2006年06月17日

2006年立谷サミット日程決定!

本年の立谷サミットの日程が決定しました。
今年は10月8日(日)〜10月9日(月)に開催されます。

本サミットについては、以下のURLでご覧いただけます。
http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/cat_50003815.html

全国の「立谷」姓で、本集会にご関心ある方は、
以下のメールアドレスまでご連絡ください。
tachiya@freeml.com


皆様のご参加、お待ちしています。
  
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2005年10月30日

立谷サミットについて

立谷サミットの趣旨

江戸時代、立谷家のご先祖様は、廻船問屋を営んでいました。
立谷するが分業して、「材木」「米」「雑貨」「海産物」および
その他の物資を江戸時代初期から、立谷一族が結束して商いをしていました。
天明・天保の大飢饉・明治10年の宇田川大洪水で、立谷家の商いは
大きい打撃を受けてしまいました。
立谷家一族中には商いを廃業する家も出て、結束の固い立谷一族が、
残念ながら、バラバラになってしまいました。
今、江戸時代の立谷家の結束を再現したいと思い、
立谷家会を結集いたしました。

★立谷サミットですること・・・
1.ご先祖様の供養、ご先祖様のお墓参り
2.立谷の名字を持った方の親睦会
3.立谷家の歴史研究

★立谷サミット開催の履歴
平成4年に、立谷の子孫が5軒集まり、立谷での供養院(道空庵。今の慶徳寺)
にあるお墓の改修をきっかけに、毎年10月に相馬でお会いし、
親睦会を致しましょうということから始まりました。
(福島県内2軒、県外3軒)

★立谷サミットの経緯
(神4年に相馬の興仁時(立谷家の菩醍寺)にて、
ご先祖様のご供養・法事を開催いたしまして、
出席者25人の参加をいただきました。
∧神5年から平成13年まで8人から10人にて立谷会を開催
J神14年より、福島県内にお住まいの立谷様にご参加・ご協力
いただきまして、一段と盛大・華やかな立谷会ができました。
この年、平成14年より、「立谷会」が、「立谷サミット」に改名いたしました。
な神16年にブログ「立谷ファミリー」を開設して、全国から立谷の
名字をお持ちの方に参加をいただきました。
平成17年の立谷サミット会・会員様は37人になります。

★「立谷サミット」開催日時・場所
)菁、10月上旬から中旬の間に開かれます。
場所は相馬市の慶徳寺にて、ご先祖様のお墓参りから始まります。
その後場所を相馬市原釜「ホテル夕鶴
にて、夕方5時半から9時まで。
立谷の親睦会で開催しています。
◆屬泊り」「親睦会のみ参加」の、どちらでも構いません。
お泊の方は翌日の朝食後に解散いたします。

  
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2005年07月18日

立谷家と祐天様

立谷家と祐天様
祐天和尚
江戸中期の浄土宗の僧、号は明蓮社顕譽、陸奥磐城の人。将軍徳川綱吉の信任を受け、
紫衣を授けられた、増上寺36世と成る、大僧正(1635〜1718年)、
東京都目黒区に祐天寺が有ります、祐天和尚の伝説、に
三遊亭円朝(1839〜1900年)の落語で有名「真景累ヶ淵」の怪談が有名です、
四谷怪談並んで知られている江戸の怪談話です、祐天和尚が其の怨霊を静めたと言われた、
怪談話、「死霊解脱物語聞書」元禄3年に出版されて、後、歌舞伎にも成った、
実話とされています、
祐天上人、今の福島県四ツ倉、上仁田、新妻小右門重政の子として生まれ名は三之助と
云う、生れながらにして異鈍なので、親戚である立谷家に商いを教えて下さいと
見習いとして入ったが使い物にならず、立谷家では江戸の芝、増上寺に小僧として
御願い申し上げたが昨日教えた事は今日には忘れていると言う有様でした、
増上寺では愛想をつかせてお引取りをくらいましたような状態でした、
仕方なく相馬・中村に帰る途中に千葉の成田山の御不動様に寄り籠もって二十一日
の断食をして願を懸け満願の日に夢を見て、それは口から剣を呑まされ口から
血を吐いていて倒れていたと言う夢だったそうです、不思議な事にそれからの三之助様は
人間が変ったように学職はすばらしく成、増上寺に戻り、修行して、宗祖、法然上人の
浄土宗の教えを極めて、江戸の大本山、芝増上寺の三十六世法主となり八十二歳で亡れ、
遺骨は目黒の祐天寺に葬られた、
 立谷家には衣に肉筆で南無阿弥蛇佛と書かれた衣、書、相馬の殿様と祐天和尚様と
立谷庄兵衛の御三人で会食した時のお箸が残されています、
明治時代は新妻薬屋を相馬の大町で開業していたようです、
  
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2005年04月19日

立谷家に伝わる昔話 vol.1

昔、昔、ご先祖さまに法院様と名乗るお方が居られたそうな、
法院さまは深い深い奥の奥に住んで修行をしていたそうな、
季節もだんだん寒くなり、年末も近づいて来たので修行を休んで
修行仲間と一緒に正月用品を買いに深い深い山の奥の奥から町に降りてきたそうな、
町に降りて来る時は下りで早く明るい内に町に着いたそうな、
法院さまは町の商い屋でお正月用品として餅米や御酒、其の他にお正月に使う物を
一杯買い風呂敷に包んで背負って帰るため町外れに着いた時には毎年のように日は
山の方に沈んしまいましたそうな、  続きを読む
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2005年02月20日

立谷家と紀州の関わり

和歌山県と立谷家も深い関わりがあります。
和歌山県の熊野・高野山、三重県のお伊勢様の3社は藤原家などにより、
古代より信仰の中心でした。立谷庄兵衛種重は入道藤原を名乗っていました。
また、和歌山をルーツとする鈴木家と立谷家は深いつながりがあります。
現在、鈴木三郎重家の御子孫に当たる方々が、鈴木家の研究に注力されています。
徐々に鈴木家と立谷家の繋がりについても詳しくお話できるのではと考えています。  
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2005年01月12日

立谷神社

鳥居の奥には小さな祠がある。この近辺の方だと思うが、非常に綺麗にしてくださっている。

立谷神社  
Posted by tachiyafamily at 23:57Comments(0)TrackBack(0)遺跡など

立谷城址

立谷城址。今は草原となっている。近くに畑があったが、城址は畑になっていないようだった。鏃(やじり)なども出土することがあるとも聞いた。

立谷城址  
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2005年01月07日

立谷家ル―ツ Vol.15

 原釜は東廻航路の湊と名を高めていた。
 立屋の資産は五十万両とも六十万両ともいわれ現代(平成)に積算しました金額にして、三十〜三十五百億位ともいわれております。江戸時代前、中期の金銭価値、物価高にすると?世人之人は立谷長者と言って
西の紀国屋文エ門・・材木商(江戸時代中期の享保六年(1721年の江戸の大火で材木を買占めて江戸に材木を高値で販売して一代にして大富豪に豪遊の末に財産を失ってしまい没落してしまいました。)     
東の立谷 立屋・・・材木商、廻船物問屋
と言われておりました。
  
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2005年01月06日

立谷家ル―ツ Vol.14

大町立谷家      
屋号・・中村 大町立屋 佐竹氏家続、秋田将義隆也故に佐竹人と成る重信氏より中村市中宅地有りを間口 二十四.半間 奥行 十五間を譲与受 桂雲院様より御扶金為 商い基金を拝借し商売を始める、お利息、拝借金を江戸屋敷へ毎年返納致しました。
 商売を始めたのは寛永時代(1625年)頃と思います。
 元禄(1690年)頃には千石船十五〜十七隻を有していた。商売として、北海道より塩魚 サケ、ニシン南部領より材木など相馬領より租米を江戸に運んだ原釜湊には 絹布、木綿、しお 陶器、乾魚入港していた。立谷でこれらの品を商いしていたかは不詳、江戸時代後半には吉田屋が鉄を原釜湊に陸揚げしていた。  
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2005年01月05日

立谷家ル―ツ Vol.13

立谷十左エ門     
種重の三男 父庄兵エ衛種重の西屋敷と二百両穣受 別家(万治元年 1658年)法名 慈発軒証譽真乗元薫法士 宝永3年
4月2日 1706年76歳

立谷庄兵衛重家    
三代目立谷庄兵衛 享保2年6月22日卒 六十八歳
法名 一譽無三証達法士


  
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2005年01月04日

立谷家ル―ツ Vol.12

立谷庄兵衛重之    
二代目庄兵衛 種重の長男 正徳4年9月14日卒 八十八歳
(1671) 法名 亨與玄利宗匠大徳法士

立谷平左エ門     種重の次男 平左エ門の祖

  
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2005年01月03日

立谷家ル―ツ Vol.11

立谷将藍胤実

立谷左エ門胤安
寛永11年6月21日卒(1634年)

立谷庄兵衛種重
中村住立谷氏一統の祖
文禄元年宇多郡小野村に生まれる(1592年)奥州会津蒲生忠郷に仕える
佐竹氏の姫様をお嫁様にもらう 松島瑞願寺に落髪
寛文11年6月15日卒 法名 然室宗廓道空比丘 八十歳(1671)
  
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2005年01月02日

立谷家ル―ツ Vol.10

立谷将藍胤実
相馬盛胤君(1549〜1578)
御代家人は国公事によりお家換え 高平村へ移る

立谷左近亮
北畠顕家の家臣 中野右近亮(領百余貫拝領)
元弘・建武の頃宇多郡立谷村に移り住み、立谷と名を改める

立谷十郎保朝  
南北朝時代に(1350〜1370年)立谷村に住む

立谷越後の子孫
天分年中(1532年〜)相馬讃岐守顕胤公より宇多郡一円を拝領する  
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2005年01月01日

立谷家ル―ツ Vol.9

立谷十郎保朝・・南北朝時代(1350〜1370年)立谷村に住んでいた。

立谷越後・・・立谷村に住む天文年中(1532〜1554年)
       相馬讃岐守より宇多郡一円を拝領する 岩城との戦いで戦死
       (稲葉郷熊村国境で夜襲を受け)

  
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2004年12月31日

立谷家ル―ツ Vol.8

中野左近亮
宇多郡立谷の館に移り、立谷と号し立谷右近亮四氏は 相馬重胤の元に移る
(年代燐遠なる世系紛失其の他分からず)寛永の頃には無くなっていた 重之)
  
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2004年12月30日

立谷家ル―ツ Vol.7

立谷左エ門胤谷安
上杉家臣 高畠城代
斉藤伊予守盛長の三女娶る その時上杉輝虎公より祝いの扇子を拝受する。
慶長5年関が原の戦いに徳川家徳の誘いに乗らず家徳怒り受け1万石に減らされ相馬藩の危機立谷宇多郡1円を失う。住まいは高平村
  
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2004年12月29日

立谷家ル―ツ Vol.6

奥州の国司、北畠源中納言顕家氏幕下藤原姓、中野左近亮、伊達に百七十貫を拝領する。

建武年間(1333〜1338年)

北畠属下

○ 小野日向・・・小野館

○ 黒木大膳亮正光・・・黒木館

○ 標葉四郎隆之・・・標葉郡請戸館
  
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2004年12月28日

立谷家ル―ツ Vol.5

立谷家先祖

立谷家は 伊達領内も地名中野に住み、(伊達郡内には 中野との地名は無く隣の中村村に有る、元弘〜建武時代 1330〜1338年には伊達領内、
1333年北畠顕家が陸奥の国統一を命じられ多賀城に入る1337年に顕家氏霊山に城を築き伊達郡を拠点とした。その後1338年顕家の死、〜中村氏〜相
馬氏が領地争いに勝ち相馬領地に成る。
  
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2004年12月27日

立谷家ル―ツ Vol.4

立谷の名字の由来

紀州出身の鈴木重原(孫)の次男か三男が相馬の西方、熊野神社が有りました場所になる中野地区の場所の地名を取って中野と名字を名乗り、その後北畠顕家の家臣に成っていた、中野左近亮が北畠顕家の死亡の後に北畠家より離れて相馬の南方に当たる立谷部落に移り、立谷左近亮と名乗り、立谷家が生まれました。
名字辞典に由りますと日本の立谷家の発祥の地は福島県相馬市立谷と成っております。全国の立谷の名字の先祖は相馬市立谷とされております。


  
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2004年12月26日

立谷家ル―ツ Vol.3

鈴木重原は元々義経に従って勲功あり、功績を上げていた。その後紀州に帰ろうとしたが、里人に尊ばれるに及びこの地宇田郡中野邑にとどまり、宇田郡の那主と称し数村を領し、熊野大社をまつり祭祀を怠らなかった。
 また、建武年中(1330年〜)国司北畠顕家は特に熊野神社を尊信し大社として多くの神官、社僧をおいて中野地区は大繁栄していた。その後、乱世時代に成り下火になっていった。鈴木重原は中野左近亮の先祖にあたり立谷と名を改める。
  
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