BBC

2013年06月10日

誰かに厳しい質問をすることはKYで失礼なのか?〜BBC HARDTALKスティーブン・サッカ−との会話から。 はてなブックマーク - 誰かに厳しい質問をすることはKYで失礼なのか?〜BBC HARDTALKスティーブン・サッカ−との会話から。

橋下市長の慰安婦問題を巡る件でのやり取りや、オリンピック誘致を巡る猪瀬知事の失言を追及する記者会見でのやり取り、そしてプーチンにKY?な質問をぶつけたことが話題となったTBSの記者のように、報道しようとする取材の主体者の行い、それ事態までもが、報道メディアのアジェンダになることが増えてきた。

つまり、報道された内容だけでなく、そのような報道を生み出すまでの、メディアと取材対象者とのやり取りそのものが、ニュース・メディアの世界で主なテーマになりつつあるようだ。

 

インターネットの登場によって、時間軸の長さや紙面の限界がなくなったこともあって、記者会見全体が、質問する側の立ち居振る舞いも含めて「見える化」されるようになってきたことがその主な要因だと思う。基本的に私はこのように、報道メディア側自体も批判され、検証されるようになること自体は大変にいいことだと思っている。

しかし、例えば、愛国的だということで、人気のある政治家に対し、厳しい質問を行う記者の存在自体が、ソーシャル・メディアなどで「あいつはKYだ。ブサヨだ。」と猛烈に批判されるような事態が近いうちに起こるのではないか、とやや危惧も感じる。なぜなら、取材過程や記者会見での質問プロセスが可視化され、場合によってはアンフェアな批判にさらされることで、報道メディアを萎縮させることは決して社会全体のためにならないからだ。

報道メディアが取材対象者に、ある意味では厳しい質問をハードに行うことは、プロ野球のバッターが、ピッチャーの投げた球に対して、フルスイングするような、職業的な「義務」であり、当然の努力なのだ、ということを忘れてはいけない。いくら熱狂的な阪神ファンといえども、甲子園で阪神のピッチャーから、逆転のタイムリーヒットをかっ飛ばしたからといって、打った選手を口汚く野次ることが褒められたことでないのは、誰にでも分かるだろう。別にバッターもピッチャーが憎くてフルスイングをするわけではないのだ。

野球でバッターが投げられた球を渾身のフルスイングでぶっ叩くように、あるいは、ボクサー同士がノーガードで撃ちあうように、厳しい意見のぶつけあいが行われる様を英語ではHARD HITという。日本語で、喧々諤々・丁々発止の激論というところだろうか。

そして、この文字通りのHARD HITな議論を見せよう、という意図で放送されているBBCの看板インタビュー番組に「HARD TALK」がある。筆者のお気に入りの番組だ。スティーブン・サッカーというキャスターが質問を各界の有名人や政治家になげかけるのだが、見ているこちらが、ある意味では「失礼ではないか?」とヒヤヒヤするような質問をズケズケと単刀直入にぶつけ、30分という短時間だが、非常にHARD HITで高密度な議論が見られる。


英語で厳しくネチネチと詰問されることを、グリルで肉が焼かれるように「料理されるという意味で
grillingというけど、スティーブンは、まさしく、これぞgrillingだ、という感じの強面インタビュアーぶりなのである。



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2013年04月30日

BBC幹部「我々は(戦意高揚のための)国民的チアリーダーでも、(英国外交アピールのための)親善大使でもない。」 はてなブックマーク - BBC幹部「我々は(戦意高揚のための)国民的チアリーダーでも、(英国外交アピールのための)親善大使でもない。」

伝統的にいわゆる「国民国家」とマスメディアとは、コインの裏表のように結びついてきた。

これはメディア論的に言えば、

「日本人は、大晦日に、コタツに入って家族揃ってNHK紅白歌合戦を見る。」

のではなくて

「大晦日に、コタツに入って家族揃って、紅白歌合戦を見る人間こそが、日本人だ。」

 
ということである。紅白歌合戦の部分は、箱根駅伝でも、サザエさんでも、大河ドラマでも、月9でも、朝の連ドラでもいい。あるいはテレビ番組だけでなく、本ならば、夏目漱石でも、司馬遼太郎でもいいし、朝日新聞でも読売新聞でも別に構わない。


極限的な状況の仮定かもしれないが、あなたがもし、戦争という極限状況で、捕虜収容所の看守をやっているとして、捕虜の中に、日本のメディアやコンテンツに妙に詳しく、自分とばっちり趣味が合う捕虜と、そうでない捕虜がいたとしたら、どちらに親近感を感じるだろうか?どちらかを処刑しないといけないとしたら、どちらを処刑するだろうか。

ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」で喝破したように、近代の国民意識、国民的な統合意識というのは、印刷技術や放送技術などのメディア技術のうえに乗っかってできた産物なのである。


想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)
想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 
 

これは、安倍内閣の閣僚が靖国を参拝し、尖閣をめぐって近隣諸国との関係が荒れているからこそ、改めて考えておきたいテーマだ。なぜなら、そもそも、昨今の社会状況の中で、国益というもの自体が、皆が思っているほど、自明ではない。(大声で、「日本の国益を守る」とか「国益のために必要だ」とか言っている政治家が、「国益」を正確に定義しているケースを筆者は余り知らない。)

 

尖閣諸島が、中国海軍に爆撃されることと、ソウルが北朝鮮に砲撃されることと、どちらがより日本国民の生命・財産の安全にとって危険だろうか? 株主資本の半分以上が海外保有となり、フランス人のCEOの指導のもと、タイ工場で組み立てられたコンパクトカーは、「日本車」なのだろうか?


そもそも、メディアには「公共性」があるというが、その公共性の範囲とは、どこまでのスコープで考えられるべきものなのだろうか。日本だけ?アジア地域?いや全人類のため?

 

例えば、NHKは公共放送というが、この場合の「公共」とはどこまでを含むのだろうか。日本政府が、NHKの語学番組は、日本語学習コンテンツを通じて、海外の人々の思想信条に影響を与えうるのだから、尖閣諸島を日本が実効支配していることの正統性などを、語学テキストを通じ、外国の人たちに教えこむべき、と言われたらNHKは、その圧力に従うべきだろうか?

 

そもそも、尖閣や靖国参拝については、日本のメディアはこの問題をどのようなトーン、手つきで報道すべきなのだろうか。中国や韓国側のロジックを紹介することは「反日」的で、日本の国益を損なう行為なのだろうか?

 

こういった問題意識を補助線に、3月にBBCを訪問した際に、幹部たちにインタビューした結果を紹介していきたい。



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2013年04月01日

国民国家とメディアは表裏一体の共犯関係であり続けてきた〜BBC訪問記 はてなブックマーク - 国民国家とメディアは表裏一体の共犯関係であり続けてきた〜BBC訪問記

ロンドンBBCを訪問させて貰う機会があったので、これからしばらくBBCを取り上げつつ、メディアと国民国家の関係性について考えてみたい。

BBc2

MEDIA MAKERSでも繰り返し書いた、私の持論であるが、メディアと実世界とは表裏一体である。

メディア業や金融業のことを「虚業」という人もいるが、そんな人は何も分かっていない。虚業と実業は常にワンセットなのだ。昼があれば夜があるように、陸があれば、海があるように・・・。

金融資本家を排除したはずの、共産主義のご本家たる旧ソ連にも国営だが「銀行」はあった。およそマトモな近代国民国家で、運営や所有の形態は別にして、「銀行」のない国家は存在していない。同じように、通信社や新聞社のようなメディア組織が存在しない近代的な国民国家というものは全く考えられない。

「言論・報道の自由」を政府が尊重しているとは思えない中国にも、新華社通信があり、旧ソ連にもタス通信があった。そして、これらの国営通信社から配信されてくる記事や報道内容は、そのまま、それらの国家の意志に基づいた「公式発表」に準ずるものと思われていた。また、太平洋戦争下の、いわゆる大政翼賛体制では、朝日新聞や読売新聞など、多くの新聞が「大本営発表」をそのまま垂れ流し、戦意高揚のプロパガンダの中心にもなった。

つまり、通信社や新聞社、テレビ局のようなニュースメディアと国民国家とは、常に表裏一体の存在であり続けてきたのだ。

この辺りの議論は、ナショナリズムの起源を解き明かした古典的な名著と言われるベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」に詳しい。
 

彼の議論によれば、「国民」とはイメージとして心の中に描かれる「想像の共同体」なのだ。そして、国民国家とは、会ったことすらない人々と自分との関係を、血縁関係や友人関係のような具体的な人と人とのつながりとしてありありと想像する能力に裏打ちされて成り立つものである。

例えば、尖閣諸島近辺で、中国公船と、海上保安庁が小競り合いの銃撃戦を展開したうえで、不幸にも海保の職員が命を落としたと仮定しよう。そのときに殉職した海保の職員のことを、日本国民の大多数が、別に会ったこともない、自分とは縁もゆかりもない人物だから、「そんなの関係ねえ」と思うようでは、国民国家としての日本は立ち行かない。

「想像の共同体」の住民同士の関係性は、太古からの村落共同体や、専制王国の住民が持つ共同意識とは大きく違う。上記のような事件がある場合に、その海保職員と自分が遠い親戚だ、とか、実家が近くて同郷だ、とか、同じお寺の檀家だ、とか、同じ高校の卒業生で先輩・後輩だ、とかいうような血縁や地縁や宗教といった媒介を全く抜きにしても、その死に対して「憤れる」「憤れてしまえる」ということこそが国民国家を「想像の共同体」として成立させるための条件なのだろう。そして、このある意味では奇妙な連帯感を成立させる鍵として、マスメディアや出版、国民文学や国民作家が存在してきた。

例えば、標準化された言語による出版物の発行と流通がなければ、同じ言語を用いる人々がその言語圏に「所属」するという共通認識は生まれ得ない。具体的に言えば「日本人」が用いる言葉から最大公約数を取り出して標準化し、現代の「日本語」が出来たのではない。まず先に出版なり、メディア上で流通するために人工的に標準化された日本語が規定され、それを流布し、慣れ親しませることによって事後的に「日本人」が生まれたというのが、ベネディクト・アンダーソンの主張だ。

想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)
想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ) [単行本]
 



BBCはイギリス国王の特許状に基いた独占的な国策会社として設立されてきた公共事業体である。


その意味では、イギリスという国民国家と、
BBCという組織とは切っても切れない一心同体の縁であるはずだ。ところが、メディアの興亡について戦争報道という国民国家の存亡に関わる非常事態においてでさえ、BBCの歴史は少しツイストした展開を見せてきたのだ。





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