私の昭和史1
私は1933年の生まれである。ということは、敗戦の年は1945年なので、12才で、旧制中学校の1年生であった。戦中派の最後の世代である。そこで、その後50年あまりの、忘れがたいものがたりを、残しておきたいと思い。これから、連載するので、ぜひ読んで欲しい。
まず、私のバックグラウンドは、父は旧制中学校の地理、歴史。公民の教諭、母は旧制女学校(女子の中学校)の教諭で、当時の普通の階層に属していた。士族と平民の分類では、平民であった。出生地は今の北九州市八幡区で、母の実家で産婆さんの手で生まれた。
1931年に満州事変が起こり、続いて支那事変、満州国建設と第二次世界大戦の幕わけの時代であった。
当然、軍国少年として教育を受けたわけで、1939年に入学したのは尋常高等小学校で、国語の教科書はサイタ、サイタ、サクラガサイタ。ススメ、ススメ、ヘイタイススメから始まった。のちに国民学校と名称も変わった。
学校には、奉影殿という天皇、皇后両陛下の写真が収められた小さな祠があり、この前では必ず最敬礼をすることとなっていた。そのほかに二宮尊徳の石像があり、「芝刈り、縄ない、草鞋を作り•••」という唱歌とともに、勤労精神を植え付けられた。
小学校入学以前は、太平洋戦争(戦中は大東亜戦争と呼んだ)開戦以前であったので、生活もふつうであり、1939年の夏休みには、リオデジャネーロ丸という旅客船にのって、満州国奉天市の親戚に、母親と遊びに行った。その際、大連駅や旅順港、203高地、水師営の会見地(いづれも日露戦争の記念地)を見物して、南満州鉄道のアジア号という最新鋭の特急列車に乗った記憶がある。旅客船の寝台から転落して鼻血をだしたという笑えぬ記憶もある。写真は1938年と1939年のものである。
(以下続く)
私は1933年の生まれである。ということは、敗戦の年は194
まず、私のバックグラウンドは、父は旧制中学校の地理、歴史。公
1931年に満州事変が起こり、続いて支那事変、満州国建設と第
当然、軍国少年として教育を受けたわけで、1939年に入学し
学校には、奉影殿という天皇、皇后両陛下の写真が収められた小さ
小学校入学以前は、太平洋戦争(戦中は大東亜戦争と呼んだ)開戦以前であったので、生活もふつうであり、1939年の夏休みには、リオデジャネーロ丸という旅客船にのって、満州国奉天市の親戚に、母親と遊びに行った。その際、大連駅や旅順港、203高地、水師営の会見地(いづれも日露戦争の記念地)を見物して、南満州鉄道のアジア号という最新鋭の特急列車に乗った記憶がある。旅客船の寝台から転落して鼻血をだしたという笑えぬ記憶もある。写真は1938年と1939年のものである。
(以下続く)
コメント