ちょいと思ったこと
2013年04月01日
国民国家とメディアは表裏一体の共犯関係であり続けてきた〜BBC訪問記
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ロンドンBBCを訪問させて貰う機会があったので、これからしばらくBBCを取り上げつつ、メディアと国民国家の関係性について考えてみたい。
MEDIA MAKERSでも繰り返し書いた、私の持論であるが、メディアと実世界とは表裏一体である。
メディア業や金融業のことを「虚業」という人もいるが、そんな人は何も分かっていない。虚業と実業は常にワンセットなのだ。昼があれば夜があるように、陸があれば、海があるように・・・。
金融資本家を排除したはずの、共産主義のご本家たる旧ソ連にも国営だが「銀行」はあった。およそマトモな近代国民国家で、運営や所有の形態は別にして、「銀行」のない国家は存在していない。同じように、通信社や新聞社のようなメディア組織が存在しない近代的な国民国家というものは全く考えられない。
「言論・報道の自由」を政府が尊重しているとは思えない中国にも、新華社通信があり、旧ソ連にもタス通信があった。そして、これらの国営通信社から配信されてくる記事や報道内容は、そのまま、それらの国家の意志に基づいた「公式発表」に準ずるものと思われていた。また、太平洋戦争下の、いわゆる大政翼賛体制では、朝日新聞や読売新聞など、多くの新聞が「大本営発表」をそのまま垂れ流し、戦意高揚のプロパガンダの中心にもなった。
つまり、通信社や新聞社、テレビ局のようなニュースメディアと国民国家とは、常に表裏一体の存在であり続けてきたのだ。
この辺りの議論は、ナショナリズムの起源を解き明かした古典的な名著と言われるベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」に詳しい。
彼の議論によれば、「国民」とはイメージとして心の中に描かれる「想像の共同体」なのだ。そして、国民国家とは、会ったことすらない人々と自分との関係を、血縁関係や友人関係のような具体的な人と人とのつながりとしてありありと想像する能力に裏打ちされて成り立つものである。
例えば、尖閣諸島近辺で、中国公船と、海上保安庁が小競り合いの銃撃戦を展開したうえで、不幸にも海保の職員が命を落としたと仮定しよう。そのときに殉職した海保の職員のことを、日本国民の大多数が、別に会ったこともない、自分とは縁もゆかりもない人物だから、「そんなの関係ねえ」と思うようでは、国民国家としての日本は立ち行かない。
「想像の共同体」の住民同士の関係性は、太古からの村落共同体や、専制王国の住民が持つ共同意識とは大きく違う。上記のような事件がある場合に、その海保職員と自分が遠い親戚だ、とか、実家が近くて同郷だ、とか、同じお寺の檀家だ、とか、同じ高校の卒業生で先輩・後輩だ、とかいうような血縁や地縁や宗教といった媒介を全く抜きにしても、その死に対して「憤れる」「憤れてしまえる」ということこそが国民国家を「想像の共同体」として成立させるための条件なのだろう。そして、このある意味では奇妙な連帯感を成立させる鍵として、マスメディアや出版、国民文学や国民作家が存在してきた。
例えば、標準化された言語による出版物の発行と流通がなければ、同じ言語を用いる人々がその言語圏に「所属」するという共通認識は生まれ得ない。具体的に言えば「日本人」が用いる言葉から最大公約数を取り出して標準化し、現代の「日本語」が出来たのではない。まず先に出版なり、メディア上で流通するために人工的に標準化された日本語が規定され、それを流布し、慣れ親しませることによって事後的に「日本人」が生まれたというのが、ベネディクト・アンダーソンの主張だ。
想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ) [単行本]
BBCはイギリス国王の特許状に基いた独占的な国策会社として設立されてきた公共事業体である。
その意味では、イギリスという国民国家と、BBCという組織とは切っても切れない一心同体の縁であるはずだ。ところが、メディアの興亡について戦争報道という国民国家の存亡に関わる非常事態においてでさえ、BBCの歴史は少しツイストした展開を見せてきたのだ。
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2013年03月10日
『「高感度な消費者」という言い方は消費者を馬鹿にしている。』〜田端発言録:【パネルディスカッション】2013年の展望 時代をつかむ高感度層はどこに?
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その会員向けの紹介サイトの中から田端の発言部分だけを主に紹介させてもらう許可を頂きましたので転載して紹介します。今回のディスカッションに限らず、色々と面白いイベントを主催されているようですので、ご興味をお持ちになった方は是非、MarketingEyeにご加入くださいませ。
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【パネルディスカッション】2013年の展望 時代をつかむ高感度層はどこに?
■パネリスト:
NHNJapan 執行役員 広告事業グループ長 田端信太郎氏
マガジンハウス『GINZA』編集長 中島敏子氏
高感度層は、何処にいるのか
田端信太郎(以下、田端):高感度の「感度」は、感じるということで“アンテナ感度”みたいなニュアンス。あくまでも一般消費者は、感じるだけであって発信はしていない。君の家のアンテナは、テレビの電波をよくキャッチする性能のいいアンテナだ、といった意味であって、「受け手に過ぎない」という、多少見下しているニュアンスがあるのかなと。学校の先生が褒めるような「物わかりの良さ」とか「優等生」みたいな感じが含まれていて、「あなたは、高感度層だ」と言われても嬉しくないんじゃないか。リテラシーの高い人ほどバカにされているのではないかと感じると思う。今は、マーケッタ―側も企業側もブランド側も、一般ユーザーと同じ地平の上にいるので、感度が高いという言い方自体がどうなのか。「我々は答えを知っている」「我々がトレンドを作っている」と過信して、「あなたは、さっさと気づけて賢い」というバカにしたニュアンスを含んでいるので、「高感度層」という言葉がどうなんだろうということが、自分なり腑に落ちた(笑)。高感度層というのはどんな人達なのか?
田端: さきほども出ていたスティーブ・ジョブズの黒いタートルにジーンズのファッション。あれは、どうにも変わりようがない。どんなファッションブランドの招待状を送っても来ないだろうと(笑)。もう少し若い世代の人でも、ザッカーバーグはずっとパーカーだ。すごいお金持ちなんだから、もう少しちゃんとした格好をしたらと言っても変わらないだろう。今のパワーユーザ―は、自分に関係のないことをシャットアウトする能力が高い。自信を持って俯瞰していられるほど洗練された消費者で、感度を高めないといけないのは、企業の方なのではないか。今、そんな気がしてきた。田端:感度の高い、パワーのある消費者ほど“メディアにのせられてたまるか”というセンサーが常に働いていると思うので、更にツイストした感じでうまくのせていかないといけないのかなと。ネットサービスの先端の中でも、ユーザーがサービス提供者の思っていなかった使い方を発見する。例えば『ニコニコ動画』では、すごくいいシーンで後ろの画が見えなくなるくらい何万人が一気につぶやいたり。LINEのスタンプだけでコミュニケーションするということも、そのひとつだ。そういった遊べる余地を残しておくのも、すごく大事ではないかと思う。
田端: これまでのマーケティングは、このトレンドにのらないとダメ…(たとえばフェイスブックやツイッターなら)フェイスブックやツイッターを始めないと流行に遅れますよ、と言って煽られて、もっときつい言葉でいうと脅迫的なものもあったかと思う。バブルの頃に、「このシティホテルを予約しないとダメ」みたいな、『ポパイ』や『ホットドッグプレス』的な分脈があったように(笑)。今でも、ネット系のマーケティングには多いと思う。「御社も早くツイッターを始めないと、競合にやられますよ」と。マスでLINEを使ってくれている層は、“使いたいから使っているだけ”という自発的な層だ。一部、煽られて使う層もあるかと思うが、長続きはしない。楽しいから、便利だから、長く使う、という層をどれだけ捉えられるかというのが本質だと思うから。メディア自身が大衆を手のひらで操作するという発想自体、今は機能しないと感じている。
田端: 今でこそ、スマートフォン、スマートフォンと誰もが言っているが、iPhone・スマートフォンが出だした頃の日本はフィーチャーフォンの、いわゆるガラケーの文化がものすごく発達していて、iモードで占いや音楽などのあらゆるコンテンツが揃っていた。キーボードを見ないと文字が打てないとか、画面の動作が遅いとかで、「日本の一般の方はスマートフォンを使わない」と言う携帯コンテンツ関連会社の人は多かった。後で言うのは簡単だが、当時シーンのど真ん中にいて儲かっている会社にとっては、新しい波が来た時に変化するのはすごく難しい。実はこのようなことは、世の中ではずっと繰り返されてきたことかなと思う。例えば、1910年代くらいに車が出始め、郊外型のショッピングモールが出き始めた時、(徒歩で買い物できる生活圏内の)商店街のパン屋さんやチーズ屋さんみたいな専門店に一気にお客さんが来なくなって困ったと思う。それまでは徒歩圏内だから確実に買ってくれていたお客さんが、10、20分車で走った所にある大型店舗へ行ってしまう。そんな時、パン屋さんチーズ屋さん自身が車に乗っていなかったら、すぐには気付かない。また、最近ではリアル店舗とネット店の間でも同様で、ファッションでも、リアル店舗に行って商品を試着だけして、実際に購入するのはネット通販だと。さすがにひどい話だと思うけれど、自分でもデジカメやパソコンを買う際に、店頭で実際に商品を見てからネットで価格検索して、お得な価格だったら申し訳ないけれどネット通販を利用する。都心の一等地にフラッグシップストアを持っていると、「最近、前年対比で既存店の売り上げが下がっているなぁ」なんていう時でも、何が起こっているかがわからない。「ドーナツ」というか、常にど真ん中にいすぎないことは大事だと思っている。
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2012年04月18日
評価経済だって?貨幣の「互換性」を甘く見るな、と。
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これを下世話に私風に解説すると
「浅草の場末感ヤマ盛りのピンク映画館の入場料」と、「都心のオサレなシティホテルで飲むアールグレイの紅茶」は、その値段が1200円の貨幣という意味で表されるということに、入れ替え可能な互換性があるということ。そして、文房具屋のオジサンが、「このボールペン、田端君には500円で売るけど、他の人には100円だよ。だって田端君の財布に入ってるカネはFXで楽して稼いだカネだからね。」と言ったりするのはありえないよね、ということだろう。
岡田氏のアジテーションがきっかけになって、貨幣経済から評価経済への移行が云々という議論がネットのごく一部界隈でやかましい。一部で「貨幣経済の終わり」的なムードもあり、まあ、気持ちは分かるんだが、もし、そういうアジ演説を真に受ける人がいるとすれば、人間社会が、なぜに貨幣を必要としたのか?ということを、きちんと、考えてみたほうがいいのでないかと思う。
貨幣がなければ、世の中で必要な財が一個人の枠を超えて流通するためには、全てが物々交換になる。世の中には、ほぼ無限に等しいくらいの財・商品・サービスの種類がN個ある。それらの物々交換においては、全ての交換比率が、N対Nの交換レートとして決定されることになり、取引への参加者はそれを記憶することが必要になる。 (この組み合わせはNの数が増えると爆発的に増える。)
具体的なイメージ例でいえば、
・ガソリン10リットルは白米5Kg
・トイレットペーパー10ロールは豚バラ100g
・タクシー初乗りは、マッサージ10分
とイコールの価値がある、というような具合である。
これでは主婦はスーパーでおちおち買い物もできない。上記のような交換比率を全て記憶するのは不可能だ。そこで、N対Nの組み合わせ全ての交換比率を記憶しなくてもいいように、貨幣による値付けということで、あるモノやサービスの価値を表すことが生まれたのだ。これならば、ある商品Nに対して1通りの数値を代入すればいい。
めでたしめでたし。各人は、交換比率の暗記から逃れて、自分が得意な財やサービスの生産に打ち込んでください、というわけである。
さて、ここからが今日の本論。「評価」経済における評価というものは、当然ながら、ある人からある人への評価ということになろう。そして、「評価」というのものは、当然に評価する人によって影響され、厳密には一意には定まらない。AKBの熱烈なファン同士でも推しメンを巡って論争のあるように、あるいは、役員同士での査定・昇進判定会議における開発1課のA君の人事評価のように・・・当然に評価する人が違えば、ある人への評価というものは「割れる」わけである。
全ての人が評価者になり、被評価者になるであろう「評価経済」社会では原理的には、N人からN人への「評価」ポイントというか、評点的なものが、多様にあり得るわけだ。評価経済への参加者は、こういうN対Nでの多様な評価軸というものを脳味噌に入れたうえで振る舞えるものが望ましい、ということになる。
例の裁判で、木嶋被告が案外モテて?ていたことに驚愕した人が多いだろうが、人間の性的魅力や美醜というものは、古来から、相対的には「貨幣」経済に比べて「評価」経済の比率が、一定割合で存在感を持っていた。このことを下敷きにしながら、貨幣抜きの評価経済における流通・仲介機能というものを説明すると、「あ、今度の合コン、一人、ぽっちゃり(一般的な男性から見れば、残念な)女子が参加しちゃいそうなんだよなあ。うーん、仕込んだ連中からクレームが来るかも・・・どうしよっかな。お!、そういや営業のヤマダはポッチャリ好きで有名だったな!誘っとこ!」的な場面こそが、評価が「多様」だからこそ、あり得たマッチングなのだ。
評価経済での 流通・仲介業 は、このような非常に高度な合コン幹事的スキルを参加者に恒常的に求めることになる。これでは、実際には、ハードルが高過ぎて機能しないし、社会経済全体に適用される、という意味でのスケ―ラビリティなど望むべくもなかろう。
もし、N対Nでの多様な評価ということでなく、概ね「まあ、あの人は優秀だよね」「美人だよね」的にコンセンサスが定まってしまうたぐいの「評価」ならば、それは結局は、現状の貨幣経済にも接続されうるものである、と考える。身も蓋もないけど、「 高学歴は平均年収が高い」というたぐいのものだ。
私は基本的に岡田トシオ氏や高城剛氏的な炭鉱のカナリア的なアジテーション議論というものは大好きだ。
しかし、こと「貨幣経済」ということに関しては、単なる技術イノベーション(石炭から石油、フィルム⇒デジカメ)的な意味で、代替されうるものでないだろう、と考える。 あくまで現状起こっていることを正確にいうと、「評価」(資本)による貨幣経済の高度な拡張だと思う。
貨幣経済の「抽象度」というものを甘く見るべきではない。
いわゆるネットを通じた「評価」「評判」により、貨幣抜きで、ピュアに人どうしが性善説でユートピア的に繋がる的な議論というものは、あくまで超高度に発達した貨幣経済という土台のうえに咲く「砂漠のオアシスの花」という「美談」的なものでしかなく、「評価」の、ほとんどは、拡張された貨幣経済として回収されるのでないだろうか、と私は思っている。
最後に、余談だが、ヤップ島の巨石貨幣というものについて、(特に、難破した船で運ばれた巨石の持ち主にも、財産性が継続した、ということについて)、貨幣経済と評価経済の中間?事例というよりは、貨幣経済の拡張性の原始的形態として、非常に面白い事例なので、ぜひお読みを頂きたいものだ強く思う。これ、原始的な部族社会なんだか、超高度な評価経済なんだか、よーわからん面白バナシだけど、実に深い話である。
ま、そうはいっても超面白い本↓なので、未読の方は、お読みください。
かつての堺屋太一のポジションを岡田さんが取ってしまった気がします。

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
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2012年03月10日
まとめサイトやトゥゲッターに「編集によるトリック」と「アントニーの詐術」への誘惑を見た〜「ある異常体験者の偏見」by山本七平から
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自分でも「まとめ」サイトをちょっくら実際に作ってみた。作りながら、ずっと、これは、何かの本で読んだような「引力」や「誘惑」を感じるな・・・と思ったのだが、さきほど本棚から手にとって読んでみて、やはり確信した。
常に作者には「事実によるトリック」へと誘惑される引力が働いている・・・・のだ、と。
少し長いですが、以下の引用文中での「手紙」をツイートに置き換えたり、リンクに置き換えてみつつ読んでください。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
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以下:ある異常体験者の偏見 97Pより引用
アントニーはまずシーザーの死体を示す、これは事実である。最後に「遺言状」を示す。これも事実である。そしてこの二つの間を事実・事実・事実でつなぐ。これも事実である。すべて一点疑いなき事実であって、だれもこれを否定できない。ところが実はこれが「トリック」なのである。なぜか、もう一度いうが編集者なら御存知であろう。説明の必要はあるまい。知らないならまだよい。だが、知っててこれをやってはいけない。少なくとも編集という仕事をしている人間にとって、常に直面しなければならないのが、「事実に基づくトリック」をどうやって克服するかという問題のはずだからである。自分の体験に基づいて非常にわかりやすい例をあげよう。前に私のところで『ジョン・バチェラーの手紙』という本を出した。実に売れなかった本である。この本は有名な「アイヌの父」ジョン・バチェラーの手紙を、集められるだけ集めて、それを編年史的に編集し、手紙という「事実」だけで構成した「伝記」を作ろうと意図したものであった。もちろん絶対に手紙の内容には手をふれない。解説が必要なら、小さい字で手紙のあとに短い解説をつけ、それもほとんどすべて同時代の資料だけを利用して、ほぼ資料のまま入れる――という形である。ところがこれが何年かかっても本にならない。もっとも私のところは、本になるまで良ければ七年、短くて二年はかかるからこれだけが例外というわけではないが、この場合はちょっと特別で、私自身が何とも編集できなくなってしまったからである。バチェラーのような人は、がんらい「可もなし不可もなし」のはずかなく、従って非常に性格のきつい面、いわば相当に「我」が強い面があり、いわゆる「敵」も多く、従ってバチェラー嫌いという人もいる。一方アイヌの間では「神様のような人」というのが定評であった。また日本人の中にもファンがおり、その事業を高く評価する人もいれば、「売名屋で、アイヌをくいものにし、上流社会にとりいった」という人もいる。しかし世評はどうでもいい。「事実」を知りたい。そこで「手紙という事実」だけを集めた。ところがどうにもならない――というのは編集の仕方でどうにでもなる。ある「手紙という事実」だけを集めてつなげれば彼は文字通り神様になってしまう。そしてそれが確かに事実だけなのである。ところが別の「手紙という事実」だけを集めて並べれば彼は「アイヌをくいものにした、くわせもの」になってしまう。そしてそれも、まぎれもない事実なのである。従って、そのようにしていけば手紙の集め方で「売名屋」であれ、「上流社会にとり入った男」であれ、はたまた「守銭奴」であれ、全く自由自在、編集者の指先一つで、何とでもなる――それていて、並べてつなげているのは、まぎれもない、動かすことのできない、本人が書いた手紙という「事実」なのである。
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2012年01月06日
代官山蔦屋で雑誌黄金時代にタイムスリップ!〜雑誌の本質とは・・
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台北・Eslite 誠品書店に「書店」が進むべき未来を見た。
に近いと思いますが、単にその焼き直しに留まらない独自性も兼ね備えています。久々に、こういうオサレな雰囲気かつ骨太な思想をもったハコがある「TOKYO」住民であることを誇りに思える気持ちで嬉しくなりました。中でも、特筆すべきは中央2Fに位置するラウンジ部分です。ここは、航空会社のラウンジと図書館とカフェバーを融合させたような雰囲気でして、おそらく世界中、どこにもないユニークな雰囲気ではないでしょうか?。また、古い雑誌マニアとしては、壁の書架にかかっている古今東西の名雑誌のバックナンバーコレクションは、垂涎かつ涙モノのセレクトでした。
なんせ、03:tokyo callingですからね。東京が僕を呼んでいるわけです。Tokyo (is) calling (you)!
荒俣センセイと麻原彰晃が表紙! 新潮社発刊の雑誌でっせw

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