こんな奴です

2006年05月05日

簡単に言うと私はこんなヤツです

 一部上場の商社にて、ラインから外れ企画室に勤務している、
窓際の事業立ち上げ人こと、森丘貴宏です。
 自分の信念を貫いたがゆえに窓際族となった男が、
全国にいる同じ悩みを持つ仲間に勇気と可能性を伝えたいなど
と大それたコトを考えています。

 森丘がどんなヤツかをこれからココに書きます。
 暇な時にでもお読みいただければ幸いです。

 
 かれこれもう6年になります、あるプロジェクトに携わった
コトがきっかけで、俗に言う「窓際族」になりました。

 つまり会社の中でラインから外されたワケです...

 おっと、いきなりこんなしょぼい書き出しでスミマセン。

 実は今の会社は転職を重ねるコト4社目、入社のきっかけは
雇ってもらえればどこでも良かったと言うのが正直なところでした。
(海も好きだし、てコトは海に関係する仕事です)

 今日までの経緯を簡単に書きますと、

 大学を卒業し青年海外協力隊に参加、ケニアで漁業指導をしながら
3年間暮らしました。(コノ話はまた今度)

 帰国したのが平成元年、日本経済はバブルもやや後半とは言え絶頂期で、
当時26歳だった私は簡単に就職できると高をくくっておりました。
 ところが現実はそう甘くはありません、どこも雇ってもらえず、
知人の紹介で都内の物流会社に就職。

 しかし先輩社員と折が合わず2ヶ月で退社。(早っ)

 その後友達がいた水産会社で漁船の乗組員となりました。
 ところが、一航海(3ヶ月)を終えると陸上勤務になり、船員さん達の労務管理などを担当。

 そして、一年後に行ったスキー場の山の頂上で雪景色を見ているうちに
「このままじゃダメだ!」と思い立ち突然退社。(あらら)

 その後、大学でお世話になった先生に相談に行くと、タイミング良く
車海老の養殖場で人を探していると聞き、一路久米島へ飛びました...
がそこも2週間で辞め、完全なプー太郎。(どうすんの)

 その後、父親の知人のコネで今の会社を受けるのですが不合格!(ガックリ)

 それでも何とかそこの子会社に入社させてもらい総務部勤務となりました。
(余談ですが、妻とはその頃に知り合いました)

 小さな会社だったのである時は雑用、ある時は経理、そしてまたある時は社長の運転手(お前は多羅尾伴内かっ)などを勤め、

「こうなったら開き直りだ」とばかりに優等生ぶりを随所で発揮しました。
 要するに仕事を選ばず何でもやったワケですなぁー。

 するとどうでしょう不思議なもので、どういう風の吹き回しか、不合格と言われた
今の会社からお呼びがかかり一年で転籍!(ヤッター)

 あれからもう14年、早いものですね。(懐かしんでる場合か!)

 入社後は水産物の輸入と営業を担当していました。

 一年目に結婚し、元々商売がスキ(決して上手いとはいえませんが)だったので、新規のお客さんもいくつか開拓でき順調な日々を送っていました。

 風向きが変ったのはその営業時代で入社3年目を迎えた頃です。

 年末の一番忙しい時期に突然盲腸で入院してしまったのでした。

 それも腹膜炎一歩手前の状態で会社を2ヶ月も休む始末。

 そして久し振りに出社してみると、私がいない間に担当していた仕事が大変なことになっていて、復帰したその日にそれまでの仕事から外されてしまいました。

 その後も営業の仕事は続けていましたが泣かず飛ばずの毎日。

 見るに見かねた上司から別の商材の担当を任され、それからしばらくして息を吹き返すと、ある程度の実績も出せる様になっていました。

 ところが海外出張などにも行かせてもらったりして「これはいけるぞ!」と思いきや、8年目に人事チームへ異動。

 しかし、これが実に合っていなかったと言うか、そもそもキャラクターが違うと言うか、悶々としながら、机に向かい事務的な仕事を毎日粛々とこなしておりました。

 そして、一年半程経った頃です。

 運命のいたずらか、元々宿命だったのか、あるプロジェクトを担当するコトになりました。

 コレが私のその後の社員人生を大きく変えるコトになったのです。

 組織マネジメントの変革がその目的でした。

 意識改革、業務プロセスの改善です。
 人事チームに属しながらもプロジェクトの専任担当となりました。

 指南役としてコンサルタントがやって来ました。
私はこれはいい機会だとばかりに、そのヒトたちから教わるものすべてを吸収してやろうと意気込んでいました。

 今から思えば、営業から畑違いの部署へ異動になり、それまで抑えていたものが一気に噴出したかの様に、朝から晩までがむしゃらになって組織変革の推進に取り組みました。

 「この仕事は俺に合ってる」

 そんな気持ちで一杯でした。

 そして、何かに取りつかれたかの様にプロジェクトに没頭していきました。

 しかし、私が仕事に燃え、毎日朝早くに家を出て、夜仕事を終え会社を出るのは10時、11時という生活を繰り返していた間、家庭はボロボロになっていました。

 丁度末娘が生まれた直後だった妻は、上の子供二人の面倒を同時に一人で見ていました。

「たまには早く返って来れないの?」

 妻が泣いて訴えても私は耳を貸そうとはしませんでした。

 それどころかプロジェクトが日に日に進行していく中で、家族のコトよりも仕事にのめり込み、完全に自分を見失い、自分自身に酔ってしまっていったのです。

 やがてプロジェクトは佳境に入り、社長をはじめ経営陣の前で意見を述べたり、プレゼンをしたり、かつての自分では考えられない様なコトバを、次々と上位の人達に向かい吐いていました。

 ところがそんな上昇気流に乗り、舞い上がっていた状況も長くは続きませんでした。

 プロジェクトも残すところ一月余りとなったある日、ふと自分のやってるコトが本当に正しいのだろうかと言う疑問が、突然降って湧いてきたのです。

 何かが足りない...

 自分自身にはまだ欠けているものがある...そう思いました。

 実にあっけないものでした。

「燃え尽き症候群」だったのかもしれません。

 結局俺は何も解っていないのか...

 自分の未熟さを痛切に感じてしまったのです。

 それはある意味「自己実現の欲求」に対する芽生えであったようにも思えます。

 その後プロジェクトが終了するのを待ち、ごく一部のヒトだけに伝え、長い休暇に入りました。

 会社ではプロジェクトの次のフェーズが決まっていました。

 私が休暇から戻ってこないと言うコトで「心配している」と先輩から家に手紙が来ました。

 休暇のお陰でいくらか気が晴れました。

 10日後、久し振りに出社した朝は、とてもゆっくりと時間が流れていました。

 私はプロジェクトの仕事には戻りましたが、その日を境に定時に帰る様になり、 妻、そして子どもたち家族を最優先に考えるようになりました。

 ココから「窓際族」への第一歩が始まったのでした。

 丁度その頃、今から3年ほど前になりますが、社会人大学院へ通っていたことがあります。
 ところが成績が悪く進級できずに中退したのでした。(トホホ)
(留年できないシステムのため)

 今思うと情けない話ですが、これがほんとに絵に描いた様な劣等生、できれば振り返りたく過去であり、(振り返ってるじゃん!)思い出すだけでとっても恥ずかしくなります。(赤面)

  そして、そんなこんなで、何とか今日までやってまいりましたが、最近、私自身の仕事にも少しづつ変化が生まれてきています。

 仕事を進める上で抵抗にあったり、壁にぶつかったり、兎角仕事に前向きで、積極的なあなたは、上司や先輩、周りから目をつけられるコトが多いはずです。

 でも、そんな場面で日々格闘しているのは、あなただけではありません!


 あなたの考えが正しければ、 本当に大事なコトを言ってるのであれば、後で必ず必要とされるときがきます。


 その時こそ「出番」です!

 脱たなぼたで自分自身をもっと磨けば必ず道は開けると信じています!

tachiage_jin at 05:55|この記事のURLComments(0)TrackBack(0)