カテゴリ: 断捨離シリーズ

8mmムービーの時代が何年続いただろうか、技術の進歩は目覚ましく、8mmムービーに代わって、8mmビデオが登場してきた。
先ずは、SONY CCD-V8 を発売開始と同時に購入して、アメリカ旅行に持って出かけた。
https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-f.html

この時のビデオ作品と使用リポートが、学習研究社から発行されていた8ミリビデオ情報誌「V8」1986年2月号で紹介され、3000円の賞金をもらった。
すると、同誌4月号では、使用リポートに対する反響が紹介された。世の中には、いろいろと研究し、試行錯誤を繰り返している人がいるものだと感心したのであった。そして、次の旅行に向けて、大変参考になった。
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子供たちが地元の少年野球に熱中するようになると、毎週のように練習試合があり、その模様を記録するようになった。その時期には、8mmビデオも多様な機種が発売されるようになっていたので、思い切って奮発し、SONY CCD-V5000 video Hi8 PRO を購入した。ずっしりと重いカメラを肩に乗せ、両手で支えて撮影するので、手ブレが起きず、ボールの飛び具合や守備陣の動きを追うには適していたし、応援する父母たちの姿などを、安定した画面で撮影することが出来た。ただし、このビデオカメラは大きく重かったので、旅行に持っていくには不向きと思われた。
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子供が生まれ、彼らが成長するに連れて、カメラだけではなく、ムービーにも関心が向くようになった。
最初は、知人から譲り受けた8mm撮影機であったが、次第にワンランク上のものが欲しくなり、FUJICA Single 8 SOUND ZXM500 を購入した。しかし、撮影機はあっても、映写機まで購入する経済的余裕がなかったので、時々近所の知り合いから映写機を借りて来て、ファミリー上映会を開いた。
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やがて、ビデオカメラの時代がやってきたため、8mmムービーの映像をビデオテープにダビングすることにした。本格的なダビング機器も販売されていたのかも知れないが、わが家では、本当の意味でのダビングではなく、「簡易投射機」とでも呼ぶべき機器を使ってビデオテープに複製した。
折り畳み式機器で、A4判ほどの鏡と磨りガラスを角度45度の「∧」字状に立て、鏡に向けてムービー映像を投射してガラスに反射させると、ガラスの裏側に映像が映るので、それをビデオカメラで撮影する仕掛けである。この機器は散逸してしまった。

中学生の頃から、海外からの短波放送を聴くこと(BCL)を趣味としていたが、進学、就職、結婚と続く頃にはBCLを中断してしまい、カメラに関心を持つようになっていた。
最初は「PETRI」製品を、続いて「minolta」製品を使うようになった。
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次第に、標準レンズだけでは物足りなく感じるようになり、望遠レンズと広角レンズも購入した。しかし、手許に残っているのは望遠レンズのみで、広角レンズは散逸してしまったようだ。
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時代は変わり、カメラは小型化が進み、更にデジタル化のスピードは目覚ましく、物珍しさも手伝って、そんな小型カメラを数種類使用したが、すべて故障してしまった。
いま愛用しているのは、「SONY RX100 Ⅱ」である。発売間もなく購入し、当初は気に入っていたが、その後のモデルチェンジの推移を見ていると、新しい機種に変更したい気持ちもある。しかし、人生のゴールが視界に入ってきていることを考えると、「まぁ、新しいものには手を出さず、今のままでいくか!」とも思っている。
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2000年の夏、大学を1年間休学してワーキングホリディで滞在していた次男を訪ねて、ニュージーランドに旅行した。北島のオークランドから南島のインバーカーギルまで鉄道で縦断した。
現地は真冬、途中、小雪が舞うダニーデンの町に降り立った。ホテルの近くにNZで人気のあるビールの一つ、"SPEIGHT'S" の製造工場があったので、早速見学した。
https://www.speights.co.nz/
https://www.speights.co.nz/products
https://shopspeights.co.nz/

工場の見学の最後にビールの試飲コーナーがあり、隣接する売店で記念のお土産にビア樽を買った。高さ25cm、幅16cmほどのスチール製ビア樽は、旅行者のスーツケースにはスペースを取り過ぎる感じもしたが、永く想い出に残るだろうと思い、購入を決心した。
樽の周りには、同社がスポンサーとなっている地元ラグビーチームの選手たちの躍動する姿がデザインされている。
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実際にビールを樽に入れ、樽からグラスに注ぐことが出来る仕掛けになっているが、いろいろ操作しているうちにビールの気が抜けてしまいそうで、実体験をしないまま、結局は貯金箱に化けてしまっている。
ところが、ここ数年来、金融機関の窓口やATMで沢山の小銭や硬貨を入金するときは手数料が掛かり、また、個数制限もあるようで、この貯金箱の中身をどうしようかと悩み始めている。

1999年の夏、カナダ・バンクーバーに旅行した。
一つの目的は、バンクーバーから "ROYAL HUDSON STEAM TRAIN" という蒸気機関車が牽引する観光列車に2時間ほど乗って " Squamish " という町に行き、"RAILWAY MUSEUM OF BRITISH COLUMBIA" を見学することであった。2時間の蒸気機関車の旅は、ランチと飲み物付きで、車窓から大自然の風景を見ながら、わが夫婦はサーモンとチキンの料理を堪能した。
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その博物館の売店で、記念に買ってきたのが、汽笛が鳴る時計である。
高さ40cm、幅25cmの楕円形で、毎正時に「ピー・ポー、ピー・ポー」と汽笛を鳴らしながら、計時板の下にセットされた小さな機関車がトンネルや鉄橋を通って、弧を描いて回る仕掛けになっている。
今回、物置から取り出して動かしたところ、時計自体は機能するが、小さな機関車は動かず、時報の汽笛音も鳴らなくなってしまっている。
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鉄道博物館のホームページは次のとおりであるが、われわれが乗った観光列車のホームページを探すことが出来ないでいる。
観光客の多くは車を利用するようになったのかも知れない。
https://www.wcra.org/
https://www.facebook.com/visitrmbc/

1983年夏、「パンアメリカン航空(PAN AM)」の飛行機に乗って、サンフランシスコに旅行した。
手許に残っている、日本発の搭乗券は「手書き」である。この時代には未だ機械的に発券するシステムが完成していなかったためか、あるいは「団体扱い」の格安チケットであったからか、搭乗券が「手書き」となった理由は覚えていない。因みに、サンフランシスコ空港で発券された復路の搭乗券は、機械的に印字されたものだった。
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一緒に連れて行った2人の子供は小学生だったこともあり、往復の機内では客室乗務員から「トランプ」をもらって、大喜びだった。あれから40年が経ち、カードケースは少し汚損してしまったが、中に入っているカードは、今も綺麗なままである。
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機内食で提供される、ワイン用のプラスチック製のコップには "PAN AM" のロゴが入っていたので、搭乗の記念に持ち帰り、しばらくの間、自宅でもウィスキーの水割りなどに使い、旅の想い出に浸っていたが、いつの間にか散逸してしまった。

「パンアメリカン航空」は、残念ながら1991年に終焉の時を迎えたが、その栄光の歴史は "The Pan Am Historical Foundation" のサイトで紹介されている。
https://www.panam.org/

その後も、何回かアメリカに旅行して、客室乗務員からトランプをもらったものだった。
American Airline や全日空(ANA)の他、鉄道 AMTRAK などのカードが手許に残っている。
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初めての海外旅行のアメリカで、その「デカさ」には驚きの連続であった。
先ず、度肝を抜かれたのは、ロサンゼルス国際空港に着陸する時に見えたフリーウェイの幅広さと車線の多さだった。フリーウェーは片側6~7車線はあったのではないだろうか。市内に入ると、片側4車線は交通規制が敷かれて、2LDKほどのプレハブ住宅が台車に載せられて、ゆっくりと移動している光景に出会い、ビックリしてしまった。

そして、スーパーマーケットで売っている牛乳パックの大きさにも驚いた。当時の日本で売られていた牛乳パックに比べて一回り大きいものだった。紙パックだけでなく、灯油用ポリバケツの半分はあろうかという、大きなプラスチック容器に入った牛乳が棚にずらりと並んでいるのを見て、「何でも大きいアメリカ」を実感したのであった。

スーパーマーケットで、もう一つ驚いたのは、大きな "HILLS BROS'. COFFEE" の缶が並んでいるのを見た時である。
その頃、わが家では瓶に入ったインスタントコーヒーは飲んでいたが、こんな大きな缶入りのコーヒーの粉をコーヒーメーカーで淹れたり、ペーパーフィルターを通すという贅沢は、夢の夢であった。

旅の記念に、直径15センチ、高さ17センチほどの缶に入った "HILLS BROS'. COFFEE" を2個買って帰国した。帰宅後、このコーヒーの缶を開けた時、何とも言えぬ香りが漂ってきたのを想い出す。
そして、そのコーヒーを飲みながら、次の旅行の計画を練る日々が続いた。
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あれから約半世紀、この間に同社のロゴマークにも変遷があった模様で、手許に残っている缶のデザインが懐かしい。
https://hillsbros.com/
https://hillsbros.com/our-history/
https://en.wikipedia.org/wiki/Hills_Bros._Coffee

1976年の夏、2歳3ヵ月の長男を連れて、初めての海外旅行に出掛けた。
東京・羽田からソウル金浦を経て、ハワイのホノルルで給油し、ロサンゼルスに到着した時には深夜を回っていた。子供連れの家族旅行ゆえ、当然のことながら「ディズニーランド」観光と相成った。
この年は、アメリカ合衆国建国200年にあたっており、国中が沸き立っていた。そして、「ディズニーランド」でも、記念の特別プログラムが組まれていた。

夜の9時、園内の照明が消えると「皆さん、ようこそ、ディズニーランドにお出でくださいました。ただいまからアメリカ合衆国国歌です」というアナウンスが流れ、お客もスタッフも皆んな、その場に立ち止まり、胸に手を当てて国歌を歌う姿を見て大変感動したものだ。
国歌が終わり、ドーン、ドーンと夜空を焦がす大輪の花火が打ち上げられると「お~っ」という歓声があがり、更に印象を強くしたのであった。

当時、ディズニーランドでは、入場料を支払って入園した後は、各アトラクションの入口で指定されたクーポンを渡すか、又は所定の遊戯代を現金で支払う形になっていた。
われわれは、11枚セットのクーポン綴りを購入した。入場料込みで12.20ドル相当のものが、6.50ドルとなっていた。当時の為替レートは、1ドルが300円前後だったので、一日2000円程度で遊ぶことが出来たことになる。次の画像は、その時のクーポンの使い残しである。
現在では、「パスポート」を購入すれば、どんなアトラクションでも無制限に楽しむことが出来るようになっているものの、料金は何倍もの高額となり、隔世の感がある。
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1964年、旺文社が発行する受験雑誌「蛍雪時代」は、海外旅行をテーマとした作文コンテストを実施した。
その頃、既に「海外放送受信」に熱中していたことから(1970年代には一旦、中断してしまうのだが)、「海外旅行」には大きな関心を持っており、コンテストでは「特賞」としてアメリカ旅行がプレゼントされるというので、早速、応募した。
どのような内容の作文を書いたかは全く記憶になく、「特賞」や「入賞」に入ることはできなかったが、最後のランクの「佳作」に名を連ねることが出来た。賞状と記念の楯がプレゼントされ、英文で書かれた賞状が郵便で送られてきた時には、大いに興奮したことを覚えている。
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このコンテストは、旺文社とBOAC(英国海外航空)の共催だったが、アメリカ旅行をプレゼントするコンテストに、なぜイギリスの航空会社が協賛したのかはわからない。
なお、BOACは、その後、BEA(英国欧州航空)と合併して「BA(英国航空)」となり、「BOAC」の社名は消滅した。
一方、旺文社は、現在も、受験生を応援する出版社として発展し続けている。また、何年頃か、社のロゴマークが変更された模様である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/英国海外航空
https://www.obunsha.co.jp/

◆ この頃、旺文社からは英単語辞典「赤尾の豆単」が出版されていたが、私は、これを使ったことはなく、もっぱらVOA(Voice of America)SPECIAL ENGLISH の "WORD BOOK" に慣れ親しんでいた。"WORD BOOK" は、英語の単語を平易な英文で説明しているので、謂わば「簡易版・英英辞典」の趣きであった。
http://swlinformation.livedoor.blog/archives/1953187.html

◆ BOACに関しては、悲しい想い出がある。
1966年、同航空機が富士山上空で乱気流に巻き込まれて空中分解した事故である。
この年、日本では2月から3月にかけて一ヵ月の間に、最新鋭旅客機の事故が3回も続けて起きた。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030509_00000
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030508_00000
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030070_00000

ここ数年来、体力と記憶力の衰えから、人生のゴールが視界に入ってきていることを一層強く自覚するようになった。「身辺整理」を急がなければと思いつつ、ついつい先延ばしにしてきたが、今年に入ってからは意を決して「断捨離」を加速させている。

1958年(昭和33年)に発行された「アサヒグラフ」臨時増刊号(南極越冬画報)の裏表紙には、東芝の小型トランジスタラジオと、14インチテレビの広告が掲載されている。テレビは「現金定価 73,000円」、小型トランジスタラジオは「現金定価 9,800円」とある。
次のサイトでは、この年の勤め人の平均月給は16,608円だった、と解説している。
https://nenji-toukei.com/n/kiji/10023
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1953年のテレビ本放送開始から既に5年が経っていたが、この広告の文面からは、未だ「テレビよりは、ラジオが主流」の時代だったことが窺える。それにしても、広告文の最後にある「マツダラジオ」とは何か、この一語が目を惹く。

「マツダラジオ」をキーワードにしてネット検索すると、様々な興味深い情報に接することが出来る。私の微かな記憶によれば、あの当時、「マツダランプ」という電球があったような気がしている。

なお、東芝の会社概要・沿革のページでは、数ヵ所に「マツダ」の言葉が見られる。
https://www.global.toshiba/jp/outline/corporate/history.html

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