今日は石井恵梨子さんのコラムをみていて、ふと思ったことをツラツラと(あまり考えずに)書きます。
何かというと、要するに「愚かさを認めることの効用」についてです。
投資においてはもちろん、人生においても非常に重要な事であると毎日感じている事でもあるので。

まず、愚かさを認めないとどうなるか?
私はアラフォーですが、この歳になると…なのかは分かりませんが、どうも周りの友人を見回しても、自分の愚かさを簡単には認めなくなっているような気がします。
敬愛する友人にすらも時々違和感を感じることがあって、それはどんな時か?というと、自分が正しいとあまりに強く信じている時です。
その違和感の正体はなにか?とずっと考えていたのですが、コラムを読んでいてふと気が付いたのです。
つまり、自分の考えが絶対に正しいという前提が強すぎると、その議論が仮に絶対的に正しいとしても、少なくとも「進歩は無いだろう」ということです。
なぜ進歩がないか?絶対に正しいものを改める必要がないですからね。
で、改めないならどうなるか?つまるところ、進歩はありません。
PDCAでいうと、C(チェック)が無いのです。従って、A(改善)もない。
「絶対に正しい」P→D→P…と続くわけですよね。

もちろん、本当に絶対に正しいことならそれでよいのですが(例えば、納豆と梅干しは日本の誇るべき文化である!とか)、人生も投資もそんな風に言えることは数もそれほどないし、そう言えることは特に主張するほどのことでも無いことがほとんどでしょう。

問題は「絶対に正しい」なんて言えないこと、特に思考や在り方といったことまで(こそ)「絶対に正しい」という前提で主張してしまうことです。

ここで、投資で「愚かさを認めない」場合を考えてみましょう。
「自分の投資手法も銘柄選定も常に絶対に正しい」という仮定から始まってしまうと、投資をして失敗しようと成功しようと、やはりP→D→P…と続いてしまい、結局進歩がありません。
失敗した場合の決まり文句は「市場が間違っている」「大衆は愚鈍だ!分かっていない!」となるわけです。

というわけで、どうにも人間には「自己正当化欲求」というものが非常に強くあるように思います。しかも年齢を重ねるほどに、あるいは投資や企業経営で言えばポジションや時間をつぎ込むほどに、正当化の欲求が強まる傾向があるように思います。
いわゆる「サンクコスト」を無視できないのが人間といいますか。
投資や企業経営においては、それは明らかに非合理的な事だと分かりますが、いざ自分の生活となると多くの人が合理的には生きられないようです。


さて、私は幸か不幸か、愚かさを認めることだけには自信と定評(?)があります。
一面では正しいと思うことにはトコトンこだわるのですが、どんなにこだわっていることでも、それが間違っていると思えば、アッサリと間違っていたと認めて乗り換えることができます。

なぜできるようになったか?というと、色々と癖付けたからだと思います。
で、愚かさを認めるために最も手っ取り早いと思うことを簡単に一言でいえば「素直になること」です。
もうちょっと具体的にいうと
1.ゼロベースで、公平に物事を観て、考えること
2.C(チェック)、内省を癖付ける事
3.本を読むなどして様々な考え方を学ぶこと
などです。

ゼロベースであくまでも公平にありのままに物事を観て、考えることで自分を内省できます。
自分や自分の言動を内省することで、A(改善)できます。
また、色々な本などで様々な考え方に触れると、自然と「おお!その考えの方が自分のこれまでのものより良いな!こうなりたいな!」というのが見つかるので、現状の自分とのギャップが確認でき、A(改善)が楽になります。
どれにも共通しているのは、一言で言えば「素直」であることです。
もっと言えば、常に「自分のどこが愚かだったか」を常に探しているような感覚です。

素直で、かつ、愚かさを認めることができるようになると、なりたい目標もドンドン進歩しますし、現状とのギャップも把握できますし、打ち手もドンドン実行できるようになるでしょう。
愚かさを認め、発見できるということは、昨日の自分より今日の自分が少しでも賢くなれる機会を得られるのと同じことです。
愚かさを認めらないなら、昨日の自分と今日の自分の変化は微々たるものです。
愚かさを認めることは、今日の成長のための必要条件でしょう。
そうして、物理的には10mの人もいないし10cmの人もいませんが、精神的、あるいは知的には100倍も1万倍も差がついていくのだと思う次第です。

というわけで、成長したくば愚かさを認める準備をせよ!
さもなくば、同じ場所でグルグル回っているしかないんじゃないの?
という話でした。