つぶやきコラムABCDE

Art Book Cinema Documentary Education  

あの日、太陽ですら気を失ったのだろうか?

太陽は気を失う (文春文庫)
乙川 優三郎
文藝春秋
2018-09-04

東日本大震災の日の津波の映像は、インタ-ネットの映像で、世界中の人が視直すことができます。
津波が、街を飲み込んでゆく中で、空は曇り、霙が降り注ぐ光景。
あの場面に死生と対峙していた人は、「あの空」をどう想ったのだろう?
いつもそんな問いをこころにしまっておいた。
自然は、文字通り自然なだけに、人間の都合なんて感知するはすがない。
でも、そうとは言え、故郷が壊滅する最中、空模様まで、霙や雪を降らすなんて!
乙川さんの短編小説『太陽は気を失う』では、それを「太陽が気を失っていた」という表現を使っています。
あの日の自然の底力の片鱗に遭遇し、人間のみならず、希望の光である太陽ですら、気を失ったのだ、と。
ぼくは、「大切なことを忘れない練習」に誠実でありたいと想う。

不条理な惨劇 ぼくは何をするのか?

a77286_1c6ae36004c747f7bca107b26198ada0~mv2[1]森美術館へ行く。

不条理な惨劇に対して、芸術・文化の力で「何をするのか?」。
もはや、「何ができるのか?」という問いでは、他人事なのである。

映像作品が多いために、滞在時間を余儀なくされ
ます。
鑑賞者にとって、とてもエ
a77286_9fed29adba1047fb8214bda8ea580958~mv2[1]ネルギ-が必要な展覧会。
疲労感に苛まれました。
自分の中の怠惰さ、声を上げない脆弱さと直面するからこその疲弊。
悔しく、とことん無念で、歯ぎしりを超えた諦念に近い喪失感と対峙する。
疲れと無力感。
一回の鑑賞では、とてもカタルシスまで達することはぼくには無理でした。

ぼくが、もっとも印象的だったのは、エヴァ&フランコ・マッテス夫妻の映像です。
チェルノブイリ原子力発電所事故で、開園が叶わず放置された遊園地の遊具をマンチェスタ-へ移築するドキュメンタリ-。
単なる遊具の移動ではない。
それは止まった時間。
放置された時間。
科学の傲慢さに置き去りにされた人間性の堕落に対する訴追なのです。

美術館の企画はいつも鋭敏で感心しますが、ぼくは、心の底から高層建築が苦手。
こんな空の上に美術館を配置されると、このままどこか、天上界へ連れ去れるような気分になり、落ち着かないのである。
高いところにいると、物事を見下ろす視点が、染み込むような気がして、心がざわついてしまう。
困ったぼくか?
困った高層建築推進者か?




森の中のオノマトペ


森の中に在る、オノマトペを蟹江さんの美しい版画と共に味わう。
これから、乾いた落ち葉の音がたのしみな季節が巡るのだ。
この本を小脇に抱えて、散歩する小さな希望を胸に抱くぼくである。
妻が図書館で借りてきてくれた一冊。

出逢いをものにする力

棒を振る人生 (PHP新書)
佐渡 裕
PHP研究所
2014-10-16

佐渡さんをはじめ、優れた芸術家の資質のひとつに、「出逢いをものにする力」があると想いました。
その「出逢い」への愛と価値付けをやはり「ものにする力」が伴いつつ、現在のキャリアに行き着いてるのがわかります。
「出逢い」の様々な逸話を読むだけで、至福の時間であり、自分が巡ってきた「出逢い」の妙を改めて、重ねて想うのでした。

ドラえもん短歌


どこでもない
ここにいたいと気付くだけ
何度どこでもドアを開けても

これは、P46平賀谷友里さんのうた。

ポケットから出てくる究極の利便性たち。
しかし、それは、日常の当たり前こそ、ぼくらが感じるであろう幸せを内在していることを際立たせているに過ぎない。
そのことにのび太は、気付くのです。
その感性をのび太は心の奥にいつも秘めている。
「ぼくら」とは、自称先進国の上から目線のみならず、戦争中の国でも、災害に追われた土地でも、どこでも含まれます。
どんな時でも場所でも状況でも、幸せはその時々の人が、「感じるもの」だと、ドラえもんは、伝えたかったのです。
そういう目線でこの本を捲ると、それはそれでまたおもしろいのです。

とらわれて夏

とらわれて夏 [DVD]
ケイト・ウィンスレット
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2015-02-04

耐えがたい喪失体験や自責に苛まれる悲嘆。
底知れぬ悲しみが双方を引き寄せ、癒し合う運命を感じてしまった。
殺人犯とそれを匿う親子という関係性では括れない息遣い。
その理屈抜きの「シンクロ」。
呼吸と手のぬくもりという、もはや詩人でしか表すことのできない領域をこの映画は、果敢に挑み、描く。
人間の成長のドラマの朽ちることのない応援歌。
その粘り腰とも言える信託が、この映画を単なるお伽噺から切り離したのだと想うのです。

絵本『ようかいオジジあらわれる』

ようかいオジジあらわれる
よなは かんた
くもん出版
2004-06-01

この世の父親たちが、いつも厳格で、強さの象徴みたいなものだと思っていた頃。
時々、夜中に酔って帰ってくる、あの姿とのギャップ。
子どもにとってはとても不思議なあの感覚。
それでいて、なぜか、ちょっぴり嬉しかった。
こんなバカみたいな部分もあるんだ。
父ちゃんも昔は子どもだったのかもしれないとでも想える様なあの感覚。
この絵本は、その「感じ」をうまく、おもしろく、愛情をもって伝えようとしているのです。
子どもに読むと、アンコ-ルのとても多い、絵本です。

おにぎり


海苔の上に、縦で5文字だけ。
すごい表紙ですね。
わず手に取らせる装丁。
おにぎりは、人の手で包み込むようにつくられます。
人の手は、絵や彫刻をはじめ、この世界を創造する神秘の泉のように造形を営んできました。
おにぎりが「最強」なのは、つまりは、そこに尽きるのです。
八戸の「節子さんのすじこにぎり」の、おにぎりをにぎる手元の写真が善いですね。
撮り手の節子さんへの敬意というか眼差しが、何だか温かいんだなあ。

一ツ山チエ展 

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今から、一か月ほど前に、調布市の「たづくり」で、みた展覧会です。
新聞を細長くよったりまるめたりします。
それらを組み合わせることで、動物たちが生まれます。
体験コ-ナーもあるので、ぼくや家族も「こより」に少しばかり貢献して来ました。

ぼくは、ふと、あんどうえいさくさんの絵本『あくしゅだ』を想いました。
繊細な線を丁寧に大胆に集めて描くあのデッサン。
一ツ山さんは、それを細長くよった新聞紙にしたのだ、と。
捨ててしまえばただの廃物。
しかし、人間の体温が手を通してそこに付与されると、たちまち生まれ変わるのです。
うん、元気が出てきたぞ!

視直されるバーンスタイン 


置き去りにされた屋根裏ピアノを勝手に自由に弾いて大きくなった人。
表紙写真は、そのまま大人になってしまった芸術家の「天才」が躍る。
そして、天才は、孤高の人である。

バ-ンスタインが視直されている。
まず、作曲家としての再評価だ。
第2交響曲。
ピアノのソロは作曲者の自画像だ。
自他の「自」そのものである。
オ-ケストラは、自他の「他の総体」である。
だから、この曲はピアノ協奏曲とは異なる。
「自画像」の究極は、ミサ曲である。
よく言えば多様性の権化。
悪く言うと多動的で分裂症的だ。
今までは、後者の評価。
でもこれからは、前者の視点で再評価されるだろう。

若いころ、ニュ-ヨ-ク時代の「勢い」。
ピアニストとしての「本気のあそび」。
マ-ラ-とショスタコ-ヴィチに自画像を重ねる人。
彼の音楽への親密な距離感こそ、賛否を分ける神秘。

面倒くさい人だ。
だから、魅力的だった。
いまだからこそ、彼は生きなければならない。
再評価の時代が到来した。
お帰り、レニ-。



自らの魂を救い、生きてゆく 絵本『あくしゅだ』

あくしゅだ
あんどうえいさく
クレヨンハウス
2013-04-24

の力、もっと言えば「線の力」に惹かれて、購入しました。
あんどうさんは、自らのアトリエを津波で喪いました。
戦争でアトリエを焼かれたのと同じだと言った人がいるけれど、それは全く違うよね。
自然には意図などない。
天変地異のいつもの営みは、人類誕生の遥か昔からあったのだから。
だから、この事態に直面した人は、何を恨んでよいかわからない。
どこに心の拠り所を見付けたらよいかわからない。
でも、原子力発電所だけは、別です。
戦争で故郷を奪われたかつての日本と何ら変わらないのです。
人が、テクノロジ-の制御を過信して、誤ったのです。

あんどうさんは、失意のどん底に、自然の営みへの畏怖と共に自然への敬意の光を視つけます。
背負い、恨むのではなく、いままで通りがそうであったはずの「共に生きてゆく」という歩み方を改めて見出すのです。
大地と海が目の前でせり上がり、人類の前に切迫してくる画の迫力。
いえ、「線の」畳みかけるような力感。
ところが、少年の前に来ると「線」が、手に変わり、握手をします。
このコペニクス的転回に、あんどうさんの魂の救済とも言えるセルフカウンセリングの営みが内包されているのが、解り、胸に迫ってくるのでした。
どんなに試練や悲しみに接しようと、人は、光をみつけようとすること。
そして、それは同時に、ぼくらがこの地球の大地の上に立たせてもらっているという謙虚さの自覚でもあるのだと想うのです。

「変化」に予定調和を入れるか否か




絵本は、「反復と変化」がその「文法」として、子どもの待望する気持ちを盛り立ててくれることが多々あります。
でも、「変化」についてもう少し・・・・・・。

たくさんの絵本を読み続けていると、「変化」が「連続性」を伴うケ-スが圧倒的に多いです。
つまり、予定調和的なのです。
試練の連続とハッピ-エンドも含めてです。
でも、長さんの絵本は、別です。
反復と変化が、予定調和的な連続ではなく、あまりそこに説明的な意味をもたせない反復と「変化」なのです。
ナンセンスと言われるのもそこなのですが、ちょっと変なの=ナンセンスだと思われると違います。
長さんのナンセンスは、超現実主義的な表現の自由闊達さの漲りの結果であり、上っ面を真似してもその領域には入り込めないものだと想います。


宵闇 光と陰が融け合う時間

ナイトフォール(初回限定盤)(DVD付)
アリス=紗良・オット
ユニバーサル ミュージック
2018-08-24

だ、フランスの作曲家を並べたものとは、一線を画します。
選曲を貫くのは、光と陰。
でも、コントラストとしてではなく、境目が曖昧な融け合うニュアンスが絶妙。
宵闇だと感じる演奏もありますが、逆に闇から明けてゆく感じもあって、その曖昧さも気に入ってしまいました。
マイベストワンは、『亡き王女のためのパバァーヌ』です。
いつか見た夏の夕暮れの空を想います。
それは、ノスタルジックなイメ-ジとは違って、いわば夜への、闇への前奏曲という想像が膨らむようなピアニズムなのです。
プログラムの構成、順序にも物語としての面白さが練り込まれていて秀逸です。

人間は生きなければならない

みは「げんし」っていうちいさなつぶでできている。げんしはちいさすぎてけんびきょうでもみえないけど、きみのからだはむすうのげんしがあつまってできているんだ。 P1

むかしむかしおおむかし、きみはたったひとつぶのげんしだった。"P2

138おくねんまえからきみのたびをたどってみよう。 P3

 

たびのとちゅうでどれかひとつでもたりなかったら。きみはこのせかいにうまれなかったかもしれない P35

 

ひとつぶのげんしだったきみは、138おくねんをかけて、パパとママのあかちゃんになった。 P36


地球という水惑星誕生の奇蹟。
そして、地球に宿った小さな生命。その生命が人間にまで至った奇蹟。
だから、こそ、人間は生きなければなりません。
これは、ぼくの大切な恩師であるO先生の教えでもあります。
「命は唯一無二」です、とよくぼくたちは子どもたちに言います。
でも、エビデンスが脆弱なことが多いのです。
ぼくたち大人が、決意をもって探し続けるのが「そこ」だと想います。
「そこ」から、願いや具体的目標が立ち上がらないと、観念的で建て前的な領域から抜け出すことはできません。

でも、探し続ける事をやめなければ、人間は、ぎりぎりのところで過ちへの違和感を唱えて、大切なことを大切に護る()ことができるのだと信じたいのです。    
細田守さんの映画『未来のミライ』米林宏昌さんの映画『小さな英雄 カニとタマゴと透明人間』も、まさに「そこ」へのアプロ-チだと感じ入ります。

 



写真集「すいじんのえのき」

【写真集】すいじんのえのき: 多摩川の四季、人びとの暮らし
荒川 健一
彩流社
2018-07-09
漢字にすると、「水神の榎」です。
ぼくもここに実際に行ってみました。
都立狛江高校の横の川沿いの道をしばらく行くと、着きます。
歩くと20分くらいかかるでしょうか。
意識しないと通り過ぎてしまいますが、この写真集にふれた後に行くと、
もう特別な存在になっています。
「意識すれば視えるのだ」、と元気が出ます。
元気というか、もはや勇気でしょうか。
いつもそこに当たり前のように佇む榎。
通り過ぎたり立ち止まったりする人々。
時間と人の生きる体温が、榎という定点を動いて交差してゆくのです。

「知らなかった」「気づかなかった」というのは簡単でしょう。
でも、もしかしたら「知ろうとしなかった」「気づこうとしなかった」から、「知らなかった」「気づかなかった」のかもしれません。
ぼく自身に問い続ける大切な伝言に出逢いました。


復興の象徴 死生と向き合う象徴 そしてラグビ-

2018819203036TOAYN[1]180730_01[1]19日に、釜石市の鵜住居に完成したラグビ-場の杮落しが行われました。
海と山に囲まれたラグビ-場。
低層構造で、この美しい海辺のまちに融け込むような佇まいのスタジアムもまた、美しい。
是非、足を運びたい場所です。
開会式で、代表の言葉を担った高校生は、「このスタジアムの土地には、かつて自分の母校である小学校と通うはずだった中学校(鵜住居小、中)があったのです。」と語りました。
震災から二か月後に迷いながらも強い想いをもってラクビ-を再開した釜石シ-ウェイブスは、このスタジアムと共に、復興の象徴としての歩みを進めています。
当時から、そして今回も対戦を買って出た静岡のジュビロヤマハの心意気は人の胸を打ちますね。
清宮監督は、こういう感性の感度が高い人です。
釜石のために、と思ってやっていることが、実は、釜石からパワ-をもらっていると感じられる感性なのです。
今年もヤマハは、手強いですね。
このスタジアムは、来年のワ-ルドカップの会場のひとつにもなっています。
たくさんの世界の人々が、ここを訪れて、関心を高めてもらうことで、住んでいる人の自尊感情も高まってくれたら心から嬉しいです。

佐渡裕さんの体験と想いが結実した絵本 『はじめてのオ-ケストラ』


たこうしろうさんのすばらしい絵の夢想が、指揮者の佐渡裕さんの願いと実体験を彩る美しい絵本です。
ひとつひとつのコンサートが音楽への飽くなき追求心に満ちたものであることを願いたくなる一冊です。
その一回のコンサートに聴衆の様々な人生の瞬間が交差していると想うと、ステージやロビ-の風景がいつもとちがって視えてくる気もちになりますね。

芸術新潮 8月号 藤田嗣治特集


今年は、特に、藤田さんの本や展覧会、ギャラリ-企画が盛んです。
しかも、特徴的なのは、「多様な藤田」へのアプロ-チが光ります。
ぼくが、藤田さんの作品を認知したのは、国立近代美術館の所蔵作品展で繰り返しみてきた戦争画でした。
そろそろ視方を変えないといけないなあ、と思って、芸術新潮に刺激を受けました。
「5人の妻」を軸にして、「藤田」を捉えると言う視点も実に面白いと想いました。
藤田さんは、伴侶依存症というか、いつも女性が傍にいないとだめな人だったようです。
研究者の同僚のような妻、モデル兼妻、日々の伴奏者など、相手によって求める面が違うのもとても独特な人だと想いますが、紛れもなく「ひとり」がだめな人でしたね。
レオナ-ルと言われたのは、最後に再び渡仏して、市民権を得て、カトリックの洗練を受けた晩年の10年くらいだけでした。
藤田さんは、生涯や伝記をきちんと学んでから展覧会に行った方が、断然おもしろい作家です。
書簡だけに注目してもおもしろい人です。
というわけで、上野の展覧会に出かけようと思っています。

「不安」という名の恐怖

恐怖の構造 (幻冬舎新書)
平山 夢明
幻冬舎
2018-07-30

平山さんの作品は、かなり読んでいるので、どんな考え方をもっているのか興味をもって一気に読みました。
精神科医の春日医師との対談も気軽に読めます。

印象的な言葉に線を引きつつ付箋をペタリンコンして読みました。
それをいくつか引いてみましょう。
平山さんの論でおもしろいと思ったのは、「恐怖」と「不安」の区別をしていることです。平山さんは、選択と対処、判断の余地が少ない、漠然とした怖れのことを「不安」としました。
そして、それこそが、「恐怖の構造」をつくる礎なのだと説いています。
ぼくが付箋を貼った箇所を少しだけ・・・・・・。
・「自分たちにそっくりでありながら、自分たちとは異なる存在」に遭遇した時、僕たちは自らのアイデンティティ-に危機を感じ、恐怖をおぼえる。(P26)
・欧米のキリスト教は・・・基本的には父性が根底にあります。(中略)
それに対して、日本の仏教は母性的な要素が強い宗教です。菩薩などはまさしく母の象徴でしょ。慈母は赦し、認めるんです。そのため、幽霊は退治という言葉を使わず、「成仏した」と言われるわけです。あれは一種の和解なんですね。(P46)
・ホラ-映画が突出して流行る場合は、その背景に社会不安がある傾向が強いようです。(P66)
・よく知る人間が変貌していく、別な顔を持っているということは、自分が信じている日常が揺らぐことを意味します。それは人間にとって、最大の不安にほかならないのです。(P66)

これらの言動を気にしつつ、平山さんの短編を再読しようと想います。

儀間比呂志さんの版画と沖縄を護る志の強さ、深さ

gima_banar[1]丸木美術館の企画展に、儀間さんの愛と訴追と祈りの版画たちが並んだ。
立命館大学の国際平和ミユ-ジアムには今から、十八年前の夏に妻と共に足を運んだ記憶があります。ここの25周年記念展覧会の作品が、埼玉県の丸木美術館にやってきたというわけです。

多色刷りもすばらしいのですが、ぼくには、白黒の版画の方が、豊かな色彩が視えてしまうのです。
この体験は、ルドンの作品に対しても言える事でした。
光と陰の対比によって、行間の感情や告白、ジレンマが浮かび上がるのです。

人間の尊厳を踏みにじる権力の不条理さに対して、断固として抗います。
抗うだけではないのです。
「あなた方が、踏みつけているのは、母なる大地であり、脈々とその大地の上でいのちを営み続けてきた愛の系譜なのですよ。」と、問い続けています。
そして、郷土への愛を謳った版画は、何という美しい鮮烈な多色の美でしょうか。
8月の丸木美術館には、一期一会の出逢いがあるのだと、実感した8月7日でした。

丸木美術館へ


せんそうごっこ
谷川 俊太郎
いそっぷ社
2015-09



8月6日は広島に原子力爆弾が投下され、9日は長崎にも・・・・・・15日は天皇より終戦の告知があった日です。

ぼくや家族たちは、8月7日に埼玉県東松山市にある「丸木美術館」と「ピ-スミュ-ジアム」に出かけました。埼玉県の熊谷市は、終戦の告知がされた前日の14日の夜に「最後の空襲」をされた街なのです。
ピ-スミュ-ジアムのアニメ映画ではそのことをきちんと伝えています。
熊谷は、学童疎開の児童を受け容れていた街でもありました。
また、埼玉県は秩父を筆頭にして戦争の武器の原料になる岩石資源の産地でした。
つまり、貨物鉄道で軍需工場に運ぶ途中を爆撃されるわけです。アニメは、さりげなくその場面を描いています。
東京で家族を目の前で失い、避難してきたはずなのに、熊谷で再び戦禍にさらされた子どもたちがいたのです。

丸木美術館では8月中は無休開館を実施し、ひとりでも多くの人の来館を誘っています。
丸木美術館一筋の学芸員である岡村さんの本です。
出かける前に読むと、美術館や作品への想い入れが芽吹き「出逢い」の妙を感じさせます。
夫婦である丸木俊さんと位里さんは西洋画と日本画という畑の異なる作家にも関わらず、共同制作によって巨大で深遠な作品に挑み続けました。
部分を細かくみるのと同時に、作品全体の画面構成と伝わる世界観を俯瞰する、鑑賞者の「体力」を求める原爆の図シリ-ズたち。
史実をつたえる意味と共に、鎮魂と平和祈念を綿密な研究・取材をエビデンスに描き続けた執念、信念に魂を揺さぶられる想いです。
何度みても、その時のぼく自身の心身の状態が、作品と呼応し合い、鑑賞の新鮮な体験を呼び覚ましてくれるのが凄い。
ぼくの誕生日が8月16日ということもあり、毎年、8月は1日から中旬までを「人間の尊厳と命を想う週間」にして、文献研究やミュ-ジアム研究を通して自分を揺さぶろうとしてきました。
丸木美術館へ是非どうぞ。
そして、ピ-スミュ-ジアムとの組み合わせもお薦めしたいです。

三輪滋さんの画が鮮烈で印象的です。
人が皆、どんな状況でも「笑っている」のです。
そして谷川俊太郎さんの言葉との化学反応によって『せんそうごっこ』は、完成してゆくのです。

「せんそうってべんりだね、ひとをころしてもだれにもしかられない」。

強烈な一行。



ひろしまあぴーる展 1983-2017

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覧会図録のP5の亀倉雄策さんの言葉が胸にいつまでも突き刺さる。
「再び申し上げます。平和ポスタ-には、ひとひらの詩情とひとすじのドラマがなければなりません。この二つの要素がないと表現に深みがなく、浅薄で平板なものになってしまいます。平板では人びとの心の扉をたたくことはできません。人びとの心に深く食い入ることで、良心の魂を呼び覚ますことができます」。

過去のどの作品も類まれな表現です。
たったひとつ引用するなら、2013年のポスタ-にします。
葛西薫さんの作品です。
夏の太陽を見上げているひと。
でも「あの日の太陽」は、違う太陽だったのです。
あの太い線の向こう側に「原爆は、一人の心に刻まれた、たいせつな人への思慕、恩愛までも奪うことはできない(P42)」という飽くなき希望を秘めている名作です。
毎年、創られて、続けられてゆくこと。
つくり手、受け手の心の中にいつも「ひとひらの詩情とひとすじのドラマ」が脈々と呼吸し続ける事を祈りたい。
そして、それは、私自身の責務であるのです。


企画の秀逸!『版画キングダム』町田の展覧会より

image[1]町田市立国際版画美術館の企画展で、ここ数年のマイベスト企画だと、心が躍りました。

版画を巡るロ-ドムービ-のような展覧会です。
単に国から国へ、作品から作品へ旅をするのではありません。
そこに旅人の成長も盛り込んでいるので、テーマが物語のように連続性があり、次々に未来の扉を拓いて進んでゆく感じが本当にすばらしい。
自然⇒旅⇒年⇒祭り⇒恋⇒謎⇒苦悩⇒祈り⇒お帰りなさい・・・とつながる展覧会。
ぼくは、旅人になり、この展覧会を旅して巡る。
思い切り愉しみたい。
「祭り」での竹田しん三郎さんの作風はやはり際立つ個性が、流石。
「苦悩」での田中恭吉さんの早逝を惜しむ。
晩年の『月映つきはえ』は心にいつまでも残る。
ムンクさんの『病める子』も、姉の追悼をいつまでも忘れないムンクさんの悲嘆を察したい。
「祈り」でのルオ-さんや棟方志功さんの生命力あふれる線の貫禄は、唯一無二です。
「お帰りなさい」の畦地梅太郎さんの作品は、民芸の生活の肌理が満載で、素朴な美を堪能しました。
こんな素敵な世界の旅が、町田で出来たことが何よりの収穫だと歓びたいですね。

加古さとしさんと太田大八さん と共に生きられる 歓び

絵本作家のアトリエ1 (福音館の単行本)
福音館書店母の友編集部
福音館書店
2012-06-10

川崎市民ミュ-ジアムで加古さんの展覧会を開催中。
今年の5月に亡くなった加古さんが、ずっと待望していた『かこさとしのひみつ展』

小学校6年の時の小学校生活を回顧した「絵日記」が素晴らしい!
まさに、将来の天職を暗示していたのでした。
加古さんは、川崎市の東古市場で日曜子供会を開催していました。
元々、東京大学のセツルメントの活動で、地域の子どもたちに絵や作文、遊び、演劇などなどのボランティアをしていました。
この活動は、現役学生のみならず、OBも参加していました。
この力は、全国のモデルになり、いまの日本のボランティアの礎になっているのです。
東京大学が何となく「すごい」のではなく、こういう人たちがたくさん集まっているのが東京大学だという事実が「すごい」のですよね。
私の亡き母や叔母や叔父たちも知っているはずです。
古市場一丁目が住まいでしたから。
加古さんが勤めていた昭和電工の研究所が、御幸公園のそばで、会社の寮から徒歩で通勤していたそうです。
東古市場は、住まいの傍でもありました。
仕事は土曜日まであった時代ですから、土曜日の夜に紙芝居やらなんやら子供会の準備に奔走していたのだそうです。
まさか、絵本作家になるとは、本人も驚きだったことでしょう。
1970年に最初の作品が世に出されました。
『道具』と『とこちゃんはどこ?』です

『絵本作家のアトリエⅠ』に、何と加古さんと太田さんの対談が!
お二人とも逝ってしまいました。
でも、魂は肉体から離れても、作品という生命に魂は生き続けています。
そして、作品と共に、お2人の「生」が共にあるので、私は、実は、寂しくなんてないのである!

映画『未来のミライ』「順繰り」のいのち。だから大切にするのです。

151447771277064699180[1]冒頭から徹底して主題からブレない。
「順繰り」と言う名の伝言。
この主題を分かち合うために、時空を超えるのはありふれた手法かもしれない。
でも、この映画は、SFではなく、「順繰りの愛の系譜を描き切る」という意味で優れています。

「くんちゃんは、私の宝物。」
「それって昔の私の台詞じゃない。」
「いまは私の台詞よ」。

くんちゃんの母親とその母親の親子の対話。
ぼくの一押し台詞「私の一行」を問われたら、迷うことなくこれにします。

冒頭は、主人公の住宅を空から映すという象徴的な場面。
住宅が時間の流れで変化してゆく。
最初から、「順繰り」を大切に描いているのです。
ここからも、映画製作への「覚悟」が視えます。
また、空からの視点は、普段、気付かないものごとへの眼差しを誘うことが多々あります。
桃太郎の物語を空から見たらとか、部屋の写真を天井から撮ったらとか、近頃、そういう視点変換が散見されるのは、ぼくとしても大歓迎です。
映画の短い時間の中で、主人公の子どもだけではなく、見守る周囲の大人たちも成長してゆくのがとても心地よく感動的です。
そして視ている私も自分の半生をふり返ります。
「いのちの重なり」を想います。
細田守さんは、このひとつのいのちにかけがえのない複数のいのちが重なって、順繰りにつながってきたその歴史の尊さを謳っています
だから、どんな理由があっても、そのいのちを侵すことを人類はしてはならないのだ、という警鐘でもあるのです。
曾おじいさんを登場させるのは、戦争を経た世代を含めた4世代のバトンを描く必要があったからでしょうね。
この映画の伝言には、次世代への愛が詰まっている。
「細田さん、ぼくも、方法は異なるけれど、いのちを重ねて生きてゆくよ。」
そう、つぶやいたぼくでした。
そして、SF的に時空を超えられない私たちは、その代わり、対話によって相手を理解する中で、時と時を結んでゆけば善いのだ、と想います。
映画の中には、そんなことを考えるヒントが詰まっています。

ブレない成長

亡き王女のためのパヴァーヌ~ラ
ロジェ(パスカル)
ポリドール
1993-04-24

1970年代のロジェのピアノの世界は、今よりも淡々とした素っ気なさの中にきちんと郷愁とか愛らしさとか人間の情感が出ている「不思議さ」が、すでに萌芽していたのだ、と感心しました。
芯はブレずに洗練さとか優美さとか、香高さとかが、増していった彼の歩みに何だか心魅かれます。

「ブレない成長」と言えば、ラベルも同じです。
音楽院時代の『亡き王女のためのパヴァーヌ』を元にして、『クープランの墓』の「メヌエット」と比較しても、音楽的な特徴を鮮やかにもちながら、作曲の構成力、特にドラマの展開の妙は後者は流石に経験を重ねた味が出ています。
その反対に、『亡き王女・・・』はテクニックでは出せない、青春の抒情というア-トの味わいが際立つのでした。
どちらも、時を超えた懐かしさや郷愁にも似た情感をク-ルな佇まいで包んだような音楽性がすばらしいのです。
ロジェのピアニズムは、そのあたりの情感の二面性のような部分を何か巧くさり気なく弾いてしまう「心にくさ」があるのですよね。

未知にふれる歓び アンスネスのシベリウス

悲しきワルツ~シベリウス:ピアノ名品集
レイフ・オヴェ・アンスネス
SMJ
2017-09-13

れは愛聴盤として末永く付き合うことになる一枚です。
シベリウスのピアノの小品を作品5から114の幅広い時期を網羅しつつ、24曲紹介しています。
発見①シベリウスはピアノ曲の作曲について苦手意識をもちつつも、こんなにすばらしい小品をこの世に送り出してくれていたのか!ありがとう。
発見②『悲しきワルツ』のピアノ独奏版が聴けた歓び。
発見③アンスネスのシベリウス研究の深味が知れた歓び。
発見『ピアノのための6つのパガテル』第2曲「歌」は、とてもすばらしい旋律美と情感の滋味深さでお薦めしたい。

「どう生きたのか?」を問うこと

チラシ15年間の人生を全うした篠原真矢さん。
人生の「長さ」で、その価値に優劣などつきません。
そこには、「どう生きたのか?」「どんな問いを重ねて生きたのか?」ということ以前に、この世に生を受けた瞬間の奇跡に対する尊厳を想うのです。それは、胎児に対する命の尊厳も当然含まれます。
肉体から離れても生き続ける命。
死が「始まり」と感じられるのは、遺された人が、その死を自分の生の中に取り込んで、「共に生きている」と実感した瞬間そのものだと想っています。
ぼくにできることは、真矢さんの命、生き方、迷い、あがき、もがき、青春・・・を語ること。つまり「どう生きたのか?」という問いを大切にしたいだけなのです。

『俳句の図書室』

俳句の図書室 (角川文庫)
堀本 裕樹
KADOKAWA
2017-04-25

俳句は、美術作品を読んだり視たりするのと実は似ていると想います。
目に見えない様々な物事、場所、時、人などについて、限られた手がかりを駆使して表現するという点において、です。「書庫」と3つの「閲覧室」に喩えて章立てをしているのも洒落ています。
まさに「図書室」です。

葉ざくらの中の無数の空さわぐ

藤原 梵
さんの詩です。
ぼくは、木漏れ日が無性に好きです。
視ている視点が徒歩によって移動しているので、それが「さわぐ」のです。
「空さわぐ」。
やんちゃな表現だけれど、躍動感が出ていて、気に入ってしまいました。
「無数」によって、風景の広さ、奥行きの距離感が果てしなく、未来へとつながる伝言を飛ばしているようで、何だか元気をいただけますね。
葉ざくらは、花びらが散った後。
つまり「別れを惜しむ悲嘆や喪失」の次の道程に喩えて想像するぼくです。
隠された寂寥感を空を見上げて、その向こうに吹き飛ばさんばかりのやんちゃぶりを振舞っているのです。
よろこびの影には、たくさんの悲しみがとけているようにぼくは想いました。


『はじめて学ぶ生命倫理』


第一章「いのちの『終わり』は誰が決めるのか」を読みたくて手にした一冊です。
SOLQOLについての葛藤。
SOLは、生命の神聖さ。
QOLは、生命の質。
この二点の違いと重なる点について、小林さんは、シドニ-・シェルダンの『女医』に登場する末期腫瘍患者と担当医師のやりとりを主事例に挙げて考察します。
その考察の際に、手塚治さんの『ブラックジャック』のブラックジャックとDr.キリコとの対話を比較関係付けていくために、『女医』の担当医師が示した終末医療患者への営みや判断がいかなるものかを明確に考えさせる誘いをしています。
これは見事だし、そして、この本に向き合おうとする読者への案内地図を希望と共に示しています。
どんな命だって救うことこそ医師の使命だというSOLの考えを徹底するブラックジャック。
そのことを理解しつつ、それでも「この傷みから自分の肉体を解放してあげたい」と願う患者を安楽死させる手伝いをするキリコ。
どちらも、命に寄り添う誠実さはブレていない。
いのちの「終わり」を決めるのは、本人なのでしょうか?
れとも・・・・・・。
いのちは、本人だけのものなのでしょうか?
本人が判断できないなら、家族が?
でも、家族ではない人も、その人のいのちからたくさんの恩恵を得ています。
その人たちの想いは、無下にしてよろしいものか?
次々に重なる問いたち。
生命倫理の根底には、この「問う」という行為に至らせる大切なことたちへの「感応」こそが問われていることに気付かされます。

『小さな幸せ46こ』

小さな幸せ46こ (中公文庫)
よしもと ばなな
中央公論新社
2018-06-22

しもとばななさんのエッセイ集。
ウイスット・ポンニミットの装丁と挿絵が、言葉の色彩とマッチしているのが好ましいです。
p121「もっとちかくに」が特に印象的でした。
両親を喪った傷みが深く、傷心の日々を送っていたばななさんが、あえて両親といつも足を運んでいた西伊豆の旅館を訪ねるのです。
きっと淋しい気もちになるはずだろうという、本人の予想とは反して、「両親が若い時の姿でいっしょににこにこと喜んでいる感じが胸にせまってきた」というのです。
「むねの奥から両親の気配が湧き出してくるような感じ」だったそうです。
身体感覚として生々しく感じられたというこの経験から、ばななさんは、両親の死と共に生きてゆく、という感じを少しずつ理解し、自分をゆるすようになってきたのだと実感し始めたのでした。

絵本『こんもりくん』

こんもりくん
山西 ゲンイチ
偕成社
2011-01-08

の絵本がぼくの目に留まったエビデンスが本を手に取ってすぐにわかりました。
吉本ばななさんの小説の装丁や挿絵でみたことが在る絵だったのです。
読書は、こういうつながりを創り出すから、やはり魅力的です。
そして、新たな一冊との出逢いをもたらすのでした。

奇想天外の物語。
髪の毛を切るのが苦手な少年は遂に、その髪の毛の森林の中にねずみの世界を許容したのでした。
やがて、その世界の国王になってしまう少年。
しかし、「おなら」は、国王追放の憂き目に遭うのでした。
何のことやら?
というわけで、
是非、
読んでください。

髪の毛を切っても、自分は自分だった。
この奇想天外な物語の向こう側には、少年の「成長物語」「再生物語」の比喩が視えるようで、なかなか侮れない作家だ!と想いましたよ。

『あの画家に会いたい個人美術館』


この夏、群馬県にある松本竣介さんの美術館に行きたくて、この本を手にしました。
著者は、作家の大竹昭子さん。
大竹さんの👓を通した、「ガイド」なので、所謂、顔がみえづらい一般的な紹介本とは異質なのが、善い。

ピアニストの辻井伸行さんもそうなのですが、「きこえない人」「見えない人」は、「こころの眼や耳」で感じる力が、宿るのです。
前者である松本俊介さんの、「あの」独特な光と陰の感覚と色彩感は、そのことと無関係なはずがないのです。
ぼくは、その世界に半日かけてどっぷりつかってみたいと切望しています。
いつ行こうか?
いや、いつ行けるのか?

ショスタコ-ヴィチと室内楽

弦楽四重奏曲は、全部で15曲。
交響曲も15曲。
この2つのジャンルだけで30曲を書いています。

交響曲と比較すると、演奏時間は短めです。
交響曲は、演奏者や演奏時間の規模が大きく、大ホ-ルで演奏されるので、特に旧ソ連当局の目に留まるものでした。
ですから、作曲者は、一番伝えたい「ラルゴ」や「レント」「アダ-ジョ」楽章の隠れ蓑として、早くて快活な楽章を全体の中に巧みに配置したのです。
当然、演奏時間が伸びてゆくのは納得です。

それに比べて弦楽四重奏曲は、ホ-ルでなくても、街の広場、建物の一室で演奏できます。
当局の目に留まりづらいのです。
そこで、作曲家は、一番言いたい事をより真っすぐに伝える術として、室内楽作品に注力したのだと察します。
例えば、第8番は20分程度の演奏時間の内の13分を3つの「ラルゴ」楽章に費やしています。5楽章中3楽章が「ラルゴ」なのです。
交響曲では、ここまではやりませんでした。

ショスタコ-ヴィチは、自分の作品の大半を、不条理に人間の尊厳をはく奪された人々のために献呈すると語っています。
その意思を信じたとして、演奏家たちは、どのような距離感や想いを、楽譜に重ねて模索するのでしょう。
このCDのハ-ゲン弦楽四重奏団は、曲に付きまとう前述したような先入観を一度リセットしているように想います。
そしてあらためてスコアを読み抜き、純粋な一人の作曲家に誠実に向き合おうという新風を注ぎ込んでいるように感じるのです。


クマと少年

クマと少年
あべ 弘士
ブロンズ新社
2018-05-17

べ弘士さんの創作の背景には、旭山動物園の勤務経験が色濃く息づきます。
原田マハさんの学芸員経験の「強味」にも通じます。

ぼくは、この絵本を読んで、椋鳩十サンから脈々と生き続ける、動物と人間の境界線に関する壁と、その超克について思い知らされました。
そういう意味では、写真家・星野道夫さんの眼差しとも重なります。
成長した少年とクマのキムルンの再会場面の画が、ぼくのオススメの一押し場面です。
目に見えない台詞や無言歌の何という多弁さでしょうか。

M.M.ポンセの多彩な作風 福田進一さんの新しいディスクから

ポンセ作品集〜カンシオン・メヒカーナ〜
福田進一
マイスター・ミュージック
2018-04-25

没後70周年を記念して編まれたアルバム。
メキシコの楽聖と形容されるM.M.ポンセの優れた作品集です。

福田さんをはじめとした、このアルバムの制作者たちの意気込みが伝わります。
その根拠は、アルバムの構成が、個々では、ポンセの作風の多彩さに目を向けつつ、生涯の音楽性の変遷が辿れるような視野の拡がりも意識されていることです。
一押しは、『3つのメキシコ民謡』と『ソナタ第3番』です。特に後者は、楽章ごとに作曲家の多面体的な音楽性が発露していて、ポンセを初めて知る人にもお薦めしたいですね。

福田さんのギタ-の響きが「いつも」と違うなあ、と想っていると、なるほどと合点しました。
ポンセ弾きの名手であるセゴビアが使っていたドイツの名工ハウザ-一世を意識して、ハウザ-三世(一世の復刻モデル)を弾いていたのでした。
梅雨明けまでこのCDがぼくの生活の大切な伴奏者になりそうです。

なんだか、あたたかい


長新太さんの傑作だと、ぼくは想っています。
さんは、「超現実主義」の作家としてとても優れた人だと常々感じてきました。
その視点からするとこの一冊は、「捲る美術館」としての最高傑作です。
交通事故で無くなった犬を背負い続ける少女。
途中で、犬に顔をペロペロとなめられます。
「なんだか、あたたかい・・・」。
呟く少女。
この少女は、愛情の系譜を順繰りに受け継ぐひとりです。
だからお互いに背負い、背負われる関係として、惹き合ったのだと想います。
おばけになっても忘れてはならないものがある。
そこに行きつくために、長さんの芸術は、実り、ぼくたちに幸を届けてくれたのでした。

横山大観

横山大観 (日経ポケット・ギャラリー)
日経
1993-11




東京近代美術館の横山大観展も閉幕しました。
原画のすばらしさを想いつつ、画集を視返すのも悪くないなあ。

大観は、長寿でした。
だから、共に切磋琢磨した盟友たちの逝去を見送り続ける存在でした。
時代は、大観に期待をし続けました。
その「孤高」ぶりたるや、計り知れない重圧だったと察します。
大観は、最期まで、『無我
(1897年)』に示したような、「初志」を貫徹しました。
大観に魅かれる人は、そのブレない生き方に、現代的な様々な課題や不安を重ねて、希望を探っているのだと、想うのです。


『眠りゆくとき』


高校生だったと記憶しています。
アンナ・トモワ・シントウの歌唱で、シュトラウスの『4つの最後の歌』をライブで初めて聴いたのです。
その時に魅了されたのが、
第3曲『眠りゆくとき』でした。
いまでも、即、鮮明に思い出すことができます。

晩年のシュトラウスは、ホルン協奏曲第2番が示すように、
室内楽的で、飾り気のない、真っすぐな情感が伝わる音楽性が、ある意味での境地に達しているかのようです。
『眠りゆくとき』もその趣をもちつつ、甘美さも備えていて、その抒情は、なかなか形容し難いほどの美点を湛えています。

25年前の名演でご堪能ください。
ステュ-ダの声は、伏流水のようにじわじわと心に染み入る魅力をもっていて、至福の時間を過ごせます。

彷徨う故郷 『荒木町奇譚』

荒木町奇譚 (ハルキ文庫)
有間カオル
角川春樹事務所
2018-01-11

ぼくは、とてもよく自覚しているのですが、自分の中の彷徨う故郷をいつもどこかで探し続けています。
そこには、かつての後悔や懐かしい人、もの、こと、場所、そして時が関係し合って混沌としながら浮遊しています。
ですから、そのことを主題に小説をつくろうとするのならば、時空を超えて、人やもの、こと、場所がつながるという設定を必要とするのだと最近よくわかってきました。
ぼくの嗜好する文学や映画の多くに、その共通点を見出せます。
この『荒木町奇譚』も、まさにそこに通じます。
主人公の行原暁生は、故郷や恋人への後悔、喪失感、諦念を心の中に淀ませています。
その情念が、架空の街を時空も超えてつくらせます。
その中だからこそ、叶えられる過去への再会と再生がこういった小説の生命線になるわけなのです。
ぼくは、こういった筋道がわかっていながら、この小説世界に自己を没入させることに危険な歓びをもっています。

今年も第五福龍丸展示館へ

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三年連続で展示館へ小学6年生を連れてゆく。
改修工事前のラストチャンス。

スケッチをしてみる。
描くことで、船の傷の傷みが直に伝わってくる。
釘やボルトの夥しい数。
手術の跡だ。
傷むでしょ?
しんどいでしょ?
でもね、あなたは確かにここに
いる。

ぼくのみたもの
みなみななみ
いのちのことば社
2015-10-22

絵本『ぼくのみたもの』。
3つの力についてふれています。

「こわれたところをなおす力」

「うつくしいところをつくる力」

「みんなでおうえんする力」


人類が、希望の力をもつための絵本だ。

船越保武『石と随想』

舟越保武・石と随想
舟越 保武
求龍堂
2005-02

1987年、船越さんは、脳こうそくで右半身が麻痺します。
しかし、左手で描画、彫刻の制作に挑むのです。
当然、作風の「見た目」は、変わります。

『石と随想』のP122に、「死と言うものと死滅というものが、いま、私の中で混同されていて甚だアイマイになっている。(中略)生と死の中間の、アイマイな空間に浮遊している漠然とした存在の自分を意識するときに、私は今までの自分の生命力の余韻のようなものがまだ燃え残っていることを知ることができる。」と記されています。

その「生命力の余韻」の実感は、創作でしか確かめられないということを、船越さんは、誰よりも知っているのです。P124には、「私が自分の中の血液の流れる音を聴いたあの同じ音が、とんぼに顔を近づけている間じゅう、私の耳の中には私の血の流れの音がきこえている。それは私の血の流れの音であり、また、私の生命の音でもあるのだ。私がとんぼの眼にすれすれに顔を近づけている間は、私は七十年の私の生命に再会していることなのだ・・・・・・」とあります。
生命が重なり、共鳴しているという実感。それは、創作という原点の意味や価値について、改めて思索する契機になったのだと推察されます。そして、その思索が、1987年以降の作品たちに、間違いなく染み込み息づく原動力になっているのだと、感じ入りました。

横山大観展


近代までの優れた作家の共通する特徴は、存命中までは「異端」だったことです。
逝去し、次の時代のページが捲られる足跡の中で再評価されることが多いのです。
では、なぜ、今、横山大観なのか?
の問いづくりは、非常に重要だと想っています。
横山大観の最大の師匠であり、「同僚」だったのは、岡倉天心です。
当時の「権威」を捨てて、新しい学校をつくったり、既存の常識や「ふつう」に縛られない創作の方向性を生み出し、実践し続ける気性にぼくたちは、学びの在り処を探せそうだと、直観しています。
現代社会に蔓延するコピペの虚偽。
他者の発案や言葉をあたかも自分が生み出したと思うがごとく使う。
すまし顔で。
引用元や出版元を明らかにしないで貼り付ける。
そこには、思考や判断の欠片もない。
そんな時代に横山大観は、どんな「喝」を入れるのでしょうか?
東近美(東京国立近代美術館・竹橋)で、企画展が展開中です。
『生々流転』は、まるで静謐なアニメ-ションのような作風で、生と死の自然の輪廻を表現し、静かで深奥な哲学を醸し出していて圧巻です。
靄や霧、霞の向こう側には、人智が及ばない「問い」が満ちている。
その「謙虚さ」がすばらしいのだ、と実感しました。

アートという仲介者の強味 原田マハ『ザ・モダン』


モダン (文春文庫 は 40-3)
原田 マハ
文藝春秋
2018-04-10

東日本大震災や同時多発テロなどの喪失体験を核にして、魂の救済にあがく人たちの姿を描きます。
自己再生」は、時代を超えた、文学における重要な主題です。
たとえば、吉本ばななさんの小説は、まさにそこに尽きると言えます。
でも、原田マハさんの出色さは、そこに美術館勤務の経験を入れ込むことで、その独自性の輝きを放つのです。
自己再生や魂の救済の代理人、仲介者、助言者、癒しの相談者としてア-ト作品が大きな役割を果たすことになります。
ア-ト作品は、時間や国境を超克してきた「タフさ」「生命力」を備えています。
その逞しさが小説の登場人物の生きる所作に重なり、ドラマに多面的、多重的な広がりや深まりを生み出すのです。
収録されているどの作品もお薦めです。
ぼくの、そしてあなたの大切な一冊になるでしょう。

本音と建て前 ショスタコーヴィチの入門として

ショスタコーヴィチ:交響曲第6番&第9番
バーンスタイン(レナード)
ユニバーサル ミュージック
2015-10-14

ショスタコーヴィチの交響曲の入門は第何番だと思いますか?」。
知人から質問を受けました。
ぼくは迷いなく、「第6番です」と応答しました。

ショスタコ-ヴィチの音楽の特質は、「本音と建て前」です。
6番は、第1楽章に曲全体の3分の2近い時間を要します。
特にこの晩年のバ-ンスタイン盤では22分30秒を要しています。
続く第2第3楽章は、7分台ずつです。
この第1楽章ラルゴの「悲劇的な抒情」の中に、当時の社会体制への訴追や圧政者によって不遇の死に追いやられた人への鎮魂の想いをこめていると解釈されることが多いのです。
ここが「本音」の部分に相当します。
ところが、続く2つの楽章は、まったくもって対照的なテンポと楽想が展開されます。
これが建て前です。
そして、一見陽性に聴こえるこれらの楽章の中にも、和声や反復の技を駆使した「悲劇的抒情の変形」による仕かけが、巧みに織り込まれています。
つまり、建て前の中にも皮肉な文脈を潜ませて、聴き手にその読解を求めています。
自分の作曲家としての伝達能力の自信と共に、読みとる聴き手への信託をそこから感じてしまうのでした。

「生活の肌理が生動している」という表現 『採集と思考のはざま展』より

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岡本太郎美術館の企画展が一昨日から始まりました。
写真を通して、岡本太郎さんは一体何を視てきたのか?
ぼくの問いはその一点に尽きます。
第一章の「道具」。
芸術以下だと想われている民芸たち。
しかし、芸術ぶっているものがあふれている世の中で、その存在感を視抜く岡本太郎。
「肌理の生動を直観した時の感動」という表現で、カメラ越しに対象に接近します。
その距離感に「らしさ」が表出しています。
垂直や平行といったバランスよりも、対象の「肌理」を視ようとする意思が写真から伝わるのです。
スキルの「技」ではない、ア-トの「技」。
岡本太郎さんは、人間の根源的な所作の中に、生きる力の在り処を探していたのではないでしょうか?
駒場の日本民芸館が提唱し続ける思想とまさに重なっています。








自分は自分でしかない


いままで、岡本太郎の伝記は大人向けのつくりが多かったのです。
あかね書房の最新刊は、最初から子どものためにつくられています。
それは、内容ではなく、「読ませ方」において、子どもを主権者に置いています。
内容は、岡本太郎をきちんと知ってほしいという点で所謂「子ども扱い」はしていません。
そこがとても共鳴できました。
「あとがき」に著者である平野さんの「願い」が息づきます。

「キミはキミのままでいい。弱いなら弱いまま、誇らかに生きてみろよ」。太郎は自分自身、人生を賭けてそれをやり通しました。どんなに頑張ったところで、ぼくは、ぼく以外にはなりようがないし、ぼくのまま生きるしかありません。自分を責めたりなげいたりしてもしかたがない。ぼくなりの“生き方のスジをつらぬくしかない。キミだって同じです。そうでしょう?「人間だれでも、生きている以上はつらぬくべきスジがある」。岡本太郎はそう言いました。次はキミの番です。

思考回路をネ-ミングやコピ-で増やす 『伝わる人は一行』






視点変換のために、表現力が翼になり得るのだ。
ネ-ミングやキャッチコピ-は、ものごとや人、時、場などの対象に宿る内容や特長抜きには生まれ得ない。
「呼び水」は、思考の回路として働き、やがて視点変換を促すのだと実感している日々である。
例えば、よくありがちな学校生活の目標をこんな風にしてみたらどうかしら?
<従来のものをコピーの工夫で視点変換>

4月 あいさつなんて意味ないじゃん?~それなら みつけちゃう?

⇒悪態をつく、問う

5月 相手と自分をチェンジしちゃえ!~ろうかテクテク大作戦~⇒自分に関係があると思わせる

6月 雨を悪者にするなッ!~「雨の日と相思相愛」大作戦~⇒比喩や名言を使う

7月 教室を「ぼくの店」にする。~整理整頓は「愛」なのだ~

8/9月「612ミニ・ツミ・ダイ作戦~ゴミひろい 一人1個すごいんです~⇒数字を使う

10 時間をずっとまもらなかったぼくの人生は・・・⇒物語の続きをつくらせる

11月 「ウチのいいとこ みつけてくれよ」

12月 皆勤賞をつかむのは、だっ!

1月  運動の力で校庭をホットにします

2月  気づく 動く 笑う~ものを大切にしよう~

3月  ぼくだって ありがとうって言われたい


絵本『こもりくん』

さかさのこもりくん
あきやま ただし
教育画劇
2006-04-01

ふつう(多数決の多数派)」の逆さなことしかできなくなっているこもりくん。
「ふつう(逆さではない)」の動物たちと相容れない日々が続きます。
しかし、くまさんだけは、そのことに気付きます。
そして、くまさんは自分がこもりくんに合わせるという行動に出るのです。
その行動が、こもりくんの視点変換と行動変容を後押しするのです。
この互恵的な関係性に、共有の知とも言える平和の種の発芽を視たぼくは、またまた絵本に生きる希望をもらうのでした。

「第21回、岡本太郎現代芸術賞展」

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毎年、恒例の「岡本太郎現代芸術賞展」に足を運びました。
上の作品は、小暮奈津子さんの『くらげちゃん』です。
まず、ひとつひとつのくらげちゃんをみます。
どれひとつとして「同じもの」はありません。
次に、700体を「総体」としてみつめます。
「どれひとつとして同じものはない集まり」としてのコミュニティを感じます。
この世界は、異なる自他によってつくられています。
そして、そのことを共有することで、ひとつの共同体が生まれ得るという平和への希求の歌が、聴こえてきました。
これをどこに飾るか?
周囲の環境との化学反応も面白そうです。

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