■ 登山・ハイキング・山

2018年09月27日

私と上高地−その5−格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎 (上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される)

私と上高地−その5−格好いい山男は女に好かれる

穂高連峰に薄雲が湧く。そして流れていく。山の天気だ。


格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語

上高地と穂高連峰。6月下旬は緑が眩しい。


格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語

北アルプスの稜線上空に日輪が現れた。


格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語

6月24日、雪解けが早い夏の河童橋付近の風景である。

格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語

上高地バスターミナルには観光バスが整列して帰りを待つ。

(タイトル)
私と上高地−その5−格好いい山男は女に好かれる 山で英雄になった男の物語 執筆 甲斐鐵太郎
(上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される)
(本文)

 大学のある学部を終えることが決まった区切りに神田のレコードやでドボルザークの「新世界」を買った。別の学部の3年に入学することになっていたから格別の思いはない。く区切りのための儀式であった。

 レコード屋の学生を終えたばかりの若いい店員が「新世界」ならカラヤンではなく別の指揮のレコードを盛んに薦める。聴いていると涙があるれるほどに素晴らしい演奏なのだという。一つの曲にそのようなことがあることを知って困惑した。どのようなオーディオで聴いていたのか忘れた。

 入学した学部は3年から始まって2年で学部を終える教程である。この学部ではある教科だけに関心があった。それを学べばよかったから、卒業に求められる単位は最低ぎりぎりで申し込んでいた。一つ外すと卒業は先送りになる。結果はすべての教科に合格点が付いてこの学部を終えた。学部のゼミの担当教授はもう一つ別の学部に行くか聞いた。このゼミの教科を学ぶことが目的であった。それより先には進まなかった。

 卒業はどうでもよかった。授業はゼミだけにでてほかは受講生の少ない授業に教員の顔を立てた。受講者が一人であることが珍しくなかった。必修科目に不合格だと卒業させずにもう一年とどまさせる大学であった。その必修科目の授業にも私は出席しなかった。指定された2冊合わせて5千円をる超える教授自著のテキストを買ったのだから単位は自動的に与えられるものと考えた。この科目には試験があった。意味不明の設問に適当な文章を記すと15分を要さなかった。出席確認をする授業であったから皆が合格していると考えていた。私には合格最低点が付いていた。変だなと思った。こんなものかも知れないとも思った。卒業式の日に私は雪の谷川岳で雪洞を掘ってもぐっていた。

 卒業単位ぎりぎりの科目だけを選択していたから何かを外せばもう一年となる。だめなら学校を辞めればいいと考えいた。同級の70名は皆卒業していると思っていた。一年ほどして半数が先の必修科目で不合格にされて卒業を一年延期されていた。

 小利口な人間が幾人も卒業延期になっていた。どのような採点をしたのだろう。私の場合には卒業単位ぎりぎりの受講をしてすべてに合格点が付いていた。安全を見越して大きの単位を取る段取りにしていたものがほとんどである。必修科目の一つを落として半分のものが少なくとも一年延期して卒業した。この科目のためだけに一年を通うのは気の毒であった。1970年初頭のことである。

 谷川岳で雪洞にもぐっていた仲間の一人が70歳にして治らない患いに苦しんでいる。この人はオーダーメイド登山靴で有名な東京の豊島区に店があるゴローの二重靴を履いていた。仲間はいつの間にか登山のクラブをつくるようになっていた。ここに集まってきた女性の何人かがこの男に憧れた。憧れは恋の形になった。思いが一番強かった女をこの男は妻にした。二重靴の男は山では格好よかった。

 二重靴は高い。並の決意ではできない。中学を卒業してづっと文撰工として働いてきた男でありお金をすべて登山のために投入していた。男は女の思いを無視することができなくなった。男と女の結末である。格好良い男にお女がつきやがて結婚した。

 男と女のことである。

 ある男は若いのに超然としていて恋などとは無縁のようすであった。歳のいった男がある男に言った。女が少ない場面ではさまざまなことがおこる。初対面で何の思いもなくその女をみると、まずはこの女に恋心などおこすまい、と思う。しかし危ないぞ気を付けろと自分に言い聞かせているあいだに恋に落ちる。恋に落ちても生活の場面がないところでは良い結末にならない。お前にそのようなことがあるかも知れないが心せよ、と。事実、学園生活をつうじて縁づいた者たちは良い結末にならなかった。

 ある男の大学の同級生は北陸で一番歴史がありにぎやかな街にある大学入学を希望していた。果たせなかった。入学した大学には女子が男子の五分の一ほどいた。同級生の男はある研究会に参加している女に恋をした。恋は必然であった。望まない大学への入学のあとは恋することに夢中になった。恋だけが自分が奮い立つ道であった。

 若いのに超然としている男は同級生がある女に恋していることを知らなかった。女に恋する男も、恋の対象になっていたある女も同じ研究会に参加していた。その研究会の夏の合宿が山梨県の涼しい山のなかで開かれた。夜になって酒を飲み交わすうちに女は恋する男のことを周囲に打ち明けた。相手は研究会の顧問をしているOBである。有名な教授に師事して大学院の博士課程をおえて浪人していた。

 女の恋は捨て身であった。女は自分が働いて生活を支えるという。女に恋していた男はたじろいだ。研究会顧問のOBは生計のためにある研究者への道を断って地方公共団体の知事室に勤務するようになった。

 若いのに超然としている男は葡萄酒を飲み過ぎて早々にひっくり返っていた。いきさつを知らない。

 男は学校にでてこなくなった。男が八ヶ岳に登らないか、と声を掛けてきた。

 私は用具一式を揃えてもらっての八ヶ岳に登った。同級生は学校に行かないで山に登っていた。1970年が過ぎた年であった。腑抜けな男だったが山では逞(たくま)しかった。見掛けに寄らない体力を備えていた。八ヶ岳登山によって私は山という自然に魅了された。

 何年か後に私は同じ大学の別の学部を卒業するときには山のとりこなっていて卒業式のその日には谷川岳の斜面に掘った雪洞にもぐっていた。

 ある男は歳に似合わず超然としている風情であったから何人かの男に、女たちへの恋心を聞かされた。八ヶ岳登山を誘ってきた男は何も話さなかった。私がそのようなことに無関心なのが良かった。何人かの男は女への恋心を私に打ち明けた。話す先は俺ではないだろうと戸惑ったが黙って聞いた。

 たわごとに似た話もあれば生涯を決めるような深刻なのもあった。このような話の場合、男がどのように思おうとも女に気持ちはない。大学生としては格好良いとは言えない男たちであった。実らぬ恋に男たちはもだえた。恋の行き場を失って海外に渡った男がいる。

 その男の恋の対象になった女は東京に職場がある役所に勤めながら名のある資格のための学習をしていた。恋する男がその後、女とどのように交流したか知らない。女と私は普通に話す間柄だった。女は海外に渡った男の受け止めに苦しんでいった。私はその男のことを口の端にださなかった。女も同じであった。

 女は卒業して二年経つと別の学部に残って最終学年になっている私のところにやってきた。何も言わずに二冊の本を手渡した。何年かして女が役所の男と一緒になったことを人伝てに聞いた。

 一年して男は外国から帰って私を訪ねてきた。外国暮らしを少し話しただけであった。男は東京に住んで有名な企業に勤めるようになった。何年かしてその男から子どもが一人いる家族の写真付の年賀状が届いた。郷里に帰っていたのであった。

 片側からだけの思いでいる間は男と女には何の関係もない。女にその男への思いはない。男だけが熱をあげる。この構図は多い。逆もまたある。

 恋を成就させた何組かをみた。二組は男が格好良かった。格好良い役回りにいて見事な振る舞いをしていた。女が男に恋をした。何組かは大して格好よくないもの同士だった。何となく恋に落ちでそのままの流れで結ばれたる。

 女の恋の対象は英雄である。男は格好良いほうがよい。男は良くなくてはならない。女への未練を残して外国にでかけて行った男が格好良くなかった。どこかで格好良く振る舞うことがあったのだろう。

 ある女は生活のすべてを山に賭けた文撰工に激しい恋をした。男は女の恋を受け入れざるを得なかった。適齢期でもあった。労せずして良い結末にで男は静かに喜んだ。谷川岳の雪洞に一緒にもぐり込んだゴローの二重靴を履いた男のことである。格好いい男に女は惹かれる。不細工な男でも何かに打ち込むと輝く。輝いている男を女は仰ぎ見る。ゴローの二重靴を履いた男には絶頂期であった。

(タイトル)
私と上高地−6−上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎
(本文)

(本文)

 同級生が声を掛けてきた。八ヶ岳に登らないか、と。私は用具一式を揃えてもらっての八ヶ岳に登った。同級生は授業にでずに山に登っていた。1970年が過ぎた年であった。声を掛けてきたのは恋に破れて腑抜けになった男だ。しかし男はみかけによらず山では逞(たくま)しかった。

 八ヶ岳登山によって私は山の自然に魅了されるようになった。3年ほどして同じ大学の別の学部を卒業するときには山のとりこなっていた。卒業してもしなくてもよい気楽さでいたものだから卒業となった日には谷川岳の斜面に掘った雪洞にもぐっていた。この日が卒業式であった。70人いた卒業年次のものの半分が必修科目に指定された教科で不合格になって卒業が一年遅れたことをあとで知った。

 私を八ヶ岳登山に誘ったのは目立たない男であった。この男が惚れた女はある研究会を指導する大学院を終えて浪人しているOBに熱をあげていた。女はOBの駆け込み女房になって学校に来なくなった。いきさつを私は知らない。男にはそれがよかった。

 山を登る男は逞(たくま)しい。女がそのような男をみていればあるいあは事態は変わった。男はほどなく別の女に恋をした。その女は別の男に強い関心があった。

 緑濃い八ヶ岳山麓と木立が消えて赤い岩肌になる赤岳をつうじて私は日本の山の自然に魅了された。

 何年もしてあることに気付いた。山登りでも何でも物事に夢中でいると格好がいいということだ。多くの女はそのような男に惚れる。谷川岳の雪洞に一緒にもぐり込んだゴローの二重靴を履いた男は山に賭けていた。登山クラブに集まった女の何人かがこの男に恋した。一番激しく思いを寄せた女と一緒になった。

 男の妻は表銀座登山コースで槍ヶ岳に登るのが宿願であった。男が70歳になる前の年に登山クラブの仲間に助けられて夢をかなえた。槍ヶ岳から上高地におりると緑に全身がつつまれるようだった。1年ほどして二重靴の男に重い病がみつかった。

2018-09-25-kamikochi-hymn-part-6-kamikokoku-anthem-end-climbing-yatsugatake-writing-tetutaro-kai-

2018-09-25-kamikochi-hymn-part-5-mountain-climbing-yari-yatugatake-and-kamikochi-writing-tetutaro-kai-

(写真と文は甲斐鐵太郎)



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2018年09月26日

私と上高地−6−上高地賛歌 表銀座登山コースで槍ヶ岳に登るのが宿願であった。八ヶ岳登山で山の自然に魅了される。

私と上高地−6−上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

上高地と穂高連峰。6月下旬は緑が眩しい。


私と上高地−6−上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

穂高連峰に雲が湧く。そして流れていく。山の天気だ。

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

八ヶ岳。硫黄岳からの横岳方面のながめ。


私と上高地−その6−上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

八ヶ岳。横岳の稜線に夏雲が湧く。
私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

八ヶ岳。硫黄岳のお月さまのような山頂のようす。

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

八ヶ岳。岩稜の背後は青い空だ。雲が流れる。

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

八ヶ岳。オーレン小屋から硫黄岳に向かう。

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

八ヶ岳。稜線にでると山小屋があった。

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

オーレン草に名を取ったオーレン小屋に宿泊する。

私と上高地−6−八ヶ岳登山で山の自然に魅了される

八ヶ岳。登山路にナデシコの花が咲いていた。

(タイトル)
私と上高地−その6−上高地賛歌 八ヶ岳登山で山の自然に魅了される 甲斐鐵太郎

(本文)

 同級生が声を掛けてきた。八ヶ岳に登らないか、と。私は用具一式を揃えてもらっての八ヶ岳に登った。同級生は授業にでずに山に登っていた。1970年が過ぎた年であった。声を掛けてきたのは恋に破れて腑抜けになった男だ。しかし男はみかけによらず山では逞(たくま)しかった。

 八ヶ岳登山によって私は山の自然に魅了されるようになった。3年ほどして同じ大学の別の学部を卒業するときには山のとりこなっていた。卒業してもしなくてもよい気楽さでいたものだから卒業となった日には谷川岳の斜面に掘った雪洞にもぐっていた。この日が卒業式であった。70人いた卒業年次のものの半分が必修科目に指定された教科で不合格になって卒業が一年遅れたことをあとで知った。

 私を八ヶ岳登山に誘ったのは目立たない男であった。この男が惚れた女はある研究会を指導する大学院を終えて浪人しているOBに熱をあげていた。女はOBの駆け込み女房になって学校に来なくなった。いきさつを私は知らない。男にはそれがよかった。

 山を登る男は逞(たくま)しい。女がそのような男をみていればあるいあは事態は変わった。男はほどなく別の女に恋をした。その女は別の男に強い関心があった。

 緑濃い八ヶ岳山麓と木立が消えて赤い岩肌になる赤岳をつうじて私は日本の山の自然に魅了された。

 何年もしてあることに気付いた。山登りでも何でも物事に夢中でいると格好がいいということだ。多くの女はそのような男に惚れる。谷川岳の雪洞に一緒にもぐり込んだゴローの二重靴を履いた男は山に賭けていた。登山クラブに集まった女の何人かがこの男に恋した。一番激しく思いを寄せた女と一緒になった。

 男の妻は表銀座登山コースで槍ヶ岳に登るのが宿願であった。男が70歳になる前の年に登山クラブの仲間に助けられて夢をかなえた。槍ヶ岳から上高地におりると緑に全身がつつまれるようだった。1年ほどして二重靴の男に重い病がみつかった。


2018-09-25-kamikochi-hymn-part-6-kamikokoku-anthem-end-climbing-yatsugatake-writing-tetutaro-kai-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

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2018年09月11日

上空に日暈(ひがさ、にちうん)が出現。雄山登山中。

上空に日暈(ひがさ、にちうん)が出現。立山(雄山)登山中。

上空に日暈(ひがさ、にちうん)が出現している
気付いている人はいない。立山(雄山)登山中。

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2018年09月07日

山小屋が赤い色に染まる 標高3000m夜明けがきた。標高3000mに集まった人々 人それぞれの人生が垣間見える 執筆 甲斐鐵太郎。

標高3000mに集まった人々 人それぞれの人生が垣間見える 執筆 甲斐鐵太郎

山小屋が赤い色に染まる 標高3000m夜明けがきた

音楽は如何(ブルース)
ユーチューブ音楽 エリック・クラプトン Layla 2014ジャパン・ツアー
(ギターの電源を抜いて歌うレイラは渋い、日本向けアレンジか)
Eric Clapton  Tears in Heaven live Crossroads 2013
(若くはなくなったクラプトン テアーズ・イン・ヘブンを歌うライブ音源)
Eric Clapton I Shot The Sheriff (Live)
(ギターに電気を入れてギンギンに鳴らします)


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2018年08月17日

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ。北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏。甲斐鐵太郎 二本のweb記事をつくりました。

甲斐鐵太郎 二本のweb記事をつくりました。湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ。北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏。

甲斐鐵太郎 二本のweb記事をつくりました。


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2018年08月15日

伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊するなどしてして通常の登山道としては利用できなくなった。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)
北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

三俣蓮華岳と三俣山荘。オーナーは伊東正一氏の一族。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

室堂の高い山から南西の方角にみえる薬師岳。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

北アルプスの再奥地の楽園の雲ノ平。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎岳とそのカールのもよう。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎小屋。三角屋根の小屋は印象に残る。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

1979年当時「晴嵐荘」は都はるみが大音量。


北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

湯俣温泉「晴嵐荘」の食堂のようす。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

(本文)

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りた。真上で雷が炸裂する夜をテントで過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。この間もうかれこれ三泊。夜行寝台で上野駅から富山駅に移動したのであるが、準備の疲れがあった。槍ヶ岳に向かう行程を切り上げて伊東新道を青嵐荘まで下った。1979年夏のことであった。

 伊東新道はこの下山から四年後に廃道になった。伊東新道は登山地図には明確に書かれた道であった。道の状態はこのときすでに廃道といってもよかった。川沿いの傾斜がきつい高巻は砂地になっていて、上から崩れている状態がつづき、踏み跡を確かめることができなかった。靴を垂直に置けない傾斜した砂地は脆く、いつ滑るか知れない。砂の斜面は遙か下の湯俣川に崩れ落ちていた。疑いをもたないほどに明瞭に印刷された伊東新道に首を傾げても、危険はその状態を理解できないまま地図を信じている気持ちがつづいた。地図の記載は過去にあった事実である。この事実は情報なのであるが、事実が変わっているから情報は書き換えなければならない。このことへの理解が不足した。一般人の一般的な登山の行程にこのように地図にある情報が事実と違うことなど想定されなかった。

 1983年に伊東新道は廃道になった。ある橋が壊れたことによる。2018年8月の時点で、伊東新道を再建する動きがあるがまだ一般の人の登山ルートにはなっておらず熟達者でも難しい。

 伊東新道から槍ヶ岳に登るルートとしての選択は現在はない。湯俣温泉から湯俣川を直ぐに左にとって北鎌尾根に向かうルートは登山者の憧れの対象であった。北鎌尾根コースはあとでふれる。

 伊東新道を使って三俣蓮華岳に向かう登山者は少なかった。登山者が少ない山道は荒れる。荒れた果てに廃道となった。登山者が少ないのには理由があった。バス事情といった社会的な理由と吊り橋など登山道維持のための自然にまつわる理由の二つが相乗作用した。

 登山者が少ない伊東新道は荒れた。登山雑誌では伊東正一氏の英雄的な活躍をもてはやしていたことと、登山地図に明瞭に記載された登山路である。情報は登山雑誌と登山地図に限定される。この情報を信じ込んでいるから山小屋の管理人に確認することなど思いもよらない。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊したため登山道としては利用できなくなった。利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊東新道はその後2017年ころ雲ノ平山荘のオーナーによる伊東新道の探索・登山をしている様子をNHK が放送した。道だったところには木が生い茂っている。とても道とは思えない状態だ。探索したのは伊東新道を開いた人の子孫であった。山なれした人でも手を焼く難所になっていた。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊するなどしてして通常の登山道としては利用できなくなった。あえて利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊藤新道は湯俣温泉から湯俣川に沿って遡上し三俣山荘に至るルートである。伊藤正一(1923年から2016年6月17日)氏が1956年に開いた。途中、湯俣川をに5つの吊り橋を架けていた。伊藤正一氏が経営する三俣山荘屋、雲ノ平山荘への補給路として使われていた。その後北アルプス奥地への資材運搬がヘリコプター利用にかわった。物資輸送路としての使われない伊東新道は1983年に吊り橋が崩壊したことによって廃道になった。

 その状況はどうだったか。湯股川に架かる第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地は巨大な岩が崖上50m以上にわたって連なっている。2009年時点ではlpmp巨岩は崩壊していなかった。それが2010年には崩壊した。影響で流れが変わって大激流になったためにわたれなくなった。

 地図情報あるいは雑誌情報はいつでも過去のものである。この情報は現実には追いつかない。山と渓谷誌2010年8月号は、第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地の崩壊前の情報を掲載している。川を渡ることができるといているのだが、巨岩の崩落で川は激流となったために渡ることができない。通過するには高巻きすることになり、さらにロープ(ザイル)を使っての5m懸垂下降が加わる。普通の登山者が足を踏み入れてはならない道に変わった。

 谷地の登山道はいつでも崩落がつづいている。もろい岩肌そして砂地は絶えず崩れている。崩壊地以外の登山道も人が通らないから樹木に覆われるなどする。道とがいえないほどに荒れている伊東新道である。だから一般登山者は近づいてはならない。熟達者でも通行の危険は崩壊がつづいていることなどもあって極度のものである。

 北鎌尾根ルートからの槍ヶ岳登山は憧れの対象であった。少しの岸壁経験でやれると生意気をすると泣きをみる。山歩きをして一年か二年で岩登りの真似事をした男がベテランと二人で北鎌尾根ルートで槍ヶ岳に登ろうとした。疲労と恐怖が頂点に達して岩稜にへたり込んで泣きだした。登山はいつでも英雄主義がつきまといわが身を省みずに雑誌の世界の英雄に自分を写すことがある。生意気かつ軽薄な男の北鎌尾根でのざまであった。

 湯俣から吊橋を渡り湯俣川との合流点を水俣川沿いの道をとって進めば北鎌尾根ルートにさしかかある。現在の北鎌尾根ルートはかつての伊藤新道と同じように崩壊が進行している。上流の吊橋は落ちていて一般道としても面影は全くない。千丈沢と天丈沢の合流点を含めて千天出合(せんてんのであい)までの行程のの崩落は激しい。岩稜と岸壁の登山の技術を要する北鎌尾根よりも途中の崩壊地を通過することのほうがが難しい。

 登山地図に明瞭にルート表示されていてもそれを真に受けてはいけない。その情報は過去のものである。情報が地図に記載されたその翌日に事実は変化しているかも知れない。1979年夏に地図を首をかしげながらの伊東新道の下山路であった。

 恐怖に震えての伊東新道下山を経験した。岩稜登山は手足三カ所を付けていれば安定は確保できる。下は奈落の底の急斜面であれば踏み跡の消えた砂地を歩くことは運を天に任せたものであった。くわばわくわばらの下山路であった。

 このような危険に遭遇するくらいなら槍ヶ岳をへて上高地に向かうのであった。

 伊東新道はなぜ崖崩れと吊り橋が壊れて廃道をよぎなくされたのか。関係者が要因を指摘しているのでそれを拾い上げて考察をする。

 伊東新道は昭和28年から着工、3年後の昭和31年秋に完成した。この道を使って7年がかり(昭和38年)で三俣山荘と雲ノ平山荘が建てられた。登山路は北アルプス最奥地へのルート開拓とあわせて山小屋設営が目的であった。

 昭和54年、高瀬ダムの完成で大量の水を貯水したことにより付近の地下水面が上がった。ダム周辺の山全体が膨らんで崩れやすくなったのである。湯俣の谷も各所が崩壊、桟道も落ちた。湯俣川のあちこちから出ている亜硫酸ガスは吊り橋のワイヤーを腐食させる。昭和44年からの高瀬ダムの工事により登山者が激減した。ダムゲートでの交通の制約とともに大町からのバスが廃止された。このために高瀬からの入山者がさ激減した。

 登山者が大きく減ると登山道は廃れる。伊東新道はて5つの吊り橋の全部落ちてしまった。昭和58年には通行困難な状態に陥り廃道となった。

 雲ノ平に下る三俣蓮華岳の麓(ふもと)に行くには、上高地からと烏帽子から行く二つの道があった。どちらからでも二日がかりである。悪天候になればさらに日数が増える。往復には四日かかる。ヘリコプターで資材を運搬するのはのちに始まったことである。戦後すぐのころには人が荷を背負って行くしかなかった。山小屋を建てるためには一日で登れる道が求められた。

 戦後一年目の昭和21年、伊藤正一氏が湯俣川を下ったのち谷全域を調査するために七年間を費やした。伊東新道の建設工事着工は昭和28年である。ダイナマイトによって岩壁を打ち砕いて道をつけた。三年後の昭和31年秋に伊東新道は完成した。

 昭和38年になって三俣山荘と雲ノ平山荘が完成する。ボッカ(歩荷)による資材の運び上げであった。伊東新道が開通してから七年がかりの建設工事であった。三俣山荘ならびに雲ノ平山荘は北アルプス最奥地に安全に分け入ることに大きな役割を担った。山小屋は暴風雨から登山者の身を守るのに欠かせない。ことに大衆登山が普及するほどに山小屋のもつ意味は大きくなる。山小屋があることによって小さな装備で迅速に北アルプスを歩くことができる。

 北アルプスの槍ヶ岳をめざしての大縦走コースの裏銀座登山路はづっと槍ヶ岳を眺望する。遠くに浮かぶ槍ヶ岳ほど神々しい山はない。伊東新道は湯俣川の谷に深くはいるまでは槍ヶ岳をみながら歩くことができる。湯俣川の槍ヶ岳眺望の地である展望台までのコース、つまり三俣山荘から片道二時間の道が整備されている。往復四時間のコースで槍ガ岳の眺めを堪能することができる。険しい硫黄尾根の景色は圧巻である。鷲羽岳の森林の緑は雄大である。湯俣川はさまざまな水の色をみせる。

 伊東新道の復活のための取り組みがなされている。つくってもまた崩れるという状態の湯俣川沿いの道である。尾根筋つまり稜線の道は安定しているが、谷筋の道は壊れやすい。上高地にむかうターミナルの地、沢渡に橋が架けられて新道が通ると、旧道はすぐに崩れ落ちた土砂で道が消えてしまった。

 ダムをつくると流れ込む川筋の地下水位が上がって膨張現象が発生して、思わぬ事象を引き起こす。日本の谷は深く急峻であり崖はつねに崩れている。手の施しようがないとえる。上高地の玄関口の釜トンネルの下流の梓川の崩落現象をみればわかる。

 湯俣温泉に一つだけ開いている晴嵐荘は青空の下にあった。山小屋で人心地ついた夕食には山菜の天ぷらがでた。晴嵐荘では都はるみのレコードを大音量で流していた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだとしみじみと思った。オーディオもよいものだととも。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。オーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。だれはばかることなく大音量で都はるみを流しているその無邪気さがあった。1979年夏のことである。湯俣温泉は晴嵐荘だけが営業してた。いまも同じである。少し下ったところにある湯俣山荘があるがずっと営業はしていない。

 命を運に預けるような崩壊した伊東新道を下って青嵐荘で生きた心地になる。都はるみのレコード大音量で流しているを無邪気な青嵐荘の老夫婦であった。これは平和な光景なのかも知れない。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた。虫をひょいとつかまえて何々だと教えてくれた。虫をみるために山を歩き晴嵐荘に立ち寄ったのであった。宿泊者はこの人だけであった。湯俣川の下流には葛温泉がある。その先は高瀬ダムである。川は大町に流れ下って不思議な大迂回ををして川中島を流れて行く。その先は信濃川となって日本海に注ぐ。山道には昆虫に目を向けている人もいるのである。25歳を超えない青年であった。昆虫の知識をどのようにして得て、興味をどのようにつなげているのだろう。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への下山であった。余った日取りを葛温泉でのくつろぎに費やした。大町は立山(たてやま)登山、剱岳(つるぎだけ)登山ほかで何度も足を運ぶことになった。

2018-08-13-2-in-the-summer-of-1979-ito-ruto-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎
福井市で路面電車をみる、駅前に昔のままのレコード屋があった 執筆 甲斐鐵太郎
九頭竜ダムと恐竜と大野市 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎



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2018年08月14日

怖い思い出。北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎

室堂の高い山から南西の方角にみえる薬師岳。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

北アルプスの再奥地の楽園の雲ノ平。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎岳とそのカールのもよう。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

黒部五郎小屋。三角屋根の小屋は印象に残る。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

三俣蓮華岳と三俣山荘。オーナーは伊東正一氏の一族。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

1979年当時「晴嵐荘」は都はるみが大音量。


北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏

湯俣温泉「晴嵐荘」の食堂のようす。

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
(高瀬ダムの建設で地下水位が上がったって崖の崩落が続いた)

(本文)

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りた。真上で雷が炸裂する夜をテントで過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。この間もうかれこれ三泊。夜行寝台で上野駅から富山駅に移動したのであるが、準備の疲れがあった。槍ヶ岳に向かう行程を切り上げて伊東新道を青嵐荘まで下った。1979年夏のことであった。

 伊東新道はこの下山から四年後に廃道になった。伊東新道は登山地図には明確に書かれた道であった。道の状態はこのときすでに廃道といってもよかった。川沿いの傾斜がきつい高巻は砂地になっていて、上から崩れている状態がつづき、踏み跡を確かめることができなかった。靴を垂直に置けない傾斜した砂地は脆く、いつ滑るか知れない。砂の斜面は遙か下の湯俣川に崩れ落ちていた。疑いをもたないほどに明瞭に印刷された伊東新道に首を傾げても、危険はその状態を理解できないまま地図を信じている気持ちがつづいた。地図の記載は過去にあった事実である。この事実は情報なのであるが、事実が変わっているから情報は書き換えなければならない。このことへの理解が不足した。一般人の一般的な登山の行程にこのように地図にある情報が事実と違うことなど想定されなかった。

 1983年に伊東新道は廃道になった。ある橋が壊れたことによる。2018年8月の時点で、伊東新道を再建する動きがあるがまだ一般の人の登山ルートにはなっておらず熟達者でも難しい。

 伊東新道から槍ヶ岳に登るルートとしての選択は現在はない。湯俣温泉から湯俣川を直ぐに左にとって北鎌尾根に向かうルートは登山者の憧れの対象であった。北鎌尾根コースはあとでふれる。

 伊東新道を使って三俣蓮華岳に向かう登山者は少なかった。登山者が少ない山道は荒れる。荒れた果てに廃道となった。登山者が少ないのには理由があった。バス事情といった社会的な理由と吊り橋など登山道維持のための自然にまつわる理由の二つが相乗作用した。

 登山者が少ない伊東新道は荒れた。登山雑誌では伊東正一氏の英雄的な活躍をもてはやしていたことと、登山地図に明瞭に記載された登山路である。情報は登山雑誌と登山地図に限定される。この情報を信じ込んでいるから山小屋の管理人に確認することなど思いもよらない。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊したため登山道としては利用できなくなった。利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊東新道はその後2017年ころ雲ノ平山荘のオーナーによる伊東新道の探索・登山をしている様子をNHK が放送した。道だったところには木が生い茂っている。とても道とは思えない状態だ。探索したのは伊東新道を開いた人の子孫であった。山なれした人でも手を焼く難所になっていた。伊藤新道は1983年に吊り橋が崩壊するなどしてして通常の登山道としては利用できなくなった。あえて利用するとなると沢登りの装備と経験が要る。三俣山荘から湯股川への降り口付近だけは道があるが誤って下ると取り返しがつかない。

 伊藤新道は湯俣温泉から湯俣川に沿って遡上し三俣山荘に至るルートである。伊藤正一(1923年から2016年6月17日)氏が1956年に開いた。途中、湯俣川をに5つの吊り橋を架けていた。伊藤正一氏が経営する三俣山荘屋、雲ノ平山荘への補給路として使われていた。その後北アルプス奥地への資材運搬がヘリコプター利用にかわった。物資輸送路としての使われない伊東新道は1983年に吊り橋が崩壊したことによって廃道になった。

 その状況はどうだったか。湯股川に架かる第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地は巨大な岩が崖上50m以上にわたって連なっている。2009年時点ではlpmp巨岩は崩壊していなかった。それが2010年には崩壊した。影響で流れが変わって大激流になったためにわたれなくなった。

 地図情報あるいは雑誌情報はいつでも過去のものである。この情報は現実には追いつかない。山と渓谷誌2010年8月号は、第一吊橋跡上部左岸の大崩壊地の崩壊前の情報を掲載している。川を渡ることができるといているのだが、巨岩の崩落で川は激流となったために渡ることができない。通過するには高巻きすることになり、さらにロープ(ザイル)を使っての5m懸垂下降が加わる。普通の登山者が足を踏み入れてはならない道に変わった。

 谷地の登山道はいつでも崩落がつづいている。もろい岩肌そして砂地は絶えず崩れている。崩壊地以外の登山道も人が通らないから樹木に覆われるなどする。道とがいえないほどに荒れている伊東新道である。だから一般登山者は近づいてはならない。熟達者でも通行の危険は崩壊がつづいていることなどもあって極度のものである。

 北鎌尾根ルートからの槍ヶ岳登山は憧れの対象であった。少しの岸壁経験でやれると生意気をすると泣きをみる。山歩きをして一年か二年で岩登りの真似事をした男がベテランと二人で北鎌尾根ルートで槍ヶ岳に登ろうとした。疲労と恐怖が頂点に達して岩稜にへたり込んで泣きだした。登山はいつでも英雄主義がつきまといわが身を省みずに雑誌の世界の英雄に自分を写すことがある。生意気かつ軽薄な男の北鎌尾根でのざまであった。

 湯俣から吊橋を渡り湯俣川との合流点を水俣川沿いの道をとって進めば北鎌尾根ルートにさしかかある。現在の北鎌尾根ルートはかつての伊藤新道と同じように崩壊が進行している。上流の吊橋は落ちていて一般道としても面影は全くない。千丈沢と天丈沢の合流点を含めて千天出合(せんてんのであい)までの行程のの崩落は激しい。岩稜と岸壁の登山の技術を要する北鎌尾根よりも途中の崩壊地を通過することのほうがが難しい。

 登山地図に明瞭にルート表示されていてもそれを真に受けてはいけない。その情報は過去のものである。情報が地図に記載されたその翌日に事実は変化しているかも知れない。1979年夏に地図を首をかしげながらの伊東新道の下山路であった。

 恐怖に震えての伊東新道下山を経験した。岩稜登山は手足三カ所を付けていれば安定は確保できる。下は奈落の底の急斜面であれば踏み跡の消えた砂地を歩くことは運を天に任せたものであった。くわばわくわばらの下山路であった。

 このような危険に遭遇するくらいなら槍ヶ岳をへて上高地に向かうのであった。

 伊東新道はなぜ崖崩れと吊り橋が壊れて廃道をよぎなくされたのか。関係者が要因を指摘しているのでそれを拾い上げて考察をする。

 伊東新道は昭和28年から着工、3年後の昭和31年秋に完成した。この道を使って7年がかり(昭和38年)で三俣山荘と雲ノ平山荘が建てられた。登山路は北アルプス最奥地へのルート開拓とあわせて山小屋設営が目的であった。

 昭和54年、高瀬ダムの完成で大量の水を貯水したことにより付近の地下水面が上がった。ダム周辺の山全体が膨らんで崩れやすくなったのである。湯俣の谷も各所が崩壊、桟道も落ちた。湯俣川のあちこちから出ている亜硫酸ガスは吊り橋のワイヤーを腐食させる。昭和44年からの高瀬ダムの工事により登山者が激減した。ダムゲートでの交通の制約とともに大町からのバスが廃止された。このために高瀬からの入山者がさ激減した。

 登山者が大きく減ると登山道は廃れる。伊東新道はて5つの吊り橋の全部落ちてしまった。昭和58年には通行困難な状態に陥り廃道となった。

 雲ノ平に下る三俣蓮華岳の麓(ふもと)に行くには、上高地からと烏帽子から行く二つの道があった。どちらからでも二日がかりである。悪天候になればさらに日数が増える。往復には四日かかる。ヘリコプターで資材を運搬するのはのちに始まったことである。戦後すぐのころには人が荷を背負って行くしかなかった。山小屋を建てるためには一日で登れる道が求められた。

 戦後一年目の昭和21年、伊藤正一氏が湯俣川を下ったのち谷全域を調査するために七年間を費やした。伊東新道の建設工事着工は昭和28年である。ダイナマイトによって岩壁を打ち砕いて道をつけた。三年後の昭和31年秋に伊東新道は完成した。

 昭和38年になって三俣山荘と雲ノ平山荘が完成する。ボッカ(歩荷)による資材の運び上げであった。伊東新道が開通してから七年がかりの建設工事であった。三俣山荘ならびに雲ノ平山荘は北アルプス最奥地に安全に分け入ることに大きな役割を担った。山小屋は暴風雨から登山者の身を守るのに欠かせない。ことに大衆登山が普及するほどに山小屋のもつ意味は大きくなる。山小屋があることによって小さな装備で迅速に北アルプスを歩くことができる。

 北アルプスの槍ヶ岳をめざしての大縦走コースの裏銀座登山路はづっと槍ヶ岳を眺望する。遠くに浮かぶ槍ヶ岳ほど神々しい山はない。伊東新道は湯俣川の谷に深くはいるまでは槍ヶ岳をみながら歩くことができる。湯俣川の槍ヶ岳眺望の地である展望台までのコース、つまり三俣山荘から片道二時間の道が整備されている。往復四時間のコースで槍ガ岳の眺めを堪能することができる。険しい硫黄尾根の景色は圧巻である。鷲羽岳の森林の緑は雄大である。湯俣川はさまざまな水の色をみせる。

 伊東新道の復活のための取り組みがなされている。つくってもまた崩れるという状態の湯俣川沿いの道である。尾根筋つまり稜線の道は安定しているが、谷筋の道は壊れやすい。上高地にむかうターミナルの地、沢渡に橋が架けられて新道が通ると、旧道はすぐに崩れ落ちた土砂で道が消えてしまった。

 ダムをつくると流れ込む川筋の地下水位が上がって膨張現象が発生して、思わぬ事象を引き起こす。日本の谷は深く急峻であり崖はつねに崩れている。手の施しようがないとえる。上高地の玄関口の釜トンネルの下流の梓川の崩落現象をみればわかる。

 湯俣温泉に一つだけ開いている晴嵐荘は青空の下にあった。山小屋で人心地ついた夕食には山菜の天ぷらがでた。晴嵐荘では都はるみのレコードを大音量で流していた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだとしみじみと思った。オーディオもよいものだととも。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。オーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。だれはばかることなく大音量で都はるみを流しているその無邪気さがあった。1979年夏のことである。湯俣温泉は晴嵐荘だけが営業してた。いまも同じである。少し下ったところにある湯俣山荘があるがずっと営業はしていない。

 命を運に預けるような崩壊した伊東新道を下って青嵐荘で生きた心地になる。都はるみのレコード大音量で流しているを無邪気な青嵐荘の老夫婦であった。これは平和な光景なのかも知れない。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた。虫をひょいとつかまえて何々だと教えてくれた。虫をみるために山を歩き晴嵐荘に立ち寄ったのであった。宿泊者はこの人だけであった。湯俣川の下流には葛温泉がある。その先は高瀬ダムである。川は大町に流れ下って不思議な大迂回ををして川中島を流れて行く。その先は信濃川となって日本海に注ぐ。山道には昆虫に目を向けている人もいるのである。25歳を超えない青年であった。昆虫の知識をどのようにして得て、興味をどのようにつなげているのだろう。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への下山であった。余った日取りを葛温泉でのくつろぎに費やした。大町は立山(たてやま)登山、剱岳(つるぎだけ)登山ほかで何度も足を運ぶことになった。

2018-08-13-2-in-the-summer-of-1979-ito-ruto-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎
福井市で路面電車をみる、駅前に昔のままのレコード屋があった 執筆 甲斐鐵太郎
九頭竜ダムと恐竜と大野市 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

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湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ.宿泊者に昆虫好きの青年がいた. 執筆 甲斐鐵太郎

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ。

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」は大音量で都はるみが。


湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」の内湯は濁り湯。

(タイトル)
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎

(本文)

 音楽を聴く。車でかけていたCDは面白くないものだった。「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」という音楽だ。機会があって家のオーディオにそのCDを載せたら面白かった。静寂を表現するシンフォニーを騒音が混じる車のなかで聴くのは音楽の持ち味を消すことだった。

 クラシックのオーケストラの音は小鳥の小さな小さなさえずりを表現することがある。「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」はそのような音楽だった。シンセサイザーによって演奏する音楽だから彩り豊とは言いにくい。「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」はそういう音楽だった。

 「八ヶ岳シンフォニー・フォレスト」をかけたのは安らぎを醸すためであった。穏やかな旋律の流れはいたずらな刺激しない。急に大音量になったりアップテンポに切り替わることがないこの音楽は呼吸に調和し身体を緩やかな状態にする。

 ユーチューブの音楽ソースを再生して楽しもうと考えてBOSEの小さなアンプと金網で囲われた本ほどの四角いとスピーカーにアンプを組み込んだ大ぶりのウーハーの組み合わせて使った。パソコンのスピーカーの音とは比べものにならない良い音がでる。

 これを弾みにパソコンを据えてあるところにはオーディオを配置した。ノートパソコンを持ち運んでは機器につないで音楽を聴きユーチューブの動画もみる。

 捨ててしまおうと考えていた小さなスピーカ−を鳴らすとモヤッとしている。それならばと少し大きいのを持ちだす。なかなか良い。ヤマハのスピーカーの名のとおったのは素人のオーディオファンを満足させるには十分だ。

 アンプは10台をこえる数がある。一人では持ち上げることができないほどのNECのアンプは別荘に運ぼうと玄関先まで移動したが何年もそのままだ。

 組合わせて使うヤマハの30僖Α璽蓮爾組み込まれた1000という数字のスピーカーは単体で31kgもあうから二階にはとても持ち上げる気力はない。アンプも重すぎるから同じだ。素直な音のこのアンプと30僖Α璽蓮爾付いた金網の保護が付いたのとを組合わせて使っていた。スピーカーは家具の上に隙間があったので横にしてあった。降ろすのも面倒だからアンプは下において使うことになりそうだ。置き場がないとはいえ重いスピーカーをよくも持ち上げたものだ。火事場のバカ力にであった。

 オーディオと音楽のことで印象深いことがある。

 北アルプスの裏銀座コースを富山側から歩き、薬師岳(やくしだけ、標高2,926m)に登って雲ノ平に降りてテント泊した。これが二泊目。真上で雷が炸裂する夜を過ごすのは気持ちの良いものではなかった。雲ノ平から黒部五郎岳(のぐちごろうだけ、標高2,840m)をへて三俣蓮華岳(みつまたれんげだけ、標高2,841m)に登った。テント泊がつづくと披露する。山が嫌になって行程を半ばにして伊東新道を青嵐荘まで下った。

 伊東新道はこの夏の下山から4年後には廃道となった。登山地図に明瞭に記載された登山路であるから道の荒れ具合に首をかしげた。伊東新道を下ったのは1979年の夏のことである。このときすでに廃道といってもよい状態であった。川沿いの高巻は傾斜がきつい上に踏み跡がない。砂が崩れれば遙か下の湯俣川に墜落する。ザイルの携行などない登山であるから運を天にあずけての下山であった。現在(2018年8月現在)伊東新道を再建する動きが伝えられているが、伊東新道の現状ルートが途中でとぎれている。

 湯俣温泉の晴嵐荘の空には青空が広がっていた。晴れた午後の山小屋で人心地ついた。

 晴嵐荘では都はるみのレコードを大音量で流していた。CDのない時代である。レコードから直に音を取っていたのかテープを回していたのかは覚えていない。ずっと都はるみなのである。音楽はよいものだと思った。それは娑婆はよいということなのかも知れない。晴嵐荘の老夫婦は都はるみが好きなのである。そのオーディオはどのような内容のものだったか覚えていない。誰はばかることなく大音量で都はるみを流しているその無邪気さがよかった。婆さんが「あなたのお母さんは身体が大きな人でしょう」といった。その通りなのだが何故わかるのだろう。湯晴嵐荘は代替わりして営業している。俣温泉はで営業しているのは現在は青嵐荘だけである。

 宿泊者に昆虫好きの青年がいた虫をひょいとつかまえて何々だと説明する。虫をみるために晴嵐荘に滞在したのだろう。青嵐荘を下ったところに葛温泉があり、その先に高瀬ダム。高瀬ダムは大町につながる。

 槍ヶ岳から穂高岳に向かう登山を途中でやめての大町方面への湯俣温泉に下った。余った日数を葛温泉でくつろいだ。大町は立山(たてやま)登山、剱岳(つるぎだけ)登山ほかで何度も足を運ぶことになった。

2018-08-13-2-harumi-miyako-and-audio-of-yumata-seiran-sou-

(写真と文は甲斐鐵太郎)

北アルプス 廃道寸前の伊東新道を湯俣温泉に下った1979年夏 執筆 甲斐鐵太郎
湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ 執筆 甲斐鐵太郎
福井市で路面電車をみる、駅前に昔のままのレコード屋があった 執筆 甲斐鐵太郎
九頭竜ダムと恐竜と大野市 執筆 甲斐鐵太郎
日本平と久能山東照宮 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎

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湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」の都はるみとオーディオ

湯俣温泉「晴嵐荘」は大音量で都はるみが。

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2018年07月31日

ある知り合いは何気なく上高地に遊びにいってそのまま奥穂高岳に登ってしまった。若い力は奥穂高はものともしなかった。

私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義

やるせないモヤモヤは空に告げて慰めて涙を流すしかない」

私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎

(本文)

 登山は英雄主義とロマンチズムだ。天然自然の美を歌うのは感傷主義でもある。感傷主義は英語の方が伝わりやすい。センチメンタリズムである。このようなものがないまぜになっての山と山登りである。登山雑誌はこれを煽(あお)る。都会に暮らす若者は昭和40年代には山に繰り出した。夜行列車を塩山駅で降りて、そのまま歩いて大菩薩峠いく人が多くいた。大衆登山の黎明期には穂高でもそうだ。穂高岳や槍ヶ岳そして剱岳に登ることが英雄であった。登山はヒロイズムであったのだ。

 登山雑誌に登山をするモデルになっている若い女性を知っている。稽古事をつうじて妻と娘の知り合いだ。応募して選ばれた。夏山登山の編集は一年前に行われる。あの山にはこの人ということでモデルを振り分ける。NHKテレビは女優に登山させて山の番組をつくる。雑誌版のモデルである。妻と娘は雑誌に掲載されたモデルの活躍をうらやましい。その人は東京の下町の出身だが大阪に転勤した。妻は大阪にでかけて食道楽の大阪を楽しんだ。

 ある知り合いは何気なく上高地に遊びにいってそのまま奥穂高岳に登ってしまった。手回り品はない。若い力は奥穂高はものともしなかった。好天であった。

 この人は本式に登山を始めた。そして登山クラブをつくった。登山クラブには妻になる女性がいた。活発な活動をしたあとでの長い休みがつづいていた。2年前に夫人が槍ヶ岳に登りたいといった。夫婦と昔の登山仲間で表銀座を縦走した。中房温泉から燕岳、大天井岳、槍ヶ岳へと尾根筋を歩いた。表銀座コースだ。大天井岳から槍ヶ岳に向かわずに常念岳を経て安曇野に下る順路も表銀座コースになるらしい。70歳を前にして夫婦は山に登った。

 山に目覚めたその人は給与を前借してまで山に足を運んだ。登山用具はゴローの靴をいくつもそろえ山スキーにも熱中した。ザイルを使っての岩登りもするようになった。一人前の山男に変っていった。

 表銀座コースで槍ヶ岳に登る一年前に事件があった。南アルプスの宝剣岳登山の基地となる千畳敷カールのホテルに滞在して山を楽しもうと計画した。ロープウエイで行けるホテル千畳敷に山登りなどしない友人を誘った。意気込んで千畳敷に向かっているときに急変がおきた。身動きが取れない状態だった。甲府市の公立病院に駆け込んで。そのまま一ヵ月入院した。退院後しばらくして原因がわかった。肺疾患であった。病院を探して治療をおこなった。この夏に肺疾患のため倒れた。別の臓器に疾患が原因だっかかも知れない。

 肺疾患がわかった翌年の5月には諏訪地方は7年に一度の御柱祭りがあった。私は塩尻駅前の宿に1週間泊まっていたの。蓼科山麓の佐久側にその夫婦の別荘がある。御柱の合間に夫婦を訪ねた。5月の真っ青な空の日であった。思い立って秋にも行った。

 夫婦の遅い秋の別荘滞在の水道の凍結防止など冬支度のためであった。肺疾患のことを夫人が語り身体を冷やしてはいけないのだと冗談のように言っていた。病を苦にしていない気配であった。一時間の滞在の間に鹿教湯温泉に宿を手配して辞去した。

 この夫婦の楽しみは老後に別荘で過ごすことであった。とくに夫人はこの願いが強い。普段は東京の下町で暮らしている。

 あくる年、つまりこの5月に夫婦の別荘の近くまでいった。別所温泉への道が別荘の近くであった。迷ったが投宿の時刻を考えて通過した。この2カ月のち、7月に終止符が打たれた。この人は編集の技が優れていて定年後も乞われて職場にでていた。また編集の仕方などの講習を頼まれることもあった。職場ではただ一人髭を生やしていた。生き方に誇りを持っていた。お洒落であった。

 知人のもう一人は脳溢血に襲われた。つづいてに難病を併発した。身体の動きが悪くなった。八ヶ岳連峰の東側に別荘で寛(くつろ)ぐことを楽しんでいた。身体が効かなくなると出かけるのに助けがいる。この人は地方公務員を勤め上げた人であり、人の世話をすることを生きがいにして過ごしてきた。

 人の明日はわからない。明日がわからないからは不安である。明日がわからないから人はだれもが不安なのだ。イエス・キリストはいう「汝、明日を煩うな」と。

 人には大きな願いもあれば取るに足らない楽しみもある。好きだった音楽も心が閉ざされると取り合わなくなる。好きな料理だってそうだし、好きな所にだって行きたくなくなる。

 人の心はいつも悲しい。面白おかしくふるまっていても心の奥底は悲しさに沈んでいる。

 空の輝や、流れる白い雲をみても、森の深い緑に抱かれていても、風の歌を聴いても、人は悲しい。人はやるせなさ、むなしさ、苦しさにもだえる。サトウハチロウが詩をつくり加藤和彦が曲をつけザ・フォーク・クルセダーズが歌う。苦しさは明日につづき、むなしさに救いはない。やるせないモヤモヤは、空をながめ、空に告げて慰めて涙を流すしかない。北山修は精神科医になった。「あの素晴らしい愛をもう一度」と歌う。

 山に行くのも林を散策するのも感傷と諦念が入りまじる。北原白秋は水墨集の「落葉松」で「からまつはさびしかりけり、たびゆくはさびしかりけり、世の中よ あはれなりけり、常なれどうれしかりけり」と歌う。寂しく哀れであるのが世の中である。

2018-07-23-2-kamikochi-hymn-part-2-mountaineering-and-romanticism-and-sentimentism-writing-tetutaro-kai-

(写真と文は甲斐鐵太郎)
私と上高地−その4−槍ヶ岳・穂高岳登山と上高地 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その3−上高地帝国ホテルと大正池界隈を歩く 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その2−登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎
私と上高地−その1−槍ヶ岳と穂高岳のあとの休息地・上高地 執筆 甲斐鐵太郎

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2018年02月21日

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ) 旅行家 甲斐鐵太郎

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

槍ヶ岳。霧ヶ峰高原、車山付近。黒い車が車山方面に向う。

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

槍ヶ岳。霧ヶ峰高原、車山付近。白い黒い車が強清水方面に向う。

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

八島湿原の丘の上からの槍ヶ岳遠望。高原の秋の始まりのころ。

(タイトル)
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

(本文)

 槍が岳は標高3,180 m。日本で5番目に高い山であるが印象としては日本2番目である。こんなことをいうと2番から4番のファンはふくれるだろう。上高地を経て槍沢を登り詰めて行く道、富山市を経て裏銀座コースをたどって行く道などいくつかのルートのことが思い出される。いつかは表銀座コースで槍ヶ岳をめざしていながら小梨平が恋しくてルート変更したこともあった。いずれも夏の盛りの北アルプス登山であった。

 中央道諏訪インター付近からの槍ヶ岳、塩尻市からの槍ヶ岳、そして霧ヶ峰や美ケ原といった高原から槍ヶ岳の遠望すると遠い昔のことが思い浮かぶ。槍ヶ岳登山のために夏の休暇を丸ごと1週間当てていたころがあった。やることが多くなって生活にさまざまなしばりがかかるようになっているので遠い昔の槍ヶ岳登山が懐かしい。

写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎。


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2017年12月15日

自転車の世界を垣間見る 自転車好きにはためになるかも知れない情報です。

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2017年12月14日

上高地 晩夏

上高地 晩夏

上高地の梓川沿いを歩いた。9月17日のことだ。岳沢は色づいており所どころ気が早い木が真っ赤だ。


上高地 晩夏

 上高地の梓川沿いを歩いた。9月17日のことだ。岳沢は色づいており所どころ気が早い木が真っ赤だ。上高地の秋は早い。そして春は遅い。

 夏の間に遊びに行こうと考えていて何時しか9月も中旬になった。午後3時45分になると日は少し西に傾いたたから影が伸びる。写真は真昼の青さが赤みにかわる。売れる写真はもう撮れない。

 人が随分と少なくなった。皆、ザーときてサッサと帰っていく。この日の宿は松本だ。最終バスの時刻を気にしていればよい。上高地はだれもが良い景色だという。晴れたらのことだ。

 山の斜面に沿って差し込むお日さまが黄ばんだ化粧柳の色を強める。この付近の梓川は水青い早瀬である。寒くなってきた。松本で日本酒をやって宿に入ろう。「上高地 晩夏」は同時に「上高地初秋」でもある。高い山が垂直に立ち上がる上高地は夏と秋が混在している。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)

syokota2 at 10:34|PermalinkComments(0)

2017年11月25日

車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
霧ヶ峰高原の強清水の交差点が向こうに見える。山は雪になった。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
夏には緑の世界も冬にはモノトーンになる。日当たりに雪はない。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
樹木が伸びるのを抑えているのが霧ケ峰高原である。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
たおやかな峰々が連なっている霧ヶ峰高原である。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
八島湿原の入り口にある駐車場に車は1台きりであった。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
カラマツの間伐が行われていた。真冬を前にしての作業だ。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

 八島湿原あたりの霧ヶ峰高原は景色がよい。車山の姿が美しい。遠くには蓼科山が顔をだす。6月にこの地を訪れたらいい。ズミの紅を帯びた白い花が一面に咲いている。エゾリンゴや姫リンゴの仲間のズミが群生しているのだ。

 遠くになだらかな姿の車山とそれを象徴する白いレーダードームが見えている。レンゲツツジが咲きズミが咲き乱れる6月の八島湿原付近の景色である。

 11月19日夜から20日にかけて霧ヶ峰高原に雪が降った。断続する降雪であった。山影の道は凍結している。

 八島湿原にでた。5僂曚匹寮兩磴あった。遠くにある車山が白くなっているからその当たりは10僂曚匹砲覆辰討い襪里世蹐ΑH媾に出現した初頭の霧ヶ峰高原の景色である。八島湿原の冬は静かだ。高原を渡る風はない。小鳥の声がしないのは冬になると生息領域を超えてしまうからだ。

 空気は凛としている。夏に咲いていたノリウツギの白い花びらは薄茶に染まっている。アザミの花はドライフラワーになった。冬に彩りをなすのはマユミの赤い実だ。降った雪が積もっていて積雪を多寡を示す。ダケカンバの皮がむけている。八島湿原を代表する樹木である。

 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。

 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。

 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。

 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。

 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。

 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。

 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。

 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40僂曚匹澄スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。

 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。

 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。

 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。

 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。

 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。

 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。

 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。

 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。

 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。

 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。

 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。

 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。

 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。

 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。

 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。

 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。

 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)



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アサギマダラが蜜を吸った花に雪が綿帽子となる晩秋の八島湿原。

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
11月20日には二つ玉低気圧で山は雪になった。薄化粧をした。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
八島湿原の冬に彩りをなすのはマユミの赤い実だ。雪を被る。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
アザミの花はドライフラワーになった。湖面は凍っている。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
夏に咲いていたノリウツギの白い花びらは薄茶に染まっている。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
アサギマダラが蜜を吸った花に雪が綿帽子となる晩秋の八島湿原。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
八島湿原の入り口に立つ。向こうに車山が見える。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
夏には賑わう八島湿原を見下ろす丘の上は白い雪になる。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

 11月19日夜から20日にかけて霧ヶ峰高原に雪が降った。断続する降雪であった。山影の道は凍結している。

 八島湿原にでた。5僂曚匹寮兩磴あった。遠くにある車山が白くなっているからその当たりは10僂曚匹砲覆辰討い襪里世蹐ΑH媾に出現した初頭の霧ヶ峰高原の景色である。八島湿原の冬は静かだ。高原を渡る風はない。小鳥の声がしないのは冬になると生息領域を超えてしまうからだ。

 空気は凛としている。夏に咲いていたノリウツギの白い花びらは薄茶に染まっている。アザミの花はドライフラワーになった。冬に彩りをなすのはマユミの赤い実だ。降った雪が積もっていて積雪を多寡を示す。ダケカンバの皮がむけている。八島湿原を代表する樹木である。

 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。

 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。

 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。

 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。

 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。

 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。

 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。

 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40僂曚匹澄スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。

 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。

 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。

 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。

 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。

 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。

 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。

 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。

 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。

 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。

 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。

 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。

 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。

 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。

 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。

 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。

 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。

 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)




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山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。

霧ヶ峰高原 晩秋
雪が降っていた。11月20日には二つ玉低気圧で山は雪になった。


霧ヶ峰高原 晩秋
湿原に下る木道の階段だ。正面に車山が見えている。


霧ヶ峰高原 晩秋
何時も見る八島湿原の景色である。湖面は凍っている。


霧ヶ峰高原 晩秋
目の前の池は凍っている。高層湿原の秋の終わりの風景だ。


霧ヶ峰高原 晩秋
カメラを持った人がいた。よく来るのだという。冬の風景も良いのだと。


霧ヶ峰高原 晩秋
車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。


霧ヶ峰高原 晩秋
八島湿原の向こうに鷲ヶ峰がみえる。駐車場に車はない。


霧ヶ峰高原 晩秋

 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。

 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。

 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。

 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。

 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。

 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。

 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。

 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40僂曚匹澄スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。

 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。

 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。

 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。

 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。

 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。

 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。

 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。

 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。

 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。

 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。

 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。

 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。

 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。

 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。

 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。

 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。

 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)



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2017年03月12日

月は東に日は西に。そして富士山が見える。陽が落ちてから38分が経過した18:08:50の撮影。

【‎2017‎年‎3‎月12日の日記】
‎2017‎年‎3‎月‎11‎日、東日本大震災から6年目のこの日、河口湖では午後5時30分に太陽が赤く山に沈みました。

2017‎年‎3‎月‎11‎日、‏‎18:08:50撮影。富士河口湖町小立7187付近からの富士山。

【下の写真の撮影の内容などの説明は下欄にあります】

撮影地は山梨県南都留郡富士河口湖町小立7187付近。
辺りは原生林の木立の中を走る道路がつづくが
健康科学大学がある場所では木立が消えて富士山が丸見えになる。
見慣れない富士山の形になる。左斜面が大沢崩れでえぐられている。
河口湖の陽は17時30分に沈んだ。月は東に日は西にである。
撮影日は2017‎年‎3‎月‎11‎日であり、時刻は‏‎18:08:50。
東の空には日没と同時に月が昇った。「望」という満月は12日だ。
しかし12日の正午に「望」いなるので11日の夜は満月と言ってよい。
月は東に日は西に。そして富士山が見える。陽が落ちてから38分が経過した18:08:50の撮影である。
富士山は標高が高いから地平から見る日没の後でも陽が当たっている。
その陽もあたらなくなって空からの薄明かりの反射と月の光によって富士山が見えている。
これから‎10分経過した‏‎18:19:10の撮影を最後にカメラはオートフォーカスが効かなくなった。
撮影地の近くにはリゾートホテルが幾つかあって土曜の夜なので驚くほどににぎわっていた。

下にある河口湖からの撮影では前に垂れる雲によって富士山の頂上が見えない。
雲の前に進め、ということで富士山に向かって駈けのぼる。
原生林の道路を走って行くうちに健康科学大学がある場所では木立が消えて富士山が見えるようになった。
雲の向こうに抜けたのである。
200mmの望遠レンズでの手持ち撮影は40分の1秒にして絞りは4である。感度は1600。カメラはCanon EOS 5D。
古いけれど35mmフィルムと同じ撮像面積をもつデジタル一眼レフカメラである。
オートフォーカスが効かなくなるまで撮影した。両手は寒さに凍えた。


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2017年01月01日

一富士二鷹三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)を初夢にみると縁起が良いこととされている

12月29日午後12時34分の富士山。大沢崩れが切り込んでおります。火山礫でできた山体は脆いようです。富士山が二つに割れるか、それよりも先にもう一度噴火するか、わかりません。大沢崩れが深く山体を切り裂いております。


12月29日午後12時34分の富士山。大沢崩れが切り込んでおります。火山礫でできた山体は脆いようです。富士山が二つに割れるか、それよりも先にもう一度噴火するか、わかりません。大沢崩れが深く山体を切り裂いております。


12月29日午後12時34分の富士山。大沢崩れが切り込んでおります。火山礫でできた山体は脆いようです。富士山が二つに割れるか、それよりも先にもう一度噴火するか、わかりません。大沢崩れが深く山体を切り裂いております。


(タイトル)
一富士二鷹三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)

(本文)
 カレンダーの挿絵に使われる富士山であり、おそらく富士山が一番多いだろう。

 遠くからもみえ、近くでみると圧倒される富士山である。富士山は火山活動によって出来上がったやまである。だから円錐形をしている。

 富士山は不二と書くこともあり、語呂合わせで不死につなげる。

  新年の始まりは日本では太陰暦を使用していたこともありグレゴリオ暦(太陽暦)の1月1日ではなかった。

 立春を新年の始まりと『山家集』が編纂された鎌倉時代には考えていた。このようなことで暦上の新年とは切り離して節分から立春の夜にみる夢を初夢としていたらしい。

 一富士二鷹三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)を初夢にみると縁起が良いこととされている。
 辞書に一富士二鷹三茄子について次のような説明がある。

 江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった「駒込富士神社」の周辺に鷹匠屋敷(現在の駒込病院)があり、駒込茄子が名産であったため、当時の縁起物として「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた。

 その他にこの3つの組み合わせは、『狂歌・家つと』、『続五元集』、『狂歌・巴人集』、『譬喩尽』、『黄表紙・盧生夢魂其前日』、『笈埃随筆』、『嬉遊笑覧』、『甲子夜話』、『俚言集覧』などの文献資料に記載されており、江戸時代初期にはすでにあり、それぞれの起源は次のような諸説がある。

 徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段富士山、鷹狩り、初物のなすを徳川家康が好んだことから富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」。
 富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉。

 富士は曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産品が茄子)。

 三のナスビまでは上のとおりである。四のあとに六まである。

 四扇(しおうぎ、よんせん)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)
「俚言集覧」に記載があり、同内容を挙げた辞典類の多くはこれを出典としている。

 別の説は、一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願う、という。

  夢は人が寝ているときに脳内に浮かぶ事柄である。思い出が登場したり、希望が登場したり、思いもしないことが登場する。眠っている間に人は頭の中を整理しているらしい。悪い夢もまた頭の整理のために役立っている。

 そのようなことだから良い夢をみたら喜んだらよい。良い夢が人の願望からでていることもあり、それほどの願望をもたなくても物凄く良い夢をみることもある。

 富士山をみると心が躍る。夏の青い大きな富士山をみても心が躍り、冬の真っ白な大きな富士山をみても心が躍る。富士山の姿は人の心を高揚させる。沈んだ気持ちも富士山をみると浮く。それは健康な人の心であってこそのことである。

 富士山にでくわして踊った心が富士山を撮影させたのが掲載の写真である。

【以下は富士山にまるわる余録記事です】

‎太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:04撮影。


太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:42撮影。


太陽が富士山の後ろに回ってしまった。 2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:31:36撮影。


これから富士山に太陽が引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:20:42。
前の林が嫌で場所を左40メートル移動したら富士山は頂上の左に落ちた。
これは失敗であった。判断を誤った。


富士山を撮影する人々。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:33:42。
陽が沈んだ後に頭上のイルミネーションが点灯する。


(タイトル)
山中湖村から見るダイヤモンド冨士。

(本文)
  2016‎年‎12‎月‎25‎日は晴れた日であった。晴れた日には富士山が見える。

 太陽の運行と富士山と立つ位置によって、太陽は富士山の山頂にかかる。これは引っ付くといってもよい。この状態の写真を撮りたがる人は多い。金剛とはダイヤモンドのことであり、その現象をダイヤモンド冨士と言っている。

 埼玉県からもそのように見えるし、朝日が富士山にかかる現象を富士山の西側から見ることもできる。
 富士山に間近い山梨県の山中湖付近からのが見応えがあるダイヤモンド冨士である。山中湖と富士山と山頂に落ちる太陽である。

 晴れた日の2016‎年‎12‎月‎25‎日15:31:12(午後3時31分)に山中湖村の花の都公園にいて富士山の写真を撮った。写真を撮ってもそれを売れないし、自分が満足し、生きていた記録になるだけである。生きていた記録であってもそれを誰も意識しないから記録は打ち捨てられる。

 そのようにして撮った富士山と太陽の写真である。山中湖付近からの落ちるようすは1月になっても見ることができる。山中湖村のホームページに位置が掲載されている。

  太陽が富士山に引っ付くと表現したのは、その後も太陽は沈まずに向こう側に差しているので、急いで有料の東富士五湖道路を西に走るとまだ高い位置にある太陽を見ることができる。冬には低い位置を太陽は運行している。太陽をジェット機で追い掛けていると昼がつづく。

 富士山に掛かる太陽を撮影したこの時は山頂の少し横だったこともあって山に掛かった太陽は2秒ほどで裏に消えた。


syokota2 at 21:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月26日

 晴れた日の2016‎年‎12‎月‎25‎日15:31:12(午後3時31分)に山中湖村の花の都公園にいて富士山の写真を撮った。

2016‎年‎12‎月‎25‎日は晴れた日であった。晴れた日には富士山が見える。

‎太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:04撮影。


太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:42撮影。


太陽が富士山の後ろに回ってしまった。 2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:31:36撮影。


これから富士山に太陽が引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:20:42。
前の林が嫌で場所を左40メートル移動したら富士山は頂上の左に落ちた。
これは失敗であった。判断を誤った。


富士山を撮影する人々。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:33:42。
陽が沈んだ後に頭上のイルミネーションが点灯する。


(タイトル)
山中湖村から見るダイヤモンド冨士。

(本文)
  2016‎年‎12‎月‎25‎日は晴れた日であった。晴れた日には富士山が見える。

 太陽の運行と富士山と立つ位置によって、太陽は富士山の山頂にかかる。これは引っ付くといってもよい。この状態の写真を撮りたがる人は多い。金剛とはダイヤモンドのことであり、その現象をダイヤモンド冨士と言っている。

 埼玉県からもそのように見えるし、朝日が富士山にかかる現象を富士山の西側から見ることもできる。
 富士山に間近い山梨県の山中湖付近からのが見応えがあるダイヤモンド冨士である。山中湖と富士山と山頂に落ちる太陽である。

 晴れた日の2016‎年‎12‎月‎25‎日15:31:12(午後3時31分)に山中湖村の花の都公園にいて富士山の写真を撮った。写真を撮ってもそれを売れないし、自分が満足し、生きていた記録になるだけである。生きていた記録であってもそれを誰も意識しないから記録は打ち捨てられる。

 そのようにして撮った富士山と太陽の写真である。山中湖付近からの落ちるようすは1月になっても見ることができる。山中湖村のホームページに位置が掲載されている。

  太陽が富士山に引っ付くと表現したのは、その後も太陽は沈まずに向こう側に差しているので、急いで有料の東富士五湖道路を西に走るとまだ高い位置にある太陽を見ることができる。冬には低い位置を太陽は運行している。太陽をジェット機で追い掛けていると昼がつづく。

 富士山に掛かる太陽を撮影したこの時は山頂の少し横だったこともあって山に掛かった太陽は2秒ほどで裏に消えた。



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2016年12月21日

富士山が麓まで白くなると野鳥は里に降りてくる(12月1日)

富士山が麓まで白くなると野鳥は里に降りてくる(12月1日)


(副題)富士山が雪を一面にかぶるとは12月になると樹林帯まで雪が降りてくる。そうすると野鳥たちは雪のないホテル地帯や別荘地帯に移動してくるので、宿の外の木にはカラの仲間や多くの野鳥が頻繁に姿を見せる。

(副副題)名前を告げると「夕食ない朝食付きで洋室希望ですね」と念をおされて、そうだと応えると予約成立である
富士山の降雪は早い。雪が樹林帯まで降りると野鳥が別荘地に非難するので冬の野鳥の観察に好都合だ  (12月1日撮影)


11月初旬には宿の庭に植えられたヤマモミジが鮮やかな朱に燃える。(11月初旬撮影)


富士山の雪が樹林帯まで達するとエナガやカラの仲間が別荘地帯に移動してくる。
写真はホテルの植木に来たエナガ  (12月1日撮影)


カラの仲間の群れにはヤマガラも混じる 写真はヤマガラ。(12月1日撮影)

(タイトル)

富士山が麓まで白くなると野鳥は里に降りてくる(12月1日)

(本文)

エナガ

 ここではエナガのことにふれる。

 エナガは尾が長く小さく軽いカラの仲間である。カラの仲間のコガラは尾が短いが体長は12から13 cm。翼開長は21 cm。ヒガラが一番小さくて全長は約11 cm、翼開長が約17 cmである。体長は約14 cm(12.5から14.5 cm)、翼開長は約16 cm。

 カラの仲間は茶色のヤマガラ、緑で大きなシジュウカラ、尾の長いエナガは大体判別できるが、コガラとヒガラをカラの仲間から瞬時に区別することは難しい。野鳥とカラの仲間のことを普段は考えていないことによる。

 頭の上の白い筋も特徴である。

 エナガ(柄長、学名はAegithalos caudatus)は、スズメ目エナガ科エナガ属に分類される鳥類の一種。エナガ科は世界で7種類が知られている。

 分布は、ユーラシア大陸の中緯度地方を中心にヨーロッパから中央アジア、日本まで広く分布する。日本では九州以北に留鳥または漂鳥として生息する。

形態。
 体長は約14 cm(12.5から14.5 cm)、翼開長は約16 cm。体重は5.5から9.5 g。体長には長い尾羽を含むので、尾羽を含めない身体はスズメ(体重約24g)と比べるとずいぶん小さい。
 黒いくちばしは小さく、首が短く丸い体に長い尾羽がついた小鳥である。目の上の眉斑がそのまま背中まで太く黒い模様になっており、翼と尾も黒い。肩のあたりと尾の下はうすい褐色で、額と胸から腹にかけて白い。雌雄同形同色で外観上の区別はできない。羽毛は薄褐色色の初列風切が10枚で野外では黒く見え、次列風切りが6枚で重ねると黒く見え、3列風切が3枚で他の風切羽より褐色味が強く、尾羽は6枚で内側3枚は黒色、外側3枚は黒色に白色の模様が混じる。
 学名は、長い尾をもつカラ類を意味する。和名は極端に長い尾(全長14cmに対して尾の長さが7から8 cm)を柄の長い柄杓に例えたこと由来し、江戸時代には「柄長柄杓(えながひしゃく)」、「柄柄杓(えびしゃく)」、「尾長柄杓(おながひしゃく)」、「柄長鳥(えながどり)」などとも呼ばれていた。

(以上,、カラの仲間にかんけいする文はウッキペデアを元にして、書き足している)


 金曜日の夜、仕事を終えて帰宅する道は西の方面であり、夏だとまだ高い太陽を追いかけることができる。12月になると午後5時には空は夕焼けが終わるころであり、それから30分もすると真っ暗になる。

 家に帰るのが嫌だなあーと思うと車をそのまま西に走らせる。大月付近で左に折れて河口湖に向かうか、そのまま直進して諏訪湖方面に行くかはその日の気分と日の高さによる。夏ならば諏訪湖に向かうが、冬になると暗い夜道を走るのが嫌だから左にハンドルを切って河口湖に行ってしまう。

 宿で一人で夕食など摂りたくないから、河口湖インター付近の書店で何冊か本を買い、宿の自動販売機でアルコール類を調達してチビリとやって夜を過ごす。夕食なしの宿泊者として宿の支配人にはしっかりと記憶されているので、名前を告げると「夕食ない朝食付きで洋室希望ですね」と念をおされて、そうだと応えると予約成立である。

 この宿は金曜日か土曜日に何度も同じような形式で利用している。富士スバルライン入り口近くにあって、富士山の全容をを部屋と食堂から仰ぎ見ることができる。12月初めのある日の午前6時40分頃に赤富士が出現したと馴染みのフロア係に告げられた。私はその時間には朝食前の朝風呂に入っていたのであった。

 富士山は12月になると樹林帯まで雪が降りてくる。そうすると野鳥たちは雪のないホテル地帯や別荘地帯に移動してくるので、宿の外の木にはカラの仲間や多くの野鳥が頻繁に姿を見せる。

 ヤマガラ、シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、エナガなどが混成して窓の前にやってくるので楽しいことこの上ない。

 庭の樹木の向こうには真っ白になった富士山が朝日を浴びて白く輝いている。

 富士山は何だかんだいっても見る人を感動させるということでは日本一のやまだなあー、と思うのであった。



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2016年12月17日

山道で、あるいは珈琲を飲んで休憩しているときにアサギマダラが漂ってくると、長閑(のどか)さが膨(ふく)らみます。

旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 27
(タイトル)
アサギマダラのゆがゆら飛びに学ぶ。
(サブタイトル)
アサギマダラの翅を模したブレード(羽)で柔らかい風をつくった家電メーカーがあります。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 8月10日撮影。)


下の写真の説明です。
夕涼みに登った陣馬山で撮影したアサギマダラ


(本文)

 この年も高原の夏鳥のノビタキには逢いました。

 同じ高原でカッコウの啼き声も聞きました。

 赤い花のレンゲツツジを見て、黄色い花のニッコウキスゲを見ております。

 これで夏にすませておきたいことは足りたように思っておりましたが、アサギマダラはまだ見ておりません。

 高原で過ごす時間が短すぎたのでしょう。

 東京都と神奈川県と境にある陣馬山にはアサギマダラがやってきます。この山は私の住まいから夕涼みに出かけられる格好のところです。

 この山でアサギマダラの姿を見て写真を撮影したのでした。

 フワフワと漂うように飛ぶアサギマダラは台湾や香港との行き来が確認されております。

 山道で、あるいは珈琲を飲んで休憩しているときにアサギマダラが漂ってくると、長閑(のどか)さが膨(ふく)らみます。

 アサギマダラの翅(はねの意味である)を模したブレード(羽)を扇風機に用いて送風ムラのない柔らかい風をつくった家電メーカーがあります。

 自然がつくりだした意味のある翅を人が真似たのですが、人が勝手に考えることよりも自然物である昆虫は理にかなった見事な造形をしていたのでした。

 アサギマダラの弓状にくねった翅は、ばたくときにうねるために小さな出力で大きな飛翔の力がでるようなのです。強い力というよりも、うんと小さな力で効率よく飛んでいくというように力を使うのしょう。

 飛ぶ様子をみていると如何にも、と思えます。

 人を恐れずにゆらゆらと近寄ってきて、向こうに行ってはまたこっちに来るアサギマダラは可愛気のある蝶です。

 霧ヶ峰高原から車山高原につづく高地には夏になるとヒヨドリバナが育ちますので、この花が咲くころにアサギマダラがゆれゆらと飛んでいるのです。

 車山高原に登る山道で小学生がこの蝶をよく捕まえております。人を恐れないことや捕まえようとしてもすると、パァと逃げないので、簡単に捕えれれてしまいます。

 車山の肩の駐車場の奥にあるコロボックルヒュッテの珈琲テラスでアサギマダラに出会うのを楽しみにしているのです。

 赤い花のレンゲツツジが終わって、黄色い花のニッコウキスゲが終わったころに、ゆらゆらと高原の大気にたゆたうアサギマダラに出会うことはこの地を訪れる人の楽しみであるのです。

 レンゲツツジとニッコウキスゲのころにもアサギマダラはこの高原で遊んでおります。

 夏至の日に、甲武信岳(こぶしだけ、標高2,475m)への千曲川源流を遡行する山道で、アサギマダラがゆらゆらと道中を一緒にしていたことがありました。このころの甲武信岳の頂上付近はシャクナゲが咲いておりました。甲武信岳は、無理にこの名前をつけたかのごとく甲州、武州、信州の境に山頂が位置し、晴れていれば眼下に甲府の街並みを眺めることができます。

(8月10日記載)

(読み返しておりません。誤字脱字そして不適切な表現がありますのでご容赦ください。)

syokota2 at 09:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月12日

2016年12月12日朝、飼い犬を庭で遊ばせるために犬舍を覗くと水入れに氷が張っておりました。初氷です。

午前7時20分林の上に朝日が昇りました。栗林には霜が降りておりました。
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ベランダの向こうの野鳥の園も霜がびっしりですがシジュウカラ、ヤマガラなどカラの仲間の朝の散歩道です。
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朝日を浴びる冬枯れのケヤキです。大きなケヤキになってしまいました。向こうに見える山は石老山。高尾山の近くあってより高い山です。皇太子が登山してからおとっずれる人が増えました。途中にある寺は歌人の寂連の菩提寺です。
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2016年12月12日朝、飼い犬を庭で遊ばせるために犬舍を覗くと水入れに氷が張っておりました。初氷です。

見上げると林の上に朝日が昇っておりました。この日は午前2時20分に起きて調べ物のために資料を読んでおりました。

土曜日から3本のカメラの読み物を書きました。

甲斐鐵太郎。

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2016年12月08日

標高が100m増ごとに気温はごとに0.6℃ずつ下がる。剣ヶ峰の標高は3,776.12mである。

写真は標高2,300mの富士山5合目の北西斜面にある奥庭で撮影した。


(タイトル)
コメツガ、カラマツから礫地帯につながる9月の富士山

(本文)
 春の遅くになって咲く花がフジザクラであり、大相撲でこれをしこ名にした押し相撲の力士がいた。富士山の名を冠するフジアザミは写真を撮影した9月25日には富士スバルラインの道脇に咲いていた。フジザクラはマメザクラのことであり力士は小兵であったからしこ名がよく似合っていた。フジアザミは大きなアザミでありハバヤマボクチの親玉である。

  標高が100m増ごとに気温はごとに0.6℃ずつ下がる。剣ヶ峰の標高は3,776.12mである。円錐状の富士山は上空からみれば植生が綺麗な形で分布する。森林限界は末端にあるのは富士山ではハイマツではなくカラマツである。珍しい現象である。その下部に亜高 山針葉樹林帯のコメツガ、トウヒ、シラビソが自生する。

 高山植物の多くは氷河期を越えてきたものでありハイマツもそのひとつだ。富士山は氷河期以降にできた若い山なので氷河の影響がないので、富士山では北アルプ スや南アルプスにあるようなハイマツ林が形成されない。ハイマツ帯に代わるカラマツ帯の上はオンタデやミヤマオトコヨモギなどの草本植物がまばらにあり、さらに上に行くと地衣類やコケ類のみ生育する世界になる。

  富士山に降る雪は森林地帯より上まで積もることがない。冬季に富士山が雪の傘をかぶったようになるのは森林地帯の上に積もった雪を見ているからである。

  コメツガ、トウヒ、シラビソにつづくカラマツ帯と赤茶けた火山礫の地帯が層をなして見える富士山であり、雪が来る前の9月25日に撮影した。この年の遅い初雪はそれからひと月後にあった。写真は標高2,300mの富士山5合目の北西斜面にある奥庭で撮影した。
  写真と文章は甲斐鐵太郎。


syokota2 at 20:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

富士山は静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。

写真は‎2016‎年‎9‎月‎25‎日、‏‎16:10:42の富士山

(タイトル)
富士山(3,776.12m、剣が峰の最高地点の標高)と噴火

富士山の噴火と造山活動と東京への影響を考える。
(宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。)

(本文)
 最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。

 この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。

 その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500から2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。

 新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前から約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前から約3,200年前の1,300年間と考えられている。

 山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。

 延暦19年から21年(800年から802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で噴煙は成層圏まで到達し江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。

 また宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されている。富士山は噴火する火山であり、その噴火がいつ起こってもよい状態にある。

地質学上の富士山[のことだ。

 地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。
現在の富士山の山体の形成は、大きく次の四段階に分かれる。

先小御岳
小御岳
古富士
新富士

 この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。

 古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1から2kmのところにあったと考えられている。

 2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市と富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現れとされている。

 プレートの観点からは、北アメリカプレートまたはオホーツクプレートと接するフィリピン海プレートの外縁部に位置し(ほぼ、相模トラフと駿河トラフを陸上に延長した交点に位置する)、すぐ西にユーラシアプレートとの境である糸魚川静岡構造線が存在するなど、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))ともいえる場所に位置している。

 富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。

 標高3,776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な姿は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ、芸術面でも大きな影響を与えた。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。

 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。

 これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。

 富士山は日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。

 また1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。

 日本の文化遺産としては13件目である。

syokota2 at 12:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月07日

碌山美術館や大王わさび田がある安曇野に広がる景色は早春賦がつくられた場所である。ここに午後9時過ぎに立っていた。

写真は北アルプスの白い山並みを水田に映す安曇野の風景
(5月3日午前9時45分に撮影)


(タイトル)
北アルプスの白い山並みを水田に映す安曇野の風景

(本文)

 ときどき通る高瀬川沿いの道だ。水を張ってある田には苗を植え始めていた。雪を脱ぎかけた鹿島槍ケ岳が水鏡に映っている。雪が解けて種まき爺々が現れる爺ケ岳が左に連なる。ミレーの種撒く人の姿だ。双耳峰の鹿島槍ケ岳の右には唐松岳、白馬岳が白いごつい姿でつづく。

 長野自動車道を穂高インターでおりたその先に雪の残る北アルプスの山並みと水田の景色があった。5月の連休の晴れた日の3日だ。魚津の寿司屋で美味い魚を食べることを楽しみに向かっている。碌山美術館や大王わさび田がある安曇野に広がる景色は早春賦がつくられた場所である。ここに午後9時過ぎに立っていた。風やわらかく水ぬるむころであるから早春賦にある風の寒さや名のみの春ではない。

 安曇野とは松本市の松本市梓川地区(旧・梓川村)とその北にある安曇野市、池田町、松川村を指すようであるから大町市は別になる。木崎湖や青木湖のある大町市まで行くと山が近くなり景色が変わる。梓川と犀川の西岸や高瀬川流域の最南部に広がる扇状地からはずれてしまう。

 白い雪の山脈と水田がのどかに広がる日本の景色を代表する安曇野の地である。午前9時に安曇野に佇んで夕日のころには魚津港にいて剣岳の雄姿と出るかもしれない蜃気楼に心驚かすのであった。

写真と文章は甲斐鐵太郎。

syokota2 at 16:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月01日

2016年11月20日正午。冬枯れた八島湿原には雪はきておらず少しだけ残ったシダの緑が目に鮮やかだ。

10月になって霜が降りる季節になると霧ヶ峰高原はぐんと寒くなる。寒い日もあるが陽が射して風がないときには春のようだ。

夏は緑の絨毯になる八島湿原であるが針葉樹を残して彼は色に変わる。旅行者が一人高層湿原の秋景色を見ていた。


八島湿原入り口の向こうには蓼科山が顔を出す。いつもの見慣れた光景である。枯れ枝とススキの冬ざれた高層湿原の風景であった。


2016年11月20日正午。冬枯れた八島湿原には雪はきておらず少しだけ残ったシダの緑が目に鮮やかだ。


八島湿原入り口の駐車場。2016年11月20日正午は薄雲が流れる天気であった。真冬でもここまで道が通されていて霧ヶ峰高原と八島湿原を散策できるのがいい。この傍の山小屋が通年営業している。


蓼科湖を下ったところにある北欧レストランの前菜。ニシンの酢漬けにマスタードをかけてある。


北欧レストランの料理。箸が遅いためにテーブルに料理が滞った。以前は牛だった肉料理が豚になって魚料理と組み合わされて出てきた。


(タイトル)
2016年11月20日正午に霧ヶ峰高原八島湿原にいた。

(本文)
 10月になって霜が降りる季節になると霧ヶ峰高原はぐんと寒くなる。寒い日もあるが陽が射して風がないときには春のようだ。それは1月2月の厳冬期においてもそうである。

  霧ヶ峰高原の八島湿原入り口の駐車場までは特別な大雪でも降らない限り除雪車が入って道が開かれている。松本方面からの道は閉ざされているが、諏訪方面からの道はスキー場の運行があるために年中開いている。

  諏訪からの道を八島湿原入り口の駐車場まで行くと真冬でもそこは手つかずの自然の様子である。
  機会さえあれば霧ヶ峰高原と八島湿原に足を運ぶ。

 あれこれとなす事が多いために2016年はこの地に出かける回数がいつもより少なかった。久しぶりだということで霧ヶ峰高原と八島湿原に登ったのは2016年11月20日であった。この日の正午に八島湿原を少し散策した。枯れくさい色の高層湿原であった。

 白樺湖と蓼科湖を経て北欧のニシンと肉料理のレストランには2時前に立ち寄った。1年ぶりのここでの食事であった。店の人とは山のことを少し話した。冬でも霧ヶ峰高原に足を運ぶ珍しい人と思っているのだろう。


syokota2 at 11:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年11月29日

想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。

想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。

2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。空の青は水の青となって高原に色を付けます。


八島湿原の駐車場から歩いていくと見える景色です。湿原が埋まってきておりわずかに残る池ですが、こういうのを池塘ともいうのでしょうか。


暖かい日になったこの日は池塘の草葉で越冬してる2センチメートルほどのトンボのように見える飛び虫が散策路の足元に幾つかおりました。


ノリウツギは七の水分が抜けてシオリになって枝についておりました。夏の名残を記録するシオリであるノリウツギの花の残照、残滓です。


アザミの大きな奴のハバヤマボクチです。薄紫色の花は枯草色になっておりました。背景は高山に生えるススキです。


色があればこれだろうと想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。


八島湿原に生えるダケカンバです。青い空、白い雲と調和するのがダケカンバです。緑の葉を付けていても、葉が落ちて枝だけになった状態でもダケカンバは空に溶け込んでおります。


(タイトル)
2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。

(本文)
 しばらく足を運ばないでいた霧ヶ峰高原の八島湿原です。半年は来ていないと思っておりましたが、半年は経っていなかったようです。記録を見ればわかりますが、記憶は夏になる前のことであり、高原の下でわずかにニッコウキスゲの黄色い色を見ておりました。
 大阪に2泊して、木曽路を走り塩尻で泊まって霧ヶ峰高原に登ってきたのです。冬の八島湿原には冬鳥はおりません。渡ってきた冬鳥は里の畑の淵の木立のなかで過ごします。茅野市のそのような場所でマヒワの群れにであって、一群が黄色に染まっているのを見ました。



syokota2 at 12:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

道草をする旅だ。仕事がオフになった土曜日だからできる遊びだ。木曽路にはいると雨だった。ときに強い雨になる。11月19日のことだ。

大阪城公園は紅葉がよかった。京都も同じだ。滋賀の石山寺も良い。湖東三山の紅葉の見事さは各別だ。11月19日の土曜日、大阪から東京に向かう。この日は途中で宿をとる。どこにするか決めてはいない。中央道の中津川で木曽道に降りる。国道19号線だ。何度目かの木曽路だが紅葉の時期は初めてだ。


木曽川沿いを走る。沿道の木々は精いっぱいに赤く色づいていた。嬉しくなった。外は雨だ。雨でもよい。馬籠と妻籠は無視して木曽川沿いを走る。


木曽川が流れていた。奈良井宿より西側に降る雨は木曽川になって濃尾平野をつくった。奈良井宿に向かうほどに木曽川は細くなる。木曽路はみんな山の中と藤村は言った。海などないからだと思うが別の意味で語られた。


コメリに立ち寄った。酉の市セールの幟があった。灯油販売の看板が大きい。寒い地なのだ。米屋利吉だからコメリである。


木曽路をのぼると奈良井宿に着く。奈良井宿は昔のまま残っていて宿もある。素泊まり5000円で泊まることができる。どうするか迷ったが通過した。塩尻市のうなぎ屋カトウのウナギの串焼きを買って宿で食べるためだ。


午後4時半、暮色の塩尻駅に着く。松本駅前にホルモンを食いに行きたいとも思う。今日は疲れたから塩尻駅前のシティーホームホテルにする。土曜日の宿は平日の二倍の料金制設定だ。


塩尻市のうなぎ屋カトウでウナギの串焼きを買う。ご飯は隣のセブンイレブンで。電気ポットで蒸らして食べる。2合炊きの電気釜で炊いた飯にウナギをのせて蒸らすのが良いと加藤で教わった。一串残っていた1600円のを1200円にしてくれた。


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2016年11月22日

八島湿原に生えるダケカンバです。青い空、白い雲と調和するのがダケカンバです。緑の葉を付けていても、葉が落ちて枝だけになった状態でもダケカンバは空に溶け込んでおります。

(タイトル)
2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。

(本文)
 しばらく足を運ばないでいた霧ヶ峰高原の八島湿原です。半年は来ていないと思っておりましたが、半年は経っていなかったようです。記録を見ればわかりますが、記憶は夏になる前のことであり、高原の下でわずかにニッコウキスゲの黄色い色を見ておりました。
 大阪に2泊して、木曽路を走り塩尻で泊まって霧ヶ峰高原に登ってきたのです。冬の八島湿原には冬鳥はおりません。渡ってきた冬鳥は里の畑の淵の木立のなかで過ごします。茅野市のそのような場所でマヒワの群れにであって、一群が黄色に染まっているのを見ました。

2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。空の青は水の青となって高原に色を付けます。


八島湿原の駐車場から歩いていくと見える景色です。湿原が埋まってきておりわずかに残る池ですが、こういうのを池塘ともいうのでしょうか。


暖かい日になったこの日は池塘の草葉で越冬してる2センチメートルほどのトンボのように見える飛び虫が散策路の足元に幾つかおりました。


ノリウツギは七の水分が抜けてシオリになって枝についておりました。夏の名残を記録するシオリであるノリウツギの花の残照、残滓です。


アザミの大きな奴のハバヤマボクチです。薄紫色の花は枯草色になっておりました。背景は高山に生えるススキです。


色があればこれだろうと想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。


八島湿原に生えるダケカンバです。青い空、白い雲と調和するのがダケカンバです。緑の葉を付けていても、葉が落ちて枝だけになった状態でもダケカンバは空に溶け込んでおります。







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2016年10月27日

2016年富士山の初積雪を見に出かけた。10月26日朝のことである。

2016年の富士山の初積雪は10月26日朝に観測された。昭和33年と並んで観測史上最も遅い初冠雪であると報じられた。


10月26日朝に富士山の2016年の初冠雪の報道があったので河口湖に足を運んだ。テレビ報道ではくっきりと雪があったのに午後になると淡い積雪になっていた。午後3時半には河口湖からの富士山は陽が当たらない状態であった。登山靴を用意して出かけたが用を足すことがなく引き返した。


山中湖の湖畔、平野には真弓が実を付けていた。湖畔では男女が乗る2代のオートバイと軽自動車のオープンカーに乗った青年がいてそれぞれバーナーを焚いて食事をしていて。風のない日であった。


山中湖の繁華街にはデニーズがあってここで休憩することが多い。


午後2時に富士吉田に居られるときには吉田のウドンを食べる。掛けウドンが400円で大盛りは100円の追加だ。ツユは味噌が混じっていてようでしょっぱい。強風の出汁でとったツユで食べたいと思う。

(タイトル)
2016年富士山の初積雪を見に出かけた。10月26日朝のことである。
(本文)
 2016年の富士山の初積雪は10月26日朝に観測された。昭和33年と並んで観測史上最も遅い初冠雪であると報じられた。直ぐに富士山の初積雪を見に出かけた
 10月26日朝に富士山の2016年の初冠雪の報道があったので河口湖に足を運んだ。テレビ報道ではくっきりと雪があったのに午後になると淡い積雪になっていた。午後3時半には河口湖からの富士山は陽が当たらない状態であった。登山靴を用意して出かけたが用を足すことがなく引き返した。
 山中湖の湖畔、平野には真弓が実を付けていた。湖畔では男女が乗る2代のオートバイと軽自動車のオープンカーに乗った青年がいてそれぞれバーナーを焚いて食事をしていて。風のない日であった。
  山中湖の繁華街にはデニーズがあってここで休憩することが多い。
 午後2時に富士吉田に居られるときには吉田のウドンを食べる。掛けウドンが400円で大盛りは100円の追加だ。ツユは味噌が混じっていてようでしょっぱい。強風の出汁でとったツユで食べたいと思う。
 木曽駒ケ岳と阿蘇山ガ爆発している。富士山は火山である。溶岩は下手の都留市にも流れていて、この溶岩を使って塀を築いている。浅間山と富士山が大爆発したのは江戸時代である。つい先日のことである。人はどこにどのような街をつくってどのように暮らすのが良いのだろう。素朴な疑問であり発想である。




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