「大杉」集落は多賀町の山間部、
大滝地区の最奥部にある山峡の集落です。

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犬上川の上流部
南谷に注ぐ大杉川沿いに位置し、
かつて霊仙山にあったとされる霊山寺の
別院7ヶ寺の一つの大杉寺が
このあたりにあったと伝えられています。

その別院7ヶ寺のうち
多賀町にあったのは、観音寺と安養寺
そして大杉寺の3寺院。
安養寺は今も河内にありますが
落合にあったとされる観音寺は
その姿は無く
場所も特定されていません。
大杉寺についても
所在などを含め未だ謎だらけで
幻の寺院といえます。 

そして
大杉寺と、今の「大杉」集落との関係も
詳細は定かではありません。

滋賀「河内中村の安養寺」-31
安養寺(河内地区)

7ヶ寺の建立は奈良時代といいますから、
この谷に
ずいぶん古くから人が住んでいたのは
間違いないようですね。

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その大杉地区で先日、
地元の方々に集まっていただいての
聴き取り調査が行われました。
滋賀県立大学と委員会によるものです。

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行われたのは大杉地区の公民館。

あれ?分校??
と間違えるような佇まいですが、
そうではなく
昔から公民館として使われているそうです。
とても雰囲気のある建物ですね。

以下
聴き取り調査から
少しですがご紹介します。



「大杉」は
古くから木挽き職を生業としてきた集落です。
木挽きというのは
専用の大きなノコゴリで板材を作る仕事で、
今のように機械で製材する以前は
職人さんが1枚1枚をノコでひいて
板を作っていたのです。

他に炭焼きなども行われており、
周辺の山のあちこちで炭が焼かれていたとのこと。
今回お話をうかがった方の中にも
炭焼きをされていた方や
子どもの頃に炭焼きの手伝いをした
という方がおられました。

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山の資源が豊富な「大杉」ですが
ご覧のように谷あいの地形、
広い耕作地はありませんでした。
ですので
山の斜面を畑にして
ダイコンやカブラ、お茶などを作っていたそうです。
でも出荷用ではなく
自分たちで食べるためのものでした。

田んぼも
「大杉」にはありませんでした。
でも、言い伝えによりますと
大杉川のもっと上流に
ひっそりと田んぼがあったといい、
それは「隠し田」だったのでは?
と伝えられています。

見つかれば重罰に処せられる隠し田。
それでも
そうせざるを得ないところに
昔の生活の厳しさが伝わってきます。

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今もその痕跡といわれる石垣跡がありますが
果たしてそれが本当に隠し田であったのかどうかなど
詳細については、まだわかっていません。

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集落を流れる大杉川は
人々の生活の支えになっていました。

川に降りて
とってきた野菜を洗ったり
使った食器を洗ったり
衣服を洗ったり・・などなど
生活の中の
様々な用途に使われたといいます。

これも、水がきれいな大杉川だったから
こそなのでしょう。

今でも川に降りるための石段が残っていますが
伊勢湾台風などの大水で流されてしまった石段も
少なくないといいいます。

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川ではたくさんのイワナも獲れました。
もちろん天然のものです。

ただ悲しいことに
ある時、本でそのことが紹介され、
それ以来多くの人たちが押し寄せ
魚は取り尽くされてしてしまい
みるみる数が減ってしまったといいます。

イワナの数が減ったのは
それ以外に、杉や桧の植林で
山の環境が変わって土砂が流れ込み
川の環境も変わってしまったことなども
影響していたことでしょう。

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お話をうかがっていて不思議に感じたのは
昔の婚姻についてです。

結婚の相手は
部落内で見つけることが多かったのですが
外部の婚姻関係を見ると
周辺の犬上川沿いの集落との関係は無く、
「君ヶ畑」や「大萩」などといった
ずっと遠い南の集落との間で
婚姻による交流があったというのです。

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木地師の里「君ヶ畑(東近江市)」

下の地図は
現在の地形図に古道を加えたものです。
今もある「萱原」〜「大萩」の道の東に
「萱原」から「君ヶ畑」へ直接向かう古道がありました。
その道は「君ヶ畑」へ直接つながる道です。

聴き取りでは
この道を通って「君ヶ畑」まで行き、
そこから「茨川」まで釣りに出かけた
というお話もうかがえました。

「君ヶ畑までは、すぐや」
とおっしゃられていましたが、
ご覧のように「大杉」〜「君ヶ畑」は
かなりの距離。
山に住む人たちの健脚ぶりには
驚かされるばかりです。

大杉〜君ヶ畑の古道
※国土地理院電子国土WEBからのデータを一部加工
画像をクリックすると拡大表示されます

「樋田」「川相」「大君ヶ畑」「萱原」・・
などといった近くの村との交流は無く
遠い村との交流があった。

何だか不思議に感じませんか?

これは、もしかすると
ずっと昔の
木地師の発生などをめぐっての
「大君ヶ畑」vs「蛭谷」「君ヶ畑」という
歴史的な対立の流れが
長きに渡って影響していたのかもしれません。

「大杉」は
「君ヶ畑」からの木地師と縁が深かった集落
だったのかもしれません。

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「大萩(東近江市)」の分校跡

お話をうかがった方の中には
「小さい頃、おばあちゃんに背負われて
大萩までお葬式に行きましたよ」
という方もおられました。
その方のおばあちゃんは
大萩から嫁いでこられたそうです。
今から60数年前のお話です。



当時の子どもたちの遊びは
やはり川遊び。
天然のイワナの他
放流したアマゴの生き残りなどが
たくさん獲れたそうです。

また、地蔵盆の時は
お寺の地蔵さんを公民館に持ってきて
子どもたちもその日は一緒に泊まったといいます。
普段は、お寺の鐘を撞くのは火事の時だけ
と決まっていて
子どもは鐘撞きができなかったのですが
この時は
子どもも自由に撞けたそうです。
お菓子もたくさんもらえるし
子どもにとっては、とても楽しみの行事でした。

地蔵盆には
小学校高学年〜中学生の子どもたちが
参加していたそうです。

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村には金蓮寺というお寺があります。
このお寺にあるのが「蛇石」

大小2つあるこの石は
みがくと雨が降るといわれていました。

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また以前は「大杉」でも
「かんこ踊り(雨乞い踊り)」が行われていましたが
今はもう、そのことを知る人はいません。

「エンノギョウジャノ・・
タキニウタレテ・・シュギョウ・・」
などという歌を子どもの頃唄ってた
という方もおられました。

役行者(エンノギョウジャ)とは
修験道の開祖といわれる人で、
霊仙山でも修行をしていたとされています。
以前ご紹介した
芹谷の「妛原」集落で祀られている
権現さん(権現谷)も役行者さんでした。

霊仙山周辺の地域では
多くの修験者が
修行に入っていたのでしょうね。

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琵琶湖畔より望む霊仙山

以前に比べ
「大杉」周辺の自然環境は
大きく変わってきているようです。

昔は腰まで埋まるほども積もってた雪も
今は積もっても30〜40cmくらいだそうです。

雪の多い頃は
山頂に積もる雪の様子を見て
それが段々と下に降りてくる様子から
「じきに村にも雪が積もる」
など判断されていたそうです。

動植物も
大きく変わってきているようです。
先述のイワナが激減したこともそうですが
以前よく見られたサンショウウオは
今では見ることができず
全滅したといいます。

大杉川そのものも、
大量の土砂が流れ込んだり
川底がコンクリートで固められたりなど
その容相を変えていきました。

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アケビやザクロ、栗などが豊富だった山も
杉などの植林で針葉樹が主となりました。
また以前は豊富だったウドやミョウガなども
もう見られなくなりました。

獣害は深刻で
今では村で畑をすることは
難しい状況になっています。

今悩まされている猿や猪、鹿などは
昔は里で
その姿を見ることはなかったそうです。

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山でいったい何が起こっているのでしょうか。
山の変容が
動物にも人間にも植物にも
数々の悪影響を与えているのは間違いありません。

畑ができなくなることで
人々は家の中にいることが多くなり
日中、人の姿を見かけなくなってしまった。
そして、荒れた土地も増えていく、
などというお話もうかがいました。


以上、一部ですが
「大杉」集落での聴き取り調査のご紹介でした。

大変貴重なお話を
たくさんうかがうことができました。
参加してくださったみなさん、
ありがとうございました。



最後に
「大杉」集落の人口の変化を調べてみました。

日本の多くの山村がたどってきた
過疎・高齢化は
「大杉」も例外ではありません。

昭和38年 人口219 世帯数47
昭和50年 人口161 世帯数39
昭和60年 人口123 世帯数37
平成 7年 人口122 世帯数35
平成17年 人口 77 世帯数29
平成26年 人口 59 世帯数26

戸数は半減くらいですが
人口は1/4近くもの減少です。
そして高齢化も進んでいます。

山を元気に!

これは多賀町だけではなく
日本全体の大きな課題であるように感じました。

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近藤)