2005年12月

2005年12月25日

選挙で「特定の党に入れる習慣」に縛られてる人達。

政策関係なしで票入れんなよ。
私は一度、ネッ友に「何処其処党に入れて」と言われて断った事が有る。其の事を憾んで書く訳ではない事をあらかじめことわって置くが、「特定の党に入れる習慣」に縛られてる人達がまた、「一人ノルマ何人」なんぞと決めて、知り合いに「誰それに入れて」「何党に入れて」なぞと言いに行くのがある。
中には殆ど脅迫紛いの「御願い」もあろうに、是が選挙違反でない事自体驚きだが、そんな風に集めた票で当選した人間が信用出来るか?
だって純粋に人気で当選したんじゃないんだよ?
候補者→少数の「知人」or「信奉者」or「利害関係者」→多数の無思想な人々
というピラミッド式の命令系統ならぬ「御願い系統」で集まっただけの票だよ?
私は他にも、親戚に「誰それに票入れたいから名前貸して」と言われた事が有るが、やっぱり断った。そんな見ず知らずの人間の為に俺の名前が出されたんじゃ気持ち悪くっていけねえ。
そういう悪習はやめないと、日本も進歩しないよ。
中身が滅茶苦茶な政策であっても、「是迄此の党に入れてたから」「頼まれたから」という理由だけで投票してたら、いつまで経とうが、野党が幾ら正論を主張しようが「、与党と野党の票の割合が変わらない。「日本も変わんねえかな」と期待してる人達も報われないわい。

思うに、頼まれて断れないから其の党に投票するんでしょ?
断れないなら「おう、いいとも。合点だ」とか言っといて、投票所では別の人間に入れたらいい。
誰が誰に入れたかなんて判りゃしねえやい。

向こうは「よし!これだけ票が集まりそうだから一安心♪」なんて言ってて、いざ開票されてみたら其の三分の一にも票が満たなかった・・・なんて事になったら愉しいぞ!
「あなたアレだけ御願いしたのに入れてくれなかったの?」
なんて訊かれても、「いやいや!俺は入れたよ!」とか言ってればいい。
飽く迄涼しい顔をしていて、他の候補に入れ続けたらいい。


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過ぎたるは猶及ばざるが如し

チェーンで客商売をしている様な会社というものは、色々考えるものだ。
何を考えるかというと、「御客様の為」を根底に置いた「演出方法」であるのだろうが、其の実、一体「誰の為」で、「そうしたからどうなの?」という演出が多い。

主にこういうのを考える人間は、所謂「優秀店長」と呼ばれる人種であったり、或いは本部の営業課長やら部長であったりする。
前者は往々にして初めて任された店舗で好成績を挙げたのを機に、「自分はどんな店舗ででも売り上げを上げる事が出来るのだ」と思い込んでいるタイプ(事実そういう特殊な才能を持ち合わせてる人間も居るには居るが、売り上げと云うものは大方は立地や商品の量や種類の多さで決まるのだ)で、張り切り過ぎる余りに、常に「御客様の為」を念仏よろしく唱えて、終いには自己暗示の様になってしまい、
「休日だったので御客様の個人情報を基に、其の御客様の御自宅付近迄行ってみました。そして『嗚呼こんなに遠くからいらして下さってるんだ』と感動し、感謝の気持ちをまた仕事への熱意に変えるのでした。」
等というアブノーマルな作文をしたためたり(ストーカーじゃない?それじゃ)、其の日の接客で嬉しかった事やらを、わざわざ自分の「接客HP」で記事にしたりする人種が多く、後者の場合、「分析」と称して仕事もせずに会社で経済新聞を読み耽り、いいなと思った新聞記事を各店にFAXするなどという暇な事をしてみたり、デスクで鼻糞をほじくり乍らボケェっと、「売り上げを上げるには商品量や種類の多さではなく、接客だ(しつこい接客は嫌われるのに)、笑顔だ(笑うだけで客が来たら苦労無し)、清掃だ(其の前に店舗の壁やら柱がボロボロなのを放っとく癖に)!」
等と机上の空論を展開した挙句、
「御客様に商品を御渡しする時、『大切に使って下さいね』の一言を付け加えましょう。」
等と云う、どう考えても「余計な御世話」でしかない様な事を、命令文書として回覧させて来たりする人種なのだ。

扨、そうした人種が考えた「店舗での演出方法」が上層部で評価される(どういう基準で評価してんだ)と、全店同じ事をやらされるハメに陥る。
例えば、私が客として某古本屋チェーンに行った時、突如店員がマイク放送を始めた事が有る。
「本日は(会社名)○○店に御越し戴きまして誠に有難う御座居ます。只今当店では・・・(以下ウリ文句が続き)、どうぞ此の機会を御見逃し御座居ません様御利用下さいませえ」
其処迄言い終わった時、店内に分散している店員達が声を揃えて、
「御利用下さいませえ〜!」
と復唱した。
これに一体何の意味が有ると云うのだろう?皆で復唱すると清々しいイメージになるとでも思ってんだろうか。単純に異様な光景でしかなかったのだが。
更に続けて、
「計算御待ちの○○様、計算が終わりましたのでカウンター迄御越し下さいませ〜」
とアナウンスされた。
何の事は無い、古本を売りに来た客を呼び出すのに事寄せて「ウリを宣伝した」訳だ。併し此の手法では、何の関連性が有って「客の呼び出し」と「ウリの告知」を同時にしたものだろう?
更にこれによって得られる対客効果とでも云うべきものを、会社サイドでは「御客様もこれで御気分が宜しかろう♪」とでも思っているのだろうか?

亦、同古本屋では年末、「買った客にクジを引かせて当たったら割引券」みたいのをやってた様だが、それが酷い。
私が本を物色して居ると突如レジの方から、
「当たりでぇ〜す!御目出度うございま〜す!」
の声と共に、ベルやらパフパフやらの鳴り物の大音響。更にマイク放送で、
「今当たりが出たから、皆さんも買ってみてくれ。」
という様な意味のアナウンスが流れる始末。
冷静に考えると、カウンターに立っている「買ったら当たってしまった客」は身の置き所が無い位羞かしい思いをしているんではなかろうか。
目立ちたがりの人間なら知らず、尠くとも私なら、然も夫れが一人で買いに行ってたのだとしたら、当たるのが恐くて迚もの事にレジに商品など持っては行けない。
そういう「シャイな」人間が居る事も、そうした演出を企画会議にかける際、おエラ方は考慮しなかったものだろうか。

こういう過剰な(というより、それを通り越して意味不明になってしまった)演出によって得られるメリットがどの程度のものかという事は、そりゃ企業として実施する以上、或る程度予測してあるんだろうけれども、それによって失ってゆくものも係数として予測に組み込んであるのかどうか、其の一点が不明なんであります。


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別に自分の経験談ではないが

「高ぇなあ。マケねえかい?」
「何ぃ?冗談言うない!これだけの鯛をマケろだと?手前ぇの様にものの判らねぇ客に売る鯛なんざ有りゃしねえや!おととい来やがれ!」
等という会話は、昔なら「何と無く有りそうな話」という感じも有ったが、現在では迚もの事に現実的な話だとは思えなくなって来ている。
上の例は些か極端に過ぎるやも知れんが、それにしたって最近の、客へ対しての「媚び・へつらい」の追求は、度が過ぎやしないか。

だが、それは企業側の姿勢であり、他社と差別化を図ろう意図の元に勝手にやっているだけの事であるから、別段文句を言う筋の話ではないし、やりたけりゃやらせておけば良い。
問題は・・というか、疑問に思うのは、それに慣れてしまった客の傲慢さ(?)から生じる「怺え性の無さ」である。

何処から何処迄を「怺え性が無い」と判断するかは人に依るから、こういう話をし出すとどうしても私の主観的価値観を基準に話を進めてしまう事になるが、ま、読み進んで戴こう。
例えば70年代、個人経営の古本屋に入ると、店の奥に座ってるオッサンは新聞を広げてコチラを一瞥するだけだったりした。
此処迄はいい。例えば其の後、本の事を訊こうとしてオッサンに話し掛けると、ぶっきらぼうを通り越して、半分怒った様な口調で面倒臭そうに応対されたとしたら、これは頭に来る。

「コチラを一瞥しただけ」である事は、気分良くは無いが、ほぼどうでも良く、其の後「横柄な態度を取られた」事に腹を立てるというのは、尠くとも私の年代の男であってみれば、そうそう変な事でも無い様に思われる。
「コチラを一瞥しただけ」に腹を立てぬのは、「それが一般に広く有った事」であるからで、慣れているからだろう。

ところが現在は、「横柄な態度を取られた」等は言わずもがな、「コチラを一瞥しただけ」で「いらっしゃいませ」を言わない事で既に腹を立てる「怺え性の無い」奴がある。
先にも言った様に、そもそも企業側が「いらっしゃいませ、今日は」等と言い出したのは、客に媚び・へつらって「ウチを贔屓にして貰おう」とのコスイ考えから出たものであり、客の方から求められて始めたものではない。
随って客は、そういう企業の態度が気に入れば再度当該店舗に出向けば良いし、それがうざったかったらもう行かなければ良いだけの事なのであるが、「いらっしゃいませ」の後に「今日は」を、然も笑顔で大きな声で言うのが一般に定着してしまうともう、そうでなくては「自分が疎かにされた」という被害妄想を抱くに至り、結果、当該店舗の本部等に「あすこの店では何時行ってもいらっしゃいませを言われない」等という苦情を持ち込んだりするのである。

あんなに気持ちの籠ってない「いらっしゃいませ」が、そんなに嬉しいか?亦は「いらっしゃいませ」を言われないと我慢ならないか?
何時からそんな我儘になってしまったんだキミは。
甚だしきは、「あすこの店は元気が無い・活気が無い」等という申し立てをする奴があるが、なんじゃそりゃ?
元気が無いのが気に入らなければ行かなけりゃいいだろう。それをわざわざ本部に訴えを起こし、改善して貰って迄買いに行きたいのかキミは。
元気が有る様に見せかける事に成功しているかどうか。それを遵守しているかどうかをチェックし、且つ其の事自体が企業の方針としてどうか(例えば洋服屋なのに八百屋の様な大声出していいのかとか)という是非を云々するのは本部のエライさんのする事で、貴方は只単に「それが自分の気に入るかどうか」を判断して、数多有る小売店舗を取捨選択すれば事足りる話だろうに、何で一体そんな事を一々チェックして廻らなければ気が済まなくなってしまったのだ?
大体元気が有って嬉しいのか?「あすこは元気が有っていいから買いに行こう」等と云う判断基準を本当に設けているのかキミは。
そりゃ常軌を逸した険悪なムードが漂っているよりはいいか知れないが、基本的には、私なら店の「綺麗さ」と「品揃え」で店を選ぶが。

話が逸れた。
先の古本屋の主人の態度で此の世の中を生き残っていけるかどうかは我々にはどうでも良い。自然淘汰されて閉店に追い込まれても、それは自分の選択の結果であるから、消費者が云々する必要は無い。それと同じで、何度も言うが、店が気に入らなかったら行かなきゃいいだろう?それを何故わざわざ本部に「改善要求」という形で意見したりするのだ?
「大きな御世話」プラス「意地悪して脳内麻薬物質に酔う野蛮人」以外の何者でも無い行為でしかないな。

「意地悪」という訳は、こうした世の中だと企業側としても「御客様が白と言えば、黒も白」的姿勢であるから、客がどんな些細な事でも、有る事無い事本部に言い立てれば、本部としても何らかの処分を当該店店長に対して取らざるを得なくなる。それを逆手に取った手段であるという意味でである。

電子メールという手段が発達した現在、こうした「讒言メール」は後を絶たないというから、企業としてもイチイチ本気にはしないだろうが、それでも名指しで苦情が来た店舗にはそれなりの対応をするだろう。
人間、どんな些細な文句でも、面と向かって<苦言>をされれば嫌な思いもする。況んや気にする性質の人は、それで禿げたり、胃に穴が開いたりするかも知れない。
たかだか「自分が気に入らなかった」だけの事で、こうした結果を引き起こす事を想定して讒言に及び、脳内麻薬の悦楽に浸るなんというのは、テクノロジー面は言うを俟たず精神面での発展をも求めて来た人間の、是迄の功績に逆行する原始的衝動であると言えよう。


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嫌いな理由

「子供好きぃ?」
とか訊かれる事が有る。
「嫌い」と答えると、当然其の理由を聞きたがって来る。
「自制心が極端に弱いから」
と答えてやると、必ずと言っていい程、小莫迦にした様に、
「当たり前じゃん!」
と来る。当たり前だから何だ。だったら訊くな!
ほんじゃ何か?
「納豆が嫌いだそうなが、なにゆえ?」
「臭いから」
「当たり前じゃん!」
か!?
普通、臭いのがイヤなんじゃないんかい?え?じゃ、納豆の形状が気に入らんとでも言えば気が済むのかい?

或る特定の物事を嫌う理由と云うのは、往々にして対象となる物事の「際立った特徴となる部分」が気に入らないからではないのか。
仍ち「当たり前」な特徴が「嫌い」となって当然と言える訳だ。

実際の所、情け無さそうに「納豆の匂いが好かないんだ。」と述懐すれば、「ああ、あの匂いねえ・・。」と同情を匂わして来る位のモンであろうが、これが殊、子供の事に成ると、「其の大きな特徴」が嫌いである事を、世間は認めたくないらしい。
飽く迄子供の「自制心が極端に弱い」部分が嫌いである事を声を大にして主張し続けたとしたら、世間の当方を見る目は恰も人非人を見るが如きものになるだろう。

だがひとつ考えてみて欲しい。自分が嫌いなものを幾つか挙げて、その嫌いな対象を生物と無生物に振り分け、其の中の特定の生物が嫌いな理由と、特定の無生物が嫌いな理由とで、根本的に同じ論法が当てはまる対象同士が有るか無いか。
そりゃ一見理由は違うだろう。「あいつは自慢話が多くて嫌いだ。」というのと「あの石は角が多くて嫌いだ。」というのとでは。
併し、此の場合は先に言った様に、「対象の大きな特徴が嫌い」であるという点で共通の理由とは言えまいか。(他にどんな共通の理由が有るか探してみるのも楽しいぞ!)
人間の判断基準とは根本の所ではそんなものではないのか。自分も同じ理由で好き嫌いを言っていないか考えてみよう。
エラそうに人の嗜好を責めるべきではない。


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運転中

運転をする時は前方を中心に、様々な角度に対して一寸ずつ注意を払って居らねばならぬ。然るに、
 道路脇で事故車が有り、警察が検分していたりすると、わざわざ減速して事故状況を見ようとする奴がある。
甚だしいのは、夜夜中、走っているのは前方の車両一台と後続の私の車だけ。前の車が一時停止地点で停まった。折悪しく一時停止標識の辺りで事故車が難渋して居る。
さあ猿(「ましら」と読もう)の如く好奇心の強い前の車のドライバーたる姉ちゃん、気になって気になって仕方が無い。暗闇の中を事故車の状況を見ようと目を凝らして居るのか、却々発進しない。
後続は私の車が一台だけ。明らかに特定個人(後続の一台)に迷惑をかける様な状況下でも一切御構い無しで、欲求を満たす爲だけに事故車の方を注視し続けた。
そんなにして迄、後続車に迷惑をかけて迄事故車を見て、一体どうしようというのか。考えたら何にも成るまい。それどころか後続車に迷惑はかける、事故車方向以外の方向への注意の欠如等、マイナス面の方が多かろう。大体無残な血まみれの屍体でも見てしまったらどうするつもりなのだ。※1

◆運転中、突如前方を車が横切ったとか、兎に角危険な運転をするドライバーにひやっとさせられた時、去り行く其の車の方を見乍ら不服そうな顔をするばかりか、いつ迄も見やっている奴がある。勿論不服を表明する爲に、自分の車の速度は落としている。後続車は大迷惑だ。※2
いいから早く行け。いつ迄も感傷に浸ってるんじゃない。そんなもの見てたってしょうがないじゃないか。時間の無駄以外の何物でも無い。それとも、減速している時間が長ければ長い程、強い怒りを表す事に成るのか。亦は間が長ければ長い程、自分は強いんだぞという示威行動を強調する事に成るのか。
見ているだけならまだ良い。去った車に対して吼えてる奴がある。凄い顔して。
勿論窓を締め切って居れば、更に言えば双方共車内であってみれば、何を言っているんだかさっぱり分からない。音声を発しているかどうかすら分からない。
仮に其の様を見乍ら、コチラで「ワンワンワンワン!」とアテレコをしてみても一向に違和感が無い。
斯様な事はみっともないばかりでなく、事故にも繋がるからやめたが良い。


※1・・・事故等のハプニングに対して、人間の「知りたい」衝動が起こるケースは室内でも有る。
窓の無い建造物の中に居て、壁の向こう側の道路を緊急自動車がサイレンを鳴らし乍ら走り去った時がそうである。
窓が無いのである。
にも拘わらず、渠等はサイレンの音のした方向の壁を見る。
透視能力者か、あんたらは。

※2・・・車の速度を落とすと「怒ってます」を表現する事になるという約束事が出来上がって居るというのも可笑しいが、怒り乍らも其の約束事に従って怒りを表明しているというのも几帳面だ。
こういうのは他にも有る。
「バンパーを大きくしたから不良です。喧嘩を売らないで下さい。」
とか、
「マフラーが大きな音を発する様に細工してありますから・・・以下同文。」
とか、此の類いでは往古には、
「タイヤを車体に斜めに取り付けてあります(シャコタン)仍って以下同文」
等があった。
面白いのは、
「ブレーキランプの形状を、恰も『怒って居るかの様な目の形』にしました。こういった形のランプを付けてしまう程私は豪胆ですので、煽らないで下さい。」
というも有る。


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