久々の更新です。
前回(といってもだいぶ前ですが)の記事で
前回(といってもだいぶ前ですが)の記事で
鈴鹿最北部の山間集落
「霊仙落合」(多賀町)と
米原市の「榑ヶ畑」(廃村)との間の
古道や峠の話をしました。
多賀町北部の、山深き古の道の話でした。
「霊仙落合」(多賀町)と
米原市の「榑ヶ畑」(廃村)との間の
古道や峠の話をしました。
多賀町北部の、山深き古の道の話でした。
今回は多賀町の最南部の古道、
「萱原(かやはら)」集落と
東近江市の奥永源寺地区にある「君ヶ畑」集落とを結ぶ
「萱原(かやはら)」集落と
東近江市の奥永源寺地区にある「君ヶ畑」集落とを結ぶ
赤丸が「萱原」と「君ヶ畑」の2つの集落です。
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます
地図を見ると
「萱原」「君ヶ畑」ともに
山深いということがわかります。
そして
直線距離で6km強の2つの村の間には
人家・集落などはありません。
下の地図は現在の地形図ですが
そこには萱原〜君ヶ畑間の道が
記されています。
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます
その道は
萱原から犬上ダムの東岸を行き、
そこからはずっと
南東方向に川沿い道で上流へと遡り、
やがて谷から一気に登って
山越えで君ヶ畑(地図の右下)へと至っています。ただその道は太線から実線、
そして最後は破線で記されているように、
林道や登山道として残ってはいるものの
ほぼ廃道となっている部分もあります。
役目を終えて消えゆく道
そのような印象を感じます。
萱原から南へ向かう道にはもう一本
ダム湖西岸を南下し大萩へと繋がる
昔からの道がありますが、
こちらは、ルート変更等はあるものの今も健在です。
ダムができる前は
萱原から出た一本道が途中で二股に分かれ
それぞれ大萩と君ヶ畑に向かっていましたが、
現在は集落内で2つに道は分かれています。
それにしても、なぜこんな所に道が?
なんて思ってしまいますね。
山登りを楽しむための道?
なんて、今の時代のようなことは
決してありません。
じつはこの道
その昔は、往来盛んな歴史ある道だったのです。
今回は
そのあたりを探ってゆきます。



その前に多賀町「萱原」と
東近江市の奥永源寺地区「君ヶ畑」について少し。
「萱原」は、犬上川南谷の上流部、
多賀町では最南部に位置する山峡の集落です。
下流の村からみると
「萱原か?一番奥(上流)の村やで」
ということになります。
元禄の頃の人口が225人、
そして
昭和35年には戸数119、人口526人
といいますから
山間部としては大きな村でした。
昭和35年というと
燃料が、薪炭から石油に代わる直前の頃。
萱原地区の広大な山林は
日本経済を支えるエネルギーの源として重宝され、
そこで多くの人たちが
薪炭生産などの林業に従事していました。
村では炭、薪や木材生産などの他に
農業も多少はされていたようですが、
それまでの長い歴史で
林業の村「萱原」として歩んできたことは
間違いありません。
地図を見てもわかりますが
萱原集落は犬上ダムのすぐ下流。
その犬上ダムは昭和21年の完成といいますから
もう半世紀以上も過ぎたことになります。
ずいぶん前ですね。
でも当時
ダム工事のおかげで、しっかりとした道が作られ
バス運行も始まったといいます。
現在の萱原集落というと
平成27年の人口は250人となっています。
昭和35年の頃と比べると半数以下に減っていますが
周辺地域では今も大きな集落。
でも15歳以下の人数は僅か16名で、
やはりここも
全国の山の集落が抱える過疎・高齢化問題に
直面しているのです。



次に「君ヶ畑」(滋賀県東近江市)ですが
これはご存知のように、
「蛭谷」とともに木地師発祥の地とされる
全国的にも有名な所です。
木地作りの技法である
轆轤(ろくろ)挽きを考案したとされる
惟喬親王を祀った大皇器地祖神社、
皇子が建立したとされる金龍寺などには
今も全国から木地師の末裔たちが
訪れるといいます。
惟喬親王に関連する
一連の話の真偽はともかくとして
現在も親王が木地師の始祖として崇められ、
君ヶ畑集落がその聖地として
人々に認識されているのは
間違いのない事実です。
また、このあたりは
政所茶に代表されるように、
製茶が盛んな地域でもありました。
シーズンになると
三重方面から山を越えて
多くの出稼ぎの人たち(茶摘みさん)が
画像をクリックすると拡大表示されます
地図を見ると
「萱原」「君ヶ畑」ともに
山深いということがわかります。
そして
直線距離で6km強の2つの村の間には
人家・集落などはありません。
下の地図は現在の地形図ですが
そこには萱原〜君ヶ畑間の道が
記されています。
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます
その道は
萱原から犬上ダムの東岸を行き、
そこからはずっと
南東方向に川沿い道で上流へと遡り、
やがて谷から一気に登って
山越えで君ヶ畑(地図の右下)へと至っています。ただその道は太線から実線、
そして最後は破線で記されているように、
林道や登山道として残ってはいるものの
ほぼ廃道となっている部分もあります。
役目を終えて消えゆく道
そのような印象を感じます。
萱原から南へ向かう道にはもう一本
ダム湖西岸を南下し大萩へと繋がる
昔からの道がありますが、
こちらは、ルート変更等はあるものの今も健在です。
ダムができる前は
萱原から出た一本道が途中で二股に分かれ
それぞれ大萩と君ヶ畑に向かっていましたが、
現在は集落内で2つに道は分かれています。
それにしても、なぜこんな所に道が?
なんて思ってしまいますね。
山登りを楽しむための道?
なんて、今の時代のようなことは
決してありません。
じつはこの道
その昔は、往来盛んな歴史ある道だったのです。
今回は
そのあたりを探ってゆきます。



その前に多賀町「萱原」と
東近江市の奥永源寺地区「君ヶ畑」について少し。
「萱原」は、犬上川南谷の上流部、
多賀町では最南部に位置する山峡の集落です。
下流の村からみると
「萱原か?一番奥(上流)の村やで」
ということになります。
元禄の頃の人口が225人、
そして
昭和35年には戸数119、人口526人
といいますから
山間部としては大きな村でした。
燃料が、薪炭から石油に代わる直前の頃。
萱原地区の広大な山林は
日本経済を支えるエネルギーの源として重宝され、
そこで多くの人たちが
薪炭生産などの林業に従事していました。
村では炭、薪や木材生産などの他に
農業も多少はされていたようですが、
それまでの長い歴史で
林業の村「萱原」として歩んできたことは
間違いありません。
地図を見てもわかりますが
萱原集落は犬上ダムのすぐ下流。
その犬上ダムは昭和21年の完成といいますから
もう半世紀以上も過ぎたことになります。
ずいぶん前ですね。
でも当時
ダム工事のおかげで、しっかりとした道が作られ
バス運行も始まったといいます。
現在の萱原集落というと
平成27年の人口は250人となっています。
昭和35年の頃と比べると半数以下に減っていますが
周辺地域では今も大きな集落。
でも15歳以下の人数は僅か16名で、
やはりここも
全国の山の集落が抱える過疎・高齢化問題に
直面しているのです。



次に「君ヶ畑」(滋賀県東近江市)ですが
これはご存知のように、
「蛭谷」とともに木地師発祥の地とされる
全国的にも有名な所です。
木地作りの技法である
轆轤(ろくろ)挽きを考案したとされる
惟喬親王を祀った大皇器地祖神社、
皇子が建立したとされる金龍寺などには
今も全国から木地師の末裔たちが
訪れるといいます。
惟喬親王に関連する
一連の話の真偽はともかくとして
現在も親王が木地師の始祖として崇められ、
君ヶ畑集落がその聖地として
人々に認識されているのは
間違いのない事実です。
また、このあたりは
政所茶に代表されるように、
製茶が盛んな地域でもありました。
シーズンになると
三重方面から山を越えて
多くの出稼ぎの人たち(茶摘みさん)が
君ヶ畑にもこられていました。
宿に一晩で30人もの人が
泊まることもあったといいますから、
茶摘みシーズンは
大変に賑わっていたのでしょう。
その君ヶ畑ですが
明治13年の人口は620人、戸数65。
それが平成27年には
人口が28人、世帯数は17まで減少し、
さらに20歳以下は0人という
状況になってしまっています。
萱原よりさらに深刻な
過疎高齢化の波に飲まれてしまった
そういえるかもしれません。
今は静かな両村とその周辺ですが
半世紀ほど前までは萱原、君ヶ畑のいずれもが
山仕事や製茶などを生業として
大いににぎわっていたんですね。



それでは
萱原〜君ヶ畑間の道の話に戻ります。
今でこそ通る人も少なく
道としての機能維持も難しくなりつつある道ですが、
歴史を遡ると
人々の往来の多い主要道としての姿が
見えてきます。わかりやすいのは明治〜昭和20年代頃の
絵図や古地図です。
それらを見ると、いずれの地図でも
萱原〜君ヶ畑間の道は実線で記されており、
多賀から君ヶ畑(愛知郡君ヶ畑村)へと至り
そこで
「治田越し(君ヶ畑越し)」と呼ばれる道へと
繋がっています。
画像は貼れないのですが、
これらの絵図・古地図は、
滋賀県立図書館のWEBサイト
「近江デジタル歴史街道」から
WindowsPC(要plug in)で閲覧可能です。
ご興味のある方は
ぜひご覧になってみてください。
で
この「治田越し」というのは
鈴鹿の峠越え道の一つで
治田峠(標高約760m)を越えて
近江国と伊勢国を東西に結ぶ道でした。
細かなルートの違いはあるかと思いますが
現代の地形図でもその道は破線で記されています。
わかりやすく色つきの太線で示してみました。
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます
君ヶ畑を基点にすると
西方向へは
蛭谷、大萩を経て八日市や百済寺方面へ。
宿に一晩で30人もの人が
泊まることもあったといいますから、
茶摘みシーズンは
大変に賑わっていたのでしょう。
その君ヶ畑ですが
明治13年の人口は620人、戸数65。
それが平成27年には
人口が28人、世帯数は17まで減少し、
さらに20歳以下は0人という
状況になってしまっています。
萱原よりさらに深刻な
過疎高齢化の波に飲まれてしまった
そういえるかもしれません。
今は静かな両村とその周辺ですが
半世紀ほど前までは萱原、君ヶ畑のいずれもが
山仕事や製茶などを生業として
大いににぎわっていたんですね。



それでは
萱原〜君ヶ畑間の道の話に戻ります。
今でこそ通る人も少なく
道としての機能維持も難しくなりつつある道ですが、
歴史を遡ると
人々の往来の多い主要道としての姿が
見えてきます。わかりやすいのは明治〜昭和20年代頃の
絵図や古地図です。
それらを見ると、いずれの地図でも
萱原〜君ヶ畑間の道は実線で記されており、
多賀から君ヶ畑(愛知郡君ヶ畑村)へと至り
そこで
「治田越し(君ヶ畑越し)」と呼ばれる道へと
繋がっています。
画像は貼れないのですが、
これらの絵図・古地図は、
滋賀県立図書館のWEBサイト
「近江デジタル歴史街道」から
WindowsPC(要plug in)で閲覧可能です。
ご興味のある方は
ぜひご覧になってみてください。
で
この「治田越し」というのは
鈴鹿の峠越え道の一つで
治田峠(標高約760m)を越えて
近江国と伊勢国を東西に結ぶ道でした。
細かなルートの違いはあるかと思いますが
現代の地形図でもその道は破線で記されています。
わかりやすく色つきの太線で示してみました。
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます
君ヶ畑を基点にすると
西方向へは
蛭谷、大萩を経て八日市や百済寺方面へ。
東方向へは
ノタノ坂を越えて茨川(昭和40年廃村)、
さらに、そこから治田峠を越えて
員弁の新町(現在の三重県いなべ市北勢町)へと
至ります。
そして南の伊勢神宮を目指すのです。
ノタノ坂を越えて茨川(昭和40年廃村)、
さらに、そこから治田峠を越えて
員弁の新町(現在の三重県いなべ市北勢町)へと
至ります。
そして南の伊勢神宮を目指すのです。
治田越し道は、
今では山道としてその痕跡を残すのみなのですが
かつては往来多き繁栄した道、
その証を
途中にある茨川集落にみることができます。



廃村となって久しい茨川、
村在りし頃は
君ヶ畑〜ノタノ坂〜茨川〜治田峠〜新町の
治田越え道の山中に
孤高の山里として存在していました。
ルート途中で
唯一の人里である茨川集落は、
深山をゆく治田越しにおいて
中継地点的な役割にあったのです。
それを表すのが集落名
じつは明治の初めの頃(明治7)まで
茨川は「茨川」ではなく「茨茶屋」と
呼ばれていました。
茶屋?!
これは重要なキーワードです。
遠い昔から呼び継がれてきたと思われる村名が「茨茶屋」
そこからは
茨川が、山旅の人々を支える
茶屋の村としての性格を持っていたこと
そして
今では山道としてその痕跡を残すのみなのですが
かつては往来多き繁栄した道、
その証を
途中にある茨川集落にみることができます。



廃村となって久しい茨川、
村在りし頃は
君ヶ畑〜ノタノ坂〜茨川〜治田峠〜新町の
治田越え道の山中に
孤高の山里として存在していました。
ルート途中で
唯一の人里である茨川集落は、
深山をゆく治田越しにおいて
中継地点的な役割にあったのです。
それを表すのが集落名
じつは明治の初めの頃(明治7)まで
茨川は「茨川」ではなく「茨茶屋」と
呼ばれていました。
茶屋?!
これは重要なキーワードです。
遠い昔から呼び継がれてきたと思われる村名が「茨茶屋」
そこからは
茨川が、山旅の人々を支える
茶屋の村としての性格を持っていたこと
そして
茶屋が生業として成立するほどの往来者が
その道にはあったこと
それらを読み取ることができます。
つまり
茶屋村としての姿とともに治田越え道の繁栄なども
そこから見えてくるのです。
ちなみに、茨川集落横を流れ
愛知川に注ぐ清流の名が
「茨川」ではなく「茶屋川」というのも
これで納得ですね。
長い山旅で近江や伊勢を目指す旅人は
山中の人里にホッとし、
旅の疲れを癒します。
いつしかそこは茨茶屋と呼ばれ
茶屋村としての歴史を刻んでいった、
そんな感じだったのではないでしょうか。
さらにこの茨川、
江戸期には集落北部の蛇谷から銀が採掘され
多くの坑夫やその家族で賑わってもいました。
1800年代初めには坑夫などを含めて
53世帯もの人たちが茨川に住んでいた
という記録も残っています。
今の静けさからはとても想像がつきませんが、
治田越しの道沿いには
多くの人たちの生活があったのです。
さらに、治田峠を越えて新町に向かう間には
坑夫を相手にした
女郎屋もあったというから驚きです。
なお、茨川の人たちは
昭和40年に最後の一戸が離村するまで
治田越しの道を生活道としていました。
その道にはあったこと
それらを読み取ることができます。
つまり
茶屋村としての姿とともに治田越え道の繁栄なども
そこから見えてくるのです。
愛知川に注ぐ清流の名が
「茨川」ではなく「茶屋川」というのも
これで納得ですね。
長い山旅で近江や伊勢を目指す旅人は
山中の人里にホッとし、
旅の疲れを癒します。
いつしかそこは茨茶屋と呼ばれ
茶屋村としての歴史を刻んでいった、
そんな感じだったのではないでしょうか。
さらにこの茨川、
江戸期には集落北部の蛇谷から銀が採掘され
多くの坑夫やその家族で賑わってもいました。
1800年代初めには坑夫などを含めて
53世帯もの人たちが茨川に住んでいた
という記録も残っています。
今の静けさからはとても想像がつきませんが、
治田越しの道沿いには
多くの人たちの生活があったのです。
さらに、治田峠を越えて新町に向かう間には
坑夫を相手にした
女郎屋もあったというから驚きです。
なお、茨川の人たちは
昭和40年に最後の一戸が離村するまで
治田越しの道を生活道としていました。
生産物の出荷、日常品の仕入れなど
生活のつながりの大半が三重県、
つまり行政区分は滋賀県ですが
生活圏は三重県側だったというわけです。
郵便物も
政所から新町にわざわざ転送され
そこに受け取りに行ったといいます。
ですから治田越しの道は
茨川の人たちの重要な生活道でもあったわけです。
萱原〜君ヶ畑の道をみてみましょう。
現在の君ヶ畑から蛭谷へ出る道は
昭和16年に整備されたものです。
今、車で町に出るには
その道を通って政所に向かい
そこから八風街道(R421)を利用するのが
主になっていますが、
昭和16年までの君ヶ畑〜蛭谷間は
人1人通る程の山道しかありませんでした。
したがって、それより前
徒歩で物資を運んでいた時代に
君ヶ畑の人たちが町へ行くには、
政所方面に向かうのではなく、
この萱原〜君ヶ畑の道を通って
萱原、川相、彦根へ向かう、
もしくは
蛭谷から大萩、百済寺へ向かうのが
主でした。
しかし
明治末期に愛知川沿の道が整備され始めて
大正末に箕川まで馬車道入るようになると
大萩への道の利用は減少し
戦時中には
ほとんど利用されなくなったといいます。
ですから
政所までバスが通る昭和29年頃までは
君ヶ畑は
君ヶ畑〜萱原の北方面への道を利用する、
多賀町の川相、彦根との交易が
生活の中心だったのです。
そのあたりのことが
「ー木地屋のふるさとー 君ヶ畑の民俗」
(著者:菅沼晃次郎、発行:民俗文化研究会)
に記されています。
『明治40年頃まで村に入る物資はすべて彦根方面から
川相〜樋田〜萱原を通ってきた。
シヲモノヤ(海産物屋)がくるのも、
村のものが茶などをもって行商にゆくのも
この道を通った。
川相が中心的なナカツギバとなっていた。
また冬期になると炭を木橇(そり)にのせて
百済寺までもってゆき、米と交換した。』
(以上抜粋)
この他にも
君ヶ畑で焼かれた炭が
この道で萱原〜樋田を経て
川相や佐目方面へ出されていたことや、
3里余り離れた多賀の富之尾から
行商が来ていたこと、
それら生活物資のやり取りに
萱原〜君ヶ畑の道が利用され、
君ヶ畑の人たちにとっての主要道であったことなどが
同書には記されています。
また1980年に発行された
「フィールドへ No.6 君ヶ畑(発行:野外研究会)」
という民間の調査報告書には
大正7〜8年頃の君ヶ畑の宿帳記録の記載があります。
それによると
魚商や太物(綿や麻など太い糸の織物)商など
様々な行商人、
鍛冶屋や大工、狩人など多くの職種の人々、
茶摘みや養蚕、農業手伝いなどの出稼ぎ労働等々、
様々な人たちの出入りの記録が残っています。
さらにそれらの人々の出入りルートとして
治田越え、君ヶ畑〜萱原の道、石榑峠越え、八風越え
などが挙げられています。
これらは宿泊者の記録なので
君ヶ畑に住む人々の移動の実態ではありませんが、
外部の様々な目的を持った人たちが
様々なルートで出入りする中で
「治田越え」や「君ヶ畑〜萱原の道」も
使われていたことを示しています。
ということで
萱原〜君ヶ畑間の道は
治田越しにつながる道であるとともに
君ヶ畑集落の人々の生活道でもあり
外部の人々が往来する重要な道であったことが
わかります。
その名残りとも言えるのでしょうか、
萱原、大杉など多賀町南部の集落と君ヶ畑には
婚姻関係がありました。
また茨川とも同様の関係があり、
ともに距離はけっこう離れているのですが、
これも道がつなぐご縁
だったのかもしれません。そういえば以前、萱原にお住まいの方から
こういう話もうかがったことがあります。
萱原分校の子どもたちが
遠足でこの山越え道を通って
君ヶ畑分校を訪れていたというのです。
「八丁越えと言うとったな」
といわれてましたが、
これは、峠向こうの君ヶ畑への坂道が
八丁坂と呼ばれていたからのようです。
「八丁坂は、しんどかったわー」と
今でもその印象は強く残るようでした。
この山越え道の呼び名は
八丁越えの他に
ここの峠が宮坂峠と呼ばれていることから
宮坂越えなどとも
いわれていたようです。
この「宮」というのは
急坂道の始まり(終わり)が
惟喬親王の祀られている大皇器地祖神社である
ことに由来しているのでしょう。
他に、鳥越えとなどとも記されたりもしていますが
こちらの語源はわかりませんでした。
以上のように
萱原〜君ヶ畑の道は
伊勢参りや多賀参り、近江商人、行商の他
君ヶ畑や多賀の人たちの交易や生活の道など
様々な人々が様々な用途で
活発に使われていたと考えられます。
そして後年になって
子ども達の遠足の道に使われていたことを
そこに、加えておきましょう。
今は静かなこの道も
歴史を遡ると、このような姿があったんですね。



人々の移動が徒歩から車へと変わり
自動車道でない道は消えてゆく。
これは時代の流れで仕方のないことですが、
その歴史などをふり返ってみると
いろいろなことが見えてくるように思います。
そのようなことを考えながら
古道を歩いて見るのも楽しいかもしれませんね。
(
近藤)
生活のつながりの大半が三重県、
つまり行政区分は滋賀県ですが
生活圏は三重県側だったというわけです。
郵便物も
政所から新町にわざわざ転送され
そこに受け取りに行ったといいます。
ですから治田越しの道は
茨川の人たちの重要な生活道でもあったわけです。
またこの他、戦国の時代には
佐々木氏や豊臣秀吉の軍勢などが
治田越し(君ヶ畑越し)で
近江から北勢へ攻め入ったという記録が残るなど、
戦国の道としての歴史も残っているようです。
それにしてもこのような山道を
多勢の武士たちが馬で駆け抜けたことに驚きです。
立派な道ではないとしても、
おそらく、よく踏まれた
路面のしっかりとした道だったのでしょう。
鈴鹿山脈を越える峠道としては
鈴鹿越えや八風越え、千草越えなどの他にも
五僧越え、大君ヶ畑越え
湯の山越え、鮎河越え、安楽越え等々
いくつもの峠越えの道が存在していましたが、
その中の一つが治田峠越えの道。
そして、その治田越しと
多賀、彦根をつないでいたのが
萱原〜君ヶ畑間の道だったのです。
そう考えると
萱原〜君ヶ畑の道は
広く見ると
彦根〜多賀から伊勢をつなぐ道だった
そういえるのではないでしょうか。



次に
君ヶ畑の人たちのかつての生活から佐々木氏や豊臣秀吉の軍勢などが
治田越し(君ヶ畑越し)で
近江から北勢へ攻め入ったという記録が残るなど、
戦国の道としての歴史も残っているようです。
それにしてもこのような山道を
多勢の武士たちが馬で駆け抜けたことに驚きです。
立派な道ではないとしても、
おそらく、よく踏まれた
路面のしっかりとした道だったのでしょう。
鈴鹿山脈を越える峠道としては
鈴鹿越えや八風越え、千草越えなどの他にも
五僧越え、大君ヶ畑越え
湯の山越え、鮎河越え、安楽越え等々
いくつもの峠越えの道が存在していましたが、
その中の一つが治田峠越えの道。
そして、その治田越しと
多賀、彦根をつないでいたのが
萱原〜君ヶ畑間の道だったのです。
そう考えると
萱原〜君ヶ畑の道は
広く見ると
彦根〜多賀から伊勢をつなぐ道だった
そういえるのではないでしょうか。



次に
萱原〜君ヶ畑の道をみてみましょう。
現在の君ヶ畑から蛭谷へ出る道は
昭和16年に整備されたものです。
今、車で町に出るには
その道を通って政所に向かい
そこから八風街道(R421)を利用するのが
主になっていますが、
昭和16年までの君ヶ畑〜蛭谷間は
人1人通る程の山道しかありませんでした。
したがって、それより前
徒歩で物資を運んでいた時代に
君ヶ畑の人たちが町へ行くには、
政所方面に向かうのではなく、
この萱原〜君ヶ畑の道を通って
萱原、川相、彦根へ向かう、
もしくは
蛭谷から大萩、百済寺へ向かうのが
主でした。
しかし
明治末期に愛知川沿の道が整備され始めて
大正末に箕川まで馬車道入るようになると
大萩への道の利用は減少し
戦時中には
ほとんど利用されなくなったといいます。
ですから
政所までバスが通る昭和29年頃までは
君ヶ畑は
君ヶ畑〜萱原の北方面への道を利用する、
多賀町の川相、彦根との交易が
生活の中心だったのです。
そのあたりのことが
「ー木地屋のふるさとー 君ヶ畑の民俗」
(著者:菅沼晃次郎、発行:民俗文化研究会)
に記されています。
『明治40年頃まで村に入る物資はすべて彦根方面から
川相〜樋田〜萱原を通ってきた。
シヲモノヤ(海産物屋)がくるのも、
村のものが茶などをもって行商にゆくのも
この道を通った。
川相が中心的なナカツギバとなっていた。
また冬期になると炭を木橇(そり)にのせて
百済寺までもってゆき、米と交換した。』
(以上抜粋)
この他にも
君ヶ畑で焼かれた炭が
この道で萱原〜樋田を経て
川相や佐目方面へ出されていたことや、
3里余り離れた多賀の富之尾から
行商が来ていたこと、
それら生活物資のやり取りに
萱原〜君ヶ畑の道が利用され、
君ヶ畑の人たちにとっての主要道であったことなどが
同書には記されています。
「フィールドへ No.6 君ヶ畑(発行:野外研究会)」
という民間の調査報告書には
大正7〜8年頃の君ヶ畑の宿帳記録の記載があります。
それによると
魚商や太物(綿や麻など太い糸の織物)商など
様々な行商人、
鍛冶屋や大工、狩人など多くの職種の人々、
茶摘みや養蚕、農業手伝いなどの出稼ぎ労働等々、
様々な人たちの出入りの記録が残っています。
さらにそれらの人々の出入りルートとして
治田越え、君ヶ畑〜萱原の道、石榑峠越え、八風越え
などが挙げられています。
これらは宿泊者の記録なので
君ヶ畑に住む人々の移動の実態ではありませんが、
外部の様々な目的を持った人たちが
様々なルートで出入りする中で
「治田越え」や「君ヶ畑〜萱原の道」も
使われていたことを示しています。
ということで
萱原〜君ヶ畑間の道は
治田越しにつながる道であるとともに
君ヶ畑集落の人々の生活道でもあり
外部の人々が往来する重要な道であったことが
わかります。
その名残りとも言えるのでしょうか、
萱原、大杉など多賀町南部の集落と君ヶ畑には
婚姻関係がありました。
また茨川とも同様の関係があり、
ともに距離はけっこう離れているのですが、
これも道がつなぐご縁
だったのかもしれません。そういえば以前、萱原にお住まいの方から
こういう話もうかがったことがあります。
萱原分校の子どもたちが
遠足でこの山越え道を通って
君ヶ畑分校を訪れていたというのです。
「八丁越えと言うとったな」
といわれてましたが、
これは、峠向こうの君ヶ畑への坂道が
八丁坂と呼ばれていたからのようです。
「八丁坂は、しんどかったわー」と
今でもその印象は強く残るようでした。
この山越え道の呼び名は
八丁越えの他に
ここの峠が宮坂峠と呼ばれていることから
宮坂越えなどとも
いわれていたようです。
この「宮」というのは
急坂道の始まり(終わり)が
惟喬親王の祀られている大皇器地祖神社である
ことに由来しているのでしょう。
他に、鳥越えとなどとも記されたりもしていますが
こちらの語源はわかりませんでした。
以上のように
萱原〜君ヶ畑の道は
伊勢参りや多賀参り、近江商人、行商の他
君ヶ畑や多賀の人たちの交易や生活の道など
様々な人々が様々な用途で
活発に使われていたと考えられます。
そして後年になって
子ども達の遠足の道に使われていたことを
そこに、加えておきましょう。
今は静かなこの道も
歴史を遡ると、このような姿があったんですね。



人々の移動が徒歩から車へと変わり
自動車道でない道は消えてゆく。
これは時代の流れで仕方のないことですが、
その歴史などをふり返ってみると
いろいろなことが見えてくるように思います。
そのようなことを考えながら
古道を歩いて見るのも楽しいかもしれませんね。
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