カテゴリ: 北海道旅行 2024

素晴らしい風景に感動し、美味して料理に舌鼓を打ち、合間には趣味のラジオ放送を聴いて楽しむという、想い出いっぱいの北海道旅行も、最後の日を迎えた。

函館発・羽田行きエア・ドゥ60便は、ほぼ定刻どおりに離陸した。進行方向右側の席を確保して、日本海に沈む夕陽を見たいと思っていたが、手続きが遅くなってしまい、進行方向左側の席になってしまった。

結果としては、右側の席に座れたとしても、この日は厚い雨雲に覆われており、時々は陽が射す時もあったものの、きれいな夕陽を見ることは出来なかった模様だ。
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そして、着陸態勢に入ると、機長のアナウンスが流れ、「本日、当機は東京都心上空を通過して、羽田空港に着陸いたします」と告げられた。

羽田空港への着陸機が都心上空を通過することについては危険性や騒音の問題などがあり、地域住民から反対の声が上がっていることを知っているので、その飛行ルートを通る飛行機に乗っていることには、申し訳ないという気持ちもある。

しかし、これは珍しい経験でもあるので、機内から東京タワーを撮影した。
機体が揺れ、かつ機外は雨が降っていたこともあり、ピントが合っていない。
しかし、目にはしっかりと焼き付けた。
https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20201027/se1/00m/020/070000c
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スクリーンショット (495)
スクリーンショット (496)
搭乗機は、無事に羽田空港に着陸した。

今回も拙い旅行記にお付き合いいただき、有難うございました。
(了)

(北海道旅行記一覧)
(1)旅の始まりで躓く
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42594282.html
(2)エア・ドゥ客室乗務員の心遣い
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42675272.html
(3)スーパーの再編が始まった
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42683270.html
(4)"Boys, be ambitious."
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42684867.html
(5)ビールとジンギスカン料理を堪能
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42697808.html
(6)義父の生地・富良野市へ
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42698860.html
(7)後藤純男美術館
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42702938.html
(8)小樽の町を散策
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42708376.html
(9)豊平館
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42743460.html
(10)中島公園の日本庭園
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42743624.html
(11)札幌市天文台
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42743714.html
(12)「NHK送信所跡」を見逃す
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42743727.html
(13)丘珠空港を飛び立ち、函館へ
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42754861.html
(14)丘珠⇒函館、遊覧飛行の気分に
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42767266.html
(15)函館駅の変貌
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42779167.html
(16)「どんぶり横丁」でイッパイ
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42804984.html
(17)市電に乗る
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42804961.html
(18)函館は「坂の町」
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42806715.html
(19)英国領事館、函館文学館
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42807023.html
(20)五稜郭
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42809160.html
(21)函館の夜景
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42813663.html
(22)立待岬でラジオを聴く
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42818346.html
(23)アパートメント・ホテル
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42881796.html
(24)赤レンガ倉庫群 & 昼飲み
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42884851.html
(25)51年ぶり、摩周丸に乗船
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42887695.html
(26)函館ワイン
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42894911.html
(27)地元の新聞を読む
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42894970.html
(最終回)都心上空から羽田空港に着陸
   http://blog.livedoor.jp/swl_information/archives/42895048.html

旅行中は、地元の新聞を読むと、そこに暮らす人々の営みの一端に、触れることが出来る。
しかし、その新聞を読んで、驚くことがある。その一つが「訃報」欄である。
次の画像は北海道新聞の例である。
「おくやみ申し上げます」と題し、ほぼ一面全部を費やして、一般市民の訃報を掲載している。氏名、年齢、住所、葬儀の日取りなどを市区町村別に告知している。「個人情報保護」が尊重される時代にあって、もしかしたら犯罪を誘発するかも知れない情報がマスメディアで公開されていることに驚く。
ただ、タイトルの下には「ご遺族が希望された方のみ、無料で掲載しています」と付記されている。これは、未だ地域社会に人々の温もりが残っていることの証しであり、社会の繫がりを守って行こうとする人々の意志なのかも知れないと思われた。
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ところで、今回は「北海道新聞」と「函館新聞」の2紙を読んだ。51年前に北海道を旅行した時には「北海タイムス」という新聞もあったが、今回は、コンビニの新聞コーナーで「北海タイムス」を見つけることが出来なかった。
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ネット検索すると、「北海タイムス」は1988年に廃刊になったことを知った。
残念である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北海タイムス

今回の旅行中、小樽の町を散策しながら、「小樽ワイン」を想い出の品として買って帰ろうと思っていたが、ついつい失念してしまったので、函館では必ず「函館ワイン」を買って帰ることを心に決めていた。

函館滞在の最終日、ホテルの近くにあるスーパーマーケットに行くと、店内に入って直ぐのコーナーに「函館ワイン」のサインが貼り出されており、ボトルのラベルの絵も綺麗な夜景だったこともあり、それに釣られて(?)買ってしまった。

その時によく確認するべきだったのだが、帰宅して、いざ飲もうとして、ボトルの裏を見ると、何と「原材料名:輸入ワイン(チリ製造)、ぶどう(北海道産)」とある。表のラベルにも「輸入ワイン使用」と書いてある。
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最近は、自宅でもチリ産ワインを飲むことが多く、良質のものが増えており、今回、函館で買ってきたものもまずまずの味ではあったが・・・。
旅行の想い出ワインは、100%函館で生産・醸造されたワインを、専門店で買ってくるべきだったと後悔した。

想い出深い青函連絡船「摩周丸」を見学した。
摩周丸は1965年4月に就航して以来、1988年3月13日の青函連絡船最後の日まで走り続けた。現在は「函館市青函連絡船記念館」として繋留・保存されて、観光客が乗船・見学して賑わっている。
https://mashumaru.com/

入場券を買って、船内に向かうブリッジに差し掛かろうとするときに、摩周丸の外観を見ることが出来る。
船体の巨大さも然ることながら、印象的なのは、船上の煙突の回りに描かれた「JNR」の赤い文字である。これは「日本国有鉄道(国鉄)-Japan National Railway」の略で、戦後生まれの者にとっては懐かしい響きを持つ。
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中曽根康弘首相が行った所謂「行政改革」の一環として、1987年に国鉄は分割民営化され、日本国有鉄道(国鉄)はJR(Japan Railways)と名称を変更し、旅客鉄道会社6社と貨物会社1社に分割された。

摩周丸は、船首方向から見て、初めて、その素晴らしさを知ることが出来る。
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船内には、摩周丸に関係する資料だけではなく、青函連絡船に関する歴史や洞爺丸沈没事故に関する資料などが展示されている。
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もちろん、通信室や操舵室なども見学することが出来る。
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船内には、摩周丸を見学した記念に押印する「スタンプ・コーナー」が設置されている。
左が、現在、船内で押印できるスタンプ、右は1973年8月5日に乗船した時のスタンプである。
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51年前の旅行では、8月4日の午後に上野発の急行に乗り、深夜に青森に到着した。日付が変わって8月5日の未明、摩周丸に乗船し函館に向かう。5日の早朝、函館で急行列車に乗り継ぎ、札幌に向かった。
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摩周丸のギフトショップで、A4判20頁建ての小冊子2種類を購入した。
1冊は、「青函連絡船100年 1908・・・・・・2008」である。
1908年に国鉄の青函連絡船・比羅夫丸が就航してから100周年となる2008年に、これを記念して制作されたものである。本書では、更に遡ること、1873年に青森-函館間に開拓使によって定期航路が開設されたときからの歴史を解説し、戦時中の困難な時代を経て、洞爺丸事故などの悪夢を乗り越えてきた、青函連絡船の歴史を紹介している。
もう1冊は、「台風との斗い 洞爺丸はじめ5青函連絡船遭難記録」である。
本書は、1954年9月26日に洞爺丸など5隻の青函連絡船が沈没した大惨事を記録したものである。それは、1430人の死者・行方不明者を出すという、青函連絡船史上最大の海難事故であった。
何れも、特定非営利活動法人・語りつぐ青函連絡船の会が制作したものである。
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「函館」と言われてイメージする風景の一つに、「金森赤レンガ倉庫群」がある。
ホームページでは、「金森赤レンガ倉庫の歴史は、金森倉庫の創業者、初代渡邉熊四郎が最初の事業、金森洋物店を開業したところから始まる」と解説している。現在は、レストランや地ビールのビアホール、ショッピングモールなどとして生まれ変わっている。
https://hakodate-kanemori.com/
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倉庫群のショッピングには関心がないので、「ベイクルーズ」に乗って、海から函館
の町の風景を眺めることにした。
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クルーズ船から降りれば、お待ちかねの「昼飲み」である。
私は「地ビール3種飲み比べ」を、連れ合いは普通の生ビールを、それに幾つかの料理を
頼んだ。
ビールは「函館山の地下水100%使用」を謳っているが期待したほどではなく、新鮮な
料理の方が美味しかった。個人の好みの問題だったかも知れないが・・・。
何れにしても、私は、ビール職人よりは、イタリア料理のシェフに軍配を上げた。
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函館では、前半の2日間は「朝食のみ」のホテルに泊まったが、後半の2日間は美味しそうな宣伝文句に誘われて「2食付き」のホテルを利用した。歩いて5分ほどの距離である。

函館滞在3日目の朝、前半のホテルをチェックアウトして、後半のホテルに移動した。
そして、午後3時のチェックインまで荷物を預かってくれるよう頼んだ。
その際、スタッフから「2食付きの宿泊プランとなっているので、予め食事の希望をお伺いします」と言われたので、メニューを見ながら、2日分の夕朝食に好みの料理を頼んだ。

夕刻、市内観光を終えてホテルに戻り、チェックインをして部屋に入ると、ビックリした。
テーブルの上には、既にすき焼きセットの食材が並んでいる。何よりも驚いたのは、ホテルと言うよりは、アパートメント・ホテルの趣きで、広めのリビングルームとベッドルーム、キッチンと冷蔵庫、洗面所と洗い場付きのお風呂、分別回収のゴミ箱などが備わっている。
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冷蔵庫は空になっているので、一旦ホテルを出て、近くのスーパーマーケットで缶ビールを調達してきた。これで夕食の準備は整った。ご飯は電気炊飯器で炊き、すき焼きはカセットコンロを使うという仕掛けになっている。
このすき焼きは、想像していた以上に美味で、特に、肉は上質のものと思われた。
お品書きによれば、この料理は函館のすき焼き一筋の老舗から運ばれたものだとある。
https://asarihonten.com/
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2日目の朝食は、私は「海鮮定食」、連れ合いは「ホッケ定食」を頼んだ。
これらは、宿泊ホテルと提携している「函館朝市」の人気店から運ばれたものである。
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2日目の夕食は、「生ちらしセット」である。
これは、はこだて鮨金総本店から運ばれたものである。
https://sushikin.jp/honten/
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最終日の朝食は、二人とも「洋食バスケット」を頼んだ。
予約の午前8時、ホテル近接のカフェから、女性店員が可愛らしい竹網のバスケットを部屋に届けてくれた。
「本日のメニュー」が添えられている。
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料理をベランダのテーブルに並べ、函館の風景を眺めながら、ゆるやかに流れる朝食のひとときを楽しもうと思ったが、料理がテーブルに載りきらないので、結局は部屋のテーブルで食べることに相成った。
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このホテルで提供される食事は、自前のレストランで調理するものではなく、ホテル近接の料理店やレストランなどから出前配達してくれるもので、このようなスタイルは、われわれにとっては初めての経験であり、新鮮な感じを受けた。もちろん、利用客は「食事なし」のプランで申し込むこともでき、その場合は食材は自分で調達し、キッチンで自分で料理することになる。
機会があれば、もう一度泊まってみたいと思うホテルであった。

函館滞在中の一日を割いて、下北半島の見える「立待岬」に出掛けることにした。
「岬」と言う字には、旅のロマンを感じさせるところがあり、又、今回は小型ラジオを持参して、対岸にある青森県の放送を受信してみたいという気持ちもある。
「函館駅前」から市電に乗り、函館の町を車窓見学しながら、「立待岬」に続く市電の終点「谷地頭」を目指した。
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市電の停留所から岬の先端まで、緩やかな坂道が1km くらいあるだろうか、約30分かけて歩いた。半分くらい歩いたところで、「立待岬まで500m」の道路標識が現れた。
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そこから少し歩き、後ろを振り向くと、函館山が見える。標高は東京タワーより1m 高い
334m という説もある。頂上には、テレビなどの送信アンテナが数本立っている。
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もう少し歩いて行くと、岬は未だ先になるが、左手に絶景が広がる。
次の画像では見難いが、函館市街の中央右寄りに白色の「五稜郭タワー」が見てとれる。
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更に坂道を上って行くと、「石川啄木一族の墓」がある。
石川啄木の一族8人が眠る墓で、故人の遺志により、遺骨は病死した東京から函館に運ばれ、函館に住んでいた時に愛していた大森海岸を望む場所に葬られたのだと言う。
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啄木の墓から歩いてで数分のところに、「宮崎郁雨と砂山影二の歌碑」が建っている。
宮崎郁雨は1885年生まれで、1907年に啄木が函館で生活を始めると、物心両面で
啄木を支え、1909年には、啄木の妻・節子の妹ふき子と結婚したという。
砂山影二は、石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたという。
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立待岬まで200mという地点まで歩いて来た。ここからは岬の先端に向かって、下り坂となり、再び函館の町の一部が見えてきた。
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岬の先端に至る直前に、「与謝野寛・晶子の歌碑」が建っている。
碑には、与謝野寛(与謝野鉄幹)が宮崎郁雨を読んだ「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土」と、晶子が読んだ「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」が刻まれている。岡田先生とは、市立函館博物館の創設者・岡田健蔵のことである。
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そして、遂に「立待岬」の表示板が現れた。
左に目を移すと、枝がなぎ倒されたような樹木の向こうに、青森県の下北半島が見える。
強風の吹き荒れる日が多いため、木の枝が姿勢を正すことが出来ず、このように腰の曲がったような形で成長を続けているのだと思われた。
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更に100m ほど歩くと、立待岬の先端である。
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岬の遊歩道にあるベンチに腰を下ろし、ラジオを聴いた。
地元・北海道函館のラジオ局は勿論、津軽海峡の向こう側・青森県のラジオ局の放送も良好に聴こえる。その中でも、青森放送ラジオ(RAB)野辺地陸奥湾中継局のFM補完放送(93.2MHz、100w)を受信できたことは嬉しかった。
なお、各放送局から届いた返信とベリカードは、後日、掲載する予定である。
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函館山から見る夜景は、「100万ドルの夜景」、「世界3大夜景の一つ」、「日本3大夜景の一つ」などと紹介されるが、何れにしても、一度見れば必ず心に残る風景であることは確かである。

われわれは、夕刻、駅前のバスターミナルから「函館山山頂」行きの路線バスに乗った。
30分毎に運行されており、山頂に向かう途中に何ヵ所かある「撮影ポイント」で、バスの運転手さんが気を利かせて1分間ほど停車してくれる。

夜の山頂展望台は、超満員である。
特に、屋上にある展望台は人気が高く、フェンスで囲まれた、20人ほど立てるスペースは観光客で身動きが出来ないほどである。
お互いに譲り合って、順番に位置を入れ替われば良いのだが、一度自分たちの位置を確保したら、仲々動かない人たちが多い。われわれは我慢が出来なくなり、ちょっとしたスキを狙って一番前に進み、漸く「函館の夜景」を写真に収めた。押合い圧し合いの中で、ピントが合わなかったのは残念であるが、実際の夜景はしっかりと目に焼き付けた。
昨今、日本の観光地は「インバウンド」と呼ばれる海外からの観光客でごった返しており、函館山からの「夜景」見物は、ある意味では「異文化」を知る機会でもあった。
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因みに、次の写真は51年前に撮った写真である。ワイドレンズを持っていなかったので、3枚の写真の合成である。
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旧イギリス領事館や函館文学館を見学した後、市電に乗って五稜郭に向かった。
「五稜郭公園前」という停留所で降りた後、かなりの距離を歩くと、漸く「五稜郭タワー」が見えてくる。
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五稜郭タワーは、建物自体が五稜郭に対するこだわりを表現しており、展望台は五角形、塔体の断面も星形を採用するなど、徹底して五稜郭と星形をモチーフにし、建造されたのだという。
https://www.goryokaku-tower.co.jp/

タワーの展望2階(地上90m)には、五稜郭の歴史が学べる展示スペース「五稜郭歴史回廊」がある。
安政元年(1854年)、徳川幕府は200年以上続いた「鎖国」を廃止し、日米和親条約を結んだ。開港場に決定した箱館の調査のために艦隊を率いてやってきたペリー提督と、幕府から応接役を命じられた松前藩の家老がアメリカの軍艦上で対面した「亜墨利加船、箱館来航」のときから、明治2年(1869年)に榎本武揚ら旧幕府脱走軍の幹部が新政府軍の陣地に出向いて降伏し、新政府軍に五稜郭を明け渡した「五稜郭開城・終戦」までの激動の時代について、改めて勉強した。
五稜郭の歴史については、次のサイトで詳しく解説している。
https://www.goryokaku-tower.co.jp/history/
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続いて、五稜郭内にあった「箱館奉行所」を見学した。
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箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所であり、次のサイトで詳しく解説している。
https://hakodate-bugyosho.jp/
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八幡坂から函館港を望むという、憧れの風景をしっかりと目に焼き付けた。
その後は、教会などの建物の外観に触れながら、近くを散策した。
(函館ハリストス正教会)
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(カトリック元町教会)
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(亀井勝一郎生誕の地・記念碑)
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(旧北海道庁函館支庁庁舎)
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(旧函館区公会堂)
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ここまで、相当の距離を歩いたので疲れてしまい、元町公園のベンチに腰を下ろし、函館港を眺めながら、一息入れることにした。
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旧イギリス領事館には、ユニオンジャックが翻っていた。
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最初は1863年に新築されたが、その後は消失、再建を繰り返し、現在の建物は1913年に竣工、1934年まで領事館として使用されたという。
館内には様々な資料が展示されている他、領事の執務室が再現されており、観光客はデスクに向い、ペンを持ち、領事になった気分で、記念撮影することが出来るようになっている。
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続いて、函館市文学館を訪ね、石川啄木直筆資料展 特別展「詩人・石川啄木」を見学した。
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啄木の他にも、多くの作家が函館に縁があるという。
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洋の東西を問わず、古今東西、「坂のある町は良い町だ」と言われている ——
そんな言葉を耳にしたことがある。
ガイドブックやテレビの旅番組で、「函館」と言えば、必ずと言っても良いほど紹介される坂道の風景がある ——
それは「八幡坂」である。
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坂の麓に立つと、正面遥か向こうに函館山と、そこに建つテレビ塔を望むことが出来る。
「八幡坂」の麓から坂の上まで、300~400mくらいあるだろうか。勾配はかなり急であるが、途中で休みながら、20分ほどかけて登り切った。
坂の途中からの眺めも、それなりに感動的ではあった。
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が、しかし、やはり一番上からの眺めは「素晴らしい」の一言に尽きる。
そこでは、観光客が入れ替わりで、想い出の写真を撮っている。
われわれも順番が回ってくるのを待って、思う存分に、この忘れ得ない風景を撮影した。
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一台のタクシーがやってきて、家族連れと思われる4人が降りてきた。
眼下の函館港をバックに「八幡坂」での記念撮影を済ませた後、彼らは周辺の史跡巡りに歩き始めるのだろうと思ったが、写真を撮り終わると、再びタクシーに乗り込み、ここを離れて行った。
寸時を惜しんで、ここを訪ねたのかも知れない。あるいは、タクシーを貸切って、観光名所を回っていたのかも知れない。

市電に乗って、函館の名所旧跡を訪ねることにした。
駅構内にある観光案内所で「一日券」を購入し、観光案内地図をもらって、各地を訪ねた。
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「函館駅前」で市電に乗って、3つ目の停留所「十字街」で降りた。
数ブロックを歩きながら、「函館」の空気を感じることにした。
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あの監視塔のような建造物は何であろうか。
観光案内サイトによれば、このキノコ型の塔は「市電操車塔」で、かつては市電のポイントを切り替えるために使用され、路面電車用の操車塔としては国内最古とされる。
また、操車塔の後ろは「函館企業局」の建物、その向こうに見える古い建物は「旧丸井今井百貨店函館支店」で、1923年に建築され、2007年の大改修を経て、現在は「函館市地域交流まちづくりセンター」として活用されているという。

函館での滞在は4日間であるが、前半は駅前の「1泊朝食付き」ホテルに泊まり、後半は駅から徒歩5分の「1泊2食付き」のホテルに泊まった。
初日の夕食は、ホテルから直ぐの「どんぶり横丁」で食べることにした。
https://donburiyokocho.com/

ところが、20軒近くある店のほとんどは、夜の時間帯は営業していない。「朝市」の市場に併設されている食堂街ゆえ、お昼か午後早くには店を閉めてしまうところが多いようだ。
夜8時まで営業しているという店があったので、この店に入り、「ホタテ・イクラ丼定食」を頼んだ。「鮭とば」と小鉢も付いてきた。美味である。ビールが進んだのは勿論である。
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札幌・丘珠空港から函館空港に飛び、そこから連絡バスに乗って、終点の函館駅に向かう。
駅前のバスターミナルで降りると、目の前の「JR・函館駅」がピカピカに輝いて見えた。

51年前の北海道旅行で、「国鉄・函館駅」に到着した時のことを懐かしく想い出す。
青森から青函連絡船「摩周丸」に乗って、1973年8月5日の早朝、函館駅に到着した。周遊券を使って北海道をほぼ一周し、帰りは8月17日の夜、函館から青森まで「羊蹄丸」に乗った。
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あの日から約半世紀が過ぎ、想い出の函館駅と駅前広場の変貌に驚いた。
木造と思われた駅舎が近代的なビルに建て替えられ、昔は駅舎の向こうに函館山を望むことが出来たが、今は駅ビルの後ろに隠れてしまった。駅舎の位置が変わったのかも知れない。
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JAL2753便・函館行きは、定刻14時45分に出発し、15時20分に到着する。
搭乗機は北海道エアシステム(HAC)が所有するターボプロップ双発機で、定員48名である。
われわれ老夫婦を除けば、乗客の多くは若い又は中年のビジネスパーソンと思われる人々で占められ、座席はほぼ満員状態と見えた。
着席して、安全ベルトを締め、「安全のしおり」を読む。座席前のポケットには「HAC MAGAZINE」があったので、記念にもらってきた。機内誌は各航空会社とも提供しており、その多くはA4判の冊子形式のものが多いが、北海道エアシステム(HAC)の機内誌は、長4号サイズの封筒の大きさの折畳み式リーフレット(左)で、上部1/3程度の部分を
展開すると、もう少し長いもの(右)になる。
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更に、これを展開していくと、蛇腹折り7山(16面)のリーフレットになる。
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搭乗機は、最高高度でも3,000~4,500m程度のところを飛行するので、雲の切れ目からは北海道の大自然を眺めることが出来る。約40分間の遊覧飛行をしているような気分になる。
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丘珠空港を飛び立つと、札幌郊外のベッドタウンを眼下に見ながら、機体は上昇していく。
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進行方向右手に湖が見えてきた。最初は大沼かと思ったが、湖の真ん中に小さな島が
あるので、あれは洞爺湖と思われる。
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間もなく、広い海が見えてきた。もう函館上空に達したのかと驚いたが、ほどなくして、
駒ケ岳と思われる山が見えてきたので、あの海は内浦湾だったと思われる。
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そして、二つの峰が見えてきた。その特徴から、駒ケ岳であろう。
左手の麓に見える湖は大沼であろうか。
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いよいよ函館山が視界に入ってきた。
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間もなく、眼下に函館空港の滑走路が見えてきた。ところが、着陸に向けて降下することなく、空港上空を南下して津軽海峡に出てしまった。「えっ、函館空港に着陸するのではなかったのか?」「何かのトラブルが発生して、上空で待機させられているのではないか?」と不安が過ぎった。
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搭乗機は、津軽海峡上空で大きく右旋回しながら下降し、滑走路の西側から東に向かって
着陸した。他の航空機の離陸、着陸との時間調整か、風向・風力の関係だったのだろうと
思われた。
0001 航跡B
飛行の最後で、少々不安を覚えたが、搭乗機は何事もなく、無事に函館空港に着陸した。
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北海道新幹線の札幌までの延伸(新函館北斗 - 札幌)は、当初の計画では2030年末の開業を予定していたが、その時期はかなり遅れる見通しだという。
しかし、将来、新幹線の「札幌延伸」が実現すれば、北海道内の航空路線にも様々な影響が出てくるものと思われ、特に、札幌 - 函館間の航空路線は廃止されるのではないかと気になり、今のうちに、札幌・丘珠空港から函館空港まで飛行機に乗ってみようと思い立った。

一緒に旅行をしていた義妹夫婦は、孫の世話で忙しいということで、札幌と富良野に5日間滞在しただけで、東京に戻って行った。わが夫婦は、それからの5日間を函館観光で過ごすことにした。

札幌市内から丘珠空港までは、直通の空港連絡バスに乗るのが一般的であるが、われわれはホテル最寄りの市営地下鉄・南北線「中島公園」駅から「麻生」駅まで行き、そこから路線バスで丘珠空港を目指すことにした。因みに「麻生」は「あそう」ではなく、「あさぶ」と読むのだそうだ。

空港ビル前でバスから降りると、「SAPPORO OKADAMA airport」と刻されたモニュメントが迎えてくれる。
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空港ビルに入ると、直ぐにチケットカウンターがある。
われわれの搭乗する便は、北海道エアシステム(HAC)が日本航空と共同運航するJAL2753便である。
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実は、チケットを購入した時点で座席は「8C」と「8D」に指定されていたが、搭乗する機材を確認すると、この席は翼の上になると思われたので、スタッフに「座席が翼の上に指定されているが、可能ならば翼の前後に変更してもらえないだろうか」と頼んでみた。
0001 座席表
すると、スタッフからは「この機材では、窓が翼の下にあるので、眺めは大丈夫ですよ」との返事が返ってきた。「そうか、良く調べて置けばよかった」と、恥ずかしい想いをした。われわれが乗る飛行機は、JALグループの北海道エアシステム(HAC)が所有するターボプロップ双発機である。
0001 プロペラ機
丘珠空港ビルの2階には、手荷物検査場、出発ロビー、レストランなどがあり、3階は送迎デッキとなっている。
丘珠空港のホームページを見ると、空港ビル2階の一角には「札幌いま・むかし探検広場」のコーナーがあり、札幌の町と丘珠地域の歴史的な成り立ちを映像と写真で解説しているとあるので、そこを見学することにした。
展示パネルには、丘珠地域の始まりは、1870年に山形県からの入植者によると言われていることが記されており、山形生まれの者としては、急に親近感を覚えた。
また、丘珠地域は、開拓時代からの発展だけではなく、縄文時代から2000年の歴史を有し、丘珠という地名もアイヌ語に由来するのだという。
https://www.okadama-airport.co.jp/
https://www.okadama-airport.co.jp/info/imamukashi/
0001 丘珠
空港ビル3階の「送迎デッキ」に出ると、様々な飛行機を見ることが出来る。
先ず目に入ったのが、11時半過ぎに新潟から到着した「トキエア」である。この飛行機は、乗客を降ろした後、機内清掃が済むと、新しい客を乗せて新潟に向かって飛び立って
行った。
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続いて、JALグループの北海道エアシステム(HAC)の飛行機が到着した。どこの空港を飛び立ってきたのであろうか。機体識別記号はJA14HCとある。
0001 HAC
丘珠空港では、様々な小型の航空機が離着陸する。次の画像はUHB北海道文化放送の取材ヘリコプターである。
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また、こんな飛行機が飛び立つ姿を見ることも出来た。機体記号はJA2340とある。
個人が所有しているもののようだ。
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「送迎デッキ」からは、滑走路の向こうに何基ものアンテナ群が見える。
丘珠空港は、防衛省が設置管理する共用空港で、民間航空と陸上自衛隊が共用で利用
している。
https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/kk/kuukou/ud49g7000000rycv.html
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いよいよ、JAL2753便・函館行きの搭乗が始まった。
空港ビル2階の搭乗口でチケットをスキャンした後、階段で1階に降り、徒歩で100m
ほど先の駐機場に向かう。晴れわたった青空の下、爽やかな風に吹かれて、憧れの双発機に乗る時が来た。
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丘珠空港の様子は、ライブカメラ配信で見ることが出来る。
https://okadama-airport.co.jp/camera_img/webcam.jpg

旅行から帰って、関連資料を整理している中で、中島公園のリーフレットの裏面に、
「NHK送信所跡」の碑が建っていると記されていた。この記念碑を見逃してしまい、
ラジオファンとしては、誠に残念である。
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(参考サイト)
https://rekishinoashiato-west.amebaownd.com/posts/7705934/
https://sapporo-jouhoukan.jp/sapporo-siryoukan/hi/ku1/68.html

札幌・中島公園の一角に「札幌市天文台」がある。
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「日本で一番小さい公立の天文台」と呼ぶ天文ファンもいるらしいが、確かに観測室は狭く、屈折望遠鏡とパソコンが置いてあるほかは、壁に様々な資料データがパネル展示されているだけである。
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小さな天文台ではあるが、ボランティアの解説員がいて、望遠鏡をのぞかせてくれるだけでなく、様々な質問にも答えてくれる。われわれが見学に訪れた時には、観測室には海外からの見学者グループがいて、英語で質疑応答を繰り返していた。
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リーフレットでは、次のように解説されている。
  1958年7月、中島公園で開催された北海道大博覧会の雪印乳業館として、
  口径20cm屈折望遠鏡(東京光学機械製)を備えた天文台が誕生しました。
  雪印乳業館は、その後、札幌市に寄贈され、札幌市教育委員会の管轄となり、
  同年10月「札幌市天文台」として開台しました。
  望遠鏡は1984年に五藤光学研究所製の口径20cm屈折望遠鏡に更新され、
  現在も地域の皆さまに宇宙への窓を提供しています。
  敷地面積は約52㎡と、とても小さな天文台ですが、市民の皆さまに支えられ
  ながら60年以上、札幌と宇宙を見つめています。
  https://www.ssc.slp.or.jp/stargazing/sapporo_obs/
  https://www.ssc.slp.or.jp/event/single/126
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中島公園の真ん中には大きな菖蒲池があり、池の周りは緑が多く、散策するには最高の環境である。
更に、日本庭園や茶室もあり、その清閑に身を置くと、心が落ち着いてくる。
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わが家は「宵っ張りの朝寝坊」だが、一緒に旅行した義妹夫婦の生活は健康的で、夫婦で朝のウォーキングを欠かさない。彼らは、今回の旅行中も毎朝、ホテル隣接の中島公園の中を散歩していたという。
「きれいな公園で、広い園内には歴史的な建造物や日本庭園、文学館やコンサートホール、それに天文台もあるよ」と教えてくれたので、わが夫婦も園内を散策してみることにした。
先ず「豊平館(ほうへいかん)」を見学した。
https://www.s-hoheikan.jp/
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リーフレットでは、「豊平館は、北海道開拓の礎を築いた開拓使が、開拓使直営の洋風ホテルとして1880年(明治13年)11月に建築し、現存する木造ホテルとしては我が国最古の建物であるとともに明治、大正、昭和と3代にわたり、天皇家が訪れた由緒ある建物である」と解説している。
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