こんにちは。転枝です。おひさしぶりです。
テキレボ6にて頒布させていただく作品について、少し話をしようと思います。あんまり作者自身が作品にどうのこうのと喋りすぎるのもどうかとは思いますが、ちょっと話したい気分なのでお許しを。

画像サイズでかいんですけどそれで良いと思います。是非ご覧ください。上がシイマナナ氏による表紙です。綺麗ですよね。本当に。作中のワンシーンで出てくる新宿御苑がモチーフなので、みなさん御苑に行きましょう。
で、肝心の内容ですが「女子高生が色々考える」だけです。すさまじくざっくり言うと。
というか、書きたいものを書きまくった作品なので、僕がどんなことを考えていたかを説明すれば、自ずとそれが内容になってくるような作品です。
僕が書きたいものは人と風景です。
そして、疑っているものはその二つの関係性です。風景とは人が認識するビジュアルに対して感情を乗せるという概念そのものです。実際の景色や画像そのものは風景足りえない。人が何かを見て、そこに想像力を働かせること自体が風景なのだ。というのが僕の支持する考えであり、経験としてもそうだろうと思う考えです。
つまり、小説の一人称視点での風景描写はそのまま「風景」という概念と非常に近しい、むしろそれそのものになっていく。人と風景の間には境界線はなく、むしろお互いの存在がお互いの存在を確立させる関係にあるのでしょう。
それと、なぜ女子高生なのか問題です。僕が女性視点にこだわって小説を書いているのは、普通にその方が書きやすいという理由もあるのですが、簡単に言うと欲望に向かい合うことが大切な気がするから書き続けているんですよね。
僕は二十代の男性です。そして健康であり異性愛者であり東京大都市圏のベッドタウンに住む人間です。なにが言いたいかというと、取り立てて社会的に差別されたことのない、不便を感じたこともない人間だということです。生まれながら焼きついた、環境に対する悩みがないんです。僕は僕の生を簡単に肯定できるし、疑うことも非常に少ない。これは別に女性は差別されているということを言いたいのでも、地方に対する見下しでもないつもりです。言いたいのは僕が世界に対して承認を求める存在なのではなく、世界の中で常に何かを消費したり、欲望を向けたりするだけの存在だったという話です。
ただ、今の僕はそれに嫌気がさしている。生まれや環境は大変恵まれていたと思うし、ありがたいと思う。ただそれに浸かり、意味もない(と感じてしまうような)消費行動に走り続けることを、僕はどんどん楽しいと思えなくなっていきました。
もちろん反復する消費や、欲望の発散はどこまで行ってもついて回るものです。生きていくためには必要な循環だとも思う。そのぶれが女性視点を必要としています。
欲望の対象となりなりながら、自らも何かを貪欲に欲していく。主人公は、人間の放つ欲望にもっとも巻き込まれていく存在であって欲しい。それが、僕自身の欲望とその浅ましさをもっとも如実に表現する方法です。日本文学の歴史を考えても、その最初期から人間の欲望の問題はでてきます。源氏物語とかは顕著すぎるでしょう。
男性視点からでは、どう欲望を発散するかしか僕にはまだ書けない。簡単に自分の欲望の遡上にあがりながら、それでも強い意思を持っている。そう実感を持って書けるのは、今のところ女性側です。
それが極まったのが『灯色の風景』です。ダメな部分も非常に多いですが、それでも自分の哲学が臨界点まで行ってくれた自信作です。
ひざのうらはやおさんの企画された「みんなのごうがふかいな展」にも出展しておりますので、もしよろしければお願いします。ただ、以前合同誌に載せたバージョンと大きな変更はないので、『Sketch』を買った方にはお勧めはできないです……(すみません、ほんとに分かんないくらいしか変ってないんです……)というのも、もともとの作品にそれだけ自信があるということなんですけどね。
さて、長くなりましたがまったく本の内容に触れませんでしたね。そういうこともあります。テキレボ6、楽しみにしております。お会いできる方が少しでも多いことを祈っております。
お付き合いいただきありがとうございました。また近いうちに何か書きます。それでは。
テキレボ6にて頒布させていただく作品について、少し話をしようと思います。あんまり作者自身が作品にどうのこうのと喋りすぎるのもどうかとは思いますが、ちょっと話したい気分なのでお許しを。

画像サイズでかいんですけどそれで良いと思います。是非ご覧ください。上がシイマナナ氏による表紙です。綺麗ですよね。本当に。作中のワンシーンで出てくる新宿御苑がモチーフなので、みなさん御苑に行きましょう。
で、肝心の内容ですが「女子高生が色々考える」だけです。すさまじくざっくり言うと。
というか、書きたいものを書きまくった作品なので、僕がどんなことを考えていたかを説明すれば、自ずとそれが内容になってくるような作品です。
僕が書きたいものは人と風景です。
そして、疑っているものはその二つの関係性です。風景とは人が認識するビジュアルに対して感情を乗せるという概念そのものです。実際の景色や画像そのものは風景足りえない。人が何かを見て、そこに想像力を働かせること自体が風景なのだ。というのが僕の支持する考えであり、経験としてもそうだろうと思う考えです。
つまり、小説の一人称視点での風景描写はそのまま「風景」という概念と非常に近しい、むしろそれそのものになっていく。人と風景の間には境界線はなく、むしろお互いの存在がお互いの存在を確立させる関係にあるのでしょう。
それと、なぜ女子高生なのか問題です。僕が女性視点にこだわって小説を書いているのは、普通にその方が書きやすいという理由もあるのですが、簡単に言うと欲望に向かい合うことが大切な気がするから書き続けているんですよね。
僕は二十代の男性です。そして健康であり異性愛者であり東京大都市圏のベッドタウンに住む人間です。なにが言いたいかというと、取り立てて社会的に差別されたことのない、不便を感じたこともない人間だということです。生まれながら焼きついた、環境に対する悩みがないんです。僕は僕の生を簡単に肯定できるし、疑うことも非常に少ない。これは別に女性は差別されているということを言いたいのでも、地方に対する見下しでもないつもりです。言いたいのは僕が世界に対して承認を求める存在なのではなく、世界の中で常に何かを消費したり、欲望を向けたりするだけの存在だったという話です。
ただ、今の僕はそれに嫌気がさしている。生まれや環境は大変恵まれていたと思うし、ありがたいと思う。ただそれに浸かり、意味もない(と感じてしまうような)消費行動に走り続けることを、僕はどんどん楽しいと思えなくなっていきました。
もちろん反復する消費や、欲望の発散はどこまで行ってもついて回るものです。生きていくためには必要な循環だとも思う。そのぶれが女性視点を必要としています。
欲望の対象となりなりながら、自らも何かを貪欲に欲していく。主人公は、人間の放つ欲望にもっとも巻き込まれていく存在であって欲しい。それが、僕自身の欲望とその浅ましさをもっとも如実に表現する方法です。日本文学の歴史を考えても、その最初期から人間の欲望の問題はでてきます。源氏物語とかは顕著すぎるでしょう。
男性視点からでは、どう欲望を発散するかしか僕にはまだ書けない。簡単に自分の欲望の遡上にあがりながら、それでも強い意思を持っている。そう実感を持って書けるのは、今のところ女性側です。
それが極まったのが『灯色の風景』です。ダメな部分も非常に多いですが、それでも自分の哲学が臨界点まで行ってくれた自信作です。
ひざのうらはやおさんの企画された「みんなのごうがふかいな展」にも出展しておりますので、もしよろしければお願いします。ただ、以前合同誌に載せたバージョンと大きな変更はないので、『Sketch』を買った方にはお勧めはできないです……(すみません、ほんとに分かんないくらいしか変ってないんです……)というのも、もともとの作品にそれだけ自信があるということなんですけどね。
さて、長くなりましたがまったく本の内容に触れませんでしたね。そういうこともあります。テキレボ6、楽しみにしております。お会いできる方が少しでも多いことを祈っております。
お付き合いいただきありがとうございました。また近いうちに何か書きます。それでは。
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