ここで瞑想体験を『ヨーガ・スートラ』では有想三昧や無想三昧、『清浄道論』や『天台小止観』では色界の四禅、無色界の四禅など伝統的な言葉から再評価し、さらにそれを科学的に捉え直してみよう。

□ヨーガの伝統から見た意識変容の階梯
 『ヨーガ・スートラ』では、三「意識の精神的要素への集中」に相応するサンマヤ(総制)であるダーラナー、ディヤーナ、サマーディを一緒に行うことで、瞑想状態を誘導し深化させ、最終的には自我意識の停止を目指していた。
 この自我意識の停止について、仏教では心の働きが生じていない状態でも心には対象を探そうという心の働きが残るとして「五支分」を挙げた。これと同様にヨーガでも粗雑な思考によって認識できる対象を探すもの(尋〔ヴィタルカ〕)、微細なる想念によって捉えにくい対象を探すもの(伺〔ヴィチャーラ〕)、よろこびの感情(楽〔アーナンダ〕)、集中する自分の想念(我想〔アスミター〕)の四つを挙げている。そして、この四つを抱えたままの瞑想状態を有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)といい、サンヤマによって四つの心の働きから解放された瞑想状態を無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)という(『ヨーガ・スートラ』第一章「サマーディ」一七~一八)。
 有想三昧はまだ心の働きをもっている瞑想状態であり、無想三昧は記憶の連鎖による心の働きからは解放されているが、無意識下では過去のさまざまな経験の印象(サムスカーラ)をもっている瞑想状態である。
 さらに瞑想状態は、集中し観察する対象が粗雑なものからより微細なものへ深化することで、心身相関する有種子三昧(サビージャ・サマーディ)と、心身相関を超えた無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)に分けられる。有種子三昧は、粗雑な対象を分別している有尋定(サヴィタルカ・サマーパッティ)、微細な対象を分別している有伺定(サヴィチャーラ・サマーパッティ)、記憶の連鎖による分別がなくなり対象だけになっている無尋定(ミルヴィタルカ・サマーパッティ)、無尋定においてより微細な対象だけになっている無伺定(ニルヴィチャーラ・サマーパッティ)の四つに分けられる(『ヨーガ・スートラ』第一章「サマーディ」四一~五一)。これらは心身相関の瞑想状態で、微細であっても対象をもつ有種子三昧である。そして、この有種子三昧がサンヤマによって深化すると心身相関を超えた対象のない無種子三昧が誘導されるという。
 このように『ヨーガ・スートラ』を眺めると、自我意識が停止した状態といっても無想三昧と無種子三昧という二種類がある。無想三昧では自我意識は停止していても、無意識下で過去の印象が働いている心身相関の瞑想状態である。無種子三昧は無意識下で働く過去の印象(サムスカーラ)までも止まった、心身相関を超えた瞑想状態である。ちなみに、自律訓練法の瞑想体験による気づきは、自律性解放活動(autogenic discharge activity)と呼ばれる心身の両面に亘る情動ストレスの気づきであり、ヨーガの伝統からいえば有想三昧、有種子三昧に相当するものである。

□仏教の伝統から見た意識変容の階梯
 仏教では伝統的に、この世界を欲界、色界、無色界の三つに分類する。欲界(カーマ・ダートウ)は欲望にとらわれて生きる領域、色界(ルーパ・ダートウ)は物質(色)にとらわれて生きる領域、無色界(アールーパ・ダートウ)は欲望も物質も超越し精神性のみで生きる領域の三つである。そして、この三つの領域で生きているうちは、輪廻転生(サンサーラ)して生ある者は生死の苦しみを繰り返すという。釈尊は、この苦しみを解決するためにさまざまな修行法を学び、「止と観」の瞑想の臨機応変の応用(相関関係)によって解脱(モークシャ)して、三界を離れ輪廻することないブッダになったのである。これが釈尊の瞑想体験としての仏教である。
 さきの『清浄道論』や『天台小止観』では、この釈尊の解脱にいたる瞑想体験を「色界の四禅」と「無色界の四禅」として解説する。色界は心身相関(五蘊)のレベルで、心と身体が一緒に機能している状態である。無色界は心が身体の影響を受けることなく、独立して存在する状態で、五蘊では陰識(ヴィジュナーナ)のレベルで認識作用のみになっている状態である。
 さらに瞑想状態になって心の働きが生じていない状態でも、心には対象を探そうとする働きが残っているとして、五つの働き(五支分)がある。
  一つは粗雑な思考によって認識できる対象を探す(有尋)働き
  二つは微細なる想念によって捉えにくい対象を探す(有伺)働き
  三つは喜びの感情(喜)を探す働き
  四つは楽の感情(楽)を探す働き
  五つは集中した状態(心一境性)を探す働き
 この五つの心の働きの有無によって、釈尊の瞑想体験の深化が解説される。はじめに「色界の四禅」である。この五つの働きがそのまま残る状態が「初禅の境地」である。これは心は統一されているが、思考によって心が波立つなど不安定であり、身体的な感覚には喜悦が感じらる状態である。
 さらに思考は続いているが認識できる対象を探す働き(有尋)が生じなくなると「第二禅の境地」である。これは思考が止まって集中する対象だけになっている状態である。
 またこれに加えて、捉えにくい対象を探す働き(有伺)が生じなくなると「第三禅の境地」である。これは身体的な喜悦の感覚も消え去り心の幸福を感じる状態である。
 そして、苦もなく、楽もなく、感覚的なものを超越して心一境性(エーカンガタ)の状態になると「第四禅の境地」である。心が一点に集中された意識状態(三昧〔サマーディ〕)である。
 この四つの瞑想体験が色界の四禅であり、この四禅の状態は「有尋」「有伺」「喜」「楽」「心一境性」という思考や感覚など心身の相関関係から理解できる体験である。眠っているときに、誰かに追いかけられ「走っている夢」を見ていると、実際に心拍数の増加し、血圧の上昇が見られるようなものである。
 続いて「無色界の四禅」である。色界の第四禅に速やかに入出できるようになると、次には無限の宇宙空間(skt.シューンヤター、pli.シュンニャター)を対象にして瞑想する。この宇宙空間が認識ができる状態になると「無色界の初禅の境地」である。色界に生きる私たちは、日常生活では物質で区切られた有限な空間を認識している。宇宙という無限の空間、境目のない空間を認識するには、感覚的にも区切られた空間という分別(分析〔ヴィカルパ、ヴィバーガ〕)を離れる必要がある。これがさきの分別を離れた心一境性である。心が無限の宇宙空間の一点に集中された意識状態(無分別〔ニルヴィカルパ、アヴィバーカ〕)で宇宙と一体化する認識である。これは空無辺処定(アーカーサーナンチャヤンタナ・サマーパッティー)と呼ばれる。
 次には、無限の心を対象にして瞑想する。やはり心の一点に集中された意識状態で心と一体化する認識である。これは「無色界の第二禅の境地」で、識無辺処定(ヴィニャーナチャヤンタナ・サマーパッティー)と呼ばれる。
 さらに、何も存在しない状態を対象にして瞑想する。心の一点に集中された意識状態でそれと一体化する。これは「無色界の第三禅の境地」で、無所有処定(アーキンチャニャーヤンタナ・サマーパッティー)と呼ばれる。
 そして、さらに一点に集中し一体化して認識する心の働きを止める。私たちは色界では物質的な何かに集中して認識するが、無色界では精神的な何かと一体化して認識する。そして、最後には、集中によって一体化し認識する想念すら手放して瞑想する状態が「無色界の第四禅」で、非想非々想処定(ネヴァサニャーナーサニャーヤタナ・サマーパッティー)と呼ばれる。この状態は完全に分別を超えたところにあるため、実際には天地宇宙と一体化して、まったく無為の中に埋没している状態である。

 ところで、ここでさきに触れた、釈尊が師事した二師から無所有処定、非想非非想処定の伝承を受けながら、その二師から早々に離れた理由が見える。この最終的な滅尽定(ニローダッハ・サマーパッティ)の瞑想で、一切の心の働きが消え去った状態だけでは、心身相関の色界に存在する意味を失うからである。この現実の世界に肉体をもって存在する意義は、輪廻の原因である自分自身のカルマを観察して、そのありのままの姿に気づくことにある。この気づきが智慧の開発である。仏教用語の瞑想(ディヤーナ、ジャーナ)が「静慮」と訳されるのは、瞑想が心を静かに観察して智慧を開発することを意味するの言葉だからである。深い禅定を体験しても、心の成長が伴っていなければ解脱にはつながらない、これが二師から離れた理由である。そこで釈尊は心の働きを止める「止」の瞑想〔サマタ、シャマタ〕だけではなく、「観」の瞑想〔ヴィパサナー・ヴィパッシャナー〕を説いたとされる。これが「止」の瞑想はインドには古くからあったが、「観」の瞑想(ヴィッパサナー瞑想)は釈尊独自の瞑想技術であるといわれる理由である。
 しかし、すでに『ヨーガ・スートラ』『清浄道論』『天台小止観』の構造と、心身相関のメカニズムによって構築された「自律訓練法」の瞑想体験から、「止と観」の瞑想の臨機応変の応用(相関関係)によって、『ヨーガ・スートラ』の瞑想はサンヤマ(ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ〔総制〕)によって、呼吸を基礎にして、ある対象に集中し、観察する。またある対象の観察から、異なる対象へと集中し観察する。粗雑なる対象から、微細なる対象に集中し、さらに観察する。色界から無色界へと、集中し観察する。観察しては集中する。「止と観」の瞑想の臨機応変の応用が続けられるのである。これが瞑想技術である。
 「止」の瞑想によってある対象に集中すると、色界の禅定では心身相関のメカニズム(五蘊)から、その対象に対応する気づきが生じる。そこでは「止」の瞑想から「観」の瞑想へとスイッチが切り替わる。数息観(入出息観)の十六の段階を思い出してほしい。入出する呼吸(身体的要素)に集中していると瞑想状態が誘導され、集中に対応する思い出など(精神的要素)に気づく。しばらくすると、集中が緩慢になり瞑想状態が乱れ、呼吸に集中することを忘れている自分に気づく。そこで再び呼吸に集中して瞑想が誘導されると、やはり何らかの精神的要素に気づくが、そのときは前回の経験によって、その気づいた精神的要素を対象に集中し、さらに微細なものへの気づきがもたらされる。その気づきの段階によって色界と無色界の四禅という瞑想状態の深化が示されているのである。ちなみに、自律訓練法の瞑想体験による気づきは、自律性解放活動と呼ばれる心身の両面に亘る情動ストレスであり、仏教の伝統からいえば色界の初禅から第三禅の境地に相当する。

□心身相関のメカニズムから見た意識変容
 ところで、このような瞑想状態が深化する過程は、さきに触れたように現代的には自我意識が変容する過程として、「自我意識」を基軸にして論じられてきた。この心身相関のメカニズムから構築された自律訓練法の瞑想技術は、情動をコントロールして生理的、心理的に安定した瞑想状態を誘導し、それによって治療効果を目指していた。その意識状態は、通常の意識状態とは異なるところから、変性意識状態(自律的ASC)と呼ばれた。通常、私たちの意識状態は見当識(けんとうしき)によって、私は誰、ここは何処、いまは何時という認知によって量られる。人や周囲の状況、時間、場所など自分自身が置かれている状況などが正しく認識できない場合、見当識障害として脳血管障害(脳梗塞など)、アルツハイマー病、統合失調症の患者などに見られる精神的機能障害の一つと見なされる。しかし、自律訓練法の瞑想技術によって誘導される変性意識状態では、最後まで見当識が確保されている。ところが、『ヨーガ・スートラ』に見られた「サンヤマ」によって、また『清浄道論』『天台小止観』に見られた「止と観」の瞑想の臨機応変の応用(相互関係)によって、肉体的要素から精神的要素へ、粗雑なものから微細なものへと集中し観察することで、その気づきの段階によって、色界並びに無色界の四禅というさまざまな瞑想状態の深化が示された。これには見当識を維持した段階から、ヨーガでは無種子三昧によって、仏教では無色界の滅尽定によって、記憶の連鎖が止まった状態から、過去のさまざまな経験の印象すら止まった無意識の状態まで示されている。このため瞑想状態を変性意識状態と説明しても、これまでのように意識状態を認知度や覚醒度という自我意識が現実社会に適応するための基準だけでは、変性意識状態(瞑想状態)を評価する基準にはならないはずである。それは『ヨーガ・スートラ』も、『清浄道論』も、『天台小止観』も、共に瞑想技術によって瞑想状態を誘導し、「解脱」によって生死を超えることを目指してきたからである。そのため瞑想技術は「止と観」の瞑想の臨機応変の応用によって、粗雑な肉体から微細な宇宙まで、現代的な言葉では「スピリチュアルな事柄」を対象にして集中し観察してきたからである。
 このような瞑想体験は、ヨーガでは「有種子三昧」と「無種子三昧」、仏教では「色界の四禅」と「無色界の四禅」として示され、有種子と色界は心身相関のレベルで、心と身体が一緒に機能している状態であった。さらに無種子と無色界は心が身体の影響を受けることなく、心身相関を超えて独立して存在している状態であった。
 とくにヨーガでも、仏教でも、瞑想状態によって心の働きが生じていない状態でも、心には対象を探そうとする働きが残っているという。ヨーガでは「尋・伺・楽・我想」の四つを挙げ、その四つをもつ瞑想状態を有想三昧といい、仏教では「有尋・有伺・喜・楽・心一境性」の五つ(五支分)を挙げ、その五つをもつ瞑想状態を色界の四禅定だという。つまり、ここで瞑想状態の深化の基準になっているのは、自我意識が何を捉えて認識したか、何を分析したかではなく、逆に思考する対象を放棄する、想念となる対象を放棄する、喜や楽など感覚の対象を放棄する、最終的には瞑想(禅定)の基礎である「観ている自分と観られている自分」の識別関係を超えた心一境性までも放棄して、全てをあるがままに受容することを目指していることが分かる。それが何を意味するかといえば、それらは分析的な思考、自我意識の停止によってもたらされる体験だということである。
 さきのように「ヨーガとは心の働きを止滅することである」といい、記憶の連鎖によって生じる自我意識(我執)の超越を目指していた。また「精神を一ヵ所に集中し観察するならば、抽象的な分別がなくなる」といい、釈尊の瞑想体験は無分別(ニル・ヴィカルパ)の体験によって智慧(ジュニャーナ)を獲得したと表現された。それは共に私たちが自分と呼んでいる意識(分別)を離れ、事事物物を分析し観念化しない状態、自我意識の停止した状態を目指している。とくに仏教には哲学的な議論は救いにならないという有名な「毒矢のたとえ」がある。これは瞑想体験によってもたらされる意識変容の必要性を言いあらわしているのである*。

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 「毒矢のたとえ」(中部経典六三)
 この世のあり方について、哲学的に納得しないうちは修行に励もうとしない青年に、お釈迦さんが説いたものである。
 「ある時、人が毒矢に射られたとする。しかし、その人が、かけつけてくれた医者に対して、「この矢を射たのは一体だれであるのか、弓はどのようなものであるのか、弦〔つる〕は何でできているのか、などが分からないうちは矢を抜きたくない」と言ったなら、その人は、それが分かる前に死んでしまう。必要なことは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである。