カテゴリ: 韓国旅行記 2023

ロゴ・KBS(新)
ソウル郊外の南漢山城で聴いた、聴く人の魂を揺さぶるような歌声が忘れられず、その収録音源とイベントの看板の写真を、韓国KBSの日本語放送班に送って、歌手の名前と曲名を教えてほしいと頼んだ。(音量にご注意願います)
(関連記事)http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/39066611.html
(収録音源の一部)http://swlinformation.livedoor.blog/20231028-Fusion-Korea.MP3

同局は、2023年11月25日放送の「K音楽(Kドラマ)研究所」という音楽・芸能番組で、パーソナリティの申龍(シン・ヨン、愛称:ドクター・申)さんが、私のお願いのメールを紹介してくれた。(下記サイトで放送日を選択)
https://world.kbs.co.kr/service/program_listenagain.htm?lang=j&procode=interactive

彼は、私のお願いに応えるべく、八方手を尽くしてくれた。
音楽評論家でもある、ドクター・申さんのコメントを要約すると、次のようなものであった。
  歌っている彼女の名前も、曲名も分からない。聴いたこともない。
  そこで、南漢山城の関係者に電話したところ、イベントの主催者に尋ねてほしいと
  言われた。
  イベントを主催した会社に電話すると、確かにファッションショーは主催したが、
  オープニングの歌手は地元市役所の担当者が連れてきたようなので、自分たちは
  詳しくは知らないと言われた。
  地元市役所の担当者に電話すると、方々に回されてしまったので、担当者に自分
  (ドクター・申さん)の電話番号を伝え、担当者から彼女に連絡し、彼女から直接
  自分(ドクター・申さん)に電話をくれるように頼んでほしいとお願いした。
  数日後、彼女から(ドクター・申さんに)電話が掛かってきた。
  彼女は、ヒュージョン国楽(創作国楽)の歌手で、韓国の伝統的な楽器「伽耶琴
  (カヤグム)」を弾きながら歌っていること、名前は「チャ・ポヨン」さんで、
  曲名は「月満ちて、見つめる」であることを教えてくれた。
  しかし、「月満ちて、見つめる」の正式のデジタル音源はないので、後日、他の
  幾つかの曲を収めたCDを送ると約束してくれた。


そして、ドクター・申さんが担当する、2023年12月4日のお便り紹介番組「玄海灘に立つ虹」では、チャ・ポヨンさんが約束どおりに送ってくれたCD音源の中から、申さんが推薦する1曲を聞かせてくれた。
(下記サイトで放送日を選択)
https://world.kbs.co.kr/service/program_listenagain.htm?page=4&lang=j&procode=hello&segcode=

(参考)「フュージョン国楽」については、KBSのサイトでも解説されている。
http://world.kbs.co.kr/service/contents_view.htm?lang=j&board_seq=398639

このように、一人のリスナーに過ぎない、私のお願いに対して、音楽評論家としての多忙な本来業務を顧みることなく、多くの時間を割いてくれた番組パーソナリティのドクター・申さんと、50分番組の大半を私のお便りに関する話題で埋めるという異例の番組構成を許してくれたKBS日本語班の具慧仁(ク・ヘイン)チーフのご厚意に対して、心から感謝申し上げたいと思う。

私が、南漢山城で聴いた、女性歌手のチャ・ポヨンさん、失礼ながら、ほとんど無名に近い彼女の、人々の魂を揺さぶるような歌声が、KBSワールドラジオの日本語放送だけではなく、他の言語の放送でも流されて、世界中に響きわたることを願っている。

― 了 ―

拙い旅行記にお付き合いいただき、有難うございました。

食事が済み、短波ラジオ SONY ICF-SW1000T を窓に近づけて、周波数を動かしてみると、日本語の放送が次々に入ってきたが、局名アナウンスが仲々取れない。京都上空から中部国際空港上空にかけて飛行中、17時過ぎから92.9MHzの放送が安定して聞こえるようになった。そのまま聴き続けていると、17時30分頃に「東海ラジオ」の局名が聞き取れた。その時の音源は次のとおり。(音量にご注意願います)
http://swlinformation.livedoor.blog/Tokai-Radio-20231108-1730JST-92.9MHz.MP3
0001 東海ラジオ

スーツケースを預けて、出国手続きを済ませ、機内に入った。
座席は、進行方向左側の最後部2人席を確保して、天気が良ければ、富士山の向こうに夕陽が見えることを期待していた。しかし、ちょっと読み違えたようで、駿河湾を飛行する頃には、すっかり日が沈んでいる時間だった。

離陸すると、間もなく、食事が提供された。メニューは、豆ご飯とポーク甘辛煮、サラダ、フルーツである。飲み物は、往路便の時と同様、大韓航空の自社ブランドビール「KAL's LAGER」を頼んだ。
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機内で、ラジオを受信したいと思っていたので、食事は早めに切り上げて、受信の準備を始めたのだが、ドタバタしているうちに、乗務員から「食事はお済ですか?」と言われ、咄嗟に「ごちそうさま」と言って、トレーを返してしまった。
発売して間もなくの「KAL」ブランドの缶ビールは、珍しさもあり、その空き缶を旅の想い出に持ち帰ろうと思っていたが、手許に残しておくのを、すっかり忘れてしまっていた。
改めて、乗務員に頼めば、中身の入った新しい缶ビールをくれたかも知れないが、缶を開けないまま機外に持ち出すのは「ダメ!」と言われた可能性がある。
https://sky-budget.com/2023/07/27/kals-lager-korean-air/

ホテルをチェックアウトして、最寄りの駅から電車に乗った。
地下鉄9号線の電車に乗れば、直通で金浦空港に着くはずであった。ところが、途中の駅で多くの乗客が降り出したので、それにつられて、われわれも電車を降りた。ウロウロしながらプラットホームの電光掲示板を見ると、そこは各駅停車の電車から「急行」への乗換駅だった。気が付いた時には、既に「急行」のドアが閉まっており、次の「急行」に乗ることになってしまった。
もちろん、それなりの車内アナウンスがあったのだろうが、ここでも、言葉が解らないことの問題を露呈した。

このため、予定より少し遅れて、金浦空港駅に到着した。
ここから国際線ターミナルビルまで、スーツケースを牽いて、15分から20分くらい歩かなければならない。
ところが、幸いにして、今回も2019年に旅行した時と同じように、電動カートの運転手さんが声を掛けてくれたので、国際線ターミナルビルまで乗せてもらうことにした。無料である。
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/22815577.html
0001 電動カート
韓国の空港から出発する際、飛行機の貨物室に預ける手荷物は、チェックインカウンターで預け入れの手続きを済ませた後、ベルトコンベアに載せられていくが、その途中でスキャンされて、不審物が入っているとみなされると、乗客の名前が呼び出されて、検査室での確認作業に立ち会わされるという仕掛けになっている。

何年か前の旅行で引っ掛かったことがあったので、今回も、サムゲタンに振り掛ける「塩」が気になっていたが、案の定、"Passenger, Mr. Hosoya" というアナウンスが流れた。連れ合いと一緒に検査室に入ろうとすると、「一人しか入ってはいけない」と忠告され、私だけが入って、スーツケースを開けた。
係官がラジオ用の簡易アンテナや乾電池を見ようとすると、別の係官が「違う。違う」と言って、参鶏湯の塩が入った3個の瓶を指した。私が、瓶のラベルに漢字で「参鶏湯」と書いてあるのを指して、「サムゲタン!」と答えると、係官も納得したようで、"Salt ? OK ! " と言ってくれた。検知器がスキャンした時、「塩」を「白い粉末」のアレと誤認したのではないかと思われた。
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ロゴ・NHK-R.Japan
韓国旅行の最後の日がやってきた。
チェックアウトは11時で、それまでの間、連れ合いは「NHK WORLD TV」の日本語
チャンネルで放送されている、朝のニュースや情報番組を視ることにし、私は、旅行中、
ほとんどスイッチを入れることがなかった SONY ICF-SW1000T で「Radio Japan」の
日本語番組をゆっくりと聴いた。国内向けNHKラジオ第1放送の番組が、短波で同時
放送されている。
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/ja/japanese/radio_japan/

日本時間8時から9時まで、11910kHz(八俣送信所)の電波は強力である。混信
や雑音もなく、満足できる受信状態である。
次の音源は、録音開始部分と終了部分である。終了部分の周波数アナウンスが、AI生成
のものと言うのは、驚きである。(音量にご注意願います)
http://swlinformation.livedoor.blog/R.Japan-20231108-0800JST-11910kHz.MP3

ソウル市庁舎から直ぐのところに、参鶏湯(サムゲタン)の美味しい店がある。
前回は2019年の秋に訪ねたので、4年ぶりとなる。この間に、店主は代替わりした模様で、40歳代に見える青年が取り仕切っていた。味とボリュームは健在で、大変美味しく、食前酒として出される人参酒も、以前のままである。
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歳のせいか、食べ切れないと思い、しかし、残すのはもったいないので、店主に「残ったものを持ち帰りたい」と頼むと、「食中毒が怖いので、持ち帰りは、お断りしている」と言われた。「お持ち帰り」を諦め、ちょっと無理をして、全部平らげてしまった。
前回は、頑丈なビニール袋に入れて、持たせてくれたのに、時代は変わったのだ。この間に、人々は「コロナ禍」を経験して、衛生管理には敏感になっているのだろうと思われた。

後日談だが、日本に帰国して、友人に「お持ち帰り」が出来なかった顛末を話すと、彼は「それは、持ち帰った客が参鶏湯の成分や味などを分析して、秘伝の "特許" を盗んでしまうのを怖れたのだろう」と語った。そういう見方もあるのか、世の中には、いろいろな考え方をする人がいるものだなあと、ある意味で、感心したのであった。

この店では、参鶏湯にちょっぴり入れる「塩」を売っているので、訪れた時は、必ず買って帰ることにしている。絶妙な味わいで、日本食の他にも、ステーキ、魚料理などに少しだけ振り掛けると、旨味が増してくるので、重宝している。
前回までは、小さいものはプラスチック製の丸いカップに、大きなものはタッパウェアに入っていたが、今回はオシャレな瓶入りのものだけになっており、こんなところにも、代替わりした若い店主の経営戦略を見てとれた。
何れにしても、この「塩」が、帰国する時、空港の荷物検査で引っ掛かることになる。
それについては、後日、改めて書く予定でいる。
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今回の旅行で、ぜひ訪ねたいと思っていたところは、「水原華城」の「華虹門」である。
華虹門から水原華城に流れ込んでいる「水原川」は、朝鮮時代には「柳川」と呼ばれ、水原華城の中を通り抜けていた。華虹門は、7つの水門から虹のように溢れ出る水しぶきと周辺の環境がよく調和し、水原八景の一つに数えられるほど景観が美しい。(観光案内リーフレットから引用)

「華虹門」を訪ねて見たかった理由は、歴史に関心があるからとか、景観が素晴らしいからとか、そう言ったことよりは、一枚の写真を撮るのが夢だったからである。今回、その念願の夢が叶った。
その夢とは、1999年発行のKBSのベリカードに写っている水原華城の「華虹門」を、ベリカードと同じアングルで写真に収めることであった。
口惜しいかな、否、当然のことながら、プロとアマチュアの差が歴然としている。
左がKBSのベリカード、右が今回の駄作である。
0001 ベリ+実写比較A
秋から冬にかけては、「華虹門」の下を流れる水原川の水量が少ないからだろうか、ベリカードの写真では、豊富な水が流れ落ちていて、壮大さを感じるが、私が訪ねた時の水量は、その10分の1くらいで、残念であった。

そう言えば、2014年のドイツ旅行で、海外向け放送 Deutsche Welle(DW)のベリカードと同じアングルで撮影したことを、今、想い出している。
http://swlinformation.livedoor.blog/archives/1957179.html

さて、「華虹門」右手の石の階段を上ってくと、北から東に延びる城壁に出る。城壁の上は、舗装はされていないが、市民のハイキングコースになっているようだ。
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イタリアンレストランでランチを食べていた頃には青空も見えていたが、午後になると雨が降り出し、「華虹門」に着いた頃には、風雨が強まってきた。城壁の上は強風を遮るものがないので、傘を指して進ことが出来なくなった。このため、途中で、眼下に広がる曇天の「水原」の町を写真に収め、残念な想いで、城壁を下りることにした。
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「華虹門」に戻り、そこから狭い路地を歩いて、バス通りに出た。
水原駅行きのバスに乗って帰路に就いた。

「水原華城」の中心にある「華城行宮」の見学を終え、次は「華虹門」を訪ねる。
雨が降ったり止んだりの、不安定な天気であったので、水原川に沿って続く、しだれ柳の下を、傘をさして歩いた。水原川は、朝鮮時代には「柳川」と呼ばれていたという。
_DSC0757Bしだれ柳
風雨が強くなり、どこかで雨宿りをしたいと思った時、ちょうど良い具合にカフェの看板が見えてきた。近づいて見ると、その店の隣のビルの2階にイタリアンレストランがあることがわかった。
午後1時を回っていたので、カフェでコーヒーを飲むよりは、イタリアンレストランで何かを食べることにした。

20人ほど座ることが出来る店内は、お客は、最初はわれわれだけだったが、注文した料理が運ばれてきたころには、女性のグループが3組、男女のカップル1組と、次々に増えてきた。地元の人々の間では、知られたレストランなのかも知れないと思われた。

私は、クリームだけのスパゲッティ、連れ合いはエビの入ったスパゲッティを頼んだ。
粉状のコチュジャンと、きゅうりのピクルスが添えられている。
私は、辛いものはダメだが、料理自体は上品な感じで大変美味しく、ピクルスの酸っぱさも良い具合で、ワインが欲しくなった。しかし、ランチの後は、待ちに待った「華虹門」を見学して、バスで「水原(スウォン)」駅に戻り、そこから電車でソウルに帰らなければならず、昼から酔っぱらっているわけにはいかないので、諦めた。
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食事が終わって、支払いをする頃には、窓から外を眺めると、激しく降っていた雨も上がり、青空が見え始めていた。
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「水原(スウォン)」の駅前からバスに乗って10分ほど走ると、「水原華城」の入場門とも言うべき「八達門」を過ぎ、次は「華城行宮」前のバス停である。ここで降りると、大通りの向かい側が行宮の広場である。
「水原(スウォン)」は、朝鮮時代には第2の漢陽と呼ばれていた。その中心にあるのが「水原華城」である。朝鮮第22代正祖大王が築造し、1796年9月に完成した。韓国の城郭建築史上、最も卓越した建築物と評価されるほど、優雅で壮大な姿を持つ。1997年12月にユネスコ世界遺産に登録された。(観光案内リーフレットから抜粋)
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「華城行宮」は、「水原華城」の中にある。王の行幸の際の臨時の居所で、普段は華城府留守が執務する官庁として活用されていた。日本の植民地時代に、歴史抹殺政策によって、ほとんどの建物が破壊されたが、「華城役儀軌」に基づき、1996年に再建工事が始まり、現在も復元事業が進められている。最近では、「韓流」の中心地として、「宮廷女官チャングムの誓い」「イ・サン」「王の男」「グルミグリーン月光」など、映画やドラマでも「華城行宮」の美しさを盛り込んでいる。(観光案内リーフレットから抜粋)
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華城行宮の正門とも言うべき「新豊樓」横の、チケット売り場で入場券を購入する。2人で3000ウォンである。
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華城行宮の正殿、「奉寿堂」
「奉寿堂」は、君主行幸の際に正殿として用いられた建物で、中心の4間を王権を象徴する便殿として再現した。
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福内堂の台所では、当時の台所の様子が再現されている。
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王の食事を準備した「水刺間」を再現したところには、ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」のロケが行われた時の写真が掲げられている。
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身支度をする尚宮の姿も再現されている。
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外整理所は、歴代君主の行幸の際に、各行事を準備し記録をする場所で、そこで働く官吏の姿が再現されている。
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これまで韓国を旅行するたびに、ぜひ訪ねたいと思いながら、ソウルからかなり離れているという感覚があり、実現しなかった町が「水原(スウォン)」である。
今回は旅行日程に余裕があったため、遂に、この町を訪れることが出来た。

ホテルの最寄り駅である地下鉄9号線「堂山(タンサン)」で乗車し、「鷺簗津(ノリャンジン)」という駅で、地下鉄1号線と相互乗り入れをしている KORAIL の電車に乗り換え、そのまま乗っていれば、1時間ほどで「水原(スウォン)」に到着できるはずであった。

ところが、途中の車内アナウンスを聴いていると、「仁川(インチョン)」という言葉が繰り返し流れた。人間は都合よく解釈するものらしい。私は、「仁川(インチョン)方面に行く方は、お乗り換えです」とアナウンスしているものと、勝手に解釈してしまった。

「鷺簗津(ノリャンジン)」駅で乗り換えた時に電車の行先をよく確認せず、ガイドブックに書いてあるとおり「水原(スウォン)」に直行するものと信じ込んでいた。
しかし、われわれが乗った電車は「仁川(インチョン)」行きで、途中の「九老(クロ)」という駅で、「水原(スウォン)」行きの電車に再び乗り換えなければならなかったのだ。

車内アナウンスを「仁川(インチョン)方面に行く方は、お乗り換えです」と勝手に解釈してしまったが、実は逆で、「この電車は仁川(インチョン)行きですから、水原(スウォン)方面にお出での方は乗り換えてください」とアナウンスしていたのだろうと思われた。

「言葉が解らない」、「字が読めない」と言うことが、如何に惨めな結果をもたらすかを実感した。ある意味では、「旅行の面白さ」でもあるのだが・・・。

「水原(スウォン)」の駅前にある観光案内所で、日本語で書かれた観光案内のリーフレットをもらい、目の前にあるバス停から「水原華城」方面行きのバスに乗った。
0001 リーフレット

雨の降る日は、外歩きは避けて、映画館かスーパーマーケットで過ごすことになる。
旅行も終わりに近づいてきたので、何か気の利いたお土産を買おうと思い、大型スーパーマーケット「e-mart」に出掛けた。
0001 e-mart
しかし、「これ!」と言うものが見つからなかったので、想い出の品として「ワイシャツ」(MADE IN KOREA)と「付箋」(MADE IN USA)を購入した。付箋は、インターネットを閲覧しながら、あるいはラジオを聴きながら、ブログの原稿ネタに出会った時にメモしておくのに重宝している。
問題は「ワイシャツ」である。否、問題と言うよりは、昭和生まれの老体にとっては、驚きでさえあった。首回りや袖丈はピッタリなのだが、シャツに胸ポケットが付いていない! 更に驚いたことには、ネット検索してみると、「ドレスシャツでは、ポケット無しが正統派です」などと解説されている。ポケットの無いシャツは、オシャレなのかも知れない。しかし、私は、ダメ! だ。

帰国後、連れ合いに頼んで、着古したため廃棄処分しようと思っていた、似たようなスプライト入り生地のシャツをほぐして、韓国製ワイシャツに胸ポケットを縫い合わせて、ほとんど気にならない程度に補修してもらった。見ようによっては、オシャレにも見える。
0001 Y+付箋
この日、昼食は、「e-mart」のフードコートで「プルコギ」のランチセットを食べたが、「ヤクルト」が付いていたのは、ちょっとした消費者サービスであろうか。辛くはなく、美味しく食べることが出来た。
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今回の韓国旅行は、最初はソウルに滞在し、その後、光州(クァンジュ)に移動、再びソウルで数日間を過ごし、金浦空港から羽田に帰るという計画である。

後半のソウル滞在の初日、夕食を兼ねてイッパイやるため、ホテル近くの飲み屋街に出掛けた。日本文字の看板を掲げた店があったので、入ってみた。ドアを入ると、窓側に4人掛けのテーブルが1卓あるだけで、他はカウンター席だけである。われわれは、一番奥のカウンター席に案内された。何を注文しようかと迷ったが、店員の中に日本語の上手なスタッフがいて、メニューを解説してくれた。
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日本のイッパイ飲み屋の趣きである。おでん、空揚げ、天ぷら、アサヒの生ジョッキを頼んだ。ビールは兎も角、料理は、日本の店で出されるものと比べれば「似て非なるもの」ではあるが、そろそろ日本食が恋しくなる時期でもあり、美味しく食べることが出来た。
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ビールを飲みながら、店内を見渡すと、名の知れた日本酒や日本産のウィスキーなどが並び、壁には懐かしさいっぱいの日本の宣伝用ポスターなどがぎっしりと貼られている。
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20人ほどのカウンター席は、「日本」を感じたくて集まってきたと思われる、若い人たちで満杯である。次の日は、職場で「きのうは、日本風の飲み屋に行ってきたよ」と自慢話を披露するのであろうか。

高速鉄道KTX412号は、時刻表どおりに、12時28分、ソウル駅に到着した。
お昼ご飯は、駅の近くで食べようと思い、これまで何回か訪ねたことがあり、庶民的な味で美味しかった食堂が、今でも営業しているか確認することにした。

不確かな記憶を辿りながら、緩やかな坂道を歩いて行くと、「ここだ!」と思う食堂が見つかり、店の中に入った。
美味しかった記憶が残っている、連れ合いは「サラダご飯」を、私は「プルコギ」を頼もうと思ったが、店内のメニューには見当たらない。店を切り盛りする夫婦の愛想も良くなく、以前の店とはどこか雰囲気が違うと感じた。若しかしたら、「コロナ禍」の影響もあり、以前の食堂は廃業して、新しい住人が営業を始めたのかも知れないと思った。
今さら店を退出することもできないので、メニューに載っている「とんかつ」のランチセットを頼んだ。ボリュームはあるものの、味はイマイチである。値段も、少し高めである。

支払いを済ませ、店の外に出て、改めて店の外観を確かめると、隣の店が、われわれが入ろうと考えていた食堂だった。ハングル文字が解らないこともあり、空腹感もあって、急いでしまった。ところが、肝心の、隣の食堂は、この日は「休業日」に当たっていた。
後悔先に立たず、である。
0001 ソウル駅食堂
これから、ソウルには4日間滞在するので、その間に、この食堂を訪ねて、想い出のランチを食べる「リベンジ」をしようと考えていたが、他の観光地を訪ねたこともあり、結局、時間切れで実現はしなかった。
次に、ソウルを訪ねることがあれば、決して間違えることなく、お目当ての食堂で食べてみたい。それまで、この食堂が健在であることを祈った。

光州(クァンジュ)では、1980年の「5・18光州民主化運動」、所謂「光州事件」に関連する幾つかの記念館などで多くの文書や映像資料を観ることができ、有意義な5日間を過ごした。

小綺麗で、住み易かったホテルとも、お別れである。
チェックアウトの手続きをするため、スーツケースを牽いてフロントに近づくと、すっかり顔馴染みになっていた女性スタッフが、日本語で「もうお帰りですか?」と声を掛けてくれた。「これからソウルに4日間滞在して、その後、日本に帰ります」と答えると、今度は、韓国語で「カムサハムニダ」と言って、笑顔で見送ってくれた。

光州松汀(クァンジュソンジョン)駅は、ホテルから徒歩数分で、10時少し前に到着した。10時27分発の高速鉄道KTX412号に乗ってソウルに向かう。
待合室は、この日は週末だったからであろうか、出発を待つ多くの乗客でごった返していたが、われわれは幸いにも、椅子に座ることが出来た。
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IMG_20240115_0001-C座席は11号車11番のCとDである。
この電車は木浦(モッポ)始発で、光州松汀(クァンジュソンジョン)に到着した時には、窓越しに車内を見ると、ほとんど座席は埋まっているようだった。われわれがスーツケースを荷物置場に収めて、座席に向かうと、既に一人の青年が座っていた。
一瞬、ダブルブッキングかと疑ったが、われわれは紙の指定席券を、彼はスマホに保存されている指定席券を、それぞれ見せ合って確認すると、彼の指定席は14番のDで、「14」と「11」を見間違えていたようだ。
これから、ちょうど2時間の列車の旅である。

(本シリーズ全記事一覧)
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_422877.html?p=2

クァンジュ(光州)に滞在中、ホテルから地下鉄の駅まで、毎朝出掛ける時に、「ソルロンタン」の専門店の前を通っていたが、味は良いのか、お客の人気はあるのかなどは判らなかった。
ある日の夕方、店の前を通ると、多くの客で賑わっているのが見えたので、「この店なら大丈夫!」と思い、クァンジュ最後の夜は、ソルロンタンを食べて、イッパイ飲むことを予定した。

店に入ったのは、夜7時過ぎで、テーブルは7卓くらいだったと思うが、10人前後の客がソルロンタンを食べていた。
壁に貼ってあるメニューを見て、4種類のメニューから、最もシンプルな「ソルロンタン」を頼んだ。周りを見渡すとアルコールを飲んでいる人はなく、われわれだけがビールを飲むのは「常識外」と見られるのではないかと気になったが、美味しい料理がアルコール抜きでは寂しいので、ビールを頼んだ。
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「ソルロンタン」を食べながら、店内の客を観察していると、ひとり客が何人かおり、多くても3人連れくらいの客で、アルコールを飲んでいる客はいなかった。仕事帰りの勤め人と思われる人が、男も、女も、一人で、お腹を空かして夕食を食べに来たのだろうと見えた。大人数で夜の飲み会をやっているという感じではなかった。地元の人々にとっては、馴染みの店なのかも知れない。

クァンジュ最後の夜、美味しい「ソルロンタン」に出会い、「満足、満足!」である。
明日は、KTXで、ソウルに戻る。

1980年に韓国・光州(クァンジュ)で起きた「5・18光州民主化運動」は、日本では「光州事件」と呼ばれることが多いが、この民主化運動ついての書籍や報道記事に、必ずと言って良いほど出てくるのが「5・18民主広場」で、そこは光州市の市民にとって象徴的な場所である。広場の真ん中には、大きな噴水がある。
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運動に参加した市民・学生は、噴水の上に舞台を作り、1980年5月18日から27日まで、毎日、数万人の人々が集まって総決起集会を開き、集会参加者の意見をまとめるなど、自治活動を行ったという。
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広場の一隅に「5・18自由の木」が、記念モニュメントの左右に1本づつあり、銘板には韓国語、英語、日本語で、次のように刻されている。(一部抜粋)
   市民たちは、無慈悲な新軍部の戦車や銃剣の犠牲となり、
   そして、この土は大勢の犠牲者によって血の海と化した
   のである。
   あの日の阿鼻叫喚の広場で、血が染み込んだ「5・18
   自由の木」よ、永遠に緑あれ。
   あの日の空に、民主統一の夢と希望を託し、後世に長く
   伝えられんことを・・・
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「5・18自由公園」は、1980年の所謂「光州事件」で戒厳軍の弾圧に抵抗しながら、不当にも拘束されてしまった市民・学生が軍事裁判を受けたところである。
実際の裁判施設は、ここから100mほど離れた場所にあったが、後に、ここに復元した
のだという。

バスを降りると、「5・18自由公園」の石碑がある。右手は「野火烈士記念碑」である。
「野火」と呼ばれた夜学の創設者と、その学校に通っていた活動家6人の姿を刻した記念碑で、彼らは「5・18光州民主化運動」に参加し、犠牲となった。
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公園の正面ある「自由館」を訪ねると、ボランティアで案内の仕事をしている男性が迎えてくれた。ここでは、関連の資料や映像で、当時の状況を観ることが出来る。
続いて、彼は、憲兵隊の事務所、榮倉、面会室、軍事法廷などを再現した施設を、1時間ほどかけて、丁寧に案内してくれた。
最初は韓国語で説明してくれたが、われわれは韓国語が解らず、展示パネルに付けられた英語の解説文に目をやっているのを見て、彼は、スマホに入れてある展示各所の解説文を機械的に日本語に翻訳させて、その画面を見ながら、日本語で解説を始めてくれた。なぜ日本語を読み、話せるのかと不思議だったが、いろいろ話をしている中で、彼の娘さんが結婚して大阪に住んでいるので、時々娘さんに会いに行っているとのことで、日本語に接する機会が多いのだという。
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再現された建物群敷地に入る、スタート地点に黒く大きな石が埋め込まれているのが気になった。
この石には「先進祖國先鋒 大統領全斗煥」と刻されている。ガイドの男性は、「多くの見学者は、この石を踏みつけるのです」と苦笑した。次の関連記事が興味深い。
https://japan.hani.co.kr/arti/politics/33611.html
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敷地に入って、直ぐ見えてくるのは、戒厳軍によって拘束された市民・学生が軍用トラックで運ばれていく再現光景である。
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それぞれの建物の中に展示されている写真には、「5・18光州民主化運動」の中で、戒厳軍が市民・学生に襲いかかる場面や、逃げ惑う市民・学生の姿が写っており、更に拷問を受ける場面も再現されており、見ていると辛くなる。それでも、この施設を訪ねたことの証にと思い、展示資料などをカメラに収めた。
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最後のコーナーには、全身血みどろの若者を担いで救護所に急ぐ市民たちに、後ろから、小銃を持った戒厳軍兵士が襲い掛かってくる写真が展示されていた。凄惨を極めた現場を写し撮ったカラー写真に、私は言葉を失った。この写真に向けてシャッターを押すことが出来なかった。しかし、このカラー写真は、私自身の目に強く焼き付いており、永遠に消えることがない。

見学コースの最後に「軍事裁判」の法廷が再現されている。
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「軍事法廷」の次の部屋には、「光州事件」の実相を一早く世界に伝えたことで知られているドイツ人ジャーナリストのユルゲン・ヒンツペーターさんを偲ぶパネルが展示されている。
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ユルゲン・ヒンツペーターさんについては、ウィキペディアは次のように解説している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ユルゲン・ヒンツペーター
(当ブログ過去関連記事)
http://swlinformation.livedoor.blog/archives/1960128.html

見学が一通り終わって、外に出ると、フェンスに沢山の黄色いリボンが結び付けられている。見学者がメッセージを書いて、結び付けていくのだという。
私は、「今、この地を訪ね、自由の尊さを、改めて知る」と記した。
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「光州事件」に関する講演会が行われた「5・18記念文化センター」を出ると、近くの店で美味しそうな「キンパ」(韓国風のり巻き)のサンプルが見えたので、ここでお昼ご飯を食べることにした。
日本語で「キンパをください」と頼んだが、通じない。困っていると、近くの席で食事中のカップルが助け舟を出してくれた。彼女は日本語を話せるというので、注文の仕方を教えてもらった。と言うよりは、われわれが食べたいものを彼女に伝え、彼女が機械の画面にタッチしながら注文を確定してくれた。

運ばれてきたのは「キンパ」と「うどん」のランチセットである。
キンパは、ごま油と海苔と具材が絶妙な味わいで、たいへん美味しかった。うどんも薄味で、上品な味がした。老体の昼食としては丁度良い量だった。
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「5・18記念文化センター」でもらった「国際フォーラム」の概要を読んで、同志社大学教授の冨山一郎先生が講演する予定であることがわかり、驚くと共に、翌日の先生の講演をぜひ聴きたいと思った。
5年ほど前、「日米地位協定」と「沖縄」を巡る諸問題についての勉強会が同志社大学で開かれ、その時に冨山先生のお話を大変興味深く聴いたことがあり、まさか、韓国・クァンジュ(光州)で冨山先生に再会できるとは想いもしなかったからである。

再び「5・18記念文化センター」を訪ねると、その前日、われわれに「国際フォーラム」の概要冊子をくれたスタッフが迎えてくれた。冨山先生のお話を聴きたいと思うに至った経緯を話し、「われわれのような旅行者でも、講演を聴くことが出来ますか?」と尋ねると、「もちろん大歓迎です」と言って、冨山先生を紹介してくれた。冨山先生も、同志社大学での勉強会のことは記憶にあったようで、喜んでくれた。

記念シンポジウムでは、午前中に「基調講演」が行われ、午後にテーマ別の「討論会」と「総括」が行われる予定になっていたが、われわれは「基調講演」だけを傍聴した。
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先ず、同志社大学の冨山一郎教授が「関係性としての責任 ― 暴力、その後を考える」と題して講演したが、哲学的な言葉や表現が多く、講演内容はかなり難解であった。
日本語による講演なので、われわれは直接聴くことが出来たが、海外からの参加者も多く、韓国語と英語の通訳が提供された。
冨山先生の講演要旨には、日本語で次のように記されている。
   暴力は、ある出来事として登場すると同時に、その後も社会に根をはり継続する。
   とりわけ、被害者と呼ばれる暴力による傷を受けたものにとってはそうだ。報告
   では、「暴力、その後」という時制を考え、そこに責任と言う言葉をすえてみたい。
   またその際、責任を法的、制度的においてとらえるだけではなく、それを言葉に
   よる関係性の生成を担うこととしてうけとめ、そこに継続する暴力を問う契機を
   確保することを考えてみたい。

そして、講演要旨の最後は、「責任とは、あきらめないことであり、言葉を作ることであり、関係を生み出すことである。場に参加することであり、そこかしこに生まれた場を社会として広げていくことではないでしょうか」と結んでいる。
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続いて、韓国・全南大学のキム・サンボン教授が「対応の倫理と責任の倫理のあいだ」と題して講演した。キム先生の講演は、イヤホンを通して日本語の通訳で聴いたが、冨山先生と同様、極めて難解だった。

キム先生の講演要旨は、韓国語と英語で書かれており、Google に直訳させたところ、結びの言葉として「5・18蜂起の人々は、『光州蜂起』という限られた空間に対する責任だけを負ったわけではありません。彼らは、彼らだけでなく、この国の歴史全体、私たち全員が属するこの国に対して、主権者として責任を負ったのです。それゆえ、今ここに生きている私たちも、同様に責任を負っています。従って、蜂起した人々に対して、ある種の『借り』を返すことは、私たちに課せられた責任なのです」と言うような内容のことが記されている。
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二人の先生の基調講演に続いて、質疑応答があり、学生と思われる数人の若い人たちが質問に立った。質問が出尽くしたかと思われたとき、最前列から2列目に座っていた一人の男性が立って、強い口調で話し始めた。途中で、司会者から発言内容を纏めるように催促を受けながらも、延々と発言を続けた。

通訳を通して聴いたところによれば、彼は「5・18光州民主化運動」に参加した当事者の一人と推察された。彼は、「国も、政治家も、そして国民も、『光州蜂起』を自分のこととして真摯に総括していない。行政や諸団体は、記念公園や記念資料館などを造ることによって、自分たちの責任を果たしたと思い込んでいるように見える。これで良いと思っているのか」と強く批判した。

このシンポジウムでの講演や質疑応答を聴いていて、所謂「光州事件」についての認識を改めなければならないと思った。
「光州事件」で犠牲となった人々、今なお生死の分からない人々が沢山いることは、本当に悲しいことである。
顧みれば、私は日本にいて、「光州事件」を市民や学生による「民主化運動」として肯定的・一面的に理解し、韓国の人々も同様だろうと考えてきたが、今回の講演などを聴いて、韓国国内の実情としては、肯定的に支持する人たちだけではなく、「脱北者に扇動されたのではないか」などと、否定的に評価する人が少なからず存在することを知った。

また、「5・18光州民主化運動」と呼ばれる「蜂起」に参加した人々の中には、戒厳軍の弾圧に決死の想いで戦い続けた人もいれば、戒厳軍の暴力に恐れをなして途中で戦列から逃げ出した人もおり、前者は後者を批判するという悲しい状況が生まれてしまったことなど、「民主化運動」などという定形的な一片の言葉だけでは到底語ることができないほどに、「5・18光州民主化運動」に対する評価を巡って、「蜂起」に参加した人々の間で深刻な亀裂が生じてしまい、韓国の国民、特に光州市に住む人々の心に、43年経った今、なお、癒すことのできない深い傷を残していることを知った。
「光州事件」については、これから、改めて勉強し直さなければならないと思った。

シンポジウムの受付では、概要冊子を入れるトートバッグが配られ、中にはミネラルウォーターとクッキーが入っていた。トートバッグは、旅の想い出となるだけでなく、使う度に「光州事件」を考える時間を与えてくれる。
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「5・18記念公園」に隣接して、「5・18記念文化センター」の建物がある。
ここにも「5・18」の関連資料が展示されているかも知れないと思って、建物の中に入ると、1階の会議室で何かの講演会が行われているらしい。ちょっと覗こうとしていると、受付のスタッフから「どうぞ、どうぞ」と韓国語で声を掛けられ、会場に案内された。彼は、われわれ老夫婦が日本からの旅行客だとわかると、英語に切り替えて、いろいろと話してくれたが、私の知識不足もあり、十分には理解できなかった。会場では、30人ほど参加者を前に、誰かが英語で「5・18民主化運動」について講演、あるいは研究発表をしているように見えた。
われわれは、この会場後方の壁に展示されている「5・18民主化運動」関連の写真や資料を見学して、お礼のあいさつを済ませて、この日は帰った。
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ホテルに帰って、講演会場を案内してくれたスタッフがくれた、A4判170頁余の大きな冊子を広げてみると、日本の大学の先生の講演概要のようなものが掲載されているのが読み取れた。詳しく知りたいと思い、冊子に記載されているホームページにアクセスし、それを Google に翻訳してもらうと、この講演会は「5・18記念財団」と「5・18国際研究院」が主催し、4日間にわたって行われる「国際フォーラム」の一部で、われわれが覗いた催し物は、韓国映画「Good Light, Good Air」の上映とイム・フンスン監督の講演であったこと、そして、翌日には日本の大学の先生が講演する予定となっていることが判った。
われわれは、翌日の木浦行きの予定を変更して、この講演会を傍聴することにした。
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「5・18記念財団」のホームページは次のとおり。
http://eng.518.org/

映画「Good Light, Good Air」については、次のサイトで解説されている。
https://douga.com/db/good-light-good-air-2021/
https://www.imdb.com/title/tt14739152/

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