お久しぶりです、挨拶も早々さっさと本題に移りたいと思います。今回は以前紹介した『イリエの情景』の二巻について話します。女子大生二人の被災地めぐりの青春小説と銘打ったこのシリーズは、多くの同人イベントで頒布されていることと思いますので、是非気になった方はお買い求めいただけると……。

 

 

 「震災後文学」という言葉がある。巨大地震による個人、社会に対する衝撃や影響を落とし込む作品群につけられる名称である。3・11以降の文学でいえば、高橋源一郎の『恋する原発』、川上弘美の『神様2011』、そして村上春樹の『騎士団長殺し』などが代表としてあげられるだろう。この『イリエ』は間違いなくそれらの作品につらなる震災後文学だ。千年語り継ぐ物語とまで作者である今田ずんばあらずは語っているが、その言葉を放つにふさわしく、他作品と比べても比肩どころか追い越さんばかりの取材量とデータに裏づけされた写実性を持った作品だ。主人公とすべき二人の女子大生は、2016年夏に実際に広がる東北の風景を歩いていく。

街によって様相の違う景色は、「被災地」と一くくりにできないイメージを想起させる。それは、震災当時に良く聞いていた東北の地名をもう一度思い出すことによって、「被災地」という名詞から、それぞれの固有の地名を取り戻す作業のように思われる。それはもちろん、気仙沼や陸前高田に住んでいない人間からの、つまりは部外者からの視点だ。当事者である被災地の住民にとっては、震災も被災地もまったくもってフィクションではない。現実に起きてしまった事象に対し、フィクションやイメージが対抗できることはなんであろうか。『イリエの情景』の二巻は、そんな疑問を起こす内容になっている。

 フィクションとは虚構であり、作られたものだ。だからといって、現実ではありえないものだろうか。ここで考えたいのは「観光」という言葉についてだ。観光とは、自らの住んでいない土地に赴くこと全般を指す言葉だが、対象となる観光地は常に観光客からの視線を鑑みて町を興していく。観光客向けに町を変化させるということは、観光客が観光する際に見るものは虚構性をどうしても孕むという結論になるだろう。我々が現実を見ようとしても、どうしようもなく虚構を得るしかない状況は多々ある。実際、仮設住宅の群を眺めに行くことを、一般的な意味での「観光」と呼ぶわけにはいかないのだ。

 しかし、『イリエの情景』はその仮設住宅の群や土台しか残っていない住宅、更地や被災物を観光する作品だ。圧倒的なまでに真実を描写し、現地人の観光客に対する拒絶すら、絶望的に描ききる。それでも、この物語はフィクションである。現実や真実とフィクションが絡まりあった本作にとって、もはやなにが真実でなにがフィクションであるかという議題はほとんど意味を成さない。ただ一つ確かなのは、主人公たちの視線は徐々にではあるが変化し、凄惨な「被災地」のイメージを一つずつ明らかにしていく。その結果として読者がなにを感じるか、答えは最終巻を読んでからにするとしたい。

 震災は悲劇だ。このことは疑いようもなく、人間の自然に思い起こす発想でありながら確かな真実だ。二万人近くが波に呑まれ抵抗もできずに死んでいったことはフィクションにはならない。その悲劇にずけずけとフィクションの土足で踏み入ることを、個人としては尊敬したい。この『イリエ』によって被災地の悲劇が徒にかき回されることを私は望む。

 千年語り継ぐ、今田ずんばあらずは言っていた。人が他人に言伝をする。伝言ゲームとは常に、真実から虚構を生み出すゲームに過ぎないのだ。