今月は重い話だが、お許し願いたい、自殺問題から宗教心を考えようと思う。
 この14年ほど毎年3万人以上の方が自殺したが、この2年間は3万人を下回った。ちなみに昨年は2万7195人だった。
 これも以前話したが、日本の不審死(犯罪ではない死者)が年間15万人であり、WHOはその半分を自殺にカウントせよとうから、実際の自殺者は10万人を越えて、毎日300人が自殺する計算だ。
 日本社会は毎年10万人もの老若男女を死に追いこんできたことになる。ところが、この社会は、故人を自殺に追いこんだばかりではなく、亡くなった後に、さらに遺族を追いつめるという事実がある。
 困ったことに、こういう情報はテレビや新聞といった公共の情報網にはほとんど上がらない。
 じつは自殺者を出した家族、遺族のことだが、彼らは故人の思い出を整理しながら、喪失の悲哀に耐えていかねばならないなかりか、経済的な困難にも耐えていかねばならない。
 つまり、この社会は、遺族に精神的にも、経済的にも、二つの喪の仕事をさせ、非情な仕打ちを加えているのだ。

★非常な仕打ちとは何か?
 これは京浜のあるマンションで自殺した大学生の家族の事例だ。保証人である父親は、すぐ部屋の補修費として80万円支払うよう請求された。その2週間後、1階に住む大家の家族5人への慰謝料250万円(1人50万円として5人分)と、自殺現場の部屋のお祓い料10万円の請求が来たという。しかし、「息子の死で責めたてられるのは、子供も可愛そうで、自分もあまりに辛い」ので支払った。
 これは死亡後すぐのことであり、遺族は「家族の死のことで争いたくない」「カネを払って自殺ということから離れたい」と動揺して、「迷惑をかけたから仕方ない」としてその内容を検討せずに支払っている。
 誰に相談すればよいのか、判断停止の精神状態で取り立てが行われている。しかし、あまりに請求金額が多く、遺族が払えないために裁判になる場合も少数ながらある。
 さらに東京の大学に通う息子がアパートで自殺した事例だ。すぐ父親に、補修費100万円、近隣住民への精神的苦痛への慰謝料300万円(住民10人に30万円)、アパート住人への家賃下げの補助、お祓い料が請求され支払ったという。
 1カ月後には「アパートが気持ちが悪いので、誰も借りなくなる」ため、築27年のアパートの建て替え費用として2億2千万円の請求がきて裁判となり、和解交渉により数百万円を支払った。
★日本社会の自殺に対する偏見
 これらの事例のように、いままでいかに多くの遺族が慰謝料やお祓い料を請求されるままに、密かに支払って来ただろうか。
 2006年には「全国自死遺族連絡会」が作られ、かなりの事例が相談されるようになった。
 たしかに借り主が損耗したものを回復するための費用請求は当然のことだが、それをはるかに超え、お祓い料、過度のリフォーム費、精神的苦痛への慰謝料、近隣への慰謝料、数年にわたる家賃補償金などが請求が後を絶たない。
 ところで、これらの訴えには法令上の裏付けがある。国土交通省による賃貸契約の重要事項説明書である。
 契約するときに「この部屋は自殺者が出ました」と告げる義務があるからだ。これは最高裁の判例である。
 さて何が言いたいかといえば、自殺者のでた物件を「想像しただけで怖い出来事があった不動産〔心理的瑕疵(かし)〕」と呼んで、法令で差別していることだ。
 自殺がなぜ心理的瑕疵なのか。それは病死や孤独死した場合と、どの様に違うのか。ここには、死を差別し、自殺を穢れた死とする考えが流れていると思うのは私だけではないだろう。
 遺族がなぜお祓い料を支払わなければならないのか。一体、何をお祓いし、何を清めているのか。家主や不動産業者は借り手が遠のくことを理由に、過剰な補償を求めているが、それを動機づけているのは日本社会の偏見でないのか。
★日本人の宗教心は何処へ
 自殺のあった建物を特別に忌み嫌う人びとは、その理由を振り返ってみたことがあるのだろうか。私たちは日常、病院に通うことを恐れず、さらには誰かが亡くなったベッドや病室で治療を受けることを拒んだりしない。
 こう考えると、なぜ日本社会(法令)が自殺だけを「想像しただけで、とても怖い出来事(心理的瑕疵)」と主張するのか。私たちは切腹や戦時下の特攻隊のような権力によって強いられた死を美化する一方で、社会的な負荷や矛盾に耐えきれずに強いられた悲しい、弱者の死を差別するのだろうか。
 この背後に、日本人の宗教心の欠如が見え隠れしている。それはマネー経済の社会に如実に表れている。それは、仕事を楽しんだり、生き甲斐とするのではなく、いくら儲かったか、お金で価値を評価するやり方だ。
 その結果、現在では「死の商品化」まで行われている。ネットで検索すれば「株式会社坊さん派遣業」が、葬儀9万6千円、法事2万円でダンピングする有様だ。社会もお寺の葬儀は高いから、バーゲン価格を検索する始末だ。
 こういう「死の商品化」が、社会の弱者いじめを助長する。弱者なるが故にお金をしぼり取れると思う。死が商品化されているから、「ほらあんたの身内が死んで、こんなに迷惑している、お金で解決するよ」ということだ。
 僧侶は、徳川時代からの「寺請け制度」により、ほとんどの日本人の葬儀で読経などの重要な儀式を執り行ってきた。
 その時代の葬儀のお布施は、武家社会は家制度だから、親の財産を受けつぐ手前、大きい葬儀をした。しかし、庶民、大工職人1日3千円くらいの日当で、葬儀のお布施は48文(千円)くらいだった。身寄りのない死者はお布施として六文銭(120円)つけて、お寺の集合墓地(塚)に放り込んでおけば僧侶が回向したという。これが六文銭のはじまりである。
 全ての問題は「死の商品化」にあると言いたい。死が死として受容されずに「お金」に置き換えらるからだ。とりもなおさず、これは日本人の宗教心の欠如の表れである。
 こう気づけば、昨今はやりの弱者のいじめなどの理由もよく分かる。故人に「安らかに」と手を合わせ、いくらきれいな死に顔でも、魂が抜けた顔をさらすのは可愛そう、とサラシをかけた、日本人の宗教心は何処へ行ったのだろう。