夕方近くになって晴れ間も出て来たのですが、今日は水曜日。そうなのです、江戸橋方面のお仕事の日。朝の通勤電車、鈴鹿あたりまでは曇りだったのに、津市内に入る頃から雨が降り始めました。駅に着く頃には本降り(苦笑)。非常勤先について、授業を始める頃には小降りになって、その後はそのまま。行いが悪いのか、運が悪いのか、ジンクスは活きております(爆)。授業は、2科目ともつつがなく終了。レポートも返却。レギュラー科目は、残り3回となりました。
さて、昨日の「桑名市内旧東海道を歩く」の続きです。町屋橋をスタートしたのが、9時25分頃。一目連神社は、左のマップでは、87ページ(左側のページ)のほぼ中央にあります。ここに着いたのが、10時40分頃。町屋橋からは2.1㎞ほど。2㎞あまりで1時間以上かかっていますが、写真を撮りつつ、ウロウロしつつですから思いの外、時間がかかりました。
続いては、天武天皇社。御祭神は、天武天皇、持統天皇、高市皇子(天武
天皇の子)です。天武天皇を主祭神として祀っている神社は、全国で唯一です。大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱(672年)のときに、桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建された神社です。鳥居の脇に立つ石柱には「天武天皇御𦾔跡」と刻まれています。これは、幕末の桑名藩主・松平定敬公によるもの。
由緒書きには、明治天皇が御東幸の際、この天武天皇社のことをお聞きになり、明治2(1869)年2月に次のような沙汰をなさったと書いてあります:天武天皇社は御旧蹟であるので、永世湮滅(いんめつ)なきよう藩において取り扱う旨、御沙汰候こと。「行政官」の名前になっていますが、この「行政官」は、慶応4 (1868) 年閏4月に定められた「七官」中の一つで、いくつかの官からなり、政府行政の中心機関でした。明治2 (1869) 年の官制改革で、太政官と改められています。
こちらは拝殿なのですが、賽銭箱に菊の御紋章が付いているのが目立
ちます。まだ新しい賽銭箱ですので、比較的最近設置されたものでしょう。以前にも何度か訪れていますが、賽銭箱に菊の御紋章があったのには気づきませんでした。
気になったのは、拝殿前にある鳥居。笠木や島木がなく、柱と貫だけです。壊れているのか?とも思ったのですが、柱のてっぺんには照明が付いていたりして、よく分かりません。天武天皇社は、春日神社(桑名宗社)の宮司さんが兼務していらっしゃるようですから、機会があればうかがってみたいものです。境内には、稲荷社と、もう一つお社がありました。神社検索(三重)のサイトによれば、火産霊神(ホムスビノカミ)を祀っているそうですから、そのお社かという気がします。
天武天皇社の先には、廣瀬鋳物工場跡があります。桑名藩初代藩主・本多忠勝公が、城の建設などのため、鋳物師を桑名に招いたのですが、廣瀬氏もその一人で、ここに土地を与えられました。このため、この付近は「鍋屋町」と呼ばれています。文政9(1826)年には、シーボルトがここを通った際に工場を見学したといいます。戦災後、工場は移転し、現在は個人のお宅となっています。
と、ここまで来て、何やら忘れたような気がしてきました。本を見直すと、本願寺跡をスルーしてきていたのに気づき、戻ります。一目連神社と天武天皇社の間、西側にあるのに、すっかり忘れたのです(苦笑)。戻って確認してきました。ただ、この本願寺跡、道路から奥まっていますので、見逃しやすいと思います。
御影山(みえいざん)本願寺という、西山浄土宗のお寺があったとされます(マップには、本願寺と書いてありますが、現在は廃寺になっています)。由来は不詳ですが、江戸時代には本願寺村があり、古くから巨刹であっ たと思われます。室町時代に天台宗の寺として創建されたそうです。
境内に梅花仏鏡塔(ばいかぶつかがみとう)と句碑(桑名市指定史跡)があります。梅花仏鏡塔は、各務支考(1665~1731)の分骨墓です。支考は美濃の人で、松尾芭蕉について俳句を学び、美濃俳壇の中心人物でした。当時のこの寺の住職雲裡坊は支考の俳諧の弟子で、「間遠社(まどおしゃ)」という俳句結社を結成していました。支考が亡くなった時、雲裡坊は骨を分けてもらいこの鏡塔を建立したのです。形が円形なのは、支考の姓「各務=鏡」にちなんだものといいます。ちなみに、この梅花仏鏡塔、「くわな史跡めぐり」では、「鑑塔」と訂正されていますし、市の観光パンフレットにもそう記載されています。
梅花仏鏡塔の周囲には、句碑が立ち並んでいます。それらは間遠社歴代社長のものだそうです。ちなみに、「間遠社」というのは、桑名の七里の渡しを「間遠の渡し」ともいったことから来ていると思われます。天武天皇が桑名から熱田に渡られるとき、船が着くのが遅いので「間遠なり」と仰せられたことによるという言い伝えがあります(こちら)。
廣瀬鋳物工場跡から日進小学校前の交差点で左折(東へ)。ここには、七曲見附があったといいます。桑名城下南端の見附で、門(木戸)と番所がありました。この名称は、七里の渡しから東海道を7度曲ってきたことに由来します。門は、「七曲門」とも「釘貫門(くぎぬきもん)」ともよび、門を出ると道は枡形に曲折していたそうです。ただし、今は、この枡形はありません。跡地は日進小学校の一部と桑名市消防団第一分団車庫付辺です。
なお、日進小学校敷地に七曲見附の説明板と泡洲橋の親柱がありますが、今回は見て
きませんでした。泡洲橋の親柱らしきものは、天武天皇社の境内にもありましたが(右の写真)、そうかどうかは未確認(このパラグラフ、7/5に追記しました)。
報恩寺。浄土真宗本願寺派のお寺。山号は、謝徳山。「くわな史跡めぐ
り」によれば、もとは江場村にあり、ここに移ったといいます。報恩寺のすぐ隣には大悲山(だいひざん)長圓寺があります(ただし、このちゃんと歩ける東海道の本の地図には、載っていません。長圓寺は載せていただかないといけません)。浄土真宗本願寺派。もとは真言宗で江場にありましたが、明応5(1496)年、真宗に改宗、江戸時代の慶長の町割りで現在地に移りました。
このお寺の11世・魯繽庵義道(ろこうあんぎどう;宝暦11(1761)~天保5(1834)年)は、桑名を語る上で欠かせない人です。博学の人で、『久波奈名所図会(くわなめいしょずえ)』『 桑府名勝志(そうふめいしょうし)』(いずれも市指定文化財)などの地誌を著わした他、「桑名の千羽鶴」の創始者としても知られています。桑名の千羽鶴は、一枚の紙に切り込みを入れるだけで、連続した鶴を折るもので、寛政9(1797)年、『秘伝千羽鶴折形』が刊行され、49種類の連鶴が紹介されています(市無形文化財)。
こちらは、魯縞庵義道顕彰碑。平成25(2013)年1月に魯縞庵義道の事績を称えるために建立されました。このほか、墓地には、大坂相撲の力士である千田川善太郎(せんだがわぜんたろう:釈宗香・文化元81804)年没)の墓があります。千田川は四日市出身、文筆が得意でしたので、代筆を頼まれ、その筆の先に毒を塗られ、桑名で亡くなったといわれています。墓は義道が建立し「文化改元歳次甲子(1804)十月九日、難波力士千田川於当駅終(以下略)」とあるそうです(あとで調べて分かったので、今回は見ておりません)。
県道421号線を渡ります。「ちゃんと歩ける東海道」の地図では、十念寺があると書かれていますが、これは間違い。この地図では、十念寺と寿量寺とが入れ替わっています。ということで、まずは妙延山(みょうえんざん)寿量寺。日蓮宗のお寺。
初めは一色町にあり、天台宗で「妙蓮寺」といいましたが、法華宗に改宗し、寺の名称も改めました。江戸時代の慶長の町割の時、現在地へ移転しています。寺宝には、「銅磬(どうけい)(市指定文化財)、「日蓮聖人御本尊(市指定文化財)」などがあります。
また、寿量寺には、狩野光信の墓があ
ります(桑名市指定史跡)。狩野光信(永禄4(1565)~慶長13(1608)年)は、信長・秀吉・家康に仕えた狩野派の絵師で、安土城の襖絵などを描きました。江戸城のふすま絵を描いて、江戸から京都への帰路、桑名で病気になり亡くなり、当寺に葬られました。入口すぐ南則に「狩野光信墓」の小さな五輪塔がありますが、一見すると、これがあの有名な狩野光信の墓?と思ってしまうほど。
なお、境内には明治2(1689)年銘の仏足石がありますが、今回は見忘れました。
続いては、仏光山九品院(ぶっこうさんくほんいん)十念寺。浄土宗のお寺で、元は朝明寺(あさけでら)といい、朝明郡切畑(現在の三重郡菰野町)にあり、室町時代に桑名(のちの桑名城本丸の地)に移り、慶長町割の際に現在地に移ったといいます。寺宝には、「祭礼図屏風」(江戸初期)、「 当麻曼荼羅図(たいままんだらず)」(室町初期)、「仏涅槃図」(室町時代)などがあります。
十念寺には、西側道路を隔てた墓地に「森陳明(もりつらあき)之墓」が
あります。森陳明は明治維新の際に、桑名藩敗北の責任を負って切腹した藩士です。森陳明は、松平定敬公が京都所司代に在職中、公用人として助け、勤王佐幕に心を砕き、戊辰戦争当時は、定敬公に従って函館に立て籠りました。戊辰戦争に負けて、朝廷から反逆の主謀者を出せと命じた時、陳明が進んで全藩に代わって出頭し、明治2(1869)年11月13日、東京深川にあった藩邸で死に就きました。享年44、法号は智勇院清挙忠誠義剣居士。九華公園には、別に殉難旌節の「精忠苦節」の碑があります。
十念寺境内には七福神が祀られ、11月23日に七福神まつりが行われます。まつりでは、七福神が勢揃いし、市内を練り上げ、氏子各家の七福神祈願を行います。境内では大正琴・舞踊などが終日奉納され、七福神とミス桑名を写す会や競書大会表彰式も行われます。最後の餅投げで投げる餅は七福餅と呼ばれ、無病息災・七福開運が舞い込むといわれています。この祭り、小生はまだきちんと見たことがありません。
というところで、今日はここまで。天武天皇社から十念寺までは、500m足らずしか進んでいません(苦笑)。時刻は11時20分。小生の歴史散歩、あちこち立ち寄って、あれこれ見て回りますので、けっこう時間がかかるのです。続きは明日にでも。
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