■ 登山・ハイキング・山

2018年02月21日

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ) 旅行家 甲斐鐵太郎

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

槍ヶ岳。霧ヶ峰高原、車山付近。黒い車が車山方面に向う。

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

槍ヶ岳。霧ヶ峰高原、車山付近。白い黒い車が強清水方面に向う。

槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

八島湿原の丘の上からの槍ヶ岳遠望。高原の秋の始まりのころ。

(タイトル)
槍ヶ岳 霧ヶ峰からの遠望(高原の秋の始まりのころ)

(本文)

 槍が岳は標高3,180 m。日本で5番目に高い山であるが印象としては日本2番目である。こんなことをいうと2番から4番のファンはふくれるだろう。上高地を経て槍沢を登り詰めて行く道、富山市を経て裏銀座コースをたどって行く道などいくつかのルートのことが思い出される。いつかは表銀座コースで槍ヶ岳をめざしていながら小梨平が恋しくてルート変更したこともあった。いずれも夏の盛りの北アルプス登山であった。

 中央道諏訪インター付近からの槍ヶ岳、塩尻市からの槍ヶ岳、そして霧ヶ峰や美ケ原といった高原から槍ヶ岳の遠望すると遠い昔のことが思い浮かぶ。槍ヶ岳登山のために夏の休暇を丸ごと1週間当てていたころがあった。やることが多くなって生活にさまざまなしばりがかかるようになっているので遠い昔の槍ヶ岳登山が懐かしい。

写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎。


syokota2 at 19:20|PermalinkComments(0)

2017年12月15日

自転車の世界を垣間見る 自転車好きにはためになるかも知れない情報です。

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2017年12月14日

上高地 晩夏

上高地 晩夏

上高地の梓川沿いを歩いた。9月17日のことだ。岳沢は色づいており所どころ気が早い木が真っ赤だ。


上高地 晩夏

 上高地の梓川沿いを歩いた。9月17日のことだ。岳沢は色づいており所どころ気が早い木が真っ赤だ。上高地の秋は早い。そして春は遅い。

 夏の間に遊びに行こうと考えていて何時しか9月も中旬になった。午後3時45分になると日は少し西に傾いたたから影が伸びる。写真は真昼の青さが赤みにかわる。売れる写真はもう撮れない。

 人が随分と少なくなった。皆、ザーときてサッサと帰っていく。この日の宿は松本だ。最終バスの時刻を気にしていればよい。上高地はだれもが良い景色だという。晴れたらのことだ。

 山の斜面に沿って差し込むお日さまが黄ばんだ化粧柳の色を強める。この付近の梓川は水青い早瀬である。寒くなってきた。松本で日本酒をやって宿に入ろう。「上高地 晩夏」は同時に「上高地初秋」でもある。高い山が垂直に立ち上がる上高地は夏と秋が混在している。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、不適切な表現などについてはご容赦ください)

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2017年11月25日

車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。

霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
霧ヶ峰高原の強清水の交差点が向こうに見える。山は雪になった。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
薄く積もった雪道を踏みしめる。クロカン四駆の世界だ。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
夏には緑の世界も冬にはモノトーンになる。日当たりに雪はない。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
樹木が伸びるのを抑えているのが霧ケ峰高原である。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
たおやかな峰々が連なっている霧ヶ峰高原である。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
八島湿原の入り口にある駐車場に車は1台きりであった。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色
カラマツの間伐が行われていた。真冬を前にしての作業だ。


霧ヶ峰高原の八島湿原の周りに出現する景色

 八島湿原あたりの霧ヶ峰高原は景色がよい。車山の姿が美しい。遠くには蓼科山が顔をだす。6月にこの地を訪れたらいい。ズミの紅を帯びた白い花が一面に咲いている。エゾリンゴや姫リンゴの仲間のズミが群生しているのだ。

 遠くになだらかな姿の車山とそれを象徴する白いレーダードームが見えている。レンゲツツジが咲きズミが咲き乱れる6月の八島湿原付近の景色である。

 11月19日夜から20日にかけて霧ヶ峰高原に雪が降った。断続する降雪であった。山影の道は凍結している。

 八島湿原にでた。5僂曚匹寮兩磴あった。遠くにある車山が白くなっているからその当たりは10僂曚匹砲覆辰討い襪里世蹐ΑH媾に出現した初頭の霧ヶ峰高原の景色である。八島湿原の冬は静かだ。高原を渡る風はない。小鳥の声がしないのは冬になると生息領域を超えてしまうからだ。

 空気は凛としている。夏に咲いていたノリウツギの白い花びらは薄茶に染まっている。アザミの花はドライフラワーになった。冬に彩りをなすのはマユミの赤い実だ。降った雪が積もっていて積雪を多寡を示す。ダケカンバの皮がむけている。八島湿原を代表する樹木である。

 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。

 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。

 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。

 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。

 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。

 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。

 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。

 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40僂曚匹澄スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。

 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。

 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。

 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。

 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。

 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。

 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。

 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。

 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。

 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。

 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。

 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。

 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。

 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。

 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。

 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。

 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。

 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)



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アサギマダラが蜜を吸った花に雪が綿帽子となる晩秋の八島湿原。

霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
11月20日には二つ玉低気圧で山は雪になった。薄化粧をした。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
八島湿原の冬に彩りをなすのはマユミの赤い実だ。雪を被る。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
アザミの花はドライフラワーになった。湖面は凍っている。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
夏に咲いていたノリウツギの白い花びらは薄茶に染まっている。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
アサギマダラが蜜を吸った花に雪が綿帽子となる晩秋の八島湿原。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
八島湿原の入り口に立つ。向こうに車山が見える。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原
夏には賑わう八島湿原を見下ろす丘の上は白い雪になる。


霧ヶ峰高原 晩秋の八島湿原

 11月19日夜から20日にかけて霧ヶ峰高原に雪が降った。断続する降雪であった。山影の道は凍結している。

 八島湿原にでた。5僂曚匹寮兩磴あった。遠くにある車山が白くなっているからその当たりは10僂曚匹砲覆辰討い襪里世蹐ΑH媾に出現した初頭の霧ヶ峰高原の景色である。八島湿原の冬は静かだ。高原を渡る風はない。小鳥の声がしないのは冬になると生息領域を超えてしまうからだ。

 空気は凛としている。夏に咲いていたノリウツギの白い花びらは薄茶に染まっている。アザミの花はドライフラワーになった。冬に彩りをなすのはマユミの赤い実だ。降った雪が積もっていて積雪を多寡を示す。ダケカンバの皮がむけている。八島湿原を代表する樹木である。

 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。

 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。

 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。

 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。

 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。

 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。

 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。

 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40僂曚匹澄スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。

 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。

 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。

 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。

 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。

 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。

 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。

 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。

 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。

 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。

 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。

 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。

 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。

 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。

 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。

 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。

 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。

 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)




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山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。

霧ヶ峰高原 晩秋
雪が降っていた。11月20日には二つ玉低気圧で山は雪になった。


霧ヶ峰高原 晩秋
湿原に下る木道の階段だ。正面に車山が見えている。


霧ヶ峰高原 晩秋
何時も見る八島湿原の景色である。湖面は凍っている。


霧ヶ峰高原 晩秋
目の前の池は凍っている。高層湿原の秋の終わりの風景だ。


霧ヶ峰高原 晩秋
カメラを持った人がいた。よく来るのだという。冬の風景も良いのだと。


霧ヶ峰高原 晩秋
車山のドームアンテナがみえる。八島湿原の原始の風景だ。


霧ヶ峰高原 晩秋
八島湿原の向こうに鷲ヶ峰がみえる。駐車場に車はない。


霧ヶ峰高原 晩秋

 どこでどのように暮らしたいか、ということになると冬は暖かいところで、夏には涼しいところ。銭はどうするんだ。大概は都会に体をおいて稼がなくてはならない。人は銭のために生きているのではないけれど、銭に縛られている。

 霧ヶ峰高原の肩の小屋付近で山小屋を営む人が二人いた。

 一人は地元の優秀な高等学校を卒業して好きな山に籠(こ)もって生活するということで山小屋経営をした。貧乏を覚悟で山小屋を建てた。霧ヶ峰高原をビーナスラインが走る前にはこの地の登った後には高原のトレッキングをするための基地が山小屋であった。登山者の安全のために山小屋が要る。霧ヶ峰に惹かれるあまりに車山の肩に山小屋を建てた。

 建てた山小屋は台風で破壊された。無念だ。山小屋を再建した。いまは山小屋の周囲には高山帯の針葉樹が生えて防風林になった。山小屋は宿泊客を取っている。車山と霧ヶ峰高原を展望する絶好の地にあるからカフェテラスが人気だ。ビーナスラインができたために霧ヶ峰高原でのトレッカーの行動様式が激変した。高原をトレッキングする人は歩いたあとには温泉宿を利用する。

 山小屋の主人は地元の新聞社の求めに応じて短文を書く。「霧ヶ峰通信」といった短文を定期掲載した。それが纏められて本になる。書下ろしされた本もある。10冊ほどが出版された。再版されないので印税収入は多くはない。本には霧ヶ峰の空気が詰められている。都会に住む人の心を慰める。売られた本は霧ヶ峰の缶詰である。主人は読者にとってはそのまま霧ヶ峰高原であった。世を去って数年が経つ。10年後、20年後にもこの人はそのまま霧ヶ峰高原なのだ。

 肩の小屋にあるもう一つの山小屋は使われなくなって20年になる。この10年ほどは里で採れた夏野菜と焼きトウモロコシを人出があるときに売っていた。車山と一対をなす山小屋であり大きな荷車の車輪が今でも車山と一体の景色だ。宿泊者がなくなった車山の肩の小屋の経営は難しい。電鉄会社が建物を建てて土産物を売っていたが客足が遠のくと撤去した。10年になる。カフェテラスとして営業しているお店が肩の駐車場の上にある。絶好の場所だから客がある。肩の小屋付近に四つあった。現在、運営されているお店は二つである。

 車山高原、霧ヶ峰高原が一体をなすこの地は天空が抜けている。絶景だから人は心震わせる。ニッコウキスゲが黄色の絨毯を敷き詰める景色が夏に出現する。緑の山と青い空と白い雲がつくる景色だ。これが「霧ヶ峰」でありクーラーのCMの絵になった。早い秋と遅い春がある。冬が長いが雪は大して降らない。気温は北海道と同じだ。大雪の日に登るとクロカン四駆の足が取られる。大雪の車山高原と霧ヶ峰高原を眺める。八島湿原まで辿り着いて大自然を独り占めする。冒険だ。

 霧ヶ峰高原の中心部の強清水から15分ほど北に走ると八島湿原がある。冬でも道路が確保されている。雪は40僂曚匹澄スノーシューを付けて八島湿原をトレッキングする人がいる。3月になると雪が固まる。登山靴で歩くことができる。天空が抜けている冬の八島湿原である。南西に車山が見える。南に蓼科山が富士山の頭のように顔を出す。北には鷲ヶ峰があって、北東の方面はえぐり取ったように低くなっている。規模の大きな箱庭だ。秋も遅い平日にこの地に人はいない。薄雪の八島湿原の駐車場に車はなかった。トンビもカラスも小鳥もいない。小鳥の活動時間帯を過ぎていたからでもあるが、餌の覆い里に下りている。

 諏訪の温泉宿の帳場の女性は何十年も霧ヶ峰にあがっていない。地元の人は行かなくても霧ケ峰高原はそこにある。好きな人は頻繁に登る。花を見て八島湿原の景色を見る。

 松本市から扉峠に上がっていく。美ケ原に足を向け、引き返して八島湿原、霧ケ峰高原、車山高原を走る。車山高原にはペンションが多いからここで一泊する。ある人はこの宿で2011年3月11日には大津波を見ていた。知り合いに電話しても通じない動こうにも動けない。12日には長靴で車山に登った。何ということが起こるんだと思いながら膝まで埋まる雪から足を抜いて歩いた。山は白く空は青かった。お日さまはいつもと変わりなく肌を焼いた。原発事故が伝わるのはこの後だ。

 車山高原から清里へ出るハチマキ状の道を走る。昔は安く泊まれたソフトクリームを売る施設を経て、川上村のレタス畑の道を走る。振り向けば八ヶ岳が大きく広がる。レタス畑と八ヶ岳連峰が一対となっている。企図してもできない雄大な構図だ。

 川上村のレタスの採り入れ時期には通に中国陣青年の姿がある。専業農家として成り立つ数少ない川上村のレタス栽培だ。収穫期に中国の手を借りる。レタス畑はカラ松林を切って拡張されている。川上産のレタスはブランド野菜になった。45年前、この地で芸術のつもりで写真撮影していた人がいた。写真にレタス畑も八ヶ岳もなかった。写されているのは牛小屋で働く人の姿だ。名物のソフトクリームはジャージー種の乳である。レタスはサラダの王様になった。育牛からレタス栽培へと川上村は変わったのである。

 宇宙飛行士の油井亀美也(ゆい・きみや、1970年生れ)さんは川上村の有名人になった。野沢北高校から防衛大学校、航空自衛隊を経てJAXAに勤務している。村の街道には油井亀美也さんの宇宙飛行の成功を祈る懸垂幕が掲げられていた。いまは当たり前のことになったからそれはなくなった。油井姓は川上村に多い。野沢北高校をでた知人がいる。

 川上村に行くと元和服屋がやっている焼肉を食べるか、スーパーのナナーズで休憩するといい。東京への帰途は残り時間によって選ばれる。夏は午後7時半までは明るい。冬になると午後4時半で陽が落ちる。北半球の高い位置にある日本は夏の日が長い。

 信州峠を越えて川上村からラジウム温泉の増冨にでる。北杜市になった明野村は茅が岳の山麓である。ここは日本で日照時間が一番長いが水がなかった。入植地でもある。明野村にはそ勤めを終えた知人が暮らすようになった。オーディオを趣味にする人である。連れ合いは歌手並みの歌唱力をもつ。都立高校から六大学の工学部に進んで大手企業に勤めた人だ。連れ合いは公務員である。一番良い時代を生きた人の生活が明野村で営まれている。オーディオ好きの知人とは明野村の蕎麦工房で一緒に蕎麦打ちをした。。軽井沢からの帰り道で野沢北高等学校の付近を通る旅行だった。それが機縁で明野村に住まいを設けた。

 銭のために働いて老後は明野村で暮らす人の話をした。働いていれば銭になった時代の人だ。公務員は働きより多い収入を得ていた。工学部出身のその人は大企業に勤めて転職して以前に勝る給料を手にした。勤め先は下り坂になっていたが当人がいる間は何とかなっていた。の実力と努力がどの程度だったかは知らない。時代に恵まれて無難な時を過ごした。暢気(のんき)ではないが目出度い人である。明野村で平和に暮らしている。東京の家はそのままにしてあるから東京にも行く。

 同じようにして東京から小淵沢界隈の北杜市に移り住んだ人がいる。病気をしない人であったが癌を患い、おまけが付くように足を悪くした。人の幸せとは何か、ということを考えさせられることだ。もう一人、北杜市の旧長坂町に別荘を持って暮らしている人がいる。癌や脳梗塞や難病のために長坂町に出かけるのが容易でなくなった。

 蓼科山の北麓、佐久の高原に別荘を建てた知人がいる。元気にしているようだったが良くない塵埃を吸引したことで肺気腫になった。発作があるので行動はままならない。予測しなかった罹患である。老後の暮らしは別荘でという思いも治療のためには東京にいることが強いられる。新薬による試験治療があって行動ができているためである。この人の別荘にはCDラジカセが置いてある。テレビ番組を見たことがない。

 勤務を終えて悠々自適の暮らしを別荘を使ってしようとした知人たちが揃って病気になる。年老いればさまざまな病が生ずる。健康であれ、と願っても老いた体には病が潜伏する。長嶋茂雄さんも大貞治さんも大病をした。人は健康であっても病気を患っていても生きている。健康であれと願い健康でいればそれは仕合せなことだ。病気に人は打ちひしがれる。癌を患うとあと五年の命と覚悟を強いられる。それを超えれば「ああ、よかった」と胸をなでおろすが、別の病気がやってくる。

 世界の人々の暮らしを伝え聞くと平和でない地域は多い。紛争地、経済困難で貧困の地、独裁者によって敵対者の命が簡単に消えてしまう国や地域がある。この日本は幸いにして戦争のない時代を経過してきた。米国などは朝鮮戦争、ベトナム戦争をしていたのである。関連する国は韓国、北朝鮮だ。武器の供給をしてきた中国、ソ連とロシアほか。ベトナム戦争の当事者の一人はフランスである。兵器産業が米国経済に大きなシェアをもっているから戦争や紛争は意図してなされるのではないか。

 日本の国の経済と人々の暮らしはこの先どのようになっていくのか。経済の構造は三次産業に大きく移行していく。学者は第四次産業の概念をつくっていて、そちらに突き進むと述べる。高等教育を多くの者が受けるけれどもそれをまともな形で身に付けることができない。高等教育を受けた者が働く職場がなくなっているからでもある。教育のこともあるから子供は多くを育てられない。社会にもそれを支える力がなくなっている。1968年の国立大学の授業料は月額1,200円であった。

 人の数が減り、農業と工業の従事者が減る。コンビニだって外食チェーンだって第三次産業である。中卒の読み書きソロバンの学力と日本人の心持があれば務まる仕事は多い。第三次産業の従事者比率は上がる。介護の仕事も第三次産業である。富とは何か。富はどのようにして生み出されるのか。富を生む目的は何か。富はどのように回るのか。衣食住を考えればいい。食べるものをつくる。衣料品をつくる。住まいをつくる。つくってそれを使う。これが経済である。小さな数の人で、小さく暮らす、ということがこれからなされることではないか。日本の人口は明治初年のころの3,000万人か4,000万人に向かって減少していく。

 中国は人口が多い。その人口で経済を動かすから経済の規模は拡大する。目移りしても経済の規模を日本は幸せの基準としてはならない。GDPという経済のモノサシを使うとその6割が消費である。中国や途上国の消費割合はずっと低い。「成熟」した国の経済のようすがGDP比率6割の個人消費なのだ。人口が減れば現在の産業の規模、あるいは工場の規模をそのままの状態で維持することはできない。社会の必要に応じた形で変形していく。それは小さくなるという形であることが多いかも知れない。銀行の窓口業務はバスの車掌の業務と同じように昔話になる。

 別荘を使って平和な暮らしをしている知人の様子をみて「幸せとは何か」を考えた。衣食住が足りて健康であれば幸せである。それと同じほどに心満ち足りることも幸せの条件になる。美味しいものを食べて、良い景色を見て、良い音楽を聴く、ことは幸せなのだ。美味しいといったって難しくはない。野の草を天ぷらにすればいい。川でアユやヤマメを釣って食えば足りる。それは時々で十分だ。熱々ご飯に卵かけは美味しい。

 音楽のことは良くわからないがノーベル物理学賞を受賞した日本人が比叡山の裏手に建てた住まいで好みのオーディオでクラシックを聴いて過ごすのが楽しみであったと語っていた。良い景色の場所に住まいがあれば良いが、そうでなければ出かける。そのようにして良い景色と出会う。良い景色のあるところに天才数学者が出現するというのが藤原正彦さんの説である。この人の先祖は諏訪の地であり、別荘は八ヶ岳山麓にある。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)(誤字、表現の不適切さなどについてはご容赦ください)



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2017年03月12日

月は東に日は西に。そして富士山が見える。陽が落ちてから38分が経過した18:08:50の撮影。

【‎2017‎年‎3‎月12日の日記】
‎2017‎年‎3‎月‎11‎日、東日本大震災から6年目のこの日、河口湖では午後5時30分に太陽が赤く山に沈みました。

2017‎年‎3‎月‎11‎日、‏‎18:08:50撮影。富士河口湖町小立7187付近からの富士山。

【下の写真の撮影の内容などの説明は下欄にあります】

撮影地は山梨県南都留郡富士河口湖町小立7187付近。
辺りは原生林の木立の中を走る道路がつづくが
健康科学大学がある場所では木立が消えて富士山が丸見えになる。
見慣れない富士山の形になる。左斜面が大沢崩れでえぐられている。
河口湖の陽は17時30分に沈んだ。月は東に日は西にである。
撮影日は2017‎年‎3‎月‎11‎日であり、時刻は‏‎18:08:50。
東の空には日没と同時に月が昇った。「望」という満月は12日だ。
しかし12日の正午に「望」いなるので11日の夜は満月と言ってよい。
月は東に日は西に。そして富士山が見える。陽が落ちてから38分が経過した18:08:50の撮影である。
富士山は標高が高いから地平から見る日没の後でも陽が当たっている。
その陽もあたらなくなって空からの薄明かりの反射と月の光によって富士山が見えている。
これから‎10分経過した‏‎18:19:10の撮影を最後にカメラはオートフォーカスが効かなくなった。
撮影地の近くにはリゾートホテルが幾つかあって土曜の夜なので驚くほどににぎわっていた。

下にある河口湖からの撮影では前に垂れる雲によって富士山の頂上が見えない。
雲の前に進め、ということで富士山に向かって駈けのぼる。
原生林の道路を走って行くうちに健康科学大学がある場所では木立が消えて富士山が見えるようになった。
雲の向こうに抜けたのである。
200mmの望遠レンズでの手持ち撮影は40分の1秒にして絞りは4である。感度は1600。カメラはCanon EOS 5D。
古いけれど35mmフィルムと同じ撮像面積をもつデジタル一眼レフカメラである。
オートフォーカスが効かなくなるまで撮影した。両手は寒さに凍えた。


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2017年01月01日

一富士二鷹三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)を初夢にみると縁起が良いこととされている

12月29日午後12時34分の富士山。大沢崩れが切り込んでおります。火山礫でできた山体は脆いようです。富士山が二つに割れるか、それよりも先にもう一度噴火するか、わかりません。大沢崩れが深く山体を切り裂いております。


12月29日午後12時34分の富士山。大沢崩れが切り込んでおります。火山礫でできた山体は脆いようです。富士山が二つに割れるか、それよりも先にもう一度噴火するか、わかりません。大沢崩れが深く山体を切り裂いております。


12月29日午後12時34分の富士山。大沢崩れが切り込んでおります。火山礫でできた山体は脆いようです。富士山が二つに割れるか、それよりも先にもう一度噴火するか、わかりません。大沢崩れが深く山体を切り裂いております。


(タイトル)
一富士二鷹三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)

(本文)
 カレンダーの挿絵に使われる富士山であり、おそらく富士山が一番多いだろう。

 遠くからもみえ、近くでみると圧倒される富士山である。富士山は火山活動によって出来上がったやまである。だから円錐形をしている。

 富士山は不二と書くこともあり、語呂合わせで不死につなげる。

  新年の始まりは日本では太陰暦を使用していたこともありグレゴリオ暦(太陽暦)の1月1日ではなかった。

 立春を新年の始まりと『山家集』が編纂された鎌倉時代には考えていた。このようなことで暦上の新年とは切り離して節分から立春の夜にみる夢を初夢としていたらしい。

 一富士二鷹三茄子(いちふじ、にたか、さんなすび)を初夢にみると縁起が良いこととされている。
 辞書に一富士二鷹三茄子について次のような説明がある。

 江戸時代に最も古い富士講組織の一つがあった「駒込富士神社」の周辺に鷹匠屋敷(現在の駒込病院)があり、駒込茄子が名産であったため、当時の縁起物として「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれた。

 その他にこの3つの組み合わせは、『狂歌・家つと』、『続五元集』、『狂歌・巴人集』、『譬喩尽』、『黄表紙・盧生夢魂其前日』、『笈埃随筆』、『嬉遊笑覧』、『甲子夜話』、『俚言集覧』などの文献資料に記載されており、江戸時代初期にはすでにあり、それぞれの起源は次のような諸説がある。

 徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段富士山、鷹狩り、初物のなすを徳川家康が好んだことから富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」。
 富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉。

 富士は曾我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産品が茄子)。

 三のナスビまでは上のとおりである。四のあとに六まである。

 四扇(しおうぎ、よんせん)、五煙草(多波姑)(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう)
「俚言集覧」に記載があり、同内容を挙げた辞典類の多くはこれを出典としている。

 別の説は、一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭は毛がないので「怪我ない」と洒落て家内安全を願う、という。

  夢は人が寝ているときに脳内に浮かぶ事柄である。思い出が登場したり、希望が登場したり、思いもしないことが登場する。眠っている間に人は頭の中を整理しているらしい。悪い夢もまた頭の整理のために役立っている。

 そのようなことだから良い夢をみたら喜んだらよい。良い夢が人の願望からでていることもあり、それほどの願望をもたなくても物凄く良い夢をみることもある。

 富士山をみると心が躍る。夏の青い大きな富士山をみても心が躍り、冬の真っ白な大きな富士山をみても心が躍る。富士山の姿は人の心を高揚させる。沈んだ気持ちも富士山をみると浮く。それは健康な人の心であってこそのことである。

 富士山にでくわして踊った心が富士山を撮影させたのが掲載の写真である。

【以下は富士山にまるわる余録記事です】

‎太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:04撮影。


太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:42撮影。


太陽が富士山の後ろに回ってしまった。 2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:31:36撮影。


これから富士山に太陽が引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:20:42。
前の林が嫌で場所を左40メートル移動したら富士山は頂上の左に落ちた。
これは失敗であった。判断を誤った。


富士山を撮影する人々。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:33:42。
陽が沈んだ後に頭上のイルミネーションが点灯する。


(タイトル)
山中湖村から見るダイヤモンド冨士。

(本文)
  2016‎年‎12‎月‎25‎日は晴れた日であった。晴れた日には富士山が見える。

 太陽の運行と富士山と立つ位置によって、太陽は富士山の山頂にかかる。これは引っ付くといってもよい。この状態の写真を撮りたがる人は多い。金剛とはダイヤモンドのことであり、その現象をダイヤモンド冨士と言っている。

 埼玉県からもそのように見えるし、朝日が富士山にかかる現象を富士山の西側から見ることもできる。
 富士山に間近い山梨県の山中湖付近からのが見応えがあるダイヤモンド冨士である。山中湖と富士山と山頂に落ちる太陽である。

 晴れた日の2016‎年‎12‎月‎25‎日15:31:12(午後3時31分)に山中湖村の花の都公園にいて富士山の写真を撮った。写真を撮ってもそれを売れないし、自分が満足し、生きていた記録になるだけである。生きていた記録であってもそれを誰も意識しないから記録は打ち捨てられる。

 そのようにして撮った富士山と太陽の写真である。山中湖付近からの落ちるようすは1月になっても見ることができる。山中湖村のホームページに位置が掲載されている。

  太陽が富士山に引っ付くと表現したのは、その後も太陽は沈まずに向こう側に差しているので、急いで有料の東富士五湖道路を西に走るとまだ高い位置にある太陽を見ることができる。冬には低い位置を太陽は運行している。太陽をジェット機で追い掛けていると昼がつづく。

 富士山に掛かる太陽を撮影したこの時は山頂の少し横だったこともあって山に掛かった太陽は2秒ほどで裏に消えた。


syokota2 at 21:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月26日

 晴れた日の2016‎年‎12‎月‎25‎日15:31:12(午後3時31分)に山中湖村の花の都公園にいて富士山の写真を撮った。

2016‎年‎12‎月‎25‎日は晴れた日であった。晴れた日には富士山が見える。

‎太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:04撮影。


太陽が富士山に引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:30:42撮影。


太陽が富士山の後ろに回ってしまった。 2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:31:36撮影。


これから富士山に太陽が引っ付く。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:20:42。
前の林が嫌で場所を左40メートル移動したら富士山は頂上の左に落ちた。
これは失敗であった。判断を誤った。


富士山を撮影する人々。2016‎年‎12‎月‎25‎日、‏‎15:33:42。
陽が沈んだ後に頭上のイルミネーションが点灯する。


(タイトル)
山中湖村から見るダイヤモンド冨士。

(本文)
  2016‎年‎12‎月‎25‎日は晴れた日であった。晴れた日には富士山が見える。

 太陽の運行と富士山と立つ位置によって、太陽は富士山の山頂にかかる。これは引っ付くといってもよい。この状態の写真を撮りたがる人は多い。金剛とはダイヤモンドのことであり、その現象をダイヤモンド冨士と言っている。

 埼玉県からもそのように見えるし、朝日が富士山にかかる現象を富士山の西側から見ることもできる。
 富士山に間近い山梨県の山中湖付近からのが見応えがあるダイヤモンド冨士である。山中湖と富士山と山頂に落ちる太陽である。

 晴れた日の2016‎年‎12‎月‎25‎日15:31:12(午後3時31分)に山中湖村の花の都公園にいて富士山の写真を撮った。写真を撮ってもそれを売れないし、自分が満足し、生きていた記録になるだけである。生きていた記録であってもそれを誰も意識しないから記録は打ち捨てられる。

 そのようにして撮った富士山と太陽の写真である。山中湖付近からの落ちるようすは1月になっても見ることができる。山中湖村のホームページに位置が掲載されている。

  太陽が富士山に引っ付くと表現したのは、その後も太陽は沈まずに向こう側に差しているので、急いで有料の東富士五湖道路を西に走るとまだ高い位置にある太陽を見ることができる。冬には低い位置を太陽は運行している。太陽をジェット機で追い掛けていると昼がつづく。

 富士山に掛かる太陽を撮影したこの時は山頂の少し横だったこともあって山に掛かった太陽は2秒ほどで裏に消えた。



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2016年12月21日

富士山が麓まで白くなると野鳥は里に降りてくる(12月1日)

富士山が麓まで白くなると野鳥は里に降りてくる(12月1日)


(副題)富士山が雪を一面にかぶるとは12月になると樹林帯まで雪が降りてくる。そうすると野鳥たちは雪のないホテル地帯や別荘地帯に移動してくるので、宿の外の木にはカラの仲間や多くの野鳥が頻繁に姿を見せる。

(副副題)名前を告げると「夕食ない朝食付きで洋室希望ですね」と念をおされて、そうだと応えると予約成立である
富士山の降雪は早い。雪が樹林帯まで降りると野鳥が別荘地に非難するので冬の野鳥の観察に好都合だ  (12月1日撮影)


11月初旬には宿の庭に植えられたヤマモミジが鮮やかな朱に燃える。(11月初旬撮影)


富士山の雪が樹林帯まで達するとエナガやカラの仲間が別荘地帯に移動してくる。
写真はホテルの植木に来たエナガ  (12月1日撮影)


カラの仲間の群れにはヤマガラも混じる 写真はヤマガラ。(12月1日撮影)

(タイトル)

富士山が麓まで白くなると野鳥は里に降りてくる(12月1日)

(本文)

エナガ

 ここではエナガのことにふれる。

 エナガは尾が長く小さく軽いカラの仲間である。カラの仲間のコガラは尾が短いが体長は12から13 cm。翼開長は21 cm。ヒガラが一番小さくて全長は約11 cm、翼開長が約17 cmである。体長は約14 cm(12.5から14.5 cm)、翼開長は約16 cm。

 カラの仲間は茶色のヤマガラ、緑で大きなシジュウカラ、尾の長いエナガは大体判別できるが、コガラとヒガラをカラの仲間から瞬時に区別することは難しい。野鳥とカラの仲間のことを普段は考えていないことによる。

 頭の上の白い筋も特徴である。

 エナガ(柄長、学名はAegithalos caudatus)は、スズメ目エナガ科エナガ属に分類される鳥類の一種。エナガ科は世界で7種類が知られている。

 分布は、ユーラシア大陸の中緯度地方を中心にヨーロッパから中央アジア、日本まで広く分布する。日本では九州以北に留鳥または漂鳥として生息する。

形態。
 体長は約14 cm(12.5から14.5 cm)、翼開長は約16 cm。体重は5.5から9.5 g。体長には長い尾羽を含むので、尾羽を含めない身体はスズメ(体重約24g)と比べるとずいぶん小さい。
 黒いくちばしは小さく、首が短く丸い体に長い尾羽がついた小鳥である。目の上の眉斑がそのまま背中まで太く黒い模様になっており、翼と尾も黒い。肩のあたりと尾の下はうすい褐色で、額と胸から腹にかけて白い。雌雄同形同色で外観上の区別はできない。羽毛は薄褐色色の初列風切が10枚で野外では黒く見え、次列風切りが6枚で重ねると黒く見え、3列風切が3枚で他の風切羽より褐色味が強く、尾羽は6枚で内側3枚は黒色、外側3枚は黒色に白色の模様が混じる。
 学名は、長い尾をもつカラ類を意味する。和名は極端に長い尾(全長14cmに対して尾の長さが7から8 cm)を柄の長い柄杓に例えたこと由来し、江戸時代には「柄長柄杓(えながひしゃく)」、「柄柄杓(えびしゃく)」、「尾長柄杓(おながひしゃく)」、「柄長鳥(えながどり)」などとも呼ばれていた。

(以上,、カラの仲間にかんけいする文はウッキペデアを元にして、書き足している)


 金曜日の夜、仕事を終えて帰宅する道は西の方面であり、夏だとまだ高い太陽を追いかけることができる。12月になると午後5時には空は夕焼けが終わるころであり、それから30分もすると真っ暗になる。

 家に帰るのが嫌だなあーと思うと車をそのまま西に走らせる。大月付近で左に折れて河口湖に向かうか、そのまま直進して諏訪湖方面に行くかはその日の気分と日の高さによる。夏ならば諏訪湖に向かうが、冬になると暗い夜道を走るのが嫌だから左にハンドルを切って河口湖に行ってしまう。

 宿で一人で夕食など摂りたくないから、河口湖インター付近の書店で何冊か本を買い、宿の自動販売機でアルコール類を調達してチビリとやって夜を過ごす。夕食なしの宿泊者として宿の支配人にはしっかりと記憶されているので、名前を告げると「夕食ない朝食付きで洋室希望ですね」と念をおされて、そうだと応えると予約成立である。

 この宿は金曜日か土曜日に何度も同じような形式で利用している。富士スバルライン入り口近くにあって、富士山の全容をを部屋と食堂から仰ぎ見ることができる。12月初めのある日の午前6時40分頃に赤富士が出現したと馴染みのフロア係に告げられた。私はその時間には朝食前の朝風呂に入っていたのであった。

 富士山は12月になると樹林帯まで雪が降りてくる。そうすると野鳥たちは雪のないホテル地帯や別荘地帯に移動してくるので、宿の外の木にはカラの仲間や多くの野鳥が頻繁に姿を見せる。

 ヤマガラ、シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、エナガなどが混成して窓の前にやってくるので楽しいことこの上ない。

 庭の樹木の向こうには真っ白になった富士山が朝日を浴びて白く輝いている。

 富士山は何だかんだいっても見る人を感動させるということでは日本一のやまだなあー、と思うのであった。



syokota2 at 09:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月17日

山道で、あるいは珈琲を飲んで休憩しているときにアサギマダラが漂ってくると、長閑(のどか)さが膨(ふく)らみます。

旅行家 甲斐鐵太郎の自然博物誌 27
(タイトル)
アサギマダラのゆがゆら飛びに学ぶ。
(サブタイトル)
アサギマダラの翅を模したブレード(羽)で柔らかい風をつくった家電メーカーがあります。

(文章と写真は 旅行家 甲斐鐵太郎 8月10日撮影。)


下の写真の説明です。
夕涼みに登った陣馬山で撮影したアサギマダラ


(本文)

 この年も高原の夏鳥のノビタキには逢いました。

 同じ高原でカッコウの啼き声も聞きました。

 赤い花のレンゲツツジを見て、黄色い花のニッコウキスゲを見ております。

 これで夏にすませておきたいことは足りたように思っておりましたが、アサギマダラはまだ見ておりません。

 高原で過ごす時間が短すぎたのでしょう。

 東京都と神奈川県と境にある陣馬山にはアサギマダラがやってきます。この山は私の住まいから夕涼みに出かけられる格好のところです。

 この山でアサギマダラの姿を見て写真を撮影したのでした。

 フワフワと漂うように飛ぶアサギマダラは台湾や香港との行き来が確認されております。

 山道で、あるいは珈琲を飲んで休憩しているときにアサギマダラが漂ってくると、長閑(のどか)さが膨(ふく)らみます。

 アサギマダラの翅(はねの意味である)を模したブレード(羽)を扇風機に用いて送風ムラのない柔らかい風をつくった家電メーカーがあります。

 自然がつくりだした意味のある翅を人が真似たのですが、人が勝手に考えることよりも自然物である昆虫は理にかなった見事な造形をしていたのでした。

 アサギマダラの弓状にくねった翅は、ばたくときにうねるために小さな出力で大きな飛翔の力がでるようなのです。強い力というよりも、うんと小さな力で効率よく飛んでいくというように力を使うのしょう。

 飛ぶ様子をみていると如何にも、と思えます。

 人を恐れずにゆらゆらと近寄ってきて、向こうに行ってはまたこっちに来るアサギマダラは可愛気のある蝶です。

 霧ヶ峰高原から車山高原につづく高地には夏になるとヒヨドリバナが育ちますので、この花が咲くころにアサギマダラがゆれゆらと飛んでいるのです。

 車山高原に登る山道で小学生がこの蝶をよく捕まえております。人を恐れないことや捕まえようとしてもすると、パァと逃げないので、簡単に捕えれれてしまいます。

 車山の肩の駐車場の奥にあるコロボックルヒュッテの珈琲テラスでアサギマダラに出会うのを楽しみにしているのです。

 赤い花のレンゲツツジが終わって、黄色い花のニッコウキスゲが終わったころに、ゆらゆらと高原の大気にたゆたうアサギマダラに出会うことはこの地を訪れる人の楽しみであるのです。

 レンゲツツジとニッコウキスゲのころにもアサギマダラはこの高原で遊んでおります。

 夏至の日に、甲武信岳(こぶしだけ、標高2,475m)への千曲川源流を遡行する山道で、アサギマダラがゆらゆらと道中を一緒にしていたことがありました。このころの甲武信岳の頂上付近はシャクナゲが咲いておりました。甲武信岳は、無理にこの名前をつけたかのごとく甲州、武州、信州の境に山頂が位置し、晴れていれば眼下に甲府の街並みを眺めることができます。

(8月10日記載)

(読み返しておりません。誤字脱字そして不適切な表現がありますのでご容赦ください。)

syokota2 at 09:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月12日

2016年12月12日朝、飼い犬を庭で遊ばせるために犬舍を覗くと水入れに氷が張っておりました。初氷です。

午前7時20分林の上に朝日が昇りました。栗林には霜が降りておりました。
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ベランダの向こうの野鳥の園も霜がびっしりですがシジュウカラ、ヤマガラなどカラの仲間の朝の散歩道です。
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朝日を浴びる冬枯れのケヤキです。大きなケヤキになってしまいました。向こうに見える山は石老山。高尾山の近くあってより高い山です。皇太子が登山してからおとっずれる人が増えました。途中にある寺は歌人の寂連の菩提寺です。
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2016年12月12日朝、飼い犬を庭で遊ばせるために犬舍を覗くと水入れに氷が張っておりました。初氷です。

見上げると林の上に朝日が昇っておりました。この日は午前2時20分に起きて調べ物のために資料を読んでおりました。

土曜日から3本のカメラの読み物を書きました。

甲斐鐵太郎。

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2016年12月08日

標高が100m増ごとに気温はごとに0.6℃ずつ下がる。剣ヶ峰の標高は3,776.12mである。

写真は標高2,300mの富士山5合目の北西斜面にある奥庭で撮影した。


(タイトル)
コメツガ、カラマツから礫地帯につながる9月の富士山

(本文)
 春の遅くになって咲く花がフジザクラであり、大相撲でこれをしこ名にした押し相撲の力士がいた。富士山の名を冠するフジアザミは写真を撮影した9月25日には富士スバルラインの道脇に咲いていた。フジザクラはマメザクラのことであり力士は小兵であったからしこ名がよく似合っていた。フジアザミは大きなアザミでありハバヤマボクチの親玉である。

  標高が100m増ごとに気温はごとに0.6℃ずつ下がる。剣ヶ峰の標高は3,776.12mである。円錐状の富士山は上空からみれば植生が綺麗な形で分布する。森林限界は末端にあるのは富士山ではハイマツではなくカラマツである。珍しい現象である。その下部に亜高 山針葉樹林帯のコメツガ、トウヒ、シラビソが自生する。

 高山植物の多くは氷河期を越えてきたものでありハイマツもそのひとつだ。富士山は氷河期以降にできた若い山なので氷河の影響がないので、富士山では北アルプ スや南アルプスにあるようなハイマツ林が形成されない。ハイマツ帯に代わるカラマツ帯の上はオンタデやミヤマオトコヨモギなどの草本植物がまばらにあり、さらに上に行くと地衣類やコケ類のみ生育する世界になる。

  富士山に降る雪は森林地帯より上まで積もることがない。冬季に富士山が雪の傘をかぶったようになるのは森林地帯の上に積もった雪を見ているからである。

  コメツガ、トウヒ、シラビソにつづくカラマツ帯と赤茶けた火山礫の地帯が層をなして見える富士山であり、雪が来る前の9月25日に撮影した。この年の遅い初雪はそれからひと月後にあった。写真は標高2,300mの富士山5合目の北西斜面にある奥庭で撮影した。
  写真と文章は甲斐鐵太郎。


syokota2 at 20:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

富士山は静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。

写真は‎2016‎年‎9‎月‎25‎日、‏‎16:10:42の富士山

(タイトル)
富士山(3,776.12m、剣が峰の最高地点の標高)と噴火

富士山の噴火と造山活動と東京への影響を考える。
(宝永4年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。)

(本文)
 最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。

 この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。

 その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,500から2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊した。

 新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前から約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前から約3,200年前の1,300年間と考えられている。

 山頂部からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が散発的に発生している。

 延暦19年から21年(800年から802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶岩を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永4年(1707年)の宝永大噴火で噴煙は成層圏まで到達し江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。

 また宝永大噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火山性の地震や噴気が観測されている。富士山は噴火する火山であり、その噴火がいつ起こってもよい状態にある。

地質学上の富士山[のことだ。

 地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。
現在の富士山の山体の形成は、大きく次の四段階に分かれる。

先小御岳
小御岳
古富士
新富士

 この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられた。

 古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1から2kmのところにあったと考えられている。

 2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市と富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現れとされている。

 プレートの観点からは、北アメリカプレートまたはオホーツクプレートと接するフィリピン海プレートの外縁部に位置し(ほぼ、相模トラフと駿河トラフを陸上に延長した交点に位置する)、すぐ西にユーラシアプレートとの境である糸魚川静岡構造線が存在するなど、3個のプレートの境界域(三重会合点(英語版))ともいえる場所に位置している。

 富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山である。

 標高3,776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰で、その優美な姿は日本国外でも日本の象徴として広く知られている。数多くの芸術作品の題材とされ、芸術面でも大きな影響を与えた。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。

 古来霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視された。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が祭祀され、浅間信仰が確立された。また富士山修験道の開祖とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるようになり、登拝が行われるようになった。

 これら富士信仰は時代により多様化し、村山修験や富士講といった一派を形成するに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏季には富士登山が盛んである。

 富士山は日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。

 また1936年(昭和11年)には富士箱根伊豆国立公園に指定されている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録された。

 日本の文化遺産としては13件目である。

syokota2 at 12:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月07日

碌山美術館や大王わさび田がある安曇野に広がる景色は早春賦がつくられた場所である。ここに午後9時過ぎに立っていた。

写真は北アルプスの白い山並みを水田に映す安曇野の風景
(5月3日午前9時45分に撮影)


(タイトル)
北アルプスの白い山並みを水田に映す安曇野の風景

(本文)

 ときどき通る高瀬川沿いの道だ。水を張ってある田には苗を植え始めていた。雪を脱ぎかけた鹿島槍ケ岳が水鏡に映っている。雪が解けて種まき爺々が現れる爺ケ岳が左に連なる。ミレーの種撒く人の姿だ。双耳峰の鹿島槍ケ岳の右には唐松岳、白馬岳が白いごつい姿でつづく。

 長野自動車道を穂高インターでおりたその先に雪の残る北アルプスの山並みと水田の景色があった。5月の連休の晴れた日の3日だ。魚津の寿司屋で美味い魚を食べることを楽しみに向かっている。碌山美術館や大王わさび田がある安曇野に広がる景色は早春賦がつくられた場所である。ここに午後9時過ぎに立っていた。風やわらかく水ぬるむころであるから早春賦にある風の寒さや名のみの春ではない。

 安曇野とは松本市の松本市梓川地区(旧・梓川村)とその北にある安曇野市、池田町、松川村を指すようであるから大町市は別になる。木崎湖や青木湖のある大町市まで行くと山が近くなり景色が変わる。梓川と犀川の西岸や高瀬川流域の最南部に広がる扇状地からはずれてしまう。

 白い雪の山脈と水田がのどかに広がる日本の景色を代表する安曇野の地である。午前9時に安曇野に佇んで夕日のころには魚津港にいて剣岳の雄姿と出るかもしれない蜃気楼に心驚かすのであった。

写真と文章は甲斐鐵太郎。

syokota2 at 16:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月01日

2016年11月20日正午。冬枯れた八島湿原には雪はきておらず少しだけ残ったシダの緑が目に鮮やかだ。

10月になって霜が降りる季節になると霧ヶ峰高原はぐんと寒くなる。寒い日もあるが陽が射して風がないときには春のようだ。

夏は緑の絨毯になる八島湿原であるが針葉樹を残して彼は色に変わる。旅行者が一人高層湿原の秋景色を見ていた。


八島湿原入り口の向こうには蓼科山が顔を出す。いつもの見慣れた光景である。枯れ枝とススキの冬ざれた高層湿原の風景であった。


2016年11月20日正午。冬枯れた八島湿原には雪はきておらず少しだけ残ったシダの緑が目に鮮やかだ。


八島湿原入り口の駐車場。2016年11月20日正午は薄雲が流れる天気であった。真冬でもここまで道が通されていて霧ヶ峰高原と八島湿原を散策できるのがいい。この傍の山小屋が通年営業している。


蓼科湖を下ったところにある北欧レストランの前菜。ニシンの酢漬けにマスタードをかけてある。


北欧レストランの料理。箸が遅いためにテーブルに料理が滞った。以前は牛だった肉料理が豚になって魚料理と組み合わされて出てきた。


(タイトル)
2016年11月20日正午に霧ヶ峰高原八島湿原にいた。

(本文)
 10月になって霜が降りる季節になると霧ヶ峰高原はぐんと寒くなる。寒い日もあるが陽が射して風がないときには春のようだ。それは1月2月の厳冬期においてもそうである。

  霧ヶ峰高原の八島湿原入り口の駐車場までは特別な大雪でも降らない限り除雪車が入って道が開かれている。松本方面からの道は閉ざされているが、諏訪方面からの道はスキー場の運行があるために年中開いている。

  諏訪からの道を八島湿原入り口の駐車場まで行くと真冬でもそこは手つかずの自然の様子である。
  機会さえあれば霧ヶ峰高原と八島湿原に足を運ぶ。

 あれこれとなす事が多いために2016年はこの地に出かける回数がいつもより少なかった。久しぶりだということで霧ヶ峰高原と八島湿原に登ったのは2016年11月20日であった。この日の正午に八島湿原を少し散策した。枯れくさい色の高層湿原であった。

 白樺湖と蓼科湖を経て北欧のニシンと肉料理のレストランには2時前に立ち寄った。1年ぶりのここでの食事であった。店の人とは山のことを少し話した。冬でも霧ヶ峰高原に足を運ぶ珍しい人と思っているのだろう。


syokota2 at 11:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年11月29日

想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。

想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。

2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。空の青は水の青となって高原に色を付けます。


八島湿原の駐車場から歩いていくと見える景色です。湿原が埋まってきておりわずかに残る池ですが、こういうのを池塘ともいうのでしょうか。


暖かい日になったこの日は池塘の草葉で越冬してる2センチメートルほどのトンボのように見える飛び虫が散策路の足元に幾つかおりました。


ノリウツギは七の水分が抜けてシオリになって枝についておりました。夏の名残を記録するシオリであるノリウツギの花の残照、残滓です。


アザミの大きな奴のハバヤマボクチです。薄紫色の花は枯草色になっておりました。背景は高山に生えるススキです。


色があればこれだろうと想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。


八島湿原に生えるダケカンバです。青い空、白い雲と調和するのがダケカンバです。緑の葉を付けていても、葉が落ちて枝だけになった状態でもダケカンバは空に溶け込んでおります。


(タイトル)
2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。

(本文)
 しばらく足を運ばないでいた霧ヶ峰高原の八島湿原です。半年は来ていないと思っておりましたが、半年は経っていなかったようです。記録を見ればわかりますが、記憶は夏になる前のことであり、高原の下でわずかにニッコウキスゲの黄色い色を見ておりました。
 大阪に2泊して、木曽路を走り塩尻で泊まって霧ヶ峰高原に登ってきたのです。冬の八島湿原には冬鳥はおりません。渡ってきた冬鳥は里の畑の淵の木立のなかで過ごします。茅野市のそのような場所でマヒワの群れにであって、一群が黄色に染まっているのを見ました。



syokota2 at 12:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

道草をする旅だ。仕事がオフになった土曜日だからできる遊びだ。木曽路にはいると雨だった。ときに強い雨になる。11月19日のことだ。

大阪城公園は紅葉がよかった。京都も同じだ。滋賀の石山寺も良い。湖東三山の紅葉の見事さは各別だ。11月19日の土曜日、大阪から東京に向かう。この日は途中で宿をとる。どこにするか決めてはいない。中央道の中津川で木曽道に降りる。国道19号線だ。何度目かの木曽路だが紅葉の時期は初めてだ。


木曽川沿いを走る。沿道の木々は精いっぱいに赤く色づいていた。嬉しくなった。外は雨だ。雨でもよい。馬籠と妻籠は無視して木曽川沿いを走る。


木曽川が流れていた。奈良井宿より西側に降る雨は木曽川になって濃尾平野をつくった。奈良井宿に向かうほどに木曽川は細くなる。木曽路はみんな山の中と藤村は言った。海などないからだと思うが別の意味で語られた。


コメリに立ち寄った。酉の市セールの幟があった。灯油販売の看板が大きい。寒い地なのだ。米屋利吉だからコメリである。


木曽路をのぼると奈良井宿に着く。奈良井宿は昔のまま残っていて宿もある。素泊まり5000円で泊まることができる。どうするか迷ったが通過した。塩尻市のうなぎ屋カトウのウナギの串焼きを買って宿で食べるためだ。


午後4時半、暮色の塩尻駅に着く。松本駅前にホルモンを食いに行きたいとも思う。今日は疲れたから塩尻駅前のシティーホームホテルにする。土曜日の宿は平日の二倍の料金制設定だ。


塩尻市のうなぎ屋カトウでウナギの串焼きを買う。ご飯は隣のセブンイレブンで。電気ポットで蒸らして食べる。2合炊きの電気釜で炊いた飯にウナギをのせて蒸らすのが良いと加藤で教わった。一串残っていた1600円のを1200円にしてくれた。


syokota2 at 06:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年11月22日

八島湿原に生えるダケカンバです。青い空、白い雲と調和するのがダケカンバです。緑の葉を付けていても、葉が落ちて枝だけになった状態でもダケカンバは空に溶け込んでおります。

(タイトル)
2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。

(本文)
 しばらく足を運ばないでいた霧ヶ峰高原の八島湿原です。半年は来ていないと思っておりましたが、半年は経っていなかったようです。記録を見ればわかりますが、記憶は夏になる前のことであり、高原の下でわずかにニッコウキスゲの黄色い色を見ておりました。
 大阪に2泊して、木曽路を走り塩尻で泊まって霧ヶ峰高原に登ってきたのです。冬の八島湿原には冬鳥はおりません。渡ってきた冬鳥は里の畑の淵の木立のなかで過ごします。茅野市のそのような場所でマヒワの群れにであって、一群が黄色に染まっているのを見ました。

2016年11月20日正午の霧ヶ峰高原八島湿原です。草木の緑が消えて枯葉色の世界になっておりました。空の青は水の青となって高原に色を付けます。


八島湿原の駐車場から歩いていくと見える景色です。湿原が埋まってきておりわずかに残る池ですが、こういうのを池塘ともいうのでしょうか。


暖かい日になったこの日は池塘の草葉で越冬してる2センチメートルほどのトンボのように見える飛び虫が散策路の足元に幾つかおりました。


ノリウツギは七の水分が抜けてシオリになって枝についておりました。夏の名残を記録するシオリであるノリウツギの花の残照、残滓です。


アザミの大きな奴のハバヤマボクチです。薄紫色の花は枯草色になっておりました。背景は高山に生えるススキです。


色があればこれだろうと想像していたようにマユミの花というか実の赤いのが残っておりました。霧ヶ峰高原の沿道にはマユミ(真弓)の木がたくさん生えております。


八島湿原に生えるダケカンバです。青い空、白い雲と調和するのがダケカンバです。緑の葉を付けていても、葉が落ちて枝だけになった状態でもダケカンバは空に溶け込んでおります。







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2016年10月27日

2016年富士山の初積雪を見に出かけた。10月26日朝のことである。

2016年の富士山の初積雪は10月26日朝に観測された。昭和33年と並んで観測史上最も遅い初冠雪であると報じられた。


10月26日朝に富士山の2016年の初冠雪の報道があったので河口湖に足を運んだ。テレビ報道ではくっきりと雪があったのに午後になると淡い積雪になっていた。午後3時半には河口湖からの富士山は陽が当たらない状態であった。登山靴を用意して出かけたが用を足すことがなく引き返した。


山中湖の湖畔、平野には真弓が実を付けていた。湖畔では男女が乗る2代のオートバイと軽自動車のオープンカーに乗った青年がいてそれぞれバーナーを焚いて食事をしていて。風のない日であった。


山中湖の繁華街にはデニーズがあってここで休憩することが多い。


午後2時に富士吉田に居られるときには吉田のウドンを食べる。掛けウドンが400円で大盛りは100円の追加だ。ツユは味噌が混じっていてようでしょっぱい。強風の出汁でとったツユで食べたいと思う。

(タイトル)
2016年富士山の初積雪を見に出かけた。10月26日朝のことである。
(本文)
 2016年の富士山の初積雪は10月26日朝に観測された。昭和33年と並んで観測史上最も遅い初冠雪であると報じられた。直ぐに富士山の初積雪を見に出かけた
 10月26日朝に富士山の2016年の初冠雪の報道があったので河口湖に足を運んだ。テレビ報道ではくっきりと雪があったのに午後になると淡い積雪になっていた。午後3時半には河口湖からの富士山は陽が当たらない状態であった。登山靴を用意して出かけたが用を足すことがなく引き返した。
 山中湖の湖畔、平野には真弓が実を付けていた。湖畔では男女が乗る2代のオートバイと軽自動車のオープンカーに乗った青年がいてそれぞれバーナーを焚いて食事をしていて。風のない日であった。
  山中湖の繁華街にはデニーズがあってここで休憩することが多い。
 午後2時に富士吉田に居られるときには吉田のウドンを食べる。掛けウドンが400円で大盛りは100円の追加だ。ツユは味噌が混じっていてようでしょっぱい。強風の出汁でとったツユで食べたいと思う。
 木曽駒ケ岳と阿蘇山ガ爆発している。富士山は火山である。溶岩は下手の都留市にも流れていて、この溶岩を使って塀を築いている。浅間山と富士山が大爆発したのは江戸時代である。つい先日のことである。人はどこにどのような街をつくってどのように暮らすのが良いのだろう。素朴な疑問であり発想である。




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2016年10月05日

富士山の懐に潜った感覚になる吉田口五合目の奥庭自然公園

奥庭自然公園は標高2200メートルのところにあって富士山
を仰ぎ見るのに絶好。9月25日には富士山が見えた。


奥庭自然公園の展望台から南アルプスの山並みを見る。


奥庭荘の前には天狗岩があった。背後に富士山が見えていた。


富士スバルラインを観光バスが走る。この日は富士山が見えた。


富士山麓で採れた松茸料理が出る。松茸の味はした。


(タイトル)
富士山の懐に潜った感覚になる吉田口五合目の奥庭自然公園

(本文)
 新田次郎の小説にあった。普段は日本橋の旦那。それが夏になると富士山の天狗になるのである。吉田口五合目の奥庭自然公園には鳥居が立てられたそのさきに天狗岩がある。それで新田次郎を思い出した。ゼロ成長社会に咲いた冨士講である。お伊勢参りもそうだ。

 吉田口五合目の奥庭自然公園は標高2200メートルのところにあって富士山を仰ぎ見るのに絶好であり、ここからの日本アルプスの眺めもよい。シラビソやコメツガが生える高山帯である。溶岩の上にわずかに積もった土の養分を吸っているが根は地表を這い幹は風雪にさらされて上に伸びないものもある。

  富士スバルラインを自転車で登る人がいてオートバイが走る。観光バスも登っていく。この人たちの今宵のことを思う。赤松の自然林のある富士山麓では松茸(まつたけ)が良く取れる。奥庭の宿では松茸のコース料理がでた。


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2016年09月30日

9月25日富士吉田方面から車で上っていく。5合目付近の富士山奥庭自然公園から富士山を眺める。絶景だ。

富士山奥庭自然公園から富士山を眺める。絶景だ。


富士山に暈雲がかかってUFO(ユーフォ)の様子であった。


9月25日、富士山の2200メートル付近はコケモモが
赤い実を付ける季節であった。


大きくて奇怪なフジアザミに目が行く。


フジアザミの脇を車が通り過ぎていく。


キイチゴが大きな赤い実を付けていた。


ナナカマドの実が赤くなっていた。


(タイトル)
富士山を仰ぐ場所としては山麓随一の奥庭自然公園
(9月25日富士吉田方面から車で上っていく。5合目付近の富士山奥庭自然公園から富士山を眺める。絶景だ。)

(本文)
  富士山は高い山だが噴火後の日が浅いのとはるか昔から高かったのでないために純粋な意味での高山植物はいないとされる。そうかも知れない。9月25日富士吉田方面から車で上っていくと三合目付近に「フジアザミ」が毒々しい大きな花を咲かせていた。これだよ富士山は。霧ヶ峰高原には似たような花の「ハバヤマボクチ」が咲いているがグロテスクということでは「フジアザミ」はずっと優る。
 二週前8月31日に同じコースを走ったときにもフジザミは咲いていた。今度は車を安全確実に留める場所を見つけて写真を撮った。
 吉田口からのコースの五合目近くに奥庭自然公園がある。自動車道を一歩林に踏み込むとそこは標高2200メートルのシラビソ、コメツガが生える自然林である。白山シャクナゲ驚くほど多い。下草のコケモモは赤い実を付けていた。
  シラビソとコメツガが生える自然林が放つ芳香は深く高い山のものであることが嬉しい。富士山を仰ぐ場所としては山麓随一といってよい。


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吉田口からのコースの五合目近くに奥庭自然公園がある。

富士山奥庭自然公園では富士山に暈雲がかかって
UFOの様子であった。


9月25日、富士山の2200メートル付近はコケモモが
赤い実を付ける季節であった。


大きくて奇怪なフジアザミに目が行く。


フジアザミの脇を車が通り過ぎていく。


キイチゴが大きな赤い実を付けていた。


ナナカマドの実が赤くなっていた。


(タイトル)
富士山を仰ぐ場所としては山麓随一の奥庭自然公園
(本文)
  富士山は高い山だが噴火後の日が浅いのとはるか昔から高かったのでないために純粋な意味での高山植物はいないとされる。そうかも知れない。9月25日富士吉田方面から車で上っていくと三合目付近に「フジアザミ」が毒々しい大きな花を咲かせていた。これだよ富士山は。霧ヶ峰高原には似たような花の「ハバヤマボクチ」が咲いているがグロテスクということでは「フジアザミ」はずっと優る。
 二週前8月31日に同じコースを走ったときにもフジザミは咲いていた。今度は車を安全確実に留める場所を見つけて写真を撮った。
 吉田口からのコースの五合目近くに奥庭自然公園がある。自動車道を一歩林に踏み込むとそこは標高2200メートルのシラビソ、コメツガが生える自然林である。白山シャクナゲ驚くほど多い。下草のコケモモは赤い実を付けていた。
  シラビソとコメツガが生える自然林が放つ芳香は深く高い山のものであることが嬉しい。富士山を仰ぐ場所としては山麓随一といってよい。


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2016年09月08日

富士山は赤い山だ。夏は裾野からは緑に見える。近づくと赤い山だ。褐色の山である。富士山・吉田口5合目の8月31日午後5時30分

富士山は赤い山だ。夏は裾野からは緑に見える。近づくと赤い山だ。褐色の山である。富士山・吉田口5合目の8月31日午後5時30分。

(タイトル)
富士山・吉田口5合目の8月31日午後5時30分

8月31日午後5時に50日ぶりにマイカー規制が解除になった。
イの一番にゲートをくぐって30分、五合目から富士山を見る。


裾野から富士山は緑に見えていた。このような緑色だ。


風向風力計、雨量計、積雪量の測定器、温度計などが
一まとめにされた気象観測機器が富士山5合目にある。


神社がある。富士山は信仰の山である。


交通整理の係員がいつでもいる。
中国語の人々の交通への意識は日本人とは違う。


富士スバルラインを河口湖に下る。夕景色になる。


富士山ろくの樹海と河口湖の様子。


午後6時を過ぎようとしている。富士山が赤く染まった。
富士山は赤い山だ。夏は裾野からは緑に見える。
近づくと赤い山だ。褐色の山である。


(本文)
 富士山は世界文化遺産になってから遠い場所になった。マイカー規制が強化されたことやマイカーが増えて規制期間でなくても駐車場が満杯になるからである。

 タイトルの「富士山・吉田口5合目の8月31日午後5時30分」とはこれから30分前に50日間の規制期間が解除されて、イの一番で駆けのぼればこの時間になることから付けてある。

 前日はこの地域は台風のエリアにあって雨が降っていた。この日は朝から晴れ上がって富士山が緑に見えていた。近づいてみれば富士山は茶褐色の山であり、夕日に照らされれば赤い山である。森林限界が五合目付近であるから樹木のある裾野の色を見て富士山は緑だと思ったのだ。

 都留市では8月31日と9月1日に八朔祭り(はっさく・まつり)があった。8月31日には富士山が見えて9月1日には雲に隠れていた。富士山は気まぐれに顔を見せる。

 8月31日朝、あてもなく家をでたら山中湖に向かっていた。富士吉田の硬いウドンを400円をだして食べたあとで河口湖に足を運んだ。ウロウロしていると午後5時近くになっていて富士山がよく見えていたから二千円の通行料金を支払って五合目に上がった。五合目は冷たい場所であった。半袖姿では外にでる気持ちもおきないのでスマホで記念の写真を社内から撮って帰った。

 カメラを用意しなかったのを悔いるほどの富士山の撮影日和であった。失望のうちにスマホで撮っておいた写真を「初めてのこと」でパソコンに落とした。そのようにしてここに写真を掲載している。

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2016年08月04日

八ヶ岳はその頂をめざすのもよい。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その8−

八ヶ岳はその頂をめざすのもよい。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その8−
(夏沢峠だ。左手向こうに硫黄岳が見える。8月14日、オーレン小屋の朝だ。これから夏沢峠に向かう。夏沢峠につづく八ヶ岳の原生林の道。朝早いうちは小鳥が鳴く。硫黄岳に向かう。まずは夏沢峠に出て尾根道に。)
オーレン小屋の朝だ。これから夏沢峠に向かう。


白い花が咲いていた。


夏沢峠につづく八ヶ岳の原生林の道。朝早いうちは小鳥が鳴く。


硫黄岳に向かう。まずは夏沢峠に出て尾根道に。


夏沢峠だ。左手向こうに硫黄岳が見える。


(タイトル)
八ヶ岳はその頂をめざすのもよい。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その8−
(夏沢峠だ。左手向こうに硫黄岳が見える。8月14日、オーレン小屋の朝だ。これから夏沢峠に向かう。夏沢峠につづく八ヶ岳の原生林の道。朝早いうちは小鳥が鳴く。硫黄岳に向かう。まずは夏沢峠に出て尾根道に。)

(本文)
 いまも森が広がっているが縄文のころには森そのものであった。この地からはビーナスや仮面のビーナスといった縄文の遺物がでる。

 茅野駅から山に向かって走り尖石縄(とがりいし)文考古館を左に見てそのまま進む。夏沢鉱泉を経てオーレン小屋に至る道は足ならしの意味での一日コースにするとよい。

 太古の森がそのまま残っているなだらかな山道を急いで通過するのはもったいない。

 夏の樹木がこれ以上ないほどに緑の色を濃くするころ、そう8月のお盆のころには標高が上がる夏沢鉱泉からオーレン小屋そして八ヶ岳の硫黄岳への登山路の緑は平地の6月の色なのだ。

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。私には縁がないことであるが裾野には三井の森という別荘地が広がっている。

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2016年08月02日

八ヶ岳の硫黄岳に登る。8月14日だ。ゆっくり登るがこの一日は激しい登山行動になる。−その8−

八ヶ岳の硫黄岳に登る。8月14日だ。ゆっくり登るがこの一日は激しい登山行動になる。−その8−

8月14日、オーレン小屋は朝になった。飯を食ったし出発だ。


8月14日、木立の中を夏沢峠に向かって登る。体はまだ動きが悪い。


8月14日、白い花が咲いていた。花は有難いし嬉しい。


8月14日、夏沢峠に向かって登る。正面に朝日が登っている。


8月14日、夏沢峠に出た。ここには山小屋があった。向こうに硫黄岳が見える。


8月14日。硫黄岳方面への標識。夏沢峠は南八ヶ岳と北八ヶ岳の境目だ。


(タイトル)
八ヶ岳の硫黄岳に登る。8月14日だ。ゆっくり登るがこの一日は激しい登山行動になる。−その8−
(8月14日、オーレン小屋は朝になった。飯を食ったし出発だ。木立の中を夏沢峠に向かって登る。体はまだ動きが悪い。白い花が咲いていた。花は有難いし嬉しい。夏沢峠に向かって登る。正面に朝日が登っている。硫黄岳方面への標識。夏沢峠は南八ヶ岳と北八ヶ岳の境目だ。硫黄岳方面への標識。夏沢峠は南八ヶ岳と北八ヶ岳の境目だ。)

(本文)
 いまも森が広がっているが縄文のころには森そのものであった。この地からはビーナスや仮面のビーナスといった縄文の遺物がでる。

 茅野駅から山に向かって走り尖石縄(とがりいし)文考古館を左に見てそのまま進む。夏沢鉱泉を経てオーレン小屋に至る道は足ならしの意味での一日コースにするとよい。

 太古の森がそのまま残っているなだらかな山道を急いで通過するのはもったいない。

 夏の樹木がこれ以上ないほどに緑の色を濃くするころ、そう8月のお盆のころには標高が上がる夏沢鉱泉からオーレン小屋そして八ヶ岳の硫黄岳への登山路の緑は平地の6月の色なのだ。

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。私には縁がないことであるが裾野には三井の森という別荘地が広がっている。

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2016年08月01日

八ヶ岳はその頂をめざすのもよい。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その7−

八ヶ岳はその頂をめざすのもよい。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その7−
(オーレン小屋に着いてほっと一息いける人がいた。8月13日、オーレン小屋で夕食を楽しむ人がいた。8月14日、オーレン小屋で朝食を食べる人がいた。)

8月13日、オーレン小屋に着いてほっと一息いける人がいた。
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8月13日、オーレン小屋で夕食を楽しむ人がいた。
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8月13日、オーレン小屋で夕食を楽しむ人がいた。
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8月13日、オーレン小屋で夕食を楽しむ人がいた。
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8月14日、オーレン小屋で朝食を食べる人がいた。
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(タイトル)
八ヶ岳はその頂をめざすのもよい。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その7−
(オーレン小屋に着いてほっと一息いける人がいた。8月13日、オーレン小屋で夕食を楽しむ人がいた。8月14日、オーレン小屋で朝食を食べる人がいた。)

(本文)
 いまも森が広がっているが縄文のころには森そのものであった。この地からはビーナスや仮面のビーナスといった縄文の遺物がでる。

 茅野駅から山に向かって走り尖石縄(とがりいし)文考古館を左に見てそのまま進む。夏沢鉱泉を経てオーレン小屋に至る道は足ならしの意味での一日コースにするとよい。

 太古の森がそのまま残っているなだらかな山道を急いで通過するのはもったいない。

 夏の樹木がこれ以上ないほどに緑の色を濃くするころ、そう8月のお盆のころには標高が上がる夏沢鉱泉からオーレン小屋そして八ヶ岳の硫黄岳への登山路の緑は平地の6月の色なのだ。

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。私には縁がないことであるが裾野には三井の森という別荘地が広がっている。

 

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2016年07月31日

オーレン小屋の二段式の寝台です。緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その6−

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その6−
(オーレン小屋の夕食後のくつろぎの時間です。双眼鏡で外を見る人がおります。オーレン小屋の二段式の寝台です。)

オーレン小屋に着いた人がおりました。
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オーレン小屋の前で夕食前の気ままな時間を過ごします。
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オーレン小屋の夕食です。車が入るから食事の献立は豪華です。
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オーレン小屋の夕食後のくつろぎの時間です。双眼鏡で外を見る人がおります。
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オーレン小屋の二段式の寝台です。
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(タイトル)
八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水流れる八ヶ岳山麓を散策するのもよい。−その6−
(オーレン小屋の夕食後のくつろぎの時間です。双眼鏡で外を見る人がおります。オーレン小屋の二段式の寝台です。)

(本文)
 いまも森が広がっているが縄文のころには森そのものであった。この地からはビーナスや仮面のビーナスといった縄文の遺物がでる。

 茅野駅から山に向かって走り尖石縄(とがりいし)文考古館を左に見てそのまま進む。夏沢鉱泉を経てオーレン小屋に至る道は足ならしの意味での一日コースにするとよい。

 太古の森がそのまま残っているなだらかな山道を急いで通過するのはもったいない。

 夏の樹木がこれ以上ないほどに緑の色を濃くするころ、そう8月のお盆のころには標高が上がる夏沢鉱泉からオーレン小屋そして八ヶ岳の硫黄岳への登山路の緑は平地の6月の色なのだ。

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。私には縁がないことであるが裾野には三井の森という別荘地が広がっている。

 写真はそのような登山路で撮影したものである。


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2016年07月29日

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。−その4−

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。−その4−
(オーレン小屋の自家発電システムの説明の看板があった。花や木や景色を見て歩く。急がないのだ。忙しくないのだ。八ヶ岳の緑のなかにはコケやシダが目立つ。)

オーレン小屋に到着した。花と木と緑を楽しむ歩きだ。
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オーレン小屋の自家発電システムの説明の看板があった。
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花や木や景色を見て歩く。急がないのだ。忙しくないのだ。
白い花が咲いていた。嫌みのない白い花だ。
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八ヶ岳の緑のなかにはコケやシダが目立つ。
緑色でもいろいろな色がある。
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花や木や景色を見て歩く。急がないのだ。忙しくないのだ。
ママハハコの白い花が咲いていた。
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(タイトル)
八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。−その4−
(オーレン小屋の自家発電システムの説明の看板があった。花や木や景色を見て歩く。急がないのだ。忙しくないのだ。八ヶ岳の緑のなかにはコケやシダが目立つ。)

(本文)
 いまも森が広がっているが縄文のころには森そのものであった。この地からはビーナスや仮面のビーナスといった縄文の遺物がでる。

 茅野駅から山に向かって走り尖石縄(とがりいし)文考古館を左に見てそのまま進む。夏沢鉱泉を経てオーレン小屋に至る道は足ならしの意味での一日コースにするとよい。

 太古の森がそのまま残っているなだらかな山道を急いで通過するのはもったいない。

 夏の樹木がこれ以上ないほどに緑の色を濃くするころ、そう8月のお盆のころには標高が上がる夏沢鉱泉からオーレン小屋そして八ヶ岳の硫黄岳への登山路の緑は平地の6月の色なのだ。

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。私には縁がないことであるが裾野には三井の森という別荘地が広がっている。

 写真はそのような登山路で撮影したものである。


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2016年07月28日

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。−その3−

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。−その3−
(アキノキリンソウの黄色い花が緑に映える。夏沢鉱泉からオーレン小屋までの道のりを楽しむ。緑の小路を進む。ここは八ヶ岳だ。ママハハコあるいはハハコグサのような白い花が咲いている。)

夏沢峠とオーレン小屋の分岐点だ。
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緑の小路を進む。ここは八ヶ岳だ。
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朽ちた木に苔が生える八ヶ岳の林が続く。
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アキノキリンソウの黄色い花が緑に映える。
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ママハハコあるいはハハコグサのような白い花が咲いている。
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野に出ないとホタルブクロ(ミヤマホタルブクロ)
などの花を目にすることがない。
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八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。−その3−
(アキノキリンソウの黄色い花が緑に映える。夏沢鉱泉からオーレン小屋までの道のりを楽しむ。緑の小路を進む。ここは八ヶ岳だ。ママハハコあるいはハハコグサのような白い花が咲いている。)

(本文)
 いまも森が広がっているが縄文のころには森そのものであった。この地からはビーナスや仮面のビーナスといった縄文の遺物がでる。

 茅野駅から山に向かって走り尖石縄(とがりいし)文考古館を左に見てそのまま進む。夏沢鉱泉を経てオーレン小屋に至る道は足ならしの意味での一日コースにするとよい。

 太古の森がそのまま残っているなだらかな山道を急いで通過するのはもったいない。

 夏の樹木がこれ以上ないほどに緑の色を濃くするころ、そう8月のお盆のころには標高が上がる夏沢鉱泉からオーレン小屋そして八ヶ岳の硫黄岳への登山路の緑は平地の6月の色なのだ。

八ヶ岳はその頂をめざすのもよいが、緑豊かで清い水の流れのその山麓を散策するのもよい。私には縁がないことであるが裾野には三井の森という別荘地が広がっている。

 写真はそのような登山路で撮影したものである。


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