おはようございます。転枝という人間です。小説を書いたりしています。
 
 小説を書くついでに木の葉スケッチという一次創作文芸サークルもやってます。文学フリマ東京には良く出ている感じです。是非お会いしたときはよろしくお願いします。ツイッターもやってます。ここでは木の葉スケッチの活動も報告しておこうかなと。誰が見るんだ感もありますが、アーカイブって大事にしていきたいなって。

 このブログをなにに使うかということなんですが、文学フリマで買った同人誌とかの感想を書いたりします。それ以外にも沢山無駄口を叩きますんで、カテゴリはちゃんと分けていこうかなと。

 なんか色々挨拶するべきことがあるような気がしますが、とりあえずは好きなこと書きますとだけ。ぶっちゃけ世界に公開するメモ帳です。はい。ご迷惑やご不快な思いをさせてしまったらすみません(先制謝罪)。


 お久しぶりです、挨拶も早々さっさと本題に移りたいと思います。今回は以前紹介した『イリエの情景』の二巻について話します。女子大生二人の被災地めぐりの青春小説と銘打ったこのシリーズは、多くの同人イベントで頒布されていることと思いますので、是非気になった方はお買い求めいただけると……。

 

 

 「震災後文学」という言葉がある。巨大地震による個人、社会に対する衝撃や影響を落とし込む作品群につけられる名称である。3・11以降の文学でいえば、高橋源一郎の『恋する原発』、川上弘美の『神様2011』、そして村上春樹の『騎士団長殺し』などが代表としてあげられるだろう。この『イリエ』は間違いなくそれらの作品につらなる震災後文学だ。千年語り継ぐ物語とまで作者である今田ずんばあらずは語っているが、その言葉を放つにふさわしく、他作品と比べても比肩どころか追い越さんばかりの取材量とデータに裏づけされた写実性を持った作品だ。主人公とすべき二人の女子大生は、2016年夏に実際に広がる東北の風景を歩いていく。

街によって様相の違う景色は、「被災地」と一くくりにできないイメージを想起させる。それは、震災当時に良く聞いていた東北の地名をもう一度思い出すことによって、「被災地」という名詞から、それぞれの固有の地名を取り戻す作業のように思われる。それはもちろん、気仙沼や陸前高田に住んでいない人間からの、つまりは部外者からの視点だ。当事者である被災地の住民にとっては、震災も被災地もまったくもってフィクションではない。現実に起きてしまった事象に対し、フィクションやイメージが対抗できることはなんであろうか。『イリエの情景』の二巻は、そんな疑問を起こす内容になっている。

 フィクションとは虚構であり、作られたものだ。だからといって、現実ではありえないものだろうか。ここで考えたいのは「観光」という言葉についてだ。観光とは、自らの住んでいない土地に赴くこと全般を指す言葉だが、対象となる観光地は常に観光客からの視線を鑑みて町を興していく。観光客向けに町を変化させるということは、観光客が観光する際に見るものは虚構性をどうしても孕むという結論になるだろう。我々が現実を見ようとしても、どうしようもなく虚構を得るしかない状況は多々ある。実際、仮設住宅の群を眺めに行くことを、一般的な意味での「観光」と呼ぶわけにはいかないのだ。

 しかし、『イリエの情景』はその仮設住宅の群や土台しか残っていない住宅、更地や被災物を観光する作品だ。圧倒的なまでに真実を描写し、現地人の観光客に対する拒絶すら、絶望的に描ききる。それでも、この物語はフィクションである。現実や真実とフィクションが絡まりあった本作にとって、もはやなにが真実でなにがフィクションであるかという議題はほとんど意味を成さない。ただ一つ確かなのは、主人公たちの視線は徐々にではあるが変化し、凄惨な「被災地」のイメージを一つずつ明らかにしていく。その結果として読者がなにを感じるか、答えは最終巻を読んでからにするとしたい。

 震災は悲劇だ。このことは疑いようもなく、人間の自然に思い起こす発想でありながら確かな真実だ。二万人近くが波に呑まれ抵抗もできずに死んでいったことはフィクションにはならない。その悲劇にずけずけとフィクションの土足で踏み入ることを、個人としては尊敬したい。この『イリエ』によって被災地の悲劇が徒にかき回されることを私は望む。

 千年語り継ぐ、今田ずんばあらずは言っていた。人が他人に言伝をする。伝言ゲームとは常に、真実から虚構を生み出すゲームに過ぎないのだ。

 こんにちは。転枝です。おひさしぶりです。

 テキレボ6にて頒布させていただく作品について、少し話をしようと思います。あんまり作者自身が作品にどうのこうのと喋りすぎるのもどうかとは思いますが、ちょっと話したい気分なのでお許しを。

灯色の風景
 画像サイズでかいんですけどそれで良いと思います。是非ご覧ください。上がシイマナナ氏による表紙です。綺麗ですよね。本当に。作中のワンシーンで出てくる新宿御苑がモチーフなので、みなさん御苑に行きましょう。

 で、肝心の内容ですが「女子高生が色々考える」だけです。すさまじくざっくり言うと。
 というか、書きたいものを書きまくった作品なので、僕がどんなことを考えていたかを説明すれば、自ずとそれが内容になってくるような作品です。

 僕が書きたいものは人と風景です。
 そして、疑っているものはその二つの関係性です。風景とは人が認識するビジュアルに対して感情を乗せるという概念そのものです。実際の景色や画像そのものは風景足りえない。人が何かを見て、そこに想像力を働かせること自体が風景なのだ。というのが僕の支持する考えであり、経験としてもそうだろうと思う考えです。 
 つまり、小説の一人称視点での風景描写はそのまま「風景」という概念と非常に近しい、むしろそれそのものになっていく。人と風景の間には境界線はなく、むしろお互いの存在がお互いの存在を確立させる関係にあるのでしょう。

 それと、なぜ女子高生なのか問題です。僕が女性視点にこだわって小説を書いているのは、普通にその方が書きやすいという理由もあるのですが、簡単に言うと欲望に向かい合うことが大切な気がするから書き続けているんですよね。
 僕は二十代の男性です。そして健康であり異性愛者であり東京大都市圏のベッドタウンに住む人間です。なにが言いたいかというと、取り立てて社会的に差別されたことのない、不便を感じたこともない人間だということです。生まれながら焼きついた、環境に対する悩みがないんです。僕は僕の生を簡単に肯定できるし、疑うことも非常に少ない。これは別に女性は差別されているということを言いたいのでも、地方に対する見下しでもないつもりです。言いたいのは僕が世界に対して承認を求める存在なのではなく、世界の中で常に何かを消費したり、欲望を向けたりするだけの存在だったという話です。
 ただ、今の僕はそれに嫌気がさしている。生まれや環境は大変恵まれていたと思うし、ありがたいと思う。ただそれに浸かり、意味もない(と感じてしまうような)消費行動に走り続けることを、僕はどんどん楽しいと思えなくなっていきました。
 もちろん反復する消費や、欲望の発散はどこまで行ってもついて回るものです。生きていくためには必要な循環だとも思う。そのぶれが女性視点を必要としています。

 欲望の対象となりなりながら、自らも何かを貪欲に欲していく。主人公は、人間の放つ欲望にもっとも巻き込まれていく存在であって欲しい。それが、僕自身の欲望とその浅ましさをもっとも如実に表現する方法です。日本文学の歴史を考えても、その最初期から人間の欲望の問題はでてきます。源氏物語とかは顕著すぎるでしょう。
 男性視点からでは、どう欲望を発散するかしか僕にはまだ書けない。簡単に自分の欲望の遡上にあがりながら、それでも強い意思を持っている。そう実感を持って書けるのは、今のところ女性側です。

 それが極まったのが『灯色の風景』です。ダメな部分も非常に多いですが、それでも自分の哲学が臨界点まで行ってくれた自信作です。 
 ひざのうらはやおさんの企画された「みんなのごうがふかいな展」にも出展しておりますので、もしよろしければお願いします。ただ、以前合同誌に載せたバージョンと大きな変更はないので、『Sketch』を買った方にはお勧めはできないです……(すみません、ほんとに分かんないくらいしか変ってないんです……)というのも、もともとの作品にそれだけ自信があるということなんですけどね。

 さて、長くなりましたがまったく本の内容に触れませんでしたね。そういうこともあります。テキレボ6、楽しみにしております。お会いできる方が少しでも多いことを祈っております。

 お付き合いいただきありがとうございました。また近いうちに何か書きます。それでは。

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