カテゴリ: 広島への旅

宿泊先のホテルで、夕刻、テレビの情報番組を視ていたところ、美味しい
ベトナム料理のお店が紹介され、リポーターは美味しそうに料理を食べて
いたので、われわれも翌日、ランチを食べに訪ねてみた。
「ハノイフォー」というお店で、オーナーのチャン・マンクゥンさんは
広島大学に留学したことがあり、広島の街が大好きになり、お店を出した
のだという。
フォーと、チャーハン・サラダのランチセットに、ベトナムビールを
注文したが、二人で食べても、満腹となった。
広島23A
広島23B
広島23C
思わぬところで「ベトナム体験」ができ、楽しい旅の一コマとなった。
https://www.facebook.com/res.vn/

このお店の看板がヘンである。否、ユニークである。
「ベトナム料理店 本格的」となっている。
日本語としては、「本格的ベトナム料理店」としたいところだが、これには
オーナーの深い考えがあるらしい。
広島23D
お店は道路に面しているので、車を運転している人にもお店をPRしたいの
だが、「本格的」までは読むものの、「ベトナム料理店」が目に焼き付く前に、
車は走り去ってしまう。そこで、オーナーは、車のドライバーには、先ず
「ベトナム料理店」をインプットしてもらい、余裕があれば「本格的」も
読んでもらおうと考えたのだという。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

◆ 拙い旅行記録にお付き合いいただき、有難うございました。
  「広島への旅」 -了-

広島に滞在中、宮島では「牡蠣」を堪能した。
もう一つ、「広島風お好み焼き」を食べなければならない。
観光客には余り知られていないらしいが、地元の常連客が通うという評判を
聞いて、その店を探した。
私は、この種の料理は、進んで食べたいと思わないが、広島の味を確認して
おかなければならない。
広島22
思ったよりは美味で、ビールの一杯も欲しいところだが、ビールを飲んでは
食べきれないと思われるほどのボリュームだったので、食べることに専念した。
満腹! 満腹! である。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島21A
広島に滞在中、「錦帯橋」を観たくて、山口県岩国市に一日旅行に出かけた。
西広島駅から岩国まで、JR山陽本線の電車に乗って40分ほど、JR岩国駅
からバスに揺られること約15分、錦帯橋バスターミナルに到着する。

錦帯橋は、テレビや書籍では何回も目にしてきたが、実際の風景を観るのは、
生まれて初めてである。桜の季節と紅葉の季節は、そして、薄っすらと雪化粧
する季節は最高の景観であろうが、われわれの訪れた季節は、静かな佇まいを
見せてくれるだけだった。

リーフレットによれば、延宝元年(1673年)五連のアーチ橋が完成、創建
の翌年には洪水により流出したものの、架け替えを繰り返し、276年間不落
を誇ったという。残念ながら、戦時中の管理不備などに加え、1950年の
キジア台風により橋は流失したが、1958年に市民の熱意でよみがえり、
2004年の架け替えを経て、現在に至っている。

錦帯橋を渡り、右手に歩くと、佐々木小次郎の像がある。
小次郎は「巌流島」で宮本武蔵と勝負したとされ、吉川英治の「宮本武蔵」の
中では、岩国出身となっているそうだが、未だ不明な点が多い人物なのだという。
広島21B
小次郎の像から少し歩いて、ケーブルカーに乗ると、岩国城である。
ここからは、錦帯橋を眼下にして、碁盤の目の城下町・岩国の街並みを望む
ことが出来る。
広島21C
岩国の町に戻り、古くからの料亭「半月庵」でランチを食べた。
この料亭は、岩国出身の作家・宇野千代が愛した食事処で、名作「おはん」の
舞台としても登場するそうだ。
ランチのメインは、「岩国寿司」で、この料理は冠婚葬祭に欠かせない郷土料理
なのだという。4升分のお米から144個の寿司を一度に作り、それを切り分けて、
客に出すのだという。この迫力は、有名である。
広島21D
ランチの後は、宇野千代の生家を訪ねた。
ここには、彼女の生い立ち、系譜、エッセイ、コラムなどが展示されている。
彼女の言葉からは、強烈な郷土愛が伝わってくる。
  桜も日本一、錦帯橋も日本一、
  こんな日本一の故郷を持っている幸せ者が
  二人とあるだろうか。
  私は、とても故郷に感謝している。
  人間をつくるのは、故郷なのです。
広島21E

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島20
旧広島地方気象台は、1934年に広島県立広島測候所として建築された。
1945年の原爆投下により被災したが、職員による気象観測は一日も休む
ことなく続けられた。この年の9月には枕崎台風が広島を襲い、この時の
様子はジャーナリストの柳田邦夫さんの著作「空白の天気図」でも詳しく
紹介されている。

旧広島気象台の建物は、内部に被爆の傷跡を残したまま整備・保存され、
1992年に「広島市江波山気象館」として生まれ変わり、気象と科学を
テーマとした博物館になっている。
館内では、原爆が投下された1945年8月6日の気象台職員の当番日誌
のほか、当日の天気図、カンベル日照計と記録紙などが展示されており、
歴史に残る、あの日の気象状況が蘇る。
http://www.ebayama.jp/

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島19
広島の現地紙「中国新聞」の本社ビル1階ロビーには、「原爆と中国新聞」と
題するパネルが展示され、原爆投下の大被害から立ち直った様子が解説されて
いる。

1945年8月6日、原爆投下により中国新聞本社ビルは全焼し、輪転機や
活字、新聞用紙などの全てを失った。本社勤務の社員の3分の1に当たる
114人が犠牲になった。

それにも拘らず、中国新聞は8月9日付から、社員たちが代行印刷を朝日新聞、
毎日新聞などに要請し、発行を再開した。新聞を印刷する輪転機を疎開させて
あった郊外の温品村(現在の広島市東区)で、9月3日付から自力印刷を始めた。

しかし、9月17日の枕崎台風による浸水で、再び発行できなくなったため、
上流川町の本社に輪転機を運び、11月5日、発行を再開した。

中国新聞は2008年1月1日、核兵器廃絶と世界平和を目指す被爆地広島
からの情報発信拠点として「ヒロシマ平和メディアセンター」を起ち上げた。
紙面だけでなくウェブサイトを活用し、日本語の他、英語、中国語、フランス
語、ロシア語の5言語で、平和を実現するためのメッセージを、国境を越えて
発信している。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?lang=ja

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html


広島18
ラジオや新聞と言った「メディア」に関心を持つ者としては、NHKラジオや
地元の中国新聞が「原爆投下」をどのように伝えたのか知りたいと思う。

NHK広島放送局は2015年10月、「マンガで描く『焦土の放送局』」を制作
した。A4判8頁建で,サブタイトルは「NHK広島 “8・6” 物語 ~電波を
出せ! 放送を続けよ!~」である。

1945年8月6日,原爆投下。甚大な被害を蒙りながらも、その翌日、NHK
広島放送局JOFKは、ラジオ放送を再開した。この冊子には、関係者の必死の
奮闘ぶりが描かれていて、大変興味深い内容である。
この冊子の発行については、朝日新聞でも紹介された。
http://www.asahi.com/articles/ASH9P0Q8JH9NPITB00Z.html

この冊子を持ってNHK広島放送局を訪ね、サービスセンターで「原爆投下を伝える
ために、NHKのスタッフが奮闘した様子を記した資料やパネル展示があれば見せて
いただきたい」とお願いすると、「一般公開している直接資料はないが、関連する番組
の映像や音声を聴くことは出来ます」と言って、視聴覚コーナーに案内してくれた。

番組リストの中から2つ選んで、原爆が投下された1945年8月6日からの数日間、
NHKの職員がどのように活動したのかを紹介する番組を聴いた。
◆ ドキュメンタリー「まぼろしの声 ~昭和20年8月6日広島中央放送局~」
  https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/bangumi/ja/13/
◆ ラジオドラマ「放送を続けよ ~広島中央放送局の8月6日~」
  https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/bangumi/ja/167/

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島17A
広島の平和記念公園の側を流れる本川の土手に、「縣立広島二中原爆慰霊碑」が
建っている。この慰霊碑は、戦災と原爆で亡くなった広島県立第二中学校(現・
広島県立広島観音高等学校)の職員・生徒352名を慰霊するために建てられた。
被爆当時、爆心地から約600mの地点で建物疎開作業に従事していた生徒と
職員は、本川河岸に整列して訓示中に被爆した。ほとんどが即死だったという。
被爆した犠牲者の中に、俳優の渡辺美佐子さんの「初恋の人」がいた。

渡辺美佐子さんと言えば、2019年4月27日、ドキュメンタリー映画「誰がため
に憲法はある」が一般公開された。
この映画では、戦後35年目にあたる1980年、初恋の人が疎開先の広島で原爆に
より亡くなっていたことを知った渡辺さんが中心メンバーとなり、ベテラン俳優たち
と33年にもわたり続けてきた原爆朗読劇が2019年で幕を閉じることから、鎮魂
の思いを込めて全国各地を回り公演を続けてきた女優たちのそれぞれの想いが語られ
ている。
http://www.tagatame-kenpou.com/
https://dot.asahi.com/wa/2019070400009.html?page=4

「縣立広島二中原爆慰霊碑」の裏には、犠牲者の氏名が刻されており、渡辺さんが
「初恋の人」と呼ぶ、水永龍男の名もある。
彼女は毎年、この碑を訪ね、慰霊するという。
広島17B

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

s_DSC00205
広島市内を流れる本川沿いに、「本川小学校平和資料館」がある。
正門でインターフォンのボタンを押して、「平和記念館を見学させてください」と
お願いすると、事務職員の方が出て、「どうぞ、事務室にお出でください」という。
事務室で「訪問者名簿」に住所・氏名を記入して、「訪問者カード」を首にかけて、
平和記念館に向かう。児童が授業を受けているので、静かに中庭を横切る。
校舎間の渡り廊下を移動してくる児童からは「こんにちは!」と元気な声が掛けら
れる。こちらも、「こんにちは」と応える。子供たちは皆んな、礼儀正しく、教育
が行き届いている印象がある。

近代的な鉄筋コンクリート造りの校舎の隣りに、淋しそうに、しかし、何かを訴える
かように、古びた建物「平和資料館」があり、そこには、原爆投下により破壊された
校舎の一部が保存されている。
1階から地下の配電盤室に降りる階段が、被爆当時のまま保存されており、現在、この
階段部分は「立入禁止」となっている。
s_DSC00182
地下には、焼け焦げた配電盤のほか、廃墟となった校舎の残骸の中から掘り出された様々な
ものが展示され、原爆の悲惨さを語り継いでいる。
s_DSC00191
「平和資料館」のリーフレットには、次のように解説されている。(一部抜粋)
  本川小学校(当時の「本川国民学校」)は、1945年8月6日の原子爆弾投下
  の際、爆心地にもっとも近い学校として大きな被害を受けました。
  校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長先生ほか10名の教職員と約400名
  の子どもたちの尊い生命が一瞬のうちに奪われました。
  この「平和資料館」は1928年に広島で初めて建てられた鉄筋3階建ての校舎
  の一部ですが、原爆の被害を受けた状態をそのまま残し被爆の「証」として保存
  することにしました。
  「展示室」には、被害のようすを写した写真をはじめ、被爆した遺物などを展示
  しています。資料の一つ一つには、多くの人々の悲しみや願いが秘められています。
  これらの資料から、平和の大切さと人命の尊さを学んでいただきたいと思います。

「本川小学校平和資料館」を見学した約1ヵ月後、毎日新聞は次のような記事を掲載した。
爆風を受けて湾曲した本川国民学校(現在の「本川小学校」)校舎壁面の写真が紹介されて
いる。
https://mainichi.jp/articles/20191018/ddm/012/040/040000c

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島15
広島の平和記念公園には、原爆の犠牲となった人々を慰霊する碑が幾つも
建てられており、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」も、その一つである。
強制労働等により広島に来ていて被爆した同胞の慰霊と、再び原爆の惨事を
繰り返さないことを願い、在日韓国人によって建立されたのだという。
碑の裏面には韓国語で碑文が刻されているが、残念ながら私には読めない。
碑の横に「慰霊碑の由来」の銘板があり、次のように記されている。
  第二次世界大戦の終わり頃、広島には約十万人の韓国人が軍人、軍属、
  徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。
  1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にして
  その尊い人命を奪われた。
  広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる
  数字ではない。
  爆死した、これら犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は
  永くさまよい続けていたが、1970年4月10日、在日本大韓民国
  居留民団広島県本部によって、悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ、
  原爆の惨事を二度と繰り返さないことを希求しつつ、平和の地、広島
  の一隅に、この碑が建立された。
  望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰めることはもとより、
  今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し、
  一日も早い良識ある支援が実現されることを念じる。
  韓国人犠牲者慰霊祭は毎年8月5日、この場所で挙行されている。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島14
1945年8月6日、広島に何が起こったのか。
あの日、立ち上がるキノコ雲の下で、何があったのか。
広島平和記念資料館では、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料
を展示して、「原子爆弾を落とされたこと」の実相を人々に訴え、被爆者
の「魂の叫び」を聴くことが出来る。
http://hpmmuseum.jp/

正面入口のホールの片隅には、1981年2月25日、広島を訪問した
ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の「平和アピール」の石碑が建っている。
碑文は、次のように刻まれている。
  戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。
  戦争は死そのものです。
  過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。
  ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。
  ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。」
広島17

「平和アピール」の石碑の隣りには、時計塔が建っている。
この時計は、現在の時刻を示すとともに、文字盤にはグレーの長針と
短針が原爆投下の「8時15分」を指している。
時計の下部には「広島への原爆投下からの日数」と「最後の核実験から
の日数」がカウント表示されている。
広島16

「8月6日のヒロシマ」を語る様々な資料やパネルのうち、主要な資料
60点余については、有料貸出しの機器を使って音声ガイドを聴くこと
が出来る。相当数の箇所は、俳優の吉永小百合さんの朗読である。

展示資料は、衝撃的な写真「火傷と負傷にあえぐ被爆者」で始まる。
これは、8月6日午前11時頃、爆心地から2,270mのところで、中国
新聞の松重美人さんが撮影したものである。
解説文のパネルには、次のように記されている。
  御幸橋には 大火傷を負って逃れてきた 負傷者が群がっていた。
  カメラを構えたが、シャッターが切れない。
  二十分ほどためらい、やっとの思いで、一枚目のシャッターを切った。
  「助けて」
  「水をください」
  動く気力もない母親の胸にすがる幼児。
  「目を開けて、目を開けて」
  子どもの名前を呼び続ける半狂乱の母親。
s_DSC00350

地下1階の「情報資料室」では、NHKや民放で放送された、原爆と平和に
関連するテレビ番組を視聴できる。
われわれは、2016年6月5日に広島テレビで放送された「WATCH 真相
に迫る ~オバマからのメッセージ 17分のヒロシマ演説~」を観た。
オバマ大統領の広島訪問の前後に流れた、各局のニュース映像とは趣きを異に
して、彼の演説の本質を解説するもので、大変興味深い番組である。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島13A
広島平和公園の一角に、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」があり、ここでは
被爆体験を後代に継承するため、原爆死没者の名前や遺影、被爆体験記などを収集
しており、自由に閲覧できるようになっている。
https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/

この施設は地下2階建で、地上部分には原爆投下の時刻を示す「8時15分」の
モニュメントが設置され、その周囲には水を求めて亡くなった人々を弔うたため、
噴水が配されている。

地上から、階段又はエレベーターで地下1階に降りて、入口を入ると、企画展や
情報展示のコーナー、体験記閲覧室などがある。地下1階から円周状のスロープ
を歩いて地下2階に降りていくと、「平和祈念・死没者追悼空間」がある。

「平和祈念・死没者追悼空間」は、地下2階から吹き抜けのような円筒状の空間で、
原爆死没者を静かに追悼し、平和について考える場所である。壁面には、爆心地
付近からみた被爆後の街並みを、死没者数約14万人と同数のタイルを用いて
表現している。この空間の中央には、地上部分に設置されているモニュメントと
同様に、原爆投下の時刻「8時15分」を示すモニュメントがある。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島12B
広島平和記念公園の中心に「原爆死没者慰霊碑」がある。
毎年、8月6日には、この慰霊碑の前で、平和記念式典(広島市原爆死没者
慰霊式並びに平和祈念式)が行われ、広島市長が「平和宣言」を読み上げ、
核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴える。
2016年5月27日には、オバマ米大統領が、現職大統領としては初めて
被爆地・広島を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。

原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
という碑文が刻されている。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111632890024/index.html

かつては、碑文の主語をめぐるさまざまな議論があったが、慰霊碑の設置者で
ある広島市は、ホームページで次のように解説しており、碑文の趣旨の理解が
世界的にも定着してきたように思われる。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1137568968454/

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島11A
「平和の灯(ともしび)」は、原子爆弾の炸裂によって発生した強烈な光線と
熱風により大やけどを負い、水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器
廃絶と世界恒久平和を希求するために、1964年8月1日に建立された。

この日、全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場
地帯から届けられた“産業の火”が1945年8月6日生まれの7人の広島の
乙女により点火されたという。
それから「平和の灯」はずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す
日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島10
平和公園の中心をなす中島は、本川(旧大田川)と元安川に挟まれた中州で、
原爆ドームから橋を渡って中島に入って、先ず目にするのは「原爆の子の像」
である。
この像は、1958年5月5日(こどもの日)に建立され、三脚のドーム型
の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を
託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)がある。

原爆で亡くなった佐々木禎子さんを初め多くの子どもたちの霊を慰め、世界に
平和を呼びかける。碑文には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈り
です 世界に平和をきずくための」とある。

広島市のホームページでは、次のように解説されている。
  2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に
  成長した。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、
  8か月間の闘病生活の後、1955年10月25日に短い生涯を終えました。
  禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで
  1300羽以上の鶴を折り続けました。
  病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇
  の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。

佐々木禎子さんのことについては、次のサイトで詳細に解説されている。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01071.html

「原爆の子の像」の前では、先生に引率された小学生のグループが、ボランティア
解説員の話に真剣な眼差しで耳を傾けている。話が終わると、皆んなで平和を祈る
歌を歌って、次のグループに場所を譲っていく。この子どもたちが、次の世代に
「原爆の恐ろしさ」と「平和の尊さ」を語り継いでいくことを願う。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=74084

広島9
広島の平和記念公園の見学は、「原爆ドーム」から始まる。
アジア・太平洋戦争における日本の敗戦が決定的となっていた1945年8月6日、
人類史上初めて、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。
広島は一瞬にして死の町と化し、当時住んでいた約35万人のうち、約14万人が
死亡したと推定されている。この中には、広島市の住民の他、軍関係者、建物疎開
作業に動員された周辺町村からの人々などが含まれ、当時日本の植民地だった朝鮮、
台湾や、中国大陸から来ていた(あるいは、連れて来られた)人々も含まれていた。

「原爆ドーム」は、元々はチェコ人の建築家ヤン・レツルの設計監督により1915
年4月に竣工した建物で、当時は「広島県産業奨励館」となっていた。それが、原子
爆弾の炸裂により建物は大破・全焼し、館内にいた全員が即死した。「原爆ドーム」と
いうと、無残な姿を遺すドーム型の鉄骨・鉄筋の残骸を写真などでよく目にするが、
実際に現地を訪ねると、建物の内部にはコンクリートの瓦礫が片づけられることなく、
被爆当時のまま雨ざらしになって残っているのが確認でき、その現場を見ると、想像
を絶する原子爆弾の威力と残忍さを、改めて教えてくれる。

原子爆弾が投下された直後、「広島には75年間は草木は生えないだろう」と言われた
が、あれから74年経って、この町を歩くと、緑も多く、平和な日常を取り戻している
ように見える。
しかし、現実には、原子爆弾による放射線の長期障害に苦しむ人が多く、特に、原爆投下
直後に降った「黒い雨」を巡り、国の指定区域外で浴びた住民らが被爆者健康手帳の交付
などを広島県・市に求める訴訟が提起されているという事実を忘れてはいけないと思う。
https://mainichi.jp/articles/20191016/ddm/041/040/058000c

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html



広島8
広島では、9系統の路面電車が運行され、車両の型式も古いものから近代的な
ものまで様々で、町中を走る電車を眺めているだけでも楽しくなる。
最近はバリアフリーの超低床車両の導入も進行中のようで、路面電車はバスと
並んで、「市民の足」としてしっかりと根付いている感じがする。
正に、広島は「路面電車の町」である。

更に、町の中心部と北西部郊外の住宅地を結ぶ高架鉄道「アストラムライン」も
走っているが、高架にもかかわらず、市内始発駅から3区間ほどは地下を走ると
いう珍しい構造になっていて、乗り物ファンはワクワクするばかりである。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html


広島-7
広島は牡蠣の名産地である。瀬戸内の海は波が荒く、良質のプランクトンが豊富
なために、牡蠣が良く育つのだという。
宮島口から厳島神社に向かう途中、美味しそうなレストランがあったので、帰り
道に寄ってみることにした。

ビルの3階にあるレストランに入ると、40~50人の客席はほぼ満杯で、
そのほとんどは海外からの観光客と見えた。数分間待って、席に案内された。

メニューを見ると、生牡蠣の料理が載っていないので、スタッフに「時期が
早いのでしょうか」と尋ねると、「そのとおりです」という。生牡蠣にレモン
を搾って食べることを期待していたので、大変残念である。

このレストランは、地ビールの会社が営業しているもののようで、1階がビア
レストランになっていて、3階のレストランで牡蠣料理を食べることが出来る
ようになっている。

先ずは、地ビールの「お試し3種セット」を頼んだ。
それぞれに特色のある味わいで、何よりも出来立ての新鮮さが最高である。
続いて、「蒸し牡蠣盛合せ」が出てきた。
実のところ、あまり期待していなかったが、生牡蠣に勝るとも劣らず、美味
である。シェフの腕前と食材の新鮮さ・美味さが相俟っての作品である。
もう、ここまでくると、ビールだけでは我慢できず、白ワインを頼んだ。

次は、「プレートセット」と呼ばれるもので、鶏のステーキ、穴子フリッター、
カキフライ、牡蠣のトマトチーズ焼き、生ハムなどが一緒盛りされている。
何れも地元産直の食材で、お腹は「広島でいっぱい」となった。

われわれが食事をしている間にも、予約をしていた外国の観光客と思われる
人たちが次々と入店して来た。われわれは予約なしで訪問したが、ちょうど
空いた時間帯で、タイミングが良かったのかも知れない。
会計を済ませる時に、好奇心もあって、スタッフに「海外からのお客さんが
多いけれども、ミシュランにでも載っているのですか」と尋ねたところ、
「いいえ。ただ、ネットでは良い評判をいただいているようで、皆さんお出で
下さいます」との返事が返ってきた。
https://miyajima-brewery.com/

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html



広島-6
厳島神社の近くに、宮島歴史民俗資料館がある。
建物の規模は小さいが、宮島の古い民家や庭園が復元されていて、池には
錦鯉が泳ぎ、それを囲んで一巡するように「厳島神社と平清盛」の歴史を
物語る様々な史料が展示されている。
広い和室は休憩室となっていて、海外からの観光客に向けたものであろうか、
テーブルの上には鶴の折り方を説明するパンフレットと折り紙が置いてある。
また、縁側には無料の「餌」が置いてあり、池の鯉に餌やりが出来るように
なっている。
http://members.fch.ne.jp/miyajima-rekimin/

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html

広島5A
厳島神社は、その歴史的価値、景観の美しさなどから、1996年にユネスコの
世界文化遺産に登録された。「神秘的」「荘厳」「美し過ぎる景観」という言葉が
ピッタリである。

神社の左手にある参拝入口を入り、回廊を通って本殿に向かう。整然と構築された
朱色の何本もの柱を見ただけで、その神秘さと美しさに圧倒される。
われわれが訪れたときは干潮の時間帯にあたり、地面が丸出しであったが、これが
満潮に達すると、碧い海水の上に社殿が浮かんでいるように見えるに違いない。
想像しただけでも、その美しさに、心が動きそうだ。

本殿から正面を眺めると、あの大鳥居が工事用テントで覆われているのが見える。
いかにも無粋な風景である。しかし、これも貴重な歴史遺産を末永く保存し続ける
ためには必要なことであり、やむを得ない。
http://www.itsukushimajinja.jp/index.html

小学校の修学旅行で「松島」を訪ね、新婚旅行で「天橋立」を訪ね、そして、
今、人生70+αを過ぎて初めて「安芸の宮島」を訪ねることが出来た。
やっと「日本三景」を観ることが出来たことに、ある種の感慨を覚える。

( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html


広島4B
「日本三景」の一つ、安芸の宮島を訪ねた。
広島電鉄の路面電車に乗り、市内から宮島口までの1時間余り、ゆっくりと
車窓見学を楽しむ。そして、宮島口から宮島へはフェリーに乗る。

フェリーが宮島に近づくと、厳島神社の大鳥居を見えてくるはずである。
ところが、鳥居らしいものは一向に見えて来ない。海に浮かぶ赤い大鳥居を
見たくて、ここまでやって来たのに・・・、である。
大鳥居は宮島の裏側にあるのか?とも思われたが、ならば、フェリーは島の
裏側に到着するだろうから、それはあり得ないだろう。
厳島神社の大鳥居がない!、ヘンな気持ちになった。

フェリーを下船して、厳島神社を目指して、海沿いに歩いて行くと、浜の
向こうに、白い工事用のテントで覆われた巨大な構造物が見えてきた。
「大鳥居は改修工事中なのか!」と察したが、「ピンポーン」であった。
ネット検索すると、確かに「大鳥居は今年6月から大改修」とある。
満潮時に海に浮かぶ大鳥居の写真を撮ることを夢見て、満潮・干潮の時刻
だけはしっかりと調べて行ったのだが、「大改修」であることには全く気が
付かなかった。
( 「広島への旅」記事一覧 )
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_377530.html



↑このページのトップヘ