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大相撲優勝・次点力士5 昭和40年代

昭和40年から部屋別総当たり制が始まった。
これはNHK解説者の玉の海梅吉氏が、時津
風(元双葉山)理事長に進言したことに始ま
る。時津風理事長は、好取組が増えるという
世論をバックに協会内の反対論を「いまや
人情におぼれているときではない」と一括し、
実現した。

次点は当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、
横綱・大関と対戦のない力士及び部分対戦
力士ははずした。複数いるときは上位力士と
した。
S40-1A
昭和40年一月場所後、佐田の山が苦労の末
横綱に昇進した。大鵬との一番は、対戦成績
はともかく、相撲内容は熱戦が多く、力一杯
の相撲を取った。部屋別総当たり制になって
も、大鵬の優勝独占は続いた。昭和41年三月
場所から第二次6連覇を達成している。

これをストップしたのは、優勝経験のなかっ
た大関北の富士である。元千代の山の九重が
出羽海部屋から破門独立し、千代の山を慕っ
て入門した北の富士は行動をともにした。
燃える要素があるときの北の富士は一段と
強かった。
1大鵬
<大鵬>

大鵬は昭和42年十一月場所から5場所連続
休場というピンチに陥る。そのさなか佐田の
山は連続優勝直後の昭和43年三月場所突然
引退して出羽海を襲名した。佐田の山の優勝
は6回だが、次点は11回に及んだ。柏戸は
衰えが目立ってきた。一人横綱になった大鵬
に「大鵬関すまない」という気持ちで、昭和
44年七月場所限り引退した。柏戸は優勝5回
だが、次点は15回までいった。
S40-2A
5場所連続休場した大鵬は、昭和43年九月
場所の初日栃東に負けるとその後連戦連勝を
続けた。連勝を積み重ねて45連勝までいった。
だが、46連勝目を誤審で負けにされるという
ショッキングでかつ歴史に汚点を残す結果に
なった。時代は大鵬から北の富士・玉の海に
移っていった。

大鵬は昭和44年七月場所から衰えが目立って
きた。それでも、北の富士、玉の海の新横綱
優勝を阻止したり、全勝をストップしたり
した。大鵬晩年の意地であった。昭和46年
五月場所の貴ノ花戦を最後に引退した。次点
は12回までいった。
3_玉の海
<玉の海>

北の富士、玉の海は、横綱に2、3場所まで
は北の富士が先行した。だが、しだいに玉の
海の安定性におされていくようになる。玉の
海の腰で取る相撲、胸を合わせて取る相撲は
大きさを感じさせ、双葉山と比較できる楽し
みが出てきていた。だが、玉の海は昭和46年
10月、現役のまま帰らぬ人となってしまった。
玉の海の次点は9回であった。
S40-3A
昭和47年は、一人横綱北の富士の乱調で一月
場所から七月場所まですべて初優勝という
珍事となった。それも誰が優勝するか予想が
まるで立たなかった。そうしたなかから、
浮上してきたのが輪島であった。輪島の堅実
な取口、勝ちにもっていく過程のうまさは
天才的であった。
輪島北湖
<輪島(左)と北の湖>

輪島に対抗したのは、若くて伸び盛りの北の
湖であった。輪島が横綱に昇進した7場所後
に最年少で横綱に昇進した。当時の北の湖に
期待する大きさは普通ではなかった。双葉山
のような大力士であり、大鵬の優勝記録を
破らんとする器であった。それでもこの時期、
の対戦、優勝は輪島が先行した。

(この項目続く)

韓国の財閥問題はレベルが違う。
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 今は昔 系統別総当たり制

系統別総当たり制は昭和7年から昭和14年
及び昭和22年夏場所から昭和39年十一月場所
に施行された取組編成方法である。それでは
系統別総当たり制とはいったいどういうもの
か。本家、分家を中心として大阪相撲の流れ
の部屋を組み込んだものが系統である。具体
的にみていこう。

以下系統と相撲部屋、所属幕内力士を示した
ものである。幕内力士は部屋別総当たりが
始まった昭和40年一月場所の番付による。
相撲部屋は昭和39年十一月場所時点における
ものである。

◆本家出羽海(元出羽ノ花)【佐田の山、
北の富士、小城ノ花、義ノ花、金乃花】
・分家春日野(元栃錦)【栃ノ海、栃光】
・組み込まれた大阪相撲 小野川(元錦華
山)【海乃山】三保ヶ関(元増位山父)

出羽海部屋は、元常陸山亡き後を継いだ元両
国(前名国岩)が師匠のときに分家を許さ
ない不文律ができた。従ってこの時点では
分家は春日野部屋しかなかった。
武蔵
<出羽海(元出羽ノ花)>

昭和2年、東西合併がおこなわれた。大阪
相撲の流れを組んできたのが、三保ヶ関部屋
である。だが、元滝ノ海の師匠急死という
事情で増位山(父)は昭和22年夏場所から
出羽海部屋に身をおいた。引退後三保ヶ関
部屋を復興した。

同じく大阪相撲からきた小野川部屋は閉鎖、
復興、閉鎖を繰り返した。昭和32年元錦華山
の高崎親方が閉鎖する陣幕(元青葉山)部屋
の力士を引き取るカタチで小野川に名称を
変更した。このとき正式に出羽海の系統に
組み入れられた。しかし、部屋別総当たりと
ともに小野川部屋は閉鎖し、海乃山と部屋の
力士は出羽海部屋所属となった。

◆本家二所ノ関(元佐賀ノ花)【大鵬】
・分家片男波(元玉乃海)【玉乃島】佐渡ヶ
嶽(元琴錦)【琴櫻、長谷川】花籠(元大ノ
海)【大豪、若秩父、若天龍】二子山(元若
乃花)湊川(元十勝岩)
玉ノ海
<玉ノ海のブロマイド>

本家と分家だけの系統である。元玉ノ海の
二所ノ関が分家独立を奨励したことが一大
勢力をつくりあげる結果になった。しかし、
部屋別総当たりが決まると湊川部屋は二所ノ
関部屋に戻った。

◆本家立浪(元羽黒山)【若見山、若浪、
羽黒山、羽黒川、若羽黒、君錦、北ノ國】
・分家時津風(元双葉山)【豊山、北葉山、
青ノ里、豊國、荒波、若杉山】春日山(元名
寄岩) 中川(元清恵波)
・双葉山相撲道場に1度吸収された部屋井筒
(先代鶴ヶ嶺)【鶴ヶ嶺】 ※ルーツは高砂。
系統別では時津風とのみ対戦なし
時
<時津風((元双葉山)>

井筒部屋以外は本家分家の関係である。元双
葉山の時津風は本家立浪とは一線を画して
いたが、系統別総当たり制では対戦はなかっ
た。従って、鏡里・大内山(時津風)と安念山・
北ノ洋(立浪)の対戦はなかった。

井筒部屋のルーツは初代西ノ海である。その
初代西ノ海は高砂部屋所属である。ただし、
このころは本家、分家の意識はなかった。
一時期双葉山相撲道場に併合されたことが
あって時津風の系統となった。ただし、立浪
との対戦はあった。

◆本家高砂(元前田山)【富士錦、前田川】
・分家若松(元鯱ノ里)【房錦、岩風】
大山(松登)

◆本家友綱(元巴潟)
・分家宮城野(元吉葉山)【明武谷、廣川】
高島(元三根山)

◆本家伊勢ヶ濱(元照國)【浅瀬川、清國、
開隆山】
・分家木瀬(元桂川)、谷川(元八幡野)
・組み込まれた大阪相撲 朝日山(元二瀬山)

この伊勢ヶ濱は今の伊勢ヶ濱(元旭富士)
とはまったくつながりがない。元照國のあと
伊勢ヶ濱を継いだのは清國であるが、ここで
部屋は消滅している。元旭富士は立浪の分家
の分家で元陸奥嵐の安治川部屋を引き継いだ
部屋である。
柏
<柏戸>

◆伊勢ノ海(先代柏戸)【柏戸】
伊勢ノ海部屋と時津風部屋、井筒部屋は一門
でありながら、系統的つながりがなく、柏戸
は豊山(時津風)とも鶴ヶ嶺(井筒部屋)
とも対戦している。柏戸は系統別総当たり制
では孤軍奮闘していた。

◆追手風(元清水川)【追手山】※ルーツは
高砂。
・分家間垣(2代目清水川)
元清水川の師匠は小結小錦であり、その師匠
は横綱小錦である。したがって追手風部屋の
ルーツは高砂である。しかし、系統別では
孤立していた。元清水川は昭和40年1月に
定年を迎えるため、前年の十一月場所後に
部屋を閉鎖し、立浪に合流した。

長く続いた系統別総当たり制だが、昭和39年
十一月場所を最後に幕を閉じることになった。

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 大相撲優勝・次点力士4 昭和30年代

昭和33年名古屋が本場所に昇格し、年6場所
制がスタートした。あまりの間隔の短さに
「優勝候補は先場所の優勝者になるのでは」
という見方がされたほどであった。また、
大日本相撲協会が日本相撲協会に改称した年
でもある。
栃錦
<栃錦のブロマイド>

次点は当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、
横綱・大関と対戦のない力士及び部分対戦
力士ははずした。複数いるときは上位力士と
した。
S33-1A
栃錦、若乃花が激しく優勝を争った時期で
ある。栃錦が引退する昭和35年五月場所まで、
栃錦、若乃花が優勝か次点に名前がないのは、
昭和33年三月場所1場所だけである。千代の
山の優勝はこの時期なかったが、次点は通算
7回を記録した。栃錦は優勝が10回あるが、
次点も10回になった。栃若時代の相撲を見た
方は、最高に面白かったと語る。
初代若乃花
<若乃花のブロマイド>

昭和35年から大鵬、柏戸が台頭してきていた。
将来の横綱を期待される逸材であった。そし
てまさにそうなった。今こうした逸材に出会
えることはない。
S33-2A
昭和36年から時代は大鵬へと移っていった。
若乃花は現役だったが、優勝はなかった。
次点は7回になった。大鵬が優勝を独占する
なか、次点はライバル柏戸と闘志の佐田の山
が数を重ねていった。大鵬の牙城に挑んだ
技能派栃ノ海と学生横綱出身の豊山は力及ばず
であった。大鵬をとりまく強敵は、白鵬より
難しい相手だったといえる。
大鵬
<大鵬>

昭和40年から新たな制度として部屋別総当た
り制がスタートした。

(この項目続く)

4月とは思えぬ暑さが続きます。
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 外国人力士の先駆け高見山

今でこそ外国人力士は珍しくもないし、人数も
大勢いる。現代なら情報がはいりやすいし、
先人が築いてきた道を歩んでいける。ところ
が純粋な外国人力士第1号となるとそうは
いかない。大相撲で成功した外国人第1号が
高見山である。高見山はどういういきさつで
入門し、いかに成功したのか。

高見山はハワイ出身である。高見山ことジェ
シー青年は高校でフットボールをしていた。
ハワイは日系人が多く、相撲がさかんであっ
た。独立記念日前後は各地で相撲大会が開催
される。アマチュア相撲連盟の一行がジェ
シー青年に稽古をつけた。そしてそのときの
当たり、パワーに驚かされた。
高見山1
<高見山の記事>

アマチュア相撲連盟の一人は大相撲のハワイ、
ロサンゼルス公演に同行していた。ジェシー
青年の入門話を高砂(元前田山)団長にもち
かけ、高砂部屋入門が決定した。昭和39年
2月のことであった。ジェシー青年は2月
21日に来日した。そのときの第一声は「寒~
い」であった。

高見山の言葉も習慣も食事も気候も違う生活
が始まった。これだけでも大変さが伝わる。
最も過酷だったのは稽古である。四股・テッ
ポウは毎日500回ずつやらされた。特に股わり
は悲鳴をあげた。「目から汗が出た」という
名言はこのときのものである。足腰を鍛える
ため、力士をのせたタイヤを引っ張る特訓も
あった。稽古はつらいことが多かったが、
ハワイには帰れなかった。高砂親方がパス
ポートを隠したため、高見山は山手線をぐる
ぐるまわるしかなかったというエピソードが
ある。

苦しい稽古のかいがあって高見山は順調に
出世した。幕内まで3年と4場所である。
序ノ口 1場所 優勝
序二段 1場所 優勝
三段目 1場所
幕下  14場所
17場所成績76勝43敗
十両5場所47勝28敗
高見山2
<高見山の記事>

高見山は未知の世界に飛び込み、苦労し、
最後に成功した。高見山の家は父が亡くなり、
母と兄弟5人であった。長男高見山に生活が
かかっていた。成功の陰にはそんな一面が
あった。同時に外国出身力士への入門の扉を
開いたのであった。

荷物を送りました。
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大相撲優勝・次点力士3 戦前~戦後 場所数変遷期

昭和7年から系統別総当たり制になった取組
は、昭和15年東西制に戻った。これは出羽海
部屋の力士が半数近くなったことが大きかっ
た。9年ぶりの復活だが、以前の東西制を
知る力士は、男女ノ川、幡瀬川くらいになっ
ていた。

次点は当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、
横綱・大関と対戦のない力士ははずした。
複数いるときは上位力士とした。
戦前戦後A
この時期は双葉山の円熟期から衰退期であっ
た。双葉山の陰に隠れたのは、羽黒山であっ
た双葉山が昭和20年に土俵を去った後は羽黒
山の時代があった。羽黒山は次点7回となっ
た。双葉山は優勝が多かったので、次点は
2回しかない。
羽黒山政司
<羽黒山のブロマイド>

昭和22年夏場所から優勝改革として優勝決定
戦がスタートした。これまでは成績が同じ
なら番付上位が優勝者であった。戦後相撲
人気がどん底であったため、相撲協会と記者
クラブが打ち出したアイディアであった。
戦後2A
人気回復のため、昭和22年秋場所から系統別
総当たり制が復活した。当然こちらのほうが、
好取組が増える。年2場所から3場所になる
時期は、東富士、千代ノ山が台頭してくる。
昭和25年からは蔵前仮設国技館を使用し、
興行が安定してきた。優勝のない横綱照國は
昭和25年秋場所の初優勝以前に、次点を5回
経験していた。
戦後3A
年4場所制が始まった昭和28年から年5場所
となった昭和32年までは、栃錦がクローズ
アップしてきた。小兵ながら東富士、鏡里、
吉葉山の重量級を向こうにまわして奮戦した。
鏡里は優勝4回、吉葉山は1回と少ないが、
次点は鏡里6回、吉葉山は4回記録している。
鏡里喜代治
<鏡里のブロマイド>

なお、昭和32年三月場所、前頭5枚目の時津
山は横綱千代の山、栃錦と対戦して12勝3敗
の成績をあげたが、部分対戦のため、次点
からはずした。

(この項目続く)

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貴乃花の再出発

貴乃花親方が貴乃花一門の一門名を返上した。
ゼロからのスタートに貴乃花という一門名は
ふさわしくないとの判断である。一門を解散
するとかはなさそうだが、自分が一門を離脱
するということに関しては微妙である。
日刊19
<日刊スポーツの記事>

それにしても、理事の座を失い、理事候補
選挙に負けを承知で出馬し、テレビで日馬
富士暴行事件の異論反論を展開し、内閣府
へ告発状を提出までした。ここまでは強気
の姿勢だったように見えた。

大阪府立体育館には無断欠席するにいたって
は、つまらないことでつけ込まれることを
すべきでなかった。一転したのは、弟子貴公
俊の暴行事件である。ここからうちひしがれ
ることになった。
スポニチ19
<スポーツニッポンの記事>

貴乃花親方なら自らの弟子に厳しくあたり、
即刻破門にするのでは、という見方があった
が、そうではなかった。貴乃花親方も人の子
であった。弟子の処分に寛大さを求めた。
そして暴行を境に頭が低くなった。内閣府へ
の告発状を取り下げた。年寄総会では総スカ
ンをくい、弟子の暴行による監督不行き届き
で平年寄にまで降格させられた。

貴乃花親方このところ音なしだった。気力が
心配だったが、思わぬカタチで浮上した。
考えてみれば貴乃花は一代年寄である。この
一門の名が続くことはないのである。弟子
育成への情熱は変わらないようである。月に
むら雲、花に風だったが、再び立ちあがった。
一門名返上は貴乃花親方の再出発の瞬間で
あった。

郵便が2通届き、4通出しました。
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大相撲優勝・次点力士2 戦前編

大正15年4月、摂政宮殿下(後の昭和天皇)
の御下賜の金一封で賜杯がつくられた。当時
は摂政賜杯と呼ばれ、幕内最優秀成績者に
渡されることになった。大正15年春場所から
協会が個人優勝制度を正式にスタートさせ、
表彰するようになった。それにともない、
取り直し制度、不戦勝・不戦敗制度が整備
されていった。

優勝力士はよく知られているので、ここ
では次点力士を中心に見ていこう。次点は
当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、横綱・
大関と対戦のない力士ははずした。複数いる
ときは上位力士とした。
戦前1A
まず、常ノ花の時代から玉錦が台頭する時期。
玉錦は6回次点に登場する。トータルでは
10回になる。優勝が9回あり、まさに第一人
者であった。常ノ花が優勝10回のわりに次点
が3回しかないのと比較しても、玉錦の充実
ぶりがわかる。なお、小野川は後の豊國で
あり、朝潮は後の男女ノ川である。
玉錦
<玉錦のブロマイド>

昭和7年1月6日相撲の改革を訴え、多く
の力士が、協会を脱退した。世にいう春秋園
事件の勃発である。多くの力士を失った大日
本相撲協会は1月に本場所を開けず、2月に
延期した。しかし、十両から繰上げで入幕
させても20人にしかならなかった。もはや
東西対抗はできず、系統別総当たりで取組が
組まれた。時代は玉錦から双葉山に移って
いった。
戦前2A
双葉 山
<双葉山のブロマイド>

系統別総当たりの時期、男女ノ川の次点が
目立つ。通算5回次点となっている。優勝が
2回だから、玉錦と双葉山の間に埋没したと
いえる。武蔵山も通算4回次点がある。武蔵
山というと弱い横綱の代表のようなイメージ
があるが、横綱以前は人気力士であった。

双葉山の時代はさらにすすむ。

(この項目続く)

荷物がずいぶん届きました。
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大相撲優勝・次点力士1 明治・大正編

かつて相撲博物館は優勝力士100人と称した
展示をおこなった。この優勝というのは実は
両国国技館が開設された明治42年夏場所を
起点としているものだった。これは時事新報
社が幕内最高成績力士の額を国技館に掲げた
ものであった。当然相撲協会の表彰はなか
った。協会が定めたのは東西対抗の団体戦で
あった。勝った方屋に優勝旗を渡した。従っ
て本来は個人優勝と呼べるモノはなかった。
横綱太刀山
<太刀山のブロマイド>

優勝を決める上での矛盾も目立った。引き
分け、預かりが多く、7勝2分1預と8勝
2敗はどちらが上か。最大の問題点は不戦勝
の制度がなかったことである。対戦相手が
休場すると、自分も「や」扱いにされた。

それでも優勝制度の前提になったことは確か
である。優勝力士一覧はこれまで何度か掲載
されてきた。それに次点力士加えた一覧表を
作成してみた。次点は当然次の成績の力士
だが、横綱・大関と対戦のない力士ははず
した。複数いるときは上位力士とした。また
成績で対戦相手の休場による「や」は相手
休み1として表記した。優勝力士の中に横綱・
大関戦がない最高成績者はグレイで表示した。
明治大正優勝 次点A
太刀山の時代、太刀山は次点が3回ある。
そのうち1回は両国(勇)の新入幕優勝だが、
両国(勇)は横綱・大関戦がなく、単なる
数字の単純比較で涙をのんだ。しかし、両
国(勇)は翌場所次点だったのだから力は
それなりにあったのかもしれない。なお、
両国(勇)は後に分家を許さない出羽海
部屋から部屋をおこし、破門されている。
大正優勝 次点A
太刀山の後は大錦と栃木山が登場する。大錦
は大正6年春場所の大関時代、横綱太刀山と
千秋楽全勝対決を制して優勝している。次点
は大錦5回、栃木山5回と両者は大正時代を
代表する力士である。なお、源氏山は、後の
3代目西ノ海である。源氏山は寺尾が一時期
名のったことがある四股名である。3代目
西ノ海は大錦、栃木山、常ノ花を向こうに
まわしての戦いだから大変だったと思う。
栃木山
<栃木山のブロマイド>

大正15年、あることがきっかけで協会認定の
個人優勝制度が始まる。

(この項目続く)

今回時間がかかりました。
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協会の女人禁制の理由は不明確

ちびっこ相撲で女子が締め出された理由は
「女の子に一生残るような傷を負わせては
いけない」というものだった。いかにもとっ
てつけた理由である。ケガをするとしたら、
力士の対応のまずさにある。またこれまで
男女を問わず、一生残るケガをさせたケース
がどれくらいあったというのか、数字を明ら
かにすべきである。
1705風景 027
<土俵>

女子の格闘技は柔道、レスリング、ボクシン
グと進出している。オリンピック種目にも
なっている。プロレスもある。これらは本格
的にトレーニングしてトップを目指ざして
いる。ケガに関してはちびっこ相撲の比では
ない。それは女子相撲も同じである。

女の子は「楽しみにしていたのに残念」「仲
間が憧れの力士に触れられてうらやましかっ
た」と排除された気持ちを語っていた。協会
は「女人禁制とは別である」と言うが、根っ
こは同じにしか見えない。
180109明治神宮土俵入り 031
<八角(元北勝海>理事長>

協会は女人禁制の理由を明確にしたほうが
いい。この問題がスッキリしないのはその点
にある。いつ頃からどういう理由で始まった
ものなのか。諸説ありでもすべてをはっきり
させたほうがいい。女性が土俵に上がると
女神が嫉妬するという説があるが、人間に
嫉妬する神ってどういう神だ、と思わずには
いられない。

九官鳥は意味もわからずに話す鳥である。
力士が本当の理由がわからずに女人禁制を
受けついでいきたいというのであれば、九官
鳥であってはいけない。協会は女人禁制を
貫くならば、その理由をあやふやのままに
せず、この際明確にすべきである。

チケット専門サイトには倍以上の値段あり。
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横綱高安時期尚早論

高安が連続12勝をあげたことで、五月場所の
成績次第では横綱昇進と意気込む方がいる。
しかし、高安の大関の成績をつぶさにみると
以下になる、

9勝6敗 1勝2敗13休 8勝5敗2休 12勝
3敗 12勝3敗

つまり高安は大関としては不成績が続いた後、
連続12勝したに過ぎない。横綱は品格力量
抜群という基準がある。この成績のどこが
力量抜群だというのか。
180319九日目十両幕下以下 1835
<高安土俵入り>

高安は取りこぼしが目立つ。先場所は連敗
スタートであった。まさかの千代丸に負けた。
五月場所にのぞむにあたって昇り龍のような
勢いは感じられない。仮に高安が優勝して
横審が諮問すると横綱高安は誕生するかも
しれない。

しかし、横審を信用できないのも確かである。
これまで弱い横綱をつくってきたことに関し
て反省がない。稀勢の里の横綱昇進のさいは
年間最多勝(それも69勝)という横綱昇進
基準にない項目を持ち出す始末である。
180322十二日目幕内 845
<千代丸に敗れた高安>

双羽黒は優勝経験なしで横綱に昇進した。
その反省から旭富士から日馬富士まで連続
優勝で横綱に昇進していた。それがここの
ところゆらいでいる。それが高安横綱論を
言う方が現れる要因になっている。

同じ部屋の稀勢の里でさえ今横綱として苦し
んでいる。力量抜群の横綱は横審誕生以降、
栃錦、若乃花、大鵬、玉の海、北の湖、千代
の富士、貴乃花、朝青龍、白鵬しかいない。
弱い横綱はいらない。

土俵から締め出された少女の声を聴いた。
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異常人気が続く大相撲

最近の相撲チケットは1日というより短時間
で完売する傾向が続いている。土日ともなる
と数分である。まさに異常人気である。一昔
前プロ野球といえば巨人戦の中継が中心だっ
た時代、巨人戦のチケットはプラチナペー
パーと呼ばれていた。いまや大相撲のチケッ
トはプラチナペーパー化している。
1116七日目幕内 005
<満員御礼>

この人気は琴奨菊が日本出身の日本人として
10年ぶりの優勝の翌場所から始まった。だか
ら2年以上続いていることになる。ただし、
平成28年十一月場所は15日間満員御礼とは
いかなかった。十一月場所はお茶屋がない
だけにハンディはある。それでも昨年は15日
間満員御礼にしている。
若
<3代目若乃花>
 
かつて若貴が騒がれ、空前の相撲ブームが
到来したことがあった。下の頃から大騒ぎと
なり、666日満員御礼が続いたことがあった。
7年と2場所強続いたのだから、空前絶後の
数字である。これまで昭和人気3力士双葉山、
初代若乃花、貴ノ花(父)に新たに平成人気
力士として3代目若乃花、貴乃花が加わった
と言っていい。
貴乃花 横綱土俵入り写真
<貴乃花>

現代の人気は特定のスーパースターによる
ものではない。多様性の人気である。日馬
富士が引退しても、暴行が絶え間なく続いて
いてもいっこうに人気には影響しない。それ
だけに異常人気はいつまで続くのか、まるで
予測しにくい。人気が止まるとき、それは
横綱不在のときか。そうとは言い切れない
のが、今の人気の不思議な点である。

東京新聞が1面で女人禁制を取り上げました。
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 土俵の変遷

古代・中世に土俵はなかった。従ってすもう
といっても力比べや殺伐とした荒っぽい格闘
技であったと思われる。日本書紀にある野見
宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまの
けはや)の戦いは古代の話である。信長が
少女に相撲をとらせたというが、これはどう
も小説であるようだ。当然信長の時代も土俵
はない。

土俵の前提となったのは、人方屋と呼ばれる
戦う2人のまわりを力士が囲んだものである。
これが歴史的にいつ発生したものかは、はっ
きりしない。江戸時代にはいって投げ銭めあ
ての辻相撲が行われるようになる。セミプロ
といえるが、江戸初期土俵は存在しない。

土俵は勧進相撲のころ誕生したと言われて
いる。勧進相撲とは神社仏閣の建立修繕費の
資金を集める目的で寄進を勧めることである。
相撲絵では1673年から83年ごろ確認できる。
土俵の出現が相撲を大きく変えた。初期の
土俵は俵に土を詰めたものを地面に置いて
いただけであった。円形だけでなく、四角い
土俵も存在した。四角い土俵はコーナーに
詰まると逃げ切れなかった。
雲龍久吉■國明画
<二重土俵がわかる錦絵>

俵を土中にうめたのは享保(1716年~36年)
のころで、しだいに細俵になっていった。
土俵の直径は13尺であった。相撲の錦絵を
みると土俵が二重になっているものがある。
二重土俵は天明(1781年~89年)には既に
出現していた。内円に16俵、外円に20俵つか
われたため、土俵は36俵と呼ばれた。

昭和3年ラジオ放送の始まりとともに導入
されたのが、仕切り制限時間と仕切り線で
ある。それまでは仕切り線がなく、頭と頭を
つけ合ったまま立つこともあった。なお、
仕切り線の間隔は60センチであった。

昭和6年4月、天長節を祝し天覧相撲を開催
した。これを機会に二重土俵を一重にし、
土俵の直径が15尺に改められた。
180113初日前日 211
<土俵の儀式>

戦後の昭和20年11月、国技館の被災破損に
より晴天10日間興行がおこなわれた。この
とき16尺土俵になったが、力士会の反対で
1場所限りで15尺に戻る。

昭和45年五月場所から仕切り線の間隔が70
センチになって現在の土俵に至っている。 

寝不足です。
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 まだまだ続く土俵女人禁制問題

伝統に配慮して、古くからのしきたりでと
いう言葉でこれまで、女性が土俵に上がるの
を拒んできた。それでは女性はなぜ土俵に
上がれないのか。その理由は公の場ではけし
て話されることはなかった。
140126千秋楽
<土俵>

その行き着く先はけして口にはできない女性
は穢れているである。血穢(けつえ)といっ
て血の穢れという考え方から来ている。土俵
は神聖なもの。男が命がけで戦う場である
から汚されたくない、というわけである。
八百長をやっといて土俵が神聖というのは
おかしい、という方がいるかもしれないが。

相撲協会は、女性はなぜ土俵に上がれない
のかを明確にしてこなかった。理由に触れず
に伝統、しきたりでごまかしてきたわけで
ある。二子山(元初代若乃花)理事長は「こ
ういう世界が1つくらいあってもいい」と
やはり理由は言えなかった。そのせいか土俵
の女人禁制の賛成者はどうも男が多いようで
ある。
180204朝赤龍引退相撲 508
<朝赤龍の引退相撲の1コマ>

しかし、ここにきて大相撲の土俵に上がった
女性がいるというニュースが入ってきた。
8日の朝のニュース番組「サンデーLIVE」で、
61年前、高砂一門が愛媛県で巡業したときの
ことである。女性が土俵に上がっている写真
が紹介された。女性は元女相撲出身者である
が、このときは挨拶をするよう求められたと
いう。このニュースは「真相報道 バンキシ
ャ!」でも放送されたからご覧になった方は
多いのでは。
150726千秋楽表彰 017■
<八角(元北勝海)理事長>

女人禁制は今後どうなるのか。協会は一歩
踏み出すのは相当の決断がいる。四本柱を
撤去するとき、部屋別総当たりを実施する
ときにも、内々からそうとう抵抗はあった。
相撲部屋で千秋楽に打ち上げパーティーを
するとき、稽古場に板を敷き詰め会場にする
ことがある。あるいはこの辺にヒントがある
のかもしれない。

多忙な1日でした。
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平成30年五月場所チケット事情

五月場所の前売りが始まった。大相撲は暴行
や命より優先されるしきたりなど不祥事続き
であるが、チケットの売れ行きにまったく
影響が出ていない。むしろ、悪名は無名に
優るかのごとく話題が尽きることのない大相
撲が、脚光を浴びてすさまじい売れ行きに
なっている。

14日目をねらった2人はまったくかすりも
しないうちに、わずか、1、2分でチケット
がなくなった。それは7日目も同様であった。
わずかに8日目をねらった2人のうち、1人
がねばって、ねばって最後に1マスを獲得
した。必死で千秋楽を獲得した方もそれが
精一杯であった。土日は幸運が伴わないと
購入できない状況だった。まして1人で2日
分の土日を獲得するのは不可能に近かった。

最近、東京場所の平日マス席は前半からなく
なるのが、早い傾向がある。前半のマス席の
なかに福袋がついてくるのが魅力的なのか、
チケットの原則が崩れている。相撲仲間の
連絡では、1人は3日分のうち、2日分が
狙ったマス席が購入できた。もう1人は3日
分のうちわずか1日分しか買えなかった。
また2日分を購入予定の2人のうち1人は
買えたが、もう1人は1日分しか購入でき
なかった。平日の購入も油断できない状況で
ある。
五月
<五月場所の案内>

全体的には、最近の東京場所では最も過酷な
チケット戦争という印象であった。ただし
これが相撲ファンだけによるものとはいい
切れない面がある。大手チケットサイトは
閉鎖していても、別のチケット専門サイトで
ダフ屋が暗躍しているとの情報がある。ネッ
トダフ屋及びにわかネットダフ屋によって、
大相撲が食い物にされている節がある。これ
では相撲愛好家、相撲ファンは疎外される日
が続くことになる。

卓球の張本君が世界ランク1位に勝ったのは
すばらしい。
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 土俵女人禁制問題再び

土俵の女人禁制が波紋を続けている。宝塚市
の巡業で女性市長が土俵で挨拶をしたい旨
申し入れたが、拒否された。そのため土俵下
の挨拶となった。挨拶では「女性市長ですが
人間です。男性の市長は土俵の上に立って
ご挨拶します。(中略)女性ということで
土俵の下で挨拶。悔しいです。つらいです。
考えてもらいたい。(中略)伝統は大事。
女性の市長も増えてきています。そのとき
女性は土俵の上に上がってはいけないので
しょうか。みなさん、相撲協会に考えて
もらいたい。変革する勇気も大事ではない
か」と土俵下での挨拶に異を唱える悲痛な
内容になった。
101002千代引退相撲 867
<土俵下で女性の鋏を受けた千代大海>

女性が土俵に上がれない理由として、次の
説がある。五穀豊穣を占うために相撲が
おこなわれたが、女性が土俵に上がると女神
が嫉妬するからというものである。確かに
隣村とどちらが豊作になるか、神の恵みを
どちらが得るか、相撲を取り判断を求めて
いた。しかし、こうしたことの始まりは古代
のことで、土俵はない。すもうは争うという
意味で使われていた。
101003朝青龍引退大相撲後半 430
<土俵下から花束を受ける朝青龍>

土俵が誕生したのは江戸前期と言われている。
女人禁制は江戸勧進相撲からとみなされて
いる。もともと相撲は神事と結びついていた
だけに、土俵は神聖な場所であるとみなされ
た。裏をかえせば女性は不浄な者として扱わ
れてきたことになる。こうした経緯では土俵
女人禁制に対して理論武装することは困難で
ある。海外メディアは当然理解不能であり、
女性に対する偏見である、という見解である。

女性が表彰式、断髪式など土俵に上がれない
ことで不当と感じるのなら、この伝統は差別
の上に成り立っていることになる。

資料を捜しました。
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永遠のテーマ?女性土俵問題

舞鶴巡業で思わぬことが起こった。舞鶴市長
が挨拶中に土俵に倒れて動かなくなったので
ある。この緊急事態に土俵に駆けつけ応急
処置をほどこした中に女性が何人か含まれて
いた。女性は心臓マッサージを開始。場内
アナウンス担当の行司は周囲の声もあり、
「女性の方は土俵を下りてください」とアナ
ウンスを連呼したのである。

土俵は女人禁制の伝統がある。しかし、こと
は人命であり、緊急を要する。このアナウン
スはあまりにも表面的なことにとらわれ過ぎ
た不適切なものであった。八角(元北勝海)
理事長が声明をだした。応急処置をしてくれ
た女性には深く感謝し、場内アナウンスは
人命に関る状況では不適切な対応という趣旨を
述べ、謝罪した。幸い市長は意識が戻り、話も
できるという。
20120428高砂一門感謝祭 1023
<八角理事長>

女性が土俵に上がる是非はこれまでもあった。
優勝力士を表彰できない。引退力士の断髪
を土俵下でしかできないなどである。女性を
不浄なものと考えている、とはさすがに相撲
協会は口が裂けても言えない。相撲部屋の
関係女性が稽古場の土俵に下りたが、何も
起きなかった、という話を聞いたことがある。

いまやオリンピックは、男子の種目は女子も
行っている。女子相撲が競技として存続する
のは歴史の流れの必然である。競技人口は
日本よりヨーロッパのほうが多いと聞く。
相撲協会には指導普及部という部署がある。
まずは普及に女子相撲が含まれているのか否
か、はっきりさせてはいかがだろうか。

舞鶴巡業緊急事態は下記YouTubeからご覧
いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=35aIqDTYOD8

携帯をフル活用してしまいました。
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鶴竜優勝の足跡

三月場所は千秋楽を待たずに鶴竜が4回目の
優勝を決めた。昨年(平成29年)は6場所中
5度休場という窮地に陥った。フル出場した
三月場所も10勝5敗と平凡な成績に終わって
いる。それを思えば、よく立ち直ったもので
ある。
180325千秋楽表彰 094
<H30年三月場所 鶴竜4回目の優勝>

鶴竜は技能賞を6回受賞していることから
わかるように、うまさで取る相撲である。
うまさが手順通りにいけば問題はないが、
パワーに圧倒されると勝利の方程式が崩れる。
それでも4回優勝し、優勝同点が2回ある。
昨年以外は毎年優勝してきている鶴竜の優勝
をふり返ってみる。

鶴竜の初優勝は大関12場所目であった。大関
7場所は1ケタ勝利であったわけだから、
大関在位の半分以上にあたる。そのせいか
鶴竜の大関在位は低迷感がある。その鶴竜が
大関11場所目の平成26年一月場所、千秋楽
白鵬に勝って14勝1敗で優勝決定戦にもち
こんだ。決定戦では白鵬に及ばなかったもの
の、大きなステップを踏み出した。
140323千秋楽表彰 047
<H26年三月場所 鶴竜初優勝>

翌三月場所、3日目隠岐の海に敗れながら
白星を重ね、横綱日馬富士、大関稀勢の里、
横綱白鵬を撃破して初優勝を達成した。9勝、
14勝優勝同点、14勝優勝で横綱昇進を決めた。
旭富士から日馬富士まで続いていた連続優勝
での横綱昇進は鶴竜でストップした。鶴竜は
鏡里、吉葉山、柏戸、2代目若乃花、三重ノ
海同様初優勝だけで横綱に昇進した(横審
誕生以降)。後に稀勢の里も初優勝だけで
横綱に昇進している。

鶴竜は横綱に昇進したものの優勝は遠かった。
チャンスが来たのは横綱9場所目の平成27年
九月場所であった。この場所は横綱白鵬、
日馬富士が休場であった。鶴竜と優勝を争っ
たのは若手の大関照ノ富士であった。
千秋楽2敗の鶴竜と3敗の照ノ富士が激突
した。照ノ富士は本割で勝ったが、優勝決定
戦を鶴竜が制して横綱初優勝を苦労の末成し
遂げた。
150927千秋楽幕内 834
<H27年九月場所 優勝決定戦で照ノ富士
を退ける>

3回目の優勝は平成28年の十一月場所であっ
た。この場所は横綱日馬富士、白鵬、大関
稀勢の里が取りこぼすなか、鶴竜は初日から
快調に白星を重ねた。稀勢の里に1敗はした
もののそのまま逃げ切り、14勝1敗で3回目
の優勝を達成した。
161127千秋楽表彰B 292
<H28年十一月場所 3回目の優勝 旗手勢>

そして今回の優勝は、平成29年の不振で進退
をかけた場所で11勝をあげた翌場所で実現
したわけである。熱狂的な鶴竜ファンは、
もう1回優勝して5回目まで数字を伸ばす
ことを念願している。

JAPANがつく番組を見ています。
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40回優勝の白鵬でも破れない優勝記録

2勤1休のペースできた白鵬が三月場所休場
して、初めて連続休場した。既に前人未到の
40回優勝を達成して偉大な横綱にかわりは
ない。しかし、そんな白鵬でも優勝に関する
記録で抜けない記録が実はある。
160327千秋楽優勝パレード 030
<白鵬の優勝パレード 旗手石浦>

◆入幕した年から引退する年まですべて優勝
これは大鵬がもつ記録である。大鵬が入幕
したのは昭和35年一月場所であるが、その
年の十一月場所は関脇で初優勝して、大関
昇進を決めている。以後毎年優勝して、引退
する年まで優勝のない年はなかった。

白鵬が初優勝したのは入幕した年から2年後
である。なかなか入幕した年に優勝するのは
難しい。ただ、白鵬は初優勝以降毎年優勝
して、現在12年続いている。今年優勝すれば
13年になる。ちなみに千代の富士は10年連続
優勝がある。
大  鵬
<大鵬>

◆30歳超え優勝
千代の富士は30歳以降なんと19回の優勝を
誇る。20代は12回だからまさに30にして立っ
たわけである。大鵬は31歳直前に引退、北の
湖は31歳8ヶ月弱で引退している。千代の富
士は36歳前に引退した。年6場所制では、
珍しいタイプの横綱である。

白鵬は現在33歳である。30歳以降の優勝は
7回である。千代の富士の数字を超えるには
あと13回優勝が必要であるが、これは事実上
不可能といっていい。
千代富士B
<千代の富士>

◆優勝全勝率
双葉山は12回優勝のうち8回が全勝優勝で
ある。全勝優勝率6割6分7厘の高率で
ある。白鵬は全勝優勝の回数では13回と最多
回数だが、全勝優勝率となると3割2分5厘
と差がついている。双葉山の全勝優勝率は
空前絶後といっていいほどの数字である。
双葉山
<双葉山のブロマイド>

横綱審議委員会からの突然の封印技と足の
親指のケガという、二重苦に陥った白鵬。
再び優勝の栄冠に輝く日はいつになるのか。

暑い日がつづきます。
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貴ノ岩十両15日間の戦い

暴行のケガで2場所全休の貴ノ岩が本場所に
戻ってきた。相撲の稽古は京都入りしてから
のため、いかにも時間が足りなかった。本当
に戦えるのか不安はあったが、本人の意志で
出場に踏み切った。貴ノ岩の十両15日間の
戦いをみてみよう。

180311初日十両 390翔猿○180312二日目十両 238志摩ノ海○
<初日〇 翔猿>             <2日目〇 志摩ノ海>

180313三日目十両 112照強●180314四日目十両 111明瀬山●
<3日目● 照強>             <4日目● 明瀬山>

180315五日目十両 176炎鵬○180316六日目十両 105栃飛龍●
<5日目〇 炎鵬>            <6日目● 栃飛龍>

180317七日目十両幕下以下 1390青狼●
<7日目● 青狼>

180318八日目十両 384矢後○
<8日目〇 矢後>

180319九日目十両幕下以下 1420水戸龍○
<9日目〇 水戸龍>

180320十日目十両 367誉富士●180321十一日目十両幕下以下 876大翔鵬●
<10日目● 誉富士>                <11日目● 大翔鵬>

180322十二日目十両 252天風● 
<12日目● 天風>  

180323十三日目十両 027若隆景○180324十四日目十両幕下以下 830照ノ富士○
<13日目〇 若隆景>              <14日目〇 照ノ富士>

180325千秋楽十両幕下以下 789がが丸○
<千秋楽〇 臥牙丸>

出足は連勝といいスタートを切ったものの、
その後は一進一退の展開となった。終盤は
5勝7敗と追い詰められながらも、なんとか
3連勝して勝ち越した。三月場所は勝ち越し
ただけでよしとしなければならない。本当の
復活は、戦いは風薫る五月場所になる。

鶴竜の写真がアップしました。
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貴乃花親方の変身

貴乃花親方がこれまでの言動を平謝りに謝っ
て一見落着した。平成28年の理事長選挙に
2対6で敗れたときは「すがすがしい気持ち」
とか「八角理事長のもとで」と語っていたが、
日馬富士暴行事件勃発後に協会首脳と表立っ
た対立関係にはいった。その言動は留まる
ことを知らず、三月場所直前、内閣府への
告発状にまで発展した。
170609富岡八幡宮 155-2
<貴乃花親方>

1.言いたいことがあるなら、協会内部で
堂々と議論すれば。
2.協会から給料をもらいながら、協会に
非協力的なのはおかしい。
3.そんなに協会がいやならやめれば。

様々な意見が出されたが、1つはっきりして
いることは、貴乃花は協会をやめるわけには
いかなかった、ということである。あくまで
協会を正常方向に導く姿勢を貫くしかなかった
(人によっては協会に揺さぶりをかけている、
という見方をしているが)。なぜなら大相撲
を興行できる団体は日本相撲協会しかない
からである。

昭和2年、東京相撲と大阪相撲が合併した。
2団体が1つになったのである。昭和7年
春秋園事件で別団体が誕生したが、長くは
続かなく多くの力士は協会に復帰した経緯が
ある。
180318風景 011
<貴乃花が無断欠勤した大阪府立体育館>

今貴乃花がとびだしても誰もついていく者は
いない。プロレスなら、少人数とレフェリー、
リングアナとリングがあれば成り立つだろう
が、大相撲はそうはいかない。行司、呼び出し、
床山、経理、事務員は必要である。その上で
興行システムを確立しなければならない。
テレビ中継もなければ、国技館もない。これ
では先行きがない。

親方になれない白鵬に対して、白鵬を批難
する相撲コメンテーターが「白鵬は別団体を
つくれば、相撲協会より人気がでるかもしれ
ない」という趣旨を述べたが、同じ理由で
別団体は成り立たない。
180311初日十両 242
<貴公俊>

大相撲の興行は1つの団体でのみで成立して
いる。貴乃花親方は何があってもどんな批判
があっても日本相撲協会に留まる以外の道は
なかったのである。貴公俊の暴行事件がなく、
突っ走り続けていれば、親方生命は危うかっ
たかもしれない。そういう意味で貴公俊を
守らんとした姿勢は、転換期になったことに
なる。

旧友S氏に会います。
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