■ エッセー

2018年09月07日

山小屋が赤い色に染まる 標高3000m夜明けがきた。標高3000mに集まった人々 人それぞれの人生が垣間見える 執筆 甲斐鐵太郎。

標高3000mに集まった人々 人それぞれの人生が垣間見える 執筆 甲斐鐵太郎

山小屋が赤い色に染まる 標高3000m夜明けがきた

音楽は如何(ブルース)
ユーチューブ音楽 エリック・クラプトン Layla 2014ジャパン・ツアー
(ギターの電源を抜いて歌うレイラは渋い、日本向けアレンジか)
Eric Clapton  Tears in Heaven live Crossroads 2013
(若くはなくなったクラプトン テアーズ・イン・ヘブンを歌うライブ音源)
Eric Clapton I Shot The Sheriff (Live)
(ギターに電気を入れてギンギンに鳴らします)


syokota2 at 11:48|PermalinkComments(0)

2018年09月06日

JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品 これで満足和製JBL 執筆 甲斐鐵太郎

JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品 執筆 甲斐鐵太郎
小さくて良い音のPioneer S-X4
和製JBL 4312のPioneer CS-616
米国で超人気のPioneer HPM-100
背丈385mmの密閉型スピーカーPioneer S-X4を使う
JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品 執筆 甲斐鐵太郎

JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

小さくて良い音のPioneer S-X4。baby HPMsの愛称

JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

Pioneer CS-616。和製JBL 4312。

JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

米国で超人気のPioneer HPM-100。米国で売れた。

(タイトル)
私が好きなスピーカー 大中小その三つ
JBLを超えようとしたパイオニアのスピーカー意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品 執筆 甲斐鐵太郎

(サブタイトル)
小さくて良い音のPioneer S-X4
和製JBL 4312のPioneer CS-616
米国で超人気のPioneer HPM-1
00

(副副タイトル)
背丈385mmの密閉型スピーカーPioneer S-X4を使う

(本文)

背丈385mmの密閉型スピーカーPioneer S-X4を使う


小さくて良い音のPioneer S-X4。baby HPMsの愛称

 パソコンでユーチューブの音楽を聴くために背丈385mm密閉型スピーカーPioneer S-X4をアンプにつないだ。幅230×高さ385×奥行243mmの箱に低域用18cmコーン型、高域用2.5cmドーム型の二つのスピーカーが埋め込まれたやつだ。

 同じ容積の横に23cm低音域を受け持つスピーカーを一つ追加して音をだす。サブウーハーというらしい。こちらは家具調の薄型スピーカーで縦にして使う。和室のコーナーに音響セットを置く。パソコンは食堂椅子の座面を基準にして位置を決めている。ソファーテーブルに箱を載せてありそれがパソコンテーブルになる。アンプは弁当箱ほどの大きさのBOSEだ。アンプの性能は高くないからスピーカーから出る音は程度が知れている。テレビの歌謡番組はイヤホーンジャックから電気を引っ張って弁当箱のBOSEに入れてやる。これだけでもテレビの歌謡ショーは良い音になる。

 Pioneer S-X4は背丈385mm密閉型スピーカーだ。どこに置いても威圧感はない。落ち着いた雰囲気の珈琲店の壁に吊るすのが流行ったこともあった。何時の間にか金属ネットの黒いシェルのBOSEが取って代わった。Pioneer S-X4には壁に吊るす穴が背面にある。

 どのくらいの大きさのスピーカーで音を出すか。つまりどのくらいの容積のスピーカーで音を出すか。ここにはさまざまなことが絡み合う。ここ一発大きな音で聴きたいとなればスピーカーは大きなものがよい。そのようにして使うオーディオを別の部屋に置いてある。Pioneer S-X4はパソコンを使ってユーチューブの音楽ソースをひっぱりだして聴くためのオーディオである。それで弁当箱ほどの大きさのBOSEのアンプと組み合わせている。Pioneer S-X4は背丈385mm密閉型スピーカーだ。この大きさのスピーカーとしては締りのあるある乾いた良い音をだす。テレビのニュース報道もこのスピーカーで聞くのであるか音量と低音のほどはこの程度で良い。ベストマッチだ。

 オーディオ装置に何をどれほど求めるかで装置の内容が違ってくる。大きな容積があれば低音が効いて大音量をだして演奏会場のようすを醸すことができる。パソコンでユーチューブの音楽ソースを取り込んで鳴らすことで仕事をする場に潤いをもたらすBGMスのためのピーカーであればPioneer S-X4はとても良い。Pioneer S-X4は幅230×高さ385×奥行243mmである。この大きさが丁度よい。容積を小さくしようとするとスピーカーユニットにお金をかけることになる。かけただけの見返りがあるかというとそうでもない。同じ容積でも内容の異なる薄くてくぐもった音のスピーカーがある。スピーカー選びは難しい。高温がキンキンしていると長時間聴いていると神経にさわる。低音がぼよんぼよんとしているとだらしない。このようなスピーカーがあるのだ。

 パソコンが置いてある。目の先1.5mほどのところで鳴らすスピーカーである。Pioneer S-X4のこのサイズとその音は丁度よい。人には好みの違いがあるが、丁度良い音をだすスピーカーは好みを超える。比べたらわかることである。Pioneer S-X4は同じ大きさの他社のスピーカーの音がぼよんぼよんとして高音にも締りがないことが不満で取り換えたのである。サイズも同じで重さもあって格好も良かった他社のものは好みの音ではなかった。好みという言い方をしたが音の品質が劣っていたので取り換えた。

 ヤマハにほぼ同じ大きさのやつがある。これは生真面目に高音質を奏でる。私としてはこの音では神経が草臥(くたび)れる。ヤマハの大きいのも小さいのも聞いているのだがやはり草臥れる。

 そうかというと同じ箱の容積で前に穴を空けて後の板からの音を反射させるやつはボワーンした音に聞こえる。これが不自然でありまたぼやけているようで面白くない。Pioneer S-X4に取り換える前のスピーカーである。設置した当初はそのスピーカーで良いのではないかと思えたのであった。

 上質なスピーカーユニットを組み込んだメーカー渾身の作といえるものがある。ヤマハのそれはよく知っている。ビクターのも知っている。Pioneer S-X4はパイオニアが渾身の力で作り上げた小型のスピーカーだ。世間の評判はヤマハに傾く。私はヤマハの10だの100だの200だの500だの1000だのといったモニタースピーカーを使っている。Pioneer S-X4はYAMAHAの10Mに似ている。どちらを選んでも良い。JBLに似た音と低音を求めるPioneer S-X4になる。Pioneer S-X4とYAMAHAの10Mのどちらを使うかというと余っている、空いている方ということになるかも知れない。どちらの聞いていて不満に思うことが少ない。それでも私はYAMAHAの10Mよりサイズが少しだけ大きいPioneer S-X4を選ぶ。

 Pioneer S-X4は1981年に1本24,000円で発売された。2ウェイ・2スピーカー・密閉方式・ブックシェルフ型だ。パイオニアは音作りを模索してJBL副社長であったバート・ロカンシーを迎え入れた。Pioneer CS-616とPioneer HPM-100はバート・ロカンシー監修のもとで作られたスピーカーの代表作だ。Pioneer CS-616はIBLの名機JBL 4312の再来といえるほどの音をだした。Pioneer CS-616は和製JBL 4312だと言ってよい。3ウェイ・3スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型だ。
 Pioneer HPM-100は4ウェイ・4スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型である。バート・ロカンシーを迎えたのは米国市場を意識して商品開発をするためであり、Pioneer HPM-100は米国市場でよく売れた。

 Pioneer S-X4はそうした系列のスピーカーである。歯切れのよい乾いた音をだす。そのようなこともあってPioneer S-X4は米国などではPioneer HPM-100を意識してbaby HPMsあるいはmini HPMsの愛称で呼ばれる。

 スピーカーの音の評価は同じ程度の大きさと価格のものと比べることがあり、また上級グレードのものと比べることもある。車にたとえれば軽同士、軽とクラウン、セダンと本格四駆という比べ方がある。そういう比較なのだと考えてスピーカーの音のことを考えるとよい。

 同じPioneerのなかにあって似た系列のスピーカーがある。サイズが違うPioneer S-X4、Pioneer CS-616、Pioneer HPM-100である。その比較をさらに続ける。その前に三つのスピーカーの仕様を確認しよう。仕様比較で三つのスピーカーの性質がみえる。

 以下にPioneer S-X4、Pioneer CS-616、Pioneer HPM-100の仕様を列記する。

Pioneer S-X4の仕様
(1981年発売、1台24,000円、baby HPMsまたはmini HPMsの愛称がある)
方式 2ウェイ・2スピーカー・密閉方式・ブックシェルフ型
使用ユニット
低域用 18cmコーン型
高域用 2.5cmドーム型
インピーダンス 6.3Ω
再生周波数帯域 40Hz〜25000Hz
出力音圧レベル 91dB/w/m
瞬間最大出力音圧レベル 110dB/m
最大入力 60w
クロスオーバー周波数 2200Hz
外形寸法 幅230×高さ385×奥行243mm
質量 7.0kg

Pioneer CS-616の仕様(和製JBL 4312として人気。1台49,800円、1977年発売)
方式 3ウェイ・3スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型
使用ユニット
低域用 30cmコーン型
中域用 10cmコーン型
高域用 4.5cmコーン型
インピーダンス 6.3Ω
再生周波数帯域 30Hz〜20000Hz
出力音圧レベル 93dB/w/m
最大入力 100w
クロスオーバー周波数 1500Hz、4000Hz
外形寸法 幅375×高さ665×奥行318mm
質量 25kg

Pioneer HPM-100の仕様(1977年発売、1台62,000円)
方式 4ウェイ・4スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型
使用ユニット
低域用 30cmコーン型
中域用 10cmコーン型
高域用 4.5cmコーン型
超高域用 ハイポリマー型
インピーダンス 8Ω
再生周波数帯域 30Hz〜25000Hz
出力音圧レベル 92.5dB/w/m
最大入力 100w
クロスオーバー周波数 3000Hz、4000Hz、12000Hz
外形寸法 幅390×高さ670×奥行393mm
質量 26.7kg

Pioneer S-X4のスピーカーとしての特性

 背丈40cm弱(38.5cm)の小型にして密閉型のスピーカーである。小さくてもしっかりした音をだして、低音もそこそこ響かせるス。歯切れのよい鳴りと軽快で明るい音質が特徴だ。高音域は十分に鳴っている。

 どのようなスピーカーでも同じであるがパワーがあって上質な音をだすアンプと組み合わせれば、これが同じスピーカーかと驚くほどに音色が向上する。よいアンプを使いパワーをあげれば低音は響く。よくできた密閉型のスピーカーは音に締まりがある。抑制が効いている。2つのスピーカーユニットを2ウエイで動作させ違和感のない音のつながりになっている。曇り、濁り、こごもりといった言葉で表現される事柄とは縁遠い。

 音量を上げれば素直に従う。アンプの力がこれには作用する。定位とか音場とか奥行き感という言葉があって専門家やオーディオマニアではやかましく語られる。この方面のことは、パイオニアの同系列の大型スピーカーに、また高品質で高価格なスピーカーになるにしたがって良くなる。そのように考えて間違いがない。スピーカーの大きさ、容積と価格は比例し、スピーカーユニットの数が増えるごとに価格が上がり高品質にして高音質になる。

 ウーハーのフレームには分厚いアルミダイキャストが使われている。ウーハーエッジはウレタンではなくダンプ材を塗付したコルゲートタイプである。これなら劣化を気にせずに使うことができる。ツィーターは名機Pioneer S-180Aと同一品か姉妹品である。外観が同じである。ツイーターが受け持つ音域での鳴りはこのサイズのスピーカーとしては申し分ない。

 背面には壁に掛けるための穴が空いている。7.0kgの質量のスピーカーを壁に掛けることは感覚として抵抗がある。似たような仕様のYAMAHAの10M(テンモニ)より大きいので壁に掛けるのにはためらいがある。台座を設けて裏の穴は脱落防止用として使うのがよいだろう。

 容積がYAMAHAの10M(テンモニ)より大きく18cmのスピーカーユニットのために10M(テンモニ)にはない低音をだす。私は23cmのサブウーハーを組み合わせて使う。1.5m先で鳴らず分には不満はない。これで十分だ。ジャズをBGM にしているがロックで心躍らせることもある。

 外部電源で駆動するスーパーウーハーを併用したり、外部電源のないサブウーハーに低音領域を補正させる。別のパソコン置き場ではBOSEの外部電源ウーハーとPioneer S-X4の四分の一ほどの容積のBOSE のプラスチックケージを金網で覆ったスピーカーを弁当箱型のBOSE noアンプで駆動させている。音楽を聴くのでないときにはウーハーの電源は切る。外部電源ウーハーは床全体をきしませて暴れまわる。弁当箱型アンプの力であなくこの外部電源を用いたウーハーのアンプの作用なのであろう。暴力的に動作する。

 末尾にGの名が付けられたPioneer S-X4があってこれは外周が灰色のモデルである。私が使っているのは濃い茶色の家具調のものであり経年変化はしない。

Pioneer CS-616(和製JBLの愛称)のスピーカーとしての特性


和製JBL 4312のPioneer CS-616。和製JBL 4312。

1、Pioneer CS-616は和製JBLと愛称がありJBLの乾いた音に似た特性をもつ。
1、1977年発売。1台49,800円。
1、3ウェイ構成のスピーカーシステム。
1、ウーファーには30cm径のカーボンファイバー混入コーンを採用している。
1、コーン形状は浅型で表面には特殊な音響制動剤を塗布することにより、剛性を高めるとともに共振を抑えている。
1、磁気回路には径156mmのフェライトマグネットを使用。ポールには純銅キャップを装着して電流ひずみを低減している。
1、ボイスコイルにはロングタイプを採用して耐入力特性やリニアリティを確保したために、大入力時のひずみを低減し、また大きなダイナミックレンジを実現している。
1、フレームは頑強なアルミダイキャスト製を用いることで共振とIMひずみを抑えている。
1、ミッドレンジには10cm口径のコーン型ユニットを採用。コーン紙は軽量で高剛性。エッジ周辺に特殊な制動材を塗布することで円滑に動く。磁気回路には径90mmのマグネットとエッジワイズ巻きボイスコイルを用いている。これによって能率を高め、耐入力特性と大きな音圧レベルを実現している。フレームにはアルミダイキャストを採用してIMひずみを低減させている。
1、トゥイーターには4.5cm口径のコーン型を採用。コーン紙はストレート形状としたことで振動板の過渡特性や周波数特性がよい。コーンネック部に特殊接着剤を塗布して高域の伸びを良くしている。エッジにはロールエッジを採用してリニアリティを良くした。エッジの内周部の構造を工夫して高域での音質を高めている。磁気回路は径70mmのマグネットを採用。強力な磁気回路と軽い振動形によって、高能率とすぐれた過渡特性が確保している。フレームはアルミダイキャスト製。
1、エンクロージャーは、バッフル板に24mm厚の合板、その他に20mm厚の高密度パーチクルボードを使用している。内部には吸音材を適宜配して大きな容積と併せて定在波を防止するとともに程よい低域制動を実現している。精密調整したバスレフ構造としたことでウーファーが良く動作する。開口部からの不要な中音の輻射をさけるため、ダクトは内部で折り曲げられている。
1、ネットワークには損失の少ない太い銅線のチョークコイルを用いている。メタライズド・フィルム・コンデンサーの使用と併せてスピーカーユニットの特性を最大限に発揮させている。

Pioneer HPM-100 のスピーカーとしての特性


米国で超人気のPioneer HPM-100。米国で売れた。

1、1977年発売、1台62,000円。
1、JBLのような音がするスピーカーとして米国でよく売れた名品。
1、ハイポリマー素子による振動板を採用した4ウェイスピーカーシステム。
1、ウーファーのコーン紙にはカーボンファイバー混入コーンを使用。表面には特殊な音響ダンプ剤を塗布している。振動板とマグネットを保持するフレームは強固なアルミダイキャスト製。磁気回路にはロングボイスコイルや大型マグネットを採用。センターポールに銅キャップを用いることで高調波歪成分を抑えて良い音質を実現している。
1、スコーカーは、指向性を重視し、大口径とせず10cmのコーン型を使用している。振動板は剛性を高めた軽量コーン紙。これは本器に対応して新開発された。大型マグネットとエッジワイズ巻きボイスコイルによる磁気回路によって能率が大幅に向上。センターポールには銅キャップを使用して歪を低減している。
1、トゥイーターのフレームはアルミダイキャスト製。ボイスコイルアッセンブリーとコーン紙の接着にエポキシ系の接着剤を使用。これらによって良い特性が確保されている。
1、スーパートゥイーターにはハイポリマー素子を振動板に使用したユニークな圧電型スピーカーを採用。ハイポリマーは次のような好適な特性をもつ。振動系が軽量。全面駆動型なので指向性が良い。共振による特性のあばれが少ない。大入力に耐える、など。
1、エンクロージャーはバスレフ型。
1、ネットワークにはロスの少ないMP型コンデンサーを使用している。位相特性を重視したシンプルな回路にしている。

2018-09-04-pioneer-desire-to-exceed-jbl-sx4-cs616-hpm100-tetutaro-kai-essay-measurement-










syokota2 at 14:38|PermalinkComments(0)

2018年09月05日

JBLを超えようとしたパイオニアの意欲作スピーカー S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

私が好きなスピーカー 大中小その三つ。JBLを超えようとしたパイオニアの意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品 執筆 甲斐鐵太郎

JBLを超えようとしたパイオニアの意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

小さくて良い音のPioneer S-X4。baby HPMsの愛称

JBLを超えようとしたパイオニアの意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

和製JBL 4312のPioneer CS-616。和製JBL 4312。

JBLを超えようとしたパイオニアの意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品

米国で超人気のPioneer HPM-100。米国で売れた。
(タイトル)
私が好きなスピーカー 大中小その三つ
JBLを超えようとしたパイオニアの意欲作S-X4、CS-616、HPM-100の三製品 執筆 甲斐鐵太郎
(サブタイトル)
小さくて良い音のPioneer S-X4
和製JBL 4312のPioneer CS-616
米国で超人気のPioneer HPM-1
00
(副副タイトル)
背丈385mmの密閉型スピーカーPioneer S-X4を使う

(本文)
背丈385mmの密閉型スピーカーPioneer S-X4を使う


小さくて良い音のPioneer S-X4。baby HPMsの愛称

 パソコンでユーチューブの音楽を聴くために背丈385mm密閉型スピーカーPioneer S-X4をアンプにつないだ。幅230×高さ385×奥行243mmの箱に低域用18cmコーン型、高域用2.5cmドーム型の二つのスピーカーを埋め込まれたやつだ。

 同じほどの容積をした横に23cmほどのスピーカーた取り付けてある低音域を受け持つスピーカーを結んで音をだす。こちらは家具調の薄型スピーカーで縦にして使う。和室のコーナーにスピーカーセットを置いている。食堂椅子の座面を基準にして位置を決めてソファーテーブルにハシゴを積んだ上にパソコンを載せている。

 Pioneer S-X4は背丈385mm密閉型スピーカーだ。どのくらいの容積のスピーカーで音をだすか。大きな容積があれば低音が効いて大音量をだして演奏会場のようすを醸すことができる。パソコンでユーチューブの音楽ソースを取り込んで鳴らすスピーカーである。いろいろ試してみると幅230×高さ385×奥行243mmの箱の大きさほどが丁度よいこと。目の先1.5mほどのところで鳴らすスピーカーである。このサイズでよい。あとは好みの音であるかどうかだ。

 ヤマハにほぼ同じ大きさのやつがある。これは生真面目に高音質を奏でる。私としてはこの音では神経が草臥(くたび)れる。ヤマハの大きいのも小さいのも聞いているのだがやはり草臥れる。

 そうかというと同じ箱の容積で前に穴を空けて後の板からの音を反射させるやつはボワーンした音に聞こえ、これが不自然でありまたぼやけているようで面白くない。

 そこそこ上質なスピーカーユニットを組み込んだメーカー渾身の作といえるものがあって、Pioneer S-X4はパイオニアのその種のスピーカーだ。ヤマハにはそれがある。ヤマハのそれと比べられるのがPioneer S-X4だ。世間の評判はヤマハに傾く。私だってヤマハの10だの200だの500だの1000だのといったモニタースピーカーを使っている。それでも同じくらいのサイズのスピーカーはPioneer S-X4を選ぶ。

 Pioneer S-X4は1981年に1本24,000円で発売された。2ウェイ・2スピーカー・密閉方式・ブックシェルフ型だ。パイオニアは音作りを模索してJBL副社長であったバート・ロカンシーを迎え入れた。Pioneer CS-616とPioneer HPM-100はバート・ロカンシー監修のもとで作られたスピーカーの代表作だ。Pioneer CS-616はIBLの名器JBL 4312の再来といえるほどの音をだした。Pioneer CS-616は和製JBL 4312だと言ってよい。3ウェイ・3スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型だ。
 Pioneer HPM-100は4ウェイ・4スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型である。バート・ロカンシーを迎えたのは米国市場を意識して商品開発をするためであり、Pioneer HPM-100は米国市場でよく売れた。

 Pioneer S-X4はそうした系列のスピーカーである。歯切れのよい乾いた音をだす。そのようなこともあってPioneer S-X4は米国などではPioneer HPM-100を意識してbaby HPMsあるいはmini HPMsの愛称で呼ばれる。

 スピーカーの音の評価は同じ程度の大きさと価格のものと比べることがあり、また上級グレードのものと比べることもある。車にたとえれば軽同士、軽とクラウン、セダンと本格四駆という比べ方がある。こうした比較では頭をひねった読み方をしなくてはならい。

 同じPioneerのなかにあって似た系列でありサイズが違うPioneer S-X4、Pioneer CS-616、Pioneer HPM-100のスピーカーのことに少し触れた。その比較をさらに続けるがその前に三つのスピーカーの仕様を確認しよう。仕様比較で三つのスピーカーの性質がみえてくる。

 以下にPioneer S-X4、Pioneer CS-616、Pioneer HPM-100の仕様を列記する。

Pioneer S-X4の仕様
(1981年発売、1台24,000円、baby HPMsまたはmini HPMsの愛称がある)
方式 2ウェイ・2スピーカー・密閉方式・ブックシェルフ型
使用ユニット
低域用 18cmコーン型
高域用 2.5cmドーム型
インピーダンス 6.3Ω
再生周波数帯域 40Hz〜25000Hz
出力音圧レベル 91dB/w/m
瞬間最大出力音圧レベル 110dB/m
最大入力 60w
クロスオーバー周波数 2200Hz
外形寸法 幅230×高さ385×奥行243mm
質量 7.0kg

Pioneer CS-616の仕様(和製JBL 4312として人気。1台49,800円、1977年発売)
方式 3ウェイ・3スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型
使用ユニット
低域用 30cmコーン型
中域用 10cmコーン型
高域用 4.5cmコーン型
インピーダンス 6.3Ω
再生周波数帯域 30Hz〜20000Hz
出力音圧レベル 93dB/w/m
最大入力 100w
クロスオーバー周波数 1500Hz、4000Hz
外形寸法 幅375×高さ665×奥行318mm
質量 25kg

Pioneer HPM-100の仕様(1977年発売、1台62,000円)
方式 4ウェイ・4スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型
使用ユニット
低域用 30cmコーン型
中域用 10cmコーン型
高域用 4.5cmコーン型
超高域用 ハイポリマー型
インピーダンス 8Ω
再生周波数帯域 30Hz〜25000Hz
出力音圧レベル 92.5dB/w/m
最大入力 100w
クロスオーバー周波数 3000Hz、4000Hz、12000Hz
外形寸法 幅390×高さ670×奥行393mm
質量 26.7kg

Pioneer S-X4のスピーカーとしての特性

 背丈40cm弱(38.5cm)の小型にして密閉型のスピーカーである。小さくてもしっかりした音をだして、低音もそこそこ響かせるスピーカーだ。歯切れのよい鳴りと軽快で明るい音質が特徴だ。高音域は十分に鳴っている。

 どのようなスピーカーでも同じであるがパワーがあって上質な音をだすアンプと組み合わせれば、これが同じスピーカーかと驚くように音色が向上する。よいアンプでパワーをあげれば低音も元気になる。よくできた密閉型のスピーカーは音に締まりがある。抑制が効いている。2つのスピーカーユニットを2ウエイで動作させることによる無理のない音のつながりとして仕上がっている。曇り、濁り、こごもりといった言葉で表現される事柄とは縁遠い。

 音量を上げればそれに追いていく。もっともこれはアンプの力に負うところが大きいのであるけれども。定位は良い。小さめの二つのスピーカーユニットを鳴らすのであるから音場が平面的であったり、その奥行き感はパイオニアの系列の大型スピーカーに一歩ゆずることは理の当然である。

 ウーハーのフレームには分厚いアルミダイキャストが使われている。ウーハーエッジはウレタンではなくダンプ材を塗付したコルゲートタイプであるのがよい。これなら劣化を気にせずに使うことができる。ツィーターは名器Pioneer S-180Aと同一品か姉妹品のようだ。外観がそっくりである。したがってツイーターが受け持つ音域での鳴りは申し分ない。

 背面には壁に掛けるための穴が空いている。7.0kgの質量のスピーカーを壁に掛けることは感覚として抵抗がある。似たような仕様のYAMAHAの10M(テンモニ)より大きいので壁に掛けるのは辞めたい。台座を設けて裏の穴は脱落防止用として使いたい。

 容積がYAMAHAの10M(テンモニ)より大きく18cmのスピーカーユニットのために10M(テンモニ)にはない低音をだす。私の場合には23cmのサブウーハーを組み合わせて使っているので1.5m先で鳴らず分には不満はない。これで十分だと思うことが多い。このスピーカーでロックを聴いて心躍らせることができる。

 外部電源で駆動するスーパーウーハーを併用したり、外部電源のないサブウーハーに低音領域を補正させることによって、低音域の不満を解消することができる。これは聴く音楽に合わせて、その場の気分でということで使ったらよい。

 末尾にGの名が付けられたPioneer S-X4があってこれは外周が灰色のモデルである。私が使っているのは濃い茶色の家具調のものであり経年変化をほとんどしない。

Pioneer CS-616(和製JBLの愛称)のスピーカーとしての特性


和製JBL 4312のPioneer CS-616。和製JBL 4312。

1、Pioneer CS-616は和製JBLと愛称がありJBLの乾いた音に似た特性をもつ。
1、1977年発売。1台49,800円。
1、3ウェイ構成のスピーカーシステム。
1、ウーファーには30cm径のカーボンファイバー混入コーンを採用している。
1、コーン形状は浅型で表面には特殊な音響制動剤を塗布することにより、剛性を高めるとともに共振を抑えている。
1、磁気回路には径156mmのフェライトマグネットを使用。ポールには純銅キャップを装着して電流ひずみを低減している。
1、ボイスコイルにはロングタイプを採用して耐入力特性やリニアリティを確保したために、大入力時のひずみを低減し、また大きなダイナミックレンジを実現している。
1、フレームは頑強なアルミダイキャスト製を用いることで共振とIMひずみを抑えている。
1、ミッドレンジには10cm口径のコーン型ユニットを採用。コーン紙は軽量で高剛性。エッジ周辺に特殊な制動材を塗布することで円滑に動く。磁気回路には径90mmのマグネットとエッジワイズ巻きボイスコイルを用いている。これによって能率を高め、耐入力特性と大きな音圧レベルを実現している。フレームにはアルミダイキャストを採用してIMひずみを低減させている。
1、トゥイーターには4.5cm口径のコーン型を採用。コーン紙はストレート形状としたことで振動板の過渡特性や周波数特性がよい。コーンネック部に特殊接着剤を塗布して高域の伸びを良くしている。エッジにはロールエッジを採用してリニアリティを良くした。エッジの内周部の構造を工夫して高域での音質を高めている。磁気回路は径70mmのマグネットを採用。強力な磁気回路と軽い振動形によって、高能率とすぐれた過渡特性が得られている。フレームはアルミダイキャスト製。
1、エンクロージャーは、バッフル板に24mm厚の合板、その他に20mm厚の高密度パーチクルボードを使用している。内部には吸音材を適宜配して大きな容積と併せて定在波を防止するとともに程よい低域制動を実現している。精密調整したバスレフ構造としたことでウーファーが良く動作する。開口部からの不要な中音の輻射をさけるため、ダクトは内部で折り曲げられている。
1、ネットワークには損失の少ない太い銅線のチョークコイルを用いている。メタライズド・フィルム・コンデンサーの使用と併せてスピーカーユニットの特性を最大限に発揮させている。

Pioneer HPM-100 のスピーカーとしての特性


米国で超人気のPioneer HPM-100。米国で売れた。

1、1977年発売、1台62,000円。
1、JBLのような音がするスピーカーとして米国でよく売れた名品。
1、ハイポリマー素子による振動板を採用した4ウェイスピーカーシステム。
1、ウーファーのコーン紙にはカーボンファイバー混入コーンを使用。表面には特殊な音響ダンプ剤を塗布している。振動板とマグネットを保持するフレームは強固なアルミダイキャスト製。磁気回路にはロングボイスコイルや大型マグネットを採用。センターポールに銅キャップを用いることで高調波歪成分を抑えて良い音質を実現している。
1、スコーカーは、指向性を重視し、大口径とせず10cmのコーン型を使用している。振動板は剛性を高めた軽量コーン紙。これは本器に対応して新開発された。大型マグネットとエッジワイズ巻きボイスコイルによる磁気回路によって能率が大幅に向上。センターポールには銅キャップを使用して歪を低減している。
1、トゥイーターのフレームはアルミダイキャスト製。ボイスコイルアッセンブリーとコーン紙の接着にエポキシ系の接着剤を使用。これらによって良い特性が確保されている。
1、スーパートゥイーターにはハイポリマー素子を振動板に使用したユニークな圧電型スピーカーを採用。ハイポリマーは次のような好適な特性をもつ。振動系が軽量。全面駆動型なので指向性が良い。共振による特性のあばれが少ない。大入力に耐える、など。
1、エンクロージャーはバスレフ型。
1、ネットワークにはロスの少ないMP型コンデンサーを使用している。位相特性を重視したシンプルな回路にしている。

2018-09-04-pioneer-desire-to-exceed-jbl-sx4-cs616-hpm100-tetutaro-kai-essay-measurement-



syokota2 at 01:53|PermalinkComments(0)

2018年09月04日

事実は小説よりも奇なり 二つの事件 ニューヨークの同時多発テロとオウム

事実は小説よりも奇なり 二つの事件
写真は本文とは連動しない挿絵です。

雲の上に浮かぶ郡上八幡城

事実は小説よりも奇なり 二つの事件 ニューヨークの同時多発テロとオウムによる地下鉄サリン事件
(タイトル)
事実は小説よりも奇なり 二つの事件

(本文)

 2001年9月11日のNHKニュース10はニュース報道を始めたると直ぐにツインタワーのニューヨーク貿易センタービルから煙が昇るCNNテレビの映像を中継した。CNNテレビの中継中にもう一機が旋回してもう一つのタワーに突っ込んだ。現地時間午前9時を少し回ったところであり、国防総省が攻撃されて煙を上げる映像に切り替わった。

 ビン・ラディンがからむアルカーイダによる同時多発テロである。ニューヨーク金融街にあるツインタワーのニューヨーク貿易センタービルオフィスビルであに5万人が働き一日に8万人が観光で訪れる。NHK放送は堀尾正明と森田美由紀が台風15号が鎌倉市に上陸し首都圏直撃、狂牛病の牛一頭が見つかったこと、イチロウのマリナーズの地区優勝が間近であるニュース項目を読み上げた直後に同時多発テロのニュースが飛び込みツインタワーが崩れ落ちる場面の一部始終が実況中継された。

 ニューヨークの同時多発テロに先立つこと5年半前、オウムによる地下鉄サリン事件がおきている。1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人であった。

 オウム地下鉄サリン事件より遥か前に松本智津夫は国家転覆計画を回りに話しており、その言葉通りに武器調達と軍事訓練をしていた。オウム事件の一つである坂本堤弁護士一家殺害事件はTBSテレビがオウムの早川紀代秀、青山吉伸、上祐史浩にオウムの商法に関する録画を内緒見せた直後に発生した。坂本堤弁護士はオウムを悪徳商法の範囲でとらえていたようであり、TBSテレビは水中に長い時間潜っていることができるという程度の興味で取材をしていた。事件が発生してその後の調査が進むにつれてオウムはビン・ラディンとアルカーイダとほとんど同じような内容の組織であることがわかる。

 オウムにマインドコントロールをかけられた人々は松本智津夫の言うがままに動き地下鉄サリン事件をおこした。武装して国会を占拠することも計画にされていた。ロシアでの武器調達と軍事訓練をして国会を占拠する気でいた。オウムとはそのような組織であった。松本智津夫が何故そのようになったのかはここでは問わない。ビン・ラディンと松本智津夫は同じことをした。松本智津夫は私たちの身近なところにいて殺人事件をおこした。

 高校時代は「大学への数学」誌の学力コンテストで3期連続全国1位であった者がいる。もう一人東京大学医学に入学し自主退学したあと中央大学法学部に入学し司法試験に合格しないまま卒業し九州大学医学部に合格した者がいる。灘高等学校の同級生で1987年4月に東京大学医学部にともに現役で入学している。一人は滝本弁護士サリン襲撃事件と東京都庁小包爆弾事件によって殺人未遂で懲役15年の刑を受けた。もう一人は事件にからんだが起訴されなかった。それが後者だ。

 学校の試験では同学年で軽々と全国100指にはいる者がオウムに関連して事件をおこす。東大医学部教授であった養老猛司氏は上のうちの一人から松本智津夫が息をせずに水中に長時間潜ることに立ち会いを求められた。人間は5分も酸素を吸わなければ死ぬという常識を知らないことに驚愕する。養老猛司氏は学校や試験の成績が偏差値で右端に位置する東大医学部合格者たちが情緒ほかのことで標準偏差をとると正規分布になってしまうことを強調する。

 東大医学部は単なる箱のような空間であってここでは人を総合して賢くするものでない。東大法学部の卒業生は中央官庁に上級官吏になっているが嘘をいたり宜しからざる行いをすることでは世間一般の人と変わりないことをさまざまな事例によって知ることができる。養老猛司氏は頭脳は賢いよりも丈夫なほうがいいと繰り返して述べる。

 地下鉄サリン事件の死亡者13人のなかに計量器製造業の東京支店長がいた。本紙従業員の一人は妹を奪い返そうとして拉致監禁の上殺された目黒公証役場事務長の住まい近くにおり、またオウムがサリン製造をしていた亀戸の建物が近かったために異臭が何であるかいぶかっていた。オウムを非難するチラシには何を大げさなという感想だった。チラシの文章が下手だったのだろうが、坂本堤弁護士、TBSテレビにしても似たような感覚であった。TBSテレビはメディアにあってはならない逸脱をした。坂本堤弁護士一家殺害事件の一因になった。

 日本の行政組織にしても似た認識をしていた。亀戸のサリン工場からの異臭の訴えがあって東京都江東区の関係部所が立ち入りを決めるとその前に設備を山梨県の施設に移してしまった。江東区役所は立ち入りの後もオウムへの措置をとらなかった。警察も同じである。オウムの事件に関連して警察の怠慢は大きい。事件がおきてからは大騒ぎする。政府はこの関連の危ない法律をつくりあげる。法律のよしあしは別にして事件の臭いを嗅ぎつけて未然に防ぐのが警察の正しい行為である。普通の法律の範囲でそれはできる。異臭騒ぎと住民からの訴えで十分ではないか。相模原市の特別養護施設やまゆり園事件では前兆が幾重にも明らかになっているにもかかわらず警察は動かなかった。

 世の中には思いもよらぬ事件が潜んでいる。ニューヨークの同時多発テロとオウム事件がそれであり、事実は小説よりも奇なりであることを見せしめた。

2018-09-03-facts-are-more-strange-than-the-novels-two-cases-article-editorial-

(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)


syokota2 at 10:11|PermalinkComments(0)

2018年09月03日

雲の上に浮かぶ郡上八幡城。事実は小説よりも奇なり 二つの事件。

事実は小説よりも奇なり 二つの事件
写真は本文とは連動しない挿絵です。

雲の上に浮かぶ郡上八幡城

syokota2 at 23:47|PermalinkComments(0)

2018年08月31日

カメラがどうした、レンズがどうしたという文章は説明文である。役立つとみえて万に達するアクセスが簡単に達成される。


ディラン峰(カラコルム山系、7,266m、世界93位)
火事場でニュースをどのように書くのか(ニュース報道の文章作成) 執筆 甲斐鐵太郎

 三島由紀夫は北杜夫に「白き」とするなら「たおやかなる」でなければならないと論じてきた。

(本文)


 火事場のどさくさでニュース報道をどのように書くのか。ちょっと考えると難しいことのように思える。しかし報道をするときに求められる記事要素、文書要素は簡単である。

 火事場に行かないまでも取材前に明らかなことがある。

 火事は何時あったのか。火事場は何処であるか。

これは火事場に行かなくてもわかっていることだ。

 つづいて次のことを確認する。

 火事は消されたのか。類焼中であるのか。火事で誰が被害を受けたのか。火事の火元は何処で誰の家だったのか。火事は何故発生したのか。それでどうなった。

 報道記事は次のことを要素にして構成する。

1、何時
1、何処で
1、誰が
1、何を
1、どうした
1、何故そうなった、なぜそうした
1、それからどうなった
1、同じことが起こったらいいのか、起こったら駄目なのか
1、良いことならそれをどのように広める、駄目なことならどのようにすれば起こらないか
1、ほか、関係する事柄

もう一度述べる。

 何時、何処で、はあらかじめわかっている。
 誰が、何を、どうした、の3項目を調べて書き込む。
何故、が追加されると内容がさらにわかる。

 上のことは創作力など要らない。見るがまま、あるがままを文章にすればよい。

 言ってみれば説明である。

 それからどうする、それからどうなった、がさらに追加されればもっとわかる。

上のようなことだ。

 写真があれば添える。報道は頃合いをみることも大事だが早いことは何よりも大事である。

 強者になると火事の報と聞いただけで上の要領で現場に行く前に記事をつくってしまう。現場では事実を確認して写真を撮るだけだ。

 読み物となれば人を面白がらせることが要素に含まれる。

 ノンフィクション小説は、事実を集めて積み重ねた文章である。下手な創作よりも事実は小説の奇怪さを超えることが少なくない。小説の奇怪さを超える事実を文章にして作り出されたのがノンフィクションだ。

 井伏鱒二の「山椒魚」はユーモア小説のようにみえるが皮肉や様々なことを人に伝える。松本清張の「点と線」は不思議さを紐解くことの面白さがある。「坊ちゃん」では勧善懲悪と破天荒とが組み合わさった江戸っ子の啖呵切りが痛快だ。

 ノンフィクションもそうでない小説も説明の文章になっていてはならない。ならないというよりも説明の文章は面白みがない。報道記事や論説記事は説明でよい。読む人が知りたいことがわかればよい。そのための記事である。

 世の中の文章慣れしない人が書いたものはただくだくだと説明している。カメラがどうした、レンズがどうしたという文章は説明文である。こうした文章が役立つとみえて万に達するアクセスが簡単に達成される。

 山登りの記録を綴ったのを山行記録という。面白い場所、危険な場所が記録されていることが大事である。山行記録は面白くないから北杜夫のような医者でもある小説家に同行が求められる。北杜夫は「白きたおやかな峰」を書いた。カラコルム・ディラン峰(カラコルム山系、パキスタン、7,266m、世界93位)のことである。三島由紀夫は「たおやかな」は表現としてはおかしい。「白き」とするなら「たおやかなる」でなければならないと論じてきた。北杜夫も三島由紀夫も母親のことを「お母さま」と呼んでいたと北杜夫がばらしている。ともに上流の家で育ったお坊ちゃまだったのだ。

2018-08-30-creating-sentences-in-news-coverage-tetutaro-kai-syokota-essay-measurement-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

syokota2 at 10:08|PermalinkComments(0)

2018年08月30日

火事場でニュースをどのように書くのか「デジタル計量ニュース・ディリーニュース」

syokota2 at 21:34|PermalinkComments(0)

報道をするときに求められる記事要素、文書要素は簡単である

火事場でニュースをどのように書くのか(ニュース報道の文章作成) 執筆 甲斐鐵太郎
(山行記録は面白くないから小説家北杜夫が同行して「白きたおやかな峰」を書いた)
火事場でニュースをどのように書くのかニュース報道の文章作成

ディラン峰(カラコルム山系、7,266m、世界93位)

火事場でニュースをどのように書くのか(ニュース報道の文章作成) 執筆 甲斐鐵太郎
(本文)
 火事場のどさくさでニュース報道をどのように書くのか。ちょっと考えると難しいことのように思える。しかし報道をするときに求められる記事要素、文書要素は簡単である。

 火事場に行かないまでも取材前に明らかなことがある。

 火事は何時あったのか。火事場は何処であるか。

これは火事場に行かなくてもわかっていることだ。

 つづいて次のことを確認する。

 火事は消されたのか。類焼中であるのか。火事で誰が被害を受けたのか。火事の火元は何処で誰の家だったのか。火事は何故発生したのか。それでどうなった。

 報道記事は次のことを要素にして構成する。

1、何時
1、何処で
1、誰が
1、何を
1、どうした
1、何故そうなった、なぜそうした
1、それからどうなった
1、同じことが起こったらいいのか、起こったら駄目なのか
1、良いことならそれをどのように広める、駄目なことならそのようにすれば起こらないか
1、ほか、関係する事柄

もう一度述べる。

 何時、何処で、はあらかじめわかっている。
 誰が、何を、どうした、の3項目を調べて書き込む。
何故、が追加されると内容がさらにわかる。

 上のことは創作力など要らない。見るがまま、あるがままを文章にすればよい。

 言ってみれば説明である。

 それからどうする、それからどうなった、がさらに追加されればもっとわかる。

上のようなことだ。

 写真があれば添える。報道は頃合いをみることも大事だが早いことは何よりも大事である。

 強者になると火事の報と聞いただけで上の要領で現場に行く前に記事をつくってしまう。現場では事実を確認して写真を撮るだけだ。

 読み物となれば人を面白がらせることが要素に含まれる。

 ノンフィクション小説は、事実を集めて積み重ねた文章である。下手な創作よりも事実は小説の奇怪さを超えることが少なくない。小説の奇怪さを超える事実を文章にして作り出されたのがノンフィクションだ。

 井伏鱒二の「山椒魚」はユーモア小説のようにみえるが皮肉や様々なことを人に伝える。松本清張の「点と線」は不思議さを紐解くことの面白さがある。「坊ちゃん」では勧善懲悪と破天荒とが組み合わさった江戸っ子の啖呵切りが痛快だ。

 ノンフィクションもそうでない小説も説明の文章になっていてはならない。ならないというよりも説明の文章は面白みがない。報道記事や論説記事は説明でよい。読む人が知りたいことがわかればよい。そのための記事である。

 世の中の文章慣れしない人が書いたものはただくだくだと説明している。カメラがどうした、レンズがどうしたという文章は説明文である。こうした文章が役立つとみえて万に達するアクセスが簡単に達成される。

 山登りの記録を綴ったのを山行記録という。面白い場所、危険な場所が記録されていることが大事である。山行記録は面白くないから北杜夫のような医者でもある小説家に同行が求められる。北杜夫は「白きたおやかな峰」を書いた。カラコルム・ディラン峰(カラコルム山系、パキスタン、7,266m、世界93位)のことである。三島由紀夫は「たおやかな」は表現としてはおかしい。「白き」とするなら「たおやかなる」でなければならないと論じてきた。北杜夫も三島由紀夫も母親のことを「お母さま」と呼んでいたと北杜夫がばらしている。ともに上流の家で育ったお坊ちゃまだったのだ。

2018-08-30-creating-sentences-in-news-coverage-tetutaro-kai-syokota-essay-measurement-

(写真と文は甲斐鐵太郎)



syokota2 at 16:23|PermalinkComments(0)

2018年08月28日

相手の気持ちが分かることだ.計測システムがわかることが計測の教養だ


ギンレイソウ  幽霊花ともいう 気味悪い花だが面白い
(タイトル)
計測システムがわかることが計測の教養だ

(本文)
 日本に近い国のある国の女性にヒステリーが多い。松本清張は森鴎外と夏目漱石の妻がヒステリーであったと伝える。森鴎外は妻を離縁して後妻を迎えた。夏目漱石は妻のヒステリーに悩まされた。二人が小説に没頭したのは悪妻から逃れるための方策だった。悪妻は文豪を生む。松本清張の妻は普通であるから自分は文豪になれないとオチをつける。漱石は精神疾患に苦しんだ。ヒステリーが高じると病院にはいったままで生涯を閉じることも別の偉人の事例で示す。ある不都合は人に偉大な仕事をさせる要因だ。

 ユダヤ人であるためにナチスドイツ時代には大学で教鞭をとれなかったジークムント・フロイト(Sigmund Freud)は精神科医として活動した。弟子のユングは同じユダヤ人であったがナチスに協力したために「国際心理療法医学会」会長の職にありついた。その職によってフロイトのイギリス亡命を手助けした。フロイトの兄弟はユダヤ人収容所で殺された。フロイトはギムナジウム時代に啓蒙的な教育を受け終生無神論者であった。宗教や宗教的なものを拒否した。このためにユングらと決別した。

フロイトは自然科学分野で育ち、その後に転じた精神医学に物理学の「エネルギー保存の法則」を持ち込んだようだ。フロイトは1895年(39歳)のときにヒステリーの原因は幼少期に受けた性的虐待の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。ヒステリー患者が無意識に封印した内容を回想し言語で表出するさせることで症状は消失させる治療法をつくりだした。現代もこの治療法が精神療法の基礎になっている。フロイトは脳神経の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の働きを実証的に説明できると信じた。当時の流行病で謎でもあったヒステリーの解明に挑んだ。

 インターネットにおける情報はトイレの落書きに似ている。より分けをしないと公的な組織が公的に発表している情報と、悪意をもって発表している情報との区別がつかない。米国大統領になったトランプが嘘情報、故意に流す嘘情報のことを社会の表にだした。ニューヨークタイムズをフェイクメディアだというから嘘と真の区別がつかない。ロシアと中国は米大統領選挙が自己に都合よくなるようにインターネットなどで情報を大量に送り込んだ。嘘と真は大体はわかる。安倍晋三氏が舌っ足らずで早口でしゃべる言葉はすべて政治の思惑による。首相の言葉のどこに真がどこにあるか。

インターネットの情報はトイレの落書きと同じである。欲望がそのまま表出する。フロイトの説く隠れた深層心理をここにみる。匿名性のトイレの落書きと発信者を特定できないインターネット情報は同じだ。匿名でなくても己(おのれ)の思いを強引に大量に世の中に振りまいて世の中を自己の思いの方向に向けようとする情報発信がある。

 読売新聞、朝日新聞、産経新聞など大手新聞社も客観報道を装っているがどこかに上に通じる。NHK元記者で大学で教鞭をとっている人も公共放送としてのNHKの凋落を伝える。記者はそのへんのアンちゃんでもつとまる。役所や企業が発表する資料をそのまま文章にすればいい。資料がデジタル文書であれば手間はいらない。横流しすることでNHK報道ができあがる。

知識はありとあらゆることがインターネットで集めることができる。ハーバード大学の有名講義を聴くことができる。首相の政治思惑から発せられる言葉で脳内が充満するのが日本人だ。政治はいつでも多数の者を愚者にするように働きかける。精神病院には知ったことのすべてを朝から晩までしゃべっている人がいる。

脳科学者の養老孟司氏は教養とは相手の気持ちが分かることだと述べる。計量計測の知識についても同じことがいえる。沢山の計量知識と技術を身につけることはよいことだ。それだけでは駄目で、その知識と技術を用いて製造やサービス分野の計測システムを築き上げることが大事だ。計測の教養とは計測システムを良く分かる能力のことだ。

syokota2 at 11:22|PermalinkComments(0)

2018年08月27日

州犬物語(125) 第125章 「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。執筆 横田俊英

第125章 「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。 執筆 横田俊英


胡麻毛紀州犬のメス犬です。この状態は黒ごまです。
やがて「ぬた毛」に移行します。「ぬた毛」とは、泥場から
きており、泥場から抜けて被毛が乾くと灰色になることから、
この色にちなんで「ぬた毛」と表現します。
下の胡麻毛のメス犬は2歳前ですが、やがて口の周りの
熊五郎のような黒いマスクは抜けてなくなります。


写真は紀州犬5歳半のメス犬。


紀州犬物語(125)「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。(横田俊英)

(タイトル)
「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。

和歌山県日高郡旧美山村村長の有色紀州犬復活のための取り組み。

(サブタイトル)
「姿芸両全」(しげいりょうぜん)の紀州犬を育てるために狩猟を始める。このときに鉄砲を持つようになった。狩猟に出かけるのは犬を鍛錬するためである。

第125章 「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬。 執筆 横田俊英



(タイトル)
「沈着怜悧にして大人しくあって猪猟では勇猛果敢」な紀州犬

(本文)

 「紀州犬の特色は沈着怜悧。普段は非常におとなしいが、猪猟につれていくと勇猛果敢、絶対に後ろに引かない烈しい性質を持っている」と述べるのは和歌山県日高郡旧美山村長であった池本功氏だ。

 当時の美山村(みやまむら)の人口は2,165人。和歌山県のほぼ中央の山間部に位置する。村のほとんどが山地であり、林業や備長炭の生産が行われている。少ない耕地が日高川本流および各支流に点在する。美山村は2005年5月1日に川辺町、中津村と合併して、日高川町となった。

 池本功氏は平成15年から三十数年前に、中津村の井原由蔵氏に「これは血統の良い犬だ。この犬を基礎として、紀州犬の原産地として血統を守ってくれ」と一頭のメス犬を託される。

 井原氏は日本犬保存会審査員、紀州犬保存会の審査部長として活躍した。紀州犬の「作出」でも全国に名を知られた人だ。池本氏はこの言葉を受けとめて「より良い紀州犬を育てようと決心する」。

 「姿芸両全」(しげいりょうぜん)の紀州犬を育てるのに必要と狩猟を始める。狩猟に出かけるために鉄砲を持つようになった。猟は犬を鍛錬するためだ。

 井原氏に託されたのがメス犬の「雪姫号」(ゆきひめごう)だ。「紀伊号」(きいごう)というオス犬を交配して誕生したのが白毛のオス犬「大力号」(だいりきごう・紀州美山荘)である。池本氏は「寒の一つ子」(かんのひとつご)であったこの犬を大事に育てた。

 「大力号」にまつわる伝説は多い。次がその中の一つだ。

 生後8カ月になった大力号は運動中に飼い主の制止を振り切って山の中に駆け込んだ。イノシシの臭いに大力号の本能が炸裂した。そうした能力が動き始めるころだった。

 日本犬がイノシシを追うときの闘争心はすさまじい。西郷隆盛が伊豆でイノシシ狩りをしたときに連れて行った薩摩犬は腹を割かれて腸が飛び出す。走るのに邪魔になる飛び出た腸を食いちぎってこの犬はイノシシを追った。直木賞作家の戸川幸夫氏が小説に取り上げている。

 自己の命を初めから考慮しない紀州犬の行動が大力号に出現した。もののふ(士)の命を知らない精神が紀州犬にはある。紀州犬は「沈着怜悧。普段は非常におとなしいが、猪猟につれていくと勇猛果敢、絶対に後ろに引かない烈しい性質を持つ」と池本功氏は述べる。

 沈着(ちんちゃく)とは、「落ち着いていて物事に動じないこと、またそのさま」の意。怜悧(れいり)とは、「賢いこと。利口なこと。また、そのさま」の意。「おとなしい」は大人しい、とも書く。そして温和(おとな)しい、とも書く。

 すべての紀州犬がイノシシを追うのではない。井原由蔵氏が述べたに「これは血統の良い犬だ。この犬を基礎として、紀州犬の原産地として血統を守ってくれ」という言葉にあるように、その本能は血筋の確かな紀州犬には宿っており、訓練によって狩猟の能力は開発される。池本氏は紀州犬の猟の訓練のために鉄砲を持ちイノシシを追って山に入る。

 本能に任せてイノシシに突撃する犬は反撃の牙に倒される。生後8カ月の大力号がそうであった。イノシシを追う訓練を積んだ犬はイノシシに噛みついては離れ、吠えてイノシシを留めては主人が駆けつけるのを待つ。これを吠え留めという。犬の牙でイノシシを倒すこともできないことではないが、犬の側の損耗が大きくなる。犬の性質によっては咬みに行くのや、吠えて咬みつかないのやらがいる。周りの先輩犬の行動は若い犬に影響し、これが訓練になる。どのような追い方をさせるかは考え方にもよる。

 大力号はイノシシに突撃して牙で腹を割かれる。池本氏は帰って大力号の治療をしたい。大力号は本能のままにイノシシを追い掛けて山の奥深く駈け入ったままだ。

 戻ってきた大力号は縁の下に潜り込んだ。大力号はそのまま1週間を過ごして傷を治してしまった。体力の消耗を極力防ぐことによって自然治癒力の働きを最大にして傷を治したのだ。池本氏は「原始の犬と言われる紀州犬のたくましさに驚いた」。

 大力号はその後、日本犬保存会の本部展覧会において、最高の内閣総理大臣賞を受賞(昭和49年11月23日、第61回本部展)する。そして多くの優秀な子孫を残す。

 紀州犬は白毛という印象が強い。紀州犬の9割以上が白毛になっていることによる。池本氏は有色紀州犬に優秀なのが多くいたことから、(平成15年時点から)十数年前に「昔のような獣猟にも展覧会にもいく紀州犬の復活」に取り組む。

 先祖に有色の血を引く池本氏の飼い犬の白毛の紀州犬のメス犬を基礎にして繁殖を始める。最初は白色、有色、斑(はん)の子犬が生まれた。何代かの交配を重ね平成15年には有色犬の出産に変わった。赤、赤胡麻、黒胡麻、ぬた毛などの毛色であり、池本氏の犬は昔の紀州犬の毛色であると評価される。

 池本氏は「今後、私だけでなく、紀州犬愛好家の方々に有色の血統と毛並みを守り、今少し有色紀州犬を見直していただきたいと願うところである」と述べる。そして「白色、有色を問わず、生きた文化遺産の天然記念物紀州犬の正しい血統の保存に向けて、なお一層の心配りを念じながら、山村生活に生きがいを求めている」。

 「一部猟師に使用されている有色紀州犬以外は白毛の展覧会オンリーの風潮に影響されて、白一辺倒になっている。さらに、喧騒(けんそう)な点も気にかかる。昔は有色の紀州犬がたくさんいた。むしろ、有色紀州犬に優秀な犬が多くいた」ことが池本氏をして有色紀州犬の「作出」に取り組ませた。

 「作出」とは新しい品種を作り出すこと」などの意味があるが、犬の世界では単純には繁殖の意味であり、日本犬の世界では望ましい状態を求めた保存することの意味が加わる。解釈は単純ではないから、大まかな意味として理解しておきたい。

 以上は、池本功氏の「原産地紀州犬とともに」と題して全国町村会の会報に掲載した町村長随想を題材にして、本稿の紀州犬物語にした。

 紀州犬のことを一言でどのように表現するか。池本功氏の言葉は経験が裏打ちする。

 すなわち

 「紀州犬の特色は沈着怜悧。普段は非常におとなしいが、猪猟につれていくと勇猛果敢、絶対に後ろに引かない烈しい性質を持っている」


(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)


syokota2 at 19:52|PermalinkComments(0)

2018年08月26日

旅のエッセー集。駅前をうろついているとレコード屋があった。

syokota2 at 20:40|PermalinkComments(0)

計測の目的と精密さの実現の整合(法律とその諸規定と社会の実情との矛盾が大きくなることは普通にある)

計測の目的と精密さの実現の整合
副題(日本の計量法とその関係法令や諸規定のあいだにも問題がないとはいえない)副副題(法律とその諸規定と社会の実情との矛盾が大きくなることは普通にある)

計測の目的と精密さの実現の整合
写真は本文とは連動しない挿絵です。

森の中に佇む八ヶ岳美術館
(タイトル)
計測の目的と精密さの実現の整合
(本文)
 計測といってもいろいろある。計測を誤魔化して社会制裁を受けた事例を考える。ニッサンの自動車検査におけるハンドル動作確認は実態にそぐわない古い規定が残っていてその通りにしなかったことが規定に反すると国の機関が問題にした。規定を変えて対処したらいい。規定と規則は目的と理念に照らして適合していないから悪いと決めつけるのは賢いことではない。法規定などをそのように解釈して運用する国がある。日本もそのような部分が多い。ときどき杓子定規の解釈をしないと役所と役人に責任があると責められることがあるから不自然が発生する。

 神戸製鋼所の製品性能にかかる計測値の偽装は桁違いに下位の部分までを表記する商慣行があった。指摘されて抗弁すると袋だたきにあうから改ざんとして受け入れる。別な偽装もあるから神戸製鋼所は胸を張れない。瑕疵などにつけ込んで銭が取るということで訴訟に持ち込むのがアメリカ社会である。米国で訴訟の火の手が上がるのをみて日本の検察は先回りした。神戸製鋼所の関係者はそのような経緯で起訴されて。つけ込まれる隙をつくったのは神戸製鋼所ある。他山の石として計測関係の企業は行動様式を確かめよ。

 計測の目的を一概にこうだと言い切ることは難しい。計測の目的と精密さの実現に整合が取れていることが大事だ。見栄をはって実現困難なそしてそのことに意味のない精密さの設定をしてはならない。併せて大事なことは計測を誤魔化さないことである。妙な計測値がでてくるところには原因がある。計測対象の異常、操作の間違い、計測器の故障などである。原因を突き止めて対処する。計測値を誤魔化してしまえば計測対象の異常が不明になる。通してはならない製品を次の行程に回す。完成品がただ一つの部品の異常によって不具合になる。

 日本の計量法とその関係法令や諸規定のあいだにも問題がないとはいえない。法目的と法令や諸規定に矛盾があることが多い。明瞭になればば改正する。改正にいたらない矛盾であれば運用で調整する。法律とその諸規定と社会の実情との矛盾が大きくなることは普通にある。社会が法律にしばれて社会の側が法律に折り合いをつける。矛盾が大きくなれば法律が社会の側に折り合いをつける。法が改正される。

 計量法の改正とその施行は大きくは上のようなことのどれかに当たる。片方を法適合とすると法適合の状態の片方が崩れる。そのような改正の内容がある。両刃(もろば)として守るべき側を傷つけるから注意を要する。

(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)



syokota2 at 11:06|PermalinkComments(0)

2018年08月25日

紀州犬物語35 第35章 犬が散歩に出るとき末っ子のマルも同様でうれしさのあまりに飛び跳ねてなかなかリードを付けさせない



紀州犬メス犬シロ(白)物語(35)(執筆 横田俊英)
第35章 犬が散歩に出るとき、そしてオシッコの仕方にも個性がある
(末っ子のマルも同様でうれしさのあまりに飛び跳ねてなかなかリードを付けさせない)

1、散歩に出る前の犬の仕草とオシッコの仕方の個性
 あれやこれやあって私のところでムーとウメとマルの3頭の紀州犬が暮らしている。紀州犬との暮らしは散歩散歩の毎日であり、散歩が暮らしそのものであるといってよい。
 散歩に出ないでいると紀州犬の気持ちは寝たきりの人と同じようにまどろんでしまって精気を失う。散歩に行くぞと引き綱(リード)をもって犬舎の前に立ったときの飼い犬の喜びようといたらない。目を輝かせて大きな伸びをして首輪を飼い主に寄せてくる。
 ボス犬のムーは直ぐにでもリードを付けたいのだけれでも幾分か照れてクルクルと何度か回転ダンスをしたあとで首を寄せてくる。末っ子のマルも同様でうれしさのあまりに飛び跳ねてなかなかリードを付けさせない。犬舎からでるとマルは小さい身体に似合わない力強さでグイグイと前に進む。オシッコは犬舎ですましていることが多いので草むらで立ち止まってチビッとだけする。

2、オス犬は片足挙げてポンピングのオシッコをする
 紀州犬オス犬のムーの場合には犬舎からでると草むらにまっしぐらで、そこで片足を挙げて水鉄砲を撃つように緩急つけて長い長いオシッコをするのである。
 同じ紀州犬でもメス犬の梅ちゃんは出かけるぞというと伸びをした後で首輪を差し向けてリードを付けさせる。その後は草むらまで歩くと腰を低く落としてジャーと短いけれども大量のオシッコを一気にしてしまう。

(掲載前に十分に読み返しておりません。変換ミスその他のことご容赦のほどよろしくお願いします)




syokota2 at 17:25|PermalinkComments(0)

2018年08月23日

福井市で路面電車をみる、駅前に昔のままのレコード屋があった

syokota2 at 10:03|PermalinkComments(0)

2018年08月21日

質屋山城屋の十三四のせがれ勘太郎を「鉢(はち)の開いた頭」と。

質屋山城屋の十三四のせがれ勘太郎を「鉢(はち)の開いた頭」と

日本人の頭骨の変化を計測値が示す


日本人の頭の形 余談 その1

 頭の形のことを夏目漱石と芥川龍之介がともに「鉢(はち)の開いた頭」として触れている。夏目漱石と芥川龍之介は師弟関係でもある。

 夏目漱石は「坊っちゃん」で、庭続きの質屋山城屋の十三四のせがれ勘太郎を「鉢(はち)の開いた頭」と表現する。

 その一節は次のような内容だ。

 勘太郎は弱虫の癖くせに四つ目垣を乗りこえて栗を盗ぬすみにくる。向むこうは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。「鉢(はち)の開いた頭」をこっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷あわせの袖の中にはいった。足搦(あしがら)をかけて向うへ倒たおすと勘太郎は自分の領分へ落ちて、ぐうと云った。おれの袷の片袖がもげたので母が山城屋に詫わびに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。

 芥川龍之介は「竜」で法師恵門の頭を「鉢(はち)の開ひらいた頭」と三度表現も述べた。

 興福寺の南大門のまえにある猿沢の池から竜が飛び立つという悪ふざけの立て札が本当になった話だ。 悪ふざけの立て札をだしたのは恵門と同じ坊に住む恵印法師である。「鉢(はち)の開ひらいた頭」とされた恵門のことが次のように述べる。

 片意地な恵門は竜などでるはずがないと、「鉢(はち)の開ひらいた頭」を聳(そび)やかせたまま、行きすぎようと致しましたが、恵印の挑発にのせられて立て札をみると「ははあ、そのような高札こうさつが建ちましたか」と気のない声で云い捨てながら、またてくてくと歩き出しましたが、今度は「鉢の開いた頭」を傾けて、何やら考えて行くらしいのでございます。立て札が評判になって集まった大勢のなかに恵門法師がいてあいかわらず「鉢の開いた頭」を一きわ高く聳やかせながら、鵜の目もふらず池の方を眺めて居るではございませんか。

日本人の頭の形 余談 その2

 夏目漱石と芥川龍之介がともに「鉢(はち)の開いた頭」と表現した内容は同一のことであろう。おそらくは蓮の花が咲きおわって実がなると上部が平で下部が萎(しぼ)んだ逆円錐形になる。漱石と龍之介はその状態を述べているのだろう。そのような頭の形をした日本人が大勢いる。大きく立派な頭の形である。

日本人の頭の形 余談 その3


日本の文芸人 千円札の夏目漱石


日本の文芸人 少し違った夏目漱石


日本の文芸人 芥川龍之介


日本の文芸人 森鴎外の横顔


日本の文芸人 正岡子規の横顔

 芥川龍之介は面長の顔立ちであり美男だ。夏目漱石は横に張った顔立ちであることが千円札の絵が示す。顎(あご)が張っている。芥川龍之介の頭蓋骨はどのように眺めても「鉢(はち)の開いた頭」ではない。

 夏目漱石は教頭の赤シャツのことを学士と言っているが松山中学では学士は漱石一人だけであり校長よりも給料が多かった。北杜夫の漱石全集への解説に書かれている。高等師範学校の教師から旧制松山中学に移り、一年で熊本の旧制第五高等学校に転じている。「坊ちゃん」のなかで漱石は自分のことを別な登場人物に移し替えて表現する。隣の質屋、山城屋のせがれ勘太郎の面立ちは或いは漱石自身のことを写しているのではないか。

 漱石は松山時代に帝国大学の学び仲間だった正岡子規と旧交をあたため、俳句の作句に熱をいれていた。正岡子規は結核が悪化して松山で病気と闘っている。子規は「坂の上の雲」にでてくる海軍士官の秋山真之とは松山中学と大学予備門で一緒だった。人の縁の妙である。

 芥川龍之介の写真は斜めからのものがあって後頭部の形をある程度みることができる。夏目漱石の写真はせいぜい浅い角度の斜めからのものであり後頭部はみえない。文豪というくくりで取り上げると森鴎外は完全な横からの写真があって張り出た後頭部と丸い頭の形が写されている。森鴎外が頭の形に自信があったことによる横からの写真撮影の承諾だったか、鴎外が医者で陸軍軍医局長(中将相当)であったことによるのか。森鴎外の頭の形はどのようにみても「鉢(はち)の開いた頭」ではない。

日本人の頭骨の変化を計測値が示す
写真は本文とは連動しない挿絵です。

モデルの前後に長い美しい頭

(タイトル)
日本人の頭骨の変化を計測値が示す
副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
副副題(計測値は雄弁だ 計測は知ることである)

(本文)

 アフリカ大陸のニグロには布を巻いて頭が前後に長くなるようにする部族がいる。前後に長い頭は美しいとされているからだ。ニグロには前後に頭が長い人々が多い。ヨーロッパ人の細い顔立ちで前後に長い頭をした女性モデルは美しい。

 骨は変わる。脳をいれる頭の骨の形も変る。日本人の頭の骨の形は変化してきた。縄文人よりも弥生人の方が頭が前後に長い。古墳時代にはさらに長くなって飛鳥時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、現代とつづくうち、鎌倉時代に頭の前後長は最大になり、その後また短くなった。長頭型の日本人の頭を鎌倉頭という。このさき日本人は顎(あご)が細くなり顔が長くなる。貴族顔の日本人が増える。日本人の顔の形と頭の形、つまり顔の骨と頭の骨の形は変化してきた。骨は変化する。

 2016年6月に韓国で長頭型の女性の頭蓋骨がみつかった。韓国人は総じて頭が前後に短い短頭型であるから不思議だ。発見された頭蓋骨は長さに対する幅の比率すなわち脳頭蓋長幅示数は75(75%)であった。現代の韓国人は85%前後である。鎌倉時代の日本人の脳頭蓋長幅示数は74あるいは75ほどだった。

 長頭型の女性の頭蓋骨はかつて新羅王国(紀元3から10世紀)の都として栄えた慶尚北道南東部に位置する慶州市で出土した。新羅の成立の100年ほど前は、中国で魏・呉・蜀が覇権を争う三国時代であり、朝鮮半島の人々の頭の形は前後に短い短頭型であることが知られていた。朝鮮半島で新羅が成立した時代に日本に暮らす人々の頭の形は前後に長い長頭型であった。倭国と新羅は抗争するなか和平の状態では交易もした。争いかつ親善もする100年を遥かにこえる期間に倭国と新羅の人は移動し定住もあったが、一つの出土だけの資料は推理の手立てにしかならない。

 鎌倉時代の人々が長頭型であったことは鎌倉幕府の本拠でも東京の中心部などから出土した頭蓋骨の調査によっても明らかだ。

 鎌倉幕府の本拠界隈では由比ヶ浜中世集団墓地遺跡、極楽寺遺跡の発掘で頭骨を含み1,500体もの人骨が出土しの調査がされている。状態のよい57体の頭骨を骨聖マリアンナ医科大学解剖学教室と日本大学松戸歯学部解剖人類形態学講座との共同研究チームが計測した。同チームは東京の中心部の鍛冶橋遺跡と丸の内両遺跡は16世紀かさかのぼっても室町 時代中期以降と推定される。鍛冶橋遺跡の17体、丸の内両遺跡の14体の男性頭蓋骨を計測している。

 鎌倉市には鎌倉から室町時代前期の材木座遺跡があって頭骨の計測値と北部九州・山口地方の吉母浜遺跡出土した成人男性頭蓋の計測値はこの時代の脳頭蓋長幅示数が長頭型であることを示す。

 脳頭蓋長のその幅(顔の幅)と長さ(頭の前後長)の実寸を示す。脳頭蓋最大長(頭の前後長)は極楽寺遺跡中世人で187.8mm。鍛冶橋遺跡中世人は184.2mm。丸の内遺跡中世人は183.8mm。脳頭蓋最大幅(顔の幅)は由比ヶ浜南遺跡(単体埋葬)139.8 mm、極楽寺遺跡139.3 mm、鍛冶橋遺跡139.8 mmであった。吉母浜遺跡中世人の脳頭蓋最大幅(顔の幅)は135.9mmであり関東の中世人が北部九州中世人よりも大きい。横幅と前後長とも大きい。

 これら脳頭蓋の計測調査では容積は示していない。ここでは脳が脳頭蓋(頭蓋骨)のどのように収まるかということと脳の容積あるいは質量と脳の働きや脳機能はここでは対象にしない。

 日本人は顔貌と骨格は縄文時代ののち渡来人と混血して一度変化し、以後はそのままの状態で推移していると考えられていた。この定説をくつがえしたのが鈴木尚氏である。同氏は東京大学医学部で解剖学をおさめたあとで理学部に移って人類学を研究していた。昭和26年に大学の解剖標本室を訪れると変った頭骨が21個あった。探すともう2つでてきた。これが鎌倉時代の遺跡からでた頭骨であった。

 頭骨は現代の日本人のよりも後頭部の長さが倍ほどにもみえた。「大正2年、東京市鍛冶橋の橋を架け替えるために掘ったところ、橋のたもとから骨が出たもの」と書かれていた。鈴木尚氏は東京のど真ん中で出土した骨から「今とは違った顔をしていた日本人がいたのでは」と考えて調査を始め、それが鎌倉時代の頭骨であることを突きとた。鎌倉時代の長頭型の脳頭骨によって頭の骨の形は変わることを明らかにした。東京大学医学部教授で解剖学を担当していた養老孟司氏も鈴木尚氏の考えの側に立つ。

 鎌倉時代の中世人の奥歯はすり減っていた。どのような要因が頭の骨と顔の骨の形に作用するか明確ではない。現代の人は固いものをかまないから顎(あご)の骨が細い。徳川将軍は代がすすむにつれて顎は細くなり顔が長くなった。いわゆる殿様顔である。各藩の藩主も同じである。よい容姿つまり美女とは細面(ほそおもて)であっことから将軍家に生まれる子はそのようになった。

 顔が細くなり顎(あご)が尖ってしまうと永久歯は顎に収まらない。全数の歯のを自然に生やすためには固いものをかんで顎を発達させるしかない。子どもにはスルメをかませたらいい。

 計測しなくてもみればわかる。日本人の顔と頭の骨の形は時代によって変わる。変化を数字が雄弁に語る。数字は計測による。計測は知ることであった。

2018-08-11-measurement-values-indicate-changes-in-Japanese-skull-

(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)



syokota2 at 09:48|PermalinkComments(0)

2018年08月20日

年がら年中、毎朝毎晩、主人は白い犬のことを考えております。

紀州犬物語(120)二つの白い犬がいる海辺の光景。波間を月が漂い満天の星が犬と人の暮らしを照らす。(横田俊英)
(タイトル)二つの白い犬がいる海辺の光景。波間を月が漂い満天の星が犬と人の暮らしを照らす。
(サブタイトル)東京湾をわたるアクアラインが房総半島に届いたところに二匹の犬と夫婦の暮らしがあります。
第120章 二つの白い犬がいる海辺の光景。波間を月が漂い満天の星が犬と人の暮らしを照らす。 執筆 横田俊英

写真は房総半島の海辺の景色。
青い海と青い空そして陸の緑。


漁港に漁船が停泊する昼下がり。


波乗りをしている人がおります。


砂浜を散策する人。


浜昼顔が咲いています。


アクアラインの夕景。東京に向かう。左が東京湾の入り口方面。


(本文)

 白い犬を飼う、ある人の1日です。

 見てきたことですから、それをそのままに書き記します。

 白い犬を飼う人の一つの事例です。

 この人が飼っている白い犬の犬種を無理矢理に聞き出しますと、キシュウとかキシューとかいう音が聞こえてきました。そのような犬なのでしょう。

 この人は飼っている犬はどのような種類でもよいような顔ぶりをしますが、少し突っ込んで聞くと白い毛の犬に特別な愛着があり、話せば尽きないほどの蘊蓄(うんちく)をもっているのです。

 夫婦の二人暮らしのこの人のところには二つの白いメス犬がおります。

 東京湾をわたるアクアラインが房総半島にとどいた場所に夫婦は家を借りて、二つの犬と暮らしております。

 年金暮らしが板についた年齢のこの夫婦は、東京の一等地に家を持っております。そして家作があります。これらを人に貸して家賃収入と年金で老後の暮らしをたてております。内房の住まいは借家暮らしです。

 この夫婦が初めて白い犬を飼い始めたのは随分昔のことです。

 白い犬を飼いたいとこの方面に詳しい人に依頼したのでした。

 それから犬が手元にくるまでに一年もの間がありました。

 頼まれた人は「あのメス犬なら良い子犬を生む」と目星をつけている犬がおりました。その犬が子どもを生むまで待つのですから、一年は過ぎてしまいます。

 夫婦は待っている間は「何故だろう」と訝しく(いぶかしく)ありました。

 依頼を受けて良い子犬を見つけだそうとする人にしてみれば、白い犬だからといって全てがそれに相応しくはないことを知っているので、何でもかんでもお構いなしに「白い犬です」とポイと渡すことはできないことなのです。

 それでも依頼を受けた人が子犬を選び出すのは賭のようなことです。ああすれば、こうなるという論理が単純にとおるのではないのが生き物の世界です。だから賭のようなのものなのです。人の子でも犬の子でもこの論理で処理できるほど遺伝は単純ではありません。

 確かな犬であると思っても小犬選びは賭けと同じだと依頼を受けた人は思っていながら、いくつかの条件を満たす小犬が生まれてくるのを待っていたのです。

 子犬を頼んだ夫婦にしてみれば白い犬であれば何でも良い、とどこかで生まれている子犬を早く欲しいと思っていたのです。そしてオス犬が欲しいと希望を伝えたのです。しかしオス犬ではなくメス犬を飼うように、と強く勧められて同意するしかありませんでした。

 子犬を依頼した人は、東京の街角を白い大きなたくましい犬を連れて歩くのが夢だったのです。渋谷で育ったこの人は幼いころのそのような風景が頭に残っていたのかも知れません。忠犬ハチ公の物語が犬への思いの下敷きになっていたのです。

 ふしょうふしょう承諾したメス犬の選択でありましたが、飼ってみると奥さんが世話をするにはメス犬がちょうど良かったのです。そのころは娘さんが同居していて一緒に犬の世話をするのですから、メス犬を飼ったことは家族との折り合いの面からも都合がよかったのです。

 飼っているメス犬はやがて子を生んだのです。

 そのなかに一匹の頭の大きなオス犬がおりました。

 主人は白い犬のオスを飼いたいという念願を生まれたオスの子犬で実現します。

 それから親子二匹の犬がいる生活が長くつづきます。

 その犬は寿命を全うして今はその孫とひ孫の二匹のメス犬が夫婦に寄り添って暮らしております。

 メス犬は望めば子を生ますことができます。オス犬は余程のことがないと子孫を残すことは難しいのです。望まれてということでの交配とその後の子孫としての子犬の誕生に結ぶ付くオス犬は希です。

 子孫を残すことの壁はメス犬はオス犬に較べてはるかに低いのです。

 最初に子犬がやってくるまでの時間の長いこと、夫婦は首を長くして待ちました。

 その間に夫婦は幾つかの犬の見学をしました。見学であるという意思が相手に伝わらず、子犬を譲り受けにきたのだと勘違いされて気まずくなったことがありました。

 良い子犬というのは偶然に巡り会うことができることもありますが、この方面に習熟した人の
幾つかのことを満足させすせるとなると簡単ではありません。依頼を受けた人は経験を元に子のいぬならということで一匹のメス犬を選び出したのです。

 生まれている子犬から選ぶというのではなく、その前の段階の母親選びにあったのです。そうです、あの犬の子なら、ということです。

 夫婦とその家族には待ちに待った白い犬の子犬です。嬉しくてなりません。

 庭でコロコロ転げ回る子犬を見ては、嗚呼(ああ)可愛い、手元に寄ってくると嗚呼うれしいということで、大いにかわいがり、楽しくてならない子犬との生活でした。

 そのような子犬時代は生後せいぜい六カ月ほどです。

 八カ月にもなるとメス犬は子を生むことができるようになります。

 生後八カ月というのは白い犬の世界では「若犬」と呼ばれます。

 見慣れない人には生後八カ月の犬は立派な大人の犬ですが、犬飼の世界では海のモノか山のモノか大体のことがわかる程度の時代です。

 依頼を受けて犬を渡し、その後の経過をみていた人は、そのメス犬が良くできていると判断して、白い犬を展覧会に足を運ぶことを勧めます。

 展覧会という較べっこ、競い合いの世界があることなど知らなかった夫婦でしたが、展覧会のリングの雰囲気に興奮し、数入る犬のなからら入賞犬に選ばれるて賞状と楯やカップを渡されるのが嬉しくてなりません。

 なぜ入賞したのか分からなくても飼い犬が賞を貰えばうれしくなります。飼い犬が特別優秀な犬に思えて、朝晩の散歩にも力が入り、ブラシ掛けや濡れタオルで体を拭く日課が嬉しいと思うようになります。

 出れば賞のカップや楯が手元にやってくるのですから嬉しくて嬉しくて、ついついこの世界にのめり込んでいったのです。

 夫婦が白い犬を飼うようになったころのこの世界は較べっこをする催しは盛り上がっておりました。

 春と秋の較べっこの季節には都合10回ほどは会場に足を運ぶの常で、その会場では犬よりも人が興奮して舞い上がっておりました。育てている飼い犬は素性が良いこともあって、沈着冷静で堂々として較べっこの輪の中で佇まいを整えている犬でした。

 その白いメス犬は飼い主の期待に応えて何度も地域の最高の誉れの賞を受けたのです。

 そのような犬のいる暮らしが続いていると前述のように、メス犬はやがて子どもを生み、その子犬がこの家に残る(残す)ということになります。そのようなことが続いてきて、いま何代目かの白い犬が二ついるのです。二つの犬はともにメスです。

 白い犬を飼うようになってから夫婦の生活は犬が中心になりました。

 東京の一等地の住宅街で二つの犬を飼っていると、犬を運動させるのに苦労します。狭い住宅地の歩道を散歩させるのですから随分と気遣いをします。

 よりましな犬の運動の時間ということで、午前4時に起きて4時半には飼い犬を運動につれだします。冬でも夏でもこの時間に犬を運動につれだします。仕事の前に犬の世話をすましてしまう、ということが朝が早い理由でもあります。

 一生懸命に働き年金受給を折り目に主人は仕事から退き、犬との暮らしが房総半島に家を借りて営まれるようになりました。

 ともに東京生まれであり、とくに繁華街で暮らしてきた主人にとっては田舎暮らしは憧れでもありました。夫婦は房総半島の外側の先のほうに最初は住みました。それから内側に移りました。三度目は20分も走れば東京に辿り着くアクアラインの近くに移ったのです。東京方面での用事が多い夫婦にはこの地がちょうど良いのです。

 内房のこの地に移っても主人は朝4時に起きることは変わりません。

 習い性になっているのです。そのころになる飼い主の気持ちを見透かして二つの犬が散歩にでたいと啼くのです。この声を聞くと飼い主は寝ていることができません。はいはい、というように犬の要求に従ってしまいます。そうしてはならないと理屈では考えていても、体が声に反応してしまうのです。

 そのようにして房総半島の海辺の小高い丘で夫婦とメス犬二つの暮らしが営まれております。

 犬を運動に連れ出すのは主人の分担ですが、奥さんも実際にはその半分ほどをします。。

 飼い犬がクーン啼けば、主人は「おうよしよし」と庭に出て電動アシストの自転車の荷台にリードをゆわえてペダルを漕ぎます。

 畑と田圃のある広々とした内房の平野を犬の歩調にあわせてユラユラと自転車を走らせます。白い犬が二ついるのでこれを繰り返します。一回は奥さんがすることもあります。散歩が終わると風呂に入って朝の食事です。これでもまだ朝の八時です。人に時間は沢山あるように見えますが、犬を飼っていると空き時間は思ったほどはありません。

 犬には排泄という生理現象がありますから、夕方にはもう一度これをします。飼い犬がオシッコをして、ウンチをする暇(いとま)を与えて、それをしてもしなくても一定の時間を犬のために費やします。夕方には歩いて散歩にでることが多いのですが、犬を鍛えるときには夕方も電動アシストの自転車を使って野を走ります。

 奥さんは庭先の畑で少しばかりの菜園を営み、食事や洗濯をして過ごすとやがて夜になります。飼い犬に声を掛け、食事をやり、ときには少しの運動をさせて過ごす夫婦の一日です。

 食事を用意して、これを三回食べてということをしていると、今日一日何をしていたのだろう思うことがあります。自転車で犬と一緒に野をノロノロと走っているのが俺の暮らしなのか、と苦笑することがあります。一生懸命に働いてきた俺の人生は「これで良いのだ」と割り切ってみます。

 犬が二ついて、朝と晩に散歩に連れ出すとなると、これで人の生活時間は満杯になります。

 犬を飼うことでは長い経験をもつこの家の主人です。

 犬を外へ連れ出すと、白い犬はこうありたい、ああありたい、と考えます。

 あの犬は良かった。それに対してこの犬はここがもう少しだ。

 こうなっていればいいのに、といったことを考えながらユラユラと自転車を漕いでいるのです。

 白い犬を飼ってからこのような暮らしをずっと続けております。房総に住まいを移してからは犬との関わりが濃密になりました。

 年がら年中、毎朝毎晩、主人は白い犬のことを考えております。

 白い犬のことを考えることがこの主人の楽しみのようです。

 景色を眺めて、犬のことを考えて散歩をしているのです。

 このとき飼い主の心は満たされているのです。幸せな気分の充満です。

 犬が飼い主である自分が望んでいるような容姿になること。犬が、しっかりした気性を備えていること。心身ともに頑健であること。といった願いを犬にかけております。飼い犬がそのように育っていると嬉しくて誇らしいのです

 こうした満足、そして嬉しさ、誇らしさはこの白い犬を飼う人々が共通してもつようであります。

 芥川賞作家の近藤啓太郎さんは、ご自身の暮らしぶりを『犬バカ物語』として本にしております。

 二つの犬を飼う夫婦の暮らしは『犬バカ物語』と同じなのです。

 主人は夜には酒を飲み、奥さんがこれにつきあい、プロ野球のテレビ観戦をし、午後9時には就寝します。

 日が落ちてふけゆく内房の住まいの窓の外では二つの犬は散歩を夢見て寝ております。

 犬には熟睡はありませんから寝たような様子をして犬は飼い主を警護しているのです。

 満月は波間にゆらいで東京湾の上空をめぐります。月のない晴れた夜には星が海に映り、夜光虫と一緒になってキラキラと光ります。

 いつものように一日を過ごした人と犬は心穏やかです。

 海辺の裏の林ではフクロウがホーホーと啼いて夜が過ぎていきます。


(誤字、脱字、変換ミスなどを含めて表現に不十分なことがある場合はご判読ください。)




syokota2 at 20:44|PermalinkComments(0)

2018年08月19日

紀州犬の歩調は人によく調和する。人に馴染み、ある程度は犬に馴染んで、普通の家庭で家族とともに平和に暮らすことができる犬でありたい。

紀州犬物語(85) 紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。執筆 横田俊英。
(タイトル)
紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。(紀州犬の歩調は人によく調和する。)
第85章 紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。執筆 横田俊英



紀州犬の飾らない心と行動を日本の風土が生んだ。
(紀州犬の歩調は人によく調和する。)




 猫より少し大きいほどの犬を飼っていれば大抵は平和である。

 人が好きになる犬は移り変わる。特別に犬に関心をもたない人でもあのころは世の中にあの犬があふれていた、ということを幾つか思い浮かべることができると思う。

 紀州犬が大人気になったのは昭和の終わりころであった。その少し前が人気の絶頂であった。

 小さい犬は大きな犬より力が小さい。どこにいても大して目障りではないから二〇一三年のいまころはこの小さな犬を飼う人が多い。

 猫より小さな犬がよく飼われるようになった。猫くらいの犬か猫より少し大きいほどの犬を飼っていれば大抵は平和である。

 紀州犬のオスのたくましさはそのまま美しさにつながる。
 (メスには優しさは別の意味での美しさである。)


 紀州犬はオスとメスとでは身体の大きさが違う。

 その差は一回りというよりは二回りといったほうが了解しやすいというのが、実際に紀州犬を飼っている人の間の素直な気持ちであろう。このように言ってもそれを素直にというか、ある実感をもって受けとめられないのが、初めて犬を飼う人である。

 紀州犬のオスとメスの差をどのようにとらえるか。

 動物としての美しさということではその差を問うことはできない。

 オスのたくましさはそのまま美しさにつながる。

 私が飼っているオス犬を外に出して構えさせるとその格好良さ、たくましさにほとんどの人が感嘆の声を上げる。

 メスには優しさが宿う。筋骨が発達するということではない。どことなく優しさが全体を包む。ここにも別の意味での美しさがある。

 紀州犬はオスとメスとが総合していてこれを紀州犬というのであるから、どちらがいいかという問いに答えを用意することはない。

 身体が小さいからメスが良いということであれば、身体が小さい犬種を選べばいい。

 大きいからオスが良いというのであれば、身体が大きな犬種を選ぶことである。

 紀州犬の大きさはオスの体高は52センチメートルであり、これから上下に3センチメートルを基本とする。

 メスの大きさ(体高)は、49センチメートルでありこれから上下に3センチメートルを基本とする。メスの場合には標準体高49センチメートルにとどきにくい傾向だ。

 紀州犬の歴史の伝承が教義に変わり宗教の形式をとる事例がある。

 紀州犬の歴史のことはこれを学ぶことは大事である。その歴史の真実と実際と、これの伝承との間にズレがないか、心許ない。語られる歴史がいつの間にかある形に固まって、これが教義となり、その教義によって宗教のようなものが形成される。そのようにして出来上がっている教義やその延長の宗教のようなものがいくつかあるようにも思われる。

 紀州犬の気性の在り方、形の在り方については、その基本は日本犬標準のうちの紀州犬標準に求めることになる。その内容にはここでは触れない。

 ともあれそうしたことの一つの結果は、人に馴染み、ある程度は犬に馴染んで、普通の家庭で家族とともに平和に暮らすことができる犬である、ということになる。

 そのような犬であっても何かあれば他人に責任を求めるのが今の日本の社会風潮であるから、飼い犬を人に触らせない、飼い犬を余所の犬と接触させない、ということを押しとおすことが大事である。絶対にそのようにして欲しいと思う。

 私の場合にもそのようにしている。例外としてその犬を良く知った人には触らせる。留守中に代わりに世話をお願いしている人などだkら当然といえば当然である。

 紀州犬を知りたいといって見学にきた人にも、犬と人の相性などを注意深く観察し、試験してから、その犬との散歩の行動させて、紀州犬を知らしめる。

 聞きかじりの論理を振る舞わしていて、これに答えのような説明をしても反応が定かでない人は、紀州犬と縁を結んではならない人だと判断することになる。

 日本人の観念にしみついたそれをぬぐい去ることは私の仕事ではないし、その人の考えを変えることはその場において簡単にできないことである。

 よい犬は人の心にしみる。よい紀州犬は心にしみる。

 犬は人の心にしみる存在であるかも知れない。よい犬は人の心にしみる。

 私の心にしみるのは紀州犬である。

 柴犬だってそうであるだろう。

 紀州犬の歩調は人によく調和する。

 人と歩いてその歩調がほんとうに人と良く調和する。これが紀州犬である。

 ラブラドールなどは歩くと腰を振り振りのモンロー歩きになり、柴犬はチョコチョコ歩きである。

 これが紀州犬では違う。後足を蹴ると腰が真っ直ぐにスッと前にでて、前足を後に蹴ると同じように身体が真っ直ぐに前にスッとでる。それも人の歩調にあってスッとでるのである。

 紀州犬のこのような歩き方になれると西洋犬の大きな犬ののっしのっしで、腰を振り振りは受け入れられないのだ。

【写真】(下)は生後10カ月の紀州犬のオス犬の歩く姿。身体はこれより少し大きくなります。


 普通の日本人の何気ない生活のそのそばに紀州犬がいて、犬がいるためによるものといってよい散歩の習慣ができて、散歩に犬を伴う。

 滅多にないよい気分の朝もある。よい気分の朝ではなくても、犬を連れだして外と空気を吸って、歩みをすすめると身体が軽くなり、頭の澱(おり)も落ちる。

 紀州犬には家庭犬も、ほかの用途の飼い方の区別もない。

 日本の風土で日本人と共に生きてきた犬の一つが紀州犬である。

 その紀州犬を伴って生活することは何気ない日本人の暮らしによく調和する。

 飾らないそのままの姿と行動が日本の風土が生んだ紀州犬である。

 人が犬と暮らす、ことは何気ない状態である。

 人の暮らしにある種の伴が欲しいときにそれが犬であることがある。

 紀伊半島でイノシシ猟をよくするために残されてきた犬が紀州犬であった。

 そしてその伴に紀州犬を選ぶこともある。

 紀州犬は縄文の犬ではないようであるが、縄文の時代にも似たくらいの大きさの犬がいた。

 紀州犬は朝鮮経由で伝来した犬であり、弥生時代に日本に来たことになっている。その真実のほどは私にはわからない。

 紀伊半島でイノシシ猟をよくするために残されてきた犬が紀州犬であった。

 その犬が現代につながっていて、それが私たちが飼う紀州犬である。

 紀州犬を飼う多くの人々がいることで現代の紀州犬が成立する。

 紀州犬に対する考え方がいろいろあっても、紀州犬がいなければ将来の紀州犬もない。

 ある血液の純粋性を信じて、それに絶対的な価値を求める状態がある。

 ある血液の純粋性を信じて、それに絶対的な価値を求める、という状態がある。

 ある犬種団体の牽引者は、近親交配を思い切って実施して、そこから望ましい犬を残していくのは一つの方法だ、と説いてこれを実行していた。ごく少数の犬しかいない場合にはそのようなこともしなくてはならないかも知れない。

 しかしこれを連続することはできない。その後にはできの悪い犬と思われる犬との交配を交えて行かなくてはならないのである。

 平岩米吉氏とシェパードの飼育、そして近親交配の事例。

 日本犬保存会の創立に貢献した平岩米吉氏は、シェパードの飼育者でもあった。

 シェパードのメス犬「イリス」は、同胎犬を交配して生まれた。「イリス」は驚くほどの知能を持ち、また狙いの一つであった姿の美しさも際だっていた。この犬は精神のある種の異常性をもち、1歳5カ月にきた初発情では、心臓衰弱の状態になった。身体の薬などへの過敏症をもっていた。心身ともに特別な状態にあり、先祖犬が噛障事故を起こしたことがないのに「イリス」は嫉妬などのために飼い主の家族を噛んだ。

 「イリス」などシェパードの遺伝と犬の性質と性能のことを平岩米吉氏は実際の飼育を通じて観察してこれを記録して、考察して文章にして本を残している。

 「イリス」は、「チム」というシェパードのオス犬の俊敏、聡明、忠実、姿を遺伝的に残存させる目的で繁殖した。

 「チム」は、父子の交配によって生まれた。ことは当然のことメス犬のことである。その「チム」の種を宿す同胎犬のうちからオスとメスを選んで交配して、「チム」が生まれた。

 「チム」の父親と母犬は他に五頭の同胎犬がいた。「イリス」は一頭だけ生まれた。チムはそのご一度に十頭の子犬を生んだ。

 犬のよい資質を子孫に残し、それを確かな状態にするという強い望みは正当である。望みが正当であっても、それを実現する方法を吟味して実行することでないと、禍根を残す。

 得難い猟性能に引きつけられると、この犬の子孫を残したくなるのは当然なことだが、ついつい交配が近親の血液によって濃くなってしまうようだ。

 平岩米吉氏の「イリス」は、「チム」というシェパード犬の近親交配があったのは昭和16年ころのことである。

 「チム」はフィラリアで死に、「イリス」の父親もフィラリアで死んだ。このころ若くして死ぬ原因はフィラリアであった。

 「イリス」の母親は「イリス」が10カ月のときに突然死した。解剖すると心臓に3匹の小さなフィラリア3匹と大きなのが1匹いたがこれが原因ではなく、また心臓肥大もあったがこれが原因ともいえない突然死であった。

 犬が死ねば解剖して原因究明するのが平岩米吉氏の常であり、これはフィラリアの予防がその主な目的であった。

 「イリス」などシェパードの遺伝と犬の性質と性能のことを平岩米吉氏は実際の飼育を通じて観察してこれを記録して、考察して文章にして本を残している。

 平岩米吉氏は亀戸の竹問屋に生まれた人である。美術を志し、文学をして、犬の研究にも没頭し、フィラリアの撲滅にきっかけをつくっている。

 狼の研究は自分で朝鮮狼など幾種類かの狼を実際に飼った。

 狼を飼いならして犬と同じように街を歩いてもそれが狼であると気付く人がいなかったことを伝えている。

 犬の精神の遺伝、それは行動の遺伝でもあり、この遺伝性をシェパードの繁殖を通じて幾つもの事例を記録している。

 犬と食事。

 その犬が動物性タンパク質を多く摂らなくても大概の大きさと体型の犬として成長することも確かめている。

 ドッグフードの宣伝では栄養素などのことにふてて、ああすればこうなると説く。動物や犬の身体など構成要素を通じて割り出した食事の内容を用意する事例がある。それでもよい。しかしそうでなくてもよい。

 犬に自分でつくった完全手作りの食事を与えるのだと宣言して、犬を飼ったいた人がいる。結構ですね、と答えるしかない。それよりも犬の仕合わせは飼い主と一緒に散歩することである。その人は犬が三歳になるころに病気で死んだ。その犬の引き取りを求められたある人は仰天するとともに途方に暮れた。

 犬と食事に関係してはアレルギーのことがあるので、このことは試行錯誤を要する。何もなければそれで良いことになり、何かあれば対処しなければなならない。

 汝、明日をわずらうことなかれ。

 犬の身体から発せられるある種の成分が人のアレルギー反応を引き起こすことがある。あるときまではこれがなくても、どこかの時期を節目にこれがおきることがある。

 今はよい。そのよい状態がつづけばよいが、続かないこともある。

 犬の事故死。人の病気。人の都合。ほかである。

 難しく考えると犬を飼うことができない。

 「汝、明日をわずらうことなかれ」とはキリストが述べている言葉である。生きているときにはこの程度の緩みをもっていて良いのであろう。


(読み返しておりません。誤字、誤変換、その他の不都合をご容赦ください。)

syokota2 at 10:25|PermalinkComments(0)

2018年08月16日

紀州犬を飼う老夫婦の生活の伴として、ついでに畑の作物を盗み取る猿やイノシシ除け

紀州犬物語(111)山の中で暮らす老人世帯で飼われる紀州犬。  執筆 横田俊英。

(タイトル)
山の中で暮らす老人世帯で飼われる紀州犬。
(紀州犬を飼う目的として、老夫婦の生活の伴、というのがあり、このついでに山間部の畑の作物を盗み取る猿やイノシシ除けということが含まれることがあります。)
第111章 山の中で暮らす老人世帯で飼われる紀州犬。 執筆 横田俊英


 山の中で暮らす老人世帯で飼われる紀州犬。


(タイトル)
山の中で暮らす老人世帯で飼われる紀州犬。

(本文)

 紀州犬を飼う目的として、老夫婦の生活の伴、というのがあり、このついでに山間部の畑の作物を盗み取る猿やイノシシ除けということが含まれることがあります。

 静岡県の天竜川の上流の長野県境にある歳いった夫婦の場合がそうでした。

 天竜川にせり出した高い山のその上の更に上に蚕を育てていた家があって、そこで二人の歳いった夫婦が暮らしておりました。

写真下は浜松市佐久間(旧佐久間町)の山間部で暮らす紀州犬のオスの子犬。(10月21日撮影。)


 昔あった桑畑は茶畑に変わっていて、少しの平たい場所には食糧になる作物が植えてありました。背面の山に猿がいることは確実ですし、イノシシは畑に出現するのです。

 その夫婦の家の立地といいますか、その場所は犬を散歩させようとしても歩くに適しておりません。自動車道路に出るには急な坂を下らなくてはなりません。その坂を下ろうとするとつまずいて転んでしまいます。

 静岡県旧佐久間町の山間の歳いった夫婦の暮らしと紀州犬。

 このような暮らしがあり、そこに生活の伴としての犬が求められ、その犬が猿やイノシシが畑の作物を盗むのを防ぐことになるのであれば、それはそれでよいのであろうと、思いました。

 私の住まいでも垣根の向こうの畑にイノシシが出てくるのです。飼い犬がワンワン吠えるときにはイノシシが畑に出てきていることが多いのです。

 犬が飼われているとイノシシや猿は敬遠してその畑にはあまり出てきません。

 家の近所には探知機を備えた軽自動車に乗った猿撃退隊が定期的に回ってきます。

 猿やイノシシが畑の作物を荒らすことへの対応は、予想をこえて大変であり、その悩みはことのほか大きいのです。

 天竜川が狭まった山間の静岡県の旧佐久間町(現在は浜松市になっております)の農家の建物に住む歳いった夫婦に紀州犬のオスの子犬は馴染んでおり、とりあえずは良い関係にあるりました。

 岐阜県の長良川の上流の旧高鷲村での紀州犬と人の暮らし。

 もう一つは岐阜県の長良川の上流の旧高鷲村(現在の郡上市高鷲)に住む人のところで飼われている紀州犬のメスの子犬のことです。

 この家は富山に高速道路が抜けていく高鷲インターから3分ほどのところにありました。

 家族が働きにでているので、昼はお祖母さんが一人で家で過ごすのです。

 そのような家に紀州犬のメス犬がいて、家族に馴染んで伴となれば良いことであると思います。

写真下は旧高鷲村で暮らす紀州犬のメス犬。(11月17日撮影。)



 そのような気持ちで紀州犬を求めてきたのでした。高鷲の人も紀州犬のオス犬が欲しい、ということでした。私はお祖母さんと一緒に暮らすのであればメス犬のほうが良いですよと説きました。その言葉がを受け入れられて、この高鷲の人はメス犬を飼うことになったのです。

 先の浜松市佐久間の人は、どうしてもオス犬がいいのだ、ということで私のメスの推奨を拒絶するのでした。人にはいろいろの体験とその思いがあるのです。

 二組の飼い主ともども、寒い地で耐えられる犬が望みであるということでした。

 紀州犬は南に位置する紀伊半島に残っていたということで、どうしても南の方の犬という思い込みがあります。だから寒さに耐えられるかということを心配するのです。

 犬は好きにさせておけば、暑いのも寒いのも嫌いで人が生活して快適な場所に移動してくつろぎます。

 寒いのには平気なのが紀州犬です。

 紀州犬は日本列島の南でも北でも暮らすことができます。

 寒いのにはへっちゃらで氷点下6度がつつき、水入れの氷がとけ溶けない状態でも普通に暮らすことができます。

 暑い場所に長時間いると人が熱射病で死んでしまうことがあります。犬も同じようになります。

 紀州犬は寒さに耐えます。へっちゃらです。

 紀州犬に限らず、暑いのが好きな犬などおりません。人が耐えられないような暑さの中で犬を飼うことがあってはなりません。

 真冬の氷点下6度がつづく庭の隅の犬舎で、犬は身を縮めて寒さをこらえているといいますか、私のところではそのようにして暮らしております。

 ここで取り上げている紀州犬を飼う二つの事例をみて、犬の散歩を強く説くことはできませんでした。

 そのようなところで飼われる犬は性質が良いことがとくに望まれます。そして健康であることも望まれます。ついでにいえば紀州犬らしい格好良さが備わっていればいうことなしです。

 郡上市高鷲の人の犬は私の自慢の飼い犬のメスの子供であり、その家に出向いてその母犬と父犬と飼い主との対面をしたのでした。子犬と対面をさせても母犬は子犬を噛むことがありますから、事故を避けるために接触はさせません。

 子犬は農家の庭で母犬に似た尾を天空に立てて遊んでおりました。

(深い考えなしに書いたものであり、読み返しておりません。誤字などについてはご容赦ください。)

(不適切な表現があればそれは意図したことではありません。ご容赦ください。)

紀州犬物語153 気迫と威厳、忠実と従順、飾り気のない気品と風格、これが齋藤弘吉氏の日本犬観である。(横田俊英)


syokota2 at 16:46|PermalinkComments(0)

2018年08月15日

ユーチューブの音楽ソースをBOSEの小さなアンプで再生して楽しもう

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎
(緊張の山路を下って温泉のある山小屋に流れる都はるみの歌にこれが平和なのだと思う)
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」は大音量で都はるみが。

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」の内湯は濁り湯。

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ。

(タイトル)
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎

(本文)

 音楽を聴く。車でかけていたCDは面白くないものだった。「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」という音楽だ。機会があって家のオーディオにそのCDを載せたら面白かった。静寂を表現するシンフォニーを騒音が混じる車のなかで聴くのは音楽の持ち味を消すことだった。

 クラシックのオーケストラの音は小鳥の小さな小さなさえずりを表現することがある。「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」はそのような音楽だった。シンセサイザーによって演奏する音楽だから彩り豊とは言いにくい。「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」はそういう音楽だった。

 「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」をかけたのは安らぎを醸すためであった。穏やかな旋律の流れはいたずらな刺激しない。急に大音量になったりアップテンポに切り替わることがないこの音楽は呼吸に調和し身体を緩やかな状態にする。

 ユーチューブの音楽ソースを再生して楽しもうと考えてBOSEの小さなアンプと金網で囲われた本ほどの四角いとスピーカーにアンプを組み込んだ大ぶりのウーハーの組み合わせて使った。パソコンのスピーカーの音とは比べものにならない良い音がでる。

 これを弾みにパソコンを据えてあるところにはオーディオを配置した。ノートパソコンを持ち運んでは機器につないで音楽を聴きユーチューブの動画もみる。

 捨ててしまおうと考えていた小さなスピーカ−を鳴らすとモヤッとしている。それならばと少し大きいのを持ちだす。なかなか良い。ヤマハのスピーカーの名のとおったのは素人のオーディオファンを満足させるには十分だ。

 アンプは10台をこえる数がある。一人では持ち上げることができないほどのNECのアンプは別荘に運ぼうと玄関先まで移動したが何年もそのままだ。

 組合わせて使うヤマハの30僖Α璽蓮爾組み込まれた1000という数字のスピーカーは単体で31kgもあうから二階にはとても持ち上げる気力はない。アンプも重すぎるから同じだ。素直な音のこのアンプと30僖Α璽蓮爾付いた金網の保護が付いたのとを組合わせて使っていた。スピーカーは家具の上に隙間があったので横にしてあった。降ろすのも面倒だからアンプは下において使うことになりそうだ。置き場がないとはいえ重いスピーカーをよくも持ち上げたものだ。火事場のバカ力にであった。

 オーディオと音楽のことで印象深いことがある。

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りてテント泊した。これが二泊目。真上で雷が炸裂する夜を過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。テント泊がつづくと披露する。山が嫌になって行程を半ばにして伊東新道を青嵐荘まで下った。

 伊東新道はこの夏の下山から4年後には廃道となった。登山地図に明瞭に記載された登山路であるから道の荒れ具合に首をかしげた。伊東新道を下ったのは1979年の夏のことである。このときすでに廃道といってもよい状態であった。川沿いの高巻は傾斜がきつい上に踏み跡がない。砂が崩れれば遙か下の湯俣川に墜落する。ザイルの携行などない登山であるから運を天にあずけての下山であった。現在(2018年8月現在)伊東新道を再建する動きが伝えられているが、伊東新道の現状ルートが途中でとぎれている。

 湯俣温泉の晴嵐荘の空には青空が広がっていた。晴れた午後の山小屋で人心地ついた。

 晴嵐荘では都はるみのレコードを大音量で流していた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだと思った。それは娑婆はよいということなのかも知れない。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。そのオーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。誰はばかることなく大音量で都はるみを流しているその無邪気さがよかった。婆さんが「あなたのお母さんは身体が大きな人でしょう」といった。その通りなのだが何故わかるのだろう。湯晴嵐荘は代替わりして営業している。俣温泉はで営業しているのは現在は青嵐荘だけである。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた虫をひょいとつかまえて何々だと説明する。虫をみるために晴嵐荘に滞在したのだろう。青嵐荘を下ったところに葛温泉があり、その先に高瀬ダム。高瀬ダムは大町につながる。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への湯俣温泉に下った。余った日数を葛温泉でくつろいだ。大町は立山(たてやま)登山、剱岳(つるぎだけ)登山ほかで何度も足を運ぶことになった。

2018-08-13-2-harumi-miyako-and-audio-of-yumata-seiran-sou-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎
福井市で路面電車をみる、駅前に昔のままのレコード屋があった 執筆 甲斐鐵太郎
九頭竜ダムと恐竜と大野市 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎








syokota2 at 12:27|PermalinkComments(0)

2018年08月14日

怖い思い出。北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

室堂の高い山から南西の方角にみえる薬師岳。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

北アルプスの再奥地の楽園の雲ノ平。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎岳とそのカールのもよう。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎小屋。三角屋根の小屋は印象に残る。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

三俣蓮華岳と三俣山荘。オーナーは伊東正一氏の一族。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

1979年当時「晴嵐荘」は都はるみが大音量。


北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

湯俣温泉「晴嵐荘」の食堂のようす。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

(本文)

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りた。真上で雷が炸裂する夜をテントで過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。この間もうかれこれ三泊。夜行寝台で上野駅から富山駅に移動したのであるが、準備の疲れがあった。槍ヶ岳に向かう行程を切り上げて伊東新道を青嵐荘まで下った。1979年夏のことであった。

 伊東新道はこの下山から四年後に廃道になった。伊東新道は登山地図には明確に書かれた道であった。道の状態はこのときすでに廃道といってもよかった。川沿いの傾斜がきつい高巻は砂地になっていて、上から崩れている状態がつづき、踏み跡を確かめることができなかった。靴を垂直に置けない傾斜した砂地は脆く、いつ滑るか知れない。砂の斜面は遙か下の湯俣川に崩れ落ちていた。疑いをもたないほどに明瞭に印刷された伊東新道に首を傾げても、危険はその状態を理解できないまま地図を信じている気持ちがつづいた。地図の記載は過去にあった事実である。この事実は情報なのであるが、事実が変わっているから情報は書き換えなければならない。このことへの理解が不足した。一般人の一般的な登山の行程にこのように地図にある情報が事実と違うことなど想定されなかった。

 1983年に伊東新道は廃道になった。ある橋が壊れたことによる。2018年8月の時点で、伊東新道を再建する動きがあるがまだ一般の人の登山ルートにはなっておらず熟達者でも難しい。

 伊東新道から槍ヶ岳に登るルートとしての選択は現在はない。湯俣温泉から湯俣川を直ぐに左にとって北鎌尾根に向かうルートは登山者の憧れの対象であった。北鎌尾根コースはあとでふれる。

 伊東新道を使って三俣蓮華岳に向かう登山者は少なかった。登山者が少ない山道は荒れる。荒れた果てに廃道となった。登山者が少ないのには理由があった。バス事情といった社会的な理由と吊り橋など登山道維持のための自然にまつわる理由の二つが相乗作用した。

 登山者が少ない伊東新道は荒れた。登山雑誌では伊東正一氏の英雄的な活躍をもてはやしていたことと、登山地図に明瞭に記載された登山路である。情報は登山雑誌と登山地図に限定される。この情報を信じ込んでいるから山小屋の管理人に確認することなど思いもよらない。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊したため登山道としては利用できなくなった。利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊東新道はその後2017年ころ雲ノ平山荘のオーナーによる伊東新道の探索・登山をしている様子をNHK が放送した。道だったところには木が生い茂っている。とても道とは思えない状態だ。探索したのは伊東新道を開いた人の子孫であった。山なれした人でも手を焼く難所になっていた。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊するなどしてして通常の登山道としては利用できなくなった。あえて利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊藤新道は湯俣温泉から湯俣川に沿って遡上し三俣山荘に至るルートである。伊藤正一(1923年から2016年6月17日)氏が1956年に開いた。途中、湯俣川をに5つの吊り橋を架けていた。伊藤正一氏が経営する三俣山荘屋、雲ノ平山荘への補給路として使われていた。その後北アルプス奥地への資材運搬がヘリコプター利用にかわった。物資輸送路としての使われない伊東新道は1983年に吊り橋が崩壊したことによって廃道になった。

 その状況はどうだったか。湯股川に架かる第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地は巨大な岩が崖上50m以上にわたって連なっている。2009年時点ではlpmp巨岩は崩壊していなかった。それが2010年には崩壊した。影響で流れが変わって大激流になったためにわたれなくなった。

 地図情報あるいは雑誌情報はいつでも過去のものである。この情報は現実には追いつかない。山と渓谷誌2010年8月号は、第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地の崩壊前の情報を掲載している。川を渡ることができるといているのだが、巨岩の崩落で川は激流となったために渡ることができない。通過するには高巻きすることになり、さらにロープ(ザイル)を使っての5m懸垂下降が加わる。普通の登山者が足を踏み入れてはならない道に変わった。

 谷地の登山道はいつでも崩落がつづいている。もろい岩肌そして砂地は絶えず崩れている。崩壊地以外の登山道も人が通らないから樹木に覆われるなどする。道とがいえないほどに荒れている伊東新道である。だから一般登山者は近づいてはならない。熟達者でも通行の危険は崩壊がつづいていることなどもあって極度のものである。

 北鎌尾根ルートからの槍ヶ岳登山は憧れの対象であった。少しの岸壁経験でやれると生意気をすると泣きをみる。山歩きをして一年か二年で岩登りの真似事をした男がベテランと二人で北鎌尾根ルートで槍ヶ岳に登ろうとした。疲労と恐怖が頂点に達して岩稜にへたり込んで泣きだした。登山はいつでも英雄主義がつきまといわが身を省みずに雑誌の世界の英雄に自分を写すことがある。生意気かつ軽薄な男の北鎌尾根でのざまであった。

 湯俣から吊橋を渡り湯俣川との合流点を水俣川沿いの道をとって進めば北鎌尾根ルートにさしかかある。現在の北鎌尾根ルートはかつての伊藤新道と同じように崩壊が進行している。上流の吊橋は落ちていて一般道としても面影は全くない。千丈沢と天丈沢の合流点を含めて千天出合(せんてんのであい)までの行程のの崩落は激しい。岩稜と岸壁の登山の技術を要する北鎌尾根よりも途中の崩壊地を通過することのほうがが難しい。

 登山地図に明瞭にルート表示されていてもそれを真に受けてはいけない。その情報は過去のものである。情報が地図に記載されたその翌日に事実は変化しているかも知れない。1979年夏に地図を首をかしげながらの伊東新道の下山路であった。

 恐怖に震えての伊東新道下山を経験した。岩稜登山は手足三カ所を付けていれば安定は確保できる。下は奈落の底の急斜面であれば踏み跡の消えた砂地を歩くことは運を天に任せたものであった。くわばわくわばらの下山路であった。

 このような危険に遭遇するくらいなら槍ヶ岳をへて上高地に向かうのであった。

 伊東新道はなぜ崖崩れと吊り橋が壊れて廃道をよぎなくされたのか。関係者が要因を指摘しているのでそれを拾い上げて考察をする。

 伊東新道は昭和28年から着工、3年後の昭和31年秋に完成した。この道を使って7年がかり(昭和38年)で三俣山荘と雲ノ平山荘が建てられた。登山路は北アルプス最奥地へのルート開拓とあわせて山小屋設営が目的であった。

 昭和54年、高瀬ダムの完成で大量の水を貯水したことにより付近の地下水面が上がった。ダム周辺の山全体が膨らんで崩れやすくなったのである。湯俣の谷も各所が崩壊、桟道も落ちた。湯俣川のあちこちから出ている亜硫酸ガスは吊り橋のワイヤーを腐食させる。昭和44年からの高瀬ダムの工事により登山者が激減した。ダムゲートでの交通の制約とともに大町からのバスが廃止された。このために高瀬からの入山者がさ激減した。

 登山者が大きく減ると登山道は廃れる。伊東新道はて5つの吊り橋の全部落ちてしまった。昭和58年には通行困難な状態に陥り廃道となった。

 雲ノ平に下る三俣蓮華岳の麓(ふもと)に行くには、上高地からと烏帽子から行く二つの道があった。どちらからでも二日がかりである。悪天候になればさらに日数が増える。往復には四日かかる。ヘリコプターで資材を運搬するのはのちに始まったことである。戦後すぐのころには人が荷を背負って行くしかなかった。山小屋を建てるためには一日で登れる道が求められた。

 戦後一年目の昭和21年、伊藤正一氏が湯俣川を下ったのち谷全域を調査するために七年間を費やした。伊東新道の建設工事着工は昭和28年である。ダイナマイトによって岩壁を打ち砕いて道をつけた。三年後の昭和31年秋に伊東新道は完成した。

 昭和38年になって三俣山荘と雲ノ平山荘が完成する。ボッカ(歩荷)による資材の運び上げであった。伊東新道が開通してから七年がかりの建設工事であった。三俣山荘ならびに雲ノ平山荘は北アルプス最奥地に安全に分け入ることに大きな役割を担った。山小屋は暴風雨から登山者の身を守るのに欠かせない。ことに大衆登山が普及するほどに山小屋のもつ意味は大きくなる。山小屋があることによって小さな装備で迅速に北アルプスを歩くことができる。

 北アルプスの槍ヶ岳をめざしての大縦走コースの裏銀座登山路はづっと槍ヶ岳を眺望する。遠くに浮かぶ槍ヶ岳ほど神々しい山はない。伊東新道は湯俣川の谷に深くはいるまでは槍ヶ岳をみながら歩くことができる。湯俣川の槍ヶ岳眺望の地である展望台までのコース、つまり三俣山荘から片道二時間の道が整備されている。往復四時間のコースで槍ガ岳の眺めを堪能することができる。険しい硫黄尾根の景色は圧巻である。鷲羽岳の森林の緑は雄大である。湯俣川はさまざまな水の色をみせる。

 伊東新道の復活のための取り組みがなされている。つくってもまた崩れるという状態の湯俣川沿いの道である。尾根筋つまり稜線の道は安定しているが、谷筋の道は壊れやすい。上高地にむかうターミナルの地、沢渡に橋が架けられて新道が通ると、旧道はすぐに崩れ落ちた土砂で道が消えてしまった。

 ダムをつくると流れ込む川筋の地下水位が上がって膨張現象が発生して、思わぬ事象を引き起こす。日本の谷は深く急峻であり崖はつねに崩れている。手の施しようがないとえる。上高地の玄関口の釜トンネルの下流の梓川の崩落現象をみればわかる。

 湯俣温泉に一つだけ開いている晴嵐荘は青空の下にあった。山小屋で人心地ついた夕食には山菜の天ぷらがでた。晴嵐荘では都はるみのレコードを大音量で流していた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだとしみじみと思った。オーディオもよいものだととも。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。オーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。だれはばかることなく大音量で都はるみを流しているその無邪気さがあった。1979年夏のことである。湯俣温泉は晴嵐荘だけが営業してた。いまも同じである。少し下ったところにある湯俣山荘があるがずっと営業はしていない。

 命を運に預けるような崩壊した伊東新道を下って青嵐荘で生きた心地になる。都はるみのレコード大音量で流しているを無邪気な青嵐荘の老夫婦であった。これは平和な光景なのかも知れない。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた。虫をひょいとつかまえて何々だと教えてくれた。虫をみるために山を歩き晴嵐荘に立ち寄ったのであった。宿泊者はこの人だけであった。湯俣川の下流には葛温泉がある。その先は高瀬ダムである。川は大町に流れ下って不思議な大迂回ををして川中島を流れて行く。その先は信濃川となって日本海に注ぐ。山道には昆虫に目を向けている人もいるのである。25歳を超えない青年であった。昆虫の知識をどのようにして得て、興味をどのようにつなげているのだろう。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への下山であった。余った日取りを葛温泉でのくつろぎに費やした。大町は立山(たてやま)登山、剱岳(つるぎだけ)登山ほかで何度も足を運ぶことになった。

2018-08-13-2-in-the-summer-of-1979-ito-ruto-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎
福井市で路面電車をみる、駅前に昔のままのレコード屋があった 執筆 甲斐鐵太郎
九頭竜ダムと恐竜と大野市 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

syokota2 at 14:57|PermalinkComments(0)

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」は大音量で都はるみが。

syokota2 at 14:32|PermalinkComments(0)

2018年08月13日

鎌倉時代は長頭型の脳頭骨であった。日本人の顔と頭の骨の形は時代によって変わる。変化を数字が雄弁に語る。

日本人の頭骨の変化を計測値が示す
副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
副副題(計測値は雄弁だ 計測は知ることである)
日本人の頭骨の変化を計測値が示す
写真は本文とは連動しない挿絵です。

モデルの前後に長い美しい頭
(タイトル)
長頭型の日本人の頭を鎌倉頭という。骨は変わる。脳をいれる頭の骨の形も変る。日本人の頭の骨の形は変化してきた。

日本人の頭骨の変化を計測値が示す
副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
副副題(計測値は雄弁だ 計測は知ることである)
(本文)
 アフリカ大陸のニグロには布を巻いて頭が前後に長くなるようにする部族がいる。前後に長い頭は美しいとされているからだ。ニグロには前後に頭が長い人々が多い。ヨーロッパ人の細い顔立ちで前後に長い頭をした女性モデルは美しい。

 骨は変わる。脳をいれる頭の骨の形も変る。日本人の頭の骨の形は変化してきた。縄文人よりも弥生人の方が頭が前後に長い。古墳時代にはさらに長くなって飛鳥時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、現代とつづくうち、鎌倉時代に頭の前後長は最大になり、その後また短くなった。長頭型の日本人の頭を鎌倉頭という。このさき日本人は顎(あご)が細くなり顔が長くなる。貴族顔の日本人が増える。日本人の顔の形と頭の形、つまり顔の骨と頭の骨の形は変化してきた。骨は変化する。

 2016年6月に韓国で長頭型の女性の頭蓋骨がみつかった。韓国人は総じて頭が前後に短い短頭型であるから不思議だ。発見された頭蓋骨は長さに対する幅の比率すなわち脳頭蓋長幅示数は75(75%)であった。現代の韓国人は85%前後である。鎌倉時代の日本人の脳頭蓋長幅示数は74あるいは75ほどだった。

 長頭型の女性の頭蓋骨はかつて新羅王国(紀元3から10世紀)の都として栄えた慶尚北道南東部に位置する慶州市で出土した。新羅の成立の100年ほど前は、中国で魏・呉・蜀が覇権を争う三国時代であり、朝鮮半島の人々の頭の形は前後に短い短頭型であることが知られていた。朝鮮半島で新羅が成立した時代に日本に暮らす人々の頭の形は前後に長い長頭型であった。倭国と新羅は抗争するなか和平の状態では交易もした。争いかつ親善もする100年を遥かにこえる期間に倭国と新羅の人は移動し定住もあったが、一つの出土だけの資料は推理の手立てにしかならない。

 鎌倉時代の人々が長頭型であったことは鎌倉幕府の本拠でも東京の中心部などから出土した頭蓋骨の調査によっても明らかだ。

 鎌倉幕府の本拠界隈では由比ヶ浜中世集団墓地遺跡、極楽寺遺跡の発掘で頭骨を含み1,500体もの人骨が出土しの調査がされている。状態のよい57体の頭骨を骨聖マリアンナ医科大学解剖学教室と日本大学松戸歯学部解剖人類形態学講座との共同研究チームが計測した。同チームは東京の中心部の鍛冶橋遺跡と丸の内両遺跡は16世紀かさかのぼっても室町 時代中期以降と推定される。鍛冶橋遺跡の17体、丸の内両遺跡の14体の男性頭蓋骨を計測している。

 鎌倉市には鎌倉から室町時代前期の材木座遺跡があって頭骨の計測値と北部九州・山口地方の吉母浜遺跡出土した成人男性頭蓋の計測値はこの時代の脳頭蓋長幅示数が長頭型であることを示す。

 脳頭蓋長のその幅(顔の幅)と長さ(頭の前後長)の実寸を示す。脳頭蓋最大長(頭の前後長)は極楽寺遺跡中世人で187.8mm。鍛冶橋遺跡中世人は184.2mm。丸の内遺跡中世人は183.8mm。脳頭蓋最大幅(顔の幅)は由比ヶ浜南遺跡(単体埋葬)139.8 mm、極楽寺遺跡139.3 mm、鍛冶橋遺跡139.8 mmであった。吉母浜遺跡中世人の脳頭蓋最大幅(顔の幅)は135.9mmであり関東の中世人が北部九州中世人よりも大きい。横幅と前後長とも大きい。

 これら脳頭蓋の計測調査では容積は示していない。ここでは脳が脳頭蓋(頭蓋骨)のどのように収まるかということと脳の容積あるいは質量と脳の働きや脳機能はここでは対象にしない。

 日本人は顔貌と骨格は縄文時代ののち渡来人と混血して一度変化し、以後はそのままの状態で推移していると考えられていた。この定説をくつがえしたのが鈴木尚氏である。同氏は東京大学医学部で解剖学をおさめたあとで理学部に移って人類学を研究していた。昭和26年に大学の解剖標本室を訪れると変った頭骨が21個あった。探すともう2つでてきた。これが鎌倉時代の遺跡からでた頭骨であった。

 頭骨は現代の日本人のよりも後頭部の長さが倍ほどにもみえた。「大正2年、東京市鍛冶橋の橋を架け替えるために掘ったところ、橋のたもとから骨が出たもの」と書かれていた。鈴木尚氏は東京のど真ん中で出土した骨から「今とは違った顔をしていた日本人がいたのでは」と考えて調査を始め、それが鎌倉時代の頭骨であることを突きとた。鎌倉時代の長頭型の脳頭骨によって頭の骨の形は変わることを明らかにした。東京大学医学部教授で解剖学を担当していた養老孟司氏も鈴木尚氏の考えの側に立つ。

 鎌倉時代の中世人の奥歯はすり減っていた。どのような要因が頭の骨と顔の骨の形に作用するか明確ではない。現代の人は固いものをかまないから顎(あご)の骨が細い。徳川将軍は代がすすむにつれて顎は細くなり顔が長くなった。いわゆる殿様顔である。各藩の藩主も同じである。よい容姿つまり美女とは細面(ほそおもて)であっことから将軍家に生まれる子はそのようになった。

 顔が細くなり顎(あご)が尖ってしまうと永久歯は顎に収まらない。全数の歯のを自然に生やすためには固いものをかんで顎を発達させるしかない。子どもにはスルメをかませたらいい。

 計測しなくてもみればわかる。日本人の顔と頭の骨の形は時代によって変わる。変化を数字が雄弁に語る。数字は計測による。計測は知ることであった。

2018-08-11-measurement-values-indicate-changes-in-Japanese-skull-

(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)






syokota2 at 09:17|PermalinkComments(0)

2018年08月12日

鈴木尚氏は鎌倉時代の長頭型の脳頭骨によって頭の骨の形は変わることを明らかにした

日本人の頭骨の変化を計測値が示す
副題(鎌倉時代の日本人の頭は前後に長い形をしていた)
副副題(計測値は雄弁だ 計測は知ることである)

(本文)

 アフリカ大陸のニグロには布を巻いて頭が前後に長くなるようにする部族がいる。前後に長い頭は美しいとされているからだ。ニグロには前後に頭が長い人々が多い。ヨーロッパ人の細い顔立ちで前後に長い頭をした女性モデルは美しい。

 骨は変わる。脳をいれる頭の骨の形も変る。日本人の頭の骨の形は変化してきた。縄文人よりも弥生人の方が頭が前後に長い。古墳時代にはさらに長くなって飛鳥時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代、明治時代、現代とつづくうち、鎌倉時代に頭の前後長は最大になり、その後また短くなった。長頭型の日本人の頭を鎌倉頭という。このさき日本人は顎(あご)が細くなり顔が長くなる。貴族顔の日本人が増える。日本人の顔の形と頭の形、つまり顔の骨と頭の骨の形は変化してきた。骨は変化する。

 2016年6月に韓国で長頭型の女性の頭蓋骨がみつかった。韓国人は総じて頭が前後に短い短頭型であるから不思議だ。発見された頭蓋骨は長さに対する幅の比率すなわち脳頭蓋長幅示数は75(75%)であった。現代の韓国人は85%前後である。鎌倉時代の日本人の脳頭蓋長幅示数は74あるいは75ほどだった。

 長頭型の女性の頭蓋骨はかつて新羅王国(紀元3から10世紀)の都として栄えた慶尚北道南東部に位置する慶州市で出土した。新羅の成立の100年ほど前は、中国で魏・呉・蜀が覇権を争う三国時代であり、朝鮮半島の人々の頭の形は前後に短い短頭型であることが知られていた。朝鮮半島で新羅が成立した時代に日本に暮らす人々の頭の形は前後に長い長頭型であった。倭国と新羅は抗争するなか和平の状態では交易もした。争いかつ親善もする100年を遥かにこえる期間に倭国と新羅の人は移動し定住もあったが、一つの出土だけの資料は推理の手立てにしかならない。

 鎌倉時代の人々が長頭型であったことは鎌倉幕府の本拠でも東京の中心部などから出土した頭蓋骨の調査によっても明らかだ。

 鎌倉幕府の本拠界隈では由比ヶ浜中世集団墓地遺跡、極楽寺遺跡の発掘で頭骨を含み1,500体もの人骨が出土しの調査がされている。状態のよい57体の頭骨を骨聖マリアンナ医科大学解剖学教室と日本大学松戸歯学部解剖人類形態学講座との共同研究チームが計測した。同チームは東京の中心部の鍛冶橋遺跡と丸の内両遺跡は16世紀かさかのぼっても室町 時代中期以降と推定される。鍛冶橋遺跡の17体、丸の内両遺跡の14体の男性頭蓋骨を計測している。

 鎌倉市には鎌倉から室町時代前期の材木座遺跡があって頭骨の計測値と北部九州・山口地方の吉母浜遺跡出土した成人男性頭蓋の計測値はこの時代の脳頭蓋長幅示数が長頭型であることを示す。

 脳頭蓋長のその幅(顔の幅)と長さ(頭の前後長)の実寸を示す。脳頭蓋最大長(頭の前後長)は極楽寺遺跡中世人で187.8mm。鍛冶橋遺跡中世人は184.2mm。丸の内遺跡中世人は183.8mm。脳頭蓋最大幅(顔の幅)は由比ヶ浜南遺跡(単体埋葬)139.8 mm、極楽寺遺跡139.3 mm、鍛冶橋遺跡139.8 mmであった。吉母浜遺跡中世人の脳頭蓋最大幅(顔の幅)は135.9mmであり関東の中世人が北部九州中世人よりも大きい。横幅と前後長とも大きい。

 これら脳頭蓋の計測調査では容積は示していない。ここでは脳が脳頭蓋(頭蓋骨)のどのように収まるかということと脳の容積あるいは質量と脳の働きや脳機能はここでは対象にしない。

 日本人は顔貌と骨格は縄文時代ののち渡来人と混血して一度変化し、以後はそのままの状態で推移していると考えられていた。この定説をくつがえしたのが鈴木尚氏である。同氏は東京大学医学部で解剖学をおさめたあとで理学部に移って人類学を研究していた。昭和26年に大学の解剖標本室を訪れると変った頭骨が21個あった。探すともう2つでてきた。これが鎌倉時代の遺跡からでた頭骨であった。

 頭骨は現代の日本人のよりも後頭部の長さが倍ほどにもみえた。「大正2年、東京市鍛冶橋の橋を架け替えるために掘ったところ、橋のたもとから骨が出たもの」と書かれていた。鈴木尚氏は東京のど真ん中で出土した骨から「今とは違った顔をしていた日本人がいたのでは」と考えて調査を始め、それが鎌倉時代の頭骨であることを突きとた。鎌倉時代の長頭型の脳頭骨によって頭の骨の形は変わることを明らかにした。東京大学医学部教授で解剖学を担当していた養老孟司氏も鈴木尚氏の考えの側に立つ。

 鎌倉時代の中世人の奥歯はすり減っていた。どのような要因が頭の骨と顔の骨の形に作用するか明確ではない。現代の人は固いものをかまないから顎(あご)の骨が細い。徳川将軍は代がすすむにつれて顎は細くなり顔が長くなった。いわゆる殿様顔である。各藩の藩主も同じである。よい容姿つまり美女とは細面(ほそおもて)であっことから将軍家に生まれる子はそのようになった。

 顔が細くなり顎(あご)が尖ってしまうと永久歯は顎に収まらない。全数の歯のを自然に生やすためには固いものをかんで顎を発達させるしかない。子どもにはスルメをかませたらいい。

 計測しなくてもみればわかる。日本人の顔と頭の骨の形は時代によって変わる。変化を数字が雄弁に語る。数字は計測による。計測は知ることであった。

2018-08-11-measurement-values-indicate-changes-in-Japanese-skull-

(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)

syokota2 at 13:08|PermalinkComments(0)

2018年07月31日

ある知り合いは何気なく上高地に遊びにいってそのまま奥穂高岳に登ってしまった。若い力は奥穂高はものともしなかった。

私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義

やるせないモヤモヤは空に告げて慰めて涙を流すしかない」

私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

(本文)

 登山は英雄主義とロマンチズムだ。天然自然の美を歌うのは感傷主義でもある。感傷主義は英語の方が伝わりやすい。センチメンタリズムである。このようなものがないまぜになっての山と山登りである。登山雑誌はこれを煽(あお)る。都会に暮らす若者は昭和40年代には山に繰り出した。夜行列車を塩山駅で降りて、そのまま歩いて大菩薩峠いく人が多くいた。大衆登山の黎明期には穂高でもそうだ。穂高岳や槍ヶ岳そして剱岳に登ることが英雄であった。登山はヒロイズムであったのだ。

 登山雑誌に登山をするモデルになっている若い女性を知っている。稽古事をつうじて妻と娘の知り合いだ。応募して選ばれた。夏山登山の編集は一年前に行われる。あの山にはこの人ということでモデルを振り分ける。NHKテレビは女優に登山させて山の番組をつくる。雑誌版のモデルである。妻と娘は雑誌に掲載されたモデルの活躍をうらやましい。その人は東京の下町の出身だが大阪に転勤した。妻は大阪にでかけて食道楽の大阪を楽しんだ。

 ある知り合いは何気なく上高地に遊びにいってそのまま奥穂高岳に登ってしまった。手回り品はない。若い力は奥穂高はものともしなかった。好天であった。

 この人は本式に登山を始めた。そして登山クラブをつくった。登山クラブには妻になる女性がいた。活発な活動をしたあとでの長い休みがつづいていた。2年前に夫人が槍ヶ岳に登りたいといった。夫婦と昔の登山仲間で表銀座を縦走した。中房温泉から燕岳、大天井岳、槍ヶ岳へと尾根筋を歩いた。表銀座コースだ。大天井岳から槍ヶ岳に向かわずに常念岳を経て安曇野に下る順路も表銀座コースになるらしい。70歳を前にして夫婦は山に登った。

 山に目覚めたその人は給与を前借してまで山に足を運んだ。登山用具はゴローの靴をいくつもそろえ山スキーにも熱中した。ザイルを使っての岩登りもするようになった。一人前の山男に変っていった。

 表銀座コースで槍ヶ岳に登る一年前に事件があった。南アルプスの宝剣岳登山の基地となる千畳敷カールのホテルに滞在して山を楽しもうと計画した。ロープウエイで行けるホテル千畳敷に山登りなどしない友人を誘った。意気込んで千畳敷に向かっているときに急変がおきた。身動きが取れない状態だった。甲府市の公立病院に駆け込んで。そのまま一ヵ月入院した。退院後しばらくして原因がわかった。肺疾患であった。病院を探して治療をおこなった。この夏に肺疾患のため倒れた。別の臓器に疾患が原因だっかかも知れない。

 肺疾患がわかった翌年の5月には諏訪地方は7年に一度の御柱祭りがあった。私は塩尻駅前の宿に1週間泊まっていたの。蓼科山麓の佐久側にその夫婦の別荘がある。御柱の合間に夫婦を訪ねた。5月の真っ青な空の日であった。思い立って秋にも行った。

 夫婦の遅い秋の別荘滞在の水道の凍結防止など冬支度のためであった。肺疾患のことを夫人が語り身体を冷やしてはいけないのだと冗談のように言っていた。病を苦にしていない気配であった。一時間の滞在の間に鹿教湯温泉に宿を手配して辞去した。

 この夫婦の楽しみは老後に別荘で過ごすことであった。とくに夫人はこの願いが強い。普段は東京の下町で暮らしている。

 あくる年、つまりこの5月に夫婦の別荘の近くまでいった。別所温泉への道が別荘の近くであった。迷ったが投宿の時刻を考えて通過した。この2カ月のち、7月に終止符が打たれた。この人は編集の技が優れていて定年後も乞われて職場にでていた。また編集の仕方などの講習を頼まれることもあった。職場ではただ一人髭を生やしていた。生き方に誇りを持っていた。お洒落であった。

 知人のもう一人は脳溢血に襲われた。つづいてに難病を併発した。身体の動きが悪くなった。八ヶ岳連峰の東側に別荘で寛(くつろ)ぐことを楽しんでいた。身体が効かなくなると出かけるのに助けがいる。この人は地方公務員を勤め上げた人であり、人の世話をすることを生きがいにして過ごしてきた。

 人の明日はわからない。明日がわからないからは不安である。明日がわからないから人はだれもが不安なのだ。イエス・キリストはいう「汝、明日を煩うな」と。

 人には大きな願いもあれば取るに足らない楽しみもある。好きだった音楽も心が閉ざされると取り合わなくなる。好きな料理だってそうだし、好きな所にだって行きたくなくなる。

 人の心はいつも悲しい。面白おかしくふるまっていても心の奥底は悲しさに沈んでいる。

 空の輝や、流れる白い雲をみても、森の深い緑に抱かれていても、風の歌を聴いても、人は悲しい。人はやるせなさ、むなしさ、苦しさにもだえる。サトウハチロウが詩をつくり加藤和彦が曲をつけザ・フォーク・クルセダーズが歌う。苦しさは明日につづき、むなしさに救いはない。やるせないモヤモヤは、空をながめ、空に告げて慰めて涙を流すしかない。北山修は精神科医になった。「あの素晴らしい愛をもう一度」と歌う。

 山に行くのも林を散策するのも感傷と諦念が入りまじる。北原白秋は水墨集の「落葉松」で「からまつはさびしかりけり、たびゆくはさびしかりけり、世の中よ あはれなりけり、常なれどうれしかりけり」と歌う。寂しく哀れであるのが世の中である。

2018-07-23-2-kamikochi-hymn-part-2-mountaineering-and-romanticism-and-sentimentism-writing-tetutaro-kai-

(写真と文は甲斐鐵太郎)
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

syokota2 at 10:54|PermalinkComments(0)

2018年07月29日

久能山東照宮では信長と秀吉は家康の両脇に祀られる。日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎。


久能山東照宮では信長と秀吉は家康の両脇に祀られる。
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎


久能山東照宮では信長と秀吉は家康の両脇に祀られる。
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
(本文)
 ロープウェイというから上に向かって登っていくのだと決めていた。日本平に到着して上を見上げてもそれらしいのがない。土産物売り場に行って聞くとあっちだという。あっちへ行ってもそれらしのがないから戸惑う。みれば下っていくためのロープウエイ駅があった。何なんだろうと乗車する。下っていくのである。

 なぜロープウエイなのか。山が崩れて900メートルもの谷ができた。久能山東照宮への道が消えたのでロープウエイを架設した。どんどん下っていく。料金は往復で千百円だ。到着駅の下には海が見えていた。海に面した山に久能山東照宮があった。

 権現様は山が崩れることなど想像しなかった。2018年7月6日のこの旅行の中国地方では山が崩れて200人を超える死者をだした。とにかく下って行くロープウエイに驚いた。

 晴れたら日本平からは富士山がよく見える。三保の松原の景色もよいはずだ。この日はときどき霧雨が落ちる天気であった。久能山東照宮の社殿には海からの風が山を越えると霧になって降り注いでいた。湿度100%の蒸し暑い階段上りに顎をだした。

 久能山東照宮の博物館には家康の置時計が展示してあった。高さ20センチメートルもないない小ぶりさに写真からのイメージを覆した。何代かの将軍の甲冑と刀などあって思いを複雑にめぐらした。武具としては蟷螂の斧(とうろうのおの)と同じである。大阪城に大砲を打ち込み城郭の無意味さをみせしめた将軍徳川家にしてこれである。江戸の武芸は仇討ちものによって語りつくされる。忠臣蔵の討ち入りも札が辻もそうだ。

 武器の大型化と大量保持を禁じて世を治めたのであるがその一方で秀吉の子分であり裏切りをした福島正則らには理不尽な扱いをした。小布施で客人として滞在した葛飾北斎が龍の天井画を書いた寺に幽閉されて最後を遂げた福島正則のことを思うと徳川将軍家の治世の陰湿さが知れる。悪知恵もあそこまで行くと芸術であるが政治とはそのようなものなのだろう。

 日本平から東に下ると、ちびまる子ちゃんの清水市であった。マグロの町清水市で、はごろもフーズの建物をみた。ここのツナ缶は間違いなく美味い。土産にもらったマグロの佃煮もまた美味かった。旅行にでかける前に日本マグロを安く手に入れたので佃煮にしたところ脂身が多過ぎたためか失敗料理になった。

2018-07-29-nihondaira-and-kunozan-toshogu-bhrine-tetutaro-kai-syokota-essay-measurement-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎

私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎




syokota2 at 18:24|PermalinkComments(0)

2018年07月28日

ノートパソコンを大画面にして使うためのキーボードを買ってきた


(タイトル)
パソコンのキーボードのタッチが作業の快適性を決める

(本文)
 ノートパソコンを大画面にして使うためのキーボードを買ってきた。

 気に入るというか、作業しやすいキーボードがなかなかない。それでずっと探している。

キーボードの押し加減ということでストロークと押す感触の良いのを探している。

 深すぎるストロークのキーボードは駄目。押す暗色ということでトルクの小さなのも駄目。お気に入りが一つあってこれに似たものか、これをこえるものを探しているのだ。

 今日買ってきたものも結局は駄目。キーボードが滑ることも駄目なことの一つ。押すときの力の強さ、押しごたえが足りない、このことをトルクの強さと表現する。結局は駄目だった。とはいっても幾つかあるうちの二番目に良いものとなった。パソコンの作業場を代えるときに使う二代目のキーボードにする。
 このように思いながらパソコンを移動して動作させると同じ程度のキーボードがすでに置いてあったのだ。買ってきたものは元の箱に収めて棚に上げた。

 こんなことどうでもよいように思われるかもしれないけれど快適に文章打ちするときには大事なことなのだ。

 このようなことを思いながら考えたことは、パソコンを買う場合にはキーボードのタッチを確かめて、ということもまた大事なこと。高級機種ほどキーボードのタッチがよいのか、タッチは同じでカードディスクの容量やソフトウエアあるいはアプリケーションの違いによって価格が決まるのか。忘れないでおこう。


syokota2 at 17:38|PermalinkComments(0)

2018年07月27日

安全・安心という言葉に含まれる偽善



(タイトル)
安全・安心という言葉に含まれる偽善
(本文)
 ガソリン車から電気車に変わる。経済産業省が計画を推し進めている。ガソリン計量器を製造する企業があるからその苦労と憂慮は大変なことである。ガソリンスタンドが電力を車に供給する場所に変わるのか、コンビニエンスストアが自動車に電力を供給するのか、分かっていないことが多い。ガソリンは爆発するけれど電力供給器はその心配がない。客に便利な方法が選択される。自宅での電力供給もある。

 ガソリン計量器と電力量計が競合するようになることは想像されなかった。ガソリン計量器の製造会社は海外での事業を推し進めている。別の事業を広めてもいる。国内ではガソリンスタンドの数が半分になったのではないか。企業も人も意欲と創造する力で生きて行かなくてはならない。

 山と田畑が多い地域に目立つのが太陽光発電パネルの林立だ。農家や山持ちが冒険のような太陽光発電にお金を投じわけがない。理屈を説いて大勢の人から小口の金を集めるファンドができている。これによって太陽光発電がなされている。確実な新事業が見つからないから金融機関は太陽光発電事業への融資の姿勢はゆるい。

 燃料電池による発電と燃料電池車に期待が寄せられたことがあった。太陽光パネルによる発電が台頭し普及著しい。原発、火力発電、水力発電と太陽光発電との比率がどのように変化するか。予測と発電に要する費用の差はどうか。

 固定電話は企業では意味があるが個人ではそれを失っている。携帯電話の普及がようすを変えた。昔は電話台に据えて更紗がかけられていた。

 知識はインターネットで過不足なく取得できる。自分のために、あるいは社会をゆがめる意図によって情報をだす者がいる。これにフィルターをかけることができればよいが未だその手法と仕組みができていない。情報をオーソライズするのは信用のある者たち詰まり組織と個人である。

 信頼に足る計量計測情報の発信者としての信用ある組織と個人とはだれのことか。計量計測の役所など公的機関がそれである。公的機関に所属し肩書きを用いた個人もそうである。こうした者たちから出される情報によって確かな計量計測の知識世界が形成される。そのように決めてしまえば情報発信のための姿勢が定まる。

 米国大統領トランプによって情報の真否が表だった。日本では「ねとうよ」などという意味不明のことばがあり、ここから社会をねじ曲げる情報が意図して大量に排出される。真に受ける人が多いからこの知識・情報がその人の意識を決める。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などマスコミの情報も真に受けてはいけない対象と考えればいい。学校をでたばかりの青年が役所や企業に出向いて渡された資料をそのまま記事にするからだ。街頭インタビューのニュースはテレビ局が考えている事柄を集約したものである。マスコミが必ずしも真意としないことがゆがめられて情報の受け手に伝えれることは多い。

 日本人の意識に歪んだか間違ったかした知識と情報が紛れ込んでいる。戦中の一億層玉砕がそうであった。意味不明の安全安心という流行言葉、疑問視されない地峡温暖化と石油消費がある。原発は安全だと福島の原発の街の入り口に看板がつくられ皆がそのように思った。原発に依拠する町の経済が形成されていた。原発が崩れると人は生活できないから町もまた崩壊する。少なくとも一時は崩壊する。そして再生する。どのような姿になるか。

 三陸地方と東北の東海岸を破壊した2011年3月11日の津波である。福祉のまちづくりだ、としていた町は津波とその後の火災で中心部が壊滅した。土地のかさ上げなどが行われて持ち主への引き渡しがあったニュースが流れた。福祉への思慮は大切なことである。この町に大事なことは町の中心部を壊滅させた地震と津波と火災がおきない「まちづくり」であった。結果としてはそうであるが対策できなかった。人は目の前のことしか見ない。

 起こると怖い出来事として南海大地震がある。戦争中に発生した高知県と高知市の地震と津波は事実上記録から排除されたので人々の記憶にはない。洪水跡地への宅地の造成があり、ここでまた洪水がおきた。水害対策のためにもっと高い堤防をつくるとNHKの国会討論で与党議員が叫んだ。治水ダムは何十年かすると砂で埋まる。

 川の氾濫で平野ができたことは濃尾平野をみればよくわかる。濃尾平野にも大地震がおこる。日本初代の国際度量衡委員をつとめた田中館愛橘が寺田寅彦などを引き連れて調査をした。忘れたころにやってくる天災を忘れないで生きていくことこそ大事だ。安全安心などと公的機関もその職員も決して口にしてはならない。この言葉は偽善だ。




syokota2 at 09:29|PermalinkComments(0)

2018年07月26日

飾らない何気ない入り口のオモチャ博物館である。横浜市山手の丘にでかけると海が見えブリキ博物館があった。

横浜市山手の丘にでかけると海が見えブリキ博物館があった

飾らない何気ない入り口のオモチャ博物館である。

syokota2 at 07:18|PermalinkComments(0)

2018年07月19日

横浜市山手の丘にでかけると海が見えブリキ博物館があった甲斐鐡鉄太郎

横浜市山手の丘にでかけると海が見えブリキ博物館があった

TOISと看板をだしているブリキのオモチャ博物館があった。

syokota2 at 20:28|PermalinkComments(0)

2018年07月16日

旅のエッセー集 旅行家 甲斐鐵太郎



旅のエッセー集 essay and journey(essay of journey) 旅行家 甲斐鐵太郎

essay and journey(essay of journey) by kai tetutaro

「計量計測データバンク」日替わり情報と週報デジタル版(過去のデータ)履歴

私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)



夕暮れどきの高山市古い町並み‎2018‎年‎6‎月‎23‎日、‏‎18:06:44

夏至の日の旅行で郡上八幡市の古い町並みを見物する

6月24日、松本市波田のスイカを買う 温室栽培の大玉スイカです

6月に晴れる 小さなリゾート地 相模湖で憩う

山中湖のコブハクチョウと雛(ひな) 6月9日撮影

夏の訪れを告げる鮎釣り 相模川の6月1日の夕暮れ時

よい景色とよい音楽と美味しい食事 八ヶ岳と北欧レストランとパソコンでユーチューブ

近江の国、多賀大社(たがたいしゃ)の茅の輪くぐり

特別な位置にいる投手としての大谷翔平

「春の日と一人娘はくれそでくれない」ので5月は午後7時まで遊んでいられる

信州をぶらぶらする 青い麦畑に風の姿がみえた
(麦畑は風が吹くとその姿を麦の穂が写し取った)

霧ヶ峰高原には積乱雲は春夏秋冬わきます

奥飛騨の新芽の背景は北アルプス穂高連峰の山肌であった

松本駅前の昭和横丁でホルモンを食べる 松本山雅FCファンがやかましい店だ

東京の桜は散って新緑の季節になりました
武田信玄の北条との決戦地の三増峠近くの枝垂れ桜
(季節は2カ月と半分ほどで夏至になる)
北杜市実相寺の山高神代桜は甲府盆地の桃の花と開花時期が同じです
(関東地方の春分の日は雪が舞い河口湖では25僂眄磴積もりました)

陽だまりでは梅の花が土手にはスミレが咲く5月になれば水田に映える常念岳を見に安曇野にでかけよう
埼玉県吉見町の栽培農家で買ったイチゴは甘かった美味かった
道志道を走る(その1)山中湖湖畔の平野地区から山伏峠を越えて道志村を走る下り道(快適な自転車旅行 道志道の下りを楽しむ路線の概要)
道志道を走る(その2)山中湖湖畔の平野地区から山伏峠を越えて道志村を走る下り道(道志村を駆け下る 登りなどない ひたすらに下る 楽しい道だ)
道志道を走る(その3)山梨県境の両国屋から相模原市津久井の青山への上り下りの道(下るも良し、登るも良し、樹木につつまれた川沿いの道だ)
道志道を走る−総括版−山中湖湖畔の平野地区から山伏峠を越えて道志村を抜けて相模原市青山に至る(走り下るもったいない自転車旅行)
道志道を走る−温泉編−楽々下る、ときどき温泉、山中湖湖畔から道志村にでて相模原市青山に抜けるゆるーい自転車旅行。(ゆるくて・ぬるーい自転車旅行)
(上のアンダーラインのリンク文字をクリックすると写真が表示されます)
ゆるくて・ぬるーい自転車旅行「下りだけの道志道を走る」 旅行家 甲斐鐵太郎
富士山の雨を集めた山中湖は忍野をへて津久井湖で道志村に降った雨と合流する



syokota2 at 20:36|PermalinkComments(0)
Categories
Profile

syokota2