2013年11月

 1941年12月大東亜戦争開戦のラジオ放送があった「帝国陸海軍は本8日未明西太平洋において米英両国と戦闘状態にいれり」という。大本営発表のものであったが、特段の感想を持つには幼すぎた(8歳)。
 1942年4月18日、米軍機B25による本土初空襲があり、東京その他の都市が爆撃された。開戦後わずか5か月後であった。北九市小倉区も爆撃されたので、父と爆撃後を見に行ったが、小型爆弾のためか、あまり戦争の実感はなかった。
 その後もときどき空襲があったので、1944年の3月、私だけが母親の父母(祖父母)が疎開していた福岡県京都郡豊津村に、疎開することとなり、国民学校も転校した。
国民学校在校中に必須であったのは、教育勅語と神武天皇から今上天皇までの全天皇の名前を暗誦することで、ときどき、テストされた。
 また、10里行軍といって、冬素足で、20キロの道往復を6年生全員が、軍歌を歌いながら、歩き通すという鍛錬もあった。軍歌は、露営の歌、広瀬中佐(日露戦争)、抜刀隊(西南戦争)などであった。4年生からは道場で、剣道を習った。
 これらのことは、今でも記憶しているし、身についている。
勤労動員としては、サツマイモつくりや松根油をとるための松の根っこほりであった。松根油は軍用の燃料に使用された。
 疎開中の生活では、銭湯が混んでいて、お湯が汗臭かったこと、しらみが伝染して、祖母が衣服をドラム缶の熱湯で煮るなど、大騒ぎだったこと。
食糧量不足となり、一升瓶に玄米を入れて竹の棒で何百回もつついて精米をしたこと、電極を両側につけた手製のパン製造きで、停電騒ぎを起こした、手回し式の製麺機で、うどんを作ったこと、芋、野菜などの畑作りをしたこと、イナゴのから揚げを食べたことなどを記憶している。
 また、郵便局が家のすぐ前にあったことから、少年航空兵の切手などを買って、これが60年後の収集切手でのお宝鑑定団の出演につながっている。
 1945年の春、国民学校を卒業して、親元に帰り、旧制中学に進学した。
このころになると、「戦局我に利あらず」で、勉強よりも学徒動員で、軍事用のトンネルを掘る仕事に駆り出され、なぜか、ダイナマイトに信管をつける危険な作業をさせられた。この時の知識が、また10年後、労働基準監...督官になった時に役に立ったのである。
 学校では、軍事教練が盛んで、木銃(銃剣を付けた歩兵銃の形をした木)で、銃剣術の訓練をさんざんやり、本土決戦の白兵戦に備えていた。
 38式歩兵銃という実銃で、照準の付け方も訓練されたが、弾丸は不足していたので、狙うだけであった。そのときに、「引き金は闇夜に霜が降りるように静かに引け」なども教えられた。
 幼年学校という中学世代の軍学校もあり、志願者の募集もあった。
 この年には、北九州も焼夷弾の絨毯爆撃で、焼け野が原となっていた。
 空襲の後、徒歩で通学したが、焼死体が散乱し、横穴式の防空壕に入っていた多くの人が、窒息死していた。   馬の死骸もあった。
後で聞くと8月8日の長崎に投下された原子爆弾は、最初の候補地が小倉だったそうで、曇り空のおかげで命拾いをした。
8月15日の敗戦の詔勅は、幸い焼け残ったわが家で聞いたが、宣言を受諾するというのがなんのことか解らないので、しっかり戦えと陛下自身がおっしゃたのかと思った。

私の昭和史1
 私は1933年の生まれである。ということは、敗戦の年は194
5年なので、12才で、旧制中学校の1年生であった。戦中派の最後の世代である。そこで、その後50年あまりの、忘れがたいものがたりを、残しておきたいと思い。これから、連載するので、ぜひ読んで欲しい。
 まず、私のバックグラウンドは、父は旧制中学校の地理、歴史。公民の教諭、母は旧制女学校(女子の中学校)の教諭で、当時の普通の階層に属していた。士族と平民の分類では、平民であった。出生地は今の北九州市八幡区で、母の実家で産婆さんの手で生まれた。
1931年に満州事変が起こり、続いて支那事変、満州国建設と第二次世界大戦の幕わけの時代であった。
 当然、軍国少年として教育を受けたわけで、1939年に入学したのは尋常高等小学校で、国語の教科書はサイタ、サイタ、サクラガサイタ。ススメ、ススメ、ヘイタイススメから始まった。のちに国民学校と名称も変わった。
学校には、奉影殿という天皇、皇后両陛下の写真が収められた小さな祠があり、この前では必ず最敬礼をすることとなっていた。そのほかに二宮尊徳の石像があり、「芝刈り、縄ない、草鞋を作り•••」という唱歌とともに、勤労精神を植え付けられた。
 小学校入学以前は、太平洋戦争(戦中は大東亜戦争と呼んだ)開戦以前であったので、生活もふつうであり、1939年の夏休みには、リオデジャネーロ丸という旅客船にのって、満州国奉天市の親戚に、母親と遊びに行った。その際、大連駅や旅順港、203高地、水師営の会見地(いづれも日露戦争の記念地)を見物して、南満州鉄道のアジア号という最新鋭の特急列車に乗った記憶がある。旅客船の寝台から転落して鼻血をだしたという笑えぬ記憶もある。写真は1938年と1939年のものである。
(以下続く)

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