ふるさとの、話をしよう~大崎上島の宝箱を探して~

誰にでも故郷があります。故郷には歴史や伝統、何より「思い出」と言う宝物があります。そんな大崎上島という宝箱を、出戻りタヌキがご案内します。

明治37年3月、またしても衆議院議員選挙が行われ
この選挙で圭介は中立の名義で立候補しましたが落選しています。

前回、圭介がいかにも政友会に復帰したような書き方をしていましたが
圭介は当時、尾崎行雄ら脱党組の一部と同志研究会という小会派を
立ち上げて所属し、議会活動をしていたのです。

この同志研究会、詳しい事情は省きますが
最終的には立憲政友会への復帰を志していて、
複雑な事情を伺うことができます。

この頃の日本は、ロシア相手に戦争を始めています。
明治37年2月、日本はロシアに対し宣戦を布告し中国で
ロシアと戦いを始めたのです。

ただまあ、宣戦布告の後になんで総選挙をしようと思ったのか
正直理解に苦しむ部分があるのですが・・・


この頃圭介は、議員としてではなく私人として
意外な行動をしています。


ここで意外な話が出てきます。

圭介が日記をつけていたというのです。

「望月圭介伝」P200内の記述です。

『(抜粋)ただ偶々わずかに残されてある君の明治38年の簡単な
日記に依れば・・・』

と、日記の存在とそこに書かれていることについて
簡単に触れられています。

それによると圭介は、明治38年3月頃までは尾崎行雄ら
脱党組の面々と時折会合を持っていたようですが
3月22日、突然ハワイに向けて出発しているのです。

「望月圭介伝」巻末の年表には

・3月22日 横浜よりマンチュリア号に乗船し布哇に赴く
即ち軍人遺族援護寄付金募集の為なり。

と記されていて、圭介が寄付金集めのために
ハワイに赴いたとしています。

この「軍人遺族援護寄付金」ですが、
当時の戦死者の遺族はまともな補償をもらえなかったので
民間の寄付金で補償金を賄っていたのですが戦争で
寄付金を多く獲得する必要があり、圭介はハワイに行ったのでした。

なお、圭介がハワイに赴いたのは元々広島県では移民が盛んで
多くがハワイに渡航していたことからある程度の伝手があったためです。

圭介はハワイ各地で演説を行いながら寄付金を募集していたようで
この年いっぱいはハワイに滞在していたそうです。

帰国した圭介は当然、議員ではないためこれと言った政治活動が出来ず
しばらくの間は失意の日々を過ごしていたと思いますが
それで決して終わらないのが圭介で、明治41年5月に行われた総選挙に
立候補し、またしても落選したのですが選挙違反で失格者が出たお陰で
繰り上げ当選することが出来ました。

このとき圭介は再び政友会に所属していたのですがこれは
戦争終結後の明治38年に同志研究会は他のいくつかの
小会派と一緒に解党し、所属していた多くの議員は元の所属政党に
復党していたのでした。


この後圭介は落選することはなく議員活動を続けるようになり
政治家として順調に出世することになりますが
次回からはそんな圭介の政治活動を通じて当時の政治の世界を
俯瞰していきたいと思います。






 

圭介の落選は、ある意味政友会が
政治的妥協に走った結果です。

地租改正(要するに地租・・・現在で言う「固定資産税」の増税。)
に反対していた政友会が政府・・・山県有朋らに懐柔され、
海軍軍備増強の費用を捻出するためとして地租改正に同意した
ことは、地方を拠点とする圭介らにとっては、到底飲めない話です。

これが都市部選出議員なら商業などで利益を得る層からの
支援を期待でき、かつ、それらの層は地租改正の影響を
あまり受けることはないので、選挙への影響は限られてきます。

一方、地方議員は有力者の資産の大部分が土地で
それらの層は地租改正をされると少なからず打撃を受けることに
なるので、必然的に反対の意向を示さなければならなくなります。

圭介が落選したのは、この選挙がそれまでと違い
投票用紙に投票者の氏名を書かなくてもよくなった・・・
(選挙法の改正があったようです。)
つまり、候補者に気兼ねをしなくてもよくなったことにより
政友会内の動きに対し、ノーを突きつけたからです。

ただし、この選挙では政友会の獲得議席は189で
それでも圭介がなぜ落選したのかは、
もう少し考えてみる必要がありそうです。


話を元に戻します。

この様な問題を党の上層部のみで決断し、実行するのは怪しからん、と
圭介ら一部議員は上層部が独善的に党を運営するのではなく
他の議員の意見を聞くような仕組みを構築したい・・・

そのような思いから党内で体制刷新運動を
始めたのでした。

もっとも、圭介はこの時落選していたので
党中央で活動する、という訳にはいかなかったようです。


明治36年3月、衆議院が解散され臨時総選挙がありました。

この選挙で政友会は再び勝利し、
圭介も今度は当選し、中央政界に復帰しました。


この後圭介は、

『党人』

として、政友会の体制刷新運動に身を投じていきます。





 

長らく休載していた当ブログ、
久しぶりに記事を上げたいと思います。


戦争では当然のように死者が出ます。
ほとんどの場合、現地で荼毘に付して遺骨を故郷に持ち帰り、
最初に合同慰霊祭(都道府県や市に郡、次に町村単位と言う
2段構えです)を挙行した後にそれぞれの家で葬儀を行います。

話は変わって、大崎上島を歩いているとよく墓地に行き会います。

普通は気にしない(ようにしている)のですが、ふと見ると
墓碑に明らかに外国の地名が書かれたものを見かけることが
少なくありません。

たいていの場合、細長く高い塔のような墓石であることが多く
かなり立派なものが多いようです。

これについて、『皇軍兵士の日常生活』(一ノ瀬俊也 著)内に、
この様な記述がありました。

『(要旨)戦死者の遺族には毎年もらえる扶養料の他に一時金(死没者特別賜金)
が支給され、(遺族の)周囲が「立派な墓を建てろ」と圧力をかける。
そういった「世間体」を気にして遺族は、立派な墓を立てなければ
いけなくなってしまう・・・』
(P168)

余裕のある家ではそういう声にこたえることが出来るので
当然のように立派な墓を立てることが出来るのですが
生活が苦しい家では、立派な墓を建てたくてもそうはいかず、
さりとて、墓を建てないということは先述の通り周囲の期待(おせっかい)
や「世間体」もあって、なかなかできない・・・

なので、遺族の間から

『立派な墓を作らなくてもいいように、お役所のほうから
「墓石の規格化」を図ってもらえないか』

という声が上がりだし、昭和18年(1943年)、
広島県の安芸地方事務所長が管下の各町村長に対し、

『(要旨)戦没者の墓碑については、壮麗過大にならぬよう、
規定の寸法の物にし、かつ、費用は死没者特別賜金(一時金)
の1/3程度にするように指導すること』

との通達を出しました。

この「通達」、
一応公布されたようですがこれが守られたのかと言うと
どうもそうではなく、やはり「世間体」には勝てず、
どうしても立派な墓を建てたがる傾向が残ったようです。

更には、戦死者の社会的地位とは別に
軍隊での「階級」もまた、問題を引き起こしていたようです。


その辺については次回、
改めて触れたいと思います。





 

旧来の廻船問屋が船員法や船舶法による圧迫を受け、
一杯船主や大企業の海運業進出により廃業か
経営形態の変更を余儀なくされたことについては
すでに荒々ながら触れていますがそんな中、
この流れの中で望月圭介が思わぬ役割を担っていたことが
分かったので、今回の一連の記事の最後にご紹介します。


明治44年(1911年)、船舶法と船舶検査法改正案が
衆議院に提出されました。

法案は、上記2法の適用除外になる下限の大きさを
改正前の200石、20総トンを300石、30総トンにしようというもので
政府提案ではなく議員提案でした。

これは、日本型の200~300石船を法規制の対象から
除外しようとする試みで、貴族院での審議の際は
「北陸地方の漁業家の提案」
としていますが『機帆船海運の研究』P483では、
大いに疑わしいとしています。

結論を申しますと、
衆議院は通過したものの貴族院では否決され、
その後もこの件に関する建議書が提出され、
後に検査だけは除外されたものの法案の目的が
達成されたとは言えません。

法案の審議の際、衆議院内に特別委員会が設置されたのですが
その委員長になったのが、圭介だったのです。

この件に関し、先述の
『機帆船海運の研究』では、

『議事録では明らかではないが、「船持」の最後のあがきとでも
いうべきものであったと思われる。』
(P475)

と、かなり皮肉な表現で触れられています。


それともうひとつ、
廻船問屋衰退に比例して個人船主が増えた経緯について
触れられた記述を『機帆船海運の研究』で見つけたので
ご紹介します。

『買積輸送から賃積輸送への転換は「商人」から「海運業」への転身を
迫られることであるが、海運業への転身は明治初期はともかく中期以降
は魅力あるものではなかった。(中略)各地方廻船主も含め海運業に
転身しない限り、その持船を手放すわけであるが、その船は船頭に売られる
ケースが最も多かったと思われる。(中略)こうして船主船長という一杯船主が
多数輩出することになったのではないか。船主船長は法制面上も有利であった。』
(P477)

つまり、
石炭買い付けから輸送、更に販売まで行っていた御下屋は
このような時代の流れに取り残され、
ついには廻船問屋としての歴史を閉じることになったのだと
思えてなりません。


これで今回の一連の記事は終わります。

お付き合いくださりまして
本当にありがとうございました。




 

この話は今回で終わりです。

しかし、
話の「オチ」を見ると多分、

『詐欺だ~っ!』

と思われる人の方が多いと思うので、
正直、オチを書くのが怖いです。


では、
結論を申し上げます。

御下屋が(廻船問屋として)衰退した真の理由、
それは・・・

御下屋を継承すべき3人の息子が
それに背を向けて勝手な行動をしたからです。

まず、
御下屋の当主、東之助には明治30年代には3人の男児が
健在でした。

長男の俊吉は、広島県議会議員として活動していて
それと平行して国会議員として活動中の弟、圭介の支援も
また、していました。

三男の圭介は、前述の通り国会議員として活動していましたが
明治30年代の一時期は落選して国政復帰に向けて
活動をしていました。

四男の乙也は、東野村長を経て広島県議会議員に転身、
後に広島県議会議長にまで栄達しますが、
この頃は造船所の経営に専念していて、
到底、本家の窮状を支援できずにいたのです。


無論、
「公式には」
海難事故の多発で持ち舟の全てを失い
廻船問屋としての御下屋が衰退した、
という見方が合理的なのは
言うまでもありませんが、
だからと言って、
自前の造船所を持ちそれが利益を上げていたのに
なぜ、廻船問屋を畳むことになったのか
誰も検証していないのは何故なのか、
その思いから、あえて問題提起してみました。


「御下屋衰退の真の理由」
は、この辺で終わりますが
もう少しだけ話を続けさせて下さい。

圭介が和船から西洋式の船へ変わっていく過程で
歴史に思わぬ引っ掻き傷を付けていたことを
ご紹介させて頂きます。




 

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