カテゴリ: 2006年 米国の旅・後編

20日間のアメリカ旅行を終え、日本に帰る日が来た。
自分では覚えていないのだが、この日のことについて、トラベルノートには「前夜来、体調が芳しくなく、朝食抜きのまま、空港に向かった」と記している。長旅の疲れが出ていたのかも知れない。

ホテルからロサンゼルス国際空港までは、専用のシャトルバスで10分ほどである。
ユナイテッド航空のカウンターでチェックインをしようとしたところ、スタッフから「本日の搭乗便にオーバーブッキングが発生したので、シンガポール航空に振り替える」と宣告された。事前にオンラインでチェックインを済ませておけば良かったと後悔した。

ユナイテッド航空が発券したシンガポール航空のへ振替航空券と、お詫びの「クーポン券」(1人10,000ドル×4枚)をもらって、広い空港ビルの中をシンガポール航空のカウンターを目指して歩いた。
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「オーバーブッキング」という言葉は聞いたことはあったが、実際に自分の身に降りかかってくるとは想いもせず、思わぬところで「面白い経験」をすることになった。日本への到着は遅くなるかも知れないが、われわれには「時間」はたっぷりある。
更に、シンガホール航空は、当時はサービスの良さで定評があり、機会があれは乗りたいと思っていたが、運賃が他社に比べ高めだったため搭乗の機会はなく、今回はチャンスに恵まれた感じである。

本来ならば、ユナイテッド航空は12時33分に出発する予定であったが、シンガポール航空に振替えられたことにより、ちょうど2時間遅れの、14時35分発となった。
オーバーブッキングというトラブルに遭い、シンガポール航空にチェックインしたのは、締切時刻ギリギリだったこともあり、座席が埋まってしまい、夫婦で隣り合わせの席を確保してもらうことが出来なかった。

機内に入り、一応落ち着いたところで、機内乗務員にお願いして、夫婦隣り合わせの席に変更してもらった。空席があったのか、他の乗客に交渉してくれたのかは分からないが、定評どおりの丁寧な対応をしてくれたことに感謝した。座席の座り心地も良い。
機内食は和食を頼んだ。一般的に、海外から日本行きの便には日本人が多く乗る傾向があり日本食は「品切れ」と言われることが多いが、この便では「品切れ」と言われることはなく助かった。
予期せぬトラブルで、お腹もビックリしたようで、体調は元通りに快復して、美味しい和食とワインを堪能した。2回目の食事では炒飯がサービスされたが、これも美味であったと、トラベルノートには記してある。

ロサンゼルスから約11時間のフライトで、成田空港に着陸したのは、日本時間、翌日の夕刻である。預け入れた荷物を受取り、電車を乗り継ぎ、自宅に辿り着いたのは、夜の10時近くになっていた。
シンガポール航空・タグ
ユナイテッド航空からもらった、オーバーブッキングのお詫びの「クーポン券」(1人につき 10,000ドル×4枚)をどうするか、帰国の翌日から検討を開始した。
換金やグッズの購入はダメで、ユナイテッド航空の運賃に充当するだけとの条件が付されている。当時の為替レートで、1ドル=116円程度であったので、1人で約44,000円の「ビックリ手当」をもらったことになる。
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いろいろ考えた結果、否、考えなくても、このクーポン券を使いたい一心で、珍しさも手伝って、翌年の2007年夏に、再びアメリカ旅行に出掛けることを決めた。
その旅行記は、別の機会に、改めて書くことにしたいと思っている。

◆ ここまで、2006年の旅日記を元に書いてきましたが、長い間、拙い旅行記にお付き合いいただき、有難うございました。
また、沢山の「拍手」もいただき、重ねて御礼申し上げます。

サンディエゴからの小型双発機がロサンゼルス国際空港に到着したのは、定刻より少し早めの午後2時だった。
空港近接のホテルを予約していたので、タクシーに乗ることなく、ホテルのシャトルバスが来るのを待った。この時間帯は、未だ乗客は少ないと見えて、シャトルバスに乗ったのは、わが夫婦二人だけである。
チェックインすると、ルームキーのケースには、部屋番号が781と記してある。
7階の部屋であれば、眺めは良いだろうと期待しなから、エレベーターに乗った。
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部屋に入って、カーテンを開けると、窓は大きく、空港を広く見渡すことができ、発着する飛行機が丸見えで、満足!満足! である。
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一息入れて、ホテルの周りを散策してみようと思い、エレベーターでロビーに降りて、玄関に向かっていると、途中で、颯爽と歩いてくる女性と行き交った。
連れ合いは「彼女は、女優のAさんだ!」という。そう言えば、数日前、日本語の芸能ニュースサイトで、彼女がロサンゼルスに来ていることが報じられていた。空港のホテルに宿泊しているということは、これから日本に帰るところなのだろうと思われた。

夕食を済ませて部屋に戻ると、窓からは離着陸する飛行機の光跡が綺麗に見えたが、その光とは別に、空港の上空に多くのヘリコプターが飛んでいて、サーチライトで地上を照らしているのがわかった。ヘリコプターの騒音は、部屋のガラス窓に響くほどである。何か大きな事件・事故が起きたのであれば、テレビで報じているだろうと思い、スイッチを入れた。

CNNを初めテレビ各局は「ニュース速報」を放送しており、ロサンゼルス国際空港からの中継を入れながら、「ジョンベネちゃん殺害事件の犯人がタイで逮捕され、ロサンゼルスに移送されてきた」と報じている。
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当時のNBCのニュースサイトは、現在でも見ることが出来る。
https://www.nbcnews.com/id/wbna14379566

この事件は、1996年にコロラド州ボルダーで起きたが、今回の旅行では、ボルダーの町を訪ねたばかりであり、何かの偶然を感じたのであった。
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/41919830.html

なお、この日移送されてきた人物は、後に、当局によって真犯人ではないと断定され、釈放されたという。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

サンディエゴ・ロサンゼルス間は、South West Airline の小型双発機に乗るが、これは
ユナイテッド航空と共同運航便となっている。
チェックインを済ませて、搭乗待合エリアに進むと、ガラス窓越しに、100mくらい
先に小型双発機が駐機しているのが見えた。
双発機
搭乗開始のアナウンスがあり、歩いて航空機に向かい、10段ほどのタラップを上って
機内に入る。
搭乗
機内の座席配置は、「A、B+C」×10列=定員30名で、われわれの座席は、
2番のBとCである。
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SAN-LAX
時刻表の上では、約40分の飛行であるが、空を飛んでいるのは、実質20分くらい
のものである。それでも、飲み物とクラッカーが提供された。
スナック
定員30名の小型双発機に乗るのは初めての経験で、ちょっと怖い感じもしたが、
「飛行機大好き人間」にとっては、良い想い出となった。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

3泊4日のサンディエゴ滞在を終え、飛行機でロサンゼルスに向かう。
当時、サンディエゴ国際空港は、別名「リンドバーグ空港(Lindbergh Field)」とも
呼ばれて、利用者からは親しまれていた。
「翼よ!あれがパリの灯だ」で有名なチャールズ・リンドバーグは、1927年に、
ニューヨークからパリまでの大西洋単独無着陸飛行に成功したが、その際、彼は先ず
サンディエゴを飛び立ってニューヨークに向かい、そこからパリに飛んだというのが
事実のようで、それに因んで「リンドバーグ空港」と呼ばれるようになったという。
それを物語るように、空港ビルの側壁にはリンドバーグの雄姿が描かれており、彼と
握手するポーズで写真を撮るのが旅行者の楽しみなのだと、当時のガイドブックには
書いてあった。
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そして、われわれもトライしてみた。成功例(左)と失敗例(右)である。
握手B
当時は「小さな地方空港」と言った感じだったが、現在のサンディエゴ国際空港は、
すっかり近代化されているようである。
https://www.san.org/

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

わが家の長男と次男は、小学生・中学生だった頃、地元の少年野球チームに入っており、監督さんと息子さん二人には大変世話になった。監督の長男さんがサンディエゴに住んでいるということで、訪ねることにした。

少年野球チームの繫がりで、わが連れ合いは監督の奥さんとお付き合いするようになり、この旅行の前に、われわれがサンディエゴに旅行する予定でいることを話すと、ぜひ長男さんを訪ねて下さいとの言葉をいただいた。

一般的には、そうしたお誘いは遠慮するものだろうが、われわれは「遠慮」を知らない。
それまでも、アトランタを初め、サンフランシスコやワシントンD.C.などに住む知人からお誘いをいただき、先方の迷惑も考えず、遠慮をせずに訪ねて行ったものだった。
今回も、バンクーバーで、連れ合いの高校時代の友人を訪ねた。

監督の長男さんは「技術屋さん」で、日本のオーディオ・電子機器メーカーに勤務しているが、当時はメキシコの現地工場で技術指導に当たっていた。彼の住まいはサンディエゴにあるので、毎日、国境を越えて、メキシコ・ティファナにある工場を往復している。奥さんと長男と長女と義母の5人家族である。

訪問予定の約束の日、彼は、前日の仕事が深夜に及んだため、帰宅は昼頃になるという連絡が入った。彼の帰宅時間に合うように、奥さんが車で、われわれをホテルまで迎えに来てくれた。

彼の家は、高台の見晴らしの良い高級住宅地にあり、家族みんなで歓迎してくれた。美味しい昼食をご馳走になった後は、子供たち(われわれからすれば、孫のようなもの)の相手をして遊んだ。部屋が幾つもあるので、大きな遊具や鉄道の模型などで思う存分遊べる環境にあり、「ウサギ小屋」に住んでいる身からすれば、本当に羨ましい限りである。

午後、ホテルに帰る途中、奥さんが運転して、観光客は行かないであろう、ここに住む人だからこそ知る「穴場」的な景勝地を案内してくれた。
SD-Children
現在は、一家で日本に住んでおり、この兄妹も成長して大学生となり、将来は父親と同様に技術系に進むことを希望していると聞き及んでいる。機会があれば再会したいものだ。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

サンディエゴのミッションビーチは、夕陽が沈み、辺りが暗くなり始めた。
大通りに出てバスに乗り、途中で路面電車に乗り継いで、サンディエゴ・パドレスの本拠地 "PETCO PARK" に向かった。パドレスとアリゾナ・ダイヤモンドバックスの試合を観戦するためである。
球場に到着した時には、既に試合は始まっていたが、チケットは事前に購入していたので、スムーズに着席することが出来た。
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メジャーリーグのゲームに興奮したのだと思うが、試合結果は、今となっては、すっかり「忘却の彼方」になってしまった。しかし、メジャーリーグ関連のサイトには、当時の記録が残されており、パドレスが8-2で、ダイヤモンドバックスに勝利したとある。
https://www.baseball-reference.com/boxes/SDN/SDN200608180.shtml
https://www.espn.com/mlb/game/_/gameId/260818125
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0001 球場
ところが、今回、2006年のアメリカ旅行を回顧し、この旅行記を書くに当たり、当時の資料を整理確認していたところ、面白いものを見つけた。試合のあった日の翌朝、ホテルの部屋に無料配布された現地紙 "THE SAN DIEGO UNION-TRIBUNE" である。スポーツ面で、前夜、われわれが観戦した試合の模様を報じている。
024 THE SAN DIEGO UNION-TRIBUNE
記事を読み進んでいくと、当時、パドレスに在籍していた、デーブ・ロバーツ選手の活躍を報じている。現在は、ロサンゼルス・ドジャースの監督として、大谷翔平選手とともに、毎日のようにテレビに映っている。あの試合を観た時には、われわれは「デーブ・ロバーツ」さんの名前は知らず、ここに至って、驚くばかりである。
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0001 新聞A
0001 新聞B
早速、ロバーツ監督宛に、当時の想い出と応援メッセージを書き、新聞のコピーを添付して、電子メールを送った。もちろん、個人のアドレスは分からないので、ドジャースの広報担当部署宛に「ロバーツ監督に転送してほしい」と頭書して送信した。
「ありがとう。あなたのメールは確かに受信しました」という自動返信メールは届いたが、2ヵ月経った現在でも、ロバーツ監督からは返信が届いていない。今シーズンが終了した頃に、返信があるかも知れないと、密かに期待して待っているところである。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

メキシコの国境の町・ティファナから戻り、ホテルで一息入れた後、前日の夕方に見逃してしまった「サンディエゴの夕陽」を眺めるため、ミッションビーチに行ってみた。
観光客であろうか、地元の人たちであろうか、談笑しながら、あるいは缶ビールを片手に、それぞれの想いで、夕陽が沈むのを待っていた。
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われわれは、座るシートを持っていないので、砂浜に新聞紙を敷いて腰を下ろし、夕陽を静かに眺め続けた。次第に、人影が長くなり、太陽が水平線の向こうに沈む時が迫ってくる。
夕陽
太平洋に沈む夕陽を見ながら、「あの太陽は、日本では今、太平洋から昇ろうとしている。日本の夜明けの太陽なのだ」と想うと、妙にセンチメンタルになってしまう。
時差を考えれば、サンディエゴの日の入り時刻は、日本では翌日の昼前の時刻なので、実際は「夜明け」ではないのだが、その理屈を飛び越えて、遥か離れた異国の地で眺める夕陽を「日本の夜明け」と想い耽るのであった。
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次の写真は、この旅行で撮影してきたものの中で一番の「お気に入り」で、当ブログの
「タイトル画像」に使用している。
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(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

サンディエゴのダウンタウンで、ブルーラインの路面電車に乗り、終点の「サン・イシドロ(San Ysidro)」まで約1時間の車窓見学である。「ブルーライン」というのに、車体の色は「レッド」である。
終点の駅を降りると、乗客たちは足早に入国管理事務所のビルに向かって歩く。正確に言えば、ほとんどの人は、このビルの横にある入国ゲートで国境を越えて、メキシコに入る。
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「国境を越えてメキシコに入る」というと、大袈裟な表現になるが、現地に住む人々にとっては日常生活の一部になっているように見えた。アメリカのサンディエゴとメキシコのティファナは、それぞれの国境の町である。お互い、仕事で国境を越え、買い物で国境を越える。われわれ旅行者も、自由に国境を越えて、二つの町を、二つの国を、徒歩で、そして、車で往来することができる。

しかし、「自由に」とは言っても、それなりの手続きは必要である。
国境線は厳重に管理されており、アメリカからメキシコに入る場合は、入国ゲートとなっている鉄骨製櫛状の回転ドアを押せば、何の手続きもなしに、「入国審査」や「入国スタンプ」の押印もなく、簡単に国境を越えることが出来るが、この回転ドアはメキシコ方向だけに回り、逆方向からアメリカに戻ろうとしても、固定された櫛状鉄骨バーに阻まれる仕掛けになっているから、一旦メキシコ側に入ったら、その回転ドアからアメリカ側に戻ることは出来ない。(ただし、現在では、メキシコ入国に当たっては、所定の手続きが必要となっているらしい)

入国ゲートを通過すると、国境を流れる「ティファナ川」に架かる歩道橋を渡って、ティファナの町に入ることになる。川に架かる橋を渡り始めると、向こうに巨大なアーチが見えてくる。
0001 市内・国境橋
0001 市内・アーチA
ティファナの中心地には、この町の象徴ともいえる巨大なアーチが建っている。
アーチに吊り下がっている表示板には「BIENVENIDOS TIJUANA」とあり、日本語に
直すと「ティファナの町へ ようこそ」になるという。
0001 市内・アーチ
初めて見るティフアナの町は「メキシコ」そのものである。
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0001 市内C

0001 市内
「メキシコ」と言えば、「タコス」である。私は「辛いものはダメ!」だが、香辛料の部分を取り除き、冷たい飲み物と交互に食べた。辛いものに我慢しながら、そして大汗をかきながら、本場の「タコス」の味を堪能した。代金は米ドルで支払うことができ、チップ込みで5ドルだった。
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更に、ティファナの町の散策は続く。
0001 市内G
0001 市内E
われわれのような旅行者がアメリカ側に戻る(帰る)ためには、メキシコに入る時に横を通った、米国国務省の出入国・移民管理事務所で、パスポートを提出して、「米国入国ビザ」の有無を確認してもらう必要がある。一般市民がアメリカ側に入る場合には、米国人はIDカードを、メキシコ人は米国政府所定のビザを、提示することが求められるようだ。
入国管理事務所の係官は、われわれのパスポートを、ページを巡りながら、細かくチェックしているように見えた。米国への入国ビザは持っているものの、われわれのパスポートには数ヵ国への出入国が記録されており、中でも中国への出入国が記録されていることから、まさかと思いつつ、多少の不安が過ぎった。しかし、結果としては、何の質問を受けることもなくオーケーとなり、無事にアメリカに戻ることが出来た。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

サンディエゴのホテルには、午後1時半頃に到着したが、チェックインは午後4時となっていたので、スーツケースを預かってもらい、身軽になって、ダウンタウンに出掛けることにした。
先ずは、途中のオールドタウンの近くにある「トランジット・センター」までバスに乗る。バス代は、シニア1人=1ドルである。
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ここで、「2日券」を購入した。1人=9ドルだが、この日の午後と翌日の全日は、バスと路面電車が乗り降り自由、乗り放題である。早速「2日券」を使ってバスに乗り、ダウンタウンに向かう。
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ダウンタウンの小綺麗なカフェに入り、遅めのランチを食べた。
日本人の口に合う、美味しいローストビーフ・サンドイッチである。私は、辛いものと酸っぱいものはダメなのだが、キュウリのピクルスだけは例外で、これを食べると「アメリカ」を感じてしまう。
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ランチの後、翌日に訪ねることに予定している、メジャーリーグ "PETCO PARK" とメキシコ側国境の町ティファナへの行き方を確認するため、路面電車に乗った。"PETCO PARK" は最寄駅の目前にあり、ティファナは路面電車に1時間ほど乗って、終点で降りることなどがわかった。

ダウンタウンに戻って、街中を散策。夕方、ホテルに帰り、チェックインを済ませた。
ホテルの玄関を出て5分ほど歩くと、ミッションビーチと呼ばれる浜辺に沈む夕陽を見ることが出来るはずだった。しかし、たった数分の遅れで、この日は陽は沈んでしまい、空が赤く染まっているだけ。数年ぶりに見る「サンディエゴの夕陽」はお預けとなってしまった。翌日の夕陽は必ず見ると、心に誓って、この日は諦めた。
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ビーチ沿いの道路に並ぶキッチンカーで、簡単な食料とビールを買い込んでホテルに戻り、部屋でイッパイやった。
この日は、朝の3時過ぎに起床し、飛行機を乗り継ぎ、サンディエゴに到着した後も、国境の町まで下調べに出掛けるなど、疲れた一日であった。夜の10時にはベッドに入った。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

バンクーバーでの45時間(実質1日半)の滞在を終えて、サンディエゴに向かう。
直行の飛行機に乗れば、3時間ほどで着くことが出来るのに、諸般の事情(!)により、
サンフランシスコで乗り換えることにしたため、約5時間を要することになった。

2006年の米国旅行の際、われわれはユナイテッド航空の「割引周遊券」を利用した。
現在も同じような種類のチケットがあるかどうかは確認していないが、当時は、「搭乗
区間」、「搭乗時期」、「搭乗距離」、「使用期間」などによって料金が異なる、様々な
タイプの周遊チケットを購入することが出来た。

サンフランシスコで入国し、デンバー、トロント、バンクーバー、サンディエゴと回り、
ロサンゼルスから出国するという旅程で計画したため、「時間を節約するか、代金を節約
するか」の究極の選択を迫られ、旅行代理店・HISのオフィスに頼んで調べてもらった。
われわれは「カネはないが、時間はある」状況だったので、バンクーバーとサンディエゴ
間は直行便ではなく、サンフランシスコで乗り換える便をセットしてもらうことにしたの
だった。
0001 VAN-SFO-B
移動の当日、バンクーバーのYWCAホテルでは、未明の3時半に起床し、4時過ぎには、
タクシーに乗って、バンクーバー国際空港に向かった。
空港に到着後、直ちにサンフランシスコ行の便にチェックインし、出国手続きを済ませた頃
には、午前6時をまわっていた。空港内のカフェテリアで、簡単な朝食をとった。
7時過ぎに搭乗開始となったが、早朝便にも拘わらず、否、それ故にか、ビジネスパースン
と見える人々で、座席はほぼ満員である。
搭乗機は、バンクーバーを7時25分に出発、サンフランシスコには9時46分に到着。
乗換え便は、サンフランシスコを10時50分に出発、サンディエゴには12時19分に
到着した。
サンディエゴの空港からタクシーに乗って、ホテルに到着したのは午後1時半頃だった。
https://www.thedana.com/
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(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

バンクーバーで宿泊したYWCAホテルの部屋からは、1ブロック向こうに、ホテルと同じくらいの高さのピルが見えて、屋上に数基のパラボラアンテナが設置されていた。放送局か新聞社、あるいは消防署か警察署かも知れないと思いつつ、眺めていた。

滞在2日目の朝、そのビルが何であるかを確認するため、電車の駅に向かう途中、反対方向に1ブロック歩いてみた。そこは公共放送CBC(RCI - Radio Canada International の運営母体)のバンクーバー放送局のビルだった。
実は、この旅行の7年前、1999年にバンクーバーを訪ねたことがあり、その時にCBCの放送を聴き、帰国後に受信報告書を送ったところ、次のようなベリカードが届いた。しかし、その時点では、CBCのバンクーバー局のビルが、YWCAの隣にあるなどとは想像もしていなかった。
0001 カナダ 19990825 CBU
2006年当時のビルは、このベリカードと同じ外観だったが、同局のホームページを見ると、現在のビルとは違っており、一方で所在地の住所に変更はないので、時代の変化に対応した新しいビルに建て替えたのかも知れない。
https://www.cbc.ca/news/canada/british-columbia/contact-us-1.3982389

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

ホテルの部屋にスーツケースを置き、最寄り駅 "Studium-Chinatown" 駅まで5分ほど歩き、Sky Train に乗って、"Waterfront" 駅を目指した。ここから"Sea Bus" でノースバンクーバーに渡るためである。
0001 YWCA-C
"Waterfront" 駅のビルにあるフードコートで昼食を食べた。
トラベルノートには、炒飯、焼きソバ、エビフライ、チキン、ワンタンスープ、セブン
ナップを頼み、全部で10.7ドルだったと記してある。
お腹一杯になったところで、"Sea Bus" に乗って、ノースバンクーバーに向かった。
0001 YWCA-D
フェリーを降りると、大きなマーケットのビルがあり、レストランや雑貨店などが入っており、賑わっていた。フェリーの発着場に立つと、湾の向こうにバンクーバーのダウンタウンを望むことが出来、素晴らしい眺めである。
0001 バンクーバー遠景
0001 マーケットB
われわれが訪ねた当時は、ノースバンクーバーは、一部にはオシャレな店も見えたが、全体としては「郊外の住宅地」と言った趣であったので、ちょっと町を散策しただけで、直ぐにバンクーバーの市内に戻り、ホテルで休むことにした。市内に戻るために、バス停を探していると、日本人の留学生が声を掛けてくれて、親切にバス停を教えてくれた。

夕刻、再び、お昼を食べたフードコートに出掛けた。今度は、焼きソバ、春巻き、豚肉の唐揚げ、コールスターを頼んだ。7.8ドルと記してある。
カナダ横断鉄道では、毎日、3食とも、西洋料理が提供されていたので、日本食が恋しくなっていたが、翌日の夕食には、知人と一緒に鮨を食べる予定としていたので、この日は、昼も、夜も、中華料理を食べた。残念ながら、写真を撮るのを忘れてしまった。

(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

このシリーズは、次の記事から続いています。
http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/cat_425254.html

3泊4日のカナダ横断鉄道の旅は、列車は予定よりも3時間ほど遅れて、2006年8月
15日午前10時10分、終点のバンクーバー・パシフィック・セントラル駅に到着した。
そして、バンクーバー国際空港でサンフランシスコ行きの飛行機に乗ったのが17日午前
7時10分だったから、バンクーバーには45時間(実質1日半)滞在したことになる。

バンクーバーでは、YWCAに宿泊した。
バンクーバーの駅からタクシーに乗ってホテルに向かい、午前11時前にはホテルに到着した。お昼前だったが、受付スタッフの厚意で、直ぐにチェックインすることが出来た。

YWCAは、規模は小さいが、綺麗なホテルで、長期滞在者にとっても便利なように、共用のキッチンやコインランドリーも備えられており、現在のホームページを見ても、2006年当時と変わっていない。
われわれは、たった2泊だけだったので、このキッチンを使わず、食事はもっぱら外食で済ませた。コインランドリーは、横断鉄道に乗っていた間に溜まったシャツなどを洗うことが出来て、幸いだった。海外旅行では、滞在する町によっては、コインランドリーを探すのに苦労することが多いので、こういうホテルは有難い。
https://ywcavan.org/hotel
(建物全景)
0001 YWCA-A
(キッチン)
0001 YWCA-1
(コインランドリー)
0001 YWCA-2
次の画像はYWCAの宿泊代金明細書であるが、われわれの部屋は8階の815号室であるにも関わらず、建物の7階の一角にあるように見える。これは、建物の階数をイギリス流で表現するときに、日本で言う「1階」は "Ground floor"、「2階」を "First Floor" 、「3階」を "2nd floor"と呼ぶことと関連しているものと思われる。
(明細コピー)
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(注:このシリーズは、2006年の旅日記を元に書いています)

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