人間そっくり

友達いないモテない卑屈のコミュ生喪女が自らの弱点に向き合う日記

カイシャ人になって、10ヶ月が経った。
カイシャでのコミュ障は、「私コミュ障なんで」というアピールでぼっちが許されていた学生時代と違って、無職に繋がるおそれがある!
とカラオケでEXILEの練習をするべきかというところでオチていたのだが、
10ヶ月経った今、
EXILEは一曲も歌えないし、カイシャの人とカラオケに行くと戸川純の「好き好き大好き」を熱唱し、ほぼ全員にコミュ障であることと腐女子であることと友達がいないこととモテないことを認定されている立派な社員となった。
この前など、今日は用事があるので早く帰らないとと言ったら真顔で、「弟が泊まりに来るの?」と返された。友人や彼氏である可能性は想定してもいない、というわけである。

という感じで無事、高校デビューにも大学デビューにもカイシャ人デビューにも失敗し続ける人生であるが、11月に誕生日を迎え、とうとう父親が結婚した年と同じになってしまった。
あと2年たらずで、母親が私を産んだ年と同じになってまう。
未だ彼氏さえいた事がないのに。


全然というわけでもないが話はずれるけど、この10ヶ月で唯一、よかった仕事といえば、自分が生まれ変わりを勝手に自称する、故・山田花子氏のコミックを電子化する一端を担えたことなのだけれど、
Amazonなんかの商品紹介 も自分が書いている。 (スケマ(スケスケマーケティング)。というかただの自慢)。調子に乗ってこんなページもつくった




その中で、元祖こじらせ系、と称したりしたのだけれど、結構、「こじらせ」界隈のコラムニストらがネタにしているようなことを、彼女は20年以上前に見抜いていたりしていて、
こじらせ界隈の流行、でいえば、今で言うところの、「クソバイス」をする男・女というのも、山田花子のマンガや文章にはやたらと出てきて、「クソバイスに屈服してしまう話」「やたらとクソバイス人間の標的になってしまう話」がよくテーマになっていたりする


この、クソバイス、について、
いや、クソでなくとも、アドバイス、というのは通常、というか絶対、
「立場や地位や人間的価値が高い」人が、それらが「低い」もしくは低いと見なしている人になされるもんである。
このルールを破ると、人はムッとするはずだ。
例えば私が、佐々木希に、「佐々木希ちゃんは○○みたいな髪型にした方が可愛いよー」とか言ったり、「○○するとモテるよ」と言ったら多分殴られるし、
就活生に「面接の時は○○するといいよ」とか言ったら失笑もんだろう。ブラック会社の社員に就活のアドバイスをする権利はない。


「やたらとクソバイス人間の標的になってしまう」って何が嫌かって、つまりそれだけ、「私を自分より格下」と認定している人が多いって話だからだ。
この前なんか、送別会の二次会(カラオケ)のはずが、「加藤の転職や人生のアドバイスをする会」になったりして恐ろしかった。皆が私を見つめ、○○した方が云々とか色々言ってくる顔が未だトラウマである。あれは私の為に言っているんじゃあない。格下の人間に偉そうにできるのが嬉しいだけだ、と思うが、別に二次会でやらんでもいいのに。しかも立場的には同等のはずの同期まで。


何の話につながるかってーと、
なんかな、ランチや飲み会にいくと高確率で、「加藤の彼氏はどうしたらできるかアドバイスをする会」が挟まれるんだよな。
(これを自分が言うと噴飯ものだが、わたしは別に彼氏が欲しいわけではなくて好きな人と付き合いたいだけなんだけど)
つまり、恋愛市場において、会社のほぼ全員から、「格下」認定されている、ということだ。いやまあ、その認識は絶対的に正しいのだが。

これが、役に立つアドバイスならばいいが、大抵は役に立たないので不完全燃焼である。
しかし、他人の言う、「彼氏のつくり方」のアドバイスって、何であんなに役に立たないのだろうか。
大抵は三通りにわかれる。

一つ目は
「合コンとかクラブとか相席居酒屋に行け」(出会いを増やせ)

というのはその通りかもしれないが、しかし本当に知りたいのはその先なのである。
普通の人は例えば誰かと仲良くなったあと、いい感じになったあと、どのように、二人きりで会う機会をつくり、一次会から二次会、そしてホテルへとなだれ込み?
いや、その前に付き合うのか?どうやって?どのタイミングで?

抽象的なアドバイスはいいのだ、お前が、彼女を如何に口説いたか、どのタイミングでどのような会話をしどこでしけこんだか(しけこんだって)、一字一句レポートにして提出してくれた方がよほどタメになる。っていうかレポートにしろ!


二つ目は、
「もっと自信を持ちなよ」のパターン
自信、というのは勇気、という意味でもあろう
これについては後述する


で、最後は、
「加藤さんみたいな人がタイプの人もいるから、いつか加藤さんのことを気に入ってくれるいい人が現れるよ」
なるほど、現れるかもしれない。ただ、この言葉には一つ闇が隠されているように私は思う。
いつかってことは要するに、「俺は嫌だけど」って事だろこれ。
この言葉を発する男のことは一番信用しない。

ということで、この前は、このトリプルコンボを食らった。


「加藤さん、そんな自分がブスとか卑屈になるのが駄目なんだって、もっと酷い人とか全然いるし、自信持った方が変わるよ、社内とかでは無理かもしれないけど、他の場所とか目を向ければ全然大丈夫」


「いやあ、でも、自信持ったブスとか一番叩かれるじゃないですか。人は調子乗ったブスが一番嫌いじゃないですか?」

と返したのだが、可愛い子ぶって、そして酔っていたのもあってこれだけしか返せなかったので、
この、「人は調子乗ったブスが一番嫌いじゃないですか」について、長々と解説したいと思う



ナンシー関はかつて、大林素子を引き合いに出しこんなことを書いていた


“しかし素子ちゃんは、カワイ子ちゃんだなあ。言動、しぐさ、センス、どれをとってもカワイ子ちゃんである。普通、規格外のルックスは人格形成に影響を与えるんじゃないかと思うんだが。
私の実感として。あ、背でかいのとデブは違うか。” (ナンシー関『何がどうして』より)


むろん、ここでの、「カワイ子ちゃんだなあ」という嘆息は褒めているわけではない。
要するに、非美人のくせに非美人“らしい”振る舞いを身に付けるような自意識がどうやら形成されなかったことを揶揄しているのであり、
かのように非美人の癖に非美人らしい、いや、「非美人に許された」立ち振る舞いをしようとしない、あるいは、「美人(カワイ子ちゃん)にしか許されない」振る舞いを躊躇なくできるブスに、世間は大変厳しい

世間は厳しいから、事あるごとに「それはあなた(ブス)には許されない言動だ」と牽制・修正するので、通常のブスは成長過程いずれかのタイミングで、「なるほど、私はブスなのか」ということと、「ああ、これは私(ブス)には許されないことなのだな」
と悟り、だんだんと、「ブスらしい行動規範」に則った生活様式と思考を身に付けていくのであり、それがそのうちその人の「人格」として浸透していく。


いまでこそ、根暗で卑屈なコミュ障として通っているのでこれを言うとおそらく驚かれる(そして自分でも驚いた)のだけれど、
私が3歳の時の、保育手帳(? 保育園に出席するとシールを貼ってもらったり一ヶ月に一度近況について保護者と保育士がやり取りするやつ)には、

「みさきちゃんはいつも明るく、沢山の友達に囲まれています」

みたいな事が書かれていた。その当時の、「沢山の友達」の多くはヤンキーになっている気がする


三つ子の魂三つまで、である。


というのは些か言い過ぎで、少なくとも小学生くらいまでの私は全然、内向的で大人しい感じの人間ではなかったのだが、
今思うに、別にこれ、昔は人望やコミュ力があったというわけではないのだ
当時は、人望やコミュ力もないくせに、明るく(というよりうるさく)、出しゃばりで目立ちたがりで仕切りたがりの面を出すことに、躊躇が無かっただけだ。

それが、何故出せなくなったか?
自分が、ブスなことに気が付いたからである、いや、周りが気付かせてくれたからである。


調子に乗ったブスに世間は厳しい


小学校5年生の時、クラスの女子グループは三分割されていた
可愛い子やリーダー格の女子がいるグループ、アニメ好きとか、ブス寄りのちょっと前の言葉でいう「陰キャラ」グループ、それよりも更に大人しい子や優等生の子たちでできたグループ
で、私は当時、クラスで級長をやるような人間で(本当だ。勉強が出来たからね。。)、一番最初のグループに属していたのだが、
ある日唐突に(というかどういう流れだったか覚えていない)、リーダー格の女子(因みに現在は高校を中退して男と家出したみたいなヤンキー)、に、

「みーこは、私がおまけで入れてあげてるんだからね」


と言われたことがあった。


いや、唐突にと言ったが、それ以前から、薄々感づいてはいたのだ。
当時、東京ミュウミュウという漫画があって、その漫画のことを私はやたらと気にかけていた気がする。
東京ミュウミュウは5人グループである(確か)
嵐も、SMAPも5人。
グループは、5人であるのが、収まりがいいのではないか、やはり?

そうだ、(当時の自分が属していた)このグループも、5人だ。ぴったり、やっぱり自分は「いらない人間」ではないのだ!


と、いう変な理屈で、
(なんか、このグループに私っていらないと思われているのでは、一人だけ浮いているのでは…)という不安を払拭しようとしたりしていた。
しようとしていたところに、この、「あんたはおまけ」という台詞。


これをわざわざ口に出して言ったというのは、つまり、あなたは本来このグループにふさわしくないけれど、情けで入れてあげているのだ、
ということを、
「分かれ。気付け」
ということだ。
「ふさわしくない人間」である、ということを自覚しろ!ということだ。


何故、いらない人間か?
ダサくて冴えない陰キャラ風のブスには、「ふさわしい」グループが別にあるんだからそっちと仲良くすれば、ということではないか?


ブスには、可愛い子やお洒落な子と、「同等に」つるむ権利は許されていない。

少しでも、「同等」感を出すと、かように、「お前は同等ではない」と叩かれるので、卑屈に、常に、「同等ではないです、私が下です」感を出し美人と仲良くしてもらうか、自分と同じようなブスとつるむしかなくなる
かくして、新学期、自分と似た様な容姿偏差値で構成されたグループが出来上がるってわけ
(容姿、というのはこれは必ずしも元々の顔立ちだけではなく、雰囲気やスタイル、おしゃれの垢抜け度などでの総合評価だからで、だから大人になった時に、元々の顔立ちはよかった当時は芋臭かった子がオシャレを覚えて逆転する可能性はあるにはある)

美人であれ、ブスであれ、大抵の人は、これを測り間違えない。(って朝井リョウが『桐島、部活やめるってよ』に書いていた気がするが)
この話多分100回くらいしているけど、
大学に入学した日、つまり入学式、一人で会場に向かおうとする最中、同じ学科の人たちで構成されたグループと偶然遭遇し、
「あれ、美咲ちゃんだっけ」と声を掛けられたことがあった。

高3の時は誇張ではなくクラスに友達が一人もいない一年間を過ごしたので、大学でも同じ事態にならないか戦々恐々としていた私は、気さくに声をかけてもらったことが嬉しく、もしかしたらこのまま入れてもらえるかなという淡い期待を抱いたのだが全然そんなことは無かった。


「あれ、美咲ちゃんだっけ? ちょっとさあ、うちらの写真撮ってもらっていい?」


とカメラを手渡され、リア充グループの写真を撮らされ、そのまま彼女たちは立ち去っていきました。


学校生活は、最初が肝心である。
ここでうかつに、ダサいブスと一緒に写真を撮ったりし、陰キャラ風ブスに「仲間に入れてもらえるかも」と勘違いをさせ、その後もつきまとわれてはたまらん、
うっかり、「友達認定」されてはたまらん、
うっかり友達認定され、周りに、「あの子美咲ちゃんと仲いいんだ=ってことはあいつも陰キャラか」と思われて自分の価値まで下がってはとんでもない、という心理が働いたに違いない。
(そう、学生生活の最初の価値と評価は、つるむ人間のレベルでも決まる、旦那によって自己の価値が決まる女の結婚と同様である。)



この、「容姿偏差値に応じたつるむ友人グループ」問題については、
高校に入った頃も、似た様な事を言われたことがある。

当時の美術教師は緩い人で、美術の時間はただのお喋りタイムと化していて私は高校1年の1年間で一つも作品を完成させたことがない。
それはともかく、そのお喋りタイムと化していた美術の時間、これまた当時比較的仲良くしていた、クラスでリーダー格だった女に、
「昨日、みいちゃんをカラオケの近くでみた」と言われた

「ああ、そう、中学校の友達と遊んでたの」

「へえ、あれが中学校の時の友達なんだ!なんか、もっと○○さんみたいな(○○さん=クラスの陰キャラ寄りグループにいた人)子たちだと思ってたけど、
■ちゃん(ギャル系の綺麗な子)タイプの人らなんだね!」


当時の友人達が、実際に、■ちゃんタイプだったかはさておき(別にギャルではない。オタクでもないが)、この言いようが含意するものは、先程の
「あなたはおまけ」発言と同じである。

「あんたは本来は、私(ら)と仲良くするような人間じゃなくて、○○さん(陰キャラ・オタク)とつるむような人間でしょ!そのこと分かってる?」
という意味だ。

これは、最後の、「そのこと分かってる?」が重要なのであって、これがつまり、世間はそのことが「分かってない」人間が大嫌いで、だからなんとか分からせてあげようとする。
以上は、私に、なんとか分からせてあげようとした台詞なのである。


ブスに許されない事は、むろんまだ色々ある。
ほかにも、中学校の時ジャニヲタだったのだけれど、そういう話をすると、テニス部の女に、
「美咲ちゃんが、山Pとか好きって、なんか…(笑) ○○ちゃん(可愛い子)みたいな子が言うならわかるけど、×ちゃん(※ブス)とか美咲ちゃんとかが言うと(笑)」
とか、「てめえはイケメンにきゃあきゃあ言う資格ねえよ」と遠回しにdisられたし(でもジャニーズはむしろブスのためのものじゃない?)、

就職して、東京に移り住んだのだが、田舎と違って東京は街を歩いているとどうにもやたらと声を掛けられるもんである。
宗教(同じ団体に4回くらい声かけられた)、募金をつのるグループ、就職セミナーの勧誘(無職っぽいのかね?)、サロンの勧誘、ただのナンパのほか、一番多いのが美容師の勧誘である。

会長の誕生日だかで、慣れない表参道付近でケーキと花束を時間までに買ってこいと言われたのだがどこにあるかが全然分からない
ようやく見つけてギリギリの時間、急いで帰ろうとすると、美容師に、「お姉さん見て、あなたの髪を切りたいなって思ったんですよー」というよく分からない文句で捕まってしまって困った、

という話をすると、職場の人に、


「まあ、そういうのってあんま髪型とかにこだわりがなさそうな、色々うるさくなさそうな人に声掛けるんじゃないの」


と返されたが、「てめえがオシャレで可愛いからじゃなくて、逆だよ逆。ダサいから」という一種のマウンティングっていうか、どうやらブスは美容師に声を掛けられた話をするのも駄目らしい。
ただこれ、別に私がオシャレで可愛いという話ではない、だってカットモデルとかそういうんじゃなくて本当にただの勧誘だもん。金払って切るやつ。そりゃ、推しに弱そうなカモっぽい人に声を掛けるに決まっている。
そんな事は別に自分で十分、分かっている。分かっているのに、わざわざこういう事を言われる。

世間が、如何にブスの勘違いあるいは勘違い未遂に厳しいか?
お前は可愛くないぞ!?ブスだぞ?ということを全力で、「分からせようと」してくるか?

(しかし、私はどうにも、気の強いリーダータイプの女に嫌われるな……本当は他の人にも嫌われているけど気の強い女以外ははっきりと言わないというだけかもしれないが)



分からせてあげようとする台詞は、大抵心ない。
心ないので、傷付く。
無闇に傷付きたくないので、ブスはだんだんと、「自分がブスである」という自覚と、「ブスに許された身分相応」を覚えていく。

ブスの人格、というのは、このように形成されていくのであり、だから私は、成長するにつれ、元々持ち合わせていた、
明るく(というよりうるさく)、出しゃばりで目立ちたがりで仕切りたがりの面を出すことを、躊躇するようになっていったのである。

自分より容姿偏差値が上の人と気さくに話すのは恐ろしい。
いつ、「お前は私と同等じゃねえよ!」と、「分からせて」くれようとする台詞や態度が飛び出してくるか分からないからである。
口には出さなくても、本当は、「この人と仲いいと(同レベルだと)思われるの嫌だなあ」「仲いい認定されたら嫌だなあ」とか思われているに違いない、と思うからである。
話しかけてくれても、「この人、今は話しかけてくれるけど、そのうち、私の組織内カーストが低いって知ったら、同じだと思われたくなくて離れていくのではないだろうか?私なんかと喋ってていいのか?」と不安になるからである。
そのうち離れられるなら、最初から仲良くない方がいい。
(最初は仲良かった、という事実がある方が後から気まずいわけで)


で、大抵の人間は、私より容姿偏差値が高いので、論理的に考えると、私は大抵の人と上手く話すことが出来ずコミュ障を発動することとなる
上手く人と話せないコミュ障、美容院が服屋が嫌いな理由、おしゃれな店に一人ではいれない理由、店員にオーダーするのが嫌いな理由
総ての根本は、「自分はこの場にいることが「ふさわしくない」」―ここでの存在が許されていない人間なのではないか?という発想にある


かくして、成長するにつれ、むしろ、逆の、根暗で卑屈な人格が出来上がった。
根暗で卑屈な人格は、というより、それを必要以上に口に出してアピールしようとする姿勢は、
「私はわかってますよ!十分わかっているので、あなたが「分からせようと」しなくてもいいですよ!」
という、一種の自己防衛なのである。
(ブスを自称するのも同じ理由だ)


以上が、おそらく、「規格外のルックスは人格形成に影響を与える」ということだ。
だから、大林素子がどうだかは知らんが、たまあにいる、「無邪気なブス」を見ると、衝撃を受けるのである。
むろん、無邪気、というのは褒めていない。ナンシー関が言うところの、「カワイ子ちゃんだなあ」と同じである。
お前、その顔で何でそんなことできるんだ!? 人格形成の過程で、自意識をへし折られる経験をしてこなかったのか!? こいつと私の何が違うんだ!?

そして、世間の多くの人と同様、だからブスも、というか、ブスの方が、「調子に乗ったブス」、つまり端的な言い方をすれば、「自分の存在が許されていると思っているブス」が一番嫌いなんである。
自分はこんなに我慢してブスに許された限定的な振る舞いだけをこなしているのに、自分はふさわしくない存在、という不安に苦しみながら生きているのに、何でお前は?!という気持ちがあるからだろう。



だから、ブスが美人に嫉妬するとか憎むみたいなのって、よく物語で描かれたりなんかするが、本当はそんなに無いんじゃないかなあと思うのだ。
ブスが一番憎んでいるのは、非美人のコードを身につけていないブスのような気がする。


以上が、
「だって、世の中の人って調子乗ったブスが一番嫌いじゃないですか?」
という一言に込められた反論であり、こういうのはもう、20数年間かけて染み込んでしまった考え方だから、今更、「自分はそこまで別にブスじゃない」と(そこまで根拠がなくても)自信を持って一朝一夕でコミュ力とモテ力を発揮するのは無理な相談なのだ。
じゃあ絶対に、私を「お前はブスだよ」と「分からせよう」とするなよ? 私を、「お前はブスだ(から許さない)」と徹底的に叩き込みコミュ障にしたのは、誰なのだ?お前らではないか?
というようなことが言いたかったのだが、まあ、飲み会の場でこんな話をくどくどする女は間違いなくモテないだろうから、一言に留めておいたのであった。



ところで、こういう、容姿と容姿に応じたコードと自意識と人格問題については、鈴木由美子がよく漫画のテーマにしていると思う。
『カンナさん大成功です!』は、20年以上をドブスとして生きてきた主人公が、整形して超美人になった、というところから始まるが、
「美人になっても、ブスの時の思考や振る舞いが抜けない」という話だし、
『アンナさんのおまめ』は逆で、ブスのくせに超ポジティブに自分を美人と勘違いしていてあたかも美人のように振舞う女性を扱っている。
アンナさん、は主人公の名ではなく、美人の友人の名であり、『(美人の)アンナさんのおまけ』というわけである

『アンナさんのおまめ』は、昔、ドラマ化されたときに、主人公のブス女役を、ベッキーが演じていた。
 


ベッキーって、別に全然ブスじゃないし何ならいっそ『アンナさん』より可愛いんじゃと思うけど、あんなことがあった今思うとキャスティングの妙だなあ。
多分キャスティングした人は、ベッキーの、「何があっても最高にポジティブ人間」という属性に目をつけたに違いない。

ポジティブ人間は、上記のようなネガティブブスとは逆で、自己存在への絶対的な肯定感と自信を原理として動いている。
だから明るく堂々と振る舞えるしそれが良くはたらく時は、周囲への好感度や、他人への優しさ(他人への優しさというのは、「この人は私の行為によって救われる」という自信がないと繰り出せないものだと思うんだよな)に繋がるのだが、こういうポジティブさって、
というか、ポジティブ人間の原理=自己存在への絶対的な肯定感と自信 って、正義の反対は別の正義、ではないが、たとえ周囲にボロクソ叩かれようと社会的倫理に反していようと、「私は私の信じた愛を貫く」―それが許されるはず、という態度と、本当は表裏一体のものである。いや、そうなんだよ。
 
不倫したのは川谷の方なのに何でベッキーばかりが、という事への説明として、「元々の好感度が高かった(のにそれが裏切られるようなものが流出した)から」というものがあるが、
ベッキーは全然、根本のところのパブリックイメージ裏切ってないだろう。私のようなネガティブ人間の根底が、「自分はふさわしくないのでは、ここにいていい人間なのだろうか」という不安ならば、ポジティブ人間の原理は、「自分はいつだって許されている」、である。
私は、さすが、超ポジティブ人間貫いてるなあ、と思ったぞ。

GWが終わって、あと二ヵ月半は祝日が無い。
私の帰宅時間は日々遅くなって23時とか下手すると日付が変わるから実質、趣味や好きなことができる時間というのは休日か祝日に限られているわけで、では、その5日間もの貴重な休日を何に使っていたのか、というと、7割寝ていて(比喩ではない)1割何かを食べていて1割インターネットをしていて、あとの1割は本と漫画を読んでいた。

過去の記事に投稿したように、私のソツロンはいわば田舎コンプレックスの東京賛美であって、何となく、東京にいれば何もかも手に入れられてアクティブで刺激的で貴重な体験を得やすくなるような気がしていた
でも結局のところ、田舎にいようが愛知にいようが奈良にいようが、7割寝ていて1割何かを食べていて1割インターネットをしていて、あとの1割は本と漫画を読んでいるようなエネルギー値が低い怠け者の人間は、東京に来ようがどこにいようがどんな身分だろうがお金があろうがなかろうが、7割寝て以下略だけなのである。
お金が無いとか、時間が無いとか、田舎だとか、今はそういうことをしている場合ではない、とか、そんなのはただの言い訳であって、たとえば同じく愛知の田舎に住む私の妹や弟などは、インターネットで趣味の合う仲間を見つけて遊びに行ったり、高校生だけど自分でアルバイトをして東京のイベントに遠征に行ったりしている。


休日の過ごし方が、中学生のときとまったく変わらない。


さらに悪いことに、徒歩500メートルもしないところに、読みたい本がほとんど手に入るような大きな書店も、はなまるうどんもココ壱もモスバーガーもコメダもサイゼもスタバもドトールも日高屋もココスもガストもスープストックもあるので、引きこもりに拍車がかかってしまう。
これでは、環境が変わったのではなく、今までの環境の上位互換でしかないではないか。
更に更に悪いことに、出版社などに就職してしまったために、これらの行為に大きな大義名分が出来てしまった。
インターネットは、市場調査のためであり、本屋へ行くのは売れ筋のチェックであり、本と漫画を読むのも、将来の仕事に役立てるためである。(7割寝ていることには残念ながらまだ大義名分が無い)


会社人になった頃、東京には、こんなに素敵な場所も、レストランも、山ほどあるのに、私はこの総てを一人きりで体験しなければならないのか、ということがとても孤独で、
たとえば、おいしそうな店があるから今度飲みに行こうとか面白そうな映画があるとか、あの漫画がよくて、とか、何となくそういう友達(彼氏)がいないのを哀しく思った。

思ったので、まず私が考えたことは、「街コンへ行こう」
だった。
だが、街コンなどというリア充イベントで、私みたいな内向的で偏屈な人間と、趣味や話や気が合う人にであい、かつ仲良くなるという確率というのは、ほぼ無に等しいように思える。
決して、無差別に、友達がほしいのではなく、誰か、生活と話を共有できるような、そういう人を見つけたいのである。話が合わない人とさして楽しくも無い時間を過ごすのなら、家でインターネットやっていたほうがマシである。

となれば、いわゆる「趣味コン」と呼ばれるようなもの、あるいは、読書サークルのような、趣味サークル。

というわけで、グーグルの検索窓に、「読書サークル 東京」と打ち込んで、めぼしいページをEVER NOTEに保存したところで、私は、はて、と思った。

私は、読書サークルで読書仲間を見つけられるほど、本が好きだったか?
というより、「趣味仲間」を見つけ意気投合できるほどの、趣味や好きなものなんて、あったか?


むろん、出版社に入るくらいなのだから、まあ、年に1冊くらいしか本を読まないような50%の一般的日本人よりは、本や漫画が好きだし多少は詳しいだろう。
今まで読んだ本や漫画の数は、1000とか、それ以上でしょう。
しかし、「読書仲間」を見つけられるほど詳しくて、本が好きかと言ったら、かなり微妙なのである。読書サークルで意気投合できるかというと、これも微妙だ。

というのは、大学生のとき、文芸部時代、真に本の話で意気投合できる人はついぞ一人もいなかった。

私は有川浩も読んでいないし村上春樹も一冊か二冊しか読んでいないし桜庭一樹も辻村深月も(いや最近一冊読んだが)伊坂幸太郎もあと何だろう、とにかく、同世代の読書少女や、文芸部や読書サークルに入る類いの人間がたとえば中高生のときに辿ってきたであろう作家はほとんど読んでいない。

理由は単純である。

私が中2病だからである。

ならば、中2病をこじらせたらこじらせたで、いわゆる通好みのマニアックな海外文学とか、ニッチな文豪ものとかに、めちゃくちゃ詳しいかというと、そういうニッチで通な本好きの人が、
「この人、わかってる」と唸り、友達になろうと思い、意気投合でき、会話と知識のキャッチボールができるほど、めちゃくちゃ詳しいかというと、

まったくそんなことは無い。

筒井康隆や中島らもは好きだけれど、じゃあ全部の著作を読むほど大ファンか、というと、そうでもない。


私は、すべてがすべて、この調子なのだ。
ワンピースもハガレンもナルトも読んだこと無いけど、九井諒子とか宮崎夏次系とか読む。でも漫画にめちゃくちゃ詳しい人が通ってきたものの1割もまだ読んでない。
アニメだって、アニメが好きな人が絶対観ているものはぜんぜんみてない。四畳半神話大系とかなら好き。
そして、アニソンやキャラソンや声優に詳しくなるほどの熱量はない。
普通の人はまず、「定番」から入って、それから徐々にマニアックへ広げていくけれど私は最初から定番をすっ飛ばしているので分からない。
「ちょっと好き」くらいの人が好きなものは、「けっ、あんなもの」と言って取り入れないので、「ちょっと好きな人」が好きなものの話には全然ついていけないし意気投合もしないけれど、かといって、めちゃくちゃ詳しい人が好きなものの話に全部ついていけて話が合うほど、情熱的に好きなものもなければ、追求しているものもなければ、詳しいものも無い。
海外ドラマだって、俳優が載っている雑誌全部コンプしたり海外のサイトのぞくほどハマるわけじゃないし、羽生くんだって好きだけれど、やはり全部の雑誌コンプして公演に行ってファンレター投げ込むほどでもない。

「加藤さんって、オタクなんでしょう」
とたまに嬉しそうに話しかけられるのが私は嫌で、これはオタクと呼ばれるのが嫌なわけではなく、私は世間のイメージする「オタク」じゃあないので相手の期待にそえないのが嫌なんである。Freeもみてないしハイキューもみてないしボカロも知らないし声優もわかんないよ。

根本的なところで、根がオタク体質ではないのだ。すべてを追求する前に飽きる。熱量もない。
広く浅く、でも広く浅いところで、とっても偏っている。
とっても偏った部分だけが一致している人を見つけるというのは、難しい。


だから、趣味を通じた仲間や友人というのは、ついぞ出来ない。
だから、読書サークルなんかに入ったり、趣味コンに行っても、友達はできないだろうなあと思った。
だから、少しでも、「好きかも」「ハマったかも」と思えば、すぐにグッズをコンプするエネルギーがあって、好きだと宣言できて、趣味用のツイッターアカウントを作れて、イベントに参加できて、趣味を通じた仲間を見つけられる妹や弟を羨ましくおもう。

なんでこんな風なのかっていうと、これも理由は単純で、

つまるところ、私が見栄っ張りの格好付けだからだ。


これは本好きの人と少し話せば分かるけれど、
先ほど、「同年代の読書少女が中高生のとき通ってきたであろう本は知らない」と書いたけれど、
「同年代の読書好きが小学生のとき通ってきたであろう児童文学」は、もっと全然知らない。

ということに最近気がついた。なぜかと言うと、私は小学生の時から本が好きだったわけではないから。
というより、完全に、オタクを馬鹿にする側の人間だった。
テニプリの筆箱を持っている、クラスメイトを嘲笑し、ジャンプを読んでいるという同級生を、「女のくせに、ジャンプなんか読むの」とからかった。
学級委員とかやる出しゃばりで、プロフィール帳(あったね!)の性格欄には、「明るい」と屈託無く書けるような人間だった(嘘ではない)
放課後には、男女で集まってテニスとかしていた(嘘ではない)


たぶんその頃仲良かった友達はほとんど高卒とか専門中退とか、高校すら中退とかのDQNになっていたりして、
私は順調に?コミュ障っぷりと内向的度と偏屈度を加速度的に増している。たぶん今じゃ全然話なんか合わないだろう。
これも理由は単純である。

私がブスだからである。より正確には、私がブスだという事実に、私が気が付いたからである。
ブスには許されない振る舞いがこの世には無数に存在していることに気が付いたからである。
ブスゆえに排除される、シャットダウンされる残酷と恐怖にがんじがらめになって何もできなくなったからである。


閑話休題。
この話はたぶん100回しているけれど、中学3年生のとき、受験勉強で、「国語」の勉強の仕方だけが、よく分からなかった。
所詮日本語なのだし、問題は文章の内容によって違うのだから対策の仕様がないように思えた。
となればやれることは、そもそもの、国語的読解力をあげる、というところで、そのためには、本を読むのがよいことのように思えた。何を読めばいいのか分からなかったから、国語の便覧にあった「中学生におすすめの読書カタログ」に載っていた本をとりあえず順番に読むことにして全部読んだ。
そのうちに、「ブンガクに詳しいってかっこいいかも」という考えになってきたけれど、本が面白かったわけじゃあないし何が面白いのかもよくわかっていなかった証拠に、あの頃読んだはずの本の内容を全然覚えていない。

だから基準の一つは、
「かっこいいかかっこよくないか」、だ。
辻村深月はかっこよくない。
尾崎翠ならかっこいい。

かっこいいものならば、内容が実はよく分かっていなくてもかまわない。
かっこ悪いものならば、「好きかも」とおもっても、好きだとは認めない、ハマらないようにする。
だからそこには情熱が無い。

かっこいいかかっこ悪いかの基準は、自分の中にしかないから、ほかの人には永久にわかんないでしょう。
かっこいいかかっこ悪いかの偏りが、一致する人なんてたぶんこの世には、一人もいないでしょう。
私がかっこ悪いものを好きな人はだめだし、私がかっこいいものを好きな人は、全然詳しくない私を駄目だ。
私がかっこいいものを好きな人が「好きそうなもののほんの一部」(これを見抜き調べる力だけはあると思っている)を私は好きだから、いや、好きだということにしているから、相手は、もしかしてめちゃくちゃ詳しいんじゃ?と期待するけれど、期待するから、実はそうでもないことに気が付くと、がっかりさせてしまう。
なんだこいつ、あんまたいしたことないなと思われるのが怖い。


かっこいいかかっこ悪いかのほかに、もう一つ基準はあった。
そんなに好きでもないし分かってもいないのに、私は何故、本を読んでいたか。お小遣いのほとんどを使ったか。
将来自慢できると思ったからだ。自分はこんな本を読んだことがある、と。あの本もこの本も読んだ、と。本棚はその輝かしい証拠だ。
だから基準のもうひとつは、「将来のためになるか」、なのだった。

でもこれは、私が、まだ何者でもないからだと思っていた。
将来、何者かになるために、何者かになるための準備として、「自分はあんな本も読んだ」と言えるために、言えるための本を読む。
だから、「何者」かが確定したとき、この、将来のための作業からは解放されるのだと思っていた。


そんな浅はかな学生時代は、まさか、就職しても、「将来」があることを、考えもしていなかった。
就職して、何者かが確定しても、何故だか私はまだ、将来のために本と漫画を読んでいる。


何故私は、今好きなものを今好きだからという理由で今好きだと言えないのか。
「将来」というのは、来るのか分からない何年後かの未来のことでもあるし、五分後のことでもあるし、これを読んだと宣言できる一日後のことでもある。
これを好きだ、というとき、私は、好きだと言った時の誰かの反応をまず考えている。これはもう読んだことがあるといえる未来のことを考えている。
モノだけではない。行為だって同じだ。何かをするとき何かを言うとき、その様子を録画ビデオ再生しているテレビの向こう側にいる想定上の誰かか、あるいは誰か、という鏡を通じた結局のところ自分がまずある。つまり見栄っ張りで格好付けだ。

小学生のとき、外食に出かけるのが嫌だと散々ダダをこねたことがあった。
マイペースで自分の世界に閉じこもる人間だ、と家族は思ったみたいだけれどそれは全然違う。
「こんな時間に、こんな小さな子ども連れて、まあ」
と想定上の誰かに眉をひそめられるのが嫌だったからだ。私の中では、こんな時間にこんな小さな子ども連れて外食する家族は変でだらしない家族で、そんな家族の姿を外に見せるのはとってもよくないと思った。

そのくせに、でも、ホームドラマみたいな、理想的な「良い家族」もできない。
私は実家にいたとき、いってきますもいってらっしゃいも、ありがとうもごめんなさいも家族に言ったことがない。誰も言う習慣がなかった。100点取って褒められたこともない。母の日や、親の誕生日を世間はほんとうに祝うらしいと、高校生くらいのときに知ってとても衝撃を受けた。
習慣がなかったといったって、大人になればさすがに、「正しく理想的なよい家族の規範」くらいは常識として分かる。
でも、「正しく理想的な良い家族」を、「やっている」自分を録画再生しているテレビの向こう側の自分が、何となくそれを止める。自分主演のホームドラマをみているみたいで気恥ずかしい、自分はそれほどの器か?いまさら?と思う。

22歳になる今までいわゆる「好きな人」を、誰かに言った事が一回も無い。(嘘ではない)
これも、いたのかさえ実は怪しい。
なんでかっていうと、「あの人が好き」と言ったときの誰かをまず想定し、その想定はたいてい悪いものだから、だから言わないし、「あの人が好き」と言っている自分を録画再生している想定上の誰かと自分がいてその彼らが「似合わないよ」ととめるし、
だから、「あの人が好き」と言っても大丈夫な人だけを好きになることにするけれど、それでも、「他人に胸を張って宣言できるほどか?」「単にやさしくされたというだけでは?」「それはチョろくないか?」と自問自答した上で、純粋に、いや、一言も喋ってくれなくても自分に優しくなくてもそれでも好きだ、と言える人を厳選することになるけれど、こうなるともう誰も居ない。
だから、そういう意味で、真に情熱の持てる好きな人もいたことがない。これだってその次には、「付き合うほどか?」と、付き合うシミュレーション再生が始まるに違いない。
彼氏と別れた二週間後くらいに、「好きな人できたかもー」と宣言できて、その二週間後には簡単に付き合っているような人がとっても羨ましくて彼女らと自分の違いは何なのだろう?

とたまに考える。彼女らの、お手軽さと情熱と気軽さを、何故自分は持てないのか?と考える。


職場の先輩が、黒かった髪の毛を染めてきた。
私は、「染めたんですか?」とだけ聞いた。

後から出社してきた別の上司が、
「あれ?髪の毛染めたんですか」「いいじゃないですか、似合ってますよ!」

とごくごく自然に言ったのを見て、ああ、しまったなあと反省して、たぶん、こういう差なんだろうなあと思った。
「いいじゃないですか、似合ってますよ」が自然に出てこない差。
前にもこういうことがあって、バイト先の先輩が、「ようやく免許取れた!」と言ったとき、私は、まじっすかもう取れたんですか早いですね、くらいしか言わなくて、でも、別の先輩は、
「うそー!よかったじゃん!!おめでとう!!免許見せて見せて!!」と自分のことみたいに自然に喜んで、話を繋げていた。

多分、自分がやったら、すごくぎこちなくて白々しいんだろうと思う。
ぎこちなくて白々しくなることが分かっているからできない。

私はまだ料理の取り分けができない。新人は積極的に料理を取り分けた方がいいことはわかっているけれど、「あっ、取り分けますよ!」という自分をシミュレーションすると、すごくぎこちなくいい子ぶっている自分の姿が目に浮かぶのでその白々しさの恐怖と、自分はこの集団の中で、「あっ、取り分けますよ!」といい子ぶるのが許されるほどの存在なのか?というのをはかりきれないから

取引先や来客に、
「お世話になってます~!」と、サラリーマン風の挨拶をするのも、まだ出来ない。
サラリーマンの演劇を演じている自分をどこかで見ている。なんとなく白々しい気がする。私は相手にとって、「お世話になってます~!」と言っていいほどの存在なのかも、よく分からない。

卒業式で泣いたことがない
というより、保育園以来、家族以外の人前で泣いたことが無い。
泣くより先に、「泣いたらどう思われるか?」というのがあるというのも正確ではなくて、「ここで泣いている自分の姿のあまりにもな不自然さ」(そこで泣くほどの存在か?)がまずあるから

こういう差っていうのは、
その場のたぶん正しく規範的な振る舞いを決して白々しくなくぎこちなくなく自分のものとしてできる力
いや違う。そういうことをぜんぜん何も考えないでいられる力
ホームドラマでもサラリーマン演劇でも恋愛メロドラマでもなく、今の自分の振る舞いとして、自然にできちゃう力


私が、コミュ障とか友達がいないとか言っているのを、私が誰かと普通に喋ったりしているのを見て、
「キャラでしょ?」とかたまに言う人がいるけれど、コミュ障というのは別に「あっ・・・」から話が続かないとかそういうことだけじゃあなくて、こういう距離感と振る舞いがうまくできないってことでもある
かっこいいかかっこ悪いかがほぼ総ての基準なのに、結果的に、他人の中で再生される私の姿はすごくみっともなくて、かっこ悪いのだろうなあと思う。

というタイトルの漫画が昔あったがその話ではない。


新卒で入社して最初のうちは、本社や東京で合同研修なのか、このところ駅付近でやたらと、
リクルートスーツに身を包んだ如何にも初々しい新卒です、的な集団を見かける。
私は何故だか、そういう奴等を見かけるたびに、《SATSUGAIせよ》というワードが脳内を駆け巡るが、
この感情は一体どういうわけなのだろうか。

むろん、自分が、うっかり順調に無職とかフリーターとかになってしまったのなら、妬み嫉み恨み罪悪感後ろめたさというたったの五ワードで片付ける事が出来るが、
自分も(ギリギリ)新卒の会社員になったんである。他の理由として、「自分が同期に馴染めていない」というものも考えられるが、そもそも厳密に同期らしい同期が最初から存在しないので馴染むも馴染まないもない。(コミュ障にとってはいいことである)

であれば、この《SATSUGAIせよ》的感情は一体どこから湧いてくるのかしら。
と考えた時やはり、

「スーツ」
というアイテムと、
「集団」への引け目ではないかと思う。

つまり言い替えると、彼らの、「圧倒的正しさ」への引け目だ。

彼らについて、推測出来る事は幾つかある。
まず、「東京」という場所について、東京にいるという事は、東京に本社がありそこに勤務しているというのがシンプルな考え方だが、
彼らは、「集団」である。
いくら仲良しこよしでも、あんな集団で毎日一緒に通勤退勤をするというのは考えにくい。
ゆえにこれは、「研修(合宿)」中と捉える方が自然である。

この場合、勤務地はもしかしたら別の場所かもしれないが、最初のうちは一斉に東京で研修をするような時間的金銭的余裕のある、ある程度以上の大企業ということが推測される。
そして、一斉に東京に集められているということは、例外もあるかもしれないが、転勤のある総合職の可能性が高い。

更に、スーツ。きちんとスーツを着こなさねばならないような、しっかりとしたホワイトカラー職。


どうですか、この圧倒的正しさ!!
まさに、大卒が、3年生のうちから、きちんと準備をして、数多の説明会に足しげく通いエントリーシートを書き、出しゃばりのいけすかない奴等のいる中で共にGDを我慢し、そうしてまた沢山の面接を勝ち抜いた先にある、
というか先にしかない、
まさに堂々と「社会人」としての正解を名乗るにふさわしい姿である。
こういう奴等がTwitterやFBにドヤ顔で、「春から社会人」って付け加えるんだ!!クソ!!


と2015年卒の癖に2015年になっても無い内定(この話についてはまたいずれ)かつ、現在でも無職予備軍の私は、通勤や帰宅のたびにハンカチを噛み締めているのだが、
こういう妬み嫉み恨み後ろめたさは本題ではない。
これについては、確かに、上記のような嫉妬も入り混じる一方で、
「あんな会社に入らなくてよかった!!!」というある種の自意識と安堵も抱いているという
アンビバレントさがむしろ本質であった。

すなわち、《SATSUGAIせよ》のもう一方で、
自由業やマスコミにありがちな、
「普段スーツなんか着ないですからね~」
をほぼ唯一のアイデンティティにするくだらない自意識を私もまた持ち、(会社人になるんだからちゃんとした服買わないと!!と、服屋の店員がこの世の中で3番目くらいに嫌いなのにちゃんと新しい服を買ったにも関わらず、普通にみなジーパンを履いているような職場であった)

同僚と仲良しこよしをする必要もなく、ひとりひとりの作業が主だから必要最低限以上の会話をする必要もなく、昼の時間も別に自由で勝手に行けばいいから、ランチがどうとかくだらん事で悩まなくてもよく、
転勤でド田舎に飛ばされる事も絶対に無く(支社がねえから・・・)


・・・・・・・・・とあんまり書くとダメな気がするのでこの辺でやめておくが、
結構、これまで数々書いてきたようなとんでもない社会不適合の私にはむしろよかったのではと思っていたのだった。


と過去形なのは、
確かに、仕事上は別にそれで問題がないわけだが、それでも、[新入社員歓迎会]なるイベントがある。(あった)

ここで私は、おそらく初めて、自分が如何にぬるま湯で生きていたかに気付き、[会社人](社会人という言い方はどうかと思うので使わない。会社人である)としての洗礼を受けた気がしていて、
といってもしかし、怒られたとか早々にハブられたとか、そういう事ではないのだ。

むしろ逆である。
ハブられない(ハブられる状態に身を置かせてもらえない)というのが、これほど辛い事だとは思わなかった。

以前、オードリーの若林が、
「人見知りなんで・・・」っていうのは、普通大人じゃ許されないからみたいなことをアメトーークかなんかで言っていた気がするが、まさにその通りだなあと思うのは、

これまで自分が如何に、
「コミュ障なんで・・・」
という一言と、「コミュ障のひと」という立ち位置で、周りとの人間関係をシャットアウトし、「なにもしない」ことを許されてきたかに気が付いた、というわけで、確かに、この、「コミュ障なんで・・・」と、「そういう人」というイメージで全てが許される(と思っているのは私だけかもしれないが・・・)のは、学生時代まで、というのを、「ぬるま湯」と私は呼びたい。

たとえば、学生時代やバイト時代ならば、私はそもそもそんな場には、はなっから行かない。
行かない、というのは、「行けない」とほぼ同義語だがつまり、
「あの子、コミュ障で友達いないから、こういう飲み会には来れないのね」
と皆に思われるけれど、こう思われることによって、私は、堂々と、「行かない」大義名分を得ることができていたのだった。
しかし、会社人の場合は、そういうわけにもいかんだろう。会社の人間関係が、仕事の評価や振ってくれる仕事内容をも左右する場合があろうし、そもそも、別に「友達」じゃないから、コミュ障で友達がいないもへったくれもない(大義名分としての理由にならない)

で更に、学生時代の私は、億が一飲み会に行く羽目になったとしても、
自らハブられにいくという徹底的なステルス機能と、
「コミュ障のぼっちの人」という立ち位置の獲得によって、わりと常に、「何もしない」でいた。

というより、そうしていたこと―そういう戦略を半ば無意識的にむしろ自ら取っていたことに今になってようやく気付いたといった方が正しい。

この、「何もしない」というのは、単に、
サラダを取り分けないとかお酌をしないとか店員を呼ばないとか、そういうことのみではない。(まあ私はそれもしていないけど・・・)
「場の話を実は全然聞いていない」とか、「相槌を打たない」とか、「適当に愛想笑いして聞いているふりをしているだけでやっぱり全然聞いていない」とか、「適当に笑ってるだけ」とか、「話しかけられても1往復で無理やり会話を終わらせる」とか、そのレベルである。

私は、「コミュ障のぼっちの人」という素晴らしい立ち位置を獲得しているので、それで別に問題ない(と思っていたのは私だけかもしれないが・・・)
なにも話さなくても、「なにも話さない人」というイメージを徹底的に植え付けているので、別に気にされない。
億が一、「あまり喋らないね」と気を遣われても、
「ひ、人見知りなんで・・・ドゥフフ」で問題ない。(と思っているのはry)

たとえそれで、
「なにこいつキモっ」とか、「ノリ悪っ」とか思われたり嫌われたりしても、最悪、
「学校で誰にも喋りかけてもらえない」とか、「バイトで必要最低限以上に話しかけてもらえない」
とか実害はあくまでその程度で済むわけである。
これ、別に気の持ちようであって、実害じゃあないんだ。
学校で誰にも喋りかけてもらえないからって別に死にはせんだろう。(まあ死ぬ人もいるが。。。)
バイトの先輩になんか大した権限はないし最悪やめればいい話である。

だが、会社で、「なにこいつキモっ」と思われたり、「やる気あんの?」と思われたら、
最悪、死ぬかもしれないじゃないですか。だって、無職になったら死ぬんですよ!!冗談じゃなく、死にますよ!!
さっきも言ったが、周囲を取り囲んでいるのは、「友達」じゃあないんである。友達(予備軍)と、喋らないのは、
単なるコミュ障の暗い人で済むが、「上司」と喋ろうとしないのは、「態度が悪い奴」となる。

というわけで、会社人になったことにより、
「ステルス機能による、何もしない状態」
が許されなくなってしまった。

更に、同時入社の新入社員がいっぱいいれば、この辺は、出しゃばりとか明るいハツラツとした奴らに任せておけばいいが(いままでの私は常に全部そうしていた。)
いっぱいいないので、ステルス出来ない。「こいつなにもしてねえ」っていうのが一発でバレる。
「○○さんも入れてあげて!!」とか言われる。
一瞬でも気を抜くと、「大丈夫??」と、ノリが悪いことが即効バレる。


今まで、散々、私はコミュ障だからはぶられる~みたいな恨み妬み嫉みを書き連ねてきたが
あれは、実は違ったのだ。
あの状態が許されることこそが、ぬるま湯なのだった!!
(っていうか社会に出てんのに社会不適合だから~とか言ってる場合かよ)


そして、私の致命的な社会不適合っぷりはまだある。
深刻な中2病だから最新のポップスとか超馬鹿にして全然聞かなかった結果、
普通に会社人の飲み会で会社人が歌うような曲をマジで何一つ(※誇張ではない)知らないという事態となっていたことが分かった。(正確には知らないわけではなく、聞いたことはあるが歌えはしない。)

それゆえ、タンバリンを持ったサルのおもちゃのように、ひたすら手を叩くしかやることがなく(だってマジで知らないもん)、その動作すらも、「あ、こいつノリ悪くね?」とバレかけ(「かけ」じゃなくバレただろ)、
更に上司から、
「さすがにこれは分かるよね!?」
と10回は訊ねられマイクを渡されるものの、その全てに

「えっ・・・わかんないです・・・」

とマイクで答え、
じゃあ、好きなのうたいなよと言われるもののまさか本当にゆらゆら帝国とかやるわけにもいかず、かろうじて、歌えそうなJ-POPというのは、中○明菜とかしかないので(※誇張ではない)、場をサイコーに盛り下げるということを早速やらかした事をお知らせします。
この場合、これも、
「私最近のポップスとか聞かないから全然わかんな~い」といういけすかない中二病みたいな真似でドヤるというのが、学生時代にしか許されない態度であったことに気がついてしまった。


EXILEでも練習しよう。いやもう二度と呼ばれないかもしれないけど

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