2022年04月16日
値上げ。
多分これは、私が私自身の価値を低く見積り過ぎてることに起因していることだから、そんな自己肯定感の低い人間の僻みだと思ってくれればいい。
なんて前置きしたらUターンして帰ってもらえるだろうか。
読んでほしくないなら誰にも読まれないところに吐き出せばいいのに、ここに記すのだからそれはつまりは誰かしらには読んでもらいたい(そしてあわよくば、わかってほしい)という欲があるからで、
ああ、矛盾してんなぁ。と。
これは今に始まったことではなく、チケットの値段が高騰し始めた頃からずーっとそうだ。
チケットの値段が全てではない。そんなことはわかっている。
私が学生の頃、観に行く小劇場のチケットは大体3,000円だった(一般チケットの値段で学割はもっと安かった)
大人の、演劇の先輩方のつくる作品は、
当時の私にはとてもとても憧れであったし、
素晴らしいと感じる公演もたくさん観た。
それらを今みたらどう映るかはわからないけど、
とにかく当時の私には眩しかったのだ。
だから。
私にとっての一人前は3,000円。
という価値観のままで半分くらい止まっている。
24歳の時。はじめてチケット代3,000円で公演をした。
全然足りてない、と思って、次の公演からまた3,000円以下に戻した。
予算が足りないとか、赤字が出るとか、
そういうことではなくて、
自分が3,000円という価値に見合った作品をきちんとつくることができているか?ということが焦点だった。
で。再びチケット代3,000円で公演をしたのは、27歳の時だった。
ようやく、見合った作品を作れたと思った。
その頃にはもう、3500とか3800とかが普通の時代だ。
で。更に時は進み、色んな物価も上がり続ける中で、
小劇場の公演のチケットアベレージも4000円の大台に達した。
値上げそのものが悪ではない。
ありとあらゆるものが、企業努力でどうにもならず、値上げに踏み切っている。
しかしその中で小劇場の値上げ割合は、正直常軌を逸していると思うが。
その社会の金銭価値の基準にアップデートできないまま来ている私が基本的には悪い。けど、
いやいや、君たち、
本当にそれだけの値段の価値ある作品つくれてる?と、
思わず投げかけたくなってしまうような時も一度や二度ではない。
一方で、
いいな、そんな簡単に自分に値札をつけれるなんて、羨ましいな。という思いもある。
でも、大抵は。
ふざけんなよ、このチケット代でこの程度のものかよ、とひとりごちて劇場を出ることの方が多い。
多くの公演のチケット代は、付加価値によって値上ってしまった。
だからその付加価値が付加でもなんでもない私にとっては、ただただ作品そのものの価値が金額に見合わないだけ、という現象なんだろうと思う。
そういう意味では逆に、
私なんぞに付加価値などつけられない、という自己肯定感の低さは足枷でしかないということもわかっている。
さて。
来月、一つ公演をつくる。
私にとって、図らずも、はじめての4,000円。
物おじはしてない。
きちんと、その価格に見合うだけの作品をつくろう。
無理だともできないとも思わない。
自分でその価格に設定することはできないけど、
その価格ですって言われたら、やれるんだな。
そういう意味では。私に必要だったのは、きっと。
こういう機会だったのだろうと思う。
とはいえ、
私にとって、今の小劇場界のスタンダード(と一括りにしてしまうとその基準は一体なんなんだってなるけど)は、
こわいことばっかりです。
2021年12月31日
2021年。
2021年が終わります。
10代の頃の大晦日の記事には毎年
「たくさん出会った、別れはまだ少ない。」
って書いてあって、
確かにそうだよな。と振り返ってみる。
今に比べたらそりゃ10代の頃なんてまだまだ新しいことや学ぶことや、
発見や出会いの連続で、
寂しさはあれど、失うことや別れの数は数えるほどしかなかっただろう。
30代になった今。
別れはあの頃よりいくらか増えた。
出会いだってもちろんたくさんあるけれど。
たくさん出会った、なんて胸を張って言えるだろうか。
1月。
緊急事態宣言で仕事もほとんどなく、
昨年の傷も癒すつもりで、ガッツリ休養。
こたつでゲームしたり、寒空の中公園に行ったり。
2月〜3月。
演劇博覧会と春フェス。
こんな状況の中でも公演をする人たちの、
演劇が好きだという思いに触れられてよかった。
4月〜5月。ふちかざり。
まだまだと感じる部分もたくさんあるけれど、
それでもインプロを「質の高いところで楽しむ」ことが、
少しはできるようになってきたんじゃないかと感じた。
あーもっとやりたいなあ、と思うことがあるのはいいことだ。
6月。
引越しをした。
がんばったな、
6月〜8月
青の素。
本当にさ、虹が公演は必ず感染者増の波にぶつかる。
昨年の夏の青の素は第2波、失恋博物館が第3波、そして今回第5波。
公演するたびにしんどい思いをして本当に死にたくなった。
作品のクオリティとか、演劇の楽しさとか、子供達の成長とか、
もうそんなの全部吹き飛んでしまうくらい、気を遣う辛さ。
何が正しくて何が行けないのかの判断というか、
ああ、もうやめよう。
8月〜10月と、2ヶ月。
非常勤で母校の教員として働いた。
夏季集中講座を受け持った。
ホールのメンテナンスや新しくできたスタジオの整備などした。
こうして母校に教員として帰ってこれたこと。
舞台芸術科新設という新しいスタートに少しでも携われたこと。
嬉しく思う。こうしてお声をかけてもらえたのも、
なんだかんだ、続けてきたからこそだし、
それなりに勉強してきたからだし、それを教えることを前提に努めてきたからだ。
ちゃんと積み重ねてきたことが、少しでも成果として形になってる。はず。
毎年、青の素が終わって秋になると、
大体精神病むのがここ数年のお決まりだったんだけど、
今年は元気だったな。
10月くらいから、イベント関係の仕事も少しずつ戻ってきた。
9月には音響操作を、12月の頭には照明操作を。それぞれ任せてもらえた。
12月。
失恋博物館。
楽しかった。
気がつけば、お客様の前に役者として立ったのは1年ぶりだった。
演劇で負った傷は演劇でしか癒せないと思った。
本当に楽しかった。
やっぱり芝居が好きだと思った。
役者はお客様からエネルギーをもらい、
お客様もまた作品を通して役者から熱を受け取る。
そんな相乗効果に溢れた空間だった。
生だからこそ。一体となっているからこそでしか味わうことのできない感覚。
ああそうそう。芝居って、こうだったよな、って改めてるよく感じた。
これから、福山雅治が歌います。
大好きな「道標」
人に出逢い 人を信じ 人にやぶれて
人を憎み 人を赦し また人を知る
愛に出逢い 愛を信じ、愛にやぶれて
愛を憎み 愛で赦し また愛を知る
ああ、
こうやって生きていくのだなあ。
こうやって生きていくしかないんだ。
さて、時計の長針がもうあと半周すると、新しい年がやってきます。
人々は歌います。
私も歌いましょう。
来年も宜しくお願いします。
今年出逢った全てに、感謝の気持ちを込めて。
ありがとうございました。
来年は、
また新たな出逢いと共に、
久しく縁のない人達と、また繋がれたらいいなって、
強く思います。
かつて、憎んだり、傷ついたりして手を離してしまったりしたけれど、
そんな自分自身を赦して、
また手を伸ばしてみなくちゃなと思います。
何度傷ついても、
何度哀しんでも、
結局は、愛せずにはいられないから。
何度でも。何度でも。
2021年03月15日
君が感じさせてくれるもの。
何かを成すには人生は短く、
何も為さぬなら人生は長い。
と云うように、
誰かの為に生きるには人生は短く、
自分の為だけに生きるには人生は長い。
ということを感じさせられています。
感染症拡大防止に伴う自粛等により、
公演も仕事も遊びもめっきり減ってしまい、
図らずも、家にいる時間が増え、半育休みたいな1年になりました。
多分、今まで通りの日常だったら、
多少意識して家にいる時間をつくったにせよ、ここまで増えることはなかったろうと思います。
父親になってからというもの、
自分の時間を自分の為だけに使う、ということができなくなりました。
おむつを替える、ご飯を食べさせる、着替え、お風呂、歯磨き、寝かしつけ、
お散歩をして、公園に行ってあそんで、絵本を読んで、積み木を積んでは壊して、
子供と過ごす時間…子供の為に使う時間が出来、
その時間は当然、自分の為には使えません。
今まで、ぼーっとし(ながら作品の構想を練っ)たり、
台本を書いたり、映画を観たり、体力回復のために寝たり、
あれやこれや作業したりと、
自分が思う時に自分のやりたいことをやっていた時と比べて、
今日の夜台本書こう、と気合を入れていても、
そういう日に限って寝かしつけに時間がかかったり、
やっと寝たと思ったら今度は自分がくたびれて眠たくなってしまったり、
予定が狂う、思い通りにいかないというのは、
子育てをする人みんなが一番感じているストレスだろう。
とにかくひたすら忍耐が必要だなと思う。
とはいえ、それでも多分うちは他に比べてそのストレスは少ない方だと思う。
概ねいい子。だから、時々虫の居所が悪い日も、
そういう日だと割り切って過ごす。
私自身、余裕をつくるために、
他のことに費やす時間、とりわけ演劇にかけていた時間を、
思い切って削った。
多分だけど、おそらくは多くの人が、
今までと同じように働いて、
今までと同じように生活する中に子育てを組み込んだら、
そりゃストレスも溜まるしパンクもするわ。
子育てするなら時間の使い方を子育てモードにしなくちゃいけないのだろう。
でもそれが簡単にできたら誰も苦労しないよね。
当然のことだが、収入、激減中。
(どちらかといえば理由は育児ではないけれど)
働かなくちゃ養えない。
でも働きながら育てるには時間も体力も余裕も足りない。
そうやって多くの人が板挟まれて苦しんでる。
あともう一つは、今の社会のアップデートの早さ。
どちらかといえば私はこっちが恐怖。
私が休んでいる間にも、
演劇を取り巻く環境は目まぐるしく変わっていく。
新しい技術、トレンド。
身近な仲間は経験とスキルを積んで新しいチャンスをつかんでいく。
足踏みをしている私は取り残されていく気がしてならない。
果たして追い付けるのか。焦りが積もって仕方がない。
昔なら、1年休んで復帰したってそれほど変わっていなかったことだろう。
でも今もし1年休もうものなら、アップデートの速度が凄まじく、
復帰した時には浦島太郎状態に近いだろう。
そういったことが、会社だとより一層強く感じられるだろうから、
育休なんてとても怖くて怖くて取れないのだろう。
その遅れが、その先のキャリアや稼ぎに大きく響くことになろうものなら、
やっぱりうかうか休んでいられないと不安を煽る事になる。
けどね
子供と過ごす時間は、他の何にも替えられない。
毎日のように一緒にお風呂に入るけど、彼は毎日違った遊びをする。
このお風呂という狭い空間で、よくもまあこんなにも楽しむ術が、
次から次へと湧いて出てくるなあと、その楽しみ方の豊富さに、
驚きを通り越して感心する。
朝が来る度に、昨日までできなかったことが急にできるようになる。
世界が自分が見ている景色とは違って見えることを教えてくれる。
近所のスーパーまで買い物に行く。
自分1人なら、片道5分。買い物時間も含めて15分あれば帰ってこれる。
一緒に行くと、スーパーに着くまでに20分は平気で超える。
砂利の駐車場で自分のお気に入りの小石をひたすら探して、
側溝を覗き込んでは流れる水の音を飽きずに聞いて、
カラスが森の方へ帰っていくのを目で追いかけて、
自分が歩くのと一緒に踊っている影と遊んで、
小さい段差を上ったり下りたりを繰り返して、
交差点では必ずバスが1台通り過ぎるのを待つ。
自分の為だけに生きるなら、
パッと行って帰ってきて、残りの時間で他のことも自由にできる。
自分が子供にかけてる時間を費やして他の人は進歩している。
この時間で自分のキャリアも稼ぎも一切アップしない。
焦らないわけがない。
けど、この子と過ごす時間がかけがえのない時間であることは、
まごうことなき事実だ。宝物だ。
彼がね、バスはまだかなーって通りの車を眺めている目は、
どんな宝石よりも純粋で美しいし、
バスが来た!って輝かせる目は、とてもとてもまぶしい。
そのことに気づけないくらい、
余裕が無くて自分のことばかりに必死になってしまってる人も沢山いる。
もっと社会全体が、ゆっくり生きれたらいいねって強く思う。
そしてそのことを私たちに教えるために、
かわいい天使たちは生まれてくるんだと思う。
自分の為だけに時間を使いたい!!!!!
って思う瞬間もたくさんある。けど、
じゃあこの先死ぬまで、自分の為だけにしか時間を使えないとしたら?
って考えるとそれはとても寂しいことだと思う。
自分以外の誰かの為に時間を使えるということは幸せだと、
もっとちゃんと、かみしめられたらいいと思う。
2021年03月14日
セップク、ハラキリ。
タイトルが穏やかでない。
良くも悪くも、この国を象徴する文化なのかもしれない。
いや、良くはないか。
悪しき風習でしかない。
この国は、セカンドチャンスが非常に少ない。
誰かが過ちを犯した時に、挙って叩く文化がある。
反省して、償いをして、
もう一度やり直そうとした時に、
社会復帰することをよしとしたがらない、受け入れたがらない風潮がある。
SNSが普及してから顕著になったと思われがちだけど、
多分、その国民性は遥か昔から遺伝子レベルで根強く遺っていたのだろうと思う。
この一年、特に「責任」という言葉が蔓延った。
中身のない「責任はどう取るつもりですか」という言葉には、
おそらく無意識レベルで、切腹の意が含まれていたように感じる。
だってそうじゃなかったら、もっと具体的な内容で、
責任という言葉が取り扱われているはずだもの。
それができていない時点で、この国の民族には、
肉体的、もしくは社会的死を以て償うというDNAが存在している証だろう。
だからこそ逆に、この国の少なくない人間が、
執拗なまでに責任逃れをしたがるのだろう。
完全なまでに隠し通そうとしたがるのだろう。
ものごとや生き方に対する姿勢は、
そう簡単に人間、変えられるものではないし、
その部分に関する合う合わない、寛容不寛容は私はきっと厳しいと思う。
でも、ミスや過ちに対しては、
いくらでも正せる。変えられる。取り戻せる。そう思う
から、出来る限り寛容でありたいってずっと思っている。
ということでやっと本題。
かつての仲間が、雲隠れの後、別の場所で浮上した。
次から次へと新しいことを始めては、
何一つやり遂げることなく、全て中途半端のままで投げ出しきてきたような人だ。
だから正直、前回また新しいことを始めた時に、
どうせまた途中で投げ出すのだろうと思っていたし、
実際本当に途中で投げ出したことを知った時も大して驚かなかった。
むしろ、ああやっぱりな。としか思わなかった。
でも外面だけはいいし、口もうまいから、
うまいこと乗せられて騙されてしまう人たちも少なくなくて、
早く気づけばいいな、って思ってたけど、
やっぱりこうして被害に遭うのをみると、本当にかわいそうだなと思う。
で、暫くの潜伏期間を置いて、活動再開したらしい。
今までの関係の多くを断ち切って、新しい場所で新しいことを始めているようだ。
やり直すことは全然構わない。失敗なき挑戦などないのだから。
そして挑戦をせずに生きるには、人生は長い。
失敗はしてもいい。
何度やり直したっていい。
でも、学習しない姿勢や、誠意のない姿勢は、
私は別にもう何も感じていないけれど、みんなが怒っているのもうなずけるよね。
2021年03月07日
愛のバケツに穴が開いている。
カウンセリングの途中です。
身体的負傷が1日で治癒しないのと同じで、
心も1日で劇的に変わるようなものではない。
底が抜けちゃってるから、
もらった愛が全部こぼれ落ちていってしまってるね。
という診断を受けた。
ああ、まさに。
心当たりがありすぎて色々と腑に落ちた。
私なんかが愛されるはずない。
という、きっと少なくない人が感じたことのあるだろう思い込み。
それが今は極端に強くなっていて、
その自己暗示が、与えられている愛さえも受け付けなくしまっている。
私は自分が人付き合いが不器用なことも知っているし、
何かと損を被る性格をしていることも知っている。
だから他者からよく思われないことも多いし、
それで人が離れることも多い。
から、私の中には、やっぱり大前提として、
よく思われない=愛されないが自己評価の大部分を占めている。
基本的にそういったものを抱えて生きているところに、
大打撃を与えたのは、やっぱり、今振り返ると、
劇団員の一斉退団のところだ、ということに帰結する。
あの時、公演を中止にすること、その発信や後処理、
劇団員の退団に際する引き継ぎや後処理に追われて、
きちんと哀しむことができていなかったんだなあ。
それがずーっと心の隅でぐじゅぐじゅになって、
傷がちゃんと癒えないまま、硬い瘡蓋になってる。
っていうところまで来た。
だから、まずはここの涙を流しきらなくちゃいけないんだけど、
まだ全然泣けない。
私のすぐそばには、所謂「やらかしキャラ」がいて、
実際のところどうかとかそういうのは置いといて、そういうイメージを持たれている。
けど、愛されキャラは特である。ゆるされるから。
事実、ゆるされながらここまで来ている。
対して、
もうここで、「対して」という言葉を自分で使ってしまうくらい、
私たちは対なのだ。
自分が思っている以上に、周りはそう思っていることだろう。
彼が「やらかす」を持ってる代わりに、
私は「やらかさない、ちゃんとしている」というイメージをもたれている。
それが呪縛のように私にまとわりついている。
やらかしてはいけない、ちゃんとしてなくてはいけない、失敗してはいけない。
彼が「ゆるされる」を持ってる代わりに、私は「ゆるされない」を担っている。
ミスを許されない(と思い込んでいる)
実際許されない(よく思われない、そして離れる)ことも多々あった。
責任を被る立場、というものきっとある。
自分が「ゆるされない」と思いこんでいるということは、
「ゆるせなくなる」ということにつながる。
自分がゆるされないのだから、君もゆるされなくて然るべきだ。
というのは、私自身のみならず、社会全体が抱えている癌でもある。
そして、人を許せない自分のことをますます許せなくなる。
自分を一番許せていないのは自分自身だということもものすごく感じている。
彼が「それでも愛される」を持ってる代わりに、
私は「だから愛されない」を抱えている。
無い物ねだりばかりしてしまう。
人を羨む自分のことをまた許せなくなる。
螺旋を描いて落ちてゆく。
とにもかくにも、
この穴の開いたバケツをどうにかしないと、
私はいつまで経っても愛を受け取れない人間だし、
受け取れないということは、与えられないというのもまた事実。
内側から塞ぐ努力も必要であれば、
外側から覆う助力も必要であるだろう。
それでも愛してる、に助けられてきたのだろうけど、
人と顔を合わせることがめっきり減ってしまって、
それに触れられなくなってしまった1年であったのもきっと大きい。
擦り傷や切り傷を消毒したら、傷口に染みる。
虫歯を直すには、虫歯の部分を削らなくちゃいけない。
癌になったら、癌細胞を摘出する。
痛みを直すには、痛みに触れなければいけないのだ。
心の痛みと向き合うのは、当然ながらとても痛い。
自分のことながら、目を背けたくなる。
欠陥だらけ故に、傷だらけになるのは、
そしてそれに向き合わなくちゃならないのは、
まったくどうにもまいっちゃうぜ。