カテゴリ: 2001年 中国東北部の旅

2001年夏、われわれは中国東北部(旧満州)の海拉爾(ハイラル)と首都・北京を旅行したが、その間、少しの時間だったものの、趣味のBCL(短波放送受信)も楽しむことが出来た。なお、持参した受信機は、Panasonic RF-B45 だったが、後年、音量調節つまみが故障してしまい、現在に至るも「お蔵入り」となっている。
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中国旅行で聴いた短波放送のうち、手許に残っている受信音の音声ファイルは、次のようなものである。

◆ ラジオ・ジャパン(8月15日。受信地:海拉爾(ハイラル)のホテル)
  NHKラジオ第1の朝7時のニュースが流れている。現地時間では朝6時である。
  http://blog.livedoor.jp/swl_information/A003%20R.Japan.MP3

◆ ロシアの声(8月16日。受信地:海拉爾(ハイラル)のホテル)
  当時は、夜9時からはハバロフスク・スタジオ制作の番組が、夜10時からは
  モスクワ・スタジオ制作の番組が、それぞれ放送されており、この音源は
  その切替り部分である。
  http://blog.livedoor.jp/swl_information/A004%20VOR.MP3

◆ VOA(8月18日。受信地:北京のホテル)
  フィリピンのホテル火災などを伝えるニュースに続き、メディア情報番組
  "Communications World" が放送された。
  http://blog.livedoor.jp/swl_information/A008%20VOA.MP3

◆ モンゴルの声(8月19日。受信地:北京のホテル)
  お便り番組「ウィークエンド・スペシャル」の最終部分と思われる。
  http://blog.livedoor.jp/swl_information/A005%20VOM.MP3 

◆ モンゴルの声(8月23日。受信地:北京のホテル)
  放送開始アナウンスで、当時は毎日3回放送されていたことが窺える。
  http://blog.livedoor.jp/swl_information/A011%20VOM.MP3

◆ 北京放送(受信日および受信地は記録がなく、不明)
 「東方紅」のメロディに続いて、 インターバル・シグナルと局名アナウンスが流れる。
  http://blog.livedoor.jp/swl_information/A006%20CRI.MP3

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このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したもので、
今回が最終回です。
拙い旅行記にお付き合いいただき、有難うございました。

初めての中国旅行の楽しかった想い出を胸に、ホテル発6時半のバスで北京空港に向かった。
銀行で中国元を日本円に両替して、出国手続きに入る。
北京発9時25分発のユナイテッド航空852便に搭乗。
トラベルノートには、この時の機内食はビールと「京都炸醤麺(北京風ジャージャー麺)」で、大満足だったと記してあるが、同時にカメラのフィルムの残りがなくなり、機内食の写真が撮れなかったと書いてある。
わが家は、まだデジタルカメラを持っていなかったので、フィルムの残量を確認しないまま、写真を撮りまくった結果だった。デジタルカメラであれば、不用な画像は消去して、容量を確保することは可能だったのにと、残念に思う。
この時に使っていたカメラは「MINOLTA Capios 150S」で、「パノラマ撮影」が出来るということで重宝しており、実際、中国・内蒙古の大草原では、何枚も「パノラマ撮影」して、その広さを記録することが出来た。
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「フィルム切れ」については、今でも後悔している。帰路便に搭乗する際、空港の風景や機内食を撮影できず、飛行中に韓国や日本の上空写真を撮ることも出来なかった。北京空港の売店でフィルムを買うべきだった。そうすれば、中国製の写真フィルムが想い出の品になっていてかも知れない。「後の祭り」である。

搭乗機は、予定時刻どおり13時55分、無事に成田空港に到着した。

(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

北京には足掛け10日間ほど滞在し、その間、バスや地下鉄に乗って観光地を訪ねたり、ショッピングセンターで買い物をしていると、人びとの日常生活の風景を見ることができる。そして、珍しい経験をすることができる。
次の写真は、バスの車窓から撮った交通渋滞の様子である。
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これは、市内バス各路線のチケットである。☟
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ホテルの向かい側には大型ショッピングセンターがあり、そのビルの地下に「恒中超市」というスパーマーケットがあったので、このスーパーでは様々な食料品、飲料、日用品などを買った。
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次の画像は、バターのパッケージである。
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次のラベルは、白桃とパイナップルのドライフルーツのものだったと記憶しているが、定かではない。
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スーパーマーケットでの支払いは、現金で対応したが、王府井のショッピングセンター内にある大型書店では、大変興味深い経験をした。
この書店で、旅の想い出に絵葉書のセットを買った。
支払の窓口で、絵葉書とおカネを渡して、支払いを済ませようとしたところ、係員が伝票に何かをササッと書き込み、それを「あそこの窓口に持っていけ」と言う身振り手振りで教えてくれた。伝票を別の窓口に持って行くと、そこで支払いを済ませることになる。伝票に領収印を押してもらい、それを最初の窓口に持っていくと、やっと絵葉書を手にすることが出来た。なにゆえに、このように複雑な手順を踏むのであろうか。理解に苦しんだが、これも「中国の文化」の一面であろうと推測した。
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20数年後の今日、中国では現金での支払いを受け付けない店が増え、クレジットカードでの支払いも時代遅れとなり、QRコードを用いた電子決済が主流になっているという。隔世の感がある

(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

「盧溝橋」は、所謂「盧溝橋事件」の起きた歴史の現場であり、ぜひ訪ねてみたいと思っていたところである。
1937年7月7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、これが「日中戦争」の始まりとされている。日本軍に対する発砲がきっかけだったようだが、誰が発砲したのかは、現在に至るも検証されていない。

ガイドブック「地球の歩き方」に掲載されているバスに乗って盧溝橋を目指そうとしたが、載っている路線番号は全く正確でなく、2回の乗り換えも、その都度、バス停に記載されている路線番号と行先をみて、更に、バスの運転手に教えてもらいながら、何とか自力で「盧溝橋」に到着することができた。
このガイドブックに「地球の迷い方」という異名があることを実感したが、それを頼りにする方に問題があるのであって、旅は「自己責任」であることを、改めて認識することになった。
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「盧溝橋」を往復して、橋の袂に戻ると、歩いて数分のところに、「中国人民抗日戦争紀念館」がある。
「これでもか、これでもか」と迫ってくる惨状の写真や映像、旧日本軍の行為を非難する解説文に、言葉を失ってしまう。「そんな事実はなかった」と簡単に片付けてしまえば、気分は楽になるかも知れない。しかし、中国の人々の想いを理解しようとする姿勢、これを直視して歴史を真摯に学ぼうとする姿勢が、われわれ日本人に求められているのだという想いを新たにした。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

「毛沢東紀念堂」は、中国の人々にとっては特別の想いを持って訪ねるところなのだろうと思われた。
われわれが訪問した日も、入場券を購入しようとする人たちで長蛇の列だったが、入場券がなければ中に入ることができないので、我慢して並ぶことにした。ところが、並んでいる途中で、係員から貴重品以外の手荷物は所定の場所に預けるように指示された。持っていたのは、B4判くらいの大きさの手提げカバンだったが、列を離れて大通りの向かい側に設置されているテント張りの預り所まで往復することになった。この荷物預かり所も、沢山の人々でごった返している。「郷に入っては郷に従え」である。われわれも鷹揚に構えているわけにはいかない。「列」に関係なく、否、「列」そのものがないので、勝手にぐいぐい前に進み、漸くカバンを預けることができた。
再び、入場券を買い求める列に戻って並んだのだが、ここでも、列を乱す者あり、列に割り込む者あり、後ろから押す者あり、日傘が他人に触れようがお構いなしの者あり、これがこの人たちの「文化」なのだろうと思われた。
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「毛沢東紀念堂」には、1976年9月9日に死去した毛沢東の遺体が安置されている。
北大庁と呼ばれる部屋には、大理石で造られた毛沢東の座像があり、その奥にある瞻仰庁には、水晶製の棺に納められた毛沢東の遺体が安置されている。
「毛沢東紀念堂」では、撮影が禁止されているので、次の画像はリーフレットからの引用である。
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「毛沢東紀念堂」では、「偉大な指導者・毛沢東主席」の遺体に面会することは出来たが、そのことの感動よりは、「列を乱す中国の文化」の方が永く記憶に留まることとなった。
しかし、あれから20数年が経ち、中国の人々の「文化」も変化していることだろうと思われる。われわれ日本人も、また、経済の高度成長期と言われた時代には、「国電」のラッシュアワーの時間帯はホームに通勤通学客が溢れて、同じような光景を経験してきた歴史を持っているが、今日では、そのような光景を目にすることはなくなった。

続いて見学した「人民大会堂」は、天安門広場の西側、「毛沢東紀念堂」の斜向かいにあり、1959年に建国10周年を記念して建設された。
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ここは、全国人民代表大会(全人代)や中国共産党大会が開催されるところで、ひな壇に並ぶ指導者たちに、全国から集まった代議員たちが拍手を送る光景がニュースなどで映し出される、あの会議場を目の当たりにして、その大きさには圧倒される。
見学者は、1階席の右手から入場し、演壇の下で代議員席を見渡し、左手の出口から退場する。照明が落とされていたので、少し薄暗かったが、照明が全開したら、更に迫力を感じただろうと思われる。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

ホテルの裏にある旅行会社で観光案内のチラシを見たところ、「万里の長城」を見学する「八達嶺一日観光」の料金が格安だったので、「中国人向け観光バス」のため日本語の解説はないとのことだったが、却って、それも面白いだろうと思って、申し込んだ。
出発は北京駅のバスターミナルで、20人ほどのお客が乗っている。わいわいガヤガヤ、中国語の世界は賑やかである。そのうちに、車内のスピーカーから「スローガン」らしいものが流れ出し、「賑やかさ」は増すばかりである。「八達嶺」までは1時間半ほど掛かると聞いていたので、この「賑やかさ」が終点まで続くことは覚悟しなければならなかったが、本当に「八達嶺」に行き着くことができるのか、そちらの方が心配だった。
そうこうしているうちに、「明十三陵」に到着し、トイレ休憩を兼ねて、短時間ながら陵の一部を見学することになった。
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われわれが乗った観光バスは、「八達嶺」に直行するものと思っており、ここを見学することは知らなかったので、間違って別のバスに乗ってしまったのではないか不安になった。隣の席に座っていた小母ちゃんにガイドブックの地図の「八達嶺」を指して、ここに行くことができるのかと、身振り手振りと筆談で尋ねると、「大丈夫! 大丈夫!」という表情をしてくれた。そして、「明十三陵」から30分ほどして、ようやく「八達嶺」に到着することができた。入場券を買って、ロープウェイに乗り、長城に向かう。
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「万里の長城」は、東は渤海から、西はゴビ砂漠まで、約1400キロメートルにわたって延々と走っている。
長城の上部は、左右を城壁に守られた歩道となっている。その幅は、狭いところで2メートル程度、広いところで4~5メートルはあるように思われた。城楼からの眺めは、「絶景」と表現して余りある。正に「百聞は一見に如かず」である。
中国の歴史の偉大さに感動するが、一方で、ある意味では権力の怖ろしさを覚え、そして、名も無き人々の犠牲の上に、この建造物が存在しているのであろうことを想った。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

北京駅から、電車に乗って天津に行くことにした。
北京駅の人混みは凄まじく、改札口、プラットホームでの押し合い・圧し合いにはビックリする。乗降口に立っている乗務員の案内で、車内に入ると、ほぼ満員状態である。切符の裏側にスローガンがプリントされている。漢字から推測すれば、人びとに対して、経済発展や国家建設に向けて精神の高揚を促している文言と思われた。
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天津駅からタクシーに乗って、「周恩来鄧穎超紀念館」に向かう。
この祈念館は、中国の元首相・周恩来と夫人の鄧穎超の功績を称えるために建造されたもので、夫妻の生涯を様々な資料で解説している。周恩来は江蘇省の生まれであるが、青年期には天津の南開中学校で学んだことから、天津を第二の故郷と思っていたという。
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展示資料の中には「日中戦争」に関する資料が多数あり、それと並んで、われわれに突き刺さるのは「歴史教科書問題」で日本政府を批判しているパネル展示である。このような展示に触れることは、日本人としては辛いものがあるが、両国間の近現代史に想いを致し、中国の人々の感情を理解しようとする努力も必要なのだと、自らに言い聞かせた。
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「周恩来鄧穎超紀念館」を訪問した想い出に、売店で切手セットを買った。
タイトルに「周恩来 1898~1998」とあり、周恩来は1898年に生まれて、1976年に生涯を閉じたはずなのに、なぜ「1998」となっているのだろうと不思議に思ったが、後日、調べてみると、「周恩来鄧穎超紀念館」は周恩来の生誕100年にあたる1998年に完成し公開されたので、この切手セットも周恩来の生誕100年を記念して発行されたのだろうと推測した。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

ホテルの前から市内バスに乗って、「天安門」へ向かう。
数日前の「天安門前広場」は多数の観光客でごった返していたが、われわれが再び訪れた日は、午前中の早い時間帯だったこともあり、スムーズに「天安門」を入って、紫禁城の広場に進むことができた。
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広場の向こうに構える「大和殿」の威容には驚くばかりである。映画「ラストエンペラー」の紫禁城俯瞰のシーンを彷彿とさせる光景である。今は「故宮博物院」となっている紫禁城に入り、そこに収められている文物を観ると、中国の歴史の奥深さに、驚きは増すばかりである。

紫禁城は、明の時代、清の時代の約490年間、24人の皇帝の居城となっていたという。
その面積は約72万平方メートルで、東京ドーム約15個分に相当する広大な宮殿では、明の時代には9000人の宮女、宦官10万人が居住したといわれている。
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「大和殿」の「玉座」は圧巻である。ここに、歴代の何人もの皇帝が座った姿を想像すると、中国四千年の絵巻物の一部を見るような想いになる。
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しかし、浅学の身には、「紫禁城」を見学し続けることが苦痛にさえ思えるほど、展示されている史料は膨大である。
疲れ始めた頃、目に入ったのは、歴史的建造物には似つかわしくない、コーヒーショップ「スターバックス」であった。これには本当にビックリしたが、このアンバランスこそが、現代中国のナマの姿なのだと思われた。
われわれが紫禁城を訪ねてから数年が経った2007年に、この店舗は閉鎖されたという。「故宮(紫禁城)の荘厳さを損ない、中国文化を踏みにじるものだ」という批判が広がったらしい。
https://www.afpbb.com/articles/-/2288051
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紫禁城見学のあとは、バスで北京駅に戻った。
翌日、電車で天津に行く切符を買うためである。
窓口で、列車番号、発車時刻、行先を書いたメモとパスポートを提示すると、係員がキーボードをたたき、発券してくれた。未だ指定席は余っていたようで、希望どおりの切符を手にすることができた。

駅頭に出ると、手錠をはめられた男3人が公衆の面前を警察に連行され、前後からテレビカメラが追いかける光景に遭遇した。ドラマの撮影ではなさそうだ。本当の「逮捕劇」のように見えた。人々は「何かあったのか」と好奇の目で見ているが、何があったのかは、誰にも分らないようだ。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

8月19日午前6時半、ホテル発のバスに乗って、一足先に日本に帰る義母を北京国際空港まで見送りに行った。
体力的なことも考慮して、義母は4泊5日の海拉爾(ハイラル)訪問だけで帰国し、連れ合いと私と次男は、更に中国の旅を続けることにした。
空港のカフェテリアで、クロワッサンとコーヒーの簡単な朝食を摂ったが、余りにも高い価格に驚いた。しかし、空港と言う場所柄、テナント料も高いだろうし、止むを得ないことと思われた。

義母が手荷物検査場に入るのを見届けたものの、搭乗したユナイテッド航空852便は、出発予定時刻を1時間過ぎても、電光掲示板には「出発」の表示が現れない。まさか、義母の出国手続きでトラブルがあり、その影響で出発が遅れているのではないかと、あらぬ不安がよぎったが、関連手続きについては良く説明しておいたので、そんなことはないだろうと信じた。それでも、万一のことを考えて、連れ合いだけが空港に残り、母親が乗った飛行機が出発するのを確認することにして、次男と私はホテルに戻った。

前夜までは、4人でツインベッド・ルーム2部屋を使用していたが、この日からは片方の1部屋にしてもらい、その部屋にエクストラベッドを入れてくれるように頼んでおいたので、私と次男はホテルのフロントで、そのことを確認して、荷物を整理して、引き続き使用することになる部屋に纏めた。

荷物の移動が終わり、使用しなくなった部屋のキーをフロントに返すため、ロビーに下りていくと、空港から帰ってきた連れ合いとバッタリ会った。われわれは先に空港を離れたが、義母が乗った飛行機は、それから間もなく飛び立ったという。一安心である。
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北京から成田まで約4時間の飛行ながら、老齢の義母が一人で搭乗することに、一抹の不安がないわけではなかったが、本人の「大丈夫!」の一言を信じた。何しろ、56年前、日本が戦争に敗れたとき、乳飲み子を抱えて中国各地を転々としながら日本に帰ってきたという想像を絶する困難の中で培われた、彼女の「度胸」に、われわれは日頃から圧倒され続けていた。

義母が無事に帰宅できたことを確認するまでは、仲々、気持ちも落ち着かないので、夕刻まで、王府井の界隈を歩くことにした。ホテルの前を通る「長安大街」のバスに乗れば、間もなく王府井に着くことができる。オープンしたばかりのショッピングセンター「東方廣場」の地下街を見学、そして、裏街の「夜市」を歩いた後、早めの夕食を済ませて、ホテルに帰った。

連れ合いが、ホテルから母親の自宅に電話を入れたところ、「無事に着いたよ」と、元気な声が返ってきたという。
機内では、隣の席の若い女性が、入国カードや税関申告書の書き方を丁寧に教えてくれたという。娘の家族と一緒に海拉爾(ハイラル)の街を訪ね、自分だけ一足先に帰国するところだと話すと、その女性は驚いた表情だったと、嬉しそうに話していたという。

これで、われわれ3人は、明日からも、安心して旅行を続けることができる。
今夜からは、「ツインベッドにわれわれ夫婦、エキストラベッドに次男」の日が続く。

(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

北京に戻った後も、旅行初日に宿泊した北京国際ホテルに滞在することにした。
朝食は、北京駅の近くにある中華風ファーストフード店で、本格的な「お粥」を食べた。
白ご飯のお粥ではなく、味付けされたお粥で、これは美味であった。

ホテルから、このファーストフード店に行くには、長安街通りを渡らなければならないが、地上ではなく、地下道を通って渡っていくことになる。その地下道の入口で、ある風景に
出会った。

何かの掲示板に多くの人々が集まっている。何が掲示されているのだろうと思い、近づいてみると、それは新聞の掲示板であった。当時、日本のテレビでも良く紹介されていた、中国独特の風景である。現在では、中国では「人民日報」などの硬派の新聞の他にも、数種類のタブロイド紙が発行されているようで、人々は新聞スタンドで買い求めていくが、われわれが旅行で訪れた2001年当時は、中国の人々、特に新聞を買う経済的余裕のない人々は、街中の新聞掲示板で「人民日報」を読むのが一般的だったようである。否、実際は人々には統制された情報のみを伝えるという国の政策によるものだったのかも知れない。

そして、地下道に入っていくと、一人の男性がシートに座ったまま、物乞いをしているように見えた。本当に生活に困って物乞いをしているのか、あるいは、そのように装って人々の関心を惹こうとしているのか、即座に判断することはできないが、私が学生だった頃、友人から「中国、ソ連、北朝鮮は社会主義国家で、人々は皆んな豊かに暮らしているので、物乞いをしたり、モノを盗む人はいないんだよ」という話を聞いたことを想い出した。
確かに、あの時代、この国には、そう言った「皆んなが等しく豊かな社会」があったのかも知れない。しかし、時代が変わり、旅行で訪れた北京の街で見たのは、この現実の風景であった。

朝食を食べた後は、地下鉄に乗って、天安門広場に向かった。
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先ずは、「毛沢東紀念堂」を訪ねたが、見学客が長蛇の列で、見学するのを断念し、別の日に時間を見計らって訪問しようということにした。「人民大会堂」や「英雄紀念碑」などを眺めながら、天安門に向かって歩くと、結婚の記念写真を撮っている若いカップルを見つけた。珍しい風景に出会い、パチリとシャッターを押した。
朝、地下道でシートに座っていた男性と、この幸せそうなカップルの姿に、中国社会で生きる人々に格差と分断が広がっていることを見る想いだった。
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間もなく天安門に到着したが、その中に構える紫禁城に入ることも諦め、別の日に訪ねることにし、天安門から長安街通りをゆっくり歩きながら、王府井に向かった。
ショッピングセンター「東安市場」に入ると、2階のフードコートで「吉野家」を見つけたので、久しぶりに牛丼を食べた。これは、日本で食べるのと同じ味で、ほっとした。
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昼食の後、店内を廻って土産物を買い、市内バスに乗って、ホテルに戻った。

この日の夕食は、翌日、一足先に帰国する義母の無事を祈って、ホテルのレストランで豪華に「最後の晩餐」と相成った。私は「長城ワイン」に酔った。中国産のワインを口にすることが出来るとは思っていなかったので、本当に良い想い出となった。

珍しさもあり、後日、ホテルの近くのショッピングセンターで「長城ワイン」のボトルを買った。「アサヒビール」や「青島啤酒」と相俟って、ほろ酔い気分になる日々が続いた。「長城ワイン」のラベルを綺麗に剥がして、記念に持ち帰った積りだったが、いつの間にか散逸してしまったようで、残念である。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

「海拉爾民族博物館」を見学した後は、海拉爾(ハイラル)の中心街をぶらぶら歩きながら、1時間ほどかけて、ホテルに戻った。
町中を歩いていて、「ほおっ!」と思う風景があった。小さな店の店先に赤色の公衆電話が設置されているのである。かつて日本で見られた「タバコ屋の店先の赤電話」を彷彿とさせるものであった。中国では、特に、地方都市では、今から20年ほど前の、あの時代、一般家庭には未だ固定電話が普及していないのだろうと思われた。

ところが、町中を歩く人々の姿を見ていると、「なるほど!」の思う風景もあった。多くの市民が、携帯電話を手にして、通話をしながら歩いているのである。わが家には、未だ携帯電話がなかった時代で、その先進性に驚いてしまった。

広大な国土を有する中国において、全国に固定電話を普及させるためのインフラ整備に要する費用に比べて、携帯電話や衛星電話の普及に設備投資した方が安上がりという政策判断があるのではないかと思われた。
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義母とわが連れ合いにとっては、56年ぶりに踏みしめた「旧満州」の海拉爾(ハイラル)の町だが、わずか4日間の滞在が終わって、ここを離れる時が来た。
様々な想いが去来する中、午後の日差しを受けながら、タクシーで海拉爾空港へ向かい、
中国国際航空1136便に乗って、北京に戻った。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

海拉爾(ハイラル)滞在4日目(滞在最後の日)。
朝食が終わる頃、雨が降り出したが、小雨の降る中、滞在初日に続いて、再び「東三道街」を訪ねた。
義母は、日本に引き揚げてきた時の関係書類に正確な番地が記載されていた、その書類のコピーを忘れてきたため、家屋の形や近所の風景を見ながら、懸命に記憶を取り戻そうとしていたが、結局、56年前に住んでいた住居は特定できなかった。義母は、残念そうな顔をして、「今度来るときは、必ず書類のコピーを持ってこなくてはね」と言った。もう一度、改めて海拉爾(ハイラル)の町を訪ねたいという固い決意表明と思われた。
そして、この旅行の2年後、義母の願いが叶って、海拉爾の町を再び訪れることになるのだが、その時の旅行記は改めて、改めて書くことにしたいと思っている。

滞在最終日の午後は「海拉爾民族博物館」を見学した。
この博物館の正面ホールには、巨大な恐竜の化石が展示されている。海拉爾(ハイラル)を含む地域は、現在は「中国・内蒙古」と呼ばれているが、地理学的に言えば、モンゴルと地続きであり、ゴビ砂漠を含む広範囲にわたって、恐竜の化石が発見されていることで知られている。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

海拉爾(ハイラル)滞在3日目。タクシーを借切って、「草原ツアー」に出かけた。丸一日借切っても、当時のレートで1000円程度だったと記憶している。地平線に消える一直線の道路は「広大な中国大陸」を実感する。しかし、道路は舗装されておらず、砂ぼこりを上げながら、どんどんスピードを増していく。揺れも激しく、恐怖心を覚えるほどである。少しスピードを落としてくれと頼もうにも、言葉が通じない。このドライバーだけが、特に乱暴な運転をしているというわけではなく、この国では、この程度のことは普通のことなのだろうと思われ、恐怖心に慄きながらも我慢し、早く目的地に着くことだけを祈った。
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ホロンバイル大草原にある観光施設「金帳汗旅游点」に到着した。
遊牧民族の移動式の家「パオ」では馬乳酒がサービスされたが、初めて経験する味であった。草原では乗馬体験もでき、大人は遠慮したが、同行した次男だけが果敢にトライした。馬に乗ると、かなり高いところから見下ろす感じだという。馬上からの眺めに感動した風であった。
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われわれは、見渡す限りの草原を歩き回ったり、寝そべったりして、「地球が丸いこと」を実感した。空気も美味しい。ただ、残念だったのは、空には霞がかかり、「青空の下に広がる緑の草原」が実感できなかったことだ。
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丁寧に案内してくれたアルバイトの女子学生は、桜の花が大好きだというので、絵葉書を送ることを約束して、メモ用紙に名前と住所を書いてもらった。紅霞さんという名前で、学生寮で生活しているという。
日本に帰ってから、富士山と桜が写った絵葉書を入れて、彼女宛に手紙を送ったが、いくら待っても返事は来なかった。学業に忙しく、返事を書く時間が取れなかったのか、あるいは、彼女は大学の寮で生活していることだったので、「日本から届いた手紙」を巡って、寮監との間で何らかのトラブルがあったのではないかなどと、あらぬ詮索もしたが、その理由は判らず仕舞いである。

市内に戻り、「マクドナルドもどき」の店で、遅い昼食をとった。数日前に訪れた満州里の町にも「マクドナルドもどき」の店があった。
(本物マック)
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(マックもどき)
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その後、ホテル近くにある露天の市場を歩いた。義母は、56年前にこの町に住んでいた時に覚えた中国語を想い出したらしく、店のおばちゃんと値切り交渉をして、廉価な衣料品などを買っていた。われわれは、その姿を見ながら、日本の敗戦後、乳飲み子を抱えて、中国各地を転々としながら、死線を乗り越えて祖国に引き揚げて来た女性の度胸と逞しさに、改めて驚かされた。正に「ゴッド・マザー」を再確認したのであった。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

海拉爾(ハイラル)は、中国東北部の中露国境近くにある、地方の小さな町ゆえ、それほど交通量が多いわけでもなく、宿泊したホテルは町中にあるものの、静かな環境にあると言う印象だった。しかし、困ったことが一つだけあった。毎朝、6時過ぎになると、市内各所の電柱に設置された公共のスピーカーから大音量のメッセージが流れてくるのである。目覚まし時計の代わりにはなるが、言葉が理解できないので、その内容はわからない。アナウンスの抑揚・調子から推察すると、政治的・経済政策的なスローガンを放送しているのではないかと思われた。
自転車に乗った人々は、それを聴きながら、職場に急いでいるように見えた。ホテルの向かい側のビルには垂れ幕も見えた。町中のスピーカーから流れる呼びかけは、あの垂幕のスローガンに対応しているのかも知れないと思われた。正に「異文化体験」であった。
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ホテルのレストランで、ビュッフェ形式の朝食をとった。
スチール製のトレイに、料理を取ってきて食べる。ビュッフェ形式だと、自分の好きなものを選択できるので、一応、安心である。私は、出来るだけ、脂っこくないように見えるものを取って、食べた。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

海拉爾(ハイラル)滞在2日目。中露国境の町、満洲里(マンチュウリ)を訪ねるため、早朝にホテルを出発した。時間が早過ぎて、ホテルのレストランが開いていないため、海拉爾(ハイラル)の駅前にある食堂に入り、朝食をとることにした。家族経営の小さなお店で、言葉が通じないため、壁に貼ってあるメニューの漢字を指さして頼んだ。テーブルに運ばれてきたのは、一般的なお粥であった。朝は、お粥しか提供していないらしい。
この「お粥」は、われわれの感覚からすると、冷たいご飯にお湯を注いだだけのように思われ、北京で食べたお粥とはかけ離れたものであった。値段も、当時のレートで日本円に換算して、5~6円程度だった思う。

海拉爾7時29分発の列車に乗って、満洲里に向かう。
良く確認しなかったが、15~16輛くらいの編成だったと思う。哈爾濱(ハルピン)東駅から走ってきた夜行列車である。
初めて乗車する中国の鉄道ということで、緊張と興奮が交錯する。広軌の鉄路だろうと思われ、通路を挟んで両側に、3人づつ向かい合って座る座席配置となっている。車内はかなり混んでいたが、何とか空席を見つけて、4人とも座ることが出来た。
切符には「新空調硬座特快」と書かれており、「エアコン付き、普通席、特急」とでも訳すのであろうか。
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約2時間で、満洲里に到着した。
満洲里の駅からタクシーに乗り、ロシアとの国境にある「辺境貿易市場」に向かう。
この区域では、簡易の手続きを執れば、両国の人々が自由に交易出来る仕組みになっている模様で、市場にはロシアの食料品や衣料品、生活雑貨が溢れていた。

市場の少し手前には、鉄路の踏切があり、鉄道で中露国境を越える時に出入国手続きをする施設の建物を、遠くに望むことが出来た。望遠で撮影したため手ブレが起き、画像はボケてしまった。
2022年にロシアの侵攻で始まった「ウクライナ戦争」の裏で、今、中露間の交易は益々盛んになっている模様で、そのことを伝えるテレビのニュースには、必ずと言って良いほど、このゲートが映し出されており、懐かしく想い出している。
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タクシーで市街に戻り、市内の「旺泉市場」で、“4人分で240円相当” の「豪華な昼食」をとる。焼きそば、野菜炒め、スープ等々、盛り沢山で、4人では食べ切れないほどである。
満洲里 の新市街は、ビル建設や道路工事など「建設ラッシュ」である。
あの日から20数年が経ち、この風景は、現在では、すっかり整備された近代的な街並みに変貌していることであろう。
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夕刻、汽車で 満洲里 から 海拉爾 に戻る。
車内で、出張帰りのビジネスマン・呂さん達と席が向かい合うことになり、お互いが片言の英語で話し合った。名刺の肩書には、南京にあるタイヤ販売会社の社長とあった。
日本に帰国後、彼の名刺の住所宛に英語で手紙を書いた。忙しい身分だろうから、返信の際に手数を掛けないように配慮して、現地で買ってきた絵葉書に中国の切手と私のアドレスカードを貼り、それを同封した。間もなく、彼からは、旅の想い出を綴った返信が届いた。
小さな国際交流だったが、旅先で知り合った人との会話は楽しかった。しかし、彼との遣り取りは次第に立ち消えとなってしまい、現在に至っている。
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夕食は、ホテルの近くにある餃子専門店の「餃子城」というお店に入った。
「餃子」の30個盛りを2皿と、野菜炒めなどを注文した。4人とも満腹!満腹!である。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

海拉爾(ハイラル)滞在の初日、ホテルにチェックインして一息入れた後、早速、ガイドブックの地図を頼りに、連れ合いが生まれた時に一家が住んでいたという「東三道街」に向かった。
宿泊しているホテルは町の中心部にあったが、「東三道街」はそのホテルの裏手に位置しており、10分ほど歩いた。この地域は未だ再開発が進まず、平屋建ての古い木造家屋が並んでいた。母屋の隣にはバラック建のトイレがあり、庭先ではロープを張って洗濯物を乾かしているなど、人々が営む日常生活が窺えた。
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義母は「そう、そう。こういう感じだった」と言いながら、感慨深く家並みを眺めていたが、正確な番地がわからないため、56年前の住いを特定することは出来なかった。日本に引き揚げてきた時の関係書類に正確な番地が記載されていた、その書類のコピーを忘れてきたためである。

後日、義母は、私がこの風景に驚いたのではないかと気にしていたということを、連れ合いから聞いた。
私自身はと言えば、幼少の時代を過ごした山形県の寒村の、昭和30年代の原風景を彷彿とさせる風景に懐かしささえ覚えるほどで、却って、日本に引き揚げてきた後、東京の下町で育った連れ合いの方が、この風景に驚いたのではないかと気になった。

町の中心部に戻って散策した後、伊敏河に架かる「中央橋」に向かった。義母は、この大河を眺めながら56年前の日々を想い出したようで、「ここは冬になると、厚い氷で覆われるので、ソリに乗って川を渡り、物を運んだんだよ」と感慨深げに語った。

ホテルに帰ると、夕食の時間である。
レストランで、美味しい料理に舌鼓を打ったが、問題は「ビール」である。レストランには冷えたビールを置いていないのである。そう言えば、ある中国の知人が「日本人は、エアコンで冷えた部屋で、冷たいビールを呑み、更に冷たいお鮨を食べる。とても理解できない」と話していたのを想い出した。中国の人々は、古来、冷たいものよりは、温かいものを好むと言われている。中国には漢方医学の考え方があり、身体を冷やすことを嫌う人が多いらしい。思いがけない「異文化」に遭遇し、常温のビールを味わうことに相成った。
とは云え、地元ブランドの缶ビールの味は、特別なものに感じられた。
あれから20年以上も経ち、今日では、中国の人々のライフスタイルも大きく変化したことだろうから、レストランには冷えたビールが用意されていることであろう。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

わが連れ合いは、アジア太平洋戦争の末期、敗戦の約1ヵ月前に、ここ海拉爾(ハイラル)で生まれた。海拉爾で働いていた父親は、彼女の生まれた、正にその日に日本軍に召集されて、自宅を離れた。母親は、生まれたばかりの赤ん坊と二人だけ残され、途方に暮れた。
それから1ヵ月も経たないうちに、父親はソ連軍によってシベリアに連行され、「抑留・強制労働」を強いられることになった。

母親は、日本軍の遁走により後ろ盾を失い、乳飲み子を抱えたまま「流浪の民」「棄民」となって各地を転々とする苦しみの日々が始まった。追い打ちをかけるように、敗戦に間髪を入れず、ソ連軍が侵攻してきて、日本人の婦女子はソ連軍の蛮行に慄くことになった。

母親は、海拉爾から中国各地を転々とした末に、最終的には葫蘆島から引揚船に乗り、昭和21年10月に博多港に上陸することが出来た。父親は昭和22年5月、引揚船で舞鶴港に上陸し、祖国の土を踏んだ。

手許には、当時の「戦災家族証明書」が遺されている。連れ合いの家族が生きてきた証である。義父名義で「外2名」とあるが、2名とは義母と長女(後の私の連れ合い)である。「前住所(戦災地)」の欄には「海拉爾市」と記され、「疎開地」の欄には「斉斉哈爾市」と記されていることから、又、前述の引揚時期の時系列を勘案すると、発行年月日は「昭和20年8月14日」と見えるが、折り目に当たって毀損してしまった部分があり、実際は「昭和21年8月14日」だった可能性が高い。
戦災証明書
義父と義母は、「生きているうちに、海拉爾(ハイラル)を訪ねてみたい」と、いつも口にしていた。連れ合いも、口には出さなかったが、自分の生地を訪ねてみたい気持ちを胸に秘めていたに違いない。

私は、1970年に結婚した時、連れ合いの家族の壮絶な生還劇を聴き、皆んなで一緒に海拉爾(ハイラル)の町を訪ねたいと思っていた。しかし、当時は「日中国交回復」の前であり、伝えられる中国の国情からしても、一般の日本人が中国の地方都市を自由に旅行することなど、ほとんど無理と思われた。

そこで、私は趣味の短波放送受信(BCL)を中断していた時期だったが、「ラジオ」繫がりで「北京放送局」の存在を思い出し、同局に手紙を書いて、海拉爾(ハイラル)に旅行することが可能かどうか、可能ならば、どのような手続きが必要となるのかを教えてほしいと書いて、手紙を送った。
放送局からは直ぐに返事があったものの、内容は「当方ではわからない。旅行会社に確認してほしい」という極めて事務的な文面であった。それ以来、われわれは「海拉爾(ハイラル)訪問」を諦め、封をしてきた。

新しい世紀を迎えた2001年の5月、義父は長い闘病生活の末、残念ながら他界した。
義父死亡に関連する様々な手続きが一段落した頃、ある日の新聞に「中国東北部(旧満州)観光旅行」の広告が載っているのが目に入り、団体旅行が可能ならば個人旅行も可能かも知れないと思い、幾つかの旅行代理店に打診してみた。すると、中国旅行を専門に扱う代理店で個人旅行を手配してくれることがわかった。

早速、家族で相談した結果、義母と一緒に、義父の遺影を持って、海拉爾(ハイラル)の街を訪ねてみようということになり、連れ合い、連れ合いの母、私、そして、ワーキングホリデイを過ごしたニュージーランドから帰国して、大学に復学するまで2ヵ月間ほどの余裕があった次男の、家族4人で出掛けることにした。

2001年8月14日、56年の歳月を経て、義母は長女を生んだ異国の町を訪ね、わが連れ合いは自分の生まれた大地を再び踏みしめることが出来た。否、連れ合いにとっては、生まれてから3週間だけ過ごした町で、ほとんど「初めて訪れた」に等しいことであった。

(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

朝、ホテルからリムジンバスに乗って、北京空港に向かう。
空港使用料を支払って、チェックインをする。搭乗機は「中国新華航空」581便であるが、発券された搭乗券の用紙は「中国国際航空(AIR CHINA)」のものである。これも異文化体験の一つとして記憶に留めた。
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北京発11時00分、海拉爾(ハイラル)着12時50分、約2時間の飛行である。機内では「ランチ」が提供された。メニューは、中国風味の肉料理とハムの炒め物、白ご飯にパンとクラッカー、果物などである。初めての中国国内線で提供された機内食は、それまで経験した日本や欧米系の航空会社の機内食と比べると、トレーのデザインや料理の内容などに、多少のカルチャーショックを覚えた。
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内蒙古自治区・海拉爾(ハイラル)の空港は、街の中心部からは相当離れた草原の中にあり、飛行機が止まると、お客はタラップを降りて、空港ビルまで5分ほど歩く。ビルのドアの前で、「細谷様」と書いた紙を持った男性が出迎えてくれたのには驚いてしまった。
前日、ホテルの予約を確認してもらった「華龍国際旅行社」の海拉爾(ハイラル)駐在員・安さんが迎えに来てくれたのであった。北京の事務所から「何も分からなそうな日本人が行くから、空港に迎えに出てほしい」と連絡かあったのだろうと思われた。安さんの車で、予約した「貝爾大酒店(Haier Hotel)」まで連れて行ってくれた。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

初めて泊まった「赤坂プリンスホテル」では、3時間少々の仮眠をとっただけで、時計をセットしておいた朝4時過ぎに目を覚ました。
身支度をして、成田空港行きの専用バスに乗った。空港に着くまでの間、「二度寝」をむさぼった。

成田空港に到着すると、係員が臨時の専用カウンターに案内してくれた。前日の搭乗券の半券と旅券を提出して、改めて「出国」のスタンプを押してもらい、機内に入った。
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所定の出発時刻より16時間近く遅れて、ユナイテッド航空853便は、成田空港を離陸した。約3時間半の飛行中は、窓から外を眺める元気もなく、前夜来の睡眠不足を補うため、ずうっと眠っていた。

北京空港には10時30分に到着した。
預け入れたスーツケースを受取り、入国カウンターに向かう。係員は、旅券に「3ヵ月観光ビザ」が貼付されていることを確認して「入国」のスタンプを押してくれた。これで、入国手続きは完了である。
2001年当時は、旅行目的が短期間の「観光」であっても、中国政府のビザが必要とされていた。個人で取得するのは困難を伴うので、旅行代理店に頼んで取得してもらった。
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入国手続きが済んで、空港ビルの外に出ると、バス乗り場がある。
リムジンバスのチケットを購入して、バスに乗った。ホテルまでは1時間ほどである。
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初めて訪れる国で迷うことがないように、北京駅近くにある「北京国際飯店」というホテルを予約した。
チェックインをして、小休息すると、お昼の時間である。大きな道路「長安街」を挟んで、ホテルの向かい側にデパートのようなビルがあるので、そこの地下のフードコートで「中国風カレーライス」を食べた。
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成田からの出発がエンジントラブルで翌日になったことから、北京での滞在が当初の計画より一日少なくなり、北京到着の翌日には海拉爾(ハイラル)に向かわなければならない。
昼食の後、ホテルの裏にある「華龍国際旅行社」に向かった。北京から海拉爾(ハイラル)までの航空券は日本で購入済みだったが、彼の地のホテルにはFAXで予約申し込みをしていたものの、返事を得ないまま出発したので、この旅行社でホテルの予約を改めて確認してもらい、予約確認証を発行してもらった。
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北京到着の初日の夕食は、ホテル近くの「翠亨邨茶寮」で中国料理を堪能した。
「華龍国際旅行社」と「翠亨邨茶寮」は、あれから20年の歳月が流れ、今、ネット検索してもヒットしないのは、名称を変更したためか、あるいは営業を中止してしまったからかも知れない。
部屋から眺める、初めての北京の夕陽は、本当に素晴らしかった。
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(このシリーズは、2001年夏の旅日記を元に、現時点で構成したものです)

最近は、海外旅行に出掛けようとしても、「コロナ感染」が下火になっている感はあるものの、スマホを十分には使いこなせない者にとっては、航空券の購入や入出国に際しての検疫などの諸手続きが煩雑に思われ、また、「円安」や諸外国における物価高も重なり、海外旅行は遠のくばかりである。
そこで、2001年の夏に訪ねた中国東北部(旧満州)の旅を想い出しながら、少し気分転換してみることにした。

2001年8月12日の午後、われわれは成田空港から北京に向かって飛び立つため、ユナイテッド航空853便に搭乗した。座席に着き、安全ベルトを締め、搭乗ドアも閉じられて、離陸するのを静かに待っていた。

ところが、しばらくすると機内アナウンスが流れ、エンジントラブルがあったので、乗客は一旦ロビーに戻って、改めて出発案内があるまで待ってほしいと案内された。ロビーに戻るため、搭乗ゲートを出たところで、「軽食クーポン」が手渡されたので、近くのカフェでサンドイッチなどの軽食と飲み物をもらい、腹ごしらえをした。

2時間ほど待っただろうか、乗客は疲れ果ててぐったりしているところに、「北京行きユナイテッド航空853便は出発遅延となり、明朝午前8時の出発となります。これから、お客様をホテルにご案内します」というアナウンスが流れた。乗客からは「もっと早く決断すれば良いのに・・・」との不満の声が上がった。
その時の「遅延アナウンス」の収録音が、最近、「断捨離」を進める中で見つかった。
http://blog.livedoor.jp/swl_information/Narita%2020010812.MP3

この飛行機には、われわれのように成田から搭乗した客だけでなく、アメリカから中国に向かう途中、成田でトラブルに遭った客もいただろう。日本語の分からない客は心細い想いをしたのではないだろうかと、今になって、想う。
わが夫婦も、この10数年後、2018年にオランダ旅行からの帰路、同じような経験をしたので、その心細い気持ちがよく解るからである。
http://swlinformation.livedoor.blog/archives/1960293.html

係員の誘導で、出発ロビーから、到着ロビーに移動させられた。
その際に渡された、ユナイテッド航空からのメッセージカードには「お詫びのしるしとして、米国本社から心ばかりの品をお送りします」と書いてあったが、そのお詫びの品物が何だったか、今となっては思い出せない。
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そして、臨時のカウンターで旅券を提出して、数時間前に押されたばかりの「出国」スタンプに "VOID"(無効)のスタンプが押された。
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到着ロビーを出ると、われわれエコノミークラスの乗客は貸切バスに乗せられて、東京の「赤坂プリンスホテル」に向かった。スーツケースは搭乗機に積み込み済であるので、機内持ち込みのカバンだけを持って、着の身着のままである。

夜の10時頃、赤坂プリンスホテルに到着した。都心のホテルに宿泊するのは初めての経験だったので、珍しさもあり、館内をいろいろ見学したい気持ちもあったが、時間的に余裕はない。
先ずは、北京のホテルに連絡して、到着が一日遅れたことにより、宿泊予約の全日程がキャンセルされることがないように、深夜零時前に頼まなければならない。この手続きは、航空会社とホテルの担当者が連携して、北京のホテルの了承を取ってくれたので、助かった。
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部屋で一息入れて、夕食の会場に向かった。夕食と言うよりは、もう夜食の時間である。
レストランで、ステーキディナーが出されたが、「明日は朝5時にバスで出発」と案内されていたこともあり、時間が気になって、全部は食べ切れなかった。
部屋に戻って、シャワーを浴び、ベッドに入った時には、深夜1時を回っていた。

それにしても、なぜ、成田空港から東京・赤坂のホテルまで連れてこられたのだろうか。空港近くにも沢山のホテルがあっただろうにと、不思議に思った。可能性としては、緊急事態と言えども一度に200~300百名の客の宿泊に直ぐに対応できるホテルは空港の近くにはなかったかも知れないこと、もう一つは、ユナイテッド航空が「赤坂プリンスホテル」と提携しているとすれば、融通が利くのかも知れないことなどが考えられた。
翌日の再出国の手続き中に、他の乗客が話しているのを耳に挟んだが、ファーストクラスとビジネスクラスの乗客は成田空港近接のホテルに宿泊することができたらしい。なるほど!と思われた。

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