カテゴリ: 韓国旅行記 2019

帰路便の飛行ルートが往路便と同じであれば、左手の席では富士山を眺める
ことは出来ないと諦めていたが、帰路便は富士山の南側を飛んで、羽田空港
に向かっている。
少し雲がかかっていたが、富士山の頂きを眺めることができた。
ラッキー! である。
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夕刻、無事に帰宅することができた。
最寄り駅の展望台からは、数時間前に飛行機から眺めた富士山が、茜色に
染まっていた。
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                              (了)

◆拙い旅行記は、これが最終回です。
 ご覧くださった皆さん、有難うございました。
 また、沢山の「いいね!」や「拍手」をいただき、感謝申し上げます。



私にとって、飛行機に乗っての楽しみは、オーディオサービスや映画ではなく、
機内食とワインやビールである。しかし、行きの便では、旅行先の国への入国
手続きや税関手続きが待っているので、ゆっくりと酔うわけにはいかない。帰り
の便では、日本への帰国手続きは簡単で、万一、問題があっても日本語で対応
できるので、安心して飲食ができる。
今回の帰路便の機内食は、往路便の時に比べて、イマイチという感じがした。
韓国の機内食工場で製造されたことから、微妙に味付けが違うのかも知れないと
思われた。そうは言いながら、全部食べ尽くしてしまった。
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帰国の途に就く日が来た。
金浦空港地下鉄駅の改札口を出て、スーツケースを牽いて国際線ロビーに
向かって歩き出したところ、後ろから電動カートがやってきて、男性運転手
が「国際線ですか?」と声をかけてきた。
「はい。そうです」と答えると、「これに乗ってください」と言ってくれた。
0001電動カート
地下鉄駅から国際線ロビーまでは相当の距離があり、もちろん歩く人もいるが、
多くの利用客は「動く歩道」に乗って移動する。
われわれも、韓国に入国した時は「動く歩道」を利用したが、横を電動カートに
乗って行く人を見て、「良いなぁ・・・」と思ったものだった。まさか、自分たちに
声を掛けてもらえるとは思いもせず、帰りに「電動カート」に乗ることができ、
本当に嬉しかった。

ソウルに旅行した時、必ず訪ねるのが「中部魚介乾製品市場」である。
1957年以来、庶民の台所を支えてきた老舗の市場で、20~50%安い
価格で購入できると言われている。
0001市場
この市場の一角に構えるキムチの店が、わが連れ合いのお気に入りである。
7~8年前に来た時にもらった、女性店主の名刺を持って、いつも訪ねる
のだが、彼女は大喜びでサービスしてくれる。
ソウル滞在の最終日、キムチを買うため、この店を訪ねた。

「飛行機で持ち帰りたい」というと、厳重にパッキングしてくれるので、液が
漏れたり、匂いが発散することは一切ない。安心して、スーツケースに入れて
持ち帰ることができる。
この店のキムチの味は格別らしく、お土産としてあげた親戚の者や知人からは
「美味しかった」と好評である。私自身は、辛いものは一切ダメだが・・・。

これまでは、キムチを買った後は、さまざまな店を見て周って帰るだけだったが、
今回は、お腹が空いたこともあり、この店の隣に陣取っている屋台で、チヂミを
食べた。これが、また、美味である。
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ソウルの市バス「402番」に乗ってみた。
ソウル市内の広範囲を車窓見学できることで知られている。
市庁舎前で乗ると、南大門エリアから漢江を渡って江南方面へ行く、江北
エリアと江南エリアの観光スポットを乗り換えなしで進んでいく。
0001 ソウル市内バス
南山の中腹を走りながら見る紅葉と木々の黄色は素晴らしい。眼下に広がる
ソウルの街並み、そして、韓南大橋から眺める漢江の雄大な流れ。観光バス
でない、一般の市内バスからの眺めにしては、贅沢過ぎる。

漢江を渡り切ったところでバスを降り、漢江の南岸に広がる公園に行くことに
したが、途中で小雨が降りだした。
公園に着いたものの、小雨にけむるソウル市街を眺めるのは、気候が温かければ
ロマンチックなのだろうが、凍えるような寒さでは、早々に退散するより他ない。
ほとんど人影もない。

地図を見ながら、最も近い地下鉄の駅を探してみると、「蚕院」という駅であること
が分かり、歩き出した。交差点に差し掛かったところで、地図を確認していると、
老齢の紳士が日本語で話しかけてきた。地図を指さして、「蚕院」という駅に行きたい
ことを告げると、「一緒に行きましょう」と言って、案内してくれた。
0001蚕駅
彼は、日本語の一つ一つをゆっくりと思い出すように、「昔、新宿に行ったことがある」
などと話し始めた。われわれの住まいを尋ねるので、「東京の郊外に住んでいる」などと
答えているうちに、「蚕院」の駅に着いた。

階段を下りて、改札口に近づいたところで、英語で「Have a nice trip !」と言い、続いて、
手に持っているビニール袋を指して、日本語で「これは薬です」という。
われわれは、彼はいっしょに電車に乗るものだと思っていたが、実は、駅の改札口まで
送ってきてくれたのであった。薬を持っているところを見ると、病院に行った帰りか、
薬局からの帰りだったのかも知れない。
何れにしても、彼は、道に迷っている日本人の老夫婦を見て、見兼ねて、親切に案内して
くれたのだろう。

今回の韓国旅行では、数多くの親切な人たちに世話になったが、彼もまた、親切な人たちの
一人であった。

「蚕院」は、日本語では「チャムォン」と発音し、英語では「Jamwon」と発音するらしい。
中国語の発音は分からないが、「蚕」(かいこ)という字の繁体字は「蠺」と書くらしい。
難しい漢字である。思わぬところで、漢字の勉強をした。
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「蚕」を連想しながらネット検索すると、この駅の周辺地区は、朝鮮王朝時代から
日本統治期まで大規模な桑畑があったところだと知ることができた。
ソウル市は、子供たちが地域の歴史を学習することができるように、蚕の一生を形象化
した「チャムォン(蚕院)自然学習場」を開設したという。


焼肉屋「国際食堂」は庶民的な店だというので、ソウル滞在中に、ぜひ
訪ねたいと思っていた。

午後1時に近かったが、店に入ると、数組の客が美味しそうに食事中だった。
焼肉をいっぱい食べようと期待していたところ、店員はランチのメニューを
持ってきた。お昼の時間帯は「ランチセット」のみの提供だという。
残念である。

ランチセット2人分を頼んだ。
それぞれの好みに合わせて、辛いチゲ鍋は連れ合いが、甘い味付けの
焼肉は私が食べた。何種類もある付け合わせも、美味である。私は、
大根の酢漬けが大好物である。
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ガイドブックで、ソウルに「戦争記念館」というものがあると知り、
どんなところだろうと思って、訪ねてみた。
記念館の正面に立つと、この建物の構えは「記念館」とか「博物館」
というイメージではなく、国会議事堂か裁判所といった、ある種の
威厳というか、威圧感さえ覚えるほどである。
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「戦争記念館」は、朝鮮半島で起きた戦争の全てを伝えることを目的と
して、1994年に建てられた。
もちろん、朝鮮半島における三国時代から、朝鮮戦争、ベトナム派兵に
至る様々な戦争資料も展示されてはいるが、館内の大半は「朝鮮戦争」に
関連する展示物である。
建物の正面の外壁に掲げられている幕には「70」の文字が見えるが、
これは2020年が朝鮮戦争開戦から70年となることの関連イベント
の告知であろうか。

記念館の入口は、2階にある。
受付に行くと、20歳代と思われる女性スタッフが日本語で話しかけて
くれた。ちょうど、10時から日本語のガイドツアーがスタートすると
いうので、お願いすることにした。
しかし、この女性が案内してくれるのではなく、ボランティアの別の
スタッフが案内するという。ツアーの開始までの間、この女性スタッフは
「私が日本語で案内したいのですが、きょう、この時間帯は別のツアーの
担当に割り当てられている。本当に残念です」と、正に残念そうな、悲し
そうな、その表情を見ていると、気の毒になってきた。
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われわれを案内してくれたのは、私と同年配と思われる男性スタッフだった。
彼は、ボランティアで、説明員を務めているのだという。
日本の植民地時代の朝鮮総督府の建物や、朝鮮戦争によって日本が「特需」
を得て経済発展したことなどに触れる時の、彼の表情を見ていると、日本人の
われわれに対して、それを言って良いものか、言わない方が良いものか、しかし、
言わなければならないという、複雑な表情になるのが見て取れた。
それは、われわれの考え過ぎだったかも知れないのだが。
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また、彼の言葉からは、彼は「軍事力を持つことで、平和が維持できる」と
いう強い信念で一貫していることが窺える。彼は、自らも朝鮮戦争を経験
したと語った。
それ故に、「軍事力は必要」という考えを持つに至ったのであろうと思われた。
南と北が対峙する「分断国家」という現実を前にすれば、一定の説得力は持つ
だろう。

しかし、世界で唯一の被爆国であり、平和憲法を持っている、日本人からすれば
彼の考え方には違和感を覚える。
われわれが、「先のアジア太平洋戦争の末期、日本の軍隊は、戦況が不利となると、
民衆を見捨てて、われ先にと逃げ出した。日本軍は日本人を守ってくれなかった。
軍隊は信用できない」と考える日本人がいることを説明した。
「国民が軍隊を信用しない」などということは、彼には信じられないことであろう
が、彼は「そうですか…」という表情を示した。
日本語での遣り取りであり、われわれの説明が、どれほど理解してもらえたかは
分からない。

朝、入館する時、受付の前で、「日本語のガイドツアーを担当したかったのに」と
残念がっていた、あの若い女性も、この老齢のガイドさんと同様の考えを持って
いるのだろうか。
韓国の若い人、それも女性から、「軍事力」とか「軍隊」というものについての
考え方を聞いてみたかった。

「戦争記念館」の敷地は広大で、われわれが見学した本館の他、屋外には朝鮮
戦争で使われた戦闘機や戦車などが展示され、朝鮮戦争を象徴するモニュメント
などが設置されている。
0001M
戦争博物館のホームページは次のとおり。
https://www.warmemo.or.kr/LNG/main.do?lan=jp

「朝鮮戦争」については、韓国KBSのサイトでも解説されている。
http://world.kbs.co.kr/special/kdivision/japanese/history/outline.htm

ケーブルカーは風が強いため運休しているので、エレベーターで駐車場に降りて、
そこから、先ほど展望台から見えていた梧桐島(オドンド)に行くことにした。
その昔、遠くから見ると、島の形が梧桐(アオギリ)の葉のように見え、昔は梧桐
の木が沢山あったので「梧桐島」という名前がつけられたのだという。
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梧桐島に行くには、徒歩の他、小さい船か、おとぎの国の電車を利用する。
われわれは、おとぎの国の電車に乗った。実は、この電車には「椿列車」という
名がつけられている。梧桐島は、“椿の島”とも呼ばれ、椿が咲く季節になると、
麗水の町から見ると、島全体が赤く見えるらしい。
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「椿列車」が動き出した。
展望台からは、この電車は橋の上を走っているように見えたが、橋ではなく、
防波堤の上を走っている。この防波堤は、韓国を植民地支配していた日本軍が
1935年に造営したもので、その後何度かの修復をして、現在の姿になって
いるという。

文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いた、李舜臣に関係する史跡などを
巡った後は、町全体を俯瞰できる「麗水海上ケーブルカー」に乗りたいと
思い、その乗り場を目指した。

バスで行くことも可能だったのだろうが、ルートが分からない。
観光案内図を見る限り、海岸に沿って歩いていけば乗り場に到着できると
思われたが、簡略化して書かれている観光案内の地図と実際の道のりでは、
相当のギャップがあり、仲々ケーブルカーの乗り場に近づかない。

途中で、普通の民家からゴミ出しに出てきた主婦に、ケーブルカーの乗り場を
尋ねると、「ここから10分ほど歩くと、乗り場に行くエレベーターがあるよ」と、
その方向を教えてくれた。
しかし、海岸線に沿って、実際は30分ほど歩いてしまった。あのアドバイスは
「車で10分」だったのだろうか。

ようやく、ケーブルカーの乗り場に行くエレベーター塔が見えてきた。
エレベーターで7~8階分上がると、そこからケーブルカーの乗り場までは
鉄骨の橋を渡っていくのだが、高所恐怖症の身には、少しの揺れも怖い。

苦労の末に辿り着いたケーブルカー。
ところが、ケーブルカーは動いていない。風が強く、風速が安全基準を上回った
ため運休しているのだという。残念である。

乗り場に隣接している展望台から、町の一部分を見渡すことにした。
眼下には、2012年の「麗水万博」に合わせて建設されたのであろう、近代的
なデザインのホテルやコンベンションセンターが見える。
左手遠方には、KTXの「麗水エキスポ駅」も見える。
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麗水(ヨス)は、KTXの終点である。否、始発駅でもある。
われわれの乗った列車が到着したプラットホームの隣には、これから
出発するソウル行きの列車が待っている。
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駅の正式名称は、「麗水エキスポ駅」(Yeosu-Expo Station)である。
この駅舎は2012年5月に開催された「麗水万博」に合わせて建設
されたということで、近代的で感じがする。
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駅を出たところに観光案内所があったので、中に入ってみると、女性
のスタッフが一人、カウンターに座っていて、笑顔で迎えてくれた。
しかし、英語も日本語も通じないようなので、市内の観光案内地図を
もらって、李舜臣広場にある亀甲船を指さして、そこに行きたいという
意思を伝えると、彼女は指で「11」を書いて、「間もなく、11時の
フェリーが出るので、急いで埠頭に行きなさい」という感じの身振り
手振りで教えてくれた。

息が切れて「ハァ」「ハァ」言いながら、フェリーの待つ埠頭に到着したが、
乗船券売り場は閉鎖されていて、繫留しているフェリーにお客が乗り込んで
いる風もない。
近くにいた男性に尋ねると、カタコトの英語で、「フェリーは運航していない。
タクシーで行った方が早いよ」と教えてくれた。
駅前に戻り、タクシーに乗った。

10分ほど乗ると、李舜臣広場に着いた。
広場の中央には、李舜臣の大きな像が建っている。
李舜臣は、文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いで活躍し、
韓国では「救国の英雄」とされている。それ故にであろうか、李舜臣の像は、
ここ麗水の町だけでなく、ソウルの光化門広場、釜山の龍頭山公園などにも
建っている。
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李舜臣が立つ先には、亀甲船がある。
亀甲船は、李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の軍艦の一種で、
全長35.3m、幅10.5mの「実物大」に復元したものが展示されている。
左右に各々6個の砲穴と8本の櫓が設置されている。
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李舜臣の像の背後、小高い丘の上には「鎮南館」がある。
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朝鮮時代の四百余年の間、朝鮮水軍の指揮部であった「鎮海楼」が慶長の役で
焼失後、その跡地に建てられた客舎が「鎮南館」であると、リーフレットでは
解説されている。
残念ながら、われわれが訪ねた時には、「鎮南館」は改修工事中で、工事用
テントで覆われていた。一見すると、巨大な商業ビルにも見えた。
隣接の「鎮南館壬乱遺物展示館」で、朝鮮水軍の活躍の様子や衣服などの資料を
見学した。
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KTXに乗って、麗水(ヨス)に行くため、早朝に起床し、身支度を
整え、バスでソウル駅に向かう。
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朝食は、駅のマクドナルドで「コーンパイ」とコーヒーを注文した。
日本のマクドナルドでは、コーヒーと一緒に「アップルパイ」を
食べたことはあるが、「コーンパイ」は、初めての経験である。韓国の
「コーンパイ」は、「アップルパイ」に負けず劣らず、大変美味しい。
食べると、コーンのシャキシャキする食感があり、甘みと香りが絶妙で
ある。
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ネット検索すると、「コーンパイ」は韓国の若者たちに人気だというが、
日本のマクドナルドでも売り出される日が来るのであろうか。
実は、既に、ケンタッキーで「コーンパイ」が販売されているらしい。

7時05分、KTX703号は、定刻通りに、ソウルから麗水に向けて
出発した。これから3時間の鉄道の旅である。
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この車両は、幸いにしてインターネットに繋がったので、i-Padを使って
東京のTBSラジオを聴いた。東京のリスナーが提供してくれている受信
機を使用させてもらい、遠隔操作しての受信で、良好に聞こえる。
毎朝、自宅で聴いている「森本毅郎スタンバイ!」にダイアルを合わせると、
「森本さんが、番組の途中で体調を崩し、現在、局内で医師の診察を受けて
いる」とアナウンスして、代役のアナウンサーが番組を進行している。
突然のことにビックリし心配したが、その後のアナウンスで、大事に至って
いないことが知らされ、安心した。

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KORAIL(韓国鉄道公社)は、さまざまな地域を便利に旅できる観光列車を
運行しているというので、われわれは「海岸列車」の乗ってみることを計画
していた。

ネットで予約するのが原則だが、韓国語だけの表示なので、われわれには難し
く、現地の駅で、残席があれば購入するしかない。
乗車を予定した日の前夜、念のため、ホームページを閲覧してみた。
http://www.seatrain.co.kr/

ところが、画面には「運休情報」と思われるものが現れた。電車のイラストに
「通行止め」のマークが付いていて、「2019.11.4-12.2」とある。この期間は
運休するというメッセージではないかと思われた。もし、「運休」であれば、
われわれの計画は空振りとなる。

パソコンの画面をスマホで撮って、ホテルの受付に行き、スタッフに画面を
見せて、これを英語か日本語に翻訳してほしいと頼んだ。
彼は、「鉄道でトラブルが発生していて、運行されていない」と教えてくれた。
「海岸列車」は諦めた。

そこで、予定を変更して、日を改め、今まで訪ねたことのない、韓国南部の
美しい町、麗水(ヨス)に行くことにし、高速鉄道KTXの座席を予約した。

ソウルの町は、日曜日には休業する店が多い。
休日営業をしている店をネット検索していると、少し郊外になるが、
量販店のあることが分かり、地下鉄で出掛けることにした。

地下鉄は、休日だからであろうか、それほどの混雑はなく、空席も
目立つほどである。ふと気が付くと、ピンク色の席がある。字は読め
ないが、妊婦さんへの優先席と思われた。日本場合は、各車両の端の
方に優先席が設けられていることが多いが、ソウルの地下鉄は車両の
中ほどの7人席の両端に設けられている。

その後の、乗客の動きを観察していると、皆んな「優先席」を理解して
いる模様で、他の席が埋まるまでは、この席に座ることはなく、空いたまま
である。混んでくると女性や老齢の乗客が座り始める。それでも、妊婦が
乗ってくれば、席を譲るといった具合である。
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1時間ほど乗って、「鼎鉢山(チョンバルサン)」という駅に降り立った。
地上に出て、量販店を目指して歩き出すと、紅葉と落葉の歩道が美しく、
散歩している人がいる。間もなく、スピーカーの大音声が聞こえてきた。
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近くの公園で、何かのイベントが始まっている模様で、先ずは、そこを見て
おこうと思った。
公園に入ると、特設ステージに向かって、数百人分の折畳み椅子が並んで
いる。その会場を囲むように、「コ」の字型にテントが並んでいる。テントを
覗いてみると、どのテントでも「マッコリ」の試飲サービスが行われていて、
気に入ったブランドのマッコリを買っていく人もいる。ところどころに、
「チヂミ」を売っているテントもある。
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量販店での買い物を済ませて、この公園に戻ったころには、大賑わいとなって
いた。芝生にシートを敷いて、紅葉を見ながらマッコリを楽しむ家族連れがいる。
ベンチに座って嬉しそうにマッコリを飲んている若いカップルもいる。
舞台では、司会者がギタリストを紹介し、演奏が始まったところだった。
これから、次々に歌手などが登場するのであろう。
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われわれも、空いているベンチを探して、荷物を置き、席を確保した。
マッコリ一本とチヂミを買ってきて、地元の人たちの真似をして、紅葉とマッコリ
を楽しんだ。思わぬところで、真っ昼間からマッコリを飲むことができた。
ちょうど、この日は、49回目の結婚記念日。しあわせ! しあわせ! である。
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ホテルに戻って、ネットで調べると、この町での「マッコリ祭り」は有名な行事で、
毎年、この時期に催されるのだという。
https://www.seoulnavi.com/miru/2446/

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「独立紀念館」の見学が終わったのは、午後4時を過ぎていた。
出口近くの売店で、この町・天安の名物となっている「くるみ饅頭」を買って、
帰路に就いた。

「独立紀念館」から、天安の町のバスターミナルに戻るのに、一苦労した。
バスは30分に1本程度、しかも、バス停には、町に戻る観光客などで長蛇の列
である。タクシーに乗ろうとしたが、仲々、空車がやってこない。空車が来たと
思ったら、タクシー乗り場の手前で、ルール違反の客が拾ってしまう。

ようやくタクシーに乗ることができて、「天安のバスターミナルまでお願いします」
と言っても、何の返事もなく、動き出した。
そのうち、「独立紀念館」に来るとき、バスに乗ってきたルートと違う道を走って
いるように思われた。タクシーの運転手さんは、裏道をよく知っていて、バスルート
よりも近道をしているのだろうと、呑気に考えていたが、山越えの寂しい一本道に
入っていった。行き交う車もない。
窓から見える、夕日に映えて、燃えるように美しい紅葉の広がりとは裏腹に、心の中
では不安が生まれてきた。しかし、ここは、ドライバーを信じて、我慢するより他ない。
何事もなく、30分ほど乗って、眼下に天安の町の灯りが見えてきた時には、ほっとした。
バスターミナルでチケットを買って、ソウル行のバスに乗った時には、緊張と疲れから
解放され、ソウルまでの2時間弱の間、ぐっすりと眠ってしまった。
ホテルに帰って、「くるみ饅頭」の箱を開けて食してみると、スポンジ生地が柔らかくて
香ばしく、大変美味であった。

ソウル江南地区にある「高速バスターミナル」は、初めての利用である。
首都ソウルと全国各地を結ぶ大規模な高速バスが発着する。
バスターミナルは朝のラッシュアワーで、ビジネス客や観光客で賑わっている。

先ず、天安行きの指定席券を購入し、続いて、ロッテリアでハンバーガーを食べる。
自動券売機で注文し、クレジットカードで決済すると、番号のプリントされた領収書
が出てくるので、サービスカウンターの上のモニターに自分の番号が現れたら、貰い
に行くといった具合である。自動券売機の表示は、ハングル、英語、中国語、日本語
が選択できるので、助かった。
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9時45分、定刻通りにバスは出発した。これから、約1時間半のバスの旅である。
途中の風景は、田畑の向こうに山々が連なり、どことなく日本の田舎の風景に似て
いて、懐かしい感じもする。

天安バスターミナルからは、市内バスに乗って、「独立紀念館」に向かう。
ガイドブックなどによれば、30分弱で到着できるはずであったが、この日はちょうど
土曜日で、独立紀念館に行くマイカー利用の行楽客が多いらしく、途中でバスは大渋滞
に巻き込まれてしまい、1時間近くかかってしまった。

この「独立紀念館」は、植民地支配を受けた記憶を忘れず民族の大切さを考えるために、
韓国国民が自発的に募金活動を行い、関連資料を無償で寄贈し1987年に設立された。

IMG_20191221_0002「韓民族の魂・韓国の光 独立紀念館」というタイトルのリーフレットには、次のように記されている。
韓民族は、苦難の日帝強占期を、誇らしい独立運動の歴史へと変えました。独立紀念館は、近現代史における韓民族の国難克服と国家発展の歴史について研究・展示・教育しています。自然に囲まれた独立紀念館で韓国の歴史を学び、その熱い精神を感じてください。









1987年に建造された独立紀念館の正門には、巨大なモニュメントが建っている。
「同胞(キョレ)の塔」と呼ばれるもので、高さは51mあり、真っ直ぐに伸びた
独特の形は、空に羽ばたこうとする鳥の翼と、祈りを捧げる両手をイメージして
造られたという。
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そこを入って、左手に「同胞(キョレ)の大広場」に無数の太極旗が並ぶのを見ながら、
さらに進むと、正面には「同胞(キョレ)の家」と呼ばれる大殿堂が見えてくる。
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独立紀念館のランドマークで、高麗時代の寺院である修徳寺大雄殿を模した切妻造
で、東洋最大の瓦葺建物である。
中央には大きな「不屈の韓国人像」が、右側の壁には国旗の太極旗が、左側の壁には
国花の無窮花(ムグンファ)が描かれている。
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「独立紀念館」には主な展示施設が7つある。
(第1展示館)韓民族のルーツ
       先史時代から朝鮮時代後期までの韓民族の文化遺産などを展示。
(第2展示館)韓民族の試練
       19世紀後半期、韓国は一方では近代的な国家への発展を模索し、
       他方では日本の侵略をうけ、次第に国権を喪失する過程を経た、
       その様子を展示。
(第3展示館)国を守る
       1900年を前後に国が受けた試練に立ち向かい、反日闘争を繰り
       広げた韓国人の活動を展示。
(第4展示館)三・一運動
       韓民族の最大の抗日闘争だった1919年の「三・一」運動に関する
       様々な資料を展示。
(第5展示館)国を取り戻すための闘い
       中国東北部および沿海州やアメリカなどで活動した独立軍の関連資料、
       韓国光復軍と熱烈闘争に関する資料などを展示。
(第6展示館)新しい国づくり
       日帝強占領期展開された民族文化を守る運動と、各界各層の首魁運動、
       大韓民国臨時政府の活動資料などを展示。
(第7展示館)独立運動体験場
       日帝強占領期の国内外で展開された抗日独立運動について追体験しな
       がら学習する。

われわれ日本人が見学していて印象に残るのは、1900年代前半に日本国内で起きた、
在日朝鮮人が巻き込まれた事件に関する資料である。
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「独立紀念館」については、次の観光案内サイトで詳細に解説されている。
https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3389

ソウル滞在中のある日、昼食を食べようと思い、ソウル駅の近くを歩いて
いると、美味しそうなメニューの写真が出ている、こじんまりとした店が
あった。店に入ると、中年の女性が一人で切り盛りしていたが、日本語を
話してくれる人だったので、助かった。
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私は「プルコギ定食」を頼んだ。
雑穀米のご飯とわかめスープ、キムチとゆで卵が付いている。
私は唐辛子の辛さは一切ダメなので、甘い醤油味で調理されたプルコギは
嬉しい。生野菜も添えてあり、大変美味しい。この料理ならば、この店に
来て、何回でも食べたくなる。

連れ合いは「野菜サラダ定食」を頼んだ。
たっぷりの生野菜に、クルミ、アーモンド、カボチャの種などがのっている。
これにも、雑穀米のご飯とわかめスープ、キムチとゆで卵が付いている。
ヘルシーで、大変美味しいという。
カウンター席に座っている若い女性客は、皆んな、この「野菜サラダ定食」
を食べているところを見ると、この店の人気メニューなのだろうと思われた。
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われわれが食べている間にも、電話が鳴り響いていて、「これから店に行く
から、〇〇を作っておいてね」と頼んできたのだろうと思ったが、間もなく
店にやってきたのは、客ではなく、バイクに乗った配達代行の業者だった。
韓国では、このスタイルが流行っているのだろうか。

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ソウル中心部にあるツインタワービル、ソウル中央郵便局を訪ねた。
海外旅行では、郵便局で日本向けの郵便切手を購入するのを恒例としている。
今回は過去の旅行で買い貯めておいた切手を持参したので、現在の国際郵便
料金を確認することだけが目的である。

IMG_20191219_0001Bこれまで何回も訪ねたことのあるビルだが、地下に「切手博物館」があることは、今回、初めて知った。
ここでは、韓国の郵便制度の歴史、これまで発行された切手の数々が展示されている。通常切手の他、世界遺産やノーベル賞などに関連する特殊切手も展示されていて、それらの切手を通じて韓国や世界の歴史を学び、旅することができる。
「私だけの切手作りコーナー」では、切手の余白に個人の写真やキャラクターなどを印刷して、「私だけの切手」「世界で一つだけの切手」を作って、想い出にすることができる。

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跨線橋公園「ソウルロ7017」の終点から、大通りを10分ほど歩くと、小高い丘の上に孫基禎記念運動公園があり、その中心に「孫基禎記念館」がある。孫基禎(ソン・ギジョン)は1936年のベルリンオリンピックのマラソンで優勝した。当時の韓国は日本の統治下にあり、彼は「日本代表」とされた。
IMG_20191218_0001A同記念館のリーフレットでは、「孫基禎記念館は、国を失った大変な時代に世界を制覇し、わが民族の矜持を高めた。(中略)孫基禎選手の母校である養生義塾の建物をリニューアルし、孫基禎生誕100周年の2012年に開館した」と解説されている。

館内に入ると、先ず映像室で、孫基禎の少年時代を紹介するアニメーション動画が映し出される。暑い日も、雪の日も、学校には走って通学する。ある時には、自転車通学する同級生を、走りながら追い越していく姿も描かれている。
走ることが大好きな基禎少年に、母親は布製のシューズを手造りしてプレゼントする。その手作りシューズの写真が展示されている。
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孫基禎が1936年のベルリン五輪のマラソンで優勝したときの記録映画が上映
されている。そのフイルムとナレーションの原稿が展示されている。
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ベルリン五輪のマラソンで優勝すると、韓国の新聞も大きく報道した。
そして、「事件」は起きる。
東亜日報は、日本の植民地支配に抗議する意味を込めて、優勝した孫基禎の胸に
ある日章旗を塗り潰した写真を掲載したのである。当時の朝日新聞と東亜日報の
紙面が並んで展示されている。この事件は「日章旗抹消事件」と呼ばれ、当時の
朝鮮総督によって、東亜日報の発行停止処分が発せられ、記者など関係者8人が
日本の官憲の厳しい拷問を受け、解職されたという。
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孫基禎は、スポーツ指導者になろうと日本留学を志し、ベルリン五輪で優勝した翌年、
1937年に「二度と陸上はやらない」との条件で日本の明治大学に入学した。
https://www.meiji.ac.jp/koho/blog/007/6t5h7p00000caia0.html
https://www.meiji.ac.jp/koho/press/2012/6t5h7p00000c57wn-att/20120609.pdf

展示物のハイライトは、ベルリン五輪で孫基禎に贈られた金メダルと賞状と月桂冠で
ある。何れも韓国の文化財に指定されているという。
五輪の金メダルは、現在は、首にかけるタイプであるが、ベルリン五輪の時にはケース
に入れて授与された。
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孫基禎選手には、優勝の賞状も授与された。
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更に、月桂冠も授与された。
これは、ドイツの女性によって手作りされたものだという。
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記念館の横にある緑豊かな公園には、孫基禎の銅像が建っている。
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彼が手にしている兜について、記念館のリーフレットには「ようやく返された青銅兜」
と題する一文が載っている。
   孫基禎はマラソンの優勝者に与えられる青銅兜の存在も知らないまま帰国
   した。当時、日本選手団がそれを主催国のドイツに渡したのである。
   その後、大韓オリンピック委員会、ギリシャオリンピック委員会、ギリシャの
   Vradyni新聞社、韓国のマスコミが返還の努力を続け、1986年8月9日、
   ベルリンオリンピック50周年記念イベントで、ドイツのオリンピック委員会が
   青銅兜を孫基禎に返した。
   その時、孫基禎は「これは私のものではなく、わが民族のものです」と語った。

なお、孫基禎については、ウィキペディアでも解説されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫基禎



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観光案内所でもらったリーフレットに「都市再生の始まり ソウルロ7017」
というタイトルが付されているのを見て、これは何だろうと思った。
ソウル駅に隣接する跨線橋公園のことで、タイトルに続いて、次のように記され
ている。
  1970年に造られ、2017年に生まれ変わった高架道路
  1970年に造られた 17m高さの高架道路


ソウル駅の北側、南北に走る鉄路と道路を東西に跨く形で高架橋の道路だった
ところを、歩行者専用の公園に改造して、観光地化したのが「ソウルロ7017」
である。
高架道路は1970年に開通したが、次第に老朽化が進んだため、高架道路を
撤去するかどうかについて検討された結果、公園にすることが決定されたのだ
という。
この改造工事については、韓国KBSの日本語番組でも紹介されていたので、
機会があれば、この公園をぜひ訪ねたいと思っていた。公園全体の長さは約1㎞。
様々な木々・花々が植えられているが、われわれが訪ねたのは、これから冬に
向かう時期で、防寒のための「雪囲い」の作業をする人の姿があるのみであった。
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地上からエスカレーターで高架道路跡の公園に上ると、「ストリート・ピアノ」
が目に入った。公園の数ヵ所に置いてある。しかし、われわれが公園を散策した
のは午前中だったので、人出も多くはなく、ピアノを弾く人はいない。
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公園から市街を眺めると、名所旧跡が見える。
先ずは、ソウル駅のガラス張りの現在の駅舎と、レンガ造りの旧駅舎である。
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遥か向こうに、ソールタワーを望むこともできる。
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南大門は、かなり近くに見える。
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少し離れて、わがホテルも、ビル群の中に見つけた。
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紅葉の徳寿宮を出ると、午後1時を回っていた。
数年前に訪ねた時、徳寿宮から直ぐのところに、サムゲタンの美味しい店が
あったので、再び訪ねることにした。
店内には、昼の繁忙時間が過ぎていたこともあり、2組の客がいるだけで、
奥のテーブルでは、女性の店員が二人で、大小の高麗人参を袋から取り出して、
調理用に選りすぐりの作業をしていた。
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普通のサムゲタン2人分を頼んでしまったが、もしかしたら、食べ切れないかも
知れない。
日本酒のお猪口に似たカップに入った人参酒と、付け合わせのニンニクやキムチ
などが出てきた。
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そして、待つこと約10分。煮えたぎる参鶏湯が運ばれてきた。
勢いよく湯気が立ちこめて、カメラのレンズも曇ってしまい、ピントが合わない。
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この店は1971年創業だという。生後30~40日ほど経過した雄の若鶏を、
もち米、高麗人参、なつめと一緒に煮込んである。スープはあっさりとしている。
満腹、満腹、である。

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