ここからは、加藤晴美氏が2009年に執筆した論文
『大崎下島御手洗における花街の景観と生活』
から、「オチョロ舟」と呼ばれる船乗り相手の売春制度と
それに携わった人たち、更に地元の人たちがどの様に
接していたのかについて見ていきたいと思います。
まず、「オチョロ舟」というシステムですが
入港してきた船の船員さん相手に一夜を共にするというもので
本来法律で貸し座敷と呼ばれるところでのみ売春を行えるはずでしたが
黙認という形で、沖合いに停泊している船に直接女性を届け
そこで行為を行っていたのです。
具体的には、各『オナゴヤ』(置屋)がそれぞれ「オチョロ舟」を仕立てていて
(中には、複数の『オナゴヤ』で1隻共有していたケースもあったとか)
当日くじ引きで順番を決め、船が入港してきたらくじで決まった順番で
「営業」をかけ、合意に至ったら船に女性を上げて一旦オチョロ舟は戻り
翌日、女性を迎えに行っていました。
しかし、「馴染み」というか「お得意さん」の船が入ってきた時は
くじ順に関係なくその船に行くことは認められていました。
「オチョロ舟」を操っていた船頭さんは「チョロ押し」と呼ばれ、
船側との交渉は「チョロ押し」が行っていました。
交渉が過熱してくると「チョロ押し」は、うまく値段を吊り上げていき
逆に客が付かなかった場合は、稀に自腹を切って料金を割引きしたり
時には自身で料金を負担して女性に客が全く付かないというような事態を
避けていたとのことです。
この「チョロ押し」、
オチョロ舟の船頭の他にオナゴヤの主人の手伝いもしていて
新しく入ってくる女郎さんの引き取りや場合によっては
逃げた女郎さんが見つかった時に身柄を受け取りに
行くようなことをしています。
女性たちはオチョロ舟で待っている間、飲み物やちょっとした食べ物を
小舟に積んで売りに来る人からお菓子などを買って、花札などをしながら
時間をつぶしていたそうです。
この女性たち、本名で「商売」することはなく源氏名を名乗っていましたが
先の大戦前頃までは
『〇〇千代』
『〇〇奴』
など古風な名前が多かったのですが戦後は
『〇〇子』
と名乗ることが多かったそうです。
前のほうで
『「馴染みの船が入ってくると・・・」』
と書きましたが、女性たちは船に乗り込むと甲斐甲斐しく
船員さんに尽くしていました。
洗濯や繕い物をしたり、時には次の入港時までに
編み物でセーターなどを作ってプレゼントしたりと
それこそ九州の若松を出航した機帆船が文字通り
『競漕するかのごとく御手洗を目指していた』
のです。
このような女性がどこから御手洗に来たのかですが
彼女らが自身の経歴を語ることはほとんどなかったようですが
四国や炭鉱の多い筑豊から来たと見られています。
たいていの場合、御手洗に来るまでに他の場所で女郎をした経験があり、
昭和12年の中国新聞には、17歳の芸妓がその境遇に耐えかねて
服毒自殺した、という記事が掲載されています。
彼女は父親を亡くしたことから6人の兄弟のために尋常小学校6年(11~12歳)
の時、250円の前借金で木江の遊郭で芸妓見習いとなり、15歳の時には
前借金が750円に膨らんで御手洗の遊郭に「くら替え」したのですが、常々
『自分ほど不幸な者はないから死にたい』
と言っていたそうです。
このような女性の事を御手洗の人たちは
『ベッピンさん』
と呼んでいたそうです。
そんな「ベッピンさん」にも2通りのタイプがあるようで
親兄弟の生活費や学費を賄う為に身売りされた「ベッピンさん」は
性格がおとなしいとか優しいと言われ、馴染みの客が付きやすかった
ようですが、別のタイプは身体に刺青を入れたり薬物中毒が疑われる
ベッピンで、そんな人は
『アバレモン』
と呼ばれて人気がなかったそうです。
この後、
御手洗の町で「ベッピンさん」がどの様に見られていたのかなどは
次回、触れさせて頂きます。
『大崎下島御手洗における花街の景観と生活』
から、「オチョロ舟」と呼ばれる船乗り相手の売春制度と
それに携わった人たち、更に地元の人たちがどの様に
接していたのかについて見ていきたいと思います。
まず、「オチョロ舟」というシステムですが
入港してきた船の船員さん相手に一夜を共にするというもので
本来法律で貸し座敷と呼ばれるところでのみ売春を行えるはずでしたが
黙認という形で、沖合いに停泊している船に直接女性を届け
そこで行為を行っていたのです。
具体的には、各『オナゴヤ』(置屋)がそれぞれ「オチョロ舟」を仕立てていて
(中には、複数の『オナゴヤ』で1隻共有していたケースもあったとか)
当日くじ引きで順番を決め、船が入港してきたらくじで決まった順番で
「営業」をかけ、合意に至ったら船に女性を上げて一旦オチョロ舟は戻り
翌日、女性を迎えに行っていました。
しかし、「馴染み」というか「お得意さん」の船が入ってきた時は
くじ順に関係なくその船に行くことは認められていました。
「オチョロ舟」を操っていた船頭さんは「チョロ押し」と呼ばれ、
船側との交渉は「チョロ押し」が行っていました。
交渉が過熱してくると「チョロ押し」は、うまく値段を吊り上げていき
逆に客が付かなかった場合は、稀に自腹を切って料金を割引きしたり
時には自身で料金を負担して女性に客が全く付かないというような事態を
避けていたとのことです。
この「チョロ押し」、
オチョロ舟の船頭の他にオナゴヤの主人の手伝いもしていて
新しく入ってくる女郎さんの引き取りや場合によっては
逃げた女郎さんが見つかった時に身柄を受け取りに
行くようなことをしています。
女性たちはオチョロ舟で待っている間、飲み物やちょっとした食べ物を
小舟に積んで売りに来る人からお菓子などを買って、花札などをしながら
時間をつぶしていたそうです。
この女性たち、本名で「商売」することはなく源氏名を名乗っていましたが
先の大戦前頃までは
『〇〇千代』
『〇〇奴』
など古風な名前が多かったのですが戦後は
『〇〇子』
と名乗ることが多かったそうです。
前のほうで
『「馴染みの船が入ってくると・・・」』
と書きましたが、女性たちは船に乗り込むと甲斐甲斐しく
船員さんに尽くしていました。
洗濯や繕い物をしたり、時には次の入港時までに
編み物でセーターなどを作ってプレゼントしたりと
それこそ九州の若松を出航した機帆船が文字通り
『競漕するかのごとく御手洗を目指していた』
のです。
このような女性がどこから御手洗に来たのかですが
彼女らが自身の経歴を語ることはほとんどなかったようですが
四国や炭鉱の多い筑豊から来たと見られています。
たいていの場合、御手洗に来るまでに他の場所で女郎をした経験があり、
昭和12年の中国新聞には、17歳の芸妓がその境遇に耐えかねて
服毒自殺した、という記事が掲載されています。
彼女は父親を亡くしたことから6人の兄弟のために尋常小学校6年(11~12歳)
の時、250円の前借金で木江の遊郭で芸妓見習いとなり、15歳の時には
前借金が750円に膨らんで御手洗の遊郭に「くら替え」したのですが、常々
『自分ほど不幸な者はないから死にたい』
と言っていたそうです。
このような女性の事を御手洗の人たちは
『ベッピンさん』
と呼んでいたそうです。
そんな「ベッピンさん」にも2通りのタイプがあるようで
親兄弟の生活費や学費を賄う為に身売りされた「ベッピンさん」は
性格がおとなしいとか優しいと言われ、馴染みの客が付きやすかった
ようですが、別のタイプは身体に刺青を入れたり薬物中毒が疑われる
ベッピンで、そんな人は
『アバレモン』
と呼ばれて人気がなかったそうです。
この後、
御手洗の町で「ベッピンさん」がどの様に見られていたのかなどは
次回、触れさせて頂きます。