」が動き始めたのです。
おでんの味をお客さんに歓んでもらうことは、なくなった娘さんの供養にもつながるのではないか?
そして、娘の魂を引き寄せることにつながるのではないか?
それは娘さんの魂の成仏ではなく、実は、おやじさんの「魂の再生」なのだ、とぼくは、想いました。

山本孝さんの絵が素晴らしい。
30年ぶりに、屋台のおでん屋に行きたくなった。

『あなたがほしい』

サプライズ
ブルガーゴーズマン(ミーシャ)
ユニバーサル ミュージック クラシック
2008-04-23

リック・サティの『あなたがほしい』は、元々、「歌」でした。
いまから30年くらい前に、サントリ-ホ-ルで聴いた、ジェシ-・ノ-マンのリサイタルの記憶が蘇ります。

アンコ-ルを6曲くらい歌ったと想います。
その中に、『至上の愛』や黒人霊歌と混じって、『あなたがほしい』が入っていました。
ジェシ-のフランス語は、クロワッサンを思い起こさせます。
外はカリカリで中はふんわりです。
かつてライブでその語感にふれた時の新鮮な発見はいまでもぼくの身体に息づいています。

今回のCDによって、オ-ケストラ版を初めて聴きました。
聴いた甲斐があり、改めて、ぼくはピアノ版の方が好みだと確認しました。
この歌には洒落や軽妙さがほしい。
女性主権の口説きの歌だから、粋なリズムの寄り添いが歌にあってほしい。


往復書簡の向こう側 映画『チャーリング・クロス街84番地』

チャーリング・クロス街84番地 [DVD]
アンソニー・ホプキンズ
Happinet(SB)(D)
2015-10-02

ニュ-ヨ-クの作家とロンドンの古書店主との往復書簡が、映画の柱になります。
書簡を透かして、双方の人生の機微が交換されてゆく人間性の滋味に満ちたドラマ。
「フランキ-やっと来たわ」。
古書店を訪れた作家が、空き家になった書店で語りかけるラストシ-ンは、英国の上質な交響曲のエンディングのようです。
そう、V.ウイリアムズの田園交響楽が思い浮かびました。

往復書簡と言うと、ゴッホ兄弟やチャイコフスキ-とフォンメック夫人のそれを思い浮かべるぼくですが、また新しい「魂の交流」が加わって、深い幸福感を味わっています。

絵本『悲しい本』

悲しい本 (あかね・新えほんシリーズ)
マイケル・ローゼン
あかね書房
2004-12-10

息子を喪った男性の悲嘆。
自分を責め、他人を責め、無気力になり、再び自分を責める。
そして、誰とも関わらなくなる。
世の中が虚無に感じる。
しかし、人生はそれを期待していなかった。
男性が、そのことに気付き、悲嘆を受け容れようとするところで、この本は、終わっています。
悲嘆と共に生きてゆく予感を蝋燭の灯が象徴的に担っているのが、とても印象深い。

2つの「つれない心」

グラナダ、カタリー カタリー
カレーラス(ホセ)
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
1999-07-23

ラヴェル / 歌曲集<シェエラザード>
マクネアー(シルヴィア)
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
1998-09-02

①イタリアの名曲『カタリ、カタリ』。
「つれない心」とも題されることがあります。
失恋を熱く歌いあげます。
でも、最後は、贖罪師の「娘をそっとしといてやりなさい」という教示で、赦しに至ろうとするところで、歌は閉じられます。
「当事者」は、男性です。

②フランスの名曲『シェエラザ-ド』。
第3曲「つれない人」。
プラトニックな恋愛を暗示する歌詞。
「当事者」は、女性です。
そっと見守って、男性の去る姿を切なく見送るのでした。

同じ「つれない歌」なのに、当事者や国の違いで、まったく異なる表現が響き合う妙。
①は、若き日のカレ-ラス。
リリックテナ-の申し子のような抒情です。
②の、マクネア-の夢想的なMソプラノの響きは、いつまでも色褪せないと想わせてくれます。
イタリア語とフランス語の語感の対比もこの2曲の鑑賞に味を添えます。

「東京の夜」への眼差し 『東京人』394号


いつもの「見慣れた風景」は、実は、昼から見た視点に過ぎなかった・・・と理解することは、「当事者主権」を理解することに近いものの視方の獲得を示しています。
つまり、自分の勝手な思い込みで風景の価値を捉えていたことから、風景の持つオリジナリティを自分の思い込みとは違和感のあるものでさえ認めてしまうことへ、意識を変革させてしまうのです。
事例が実に面白く、写真も素晴らしいものばかり。
「暗黒の等々力渓谷」は是非行きたい。
タイトルも巧い。
“街角に隠れた異世界”
“歩く闇”
“五感を研ぎ澄ませて”
には「東京タワ-を“ちゃんとみない”」なんていうのもある。
ビルとビルの隙間からみる。水溜りやビルの窓に映ったタワ-をみる。
日曜日の深夜の有楽町ガ-ド下の異世界をたのしむ、という観点も実に独特で、「はっ」とさせられてしまう。
昼間の雑踏の音や光が薄れた途端、その時には感じられなかった様々な気配が、人間の五感を覚醒させるかの如く、出現するのかもしれません。まるで、それは、文字通り「異世界」への誘いのようでもあります。

「生」を輝かせてくれる「死の受容」



録音年数の間隔が30年以上。
①は、リズムの切れと身体的な反応速度の速さが秀逸。
終止符の後も、まだ、心身ともに余裕があり、引き続き「走れる」感じです。
②は、終止符を倒れ込みながら「掴みとる」感じです。
どちらが善いとか悪いとか、という話ではありません。
どちらとも「死に進んでゆく生」の輝きを精一杯に発しています。
ぼくたちは、生まれると同時に「死の遺伝子」を背負っています。
生き方をどうするかもがくことと、死への決意の確かさはまったく表裏一体です。
①の若々しい生命力も、②の最後の演奏会での倒れる寸前の指揮も、どちらも自分らしく堂々と生き切っている点で、遜色がないのです。
②を聴きながら、若き日のレニ-の顔が重なって視えて、何だか胸が一杯になりました。
「晩年」は、「死に進む生」を①の時代よりもさらに意識するからでしょうか。
でも、①の躍動感は、「生」の燃焼が強ければ強いほど、その影が長く伸びて、やがて受け容れることになる「死」を予感させます。
逆に②は、追い求める「生」への果てしない「青春への執着」が、「死」を受容した充実感を湧きたててゆくのでした。
ぼくの青春すら支えてくれるレニ-に改めて「ありがとう」ですね。

動画的写真


ロバ-ト・キャパの写真の対象との距離感は、やはり独特です。
写真の分野は異なるでしょうが、岡本太郎の写真との共通点を感じられたのが自分でも嬉しかったです。
2人の共通点は、写真が静止画像ではなく、動画そのものだ、ということです。
写真が動いているのです。
写真の中の風景、人、出来事、そしてその向こう側にある感情が動的に観る者に迫ってくる感覚です。
2人とも、やはり鑑賞者の好みをはっきりと分けてしまいます。
だからこそ、魅力があるのですけれど。

それにしても、岩波文庫が1400円もして、しかも写真集を出版するとは。
前者はあまり歓迎しませんが、後者は拍手です。

歌の存在感 映画『わたしは、幸福(フェリシテ)』

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もし、フェリシテがアフリカに生まれなかったら、「倖せ」だったのか?
もし、フェリシテがハリウッドのプロデュ-サ-と出合っていたら、メジャ-デビュ-できたのか?
そういう条件とか、時と場合が違っていたら、なんていう「仮言命法」を一切消して視ると、最後に残ったのは、やはりフェリシテの「歌」でした。
映画のエンドタイトルが面白い。
音楽を一切排したのです。
そのことで際立つのは、やはり「歌」そのものの存在感でした。
余計な雑音を排した時に残ったものの価値について、想いを巡らせた映画でした。

メッセ-ジとしての昔話

ろばの子―昔話からのメッセージ
小澤 俊夫
小澤昔ばなし研究所
2007-08

昔話の文法を、世界中の国も時代も異なる昔話の事例から発見した小澤俊夫先生との出逢いによって、ぼくやぼくの教え子たちは、さらなる思考の運動やものの視方の新たな地平を可能にしました。

この一冊は、昔話を読み抜く👓の中でも、昔話からの「託」に焦点を当てているのが、読書としての構えをもちやすいのです。
若者の失敗、葛藤、成長への応援歌。
そして、愚かな行いや振る舞いを赦し、弱者を気にしているその眼差し。
ぼくたちが、知っていると想っていた昔話の定番に、新しい視点の光をあてることで、まだまだ新たな発見があることに、知的な歓びが満ちてきます。

『かにのふんどし』には、特に感心させられました。
異なるものへの偏見や決めつけを超克してゆく物語として、若者たちが、失敗をした仲間を気にかけ、助けようとする姿。
そして、人生のベテランもその姿から学ぼうとする態度。
時代を超えた世界観の普遍性に、感銘を受けました。

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