歴史に学ぶ人生の教訓と仕事術 ー ふみじの人生訓ー 

説話の集合ではない歴史から、人生を考える。

田原坂をまとめるのには少しMPをためる必要性があるようなので、今日は少し毛色の違う人の話をしてみます。
 叔孫通とは、自分の専門性を活かす場を「待つ・認めさせる・生かす」で、厳しい秦末期の時代を生き延びました。


今日取り上げるのは、「叔孫通」。
誰?それ?と思った方も少なくないと思います。彼の人生をまとめてみました。

■ 時代背景
 秦の始皇帝死後、始皇帝の後を継いだのは胡亥。すがすがしいほどの屑っぷりで、おやじ(始皇帝)の時代より厳しい法律と税金を民に課しました。ついに陳勝・呉広の反乱をきっかけにして、各地で反乱が勃発。
今回取り上げる叔孫通は、そんな時代に、弾圧を受けていた儒者(孔子の始めた儒学を研究するもの)として皇帝胡亥に仕えていました。


■ 叔孫通の「待つ」
 反乱のせいで各地からの税金が滞りがちになると、胡亥はその理由 を臣下に問いただします。
すると、一人の儒者が胡亥に向かって「反乱が各地に広がっていて税が滞っているのです。」と直言しました。
 これを聞いた胡亥はマジギレ。「なぜ、徳にあふれたわたしの治世で反乱なんぞがおきるのだ!でたらめをいうな!!」先ほどの儒者は牢屋にぶちこまれてしまいました。
 さらに、叔孫通は「名君が上におり、法令が整っているのだから、どうして反乱者などおりましょう。これは盗賊が群れを成しただけであり、どうして憂う必要がありましょうか」とおべんちゃらをいう始末。
 あからさまなウソを言う叔孫通は周囲の批判を買いました。このおべんちゃらの後、叔孫通は秦から逃亡しました。
 

■ 叔孫通の「認めさせる」

 さて、時代は流れ叔孫通は主君を転々とします。行先が滅びるたび、あらたな天下をとりそうな主君のもとへと飛び回っています。最後に、劉邦(漢をおこして中国を統一した人物)のもとにたどり着きます。当時、劉邦は項羽との戦いにかかりっきり。儒者嫌いの劉邦にいやがらせされながらもこれにへつらいやっていきます。
 ある日、劉邦に人の推挙を頼まれた彼は、腕っぷしのある元盗賊を推挙しました。自分は、儒者として大量の弟子を抱えていたのにも関わらず、ただ力しかない盗賊を推挙した行為は弟子の不信感を招いたようです。

■ 叔孫通の「生かす」
 諸国を統一した劉邦の部下は、実は彼の同輩が主。基本的にほとんどの部下が元庶民なのでした。なので、劉邦は無礼な部下に悩むこともしばしばでした。そんなとき、徐孫通は「儒者は進取には役立ちませんが守成には役立ちます。魯の儒者と私の弟子たちに朝廷での儀礼を制定させましょう」と言って、儒学嫌いの劉邦に簡単な礼法を教えて、前漢で代表的な儒者として尊敬を集めることになったのです。

■ 叔孫通は「自分の成功」を明確にイメージしていた。
 さて、ここまで読んでいただいて、「小見出しとエピソードが一致しねええ」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。なのにここまでお付き合いいただきありがとうございます。
 ここで、叔孫通自身が明言していないのですが叔孫通の人生の目標とは何だったのでしょうか?私は、「自分の極めた儒教を広げる」ことを心の底から求めていたのではないかと覆います。正直、この秦末の動乱を安全に生き延びたいと思えば、権力者から距離をとりどっかの豪族にほそぼそと儒教を教えてやれば生きていけたと思います。しかし、彼は権力者から離れることはしませんでした。
以下が種明かしです。
① 儒教を広めるチャンスをつかむためには、何よりも命が大事(待つ)
 そもそも自分が殺されては何にもなりません。一つ目のエピソードにみる胡亥へのへつらいはこれに当たります。目の前の正しさにとびつくのではなく、自分の専門性が生かせるタイミングが来るのを待ったのです。
② 儒教を広めるチャンスをつかむためには、権力者に認められることが大事
 戦乱真っ只中の劉邦に戦では使い物にならない儒者を推挙しては、劉邦は叔孫通を二度と顧みなかったでしょう。劉邦が求めているものは何か?を真摯に考え、これにこたえることで劉邦に認知してもらうことが重要なのです。
③  儒教を広めるチャンスをつかむためには、環境が整のったらためらわずとびこむことが大事
 劉邦はめちゃくちゃ儒教嫌いでした。儒者の冠を取り上げて自分の小便を流し込むという、少し理解することができない行動に走るほど嫌いでした。そんな劉邦が儒教を必要とするタイミングを見極め、劉邦でも理解できるようなレベルのコンテンツを示す。いやー、しびれる。

 叔孫通は、自分の「儒教を広げる」という目標を具体的にイメージしていたので、自分が挑戦するべきタイミングがどこなのか?それにはどんな前提条件(周囲からの認知、環境)が必要なのかを理解していたのだと思います。

 私も、叔孫通を見習って大業を成し遂げたいものです。
(まあ、叔孫通には儒学に対する圧倒的な専門性があったんですけどね。) 

 この記事では、熊本城攻防戦を検討することで、一見必要に見えて簡単に上げられそうな成果に対する誘惑に打ち勝つためには、「目的を意識すること」と「リスクを管理すること」の重要性を示すことを示します。

背景

 薩軍は、蜂起し2/15に鹿児島を進発、2/18水俣に侵入しました。一方、迎え撃つ熊本鎮台には、2/9には警戒警報が、2/14には熊本鎮台死守の命令が届いていました。

 

  熊本鎮台

<作戦>

 熊本鎮台は、総兵力では薩軍に劣り、神風連のトラウマ(敗北して司令官たちすら戦死)も残り戦意も高いものではありませんでした。とにかく、加藤清正公が設計した要害 熊本城によって立ち、援軍が来るまで食い止めるという方針で一致しました。熊本県各地に散らばる駐屯兵をかき集め、熊本城に籠城したのです。

 

<将>

 神風連との戦いで戦死した司令官に代わり、佐賀の乱で熊本鎮台の兵を率いて勝利した谷干城が率います。のちに日清戦争で活躍した児玉源太郎や樺山資紀も付き従います。

 

<兵力・装備>

 徴兵した兵が主体の約4000名が立てこもりました。一方、大砲類は十分で火力は単独で薩軍に拮抗します。補給・兵糧もこの段階では十分でした。

 

<何を行ったか>

2/14以降は、城門を閉ざし、地雷を通路に埋設し、砲を据えるなど、籠城準備にいそしみます。

2/18に、薩軍の戦法を熊本県南部で確認した谷干城は政府に打電・報告し、熊本市街を焼き払うことを決定しました。

2/19 市街部を焼きはらう直前、正午すぎ熊本城本丸で失火。兵糧500石と本営・天守閣が焼けるという事故が起こりました。(こののち熊本城は兵糧不足に悩むことになります。)

とはいえ、予定通り射撃のための視界確保のため市街地は焼き払われました。

2/20 援軍である警視隊の一部が熊本城に入場し、合計で4000名程度の兵が熊本城に立てこもりました。

市街はあらかた片付き、広い熊本城外郭に少ない兵力を分散させなければいけないので、川に接していない面にしっかりと砲を据えています。川に接している部分(本丸の裏手)には、大量の櫓があり、鉄砲で十分防衛が可能な状態になっていました。

 籠城する政府軍


  熊本城の周りって案外川が多いんだなと思ったあなた。実にいい視点です。のちにこれが重要な役割を果たすことになりますよ。

■ 薩軍 

 さて、決起した西郷達は、その作戦目的をあいまいにしたまま全軍で熊本鎮台に出撃しました。高く積もった雪をかき分け、水俣に2/18に突入しました。熊本鎮台が近づくにつれて、薩軍も鎮台を攻めるべきかを検討しはじめました。

 

<作戦>

 実は、薩軍の司令官である桐野は、もともと熊本鎮台に司令官として在籍していた時期がありました。なので、熊本城という広大な城に、数と装備におとる神風連に押しまくられたクオリティーと戦意の低い数が十分とは言えない兵士が立てこもっているということをよく知っていました。しかも、城の内部にも非常に詳しかったわけです。

 また、鹿児島から届く補給物資のことを考えると、熊本を無視して進むリスクもありました。鎮台の兵力に自由を許せば、退路と補給路が絶たれること間違いなしです。

 もう一つ、彼らにはある見込みがありました。立てこもるのは薩摩関係者が少なくなく、内応者が出たり、不平士族が合流するなどして兵力が増強できると予想していました(実際に、内応工作も行われている)。そもそも戦意に乏しい鎮台が勝手に降参するかもしれないという希望的観測も流れていました。

 全体として、熊本鎮台をなめていた薩軍は、合流した熊本の士族池辺らに向かってこういいはなちました。「別に方略に定まりたるものなし。鎮台もしわれらが行路を遮らば、ただ一蹴して過ぎんのみ」と。

 

<将>

 桐野、村田、篠原らが率いる薩軍主力が殺到します。

 

<兵力>

 まだ、この段階で七個連隊すべてがそろっていませんでした。しかも、積雪の影響で永山が率いる砲兵部隊が到着していません。攻撃にあたったのは約5000程度です。

  
攻めれば落ちると相手を過小評価したこと、攻めるのに時間がかかるとどんなリスクが生じるのかを計算しなかったことが薩軍の運命を決定します。

  
 
  戦闘経過


2/22 午前六時に池ノ上隊1600名が西から熊本城に攻めかかりましたが、挫折して北へと転進していきました。

・続く午前七時には、入れ替わりで桐野隊800が城の南西から攻めかかります。やはりこれもつまづき膠着してしまいました。

・ついに、午前9時、城の南方・東方一帯で総攻撃が始まりました。政府側が占拠できなかった壇山を薩軍が占領。昼前には砲が到着し、城内に砲撃が可能になりました(とはいえ、本丸にはまるで届きません。)。
・段山を占拠するゆとりのなかった政府軍は、段山が占領された場合に備えて、段山にむけて大砲の火箭が集中するようになっていました。三の丸を一望できる段山を、別府隊が占拠しました。激しい砲撃を受けながらも別府隊も城内に向けて大砲を打ち込みます。 

・結局、どの防衛線も突破することができず、2/23も総攻撃を仕掛けますが、まったく薩軍は成果を上げることができませんでした。

 熊本城 攻撃
 2/23には、熊本市北部に乃木率いる政府軍が出没しています。ちなみに、輸送船迎陽丸も拿捕されており、海岸沿いの薩軍拠点は海からの艦砲射撃を受け始めました。熊本城に押さえを残して、北から迫る脅威にあたる必要性が出てきたのです。

  反省点

 

    なぜ、散発的な城攻めを行ったのか?

 池上が西側から攻めかかったとき、薩軍諸隊はまだ配置についておらず、城攻めで必要とされる大砲類はまだ到着していませんでした。なので、朝の攻撃に対して政府軍は砲を城内で動かして、攻め寄せる薩軍諸隊を各個撃破するゆとりがあったのです。

 

    なぜ、熊本城を攻めたのか?

ここが今回深彫りするべきポイントであると考えますので少し長文になります。

A.    熊本城を攻めるリスク

時間

 当時、神戸から出港すれば約2日で兵を博多に送り込むことができました。また、挙兵がばれて4日もあれば長崎に駐留している戦艦と合わせて二桁を越える戦艦が、薩軍の貧弱な海軍力に襲い掛かることでしょう。

相次ぐ不平士族の反乱鎮圧があり、時間がたてば声望を聞いて集まるかもしれない不平士族の数も期待できません。薩摩出身者の裏切りも結果論にはなってしまいますが、ほとんどありません。

 時間がたてば、政府軍の数と質は上がり、それが集結し組織だった運用が行われることになります。熊本鎮台を数日かけて落としたところで、九州のどこかで数万の組織だった敵軍とぶつかることになるわけです。

 

資源の消耗

 熊本城に立てこもる兵は、精鋭とはいいがたく兵力も明らかに不十分です。しかしながら、彼らは高い火力で防御陣地を構築し、それに拠って抵抗しています。通常、火力が高くなった近代戦で、防御陣地を突破することは難しいです。攻撃側が火力で劣る場合はなおさらです。攻めれば被害が出ます。被害が出れば、兵員の補充や負傷者の後送など様々な負担がかかるわけです。

 

― 熊本城を放置した場合のリスクは本当に高かったのか?

 薩軍は、鹿児島から補給を受けています。仮に勝利が続いたとして、鹿児島から離れれば離れるほど補給は困難になります。その途上に熊本鎮台のような政府側の拠点が健在であればなおさらです。しかし、これはかならずしも「熊本城を攻略する」という手段に結び付きません。熊本鎮台の兵力を無効化すればいいのです。これに関しては後述します。

 

 

何かを実行するにあたってリスクを考える際には、「時間(機会)・資源の喪失」と「行動しなかった場合のリスク」を考えて方針を打ち出すことが必要なのでしょう。

 

B.    目的の不在からくる戦闘の目標喪失

 

そもそも今回の出兵の目標は大挙東上し、明治政府に詰問するというふわふわしたものでした。まあ、仮に「上訴」を目的として戦うならば、立ちはだかる敵のみをたたいて進めばいいはずです。

そうなれば、輸送は鹿児島から順次送る形ではなく各隊が分散して運ぶ形になるのでしょうか(あまり、現実的とも思えませんが。)?

また、戦うか戦わないかの判断も立ちはだかるかどうかも変わります。とにかく、全面に現れる敵を野戦で破ることが中心となるでしょう。拠点に立てこもる敵軍というのは、防御陣地を攻める場合はかなり脅威ですが、一度防御陣地を離れるとその威力は著しく減少します。何せ当時は砲の運搬事態が難事でしたからね。動き回って薩軍の行く手を遮るものを打ち破る、もしくは陣にこもって出てこない敵軍をおびき出してうつのが良策でかつ目的にもかなうと考えています。

 

  結局、薩軍はどうすればよかったのか?

     攻撃する前

そもそも、熊本城を攻めない。のちに薩軍自身が行うことになりますが、川の流れを変えて城下を水浸しにして鎮台にこもる4000人の機動力を落とします。最低限の兵力を抑えとして残して、政府軍の主力が上陸するであろう博多を目指して進軍します。

もしくは、弱気なところをみせて鎮台から誘い出しひと思いに撃滅してしまうのもありかもしれませんが、谷干城が討って出るところが想像できませんね。

 

     攻撃してしまった後

今回の永井のように、攻撃開始後に戦場に到着した場合、攻撃の中止を上申しません。攻撃のために砲や人を展開してしまった場合、撤収にも時間がかかります。そのロスを考えるなら攻め落としてしまうべきです。まあ、損切して撤収してしまうか、すでにやってしまった行為を丸損としないために攻撃を続けるか迷うところです。私なら、2/22の猛攻撃ののち、兵員を入れ替えて夜襲し何がなんでも熊本城を落とすことを上申します。落とした後は、弾薬・兵糧(実際にはあまりありませんが)を奪取し、熊本を拠点として政府軍に対して抵抗するのが唯一の策だと思います。この方法だと、本来の目的である上訴はできませんが、抵抗可能な時間は飛躍的に伸びるのではないかと考えてます。

 負けるとわかりきっているのに、なぜ戦ったのか疑問に思う戦いというのは、歴史上いくつかあると思います。そんな現象が起こる原因には、いくつかパターンがあると考えます。

 
    過少評価

片方が、相手の戦力を過小評価して戦争に突入し、敗北するというパターンです。なので、以下の2点が重要な要素です。

・情報収集能力が低い

まったく見当違いの兵数もいしくは戦意推定を行ってしまい、敗北を喫するパターンです。() ナポレオンのロシア遠征、ヒトラーのソ連攻撃、日中戦争

・戦力隠蔽工作が巧み

動員した兵の一部を隠して相手を油断させてしかけさせたり、戦意が低いという偽情報を流して相手に仕掛けさせるパターンです。() 長篠の戦い (信長は、当初主兵力を少し遠くにおいていました。)

 

    追いつめられて、戦争以外の選択肢がなくなる。

補給の限界などの物理的な事情、外交などによる周囲との力関係の変化によって、不利を承知の開戦に追い込まれる状態です。この場合、とにかく戦わないための努力を繰り返すことが重要になります。(例)太平洋戦争(上層部で戦って勝てると思っている人間がほとんどいなかったのに、石油禁輸にもちこまれずるずる戦争に追い込まれる。)

 ■ 
開戦に至る経緯

 征韓論にかかわる政変に敗れた西郷は、故郷である薩摩にもどり慕ってあとをついてきた人々や地元の不平士族をまとめ私設の軍学校を開設しました。鹿児島県令とも協力して、鹿児島でも有数の学校に成長し、外国へ学生を派遣したり外国人講師を招いて学問を行うなど、規模が大きなものになっていきました。政府は、特使を派遣し西郷の私学校を監視させています。とはいうものの、「それほど困窮していない薩摩の士族には反乱の兆しがない」という報告があがるほど。西郷自身は挙兵する気はほぼなく、今後起こるかもしれない対外戦争に備えて英気をやしなっているといった気分だったようです。

おりしも、秩禄処分や廃藩置県を通じて士族が解体されていく時代。九州でも各地で不平士族の蜂起が相次いで勃発し、鎮圧されていきました(神風連、佐賀の乱など)。明治政府が戊辰戦争時代の同士に加えた弾圧を聞くにつれ、徐々に西郷の様子が変わっていきます。

危機感を抱いた明治政府は2つの手を打ちました。一つは、薩摩出身の警視隊在籍者を退役させ、密偵として私学校に潜り込ませました。ところが、密偵のために潜り込んだはずの巡査が西郷暗殺未遂事件を起こしてしまいます。明治政府が打ったもう一つの手が、弾薬・銃器回収です。鹿児島で製造・貯蔵していた弾薬と銃器を三菱に命じて回収させようとしました。西郷暗殺未遂もあって不満をためていた私学校生徒は、西郷の同意も得ずにこれに襲い掛かってしまいました。実は、この段階で西郷はほとんど挙兵する気はなく「ちょーしもた」と漏らしたと伝わっています。

 私学校生徒と距離をとるために鹿児島を離れて温泉地で保養していた西郷隆盛は、187722日に鹿児島へ帰りました。

 
  戦力比較

 西郷側(以降、薩軍と呼びます。)の戦力と、九州・関門海峡近辺に展開している明治政府軍との戦力を比較してみましょう。

    薩軍 

(兵力・兵種)

この段階では、私学校の生徒が中核となり、薩軍に従った鹿児島県各地の区長や戸長によって招集されました。ようするに、初期において薩軍は全体が意気盛んというわけではなかったのです。

大隊は、幹部20名、兵卒1800名、夫卒300名で構成されました。一番から七番大隊まで組織されており、各地で終結後、熊本に向けて出撃しました。

砲兵隊は、400名の2個隊が4斤山砲28門、12斤野砲2門、臼砲30問を引き連れて行動します。

 また、補給専門の部隊もあり、旧薩摩藩の行政手腕にたけた家老が指揮をとっておりました。同時に迎陽丸という補給艦も存在し、初期においては薩軍兵站の一端を担いました。

 

 これらの部隊は、集合次第2/17から順次熊本を目指して北上しました。ちなみに、鹿児島を守備する部隊はほとんど編成されませんでした。

 

(将)

 篠原国幹、永山弥一郎、桐野利秋ら戊辰戦争に従軍した経験を持つ軍幹部と、鹿児島県の区長(地方の首長)が指揮をとります。

 

(補給・装備)

 補給部隊をしっかり整えはしたのですが、装備・資金に問題がありました。実は、施条式のスナイドル銃も少なからず配備されていたのですが、薬莢製造の機材が貧弱。前装式のミニエ銃やエンピール銃を主軸とせざるを得ませんでした。資金は70万円でした。この軍資金で、弾薬・輸送・兵糧調達など各種資材を賄います。


    政府軍

(兵力)

187729日の段階で、薩軍の討伐体制に入りました。

・警視隊 1

 元士族で構成されている精鋭部隊(といっても警察)。半数は、各地の治安維持のために分散し、約半数の5千が前線に向かいました。

・東京鎮台、大阪鎮台、近衛

編成を解き、6000名規模の旅団を2つ編成して、2/20に神戸を出港しました。

・熊本鎮台

谷干城の下に、樺山資紀、児玉源太郎がいた。4000名の徴兵された兵力が駐屯している。

神風連の白刃に痛めつけられた、招集された兵隊が中心・とはいえ、大砲は野砲・山砲・臼砲は26門ある。地雷も埋設。

・博多 龍驤・日進・筑波・浅間の4隻の軍艦が駐留している。

・小倉 2個旅団が駐屯

・下関:陸軍が管理する巨大な要塞が海峡を監視している。駐屯する兵力は未詳

・広島鎮台 2個旅団が駐屯

 

 明治政府の擁する兵力は莫大ですが、基本的に開戦直後は分散して配置されています。

 

(将)

 もちろん、倒幕戦争やその後の内戦を戦い抜き、台湾出兵などで対外的な戦闘もこなしてきた熟練の将軍・参謀がひしめいていました。また、薩摩の完全な離反を防ぐために西郷の親戚を司令官に登用するなど、政治的な配慮も行われました。

 

(装備・補給)

 兵の質に期待ができなかった明治政府側は、最新鋭の軍備(軍服、銃火器)を惜しみなく投入しました。ガトリングガンを引きずっていったという記録すらあります。補給線も予算もほとんど問題ありません。ちなみに、電信も整備されており、西郷挙兵の報は一日も立たずに東京にもたらされていたのです。

 
  双方の戦略

    薩軍の戦略

兵力に劣る薩軍で行われた軍議では、まず戦争の目的に関する言及があります。「堂々政府問罪の軍を起こす」です。さらに、戦争の目的に関する議論が混沌としてくると、「議論の段階ではなく、先生を押し立てて、旗鼓堂々、総出兵のほかとるべきみちがない」としめくくり、軍事行動の目的が存在しないまま出兵が決定されようとしていました。翌日、幕僚の一人である永山が、「政府に詰問すること」と「総出兵」の間には距離がある、という指摘を行っていますが無視されました。

 作戦に関しても議論が行われました。出た案としては3つ。

1.    海路侵攻案 :艦船による東京・大阪の直撃

2.    三道分進案:長崎・博多を奇襲する海上戦力、熊本方面、宮崎方面それぞれに進軍する。

3.    全軍陸路東上案:とにかく全兵力一丸となり、敵の拠点を連破して進軍する。

一つ目の提案は、彼ら自身の海軍力の低さから早期に議題から外されます。第二案と第三案でしばらく討論が行われましたが、結局総兵力に不安のあった薩軍は、全軍一丸となり戦う方針をとりました。

 彼らは、倒幕戦争の過程でしばしば兵力的に不利な状態で敵の拠点を撃破する方策をとることに迫られてきました。実は、敵の兵力が分散しているときにその中枢を撃破することはかなり有効性が高いのです。各地で敵を撃破すれば、その地の不平士族が合流し、兵力も維持できると見込んでいたのかもしれません。

また、薩軍は、明治政府の戦力に関して、徴兵された鎮台兵よりも巡査隊を恐れており、当初はその動向を注視していました。

 

    明治政府側の戦略

目的は、薩軍の撃滅。方法に関しては、少し弾力のある方針を採用しています。

「官軍の策源地を大阪として、四国・中国・肥前・肥後まで進出してきた薩軍を撃破する。」というものでした。薩軍の出方をうかがい、編成した各旅団を投入するというのがその意図です。各拠点が簡単に落ちないという自信もありました。彼らは、薩軍が本拠地を離れて全軍で出撃でもしなければ、各鎮台は落ちないと考えていたのです。

 明治政府が読んだ、薩軍の方針は1. 艦船による東京・大阪の直撃、2. 九州全土を制圧してから中国・四国へ 3. 鹿児島籠城のいずれかだろうと予測していたのです。

 
  反省 ~開戦しないために何が必要だったか?~

    西郷のリーダーシップの欠陥

西郷は、かつての上司に感化されて「部下にまかせてやり、部下を育てる」という手法を好んで使う傾向にありました。実は、彼のこの姿勢が薩摩藩士同士が相討つことになった「寺田屋事件」の一因でした。部下に最低限越えてはいけないラインを指導したり、何かを強制するような指導方法が苦手であったようです。ひょっとすると、自分の暗殺計画に動揺し、部下への統制に迷いが生じていたのかもしれませんが。

 

    西郷部下の甘え

西郷の部下自体にも甘えがあると思います。正直、戦っても勝てないというのはだれの目にも明らかでした。合流を見込んでいた不平士族は、九州・中国地方で起こった反乱ですでに消耗しており援軍としては疑問符が付きます。増税や民生への不満も各地にはくすぶっていましたが、だからと言って薩軍に不平を持った民衆が合流することがありうるのでしょうか?最後は、西郷さんの力でなんとかなると思っていたふしがあるような気がします。

 

     明治政府の統制の欠陥

明治政府内も、方針を統一しきれていません。「西郷恐るべし」と「西郷だから理性的な判断が期待できる」の2分です。その状態で、密偵として派遣された警視隊退職者は、自分の任務に関して明確な理解がなかったのではないでしょうか?警視隊退職者は、① 西郷暗殺を命じられた ② 西郷暴発の誘導を命じられた ③ 西郷率いる私学校の偵察を命じられた、と当時から証言がばらばらです。西郷暗殺未遂がなければ、無駄な内戦もなかったかもしれません。

 

今回は長文となってしまいました。今後は、もう少しシンプルなものを心がけますのでよろしくお願いいたします。

みなさん、お久しぶりです。
ようやく、新居に落ち着きブログを書くゆとりが出てきたので、更新していきたいと思います。 
まず、最初に謝罪したいことがあります。
先日、熊本に研修で訪問する機会があり、田原坂と熊本城を訪れました。
そこで、感銘を受けたので、西南戦争に関して特集する機会をいただきたいのです。
大変申し訳ございませんが、予告した特集はさらに後日ということになります。よろしくお願いいたします。
 さて、本特集の目次です。順次記事を上げていきたいと思います。

①  開戦 ~なぜ、負けるとわかっていて戦うのか?~
②  熊本城攻撃 ~ 誘惑にまけないために~
③  田原坂の戦い ~ 時間がたてば、あなたは追いつめられる~
④  城東会戦 ~ 要点を見出す~
⑤  三州盤踞 ~ 方針転換とリスク管理~ 
⑥  苦戦から玉砕へ ~薩軍にみる組織の力~ 

よろしくお願いいたします。 

皆さまのログを見ていると随分読みずらそうだったようで、ご不便をおかけしました。
下にすべてをひとまとめに示します。劇的に長文ですので、下記のリンクもご使用ください。
今後は、コンパクトな記事を心がけます。よろしくお願いいたします。

① 歴史に学ぶ仕事術 公は大事。でも自分の勢力はもっと大事。 篠原長房①
② 第二部
③ 第三部
④ 第四部

本日の教訓

「大切なのは、自分の直接的な力をのばすこと」

平社員なら、日ごろの業務をこなす>自分のスキルを磨く>他人とつきあう。役員なら、日ごろ成果をだす>統括部門の業績をあげる仕組みづくり>他の役員とつきあう。何よりも、自分の力を伸ばすことが大切なのです。

今回取り上げるのは、阿波三好家の家老 篠原長房。阿波三好家の家老として、三好長慶亡き後の四国三好家のとりまとめに奮闘しました。
*本記事で取り上げるのは、「久米田の戦い」以前です。


■ 篠原長房の生い立ち

 篠原長房は、阿波守護代三好氏の家臣篠原氏に生まれました。当時、篠原氏は三好之長(長慶の曾祖父)の代から仕えており、阿波の中にある程度の勢力を扶植していました。そのなかの、篠原大和守長政の息子として生まれました。篠原長政は、応仁の乱・両細川の乱を、主人の三好元長(長慶の父)とともに戦い三好家での地位を高めていきます。元長が敗死したのちも、その息子千熊丸(長慶)を奉じて、摂津の拠点越水城の城番をつとめ、一向一揆と戦い、長慶が苦戦した摂津の平定戦で戦功を立てたり、事務作業をこなすなど、三好家の中心人物として活躍しています。特に、三好実休(義賢)が阿波守護細川持隆を倒した後に起こった阿波国内での戦い(やり場の戦い)では、武功をあげたらしく、阿波南部の所領を分け与えられました。
 そんな父親を持った篠原長房は、幼いころから学問・武術と修練を重ねていた模様。随分と、理知的なタイプであったらしく、主君実休の弟(十河一存)と武芸の比較のために打ちあったさいには、思いっきりぶったおしたりしたようです。人望もあったようで、十河一存とトラブルになったときには、同僚50騎が素早く駆け付け、三好実休が仲裁に入るなんて一幕がありました。

■ 三好氏の勢力拡大と篠原長房の活躍

 やり場の戦いがあった年の末、ついに一度叛旗を翻した細川被官 芥川氏をうちやぶり、摂津芥川城を本拠地としました。この当時、三好は様々な敵に囲まれていました。近江には足利義輝が、丹波には旧主細川晴元がいて、たびたび上洛されそうになっています。事態を打開するために、三好長慶は、晴元方、義輝方の勢力をたたいてまわることになります。下に、概略をまとめた図を示す。番号が付いている戦いには、長房も参陣していました。(赤が「鎗り場合戦のころの三好の勢力」青が、敵対勢力です。)

篠原長房の転戦と、三好氏の勢力拡大


篠原長房の転戦と、三好氏の勢力拡大


① 播磨遠征
さらに、播磨では晴元方の残党が潜伏。これを討伐するとともに、前年から三好を支援していた播磨の有馬氏を助けて三木城にこもる別所氏を討つため出陣することになりました。明石城にこもる香西氏を蹴散らしたのち、三木城にこもる別所氏を降伏させました。この播磨遠征に1554年11月から1555年2月にかけて、三好実休の配下として篠原長房は従軍していたようです。
 
② 将軍山、如意嶽、白川口の合戦
1558年、細川晴元、三好政勝・香西元成・足利義輝が連合して京都奪還に押し寄せます。六角氏の支援もうけて総勢一万以上。叔父の三好康永、三好実休など四国勢が渡海。将軍側は、援軍である六角氏が音をあげ、和議となった。義輝、許されて帰京。しかし実権は与えられませんでした。この四国勢の一端として、篠原長房も従軍。軍議に参加していたという記録が残っています。

 このあたりから、三好氏に一種の勝ちパターンができてきたように思います。「在地の戦力で足止めして、四国など手すきの戦線から兵力を抽出し、敵をたたく。」という流れです。とにかく、四国の基盤が安定することが、三好氏のアドバンテージにつながるという構造ができあがっていきます。

③ 河内に向けての出陣
 1559年、長慶は河内の守護と守護代のあらそいを口実に、播磨の赤松・三木・別所・有馬と和泉の軍勢とあわせて、河内を制圧します(これに先立って松永久秀を派遣していましたが、敗北しています。)。一応、守護の畠山高政を返り咲かせてやったのですが、これが反乱を起こし、その鎮圧のために四国勢を動員します。1560年3月に、尼崎から上陸し、河内各所の制圧に力を尽くします。最終的に、実休が河内の中心高屋城に入城。畠山高政は捕まるものの許されて、河内は三好のものとなりました。

④ 新加制式の整備を開始?
 この時期から、篠原長房を中心として阿波三好家の家法を整備し始めます。阿波国内での権力は、守護細川氏から 、明確に守護代三好氏に集まるようになりました。明確ではないのですが、同時に讃岐で香川氏を駆逐するなどの活躍もあったようです。

 これと並行して、松永兄弟が国人の鎮圧に苦労しつつも、大和・丹波に侵出していきます。ここに三好氏は、最盛期をむかえたのです。

三好 全盛期




■ ターニングポイント ~十河一存の死と久米田の戦い~

 今、まさに三好氏は絶頂期にありました。長慶は本拠地を河内飯盛山城へと移し、大阪平野全域の平定に力を注ぎます。幕府から相伴衆に任命されましたが、支配地域での裁判などはすべて三好氏によって直接管理されている状態でした。大和で苦戦する松永にも適宜援軍を送り、その版図は拡大の一途をたどっていたのですが。
 1561年、十河一存が突然病死します(註1)。和泉の支配が動揺した隙を逃がさず、紀伊から畠山高政が根来衆を引き連れて攻め込んできたのです。なんと、六角とタイミングを計ってせめこんでくるという状態に。
 もちろん、畠山に対して応戦したのは、河内高屋城の城主 三好実休。篠原長房を先陣として、畠山勢と互角の戦いとなりました。先陣の篠原長房が畠山・根来衆を切り崩していた最中、事故は起こりました。篠原長房は当初順調に、畠山・安見・根来衆を打ち崩しました。これを見て、次の陣が、紀州の湯川氏の陣に切りかかりました。この時、三好実休の旗本は数百しか残らなかったといいます。ここに、くずれたはずの畠山2千騎が殺到。囲まれてしまい、実休は流れ弾にあたって戦死しました。この時、篠原長房の弟や、阿波有力国人の西条氏も討ち死にするなど、側近も壊滅してしまいました。河内に駐屯していた四国勢は、散りじりになります。殿をつとめた篠原長房も手勢をまとめつつ堺までひきのく始末。1562年3月上旬のことでした。ここに、三好は優秀な四国方面の司令官をまとめて失うことになったのです。
 
■ 逆襲

 阿波に飛んで帰った篠原長房は、再び阿波の軍勢を立て直します。阿波三好氏の家督を、素早く三好長治(8才)に継がせて、安宅冬康の指示に従いふたたび河内に舞い戻ったのです。そのころには、山城で六角を打ち破った三好義興と松永久秀が合流。1562年5月に再び河内へと進軍しました。
 ところで、畠山勢は何をしていたのでしょうか。なんと、三好長慶がこもる飯盛山城を取り囲んでいたのです。久米田の戦いで勢いづいた彼らは、河内・紀伊の諸国人、根来衆を糾合して3月より飯盛山城を取り囲み、激しい攻撃をかけていたのです。ただ、成果はほとんどあがっていなかったようで、ちんたら飯盛山を囲んでいたところを、援軍に蹴散らされ、散々打ち負かされて紀伊までひきあげていきました。
 ここに、三好氏は河内を回復。岸和田城には安宅冬康が、高屋城には三好長慶の叔父 三好康長が入ります。駐屯していた阿波勢の一部をまとめて篠原長房は阿波へと帰還するのです。帰還にあたって残留組には、長治に対して忠義を誓わせる誓文を回収して、幼主の待つ阿波へと帰還していきました。以降は、阿波木津城主で弟の篠原自遁と阿波坂西城主の赤沢送伝と阿波で、三好長治を支える日々が始まります。彼の整備した新加制式も、その機能を発揮したことでしょう。
 この後、さらなる悲劇が三好を、篠原長房を襲います。

■ 三好氏、主要人物死去

 実は、この時期から、丹後と大和で三好氏は苦戦しはじめます。従来の勝ちパターンであった、在地の勢力+四国勢で敵を打ち破るという図式が使えなくなってきたのです。原因は、二つ。① 四国方面の司令官の死去 ② 長慶の不調。特に、②の長慶の不調がきつかったようで、この時期ほとんど四国勢を動かすことができず、飯盛山城から一歩も出なくなりました。
 不穏な空気は、続きます。1562年、弱ってきた三好の隙をついて、山城で政所執事伊勢貞孝が挙兵します。嫡男義興がこれを鎮圧します。が、この翌年、嫡男義興が病死してしまうのです。大和では松永久秀が多武峯宗徒と紛争を起こし、三好康長は根来衆の侵攻を受けて戦うようになりました。そんな中、臨時中央司令部であった義興が他界してしまったのです。跡は、十河一存の息子、三好義継が継ぐことになりました。
 そして、その翌年(1564年)、飯盛山城に安宅冬康が呼び出され殺害されます。その直後に、三好長慶も他界しました。その翌年には、丹波で追い詰められた松永長頼が討ち死にしました。気が付いてみると、三好氏はその中心人物がすべて死んでしまっていたのです。下に、長慶死去時の主要な武将とその配置を示します。

長慶死去後の配置図
長慶死去後の配置図


 主要な拠点であった芥川山城の責任者が決まっていなかったり、岸和田城主として現地の国人松浦氏が取り立てられているなど、まさに人材不足が痛々しい配置図となています。

■ 内紛始まる。

 1564年12月長慶死去の報に接した篠原長房は、阿波三好家の重臣として、四国勢を代表して急遽飯盛山城に向かいます。そこで、三好一族の長老である三好長逸、長慶直臣の代表格である岩成友通は松永久秀、旧細川氏家臣団や堺衆とのパイプ役である三好宗渭と会談しました。そこで、何が話合われたかはわかりません。ただし、長慶の死去を隠すことが話合われたようで、尾張など遠隔地域では、三好長慶がまだ存命であると誤解されていたようです(信長公記)
 1565年5月。三人衆と松永久通が図って、足利義輝を殺害しました。これ以降、一気に松永氏と三好三人衆の足並みが乱れ、ついに内訌に発展します。
・松永陣営 ;松永親子、畠山氏、安見氏、和泉の国人衆 (ちなみに摂津越水城も松永麾下)
・三人衆陣営;三好康長など三好一族、篠原長房をはじめとした篠原氏
に割れて戦うことになりました。

畿内では、三好一族(主に三人衆)が、各地に散らばる松永派と交戦しています。そこに、足利義栄を奉じた
篠原長房が四国衆2万5千を率いて上陸し、破竹の勢いで松永派を追い詰めます。 下図に、篠原長房の転戦を示します。長房は、摂津北部の中心拠点越水を落とすと、伊丹への包囲網を作成し、中嶋城を蹴散らしたあと、高屋城に入ります。そこで談合中に、伊丹城は陥落しました。高屋城には、若い三好義継が三好長逸の傀儡と化して押し込められていたのです。

三好 内乱①



 摂津・河内・山城南部は、三好三人衆の勢力圏に組み込まれました。1566年12月、篠原長房は父が城番をやっていた越水城に駐屯します。ついに、1567年冒頭、足利義栄が左馬頭につき、三人衆側の士気は大きくあがりました。

■ 内乱第二幕 東大寺合戦から泥沼へ

 ところが、畿内の混乱はこれで収まりませんでした。なんと、松永が傀儡となっていた三好義継を連れ出して、信貴山に立てこもったのです。1567年4月信貴山に入り、耐えられないと読むや素早く大和多聞山城に逃げ込みました。加えて、長屋城の城主であった三好康長が三人衆を裏切ります。ふたたび泥沼と化す河内・大和北部。そんな中、多聞山城にこもった松永は、興福寺と結託。奈良の町に三人衆を引き込んで、激しい市街戦を行います。
 当初、篠原長房は後詰めとして越水にとどまっていましたが、苦戦する三人衆の支援のために大和に進出します。筒井順慶も動員して多聞山城を責め立てますが落ちません。やがて疲弊した三人衆が河内・摂津に引き上げ、変わって篠原長房と応援に来た三好長治が奈良の町に駐屯することになりました。河内の津田氏が松永方に裏切ったかと思えば、大和の十市氏が三好方に転向します。果てしなく消耗戦が続きます。
 そんな中、1568年2月ついに足利義栄が征夷大将軍となりました。三好三人衆と篠原長房は、豪商天王寺屋津田宗久の援助を受けて、大宴会を楽しんだといいます。大和では紛争が続いていましたが、長房は河内へと帰還しました。

■ とある風聞

 河内に帰還した長房は、事務仕事にも取り組んでいます。あの京にある本能寺に禁制を発給しています。1568年5月、とある風聞も確認しています。「松永久秀が逃がしてしまった、足利義昭が美濃岐阜に拠点を新設した信長に報じられて上洛する」というものです。三人衆と会談し、六角を先手としてこれを防ぎ、援軍として駆けつけて信長をたたくという戦略を練ったといわれています。大和から手勢を河内まで引き上げて、
信長に備えたのです。彼らは、信長襲来という情報を注視し、内乱で疲弊しているとはいえ、ひとまず兵力を集結させました。

■ 信長進撃と戦線崩壊 ~畿内からたたきだされる三好三人衆と長房~

 ところが、動きだした信長の速度は圧倒的でした。
1568年9月7日 岐阜を進発
1568年9月12日 六角氏観音寺城陥落
1568年9月25日 大津三井寺着陣
 信長は、驚異的な速度で進撃してきたのです。当初の作戦を外してしまった三好三人衆は動揺します。素早く全員がそれぞれの居城にこもりました。
 しかし、信長率いる大軍は三好三人衆を各個撃破していきました(下図参照)。まさに、松永方を四国からの大軍を使ってけちらしたのと、逆の現象が三好三人衆と篠原長房の身の上に起こったのです。

信長襲来


 1ヶ月もしないうちに、篠原長房は、畿内の領地を完全に失ってしまいました。次は、阿波から信長への逆襲を企図する篠原長房を見ていきます。



■ 長房暗殺未遂事件と阿波の内政

 失意の中、篠原長房が担いだ将軍足利義栄が他界します。阿波勢の受けたショックは図りしれないものがあったことでしょう。
 加えて、この時期(1568年末)大事件が起こりました。敗走して阿波に帰ってきた篠原長房を、実弟(名前が不詳) が篠原長房を暗殺しようとはかったのです。三好義継の命令だったそうで、篠原長房には二重にショックであったことでしょう。
 しかし、長房は冷静でした。 長引いた遠征で疲弊した傾向にあった阿波国に対して1568年11月28日に、徳政令を発布しています。
 三好三人衆は、1568年11月に早くも和泉・摂津・河内を襲い、義昭のいる本圀寺を襲いました。長房は、誘いにのらず阿波国の安定と讃岐国への影響力の深化に努めていました。

■ 信長への反撃

 本圀寺の変が失敗に終わり、畿内の形勢は完全に三好三人衆に不利なものとなっていました。信長は、畿内の勢力再編成に着手しました。

Nobunaga 畿内再編



 その再編は上図の通りです。注目すべきは、摂津に三人の守護を置いたという点です。伊丹氏・池田氏は摂津の国人ですが、和田氏は義昭家臣で、信長による落下傘守護でした。当然、和田氏の立場は不安定。1568年に定められたこの配置ですが、1570年にはあっさり崩壊します。
 1570年六月中頃に池田氏家臣荒木村重が、三好長逸に呼応して反乱を起こし、党首をすげかえ、阿波三好氏に救援を求めます。実はこの1570年、信長は大変な危機に陥っていたのです。 朝倉攻めの最中に、浅井氏に裏切られ敗走。姉川の戦いで勝利し立て直しますが1570年前半、正直摂津の反乱を鎮圧するゆとりはありませんでした。

■野田・福島の戦い

 まず、支援を決意した三好三人衆が摂津の野田・福島に上陸し、あらかじめ築いてあった砦を利用しました。雑賀衆や周囲の水軍を含んだ1万5千の軍が上陸したのだそうです。数を頼んで、当初は三好義継の拠点を攻めましたが破ることができず。姉川の戦いから帰還した織田信長が8月26日、南の天王寺に布陣します。それに対して、三好康長と十河存保が淡路・讃岐の衆を率いて着陣。いよいよ両軍が衝突しました。

野田・福島の戦い



 着陣草々、信長は野田・福島の対岸に砦を築きました。築城後、三好義継、松永久秀は野田・福島の裏手にあたる浦江城を攻撃しました。これは、大鉄砲という特殊火器を使用した攻撃であったらしく、たまらず3日後には、浦江は落ちてしまいました。信長方からは、川口・楼岸、両方の砦から手勢が繰り出し、裏手からは義継・松永が攻撃してきます。さらに、9月12日には、南方より根来・雑賀の軍勢2万が信長に加わりました。いよいよ観念した三好三人衆は、ついに織田方に降参を打診しました。もちろん信長は許さず、総攻撃を決定しました。
 その日、12日夜半。急に本願寺が裏切り、信長軍の側面を急襲しました。信長軍は、大混乱。本願寺方が敵に回ったことから、根来・雑賀の援軍もあっさり裏切りました。あわてて、損害を出す織田軍。
 ところが、同じタイミングで大潮がこの一帯を襲いました。野田・福島の付け城は水没。信長の本陣も水没。双方膠着状態に陥ってしまいました。
 同じころ、近江で動き出した朝倉・浅井の連合軍に対応するために撤退を決意した織田軍。素早く撤収して、京都に向かいました。

■ 篠原長房着陣、しかし和睦に終わる。

 ところで、今回の主人公篠原長房は、何をしていたのでしょうか?実は、彼は阿波にとどまっていたのです。なんと、9月19日頃に本願寺から同盟の旨の申し入れを受けて、ようやく阿波勢を招集しました。これを三好長治とともに率いて、 9月27日に兵庫浦に上陸しました。
 勢いよく、瓦林三河守がまもっていた越水城を陥落させ、今度は瓦林を討ち取りました。ついに、三好勢への押さえとして残されていた三好義継・松永久秀と対陣します。一方信長は、比叡山に立てこもってしまった浅井・朝倉連合軍に手も足もでず、手詰まりに陥っていました。 ついに信長は、天皇を持ち出し、全ての敵対勢力とかりそめの和睦を結ぶことになりました。
 その流れにのって、篠原長房率いる阿波三好氏、十河存保率いる讃岐三好氏、三好三人衆は松永久秀に仲介してもらって、信長と和睦しました。同時に、畿内でこれまで争っていた三好三人衆・篠原長房と三好義継が和解。篠原長房は、和睦の証として松永久秀と人質交換まで行いました。しかも、三好義継に求められて、土佐一条から鷹を取り寄せ献上しています。
 この時、三好三人衆と篠原長房は、「野田・福島の防戦で精一杯で、都を落とすほどの力はもうない」と判断したのだそうです。確かに、以前三好氏のとっていた、「在地の勢力を使って敵対勢力を遅滞し、余剰な四国勢を動員して敵をたたく」という構図は、畿内の拠点を完全に失った三好勢には不可能でした。結局、大軍を擁して遠征したにも関わらず、今度も何も手に入れることなく、阿波に帰ることになったのです。

■ 篠原長房、讃岐に勢力を扶植

 このころから、篠原長房は讃岐に自身の同盟者をつくることを試みるようになります。じつは、十河存保が若かった時分には、篠原長房自身が、讃岐の手勢もまとめて引率していたようなのですが、このころになると、讃岐勢への影響力は大きく後退していたようです。
 1570年、讃岐の有力者雨瀧城主安富盛定に長女を嫁がせました。1571年、長房は強硬手段に打ってでました。安富の本家筋にあたる寒川氏のもつ大内郡とその周辺所領を差し出させてしまったのです。(下図、赤マーク 阿波三好方、黄マーク 十河存保)

讃岐経営


寒川から奪い取った引田城は、阿波三好家の家臣矢野氏の与えられ、虎丸城は安富氏に与えられました。矢野氏とは、阿波三好氏の家臣で阿波矢野城主です。篠原長房は、「私心がなかったこと」を示したかったのではないでしょうか?
 阿波に逼塞することになった、篠原長房は、① 畿内から押し寄せてくるであろう、信長勢に対抗するため、讃岐に防衛拠点を築くこと ② 次の戦い(備前児島での戦い)に備えての経路確保と讃岐に対する影響力拡大)に備えた行動だったのでしょう。
 しかし、これは十河存保の目にどう映っていたのでしょうか。何はともあれ、当面は統率のとれた阿波に対して、十河氏も反抗せず、事態は次のステージに移行していきました

いよいよ阿波三好家に尽くし、自己の勢力拡大を顧みなかった篠原長房が、阿波三好家内に吹き荒れた「積極防衛策反対」の流れに押し流されることになります。そこに至る経緯を確認していきましょう。

■ 備前 児島出兵

 当時、中国地方では毛利氏が尼子氏を滅ぼして、ついに備中三村氏を先鋒として、盛んに備前に出兵していました。宇喜多直家らの奮戦でこれは撃退されましたが、その三村氏を服属させて直接指揮下においた毛利氏は、直接備前に侵攻してきました。その一つの方策として、従来三村氏の影響下にあった児島半島の常山城からの侵攻も検討されました。(このあたりの事情は過去の記事の中盤を参考にしてください。)
 ついに、備前児島の常山城を中心に毛利氏が侵攻。備後勢・備中勢を差し向けてきた毛利氏に対して、浦上・宇喜多氏は出兵。同時に、篠原長房に備前への出兵を要請してきました。これに先立ち、篠原は1571年1月讃岐の宇多津に長男を派遣してありました。素早く兵を募って、5月には児島に上陸しました。事前に、村上武吉に調略をかけてあり、自信満々に展開する讃岐・阿波衆。先方の香西氏が毛利方の児島半島における後方にあたる本太城に攻撃をしかけます。ところが、この讃岐・阿波の行動は、小早川隆景の予測するところでした。
 篠原や大友が村上武吉と通じていたのと同様、讃岐衆や遠征基地である宇多津には毛利氏に通じているものが 潜伏していたのです。そんな中、香西氏は濃霧の中、切り込んできた本太城勢によって討ち死にさせられてしまいました。
 ここに至り、阿波・讃岐勢あわせて4千はあっさりと撤退。二度と児島に出兵することはありませんでした。

■ 篠原長房、最後の遠征

 このように備前で戦う間、1571年5月、松永久秀が大和で信長に対して反乱を起こしました。河内に猛攻撃をかける久秀。大和ではどうじに筒井順慶と戦っていました。支援のために、阿波から三好康長が上陸し、河内一帯でたたかいました。
 さらに、摂津に展開して摂津守護和田惟政を討ち果たし、意気盛んになったその時、1571年7月備前での戦乱が収まらない中、篠原長房が摂津兵庫浦に上陸したのです。
 畿内では、国人衆に働きかけて、玉薬の補給の作業と国人の結集につとめていたのですが、近江の浅井氏を滅ぼした信長が河内に進出してきました。あっさりと松永久秀は降参。なんと、赦免されます(注1)。ふたたび、阿波・讃岐の手勢は畿内から蹴りだされることになったのです。


■ 篠原長房はなぜ対外遠征をつづけたのか?

 篠原長房は、三好長慶死後の内乱においては、四国の三好氏代表として内乱鎮圧に東奔西走していたように見えます。畿内の三好勢を維持することによって、四国が安泰になるということを知っていたのでしょう。三好の勝利パターンである「地元勢で足止め→遠隔の余剰兵力を動員してたたく」は四国でも応用可能でした。内乱の終息が、阿波三好氏の生存を助けるものであることは、明確でした。しかし、篠原長房の関与によって、三好三人衆は有利になったものの、さらなる分裂が生じ、泥沼の戦いが続きます。
 そんな中、信長によって戦局は一変しました。篠原長房はここで明らかに戦略を切り替えていると思います。何よりも、阿波から出兵する速度が遅くなっています。三好領回復よりは、阿波の守備に重点をおいた戦略をとるようになったと感じます。例えば、野田・福島の戦いは、2週間早く進軍してくれば、信長をその場で始末できたかもしれません。その後も、和睦することなく京を維持することにさえ固執しなければ、信長を畿内からたたきだすくらいのことはできたでしょう。
 しかし、彼は阿波・讃岐を狙う大勢力を妨害することの方に重点を置いたのだと思います。その結果が、阿波細川氏ゆかりの地であり讃岐にも近い備前児島に、毛利が進出することを妨害する戦いでした。信長が苦戦していると知るや、河内・和泉を荒し、とにかく信長に対するハラスメント攻撃にいそしんだのです。
 しかし、これらの「利益が上がらない戦」が阿波・讃岐の国人衆の心情に影を落としたのではないでしょうか。これに、讃岐守護代十河存保の思惑がからまり、事態は急展開することになったのです。

■ 阿波国内の勢力

 さて、ここでもういちど篠原長房の直接の勢力を考察してみます。
① 阿波以外の領土 (讃岐)
讃岐には大きな与党である安富氏がいました。一方、せっかく讃岐で自分のものにした引田城には、同じ阿波の国人である矢野氏が入っています。すなわち、篠原長房の自由になる領地ではありませんでした。
② 篠原長房直属
 一方阿波はどうだったのでしょうか?実は、篠原長房直下の軍勢というのは1000名程度。阿波全体で兵士をあつめるとだいたい8000名なのだそうで、全体の約1/8程度であったことがわかります。その手勢は、上桜井城を中心に、学城、柿原塁、夷山と家臣が構えている各拠点に散らばっていたことでしょう。
③ 同僚
さらに、阿波国内にはともに実休を河内で支えた同僚たちがいました。特に、坂西城を拠点としていた赤沢氏とは、ともに高屋城で実休を支えた同僚で、かなり昵懇にしていたようです。
④ 一族
篠原氏は、数代前から阿波三好氏に近侍してきました。なので、少なからぬ一族が阿波国内に散らばっていました。代表格が木津城主の篠原自遁。弟でした。他にも、 吉野川下流の今切城や図にはのせられていませんが、吉野川の上流 山口城にも篠原氏は居城をもっていたようです。


 実は、阿波ではやり場の合戦以降ほとんど大きな戦乱が起こっていませんでした。結果として、篠原長房の阿波内での所領はほとんど広がっていませんでした。加えて、戦乱がなかったことで阿波の勢力は、小さな国人衆が乱立する状態で平和が保たれていたのです。また、吉野川上流域には、畿内から敗走してきた三好康長が居城を構え新たな勢力を扶植してきていたのです(岩倉、脇、塩田が康長の勢力圏)。これらの国人を動員する権限は、長房にはありませんでした。

図9



赤が篠原長房と昵懇もしくはその指揮下の勢力の拠点です。青は、長房と独立した勢力です。阿波国内で長房なみの力を持っていたのは、新しく入植した三好康長と、小笠原氏の支族である森氏であったでしょう。

■ 篠原長房、最期 (注2)

 松永久秀があっさり降伏したことで、手ぶらで阿波に引き上げてき篠原長房。このころから、守護代三好長治との間に溝ができていたようで、徐々に自身の所領に引きこもりがちになっていました。正直、年齢の問題もあったのではないかと思いますが。1573年3月、長房は桜井城に自主的に蟄居します。長治は、「信長はわざわざ四国まで海を渡ってこない」と楽観視して、長房を遠ざけるようになったようなのです。
 そんな中、1573年4月に十河存保が信長と会談したという風聞が流れます。しかし、これはただの風聞にすぎませんでした。わたしは、織田方の仕掛けた阿波・讃岐の離間策ではなかったかと思います。そして、それに乗る人間が多くあらわれるほど、阿波国内の分断と阿波への讃岐側の憎悪が明確になっていたのだと思います。讃岐では、阿波三好家からキョリをとろうと計る国人衆まで現れる始末。
 篠原長房が奉じる対外積極主義に対して、三好長治・篠原自遁が押す対外消極主義路線。どちらをとるにせよ、阿波三好家としては、これまでの敗戦の責任をだれかにとらせる必要性があったのではないでしょうか。そして、篠原長房は大軍を引き受けて戦うことになりました。
 1573年 讃岐・阿波・淡路と三好の現有戦力を総動員した1万2千が、赤沢氏がこもる坂西城を襲いました。5月13日に赤沢氏は逃亡。坂西城は落城しました。つづいて、上桜城を大軍が囲みます。阿波の国人の中では、森氏、伊沢氏が積極的に参加していたようです。もちろん讃岐を率いるのは十河存保。2ヶ月ほどの籠城戦を戦い抜いた末、兵糧が付きてきた篠原長房は、子息と娘を吉野川河口ちかくの夷山城にいる庄野氏に託すと、真一文字に十河氏の陣営につっこんで皆討ち死にとなりました。

 讃岐の長房与党や、長房配下の矢野氏、工藤氏には従軍したという記録がありません。それでも1000騎集まったところを見ると、長房の信望はまだ地に落ちてはいなかったのだと思います。しかし、これまで長房の強みであった、長治を介した阿波・讃岐の動員権は彼の手からこぼれてしまっていました。わたしは、長房が1573年3月に逼塞したころから、この結末を予測していたように思えてなりません。それでも、逃げることなく最期まで戦い抜いたこの武将は、「長治の下では阿波がもつのは5年だけ」と予言して、この世を去っていきました。


■ 現代の私たちが学べること

 組織のために正しいことを行うことは大切。私心なく、尽くすのも大切。しかし、組織の意思決定にを制御するにしても、組織内で権力をもつにも、最後にものをいうのは自分の力量です。日ごろの職務に反しない範囲で、自分の実績・スキルを磨いて有事への備えを怠らないことこそ肝要でしょう。
 


(注1) じつは、この松永の反乱は、義昭が大和一帯で、反松永勢力をあおったのでやむなく信長が擁する 義昭と戦ったというのが真相だったようで、信長も赦免したのだそうです。
(注2) 少少将の話はとりあげません。たぶん、それがなくてもこの戦いは起こったと思います。

 組織にあって、「敵」(困難や障害など)は、 適度にあれば組織の団結を生み出し、過大であればその組織をつぶします。実際、現在でもいろんな事例を見ることができるのではないでしょうか。

 例えば、元大阪府知事の橋下さん。当選時は、大阪市民から大変な支持をうけていました。しかし、新聞社と喧嘩しているうちはみなほほえましく眺めていたのですが、「従軍慰安婦問題発言」や「カジノ問題」など、大阪都構想と関連のない内容で徐々に支持者数を減らしていきました。結局、住民投票では僅差で敗れてしまったわけです。彼の最後の一言「政治家は敵を作ってはいけない職業だ。」というのは、彼の失敗の原因を冷静に分析したものだと思います。まあ、「政治家は敵の数をしぼらなければいけない職業だ。」と言い換えるべきだと思いますが。
小池都知事も、豊洲問題で石原さんを引きずりだしたはいいものの、その追及に冴えはなく彼女の支持率上昇にストップがかかりはじめています。
 一度に多くの敵をつくると、肝心の目標を喪失したり、圧迫をうけて組織がつぶれてしまうなんてことも少なくありません。歴史の上でも、「うまく敵をしぼって生き延びた人たち」と「敵をつくりすぎて滅びた人たち」というのがいます。今回は、下記の人々について取り上げたいと思います。

<敵をうまくしぼって生き延びた人たち>
① 源頼朝 関東制圧
 あまり、歴史で取り上げられることのない、石橋山の戦いから鎌倉幕府開設までに、頼朝が繰り広げた関東・甲信越制圧の過程を取り上げます。最初は周囲は敵だらけ。ですが、10年もしないうちに、関東は頼朝の指揮下に完全に編入されることになります。その脅威の手腕をまとめてみたいと思います。

② 佐竹義昭 (義重じゃないよ。)
  大きな国人衆がひしめく常陸にあって、佐竹義昭はかならず同盟者とともに対抗する国人を制圧していきました。どうやって同盟者をつなぎとめ、どんな基準で敵を選択していったのでしょうか?分析してみたいと思います。

③ 甲相駿三国同盟の真価
 武田、北条、今川の成長を支えた要となるこの同盟。どのような経緯で成立したか?彼らにはどんな選択肢があって、その中からなぜこの選択を行ったのか?その決断のプロセスを調べてご紹介したいと思います。


<敵を絞り切れずに滅びた人たち>
① 吉川興経
 戦国時代、安芸北部の有力国人吉川氏。若くしてその党首となった興経は、武勇もあって隣の大国尼子氏との関係は良好でした。しかし、最終的に身内に裏切られ、毛利元就の息子 元春にその家督を奪われてしまったのです。なぜ、こんなことになったのかを考えてみたいと思います。

② 北条得宗
 北条時貞以降、北条氏の内訌・朝廷問題と内憂外患に苦しむ得宗氏を分析してみます。
伊豆のちいさな豪族からスタートして、あまたの内乱を勝ち抜いた北条氏が、いったいなにに苦しんでいたのか、それはどうすれば防げたのかを考えてみたいと思います。

③ 武田勝頼
 おそらく、「武田氏滅亡」のレビューのような記事になるかと存じます。よろしくお願いします。


 

いよいよ、本章では篠原長房滅亡への道のりを描くことになります。
阿波三好家に尽くし、自己の勢力拡大を顧みなかった篠原長房が、阿波三好家内に吹き荒れた「積極防衛策反対」の流れに押し流されることになります。そこに至る経緯を確認していきましょう。

■ 備前 児島出兵

 当時、中国地方では毛利氏が尼子氏を滅ぼして、ついに備中三村氏を先鋒として、盛んに備前に出兵していました。宇喜多直家らの奮戦でこれは撃退されましたが、その三村氏を服属させて直接指揮下においた毛利氏は、直接備前に侵攻してきました。その一つの方策として、従来三村氏の影響下にあった児島半島の常山城からの侵攻も検討されました。(このあたりの事情は過去の記事の中盤を参考にしてください。)
 ついに、備前児島の常山城を中心に毛利氏が侵攻。備後勢・備中勢を差し向けてきた毛利氏に対して、浦上・宇喜多氏は出兵。同時に、篠原長房に備前への出兵を要請してきました。これに先立ち、篠原は1571年1月讃岐の宇多津に長男を派遣してありました。素早く兵を募って、5月には児島に上陸しました。事前に、村上武吉に調略をかけてあり、自信満々に展開する讃岐・阿波衆。先方の香西氏が毛利方の児島半島における後方にあたる本太城に攻撃をしかけます。ところが、この讃岐・阿波の行動は、小早川隆景の予測するところでした。
 篠原や大友が村上武吉と通じていたのと同様、讃岐衆や遠征基地である宇多津には毛利氏に通じているものが 潜伏していたのです。そんな中、香西氏は濃霧の中、切り込んできた本太城勢によって討ち死にさせられてしまいました。
 ここに至り、阿波・讃岐勢あわせて4千はあっさりと撤退。二度と児島に出兵することはありませんでした。

■  篠原長房、最後の遠征

 このように備前で戦う間、1571年5月、松永久秀が大和で信長に対して反乱を起こしました。河内に猛攻撃をかける久秀。大和ではどうじに筒井順慶と戦っていました。支援のために、阿波から三好康長が上陸し、河内一帯でたたかいました。
 さらに、摂津に展開して摂津守護和田惟政を討ち果たし、意気盛んになったその時、1571年7月備前での戦乱が収まらない中、篠原長房が摂津兵庫浦に上陸したのです。
 畿内では、国人衆に働きかけて、玉薬の補給の作業と国人の結集につとめていたのですが、近江の浅井氏を滅ぼした信長が河内に進出してきました。あっさりと松永久秀は降参。なんと、赦免されます(注1)。ふたたび、阿波・讃岐の手勢は畿内から蹴りだされることになったのです。


■ 篠原長房はなぜ対外遠征をつづけたのか?

 篠原長房は、三好長慶死後の内乱においては、四国の三好氏代表として内乱鎮圧に東奔西走していたように見えます。畿内の三好勢を維持することによって、四国が安泰になるということを知っていたのでしょう。三好の勝利パターンである「地元勢で足止め→遠隔の余剰兵力を動員してたたく」は四国でも応用可能でした。内乱の終息が、阿波三好氏の生存を助けるものであることは、明確でした。しかし、篠原長房の関与によって、三好三人衆は有利になったものの、さらなる分裂が生じ、泥沼の戦いが続きます。
 そんな中、信長によって戦局は一変しました。篠原長房はここで明らかに戦略を切り替えていると思います。何よりも、阿波から出兵する速度が遅くなっています。三好領回復よりは、阿波の守備に重点をおいた戦略をとるようになったと感じます。例えば、野田・福島の戦いは、2週間早く進軍してくれば、信長をその場で始末できたかもしれません。その後も、和睦することなく京を維持することにさえ固執しなければ、信長を畿内からたたきだすくらいのことはできたでしょう。
 しかし、彼は阿波・讃岐を狙う大勢力を妨害することの方に重点を置いたのだと思います。その結果が、阿波細川氏ゆかりの地であり讃岐にも近い備前児島に、毛利が進出することを妨害する戦いでした。信長が苦戦していると知るや、河内・和泉を荒し、とにかく信長に対するハラスメント攻撃にいそしんだのです。
 しかし、これらの「利益が上がらない戦」が阿波・讃岐の国人衆の心情に影を落としたのではないでしょうか。これに、讃岐守護代十河存保の思惑がからまり、事態は急展開することになったのです。

■ 阿波国内の勢力

 さて、ここでもういちど篠原長房の直接の勢力を考察してみます。
① 阿波以外の領土 (讃岐)
讃岐には大きな与党である安富氏がいました。一方、せっかく讃岐で自分のものにした引田城には、同じ阿波の国人である矢野氏が入っています。すなわち、篠原長房の自由になる領地ではありませんでした。
② 篠原長房直属
 一方阿波はどうだったのでしょうか?実は、篠原長房直下の軍勢というのは1000名程度。阿波全体で兵士をあつめるとだいたい8000名なのだそうで、全体の約1/8程度であったことがわかります。その手勢は、上桜井城を中心に、学城、柿原塁、夷山と家臣が構えている各拠点に散らばっていたことでしょう。
③ 同僚
さらに、阿波国内にはともに実休を河内で支えた同僚たちがいました。特に、坂西城を拠点としていた赤沢氏とは、ともに高屋城で実休を支えた同僚で、かなり昵懇にしていたようです。
④ 一族
 篠原氏は、数代前から阿波三好氏に近侍してきました。なので、少なからぬ一族が阿波国内に散らばっていました。代表格が木津城主の篠原自遁。弟でした。他にも、 吉野川下流の今切城や図にはのせられていませんが、吉野川の上流 山口城にも篠原氏は居城をもっていたようです。


 実は、阿波ではやり場の合戦以降ほとんど大きな戦乱が起こっていませんでした。結果として、篠原長房の阿波内での所領はほとんど広がっていませんでした。加えて、戦乱がなかったことで阿波の勢力は、小さな国人衆が乱立する状態で平和が保たれていたのです。また、吉野川上流域には、畿内から敗走してきた三好康長が居城を構え新たな勢力を扶植してきていたのです(岩倉、脇、塩田が康長の勢力圏)。これらの国人を動員する権限は、長房にはありませんでした。

図9


 赤が篠原長房と昵懇もしくはその指揮下の勢力の拠点です。青は、長房と独立した勢力です。阿波国内で長房なみの力を持っていたのは、新しく入植した三好康長と、小笠原氏の支族である森氏であったでしょう。

■ 篠原長房、最期 (注2)

 松永久秀があっさり降伏したことで、手ぶらで阿波に引き上げてき篠原長房。このころから、守護代三好長治との間に溝ができていたようで、徐々に自身の所領に引きこもりがちになっていました。正直、年齢の問題もあったのではないかと思いますが。1573年3月、長房は桜井城に自主的に蟄居します。長治は、「信長はわざわざ四国まで海を渡ってこない」と楽観視して、長房を遠ざけるようになったようなのです。
 そんな中、1573年4月に十河存保が信長と会談したという風聞が流れます。しかし、これはただの風聞にすぎませんでした。わたしは、織田方の仕掛けた阿波・讃岐の離間策ではなかったかと思います。そして、それに乗る人間が多くあらわれるほど、阿波国内の分断と阿波への讃岐側の憎悪が明確になっていたのだと思います。讃岐では、阿波三好家からキョリをとろうと計る国人衆まで現れる始末。
 篠原長房が奉じる対外積極主義に対して、三好長治・篠原自遁が押す対外消極主義路線。どちらをとるにせよ、阿波三好家としては、これまでの敗戦の責任をだれかにとらせる必要性があったのではないでしょうか。そして、篠原長房は大軍を引き受けて戦うことになりました。
 1573年 讃岐・阿波・淡路と三好の現有戦力を総動員した1万2千が、赤沢氏がこもる坂西城を襲いました。5月13日に赤沢氏は逃亡。坂西城は落城しました。つづいて、上桜城を大軍が囲みます。阿波の国人の中では、森氏、伊沢氏が積極的に参加していたようです。もちろん讃岐を率いるのは十河存保。2ヶ月ほどの籠城戦を戦い抜いた末、兵糧が付きてきた篠原長房は、子息と娘を吉野川河口ちかくの夷山城にいる庄野氏に託すと、真一文字に十河氏の陣営につっこんで皆討ち死にとなりました。

 讃岐の長房与党や、長房配下の矢野氏、工藤氏には従軍したという記録がありません。それでも1000騎集まったところを見ると、長房の信望はまだ地に落ちてはいなかったのだと思います。しかし、これまで長房の強みであった、長治を介した阿波・讃岐の動員権は彼の手からこぼれてしまっていました。わたしは、長房が1573年3月に逼塞したころから、この結末を予測していたように思えてなりません。それでも、逃げることなく最期まで戦い抜いたこの武将は、「長治の下では阿波がもつのは5年だけ」と予言して、この世を去っていきました。


■ 現代の私たちが学べること

 組織のために正しいことを行うことは大切。私心なく、尽くすのも大切。しかし、組織の意思決定にを制御するにしても、組織内で権力をもつにも、最後にものをいうのは自分の力量です。日ごろの職務に反しない範囲で、自分の実績・スキルを磨いて有事への備えを怠らないことこそ肝要でしょう。
  


(注1) じつは、この松永の反乱は、義昭が大和一帯で、反松永勢力をあおったのでやむなく信長が擁する 義昭と戦ったというのが真相だったようで、信長も赦免したのだそうです。
 (注2) 少少将の話はとりあげません。たぶん、それがなくてもこの戦いは起こったと思います。

<信長への逆襲と阿波・讃岐経営>を扱います。

■ 長房暗殺未遂事件と阿波の内政

 失意の中、篠原長房が担いだ将軍足利義栄が他界します。阿波勢の受けたショックは図りしれないものがあったことでしょう。
 加えて、この時期(1568年末)大事件が起こりました。敗走して阿波に帰ってきた篠原長房を、実弟(名前が不詳) が篠原長房を暗殺しようとはかったのです。三好義継の命令だったそうで、篠原長房には二重にショックであったことでしょう。
 しかし、長房は冷静でした。 長引いた遠征で疲弊した傾向にあった阿波国に対して1568年11月28日に、徳政令を発布しています。
 三好三人衆は、1568年11月に早くも和泉・摂津・河内を襲い、義昭のいる本圀寺を襲いました。長房は、誘いにのらず阿波国の安定と讃岐国への影響力の深化に努めていました。

■ 信長への反撃

 本圀寺の変が失敗に終わり、畿内の形勢は完全に三好三人衆に不利なものとなっていました。信長は、畿内の勢力再編成に着手しました。
 Nobunaga 畿内再編
  その再編は上図の通りです。注目すべきは、摂津に三人の守護を置いたという点です。伊丹氏・池田氏は摂津の国人ですが、和田氏は義昭家臣で、信長による落下傘守護でした。当然、和田氏の立場は不安定。1568年に定められたこの配置ですが、1570年にはあっさり崩壊します。
 1570年六月中頃に池田氏家臣荒木村重が、三好長逸に呼応して反乱を起こし、党首をすげかえ、阿波三好氏に救援を求めます。実はこの1570年、信長は大変な危機に陥っていたのです。 朝倉攻めの最中に、浅井氏に裏切られ敗走。姉川の戦いで勝利し立て直しますが1570年前半、正直摂津の反乱を鎮圧するゆとりはありませんでした。

■野田・福島の戦い

 まず、支援を決意した三好三人衆が摂津の野田・福島に上陸し、あらかじめ築いてあった砦を利用しました。雑賀衆や周囲の水軍を含んだ1万5千の軍が上陸したのだそうです。数を頼んで、当初は三好義継の拠点を攻めましたが破ることができず。姉川の戦いから帰還した織田信長が8月26日、南の天王寺に布陣します。それに対して、三好康長と十河存保が淡路・讃岐の衆を率いて着陣。いよいよ両軍が衝突しました。
 野田・福島の戦い
 着陣草々、信長は野田・福島の対岸に砦を築きました。築城後、三好義継、松永久秀は野田・福島の裏手にあたる浦江城を攻撃しました。これは、大鉄砲という特殊火器を使用した攻撃であったらしく、たまらず3日後には、浦江は落ちてしまいました。信長方からは、川口・楼岸、両方の砦から手勢が繰り出し、裏手からは義継・松永が攻撃してきます。さらに、9月12日には、南方より根来・雑賀の軍勢2万が信長に加わりました。いよいよ観念した三好三人衆は、ついに織田方に降参を打診しました。もちろん信長は許さず、総攻撃を決定しました。
 その日、12日夜半。急に本願寺が裏切り、信長軍の側面を急襲しました。信長軍は、大混乱。本願寺方が敵に回ったことから、根来・雑賀の援軍もあっさり裏切りました。あわてて、損害を出す織田軍。
 ところが、同じタイミングで大潮がこの一帯を襲いました。野田・福島の付け城は水没。信長の本陣も水没。双方膠着状態に陥ってしまいました。
 同じころ、近江で動き出した朝倉・浅井の連合軍に対応するために撤退を決意した織田軍。素早く撤収して、京都に向かいました。

■ 篠原長房着陣、しかし和睦に終わる。
 
 ところで、今回の主人公篠原長房は、何をしていたのでしょうか?実は、彼は阿波にとどまっていたのです。なんと、9月19日頃に本願寺から同盟の旨の申し入れを受けて、ようやく阿波勢を招集しました。これを三好長治とともに率いて、 9月27日に兵庫浦に上陸しました。
 勢いよく、瓦林三河守がまもっていた越水城を陥落させ、今度は瓦林を討ち取りました。ついに、三好勢への押さえとして残されていた三好義継・松永久秀と対陣します。一方信長は、比叡山に立てこもってしまった浅井・朝倉連合軍に手も足もでず、手詰まりに陥っていました。 ついに信長は、天皇を持ち出し、全ての敵対勢力とかりそめの和睦を結ぶことになりました。
 その流れにのって、篠原長房率いる阿波三好氏、十河存保率いる讃岐三好氏、三好三人衆は松永久秀に仲介してもらって、信長と和睦しました。同時に、畿内でこれまで争っていた三好三人衆・篠原長房と三好義継が和解。篠原長房は、和睦の証として松永久秀と人質交換まで行いました。しかも、三好義継に求められて、土佐一条から鷹を取り寄せ献上しています。
 この時、三好三人衆と篠原長房は、「野田・福島の防戦で精一杯で、都を落とすほどの力はもうない」と判断したのだそうです。確かに、以前三好氏のとっていた、「在地の勢力を使って敵対勢力を遅滞し、余剰な四国勢を動員して敵をたたく」という構図は、畿内の拠点を完全に失った三好勢には不可能でした。結局、大軍を擁して遠征したにも関わらず、今度も何も手に入れることなく、阿波に帰ることになったのです。

■ 篠原長房、讃岐に勢力を扶植

 このころから、篠原長房は讃岐に自身の同盟者をつくることを試みるようになります。じつは、十河存保が若かった時分には、篠原長房自身が、讃岐の手勢もまとめて引率していたようなのですが、このころになると、讃岐勢への影響力は大きく後退していたようです。
 1570年、讃岐の有力者雨瀧城主安富盛定に長女を嫁がせました。1571年、長房は強硬手段に打ってでました。安富の本家筋にあたる寒川氏のもつ大内郡とその周辺所領を差し出させてしまったのです。(下図、赤マーク 阿波三好方、黄マーク 十河存保)

讃岐経営

 寒川から奪い取った引田城は、阿波三好家の家臣矢野氏の与えられ、虎丸城は安富氏に与えられました。矢野氏とは、阿波三好氏の家臣で阿波矢野城主です。篠原長房は、「私心がなかったこと」を示したかったのではないでしょうか?
 阿波に逼塞することになった、篠原長房は、① 畿内から押し寄せてくるであろう、信長勢に対抗するため、讃岐に防衛拠点を築くこと ② 次の戦い(備前児島での戦い)に備えての経路確保と讃岐に対する影響力拡大)に備えた行動だったのでしょう。
 しかし、これは十河存保の目にどう映っていたのでしょうか。何はともあれ、当面は統率のとれた阿波に対して、十河氏も反抗せず、事態は次のステージに移行していきました。


→ 第四部に続く
 

このパートでは、「長慶死後の混乱→信長襲来まで」を描きます。

 さて、最盛期を迎えた三好勢力圏は下記の通りです。
 三好 全盛期
 ここから、三好氏は曲がり角に差し掛かることになります。 

■ ターニングポイント ~十河一存の死と久米田の戦い~

 今、まさに三好氏は絶頂期にありました。長慶は本拠地を河内飯盛山城へと移し、大阪平野全域の平定に力を注ぎます。幕府から相伴衆に任命されましたが、支配地域での裁判などはすべて三好氏によって直接管理されている状態でした。大和で苦戦する松永にも適宜援軍を送り、その版図は拡大の一途をたどっていたのですが。
 1561年、十河一存が突然病死します(註1)。和泉の支配が動揺した隙を逃がさず、紀伊から畠山高政が根来衆を引き連れて攻め込んできたのです。なんと、六角とタイミングを計ってせめこんでくるという状態に。
 もちろん、畠山に対して応戦したのは、河内高屋城の城主 三好実休。篠原長房を先陣として、畠山勢と互角の戦いとなりました。先陣の篠原長房が畠山・根来衆を切り崩していた最中、事故は起こりました。篠原長房は当初順調に、畠山・安見・根来衆を打ち崩しました。これを見て、次の陣が、紀州の湯川氏の陣に切りかかりました。この時、三好実休の旗本は数百しか残らなかったといいます。ここに、くずれたはずの畠山2千騎が殺到。囲まれてしまい、実休は流れ弾にあたって戦死しました。この時、篠原長房の弟や、阿波有力国人の西条氏も討ち死にするなど、側近も壊滅してしまいました。河内に駐屯していた四国勢は、散りじりになります。殿をつとめた篠原長房も手勢をまとめつつ堺までひきのく始末。1562年3月上旬のことでした。ここに、三好は優秀な四国方面の司令官をまとめて失うことになったのです。
 
■ 逆襲

 阿波に飛んで帰った篠原長房は、再び阿波の軍勢を立て直します。阿波三好氏の家督を、素早く三好長治(8才)に継がせて、安宅冬康の指示に従いふたたび河内に舞い戻ったのです。そのころには、山城で六角を打ち破った三好義興と松永久秀が合流。1562年5月に再び河内へと進軍しました。
 ところで、畠山勢は何をしていたのでしょうか。なんと、三好長慶がこもる飯盛山城を取り囲んでいたのです。久米田の戦いで勢いづいた彼らは、河内・紀伊の諸国人、根来衆を糾合して3月より飯盛山城を取り囲み、激しい攻撃をかけていたのです。ただ、成果はほとんどあがっていなかったようで、ちんたら飯盛山を囲んでいたところを、援軍に蹴散らされ、散々打ち負かされて紀伊までひきあげていきました。
 ここに、三好氏は河内を回復。岸和田城には安宅冬康が、高屋城には三好長慶の叔父 三好康長が入ります。駐屯していた阿波勢の一部をまとめて篠原長房は阿波へと帰還するのです。帰還にあたって残留組には、長治に対して忠義を誓わせる誓文を回収して、幼主の待つ阿波へと帰還していきました。以降は、阿波木津城主で弟の篠原自遁と阿波坂西城主の赤沢送伝と阿波で、三好長治を支える日々が始まります。彼の整備した新加制式も、その機能を発揮したことでしょう。
 この後、さらなる悲劇が三好を、篠原長房を襲います。

■ 三好氏、主要人物死去

 実は、この時期から、丹後と大和で三好氏は苦戦しはじめます。従来の勝ちパターンであった、在地の勢力+四国勢で敵を打ち破るという図式が使えなくなってきたのです。原因は、二つ。① 四国方面の司令官の死去 ② 長慶の不調。特に、②の長慶の不調がきつかったようで、この時期ほとんど四国勢を動かすことができず、飯盛山城から一歩も出なくなりました。
 不穏な空気は、続きます。1562年、弱ってきた三好の隙をついて、山城で政所執事伊勢貞孝が挙兵します。嫡男義興がこれを鎮圧します。が、この翌年、嫡男義興が病死してしまうのです。大和では松永久秀が多武峯宗徒と紛争を起こし、三好康長は根来衆の侵攻を受けて戦うようになりました。そんな中、臨時中央司令部であった義興が他界してしまったのです。跡は、十河一存の息子、三好義継が継ぐことになりました。
 そして、その翌年(1564年)、飯盛山城に安宅冬康が呼び出され殺害されます。その直後に、三好長慶も他界しました。その翌年には、丹波で追い詰められた松永長頼が討ち死にしました。気が付いてみると、三好氏はその中心人物がすべて死んでしまっていたのです。下に、長慶死去時の主要な武将とその配置を示します。
長慶死去後の配置図

 主要な拠点であった芥川山城の責任者が決まっていなかったり、岸和田城主として現地の国人松浦氏が取り立てられているなど、まさに人材不足が痛々しい配置図となています。

■ 内紛始まる。

 1564年12月長慶死去の報に接した篠原長房は、阿波三好家の重臣として、四国勢を代表して急遽飯盛山城に向かいます。そこで、三好一族の長老である三好長逸、長慶直臣の代表格である岩成友通は松永久秀、旧細川氏家臣団や堺衆とのパイプ役である三好宗渭と会談しました。そこで、何が話合われたかはわかりません。ただし、長慶の死去を隠すことが話合われたようで、尾張など遠隔地域では、三好長慶がまだ存命であると誤解されていたようです(注2)
 1565年5月。三人衆と松永久通が図って、足利義輝を殺害しました。これ以降、一気に松永氏と三好三人衆の足並みが乱れ、ついに内訌に発展します(注3)。
・松永陣営 ;松永親子、畠山氏、安見氏、和泉の国人衆 (ちなみに摂津越水城も松永麾下)
・三人衆陣営;三好康長など三好一族、篠原長房をはじめとした篠原氏
に割れて戦うことになりました。

畿内では、三好一族(主に三人衆)が、各地に散らばる松永派と交戦しています。そこに、足利義栄を奉じた
篠原長房が四国衆2万5千を率いて上陸し、破竹の勢いで松永派を追い詰めます。
 下図に、篠原長房の転戦を示します。長房は、摂津北部の中心拠点越水を落とすと、伊丹への包囲網を作成し、中嶋城を蹴散らしたあと、高屋城に入ります。そこで談合中に、伊丹城は陥落しました。高屋城には、若い三好義継が三好長逸の傀儡と化して押し込められていたのです。

三好 内乱①



 摂津・河内・山城南部は、三好三人衆の勢力圏に組み込まれました。1566年12月、篠原長房は父が城番をやっていた越水城に駐屯します。ついに、1567年冒頭、足利義栄が左馬頭につき、三人衆側の士気は大きくあがりました。

■ 内乱第二幕 東大寺合戦から泥沼へ

 ところが、畿内の混乱はこれで収まりませんでした。なんと、松永が傀儡となっていた三好義継を連れ出して、信貴山に立てこもったのです。1567年4月信貴山に入り、耐えられないと読むや素早く大和多聞山城に逃げ込みました。加えて、長屋城の城主であった三好康長が三人衆を裏切ります。ふたたび泥沼と化す河内・大和北部。そんな中、多聞山城にこもった松永は、興福寺と結託。奈良の町に三人衆を引き込んで、激しい市街戦を行います。
 当初、篠原長房は後詰めとして越水にとどまっていましたが、苦戦する三人衆の支援のために大和に進出します。筒井順慶も動員して多聞山城を責め立てますが落ちません。やがて疲弊した三人衆が河内・摂津に引き上げ、変わって篠原長房と応援に来た三好長治が奈良の町に駐屯することになりました。河内の津田氏が松永方に裏切ったかと思えば、大和の十市氏が三好方に転向します。果てしなく消耗戦が続きます。
 そんな中、1568年2月ついに足利義栄が征夷大将軍となりました。三好三人衆と篠原長房は、豪商天王寺屋津田宗久の援助を受けて、大宴会を楽しんだといいます。大和では紛争が続いていましたが、長房は河内へと帰還しました。

■ とある風聞

 河内に帰還した長房は、事務仕事にも取り組んでいます。あの京にある本能寺に禁制を発給しています。1568年5月、とある風聞も確認しています。「松永久秀が逃がしてしまった、足利義昭が美濃岐阜に拠点を新設した信長に報じられて上洛する」というものです。三人衆と会談し、六角を先手としてこれを防ぎ、援軍として駆けつけて信長をたたくという戦略を練ったといわれています。大和から手勢を河内まで引き上げて、
信長に備えたのです。彼らは、信長襲来という情報を注視し、内乱で疲弊しているとはいえ、ひとまず兵力を集結させました。

■ 信長進撃と戦線崩壊 ~畿内からたたきだされる三好三人衆と長房~

 ところが、動きだした信長の速度は圧倒的でした。
1568年9月7日 岐阜を進発
1568年9月12日 六角氏観音寺城陥落
1568年9月25日 大津三井寺着陣
 信長は、驚異的な速度で進撃してきたのです。当初の作戦を外してしまった三好三人衆は動揺します。素早く全員がそれぞれの居城にこもりました。
 しかし、信長率いる大軍は三好三人衆を各個撃破していきました(下図参照)。まさに、松永方を四国からの大軍を使ってけちらしたのと、逆の現象が三好三人衆と篠原長房の身の上に起こったのです。

 信長襲来

 1ヶ月もしないうちに、篠原長房は、畿内の領地を完全に失ってしまいました。次は、阿波から信長への逆襲を企図する篠原長房を見ていきます。

→ 第三部はこちら

(注1) 松永が暗殺したという噂があるが、そもそもこの時期、松永は京と信貴山の間を往復しながら大和の戦線を指揮している状態で、それどろではなかっただろう。まあ、仲は悪かったらしいが。
 (注2) 信長公記では、義輝殺害の犯人は三好長慶。信玄公もびっくりの成功っぷりですね。
(注3) 主導権争いもあったらしいのですが、松永久秀が足利義昭を逃がしてしまったことで、責任を追及されて、逆切れしてしまったという背景もあったようです。 

本日の教訓

「大切なのは、自分の直接的な力をのばすこと」

平社員なら、日ごろの業務をこなす>自分のスキルを磨く>他人とつきあう。役員なら、日ごろ成果をだす>統括部門の業績をあげる仕組みづくり>他の役員とつきあう。何よりも、自分の力を伸ばすことが大切なのです。

今回取り上げるのは、阿波三好家の家老 篠原長房。阿波三好家の家老として、三好長慶亡き後の四国三好家のとりまとめに奮闘しました。
*本記事で取り上げるのは、「久米田の戦い」以前です。


■ 篠原長房の生い立ち

 篠原長房は、阿波守護代三好氏の家臣篠原氏に生まれました。当時、篠原氏は三好之長(長慶の曾祖父)の代から仕えており、阿波の中にある程度の勢力を扶植していました。そのなかの、篠原大和守長政の息子として生まれました。篠原長政は、応仁の乱・両細川の乱を、主人の三好元長(長慶の父)とともに戦い三好家での地位を高めていきます。元長が敗死したのちも、その息子千熊丸(長慶)を奉じて、摂津の拠点越水城の城番をつとめ、一向一揆と戦い、長慶が苦戦した摂津の平定戦で戦功を立てたり、事務作業をこなすなど、三好家の中心人物として活躍しています。特に、三好実休(義賢)が阿波守護細川持隆を倒した後に起こった阿波国内での戦い(やり場の戦い)では、武功をあげたらしく、下八萬、立江、渋野の三か所を分け与えられました。
 そんな父親を持った篠原長房は、幼いころから学問・武術と修練を重ねていた模様。随分と、理知的なタイプであったらしく、主君実休の弟(十河一存)と武芸の比較のために打ちあったさいには、思いっきりぶったおしたりしたようです。人望もあったようで、十河一存とトラブルになったときには、同僚50騎が素早く駆け付け、三好実休が仲裁に入るなんて一幕がありました。
 
■ 三好氏の勢力拡大と篠原長房の活躍

 やり場の戦いがあった年の末、ついに一度叛旗を翻した細川被官 芥川氏をうちやぶり、摂津芥川城を本拠地としました。この当時、三好は様々な敵に囲まれていました。近江には足利義輝が、丹波には旧主細川晴元がいて、たびたび上洛されそうになっています。事態を打開するために、三好長慶は、晴元方、義輝方の勢力をたたいてまわることになります。下に、概略をまとめた図を示す。番号が付いている戦いには、長房も参陣していました。(赤が「鎗り場合戦のころの三好の勢力」青が、敵対勢力です。)

篠原長房の転戦と、三好氏の勢力拡大


① 播磨遠征
さらに、播磨では晴元方の残党が潜伏。これを討伐するとともに、前年から三好を支援していた播磨の有馬氏を助けて三木城にこもる別所氏を討つため出陣することになりました。明石城にこもる香西氏を蹴散らしたのち、三木城にこもる別所氏を降伏させました。この播磨遠征に1554年11月から1555年2月にかけて、三好実休の配下として篠原長房は従軍していたようです。
 
 ②  将軍山、如意嶽、白川口の合戦
  1558年、細川晴元、三好政勝・香西元成・足利義輝が連合して京都奪還に押し寄せます。六角氏の支援もうけて総勢一万以上。叔父の三好康永、三好実休など四国勢が渡海。将軍側は、援軍である六角氏が音をあげ、和議となった。義輝、許されて帰京。しかし実権は与えられませんでした。この四国勢の一端として、篠原長房も従軍。軍議に参加していたという記録が残っています。

 このあたりから、三好氏に一種の勝ちパターンができてきたように思います。「在地の戦力で足止めして、四国など手すきの戦線から兵力を抽出し、敵をたたく。」という流れです。とにかく、四国の基盤が安定することが、三好氏のアドバンテージにつながるという構造ができあがっていきます。

③ 河内に向けての出陣
 1559年、長慶は河内の守護と守護代のあらそいを口実に、播磨の赤松・三木・別所・有馬と和泉の軍勢とあわせて、河内を制圧します(これに先立って松永久秀を派遣していましたが、敗北しています。)。一応、守護の畠山高政を返り咲かせてやったのですが、これが反乱を起こし、その鎮圧のために四国勢を動員します。1560年3月に、尼崎から上陸し、河内各所の制圧に力を尽くします。最終的に、実休が河内の中心高屋城に入城。畠山高政は捕まるものの許されて、河内は三好のものとなりました。

④ 新加制式の整備を開始?
 この時期から、篠原長房を中心として阿波三好家の家法を整備し始めます。阿波国内での権力は、守護細川氏から 、明確に守護代三好氏に集まるようになりました。明確ではないのですが、同時に讃岐で香川氏を駆逐するなどの活躍もあったようです。

 これと並行して、松永兄弟が国人の鎮圧に苦労しつつも、大和・丹波に侵出していきます。ここに三好氏は、最盛期をむかえたのです。

→ ②に続く
 

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