2008年05月03日

信仰≒信頼

神の存在を認めるとして、神と一体どう関わるべきなのか…

家族を信じる、友人を信じる。
この信頼の感覚と同じように、神もまた信じるということ。


taichi0824 at 21:22|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2008年05月02日

自然<神

ずっと、自然と関わる生き方をしたいと模索してきた。
農林業など、第一次産業に従事し、田舎暮らしをすれば、自分の望む状態になれると期待していた。
以前の自分には、アニミズム的に、自然そのものが神だった。
端的に、自然を通して、神との交流を求めたのだ。
だが、かなわなかった。

ある時、神はもっと途方もないものだとみなすようになった。
すなわち、この天地全体の創造主こそ神であり、自分の求める存在なのだと。

それから、神の、この日々の働きへの賛美のためと、聖書の言葉を理解するために、ごく当たり前の様に、教会への礼拝通いが始まった。

既成の宗教にはどれも無関心だった自分が、思えば不思議なことだった。
なぜキリスト教に惹かれたのだろう?いや、惹かれているのだろう?

それはキリスト教の神が、天地創造の「唯一の」神だから。
そして、人として、神の働きをまず第一に賛美すべきだと思うから。
人間は皆、自分では統御できない罪を内包していると実感するから。
また、目に見えない何者か(聖霊?)の導きによって…。

わからないなりに、初めて新約を通読した。

福音書を読み、まず、イエスはこんなにも多くの奇跡を行っていたのかと知り、驚いた。
盲人の目を見えるようにしたり、難病の子供を回復させたり、死人を生き返らせたり、わずかなパンと魚で、何千人もの空腹を満たしたりしている。
どれも苦しみあえぐ人々への癒しの業だ。

次に、イエスのこの実に大胆な主張の意味を噛み締める…


「私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」
<ヨハネの福音書14章6節>


イエスはその言葉が詩的で美しく、あくまでひとりの人間として好感は持っていた。
だが、彼は文字通り神(の御子)であったのではないかと思い始めている。

まだ、イエスを自分自身の罪を贖ってくれた救い主として受け入れ、洗礼を受ける覚悟はない。
しかし、それはいずれ自分にとって必然であるような気がする。
信仰を「持つ」というより、信仰という「領域」に、自らをゆだねるという表現が適切ではないか。

そうなって初めて、自分の求める神との交わりは始まるのではないか。

以前、私は神ほどいい加減で出鱈目な存在はないと思っていた。
だが、今は人間こそがいい加減で出鱈目なのだと思う。

もっと神を畏れ、自身の罪を自覚し、悔い改める必要がある。
だが同時に、神はずっと人間を自分の子供のように愛している。


愛は神から出ているのです。愛のあるものはみな神から生まれ、神を知っています。
愛のないものに、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
<ヨハネの手紙4章7〜8節>

ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
<ルカの福音書15章7節>


神を「天の父」と呼べるとは、実に素晴らしいことではないか?

taichi0824 at 20:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

罪の本質

罪の元々の意味は、「ずれ」。
人間と神との関係が、ずれた状態が罪であるということ。

これはすごいことではないだろうか?

神に背き、自分(人間)中心に生きるということ、それが本質的に、最も重い罪なのだ。
そしてそのことこそが、人間にとっての最大の不幸なのだ。

なぜそれがわからなかったのだろう?
なぜわからないのだろう?
まさに私の中の罪ゆえに?


ナザレの名もなき大工の息子として生まれたイエスが、アダムが犯した原罪と、それが遺伝して罪の奴隷となり、神から引き離された人間のために、救世主(キリスト)として身代わりに十字架で死なれた。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
<ヨハネの福音書3章16節>


信仰とは不思議なものだ。
自分の意思でありながら、それが知らず知らずのうちに何かの働きによって成長していくところがある。
理性を超えて、聖書に書かれていることを少しづつ信じさせられていく。
そうなのだと。これが聖書に宿る、聖霊の力だろうか?



taichi0824 at 18:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

明日を支配する者

「信仰とは、明日が来ると知ることではなく、明日を支配する者を知ることです」
個別に聖書を教わっている牧師から教わる。

神はあらゆる占いを嫌うと言う。
人間が未来に対し、不安を持つことを好まないのだ。
それはつまり、人間の知を超えた神の計画にたいしての信頼がないということになる。

神が人間に絶えず行っている善い働きかけに対して心を開き、それを信頼するということ。


明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
<マタイの福音書6章34節>


taichi0824 at 16:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

受け継がれる罪

アダムが食べた善悪を知る知恵の実は、神と人間を厳密に隔てる戒めそのものだった。
アダムはその戒めを破った。神に背き、神のようになりたいという思いが、原罪だ。
アダムが犯した原罪はその子孫に綿々と遺伝し、現在の私達にまで至っている。


私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。
<ローマ人への手紙 7章19〜23節>

自分の内の罪を自覚し、神との関係を修復させたいと願うこと。
それが「救い」の一歩だろう。

taichi0824 at 15:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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