あそぶんかの成績は一体いつ出るのか?と皆が戦々恐々としているが私の気分としては、あと2年くらい大学生をやっても一向に構わない。ただ、うっかり普通に卒論も提出してしまったのであと2年大学生は出来ない。大変残念である。

よしながふみの、1限めはやる気の民法 という漫画の卒業式前のシーンで、登場人物の女性が、
「あたしたち、もうすぐ一生学生じゃなくなるのよ。それってすごいことよ」
みたいな事を言うシーンがあって、あれは今読むと泣いてしまいそうだ(実際には、留年院進編入などでまだ学生をやる登場人物が何人もいるんだけどww)。学生じゃなくなると社会は途端に厳しい。仕送りももらえないし携帯代も年金も社会保険も自分で払わないといけないし、例えば、大学に入るために勉強している人は、「浪人生」という肩書きがつくが、仕事を探している何もしていないひとは「無職」である。クレジットカードも作れなければ部屋も借りれなければエトセトラ。厳しい。

というのはともかく、この前、どっかのFランの大学生が、世界中の子どもたちに夢を持つ喜びを感じてもらいたい、みたいなお花畑コンセプトで募金乞食をして盛大に叩かれていたが、よくよく考えると、私も、約8万3千字書いて要約すると、『夢を持つ喜びを』になるなあ、ということに気がついてしまった。
しかも、約8万3千字書いて内容はほぼすっからかんのクズみたいなもので、ただ自分で気に入っているのは、「はじめに」の本当に冒頭のエッセイ部分(前載せたとこね・・・)と、「おわりに」の熱いポエム部分のみである。むしろそこの為に本文を書いたと言っても過言ではなくて、ここにも載せたくてたまらないのだが、本文を読まないとわけが分からないので、第4・5章を飛ばして(アンケート結果などがあるため)、載せようと思う。

ただし、本当に自画自賛しているのは、はじめに、とおわりに、のポエムだけなので、そこだけ読んでくれれば満足である。以前までに書いたのとほとんど同じところが沢山あるし。(ほんとにほぼセルフコピペで乗り切ったから)

ファスト・カルチャー時代の消費と労働
―どこにも行かない呪縛あるいは希望―


はじめに


 去年も一昨年もその前も盆や正月に実家に帰る事は無かったけれど、二年前、20歳になる年は、成人式に参加するため二日間だけ帰省した。式は最悪だった。1月のワイドショーの風物詩の如く、カラフルな袴履いて壇上に乗り上げ暴れるヤンキーに台無しにされたわけではない。会場に行けば、誰かしらどこかしらの集団に混ざる事ができるだろうと思っていたのだが、中学2年生の時から、高校・大学に入学しても定期的に交流のあったはずの友人達は、それぞれが、別の仲良しグループで行動することを「約束」していたようだし、つまり、自分が地元を離れた約2年で、地元に残った者達の間では、自分の知らない時間が流れ、知らぬ間に交流が深められていたのだし、あからさまに疎外されたわけではないけれど、私はそこに混じる事は出来なかったのだった。
 そういえば、中学生の頃、当時仲が良かった友人に、「みーこ[]
は、ここを出ていきそうだよね。」と言われた事を思い出す。「三好[]なんて、何も無いし、何も出来ないし好きじゃない。」というその時の私の発言は、友人たちの「いや、私は好きだけど。」という言葉によって否定された。近所には「ジャスコ」しかなくて、「ジャスコ」に行けば、小中学校の同級生に最低でも5人は遭遇して、読みたいと思う本や漫画は全然揃っていなくて、当時は、TSUTAYAすらなくて、いや、そういうことではないのだ多分。
 このままここにいたら、何者にもなれない、つまらなくて退屈な人生しか待っていないだろうと、自分は絶対にそのような人間ではないはずだと、あの頃は確かに、如何にも中学生らしい根拠の無さで思っていた。
 実際、私は進学の際に地元を離れ、そんな話をした二人の友人は、今でも残っている。

 映画『ヤング≒アダルト
[]』の主人公メイビスは、地元に残る、元・恋人のバディから、赤ちゃんの誕生パーティーに招待されたことで、故郷の片田舎へ舞い戻る。「私は抜け出した」という意識のある彼女は、故郷の消費生活を「ケンタコハット」(ケンタッキー・タコベル・ピザハットの略)と馬鹿にし、地元で働き家族を形成する人々を、「人質の生活」と哀れんでいるけれど、地元に向かったのは、彼女と同様に、元・恋人もそんな「赤ん坊との退屈な暮らし」から抜け出したいはず、だから彼は自分の救いを待っているのだと、思っていたからだ。

 でも、それはメイビスの思い込みなのだ。彼女と同じくかつてスクールカーストのトップに君臨していたはずの元・恋人のバディは、現在のマイホーム・パパ的幸福を存分に享受しているのだし、都会で、作家業(現状はゴーストライターだが)を営む、華やかなメイビスの暮らしをさぞや田舎者共は羨み、賞賛するだろうと期待していたのに、実は地元の人間達から《哀れまれていた》のは、メイビス(・・・・)()()だった、というのが『ヤングアダルト』の筋書きなのである。
 何故なのだろう、と思っていた。
 「三好なんて、何も無いし、何も出来ないし好きじゃない。」と言っていた頃、私は皆も当然、同調してくれると思っていたのだ。「元恋人は、あんな退屈な暮らしから抜け出したいと思っているはず」と勘違いをしていたメイビスと同様に。
 何故、否定されたのだろう。
「ふるさとは大事にしましょう」みたいな偽善や建前でないとしたら、何故、他の人は、あのようなジャスコしかない、車が無いとどこにも行けない様な場所で人生を引き続き過ごす事に、満足出来るのだろう。

感覚としてだけではなく実際、私の出身地である愛知県は、全国の中でも特に、いわゆる〈地元志向〉的な人間で固められている場所なのだ。例えば、旺文社教育情報センターが、文部科学省『平成26年度学校基本調査(速報)』のデータを集計した『平成26年度 都道府県別 大学・短大進学状況』によれば、愛知県の地元進学率、つまり各都道府県の大学進学者における地元大学進学者の割合は70.6%で全国一位である。裏返せば、愛知県以外の大学に行くのは大学進学者のうち約3割、つまり、同世代のうち大学進学者を約6割とすると、大学進学で自分の生まれ育った県を出るという選択をするのは、同世代の中で18%くらいだということだ。更に言えば、各都道府県から人が集まる東京などとは異なり、地元占有率も高く、平成26年度に愛知県に進学した大学生のうち、63.6%が愛知県の高校出身者なのである。因みに、この数字に、近隣の、岐阜・三重・静岡・長野出身者の割合を足すと、実に88.7%が東海地方出身者によって固められていることが分かる。

 これらは四大進学者の場合だが、高卒就職者に関しても話は同じで、文部科学省『平成23年度学校基本調査』によれば、愛知県の高卒就職者のうち同県内に就職した者は97.1%、ほぼ100%と言ってもよいような数値であり、こちらも堂々の全国一位だ。

 愛知県は、自分と同じ様に地元の大学に進学するか地元に就職する人が周りの7割以上を占め、進学した大学も、自分と同じ様に地元もしくは近隣県の高校から進学してきた人で約9割近くを占める、〈地元志向〉のメッカなのである。この事が意味するのはすなわち、ロール・モデルの均一ではないか。

 ロール・モデルの均一とはどういうことか。前述の様に、外に出ないかつ外からも入ってこないという傾向は、内部にいる者の比較もしくは目標となる集団の質やレベルの範囲が、限定的そして入れ替わりにくい、ということに繋がる。人間の自己評価や行動は、準拠する集団との比較によって指向され、ゆえに、ある人の満足や不満足は客観的な絶対値ではなく、準拠集団の比較によって生じるというマートン(1961)の相対的剥奪論を参照すれば、〈不満をなるべく抱かないようにする〉為の態度は、達成されようとする水準と希求水準間になるべく落差が無いことに求められる。この論理を応用すると、ある人の実際に達成される水準は希求水準の程度と質によって影響される、という事が言えはしないだろうか。そしてこの希求水準は、各々の準拠点となる個人または集団によって左右されるのである。

 これはもちろん120万分の3000程度[]のごく極端な例かもしれないが、私の出身高校に、少なくとも過去三年、東京大学に合格した人は一人もいない。それだけでなく目指している人すらいない。慶應義塾大学や早稲田大学に進学したというのも聞かない。中学校の同級生にもいない。一方、大学受験前に読んでいたブログの中に、東京都内でも有数の中高一貫進学校に通っていた人のものがあった。その人は、東京大学を目指していたものの、結局一浪した後、某有名私大に通っているが、現役時代や浪人時代、センター試験の点数をインターネット上に公開していたのだが、おそらく、私の出身高校のトップレベルだった、東京大学など目指そうともしていなかった生徒達は、しかしその点数より高かったはずだ。

 しかしながら、結局のところ、点数は似た様なものか上であっても、私の出身高校の生徒たちはまず東京大学など、一浪してまで目指そうとはしない。勿論、センター試験はただの足切りでしかなく二次試験が重要かつ難しいとかそういう事はあるだろうけれど、そういった事だけではないのではなかろうか。

 つまり、誰も、信じていないからではないかと思う。信じていないから、受けようとしないし、おそらくだけれど、実際に受けたところで受からないはずだ。

 というと、信じれば夢は叶うみたいなスピリチュアルやら根性論に捉えられそうだが、別にそういうことを主張したいわけではない。これは例えば、あくまでフィクションとして聞いて欲しいが、地方の小規模な国公立大学の学生同士における、「あの子、アナウンサー目指すんだって」「ふうん、すごいね()」といったときの、「ふうん、すごいね()」と同様、といったら分かり易いだろうか。

私が、何故そんな何年も前の事を覚えているのかというと、「え、東京大学って、そんなくらいの点数で『目指す』なんて表明してもいいものなのか」とある種の衝撃を受けたからだ。誰も信じていない、というのは、現役で駄目だったら、一浪して予備校に通ってまで自分が東京大学や有名私大を受ける、受かるという話を、実感レベルで自分たちの世界の事だとは思っていない、ということで、自分たち、といったのは実際に周りにそんな人はいないか、ごく一部というか大抵は一人の、田舎のバグみたいな飛び抜けて頭が良い人に限る話だから。

 だが、都内の中高一貫進学校であれば、そうではないだろう。話は逆で、上記に書いたようなことは、「自分たち」の話なのだ。「自分たち」つまり自分の話だと素直に信じられ、信じているから、周囲の先導者達のレールを内面化した過ごし方と適切な努力の方向を身に付け、自分をそちらに導いていく。

 進学校と非進学校の違いとは、単純な学力や能力或いは行われる教育方法の違いよりも、むしろそうした―自分たちの世界の範囲や基準の内面化を自らのものとするという面で強い意味を持つものであろうし、もしかすると、どこに生まれるかも然り、である。

 ロール・モデルの均一。それは、自分たちの話だという思い込める範囲の均一であり、実践の範囲は図らずともその内部に大体が収斂していく。かつ、愛知県の場合、自分が外に出なければ外からも入ってこないのだから、内部にいる限りは拡大される事がない。

 そんな、〈地元志向〉のメッカ・愛知県に生を受け、両親の両親つまり祖父母共に愛知県在住。父方の祖父母の家まで車で10分、母方は車で40分、帰省もへったくれもない。夜中でも車がビュンビュンと走る国道沿い<ファスト風土>[]生まれ、外食と言えば、サイゼリア・ガスト・くら寿司、チェーン店育ちの私はそれでも、抜け出したかった。名古屋大学を頂点とする地元の国公立大学の進学率を上げる事にほぼ命を賭けている高校教師達の進路指導にも、絶対に順応したくはなかった。

 逆に言えば、特段、抜け出そうと思わない多くの同級生達が、不思議だった。


マイルドヤンキーと《非・上昇志向》《非・都市志向》《非・リセット志向》

 ただ、このような、何故、という意識を抱えるのは私一人では無かったようである。

大賞にこそ選ばれなかったものの、2014年のユーキャン新語・流行語大賞の候補語の一つに「マイルドヤンキー」という言葉がある。博報堂ブランドデザイン若者研究所の原田曜平が、著書『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』 で提唱した概念だが、「上『京』志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」(原田、2014:25)を「マイルドヤンキー」とし、彼ら彼女らを、現在の若者がモノの消費に金をあまり使わなくなったと言われる中でも相変わらず消費意欲の高い新たなマーケティング・ターゲットだとして、設定したのである。おそらくこれは、原田氏の一つ前の著書である『さとり世代 盗んだバイクで走り出さない若者たち』 (以下『さとり世代』とする)と対になっている概念であり、「高級外車に乗りたいなんて、訳分からないです」(原田,2013)というような、物欲のあまりない淡白な「クールなコスパ世代」たる、主には都市・エリート層を中心とするような若者とは対照的な存在として語られる。

というのは、『さとり世代』の中で、原田は、博報堂ブランドデザイン若者研究所に属する、東京または首都圏の大学生で主に構成される「現場研究員」との語りを、次のように締めているのである。

 

 逆に言うと、今、DQNの子は、昔と変わっていないのかもしれない。だから、消費意欲が旺盛なのかも。僕の調査でも、消費をしないと言われるさとり世代の中でも、彼らの消費意欲は、かなり旺盛だという結果が出ているので、彼らは案外優良な消費者と言えるかもしれないね。(原田,201388)


 これは、「立教大・4年・女」と記される、現場研究員の学生の、さとり世代はブランド離れしていると言うが、自分の地元の友達はそんなことはないといった発言から端を発する、「ブランド信仰が残存し、どんな車を持っているか、どれくらい酒が飲めるかをステータスにするような、マイホームが夢、みたいな人たち」といった主旨の議論を締めくくるものであるが、この議論中で、原田、現場研究員らは、彼ら彼女らを「下流」という言葉で示している。さとり世代とは、あくまで、ある一定以上の社会階層の若者たちの動向を指すものであり、地方に住む「下流」の者達は相変わらず、団塊世代の様な価値観を引きずっている、というのである。

 この話を発達させて一つの概念にしたのが、「マイルドヤンキー」なのであろう。[]

 そこで語られる特徴は主には、《非・上昇志向》《非・都市志向》《非・リセット志向》というべきものだ。キャリア志向や成り上がりといった夢を持たず、電車に乗ることや地元を出ることを嫌悪し、半径5km以内で消費や生活基盤を完結させ、「地元の友達と離れたくない」からこの場所に留まり続ける。

 私は先ほど、「不思議」と書いたがあれは正確ではない。

 決して、分からないのではなかった。本当のところは、はなから分かろうとする気もなく馬鹿にしていたのだし、当初のDQN[]という形容からも推測される通り、マイルドヤンキー論の発端は、このような、大学時代から博報堂に出入りするような都市エリート予備軍が、自らが出てきた地元に残る、「下流」のDQN達をいわば見下す視点なのであるし、先ほど引用した言葉の中にある「優良な消費者」という言い方はつまるところ、属性に付随するとされる生活様式や文化の洗練されなさへの嘲笑を含んだ揶揄であろう。

 故に、テレビなどのメディアで取り上げられ話題を呼んだ[]一方で、無論、わけの分からない新語がマスメディアによって大衆に拡散されようとする時はしばしばそうなりがちだが、少なくない反発を引き起こした。

 代表的なのは、「今更何を言っている」「そんな人は前からいた。ずっと都市のエリートとしての人生を歩んできた人たちはそれに気が付かなかっただけ」という主旨のものだ。


マイルドヤンキーとは対極の人生を歩み、結果として山手線内側のエリートが自分の知らない世界である日本の地方に居る(いや昔から居た)フツーの人達が自分とはかけ離れていることに驚き、Disりも含めて「マイルドヤンキー」呼ばわりしてしまっただけのことですよ!

半径5kmの世界しか知らないのは一体どちらなのか?

(韋駄天太助,201462日「マイルドヤンキー論は薄っぺらで山手線内側のエリー

 トが地方を見下してる感タップリ!」    http://blogos.com/article/87630/

同級生のみならず先輩や後輩を見ていても、そういう人々が急増している感覚は全くありません。彼女・彼らを乱暴に一括りにする言葉が生まれただけであって、その言葉の対象となる人々は、少なくとも私が物心ついたときからずっと存在していました。なので、「何をいまさら」というのが、筆者の正直な感覚であり、この感想を話したところ、地方出身の友人や、都内のガラの悪い学校にいた友人らも、同感だと話していました。

(中略)

情報技術の普及は、今までの生活では決してすれ違いさえもしなかった人々がウェブ上で邂逅する機会をもたらしました

  (中略)

  「マイルドヤンキー」はまだ序の口なのだと思います。これに留まらず情報技術の進歩は、今まで見えてこなかった様々なものを今後も可視化していくことでしょう。

 (慎泰俊,2014327日「「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日本の階

 層 物事が見えていないのは誰なのか」

                http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20140326/261791/


 もちろん、後出しで「そんなものは前からあった」というだけならば簡単であるし、少なくない人々が薄々思っていた事を言語化して一つの概念として巧みに、しかし、真面目に受け取って論証する方が馬鹿に見えるゆえに決して真面目には検証されない程度の曖昧さで抽出する事こそが時代を読む広告代理店の仕事というべきなのかもしれないが、この<今更>という言葉は、本論文に二つの意味で示唆を与えるものである。一つは、「回顧としての揶揄」という言葉で、もう一つは「可視化」をキーワードに、第一章では、今更という言葉が持つ意味について論考を進めていきたい。


論文の要旨と構成

 その前に、マイルドヤンキーという言葉が発信され、受け入れられた背景について論じる、序章のような位置づけとなる第一章ではまず、何故、<今更>若者の地元志向などという言葉が取り上げられるのか、についてもう一つ気になる点を確認しておく。それは、マクロな数値の上でも、近年になって急に若者の地元志向が高まったとは断定しにくいということだ。

 第一章で数値については確認するが、都道府県の間で行われた住所の移動率だけを見てみると、都道府県間移動の減少傾向は、高度経済成長の終焉以後、緩やかに起こっているものである。そして、年齢ごとのデータではないものの、全体的な傾向としては、近年はむしろ東京都の転入超過である。来年度からは、厚生労働省によって、若者2万人を10年にわたって追う追跡調査が始まる。概要は、地方からの人口流出の原因を探るために、どのような理由で、どこに引っ越したかという内容をデータとして集めるものだが、つまり国側からすれば、地方からの人口流出の方が問題になっているわけである。それにも関わらず、何故<今更>地元志向なのか。

 これを突き詰めて考えていくと、一般に、若者地元志向といったとき、実は、「ライフスタイルとしての地元志向」という要素と、「ライフコースとしての地元志向」という要素の二種類が含まれており、かつ、明確に区分されることや、この二つの要素の間に相関関係があるのかどうか検証されることのないまま、ひとえに「地元志向」という言葉で語られていることが分かる。例えば、消費の場としてショッピングモールを好む、や電車に乗りたがらない、いつまでも中学校の同級生や地元の仲間と遊んでいる、といったような性質は、生活様式つまり「ライフスタイル」としての地元志向と呼ぶべきものであろう。一方で、上昇志向や上京志向を持たない、進学や就職の際に地元から離れたがらないという意向は、将来展望・移住選択―「ライフコース」としての地元志向だ。

 地方からの人口流出の方が問題となっている中で、近年に起こった変化としてはむしろ、地方の消費のあり方に係る変化の方が大きいだろう。マイルドヤンキーという概念が、ショッピングモール、EXILE[]、といったキーワードと共に消費文化の担い手としての文脈で登場したように、若者の地元志向に関する論調の焦点も、生活様式的側面の方が強い。

 詳しい説明は次に回すが、マイルドヤンキーに限らず、一昨年、2013年には、社会学者の阿部真大が、イオンモールが地方の消費文化に大きな存在感を占めているとした上で、現在の地方には、刺激的な大都会とつまらない田舎の間に位置するほどほどパラダイスとしての地方都市が存在すると指摘した『地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会』』という著書を出版しているように、東京に行かない若者、ジモトから出ない若者と、郊外のロードサイド型大型店舗などに代表される均質化された消費文化を結び付けられる論調は、2000年代後半からの流行であった。これは、人口移動そのものというより、全国あらゆる地方に、ショッピングモールなどの均質化された文化の波が押し寄せる現象への「識者」たちの危惧によるものであろう。

 しかし、消費スタイルとしての地元志向と移住選択としての地元志向に相関があることは厳密に検証されたわけではないにも関わらず、何故、この二つを区分すべきだとは論じられず言論が飲み込まれてしまったのか。このことについても、一章において仮説を提示する。

 そして、実は言論の場において明確に区分されないものはもう一つ存在している。それは、ロードサイド型大型店舗やショッピングモールを代表とするような、大量生産低価格型の文化、ファスト・フードをもじって言うところの、「ファスト・カルチャー」は、「郊外文化」などと呼び習わされることがあるが、90年代までの郊外論とは、郊外という言葉の意味や指し示す場所や言論の対象が変わっている。郊外とは、若林(2000) によれば、あるどこか特定の場所を指し示すのではなく、都市との関係において「なっていく」ものだ、という。都市の発達と膨張に伴い、都市で生活や活動をする者が住むために外化した場所であるところの「郊外」も拡張していくわけだが、つまりこの場合、単に都市の周辺部であるだけでなく、都市と機能的接続があることが郊外が郊外たる所以となる。旧来の「郊外」論の郊外とは、そうした場所を指していた。

 それは、高度経済成長期に一気に大都市に流入した人口が、家族を形成するための場として急激に宅地化されていった、大都市周辺の郊外住宅地であり、基本的には鉄道沿線に形成されていったものだ。住民たちは、「都市」に通勤し、夜になると帰ってくる――ベッドタウン――という意味で、都市と接続的である。そんな郊外住宅地はしばしばテレビドラマのテーマとなり、そこでは、一見幸福な中流核家族の豊かさゆえの閉塞が語られ、当時の少年犯罪と関連させ、キレる若者を生み出す場として捉えられるようになった。

 一方、2000年代後半以降の、「郊外論」や「郊外文化」は、自動車社会を前提とするロードサイドの「ファスト風土」が想定され、そこでは、都市との分断が問題となり、主な対象設定は下流・DQN・ヤンキーといった下層の若者である。ただし、若者たちは「キレ」ないし、「病ま」ない。持続し続けるゆるやかなジモトつながりと絆の中で、貧しいながらも楽しげな、新たな幸福。このような論調は、幸福で裕福な中流核家族の建前と欺瞞よりも、金銭的精神的文化的貧困に関わらず上昇しない下流の若者という方が現代では物語としてリアリティを持っているというのはあるかもしれない。が、鉄道の発達しない地方に、大都市郊外のような「ニュータウン」「郊外住宅地」を輸入、猿真似しようとしたところで、別物になってしまう、ということは可能性として提示できる。そして、人口の転出によって大都市周辺が「郊外」となっていった時期と、商業地が郊外地に造成されていったことにより、都市中心部の商店が衰退していった時期は、異なる。問題は、この「郊外」区別、さらに、人口が郊外に分散していった時期と、商業地が郊外に造成されるようになった時期の区別がないまま、90年代以前の郊外論の論調を、2000年代後半以降の郊外論に適用しようとすることであり、ゆえに、第二章では、「郊外住宅地」について、第三章では、「商業の郊外化」について、どの時期にどのような現象が起こったかを、統計などを用いて検討していく。ここで、錯綜する区分を一旦整理することにより、地元志向という現象または言説をよりクリアに把握することを目指したい。

 そうして前提知識を整理した上で、第四章からは、筆者が201412月から1月にかけて、奈良市ショッピングセンターテナント従業員、奈良県大学生、愛知県の10代の若者に行ったアンケート調査の結果と考察について述べる。

 本論文の題目には、「ファスト・カルチャー」ということばを使用している。が、しかし、これは消費文化に重きをおいたものではない。

 地元を出ない、地元を出られない、という問題は、親の扶助がないと生活できないというパラサイトシングルなどの問題や、たとえばより良い待遇や賃金を求めて転職する費用や準備のための賃金や休暇がないといったような若者をめぐる厳しい雇用環境、移住選択と移住可能性の幅に歴然と存在する格差問題という面で捉えるものである。第一、イオンがあってもイオンを楽しむための手段(金銭)を得る場つまり労働先がなければ何ら意味がないではないか。求人数や求人内容には、現在においても、都市と地方間では明確に格差が存在している。地方のショッピングモール、ファスト・カルチャーは消費の場を提供すると同時に、求人の少ない地方での大きな労働先と成りうるものの、そこで労働を支えているのは大抵が、同じく、「地元を出ない」非正規労働者たちである。それにも関わらず、表面的な楽しさやつながりの豊かさというコーティングや、消費文化の洗練されなさを揶揄する視線で語ることによって、問題は先送り化され隠蔽される。

 真面目な顔をして若者の雇用問題と厳しい経済問題を論じる論調には飽きた人らがワイドショーの老人論客に水を差して常識を引っ繰り返して、面白いと思われたいから、自分は高収入の身でありながら、今の若者はお金が無くたって幸せだからという。都市に抜け出した者の自己肯定への欲望は、地元に残る者へ蔑視の目を送る。この先も抜け出せないことが確定している呪縛に目を向けないための、ゆるやかな絆とファスト・カルチャー的幸福論という防衛機制的戦略こそが、今の生活が楽しいための自分の居場所を見つけるための希望であるのだけれど、そのような楽しげな膜で自らを覆ってしまうからこそ、根本的問題は解決されないのだ。





























 




 










 






 
















 













 

































[] 筆者の当時のあだ名である。


[] 筆者の出身地。愛知県みよし市(201013日以前は、愛知県西加茂郡三好町)


[] ジェイソン・ライトマン監督 2011年『ヤング≒アダルト』(原題:Young Adult)配給:パラマウント ピクチャーズ 94


[] というのは、例えば平成26年の東京大学入学者数は3159(東京大学ホームページよりhttp://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/e08_01_j.html)だけれど、この年に18歳になる平成7年生まれの人数は、厚生労働省によれば1187064人。浪人なども含まれるだろうから厳密ではないにせよ、同世代のうち0.27%くらいの極端な話ということだ。逆に言えば、ある年齢のうち約99.7%の人間には関係がない。


[] 評論家の三浦展が、全国の地方ロードサイドにファミリーレストラン、ショッピングセンター、全国チェーンのファストフードなどが立ち並んでいく均一化した風景を、ファストフードをもじって名付けた概念。三浦展,2004年,『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理』洋泉社 による。なお、この論文ではそれをさらに引用して、ファスト・カルチャーという言葉を題目に採用している。


[] インターネットで、「また無理に変な言葉流行らせようとして、どうせ電通の陰謀」の様にメタを気取って切り捨てる人をたまに見るが、電通ではなく博報堂である。


[] インターネットスラング。「目撃!ドキュン」(テレビ朝日)というテレビ番組が語源。主に、不良、ヤンキーの様なチャラチャラした人、反社会的な人、低知能、非常識な者を侮蔑する意味で使用される。


[]2014327日放送「グッド!モーニング」(テレビ朝日)、2014418日放送「ZIP!」(日本テレビ)、2014 630日放送「月曜から夜ふかし」(日本テレビ)など


[] 日本の男性ダンス&ボーカルユニット。年ごとに人数が増加し皆似た様な容貌かつ派生ユニットや、弟分という位置づけのユニットがあるため(EXILE,三代目J Soul Brothers from EXILE TRIBEGENERATIONS from EXILE TRIBEなど)一体どこまでがEXILEで誰がEXILEなのか、現時点で何人なのかファン以外には把握不能であるが、20152月時点では、公式ホームページにおいて19人がメンバーとして名前が記載されている。ただ、そのうち、EXILE HIROという者は、現在パフォーマーを「勇退」し、リーダー(そして所属事務所の社長)という位置づけとのこと。また、メンバーの名前にも、「EXILE USA」のように、名前にEXILEがついている者と、「関口メンディー」のように単に普通の(普通?)名前である者がいて、EXILEとつけて貰える者が「本物のEXILE?」と思ってしまうが、これについては、メンバーの加入や改正ごとに「第三章」(現在は第四章)といったように、章立て形式でユニットが進行しているため、第何章で加入したかの区分によるものであろうか。いずれにせよ、この、社長(比喩ではなく本当に社長)―幹部―グループ会社の社員―派遣社員、的な複雑極まりないシステムと、顔と名前を覚えられる時点で、知能は低くなさそうだけれど。同じく無限増殖型のAKB48は、必ずしも全員覚えずともよいだろうが(というかメンバーでさえ全員は把握していないだろうし