久々の更新です。

前回(といってもだいぶ前ですが)の記事で
鈴鹿最北部の山間集落
「霊仙落合」(多賀町)と
米原市の「榑ヶ畑」(廃村)との間の
古道や峠の話をしました。
多賀町北部の、山深き古の道の話でした。
 
今回は多賀町の最南部の古道、
「萱原(かやはら)」集落と
東近江市の奥永源寺地区にある「君ヶ畑」集落とを結ぶ
やはり鈴鹿の山中深くいく道を
ご紹介します。
八丁越え-8
下の地図をご覧ください。
赤丸が「萱原」と「君ヶ畑」の2つの集落です。
萱原、君ヶ畑の位置(地名入り)
 ※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます 

地図を見ると
「萱原」「君ヶ畑」ともに
山深いということがわかります。
そして
直線距離で6km強の2つの村の間には
人家・集落などはありません。

下の地図は現在の地形図ですが
そこには萱原〜君ヶ畑間の道が
記されています。
萱原〜君ヶ畑1920
 ※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます 

その道は
萱原から犬上ダムの東岸を行き、
そこからはずっと
南東方向に川沿い道で上流へと遡り、
やがて谷から一気に登って
山越えで君ヶ畑(地図の右下)へと至っています。
犬上ダム-7
八丁越え-17
犬上ダム〜天狗道線-11
君ヶ畑〜宮坂峠-5
ただその道は太線から実線、
そして最後は破線で記されているように、
林道や登山道として残ってはいるものの
ほぼ廃道となっている部分もあります。
役目を終えて消えゆく道
そのような印象を感じます。

萱原から南へ向かう道にはもう一本
ダム湖西岸を南下し大萩へと繋がる
昔からの道がありますが、
こちらは、ルート変更等はあるものの今も健在です。

ダムができる前は
萱原から出た一本道が途中で二股に分かれ
それぞれ大萩と君ヶ畑に向かっていましたが、
現在は集落内で2つに道は分かれています。
2010大萩〜犬上ダムの道-6
2010大萩〜犬上ダムの道-5
それにしても、なぜこんな所に道が?
なんて思ってしまいますね。
山登りを楽しむための道?
なんて、今の時代のようなことは
決してありません。
じつはこの道
その昔は、往来盛んな歴史ある道だったのです。
今回は
そのあたりを探ってゆきます。





その前に多賀町「萱原」と
東近江市の奥永源寺地区「君ヶ畑」について少し。

「萱原」は、犬上川南谷の上流部、
多賀町では最南部に位置する山峡の集落です。
下流の村からみると
「萱原か?一番奥(上流)の村やで」
ということになります。
萱原-1
元禄の頃の人口が225人、
そして
昭和35年には戸数119、人口526人
といいますから
山間部としては大きな村でした。

昭和35年というと
燃料が、薪炭から石油に代わる直前の頃。
萱原地区の広大な山林は
日本経済を支えるエネルギーの源として重宝され、
そこで多くの人たちが
薪炭生産などの林業に従事していました。
村では炭、薪や木材生産などの他に
農業も多少はされていたようですが、
それまでの長い歴史で
林業の村「萱原」として歩んできたことは
間違いありません。
萱原-5
地図を見てもわかりますが
萱原集落は犬上ダムのすぐ下流。
その犬上ダムは昭和21年の完成といいますから
もう半世紀以上も過ぎたことになります。

ずいぶん前ですね。

でも当時
ダム工事のおかげで、しっかりとした道が作られ
バス運行も始まったといいます。
犬上ダム〜天狗道線-15

現在の萱原集落というと
平成27年の人口は250人となっています。
昭和35年の頃と比べると半数以下に減っていますが
周辺地域では今も大きな集落。

でも15歳以下の人数は僅か16名で、
やはりここも
全国の山の集落が抱える過疎・高齢化問題に
直面しているのです。
萱原-4




次に「君ヶ畑」(滋賀県東近江市)ですが
これはご存知のように、
「蛭谷」とともに木地師発祥の地とされる
全国的にも有名な所です。
2017君ヶ畑-2
木地作りの技法である
轆轤(ろくろ)挽きを考案したとされる
惟喬親王を祀った大皇器地祖神社、
皇子が建立したとされる金龍寺などには
今も全国から木地師の末裔たちが
訪れるといいます。
2016君ヶ畑-1
2016君ヶ畑-5
惟喬親王に関連する
一連の話の真偽はともかくとして
現在も親王が木地師の始祖として崇められ、
君ヶ畑集落がその聖地として
人々に認識されているのは
間違いのない事実です。
君ヶ畑-7
また、このあたりは
政所茶に代表されるように、
製茶が盛んな地域でもありました。
シーズンになると
三重方面から山を越えて
多くの出稼ぎの人たち(茶摘みさん)が
君ヶ畑にもこられていました。
宿に一晩で30人もの人が
泊まることもあったといいますから、
茶摘みシーズンは
大変に賑わっていたのでしょう。
君ヶ畑-5
その君ヶ畑ですが
明治13年の人口は620人、戸数65。
それが平成27年には
人口が28人、世帯数は17まで減少し、
さらに20歳以下は0人という
状況になってしまっています。
萱原よりさらに深刻な
過疎高齢化の波に飲まれてしまった
そういえるかもしれません。
2016君ヶ畑-4
今は静かな両村とその周辺ですが
半世紀ほど前までは萱原、君ヶ畑のいずれもが
山仕事や製茶などを生業として
大いににぎわっていたんですね。





それでは
萱原〜君ヶ畑間の道の話に戻ります。

今でこそ通る人も少なく
道としての機能維持も難しくなりつつある道ですが、
歴史を遡ると
人々の往来の多い主要道としての姿が
見えてきます。
八丁越え-15
八丁越え-7
わかりやすいのは明治〜昭和20年代頃の
絵図や古地図です。
それらを見ると、いずれの地図でも
萱原〜君ヶ畑間の道は実線で記されており、
多賀から君ヶ畑(愛知郡君ヶ畑村)へと至り
そこで
「治田越し(君ヶ畑越し)」と呼ばれる道へと
繋がっています。
2017君ヶ畑-1
画像は貼れないのですが、
これらの絵図・古地図は、
滋賀県立図書館のWEBサイト
「近江デジタル歴史街道」から
WindowsPC(要plug in)で閲覧可能です。
ご興味のある方は
ぜひご覧になってみてください。


この「治田越し」というのは
鈴鹿の峠越え道の一つで
治田峠(標高約760m)を越えて
近江国と伊勢国を東西に結ぶ道でした。

細かなルートの違いはあるかと思いますが
現代の地形図でもその道は破線で記されています。
わかりやすく色つきの太線で示してみました。

君ヶ畑〜新町トレース(現代)1920
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます 

2021君ヶ畑-1
君ヶ畑を基点にすると
西方向へは
蛭谷、大萩を経て八日市や百済寺方面へ。
東方向へは
ノタノ坂を越えて茨川(昭和40年廃村)、
さらに、そこから治田峠を越えて
員弁の新町(現在の三重県いなべ市北勢町)へと
至ります。
そして南の伊勢神宮を目指すのです。
2015三重・北勢町新町、青川-6
治田越し道は、
今では山道としてその痕跡を残すのみなのですが
かつては往来多き繁栄した道、
その証を
途中にある茨川集落にみることができます。





廃村となって久しい茨川、
村在りし頃は
君ヶ畑〜ノタノ坂〜茨川〜治田峠〜新町の
治田越え道の山中に
孤高の山里として存在していました。
ルート途中で
唯一の人里である茨川集落は、
深山をゆく治田越しにおいて
中継地点的な役割にあったのです。
2019茨川追加-1
2007茨川-3
それを表すのが集落名
じつは明治の初めの頃(明治7)まで
茨川は「茨川」ではなく「茨茶屋」と
呼ばれていました。

茶屋?!
これは重要なキーワードです。
2007茨川追加-3
遠い昔から呼び継がれてきたと思われる村名が「茨茶屋」
そこからは
茨川が、山旅の人々を支える
茶屋の村としての性格を持っていたこと
そして 
茶屋が生業として成立するほどの往来者が
その道にはあったこと
それらを読み取ることができます。
つまり
茶屋村としての姿とともに治田越え道の繁栄なども
そこから見えてくるのです。

ちなみに、茨川集落横を流れ
愛知川に注ぐ清流の名が
「茨川」ではなく「茶屋川」というのも
これで納得ですね。
2019茨川追加-3
長い山旅で近江や伊勢を目指す旅人は
山中の人里にホッとし、
旅の疲れを癒します。
いつしかそこは茨茶屋と呼ばれ
茶屋村としての歴史を刻んでいった、
そんな感じだったのではないでしょうか。
2007茨川追加-5
さらにこの茨川、
江戸期には集落北部の蛇谷から銀が採掘され
多くの坑夫やその家族で賑わってもいました。
1800年代初めには坑夫などを含めて
53世帯もの人たちが茨川に住んでいた
という記録も残っています。
今の静けさからはとても想像がつきませんが、
治田越しの道沿いには
多くの人たちの生活があったのです。
さらに、治田峠を越えて新町に向かう間には
坑夫を相手にした
女郎屋もあったというから驚きです。
2015三重・北勢町新町、青川-3
なお、茨川の人たちは
昭和40年に最後の一戸が離村するまで
治田越しの道を生活道としていました。
生産物の出荷、日常品の仕入れなど
生活のつながりの大半が三重県、
つまり行政区分は滋賀県ですが
生活圏は三重県側だったというわけです。
2015三重・北勢町新町、青川-1
郵便物も
政所から新町にわざわざ転送され
そこに受け取りに行ったといいます。
ですから治田越しの道は
茨川の人たちの重要な生活道でもあったわけです。
2007茨川-4
またこの他、戦国の時代には
佐々木氏や豊臣秀吉の軍勢などが
治田越し(君ヶ畑越し)で
近江から北勢へ攻め入ったという記録が残るなど、
戦国の道としての歴史も残っているようです。

それにしてもこのような山道を
多勢の武士たちが馬で駆け抜けたことに驚きです。
立派な道ではないとしても、
おそらく、よく踏まれた
路面のしっかりとした道だったのでしょう。
2015新町・治田峠追加-3
鈴鹿山脈を越える峠道としては
鈴鹿越えや八風越え、千草越えなどの他にも
五僧越え、大君ヶ畑越え
湯の山越え、鮎河越え、安楽越え等々
いくつもの峠越えの道が存在していましたが、
その中の一つが治田峠越えの道。
そして、その治田越しと
多賀、彦根をつないでいたのが
萱原〜君ヶ畑間の道だったのです。
2019茨川追加-11
そう考えると
萱原〜君ヶ畑の道は
広く見ると
彦根〜多賀から伊勢をつなぐ道だった
そういえるのではないでしょうか。





 次に
君ヶ畑の人たちのかつての生活から
萱原〜君ヶ畑の道をみてみましょう。
2009君ヶ畑・雪-4
現在の君ヶ畑から蛭谷へ出る道は
昭和16年に整備されたものです。
今、車で町に出るには
その道を通って政所に向かい
そこから八風街道(R421)を利用するのが
主になっていますが、
昭和16年までの君ヶ畑〜蛭谷間は
人1人通る程の山道しかありませんでした。
2009君ヶ畑・雪-1
したがって、それより前
徒歩で物資を運んでいた時代に
君ヶ畑の人たちが町へ行くには、
政所方面に向かうのではなく、
この萱原〜君ヶ畑の道を通って
萱原、川相、彦根へ向かう、
もしくは
蛭谷から大萩、百済寺へ向かうのが
主でした。
2017大萩-6
2017大萩-9
しかし
明治末期に愛知川沿の道が整備され始めて
大正末に箕川まで馬車道入るようになると
大萩への道の利用は減少し
戦時中には
ほとんど利用されなくなったといいます。
2017蛭谷-1
ですから
政所までバスが通る昭和29年頃までは
君ヶ畑は
君ヶ畑〜萱原の北方面への道を利用する、
多賀町の川相、彦根との交易が
生活の中心だったのです。


そのあたりのことが
「ー木地屋のふるさとー 君ヶ畑の民俗」
(著者:菅沼晃次郎、発行:民俗文化研究会)
に記されています。

『明治40年頃まで村に入る物資はすべて彦根方面から
川相〜樋田〜萱原を通ってきた。
シヲモノヤ(海産物屋)がくるのも、
村のものが茶などをもって行商にゆくのも
この道を通った。
川相が中心的なナカツギバとなっていた。
また冬期になると炭を木橇(そり)にのせて
百済寺までもってゆき、米と交換した。』
(以上抜粋)


この他にも
君ヶ畑で焼かれた炭が
この道で萱原〜樋田を経て
川相や佐目方面へ出されていたことや、
3里余り離れた多賀の富之尾から
行商が来ていたこと、
それら生活物資のやり取りに
萱原〜君ヶ畑の道が利用され、
君ヶ畑の人たちにとっての主要道であったことなどが
同書には記されています。


また1980年に発行された
「フィールドへ No.6 君ヶ畑(発行:野外研究会)」
という民間の調査報告書には
大正7〜8年頃の君ヶ畑の宿帳記録の記載があります。
フィールドへ-1
それによると
魚商や太物(綿や麻など太い糸の織物)商など
様々な行商人、
鍛冶屋や大工、狩人など多くの職種の人々、
茶摘みや養蚕、農業手伝いなどの出稼ぎ労働等々、
様々な人たちの出入りの記録が残っています。

さらにそれらの人々の出入りルートとして
治田越え、君ヶ畑〜萱原の道、石榑峠越え、八風越え
などが挙げられています。
これらは宿泊者の記録なので
君ヶ畑に住む人々の移動の実態ではありませんが、
外部の様々な目的を持った人たちが
様々なルートで出入りする中で
「治田越え」や「君ヶ畑〜萱原の道」も
使われていたことを示しています。
2017八風街道-1
ということで
萱原〜君ヶ畑間の道は
治田越しにつながる道であるとともに
君ヶ畑集落の人々の生活道でもあり
外部の人々が往来する重要な道であったことが
わかります。

その名残りとも言えるのでしょうか、
萱原、大杉など多賀町南部の集落と君ヶ畑には
婚姻関係がありました。
また茨川とも同様の関係があり、
ともに距離はけっこう離れているのですが、
これも道がつなぐご縁
だったのかもしれません。
2020君ヶ畑・宮坂峠付近-7-2
そういえば以前、萱原にお住まいの方から
こういう話もうかがったことがあります。
萱原分校の子どもたちが
遠足でこの山越え道を通って
君ヶ畑分校を訪れていたというのです。
2020君ヶ畑・宮坂峠付近-4-2
「八丁越えと言うとったな」
といわれてましたが、
これは、峠向こうの君ヶ畑への坂道が
八丁坂と呼ばれていたからのようです。
「八丁坂は、しんどかったわー」と
今でもその印象は強く残るようでした。
2020君ヶ畑・宮坂峠付近-5-2
この山越え道の呼び名は
八丁越えの他に
ここの峠が宮坂峠と呼ばれていることから
宮坂越えなどとも
いわれていたようです。
この「宮」というのは
急坂道の始まり(終わり)が
惟喬親王の祀られている大皇器地祖神社である
ことに由来しているのでしょう。

他に、鳥越えとなどとも記されたりもしていますが
こちらの語源はわかりませんでした。
2020君ヶ畑・宮坂峠付近-3-2

以上のように
萱原〜君ヶ畑の道は
伊勢参りや多賀参り、近江商人、行商の他
君ヶ畑や多賀の人たちの交易や生活の道など
様々な人々が様々な用途で
活発に使われていたと考えられます。
そして後年になって
子ども達の遠足の道に使われていたことを
そこに、加えておきましょう。
君ヶ畑〜宮坂峠-6
今は静かなこの道も
歴史を遡ると、このような姿があったんですね。



人々の移動が徒歩から車へと変わり
自動車道でない道は消えてゆく。
これは時代の流れで仕方のないことですが、
その歴史などをふり返ってみると
いろいろなことが見えてくるように思います。
そのようなことを考えながら 
古道を歩いて見るのも楽しいかもしれませんね。

八丁越え-9



近藤)