2005年05月04日

曾我蕭白展+村上華岳展

「円山応挙がなんぼのもんぢゃ!」というキャッチフレーズのポスターが京都の街角に乱舞するところの、先日ご紹介した「曾我蕭白展」(京都国立博物館)に行きました。
 
曾我蕭白、伊藤若冲、そして長澤蘆雪いずれも「奇想の系譜」の作家として近年有名だが、江戸時代の作品はいずれもそうだが、真筆(と思われる物)はなかなか出会えない。ところが、今回の展覧会ではもういい加減にしてくれという位に数が揃っていて、例のグログロの作品からかなり繊細でおとなしい注文画、そして、晩年のやや面白味に欠けるものの、細かい描写の山水画など、非常にバラエティーに富んでいた。
 
そして、最近の博物館の傾向なのかも知れないが、商売気(しょうばいっけ)がいい意味であるのが、良かった。そもそも蕭白をやろうと言うこと自体が大胆かも知れないけれど。
 
例えば、さきほどの「応挙がなんぼのもんぢゃ」のコピーは、蕭白が実際態度に表わしていたことで、表現として間違っていないだけど、「国立博物館」のポスターが、円山四条派すなわち京都画壇の「権威」をこきおろす形になっていることが面白いし、「もんじゃ」でなくて「もんぢゃ」としているあたり、芸が細かい。
 
また、会場の作品の解説文(キャプション)も、いっけんつきはなしたような切れ味が小気味よく、当たり障りのないお飾りでお茶を濁しがちな展示になっていない。これは蕭白という題材がそうさせたのか、狩野博幸という責任者のテイストなのか、おそらく両方だろうけれど。
 
さて、蕭白。
 
この人は権威を笑いこきおろす。仙人、賢者がしばしば出てくるが、釈迦や孔子も含めて、この人たちも普通の人なんだぜ、どろどろしてるんだぜ、きっと、というのが明らかにテーマになっている。応挙を名指しでバカにした、というエピソードもむべなるかな。一方で、自分はどこそこの名家の10何代目の偉い血筋なのだ、とわざわざ落款部分に法螺を書く。法螺も冗談なのか、本気なのかよくわからない。パフォーマンスとしては、権威を笑う一方で、権威を身にまとおうとするポーズをとる。
 
ハナシが飛ぶかも知れないが、この点、テレビタックルという番組をやることで、政治を飲み屋のおじさんの与太話レベルで語ろうぜ、と考えたというビートたけしを思い出す。一方、たけしはこのたびあの「芸大」の教授になった。権威を笑い、権威を身にまとう。身にまとったこと自体も「笑い」のネタにも一応するが、やはり権威は欲しいらしい。
 
たけしは繊細だが、蕭白も繊細である。30代の絵の多くが、過剰のうえに過剰に、岩塊がガサガサと画面をうめつくし、松などの大木が有らぬ方向にウネウネとのたうち、波頭は(なぜか若冲とこの点似ているが)、屈折して固まり、およそ「自然」な描写とはかけ離れて、鑑賞者がどこまで耐えうるか挑発しているようでもあるが、一方で、どの絵を見ても、構図といい、金泥や絵の具の置き方といい、「手抜き」あるいは「優柔不断」と見られるような粗雑さとは無縁である。粗雑を装った繊細さ。(別にこのこと強調したいわけではないがたけしと似ている)
 
そして、権威といいますか、先人を実によく研究しているはずだ。そうでなければあれだけの画題と構図、筆法の引き出しがあるはずがない。そして牛が何故か抜群に巧い。前、後ろ、横、どこからでも描ける。ひっぱられまいと抵抗する牛、犬のように従順な牛、どっかりと知らぬふりの牛。さまざまな表情もあり極めてリアルである。かなり写生もしたはずだ。
 
だが、蕭白は楽な作家だったような気がする。それは彼の「権威主義」である。彼は権威を笑い、一方で、権威を求め、そこで自分の地歩とプライドを固めた。だがそこにはあらかじめ「権威」がなくてはならない。それが応挙であり、賢人たちであったかもしれない。だけど蕭白は酒飲みだった。あんまり難しいことは考えないで、飲んで遊んでいることの方が大事だったかも知れない。だから自分が権威を笑いながら権威によりそって生きているとかいう皮肉とかややこしいことは考えなかったか。
 
 
そんなことを思ったのは、このあとに、京都近代美術館に移動して「村上華岳」展を見たからである。
 
村上華岳は明治に生まれ、大正時代と昭和の前期に仕事をした。彼の絵には内面を深くたどった聖なる輝きが沈潜していて、極めて熱心なコレクターがいることもうなずける。画商の評価も高い。大観、玉堂、あたりが日本画で一番わかりやすく有名だが、最も尊敬されているのはこの華岳と、速水御舟であろう。
 
彼の絵は、しがらみを離れてひとり人間としての本当の完成をはかろうとする真摯な試みを映している。昭和に入って養父の家督をついで家賃収入が入ると画壇との交流も断ち、独自の心境を探ろうとひとり制作に励んだ。孤独な戦いだったらしい。さもあろう。
 
かれの絵には、他の誰かに反発するとか、裏をかくとか、反対に何かに追随する、というような心の働きが感じられない。「女」あるいは「菩薩」そして「山」に潜む聖なる働き、それは多分「死」の彼岸と関係有るだろうけれど、ひとりで深くに往こうとする覚悟が感じられる。
 
この華岳の世界を見ると、「権威」のまわりでトリックスターを演じ、酒を食らった蕭白は楽ね、と思う。ただ楽なのが悪いわけではない。


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