歴史に学ぶ仕事術 ー ふみじの人生訓ー 

説話の集合ではない歴史から、仕事について考える。

さて、いよいよ信長の戦歴に話を進めていきたいと思います。
今日は、尾張統一過程で起こった緒戦で信長がとった戦術から
学んでいきたいと思います。
 キーワードは、「素早い反応」です。
まずは、織田信長の勢力図をもう一度確認しておきます。
初期勢力(マクロ)

[赤塚の戦い]
 信秀他界と前後して、鳴海城主で信秀の家臣であった山口教継が今川方に寝返りました。
1552年のことです。1552年4月、信長はこれを討つため兵800で那古野を出陣しました。
その行動は素早く、あっという間に相手の本拠地鳴海城近くの三の山に進出してきました(下図)。
赤塚合戦 信長経路


 ここでようやく山口氏が迎撃に出てきます。待って各砦から手勢を繰り出して包囲するつもりだったのかもしれませんが。山口教吉が鳴海から、北にある赤塚に1,500の兵で出陣して来ました。おそらく、少し高台にいる信長軍をおろしてから戦おうと考えたのでしょう。これを見て信長も果敢に赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。兵力に2倍の差があるにもかかわらず、この戦いは引き分けに終わりました。顔見知り同士の戦いという側面もあったので、最後は捕虜交換で終えて、信長は那古野に引き上げていきました。

[萱津合戦] 
 さて、赤塚の合戦が一段落したころ、清州の織田大和守家の家老坂井氏が信長に牙をむきました。
清州の近くにあった、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を虜としました。1552年8月15日のことです。結果として、信長の勢力下でありかつ実母の出身地であった萱津は敵の包囲下に。重要な財源である津島にも敵の手がのびました。
 なんと、信長は8月16日に那古野から出陣。中村で叔父の信光と合流後、萱津で坂井甚介と戦いこれを打ち取りました。(柴田勝家の功績でした。)余勢をかって、松葉、深田を奪還して清州へと逆撃を加えることができました。
萱津合戦 信長経路

1日も立たないうちに、敵を駆逐することに成功したのです。

[考察]
  素早い反応は、なぜ信長を有利にしたのでしょうか?
 素早い反応は、相手に対応策を練る時間をそぐことができたのです。十分な兵の募集や、相手の軍隊の集結、防備の充実が不可能となることで不十分な状態の相手をたたくことができたのです。

 仕事に例えるとこうでしょう。
1. ライバル(社内、社外)に先んじることを心がける。
2. 情報を絶えず集めて新規事業はどのほかの会社よりも早く展開する!!


前の記事に引き続き、信長が家督継承したころとその直前の信長について
考えてみたいと思います。

やたらと「うつけ」イメージで語られる信長。

ダウンロード

このイメージの中に、「周囲の年寄りと距離をおいている」というイメージが
含まれていますよね。

 この点はどうだったのでしょうか?

[前提] 信長は孤立していたかどうか?

 信長に初期つけられていた家臣を軽く見てみましょう。
信長 那古野城主時代の重臣四名をとりあげてみます。
<確認できている重臣>
平手正秀:もともと信秀の重臣。実は、那古野奪還の際活躍した重臣の一人。信長が家督継承後、なぜか自死している。
林秀貞:信長の執事のような役回りだった様子。ちなみに、弟信勝と信長が戦っていたころは、なんと信勝に味方しているが、後日許されている。実は、信長つき筆頭。
青山信昌:信秀の有力家臣であった。が、信秀の美濃遠征時に戦死。
内藤勝介:・・・・。なぞ。鳴海の山口氏と戦った赤塚の戦いで先手衆にいたことから、まあ信長の重臣ではあったと思うが。

これ以外の家臣は、もともと那古野で今川氏方だったもの、織田藤左ヱ門家方のものが家臣として連なっていたようです。

すなわち、孤立しているというほどではないが「信長の意をくんで手足のように動く家臣」というのはこの段階でほとんどいなかった。というのが現実なようです。

[対策] 信長
 信長の非凡なところは、これらの重臣層が「戦力として必ずしも十分ではない」と考えたところにあると思います。重臣層があてにならないということは、これに付随する兵力がかならずしも有効活用できないことを意味しています。普通のボンボンだと、親の威光で自分に従うものを、自分の思う通りに動かすことができると考えるのですが、信長は自分の意向に従う道理がないものを当てにしなかったのです。実にクリアーな思考ですね。
 前回述べたように、修練好きだった信長は必ず側近を連れていきました。むしろ率先して側近に稽古をつけていたようです。もちろん、強い信長に側近はほれ込んでいきます。こうして、戦闘能力の高い側近衆が信長の周辺に形成されていったのです。金で雇える雑兵も、うまく那古野城周辺に住まわせて、自分への求心力を強めていく信長。一見味方に見える戦力をあてにせず、強力なコア戦力を育成したことがのちの信長の強みになっていきます。

以前の記事では、信長が家督相続したころの話をしました。
しかし、本記事では少し前にさかのぼり、信長という人物の能力について考えてみます。

信長といえば、「うつけ」のイメージが強いですよね。

ダウンロード


若いころの信長像を描いたもので、うつけな信長というのは、
1. 旧秩序を軽んじる合理主義者
2. ただの反抗期・不良

といった感じでしょうか。肝心の信長の「努力」が描かれていないのが不満なんです!!

そうです、信秀の跡をついだ信長は、ただのうつけではありませんでした。
「準備と努力を怠らない人」信長についてとりあげてみたいと思います。

[自分磨き] 座学、演習、実践
 信秀の嫡男として、英才教育を受けていた信長。

「信長公記」には
「信長、十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。馬を朝夕、御稽古、又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり。市川大介、召し寄せられ、御弓御稽古。橋本一巴を師匠として鉄砲御稽古、平田三位を不断召し寄せられ、兵法御稽古、鷹狩り・・・」
とあり、遊び暮らすというよりは、むしろ戦い方の研究に余念がなく、兵法などについてもしっかり学んでいたようです。武器の研究もかなりすすめており、鉄砲の運用、長槍の検討も家督継承以前に行われていたようです。

同じ「信長公記」には、信長が村木城攻めにあたって源平の故事をひいたり、茶道、能、建築、襖絵に対する理解度も高く若いころからずいぶん勉強熱心な側面もあったようです。一般教養はある程度おさえていたようです。

 ちなみに、うつけとして屋内で事務作業しているイメージがない信長ですが、信秀の死の2年前から国内を治めるための書類を発行しています。外でやんちゃしているだけではなく、きちんと政治も行っていました。

[側近磨き]
 これは次回の記事とも絡むのですが、信長は常に側近を引き連れて野外で実戦演習を行うことがよくありました。
 側近の先頭に立って、一番手柄を立てる、敵陣に切り込むなど、なかなか激しい演習だったようです。この側近を率いるにあたって、信長が自分で磨いてきた体術や兵法が生きていたようなのです。

 ようするに、うつけと呼ばれていた信長という人は、
「努力と準備を積み重ね、万軍の先頭に立てる人物」だったんですよ!!

ただ、その生来の派手好きとエキセントリックな行動が若干誤解を招きやすい人物であったことは
否定できないと思いますけどね。まあ、あの美的センスって今でも名古屋で見ることができるもののような気もしますが。



尾張の梟雄織田信秀はこの世を去りました。
美濃で獲得した領地はすべて失い、切り取った三河も失い、尾張の東側は今川氏に蚕食されています。
そんな中、末森城で信秀は息を引き取ったのです。

「信長公記」より、その葬儀場面を抽出しました。

「信秀殿は疫病に罹り、祈祷や療養を繰り返しても回復に向かわず、ついに天文21(1552)年3月3日、42歳の若さで亡くなられた。露は風に散り、雲は月光を隠す。生死は無常の世の習いである。
供養のため一寺が建立され、万松寺と名づけられた。葬儀には国中の僧や、諸国往来中の僧らを数多招き、その数は三百人にのぼった。
 信長公は林・平手・青山・内藤の家老を伴い出席した。一方弟君の勘十郎信行殿には柴田権六勝家・佐久間大学盛重・佐久間次右衛門信盛らの家臣が付き従った。

 信長公の焼香の時間となった。その時の出で立ちと言えば、長刀と脇差を縄で巻き、髪は相変わらず茶筅にたて、袴もはかずにいた。その格好で仏前へ出、抹香をわしづかみにして投げかけ、すたすたと帰ってしまった。これに対し、信行殿は折り目正しい服装・作法で威儀を正していた。
 その場のだれもが「やはり大うつけであるよ」とささやき合ったが、その中で筑紫から来た客僧のみは、「あれこそ国持の器よ」と評したそうである。
 この後、信長公は上総介信長と名乗った。末盛城は信行殿に譲られ、柴田・佐久間らが付けられた。」

 位牌に灰をぶつけた気持ちは、なんとなく察することができます。信長が引き継いだ織田弾正忠家は、信秀他界以前から下り坂で信秀他界後さらにそれに拍車がかかっている状態であったのです。

<状況概観>
1551年、信長は家督を継ぎました。その当時の尾張一帯の情勢を軽く地図にまとめました。
信長直轄を赤、親信長をピンク、反信長織田氏を青、今川方を緑で示しています。

初期勢力(マクロ)
 信秀の最期の勢力から、弟の信勝が入っている末森城とその周辺が抜けています。尾張の西部には、今川が迫り、北部は完全に支配下からはずれています。とはいうものの、信秀時代の余韻を残し、「一見」それなりの勢力があるように見えますが、この時点で彼らの忠誠心は信長に対して絶対的なものではありませんでした。

苦境に追い込まれたら、友人たちが離れていった。まあ、人生ではよくあることですね。
そんな、経験を多くの戦国大名がしてきました。
今回取り上げている、織田信秀もその経験をしたうちの一人です。
しかし、彼は「事前の準備」と「省エネ」でこの苦境をかろうじて切り抜けたのです。

<信秀の全盛期:信秀(赤)、織田一族(青)、斎藤(黄))

無題6


[前提] 加納口の戦いにて、信秀大敗北
 絶頂を迎えた織田信秀。1544年、尾張国内で大動員をかけ、約2万名を引き連れて再び美濃へと進出し、加納口まで押し寄せました。しかし、道三は固く稲葉山城に立てこもっています。周囲を焼き討ちして気勢を上げた後、信秀は尾張に帰還しようとしました。
 そこに突如として、道三が稲葉山城から出撃。その後尾にくらいついてきたのです。そもそも、指揮系統が統一されていない尾張勢は、満足に撤退戦をしのぐことができず、大敗北を喫しました。約5千名が討ち死にしたとすら伝えられています。
 これが、信秀苦境の始まりでした。信秀は、美濃方面、三河方面、尾張国内それぞれに敵を抱えることになりました。一気に、坂をころがり落ちる信秀。しかし、彼は滅亡にいたることはありませんでした。その理由について考えて行きます。

[展開] 各方面の戦線整理(↓ 後ほど年代を入れるように。)
<尾張国内>
 尾張北部の織田氏離反があいつぎました。1548年犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が叛旗を翻しました。これを鎮圧したのち、美濃での大敗北の結果をフォローするために、ふたたび美濃に出陣した信秀。そのとき、主筋で清洲城周辺に勢力をもつ織田大和守家が突如として那古屋に襲撃をかけてきました。これを撃退するために、すばやく尾張に取って返す羽目になりました。
 国内で動乱が起こっているということは、国外へ手を伸ばすゆとりがなくなるということです。次々と苦難が信秀におそいかかります。

<美濃方面>
 尾張北部の織田氏離反に呼応して、美濃では斉藤道三が動き始めます。織田方に奪われていた大垣城奪還のために動き出した道三。これを後ろからたたくため、信秀はすばやく尾張北方の動きを鎮圧すると、美濃に侵入しました。
 しかし、突然清洲の織田大和守家が那古屋城に攻撃をかけてきたのです。清洲救援のため尾張にひきあげざるを得なくなった信秀。大垣城は道三によって奪い返され、守護土岐氏を入れた大桑城も陥落してしまいます。東でパッとしなかった信秀は、1549年に道三と和睦しました。
無題7


<三河方面>
 美濃加納口で敗北した年、信秀は三河ではある工夫を行っていました。調略により水野氏や戸田氏を寝返らせることに成功していたのです。しかし、松平宗家をついだ松平広忠がなかなか攻撃的。しつこく安城を攻撃してきていました。1547年、この松平を屈服させるため、人質として今川に送られる予定であった竹千代(のちの徳川家康)をかっさらったのです。美濃・尾張に戦乱をかかえていた信秀は、どうも政治工作でこの戦線をしのぐつもりだったようです。
 それでも屈しない、松平広忠。1548年、ついに業を煮やした信秀は、三河岡崎城をおとすため出陣します。が、岡崎城の正面に位置する和田砦をおとして岡崎にむけて進軍中、小豆坂で今川の援軍と接触、敗北してしまいます。
 再び信秀の知略が光ります。松平広忠が暗殺されたのです。無主となった岡崎城は混乱。これで三河は信秀の手におちるかと思いきや、今川の大軍が安城城を取り囲みこれを陥落させてしまいました。長男の信秀は捕虜に。松平に対する人質であった竹千代と交換することになりました。結局、竹千代を握った今川が三河を占領することになったのです。
 やがて、今川は鳴海の山口氏(信秀家臣)を調略したり、知多半島の水野氏を勢力下に加え、徐々に尾張に侵入していくようになります。
 その攻勢が強まる中、信秀は他界しました。

無題8



[考察] 苦境のときこそ「根回し(謀略)」×「選択と集中」
 そもそも、信秀は常に美濃と三河という2方面を意識しながら、完全に支配下においていない尾張勢を率いて戦う必要がありました。苦境にあっても、大きく崩れなかった原因を考えてみましょう。

<外部に対して>
 美濃に対しては、すでにある拠点である大垣城を中心として、その勢力を維持しつつ道三を滅ぼすために直接的な軍事行動をとりました。一方、三河に対しては、知多半島の水野氏を裏切らせて味方に引き込んだり、竹千代を誘拐したり、松平広忠を暗殺したりと政治工作が目立ちます。美濃に対するよりも少ない頻度で出陣しているのです。やはり、美濃に対してはより直接的な軍事力行使という選択をとった以上、三河に対しては政略という手で兵力を節約したのではないでしょうか?また、美濃で行き詰ったときに、すばやく和睦を結んで三河に転戦するというのもよい方向転換であったと思います。
 限られた資源、「選択と集中」が重要ですね!!

<内部に対して>
 信秀が那古野を奪って美濃出陣まで4年。尾張北部の織田一族をまとめる時間としては、短いといえるでしょう。よく、信秀は尾張を直接的に統治しなかったので苦しんだのだと批判されますが、正直各地の領主の下に自分の家臣を送り込んだり、各地の領主の首をすげかるなんて簡単にできることではありません。毛利元就は、当主不在となった小早川・吉川に息子を送り込んでその支配を確立するまで3~4年はかかっていたようです。それを考えれば、信秀が直接支配を確立するなんてほとんど無理な相談だったといえるでしょう。
 とはいえ、信秀は「裏切る可能性が低い味方」は作っていました。岩倉城主織田信安は義理の兄弟。美濃斎藤氏をけん制する実力をもつ美濃遠山氏も義理の兄弟。彼らは、実際に信秀と反目することなく
信秀の苦境をよくささえていたのです。
 事前の根回しが重要だったのですね!!

前回に引き続き、織田信秀を扱っていきます。
那古野城を奪取するというかけに勝利した信秀。その余勢をかって、三河安城を陥落させ長男信広を城主としました。信秀は、尾張下四郡のうち海東、海西、愛智と主要な3郡をその支配下としました。
みればわかる通り、守護代織田大和守家の勢威は一気に低下。
信秀は、尾張最大の勢力となりました。
無題5

 そんな、信秀の目は東美濃を制圧したばかりの斎藤氏に向けられます。
さらに自らの勢力を高めるため、自分の勢力圏外である尾張上四郡にも進出をはかろう
と画策します。

[前提] 美濃の情勢
 美濃守護代斎藤氏は、その家臣長井氏にとって代わられました。養子として入ったのがあの斎藤道三。ついに1542年、斎藤道三は守護土岐氏を尾張に追放しました。


[展開] 「大義名分」×「越前との連携」で勝てる戦略作り
 信秀は、旧来の大和守家に対して臣従の姿勢を崩していませんでした。なので、尾張上四郡の守護代で大和守家と対抗している伊勢守家に対する指揮権なんて持っていません。手をつけたくても、むりやり実力でねじ伏せていくしかありません。
 そんな時、美濃守護土岐氏が終わりに転がり込んできました。美濃斎藤氏征伐を大義名分として、上四郡の兵を率いて軍事行動を行い、自分の勢威をみせつけたり豪族と懇ろになることによって、上四郡に影響力を伸ばすチャンス!!しかも、美濃国内にはいまだに守護派の勢力も残存しているはず。信秀は、機会を見損ないませんでした。(← これ、信長が足利義昭を担いでおこなった上洛と構図が似ていると思いませんか?)
 もちろん、大義名分だけで戦うような甘い男ではありません。しっかり、勝つための手段も講じていました。それが、越前朝倉孝景との共同作戦です。武勇の聞こえた朝倉孝景と南北から美濃を討つ。
 信秀の手腕が光ります。

[結果] 尾張勢、美濃平野を席巻する。

 この戦い、いまいち経緯は明らかになっておりませんが、どうも斉藤道三は無理せず戦わなかったようです。1544年には、大垣城の奪取に成功。自らの縁戚である織田信辰に支配させました。大桑城には、守護土岐氏を入れることに成功。斉藤道三は、稲葉山城におしこまれることになったのです。
 ここに、信秀の権威は絶頂を迎えたのです。ちなみに、赤が信秀がほぼ直接支配している地域で、青が信秀以外の織田一族。このころは、みな大概信秀の指揮下に降っている状態でした。

無題6

[考察] 「兵は拙速を尊ぶ、鉄は熱いうちに打て」
 正直にいって、土岐氏が転がり込んできたタイミングで出兵するのは拙速といっても過言ではありませんでした。少し年表で整理してみましょう。
1538年 那古野城奪取
1540年 三河安城城攻略、長男信広を配置
1542年 土岐氏追放。美濃侵攻
 信秀飛躍のきっかけとなった那古野城奪取から今回とりあげた美濃侵入まであった時間は4年。これは、東尾張を掌握するのには十分な時間でしたが、尾張の北部に手をのばすゆとりはなかったでしょう。
 そんな中、転がりこんできた美濃守護土岐氏。のんびり尾張北部を平定してから美濃に手をのばすのではいけません。時間がたてばたつほど美濃衆は守護から斎藤氏へ心を移すでしょうし、北部平定を行ったとして北部の豪族衆を完全に従わせことなんて簡単ではありません。まあ、軽く10年はかかったのではないでしょうか?そう。どんな状態でも、拙速といえども、好機は活かされなければいけません。
 信秀は合理的に考えて、飛び込んできた機会を素早く活用することにしたのでしょう。しかも、対外勢力との連携も加えて、勝利の確度を上ることを忘れない細やかさでした。 

しかし、ここから一気に「勝者の混迷」に陥る信秀。やがて、信長が登場します。

 織田信長の人生を深彫りするにあたって、その父信秀の人生を振り返ることとします。
革命児、斬新な戦法の採用者といった印象のある信長ですが、色濃く父親の影響を受けている印象があります。(というか、父親信秀のほうが信長よりも狡猾な戦い方をする印象が。)

odanobuhide

 今回は、織田信秀による那古野城奪取から「やるべきことをためらわずに行う」姿勢を学びます。

[前提] 群雄割拠の濃尾平野
 尾張の国は、守護代織田氏が2つに割れて、激しく争っていました。織田大和守家と織田伊勢守家です。それぞれ清州と岩倉に本拠地をおき、織田信秀は織田大和守家の家臣でした。ところが、この清州の織田大和守家と勝幡城(地図赤マーク)を本拠とする織田信秀は仲が悪かったのです。
 そんな織田信秀は、地図赤〇で囲んだ海西郡一帯に所領を持っていた。信秀の父信貞の努力(というか、かつあげ)で、商業拠点である津島が支配下に組み込まれていました。信秀には、近場に3つの大勢力を抱えていました。
1. 主筋にあたる織田大和守家(清州)
2. 主筋の敵にあたる織田伊勢守家(岩倉)
 そもそも、海西郡の旧主はこの伊勢守家で、仲がよいはずありませんよね。
3. 織田大和守家となかの良かった、那古野今川氏
 駿河・遠江を所領としていた分家の今川氏は、熱田と那古野を支配下に置いていました。
また、隣国三河の岡崎では、徳川家康の祖父である松平清康が大勢力を誇っていました。北では、東美濃が斎藤道三を中心にまとまりつつありました。

無題

[承前] 地道な勢力拡張政策
 信秀は、一度織田大和守家と戦いますが、大和守家は尾張下四郡を保持しており、簡単にいうと信秀の3倍は勢力があるわけです。苦戦ののち講和しました。
 講和の間、信秀は3つの拠点に目を向けました。津島に劣らぬ商業拠点熱田、名古屋の北の要害守山、清州の川下にある地域萱津です。萱津の土田家からは嫁を迎え(これが信長の母です。)、守山には豪胆な弟信光を配置、熱田では加藤家に接近しました。また、三河の松平清康の押さえのためには、
 地図で図示してみました。信秀がじわじわと清州を囲んでいる様子がみてとれますね。

 これらの施策は、約3年の間に行われたといいます。

[転機] 守山崩れ、三河が今川の属国に。
 信秀が、三河の英雄松平清康をけん制するために婚姻関係を結んだ桜井松平氏は、常に松平宗家に反抗的な士族でした。これが、織田信秀と組んだことが気にさわったのか突如、岡崎から松平清康が守山に押し寄せてきました。
 国内に敵の多い信秀、弟の信光にまかせた守山の運命もここまでかと思いきや、松平清康は内訌で暗殺されてしまったのです。これで、一難去ったと思いきや、大事件が起こりました。 
 信秀と通じていた、桜井松平氏が宗家をのっとったのもつかの間、遠江・駿河の大名今川義元が三河岡崎を占拠、松平信忠を傀儡として三河をその手に収めてしまたったのです。もちろん、那古野今川氏は活気づきます。織田大和守が担ぎ上げている守護斯波氏との婚姻話を通じて、連合をつくろうとする織田大和守家。これまですこしずつ分断してきた敵が、一気に巨大なものとなりつつありました。
 しかし、信秀の地盤はまだまだ不安定。(青 信秀に敵対的な織田氏、赤 信秀勢力下、緑 今川勢力下)

無題3


[信秀の決断] 那古野城奪取、信秀飛躍。
 大きな勢力として尾張に干渉しつつある今川氏、あなどれない敵清州の織田大和守家。まだ、十分に確立できていない自分の地盤。それでも、信秀は躊躇しませんでした。
 この状態このままほっておくと、今川と結んだ大和守家に終わりの国人衆はなびき、信秀が滅びてしまうことでしょう。「戦略的に見て不利にあるとき、時機を待たずに積極的に行動して挽回する」というのは、信長にもよく見られる思考パターンです。
 信秀は、謀略を用いて那古野城の賢臣を取り除き、油断させた那古野城内に拠点をつくりそこから奇襲して那古野城を奪取したのです。奪取後、本拠地を那古野に移した信秀は周囲に末森城を築いたり、前田氏を調略、鳴海に家臣である山口氏を派遣するなどその成功を大いに活用。大きな勢力を築いていったのです。
 (ちなみに、この「新たに征服した土地に本拠地を移す」という行為も、信長は盛んに行っています。)
 無題4



[本日の教訓] 孫子よりもマキャベリズム
 孫子は、環境にあわせて負けない戦略を練ることを重視します。一方、マキェベリズムでは手段を択ばず成功の道筋を実現することを重視するのです。まず、受け身となって、好機が巡ってくることはまれです。もう一つ、全体の形成が悪くなると加速度的に悪さが進展することも事実です。そんな時、待ちの姿勢ではなく攻めの姿勢をとらなければ、局面は打開できないでしょう。

お疲れ様です。

短文ですがご容赦ください。
いろいろ断片的なエピソードから、仕事に役立つエッセンスをまとめる。ひいては生き方というものを考えてみたいと始めたこのブログですが、新人研修などの波に洗われいまいち深彫りしきれていません。そこで、私の勉強のためにも、ある人物の生涯を全体通じて考察することでよいコンテンツを作りたいと考えています。

とりあげるのは、「織田信長」


Oda-Nobunaga

 数々の逆境にチャレンジしてきた彼の人生から私も学んでいきたいと思います。
 よろしくお願いします。

 なかむら ふみじ

いよいよ、太平洋戦争シリーズもこれで終わろうと思います。
損を出せば出すほど、取りかえそうと必死になる状態。
「リスクをとれば苦しい状況を打開することができる」ケース vs「打開が不可能な」ケース
 正直、理性で見極めるのも難しいですし、感情的にも少し処理に困るというのが一般的なのではないでしょうか?そんなとき、どうするのか?
 正直に言って、損切りという判断は、局面に対する主導権を持つ人間が行うべき事項ですが、
損切りという行為を周囲が納得して行うための環境整備も同時に必要とされています。
 その重要性を垣間見ることができたのが、太平洋戦争の終戦ですかね。
maxresdefault
  玉音放送を聴く市民の姿です。

<概況>
 朝鮮半島と台湾以外の外部帝国領を失った大日本帝国。もはや、海軍力・空軍力も十分になく、陸軍の物資・装備も厳しい状態に追い込まれていました。沖縄に米軍が上陸、これを占領。大都市は空襲で焦土と化し、もはや戦争継続が不可能なのは誰の目にも明らかでした。
 ところが、戦争開始時、戦争に対して消極的であった陸軍はここへきて徹底抗戦を主張し始めていました。曰く「国民を2000万人特攻で使えば、アメリカを撃退できる。国土が焦土とかそうとも、徹底抗戦だ」。
 内閣は和睦に傾く中、軍部の承認が得られないことに苦心して失敗した小磯国昭首相は、内閣総辞職。陸軍出身で侍従武官、昭和天皇の側近であった鈴木貫太郎が総理大臣に就任しました。海軍はもはや主戦力を失っているので厭戦的でしたが、陸軍は主戦論を主張してやみません。ここで降伏すれば、ドイツのように軍は解体され、国体(天皇をいただく体制)は否定されるだろうというのが、彼らの見通しでした。
 交戦を続ければ、国自体が滅ぶほどの死傷者が出るリスクが高い(事態の打開はほぼ不可能)にもかかわらず、これまでの損害を惜しみかつ現状維持を希求し、徹底抗戦を主張する不思議な人たちがいたのです。

<進展>ポツダム宣言届、原爆投下、聖断へ

 そんな中、日本の無条件降伏を勧めたポツダム宣言が届きました。通告内容は「無条件降伏」。内閣は、この宣言受諾で大きく揺れ動きました。本音を言うと、鈴木首相以下多くの閣僚がこれを飲むしかないと考えていたのですが、阿南陸相はこれを渋りました。(実際には阿南も受諾に賛成していたが、暴発しそうな陸軍の手前、表立ってこれを主張できなかった。)
 しかし、ついに広島・長崎に原爆が落とされ、ソ連が参戦しました。もはや、全員一致の賛同が得られないと悟った鈴木貫太郎は、昭和天皇のご高配を願い出ます。本来は、決断する機能を持ち合わせていない天皇が、終戦を決断し臣下に命令するという立憲制始まって以来の異常事態が起こったのです。
 早速、天皇の降伏受諾の決意を述べたスピーチが録音されました。これが、玉音放送です。
 リスクが高いと判断し、権限をもつものが損切りを命令する。これはよい決断であったと思います。

<転機>陸軍の暴発「宮城事件」
 ところが、この決断を不服に思った陸軍の一部高級参謀たちが、皇居を封鎖し玉音放送の録音板破壊のために蜂起したのです。彼らの多くが、徹底抗戦を主張する主戦派でした。正直に言うと、彼らの多くが大日本帝国の生存に積極的な見通しを持っていたとは思えません。口では勝てると主張していたのですが、内面ではどうだったのでしょうか?
 そう、どんなに損切りが当然な場面でも感情的に抵抗してしまう人たちは存在するのです。

<考察>損切りをスムーズに行うためには
 「聖断」から、損切りについて考えて見ましょう。
まず、権限をもつものが損切りをしっかり命じるというこの姿勢は間違っていなかったと思います。
しかし、損切りを行うということは、これまで出してきた損をあきらめて戦局を放棄することを意味します。これは、損自体を捨てることだけではなく、この戦局に携わってきた人間の人生そのものを否定する側面もあるのです。その戦局にその人が費やしてきた時間などの資源と、その人の将来を崩しかねない決断なのです。だからこそ、損切りを決断した以上は、それによって損をする人たちのフォローをおこなうことが大事なのです。
 日本では、従軍した人たちに恩給を与えたり、戦死した人たちを祀るなどのフォローができたからこそ、戦後大きなひずみを抱えることなくやり過ごすことができたのだと思います。損切りするときは、切った人たちへの配慮を忘れないようにしたいものです。


 

あてがはずれる。環境の激変で事業が成り立たなくなる。今の世の中ではよくある話。もちろん、あてがはずれないように、正確な予測を立てることは大事です。太平洋戦争中、太平洋の島々に展開していた日本軍もアメリカ軍の行動予測に失敗し、苦戦に陥りました。


800px-Second_world_war_asia_1943-1945_map_de

 

<前提> 日本軍の見込み

 ドイツとのアフリカでの戦いにめどを立て、物資・装備も十分に蓄積できたアメリカ軍は、オーストラリアを基点に、太平洋の島々伝いに北上を開始しました。攻め寄せる側のアメリカ軍は、占領した島に飛行場を築き、制空権を確保した島々のうち、日本軍が高度に要塞化している島の攻撃は避け、手薄だが制空権の都合上確保したい島を占領していく「飛び石作戦」を採用しました。

 待ち受ける日本軍は、それぞれの島に防衛拠点を築き、アメリカに打撃を与える機会を待ちます。

 

<結果> 日本軍壊滅へ

 結果は、最悪でした。アメリカは物量にまさるので、日本軍は太平洋の島々の制空権を取り返すのに苦戦します。そうこうするうちに、大量のアメリカ潜水艦が出没するようになり、あっというまに、制海権すら確保できなくなりました。日本軍は、なすすべもなく無力化されるか、手薄な部分を各個撃破され、そこから航空攻撃を受けて壊滅していく結果となりました。

 

<考察> 「見込みが外れたときの対応」 

 予測をはずすことというのは、世の中ではよくある話。「飛び石作戦を予測できなかった日本軍が悪い」という話はよく効きますが、戦争中は日米ともに予測ミスを繰り返しています。なので、今回は「予測ミスを挽回する方法」について考えてみたいと思います。 

 

手順① 素直に予測ミスを認めて相手の動向を分析する。

 当たり前ですね。旧来の方法を墨守するなんて真似は死んでもしてはいけません。日本軍は、この部分の対応が非常に遅く、これが致命的でした。アメリカ軍は、占領した飛行場から護衛の戦闘機をつけ、大火力の戦艦・駆逐艦が護衛する輸送船団を連れて各拠点を制圧していきました。

 私たちの立場に置き換えると、「事情環境を読み間違えたら、すばやく再分析を行う」といったところでしょうか?

手順② ポイントは、自分の資源配分×相手の弱みをつく

 分析後は、「相手を崩すシナリオ」を作ります。もちろん、自分の資源とその配分も考慮にいれつつです。

たとえば、今回のケースについて考えて見ましょう。

アメリカの基本戦術は、「制空権の確保」→ 「大兵力・物量で手薄な島を襲う」→ 「島に空軍拠点を確保する」のループですね。

 まず、今回のケースで制空権の奪還はほぼ不可能に近いですね。では、「大兵力・物量で手薄な島を襲う」というのはどうでしょうか?もちろんこのプロセスには、「島への艦砲射撃・空襲」「上陸」「制圧・掃討」「補給」の4つの要素がからんでいます。前3つは、どの島に攻撃が加えられるか予測するのが難しいので、アメリカにぶつかられた島がふんばるしかありません。では、最後の1点、米軍の補給はどうだったのでしょうか?

 実は、「飛び石作戦」とは「アメリカの拠点間距離が長くなる」という欠点が潜んでいました。実際に、攻撃中にアメリカ側が物資不足で困るなんてシーンもありました。手薄な物資集積拠点となっている島を、火力が大きい主力戦艦で襲撃するというのもありだったかもしれませんし、護衛つき主力戦艦群で手薄な輸送船団に襲い掛かって、そのまま先方の攻撃隊を襲撃するのもありだったかもしれません。アメリカによる飛び石作戦開始直後は、アメリカの航空戦力も手薄で日本の航空戦力も海上戦力も残っていたので十分成算があったはずです。

 

 まあ、予測がはずれたら、現状分析・現状にあわせて方針転換は、鉄則ですね。

↑このページのトップヘ