3月2日(土)に行ってきた近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」の本編がようやくスタートです。写真整理に手間取っていました(予告編はこちら)。手間取っている間にハイキングのタイトルを何度か見直したのですが、よく考えると意味不明で、中身を羅列しただけです(笑)。采女城跡と千奈美姫のことは、下調べはしたものの、しっかりとは認識しておらず、いったい誰?という状態でしたし……。
4671ab3b.jpg さて、当日(3/2)、受付は、近鉄名古屋線・塩浜駅で9時20分から10時半。この駅はもう何度も利用して、お馴染み。桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗車し、9時18分に到着。すでに受付は始まっていました。もっと行列があるかと思ったら、さほどでもありません。コースマップをもらい、この日は、近鉄あみま倶楽部KIPS対象ハイキングでしたので、KIPSポイント100Pをプレゼントしてもらいました。いわば、¥100のお駄賃をもらったというか、キャッシュバックがあったというか。
d80f1806.jpg こちらがコースマップ。両面になっています。というのも約14�qのコース設定5291ff2e.jpg なのです。塩浜駅をスタートして、川尻公園、采女城跡、上品寺、小松神社、中山寺、采女八幡社、四季菜(JAみえきた)、内部地区市民センター、うつべ町かど博物館を経て、杖衝坂、芭蕉句碑、日本武尊血塚社を回り、四日市あすなろう鉄道・内部駅がゴールという、内部駅からは、四日市あすなろう鉄道にのってあすなろう四日市駅へ。
183768d2.jpg こちらが、実際に歩いたルートマップ。塩浜駅から少し南下してからはひたすら西へ。国道23号線、JR関西線、伊勢街道、国道1号線を交通の動脈を横断し、四日市あすなろう鉄道を小古曽(おごそ)駅のところで越えます。この間3�qあまり。ここから内部地区、采女あたりであちこちを回りました。塩浜駅をスタートしたのは9時半。内部駅にゴールしたのは、14時15分。歩いた距離は15.6�qと、1月27日に出かけたJRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」とほぼ同じ(15.5�q)。ただし、今日は、城跡や杖衝坂へ登る等、アップダウンがかなりあり、難儀しました(笑)。
94d44714.jpg  塩浜駅からは200mほど南へ。ユマニテク医療福祉大学校のところで右6d4a126d.jpg 折し、西に向かいます。国道23号線の高架をくぐり、国道25号線へ。このあたりは、三菱ケミカルなどの工場地帯。右の写真は、川尻町で左折する手前で見た北西の方角。高い煙突が見えています。左は、実測ルートマップその1。
460d0c4a.jpg 2�qを過ぎて、JR関西線を渡る手前で川尻公園。この公園は、昨年(2018年)6月2日の近鉄ハイキングで一度来ています(「近鉄あみま倶楽部30周年記念ハイキング ~ものづくりのまち・四日市探訪~ 伝統工芸、老舗の味を満喫。わくわく感いっぱいの四日市を楽しもう!」へ(完))。このときも塩浜駅をスタートし、同じルートを歩いています。

e05c5e85.jpg

 川尻公園には、「故村長石榑君之碑」という石碑があります。これは、河0ef7d563.jpg 原田村の村長兼藍浜村の村長であった石榑氏が亡くなって数年経ってから建てられた顕彰碑のようです。また、「明治百周年記念桜」の碑もあります。こちらは、昭和43(1968)年に明治百年を記念して百本植樹したもの(ただし、この碑が建てられたのは平成7(1995)9月に、四日市市制施行100年を記念して)。2度目ですので、写真を撮ってほぼ通過。そのまま西へ。2.6�q地点で旧・伊勢街道を渡りますが、ここを北上すると、日永の追分があります。実測ルートマップその1に「追分」とあるのがそこ。昔は、追分から南西に向かう道(東海道とある道)が、国道1号線でしたが、知らないうちにルートが変わっていてちょっと驚きました。
ee451e33.jpg 川尻公園から1.5�qほどで、「小許曽神社」の石柱と、そのすぐ北に観音寺があります。余談ですが、コースマップには「小許曽神社」とあり、「漢字が間違っている」と思ったのですが、こちらが正式なというか、昔からの表記のようでした(これで「おごそじんじゃ」と読みます。神社検索三重のサイトはこちら)。
1b9e0e05.jpg 観音寺はコースマップには書かれていなかったのですが、見つけてしまったからには、当然立ち寄らねばなりません(微笑)。黄檗(おうばく)宗のお寺で、慈現山(じげんざん)観音寺。黄檗宗は、知識としては知っていましたが、実際に黄檗宗の寺を訪ねるのは、初めてかもしれません。本山は、宇治市の黄檗山万福寺。禅宗。承応3(1654)年に来日した明僧(みんそう)隠元が開祖。一時、臨済宗に合併したこともあるようですが、明治9(1876)年、臨済宗から独立しています。明朝の念仏禅を伝えているそうです。
04e2e1cc.jpg 山門。その前に寺号を示す石柱が立っています。説明板によれば、歴史的に明らかになるのは、江戸時代に黄檗宗の寺院になってから。戦国時代、織田信長の兵火により焼失したのですが、村人が観音堂を建て、本尊の千手観音を祀っていたといいます。その後、元文2(1737)年、黄檗宗の僧・鎮堂が旅の途中、四日市で一泊した際、夢枕に現れた老人のお告げにより、ここに新しく寺を建て、観音寺としています。
b2011fc2.jpg 左の写真が本堂。千手観音像は、本堂に安置されています。頭体幹部は、badc5752.jpg 11世紀頃の制作といわれています。山門は、四脚門(しきゃくもん、または、よつあしもん)方式というスタイルだそうです。2本の本柱の前後に2本ずつ計4本の柱があります。また、屋根の両端に異国風の「魔伽羅(まから;サンスクリット語で鰐)」が飾られており、これは黄檗宗特有のもの。この魔伽羅は、棟札によると、寛正12(1800)年におかれたものだそうです。
0e0a14fe.jpg ちなみに、これは帰りの電車から見つけたのですが、四日市あすなろう鉄道・小古曽駅のホームに「厄除観音 黄檗観音禅寺 是ヨリ二丁」という石柱が立っていました。
8649407a.jpg 観音寺のすぐ西に小許曽神社があります。提灯が飾られ、日の丸が掲げられ、お祭りのようでした(後で分かりましたが、「御鍬祭(田祭の一種で、鍬形を神として崇め、農事を祈るもの)」が開催されていました)。またもや余談ですが、写真に写っている社号標には、「小古曽神社」とあります。
b73f9b0a.jpg 延喜式内社ですが、創立年代は不詳。延喜式神名帳(延喜5(905)年)に載っているのですから、1,100年以上の歴史があると思われます。説明板によれば、小許曽神社には元来、東の宮、西の宮の2社の他に小社、祠、山神社があったのですが、明治39(1906)の合祀令により西の宮(現在の小許曽神社に合祀されました。このとき合祀したのは、末社6社、川原崎社、米田社、鈴森社、御堂壺社、八幡社です(うつべふるさと探訪マップより)。その後、昭和14(1939)年には、山の上(現在の高塚町)に祀られていた愛宕大権現も合祀されました。
0e065fd0.jpg  御祭神は、大日霊貴尊(オオヒルメノムチ、天照大神)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト;高皇産霊神(たかみむすびのかみ;天照大神が天の岩屋に隠れた際、天児屋命とその出現を祈った)の子)、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ;豊受大神(とようけのおおかみ))、大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)、水分神(ミクマリノカミ;水の分配をつかさどる神。天水分神(あまのみくまりのかみ)と国水分神(くにのみくまりのかみ)があり、豊作の神として信仰された)、大山祇命(オオヤマツミノカミ)、建速須佐男命(タケハヤノスサノオノミコト)、大綿津見命(オオワタツミノミコト;底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見の3神。海をつかさどる神)。相殿神は、天児屋根命(アマノコヤネノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、五男三女神、菅原道真品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)。合わせて13柱の神様が祀られています。
 なお、五男三女神は、天照大神と建速須佐之男命が行った誓約(うけい;占い)のときに生まれた三柱の女神と、五柱の男神の総称です。Wikipediaにある説明(以下は、古事記の記述によります)では、天照大神が建速須佐之男命の持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像大社に祀られる宗像三女神)が生まれました:
 次に、建速須佐之男命が、天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれました:
 この八柱の神は「八王子神」とも、「八柱御子神(やはしらのみこがみ)」とも呼ぶといいます。ちょっと余談気味ですが、私自身の頭の整理のためで、恐縮。
3013fd8a.jpg  小古曽神社の話に戻ります。ここの特殊神事としては、粥試(かゆだめ88060883.jpg し)、不参(ぶさん;説明板では奉賛と書かれています。宮当番に感謝する行事)、戸渡(とわたし;説明板では当渡し。宮当番の引き継ぎ)があり、正月中旬に行われます。粥試は、小豆粥と細い女竹5本を使い、竹筒内に入った米粒の数で早期(そうき)・早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)の稲作と畑作の豊凶を占う神事です。今年の結果は、社頭に掲示してありました(右の写真)。「不参」と「戸渡」は、東の宮と西の宮とに分かれていた頃の名残かという気がします(こちらに関連すると思われる記述がありました(古老の伝によれば、この2社ごとに当屋制の祭祀組織により祭礼が行なわれてきたという部分))。ちなみに、訪ねた3月2日と翌3日は「御鍬祭」が挙行されていました。ハイキング参加者にもふるまい酒がありましたが、私自身は先が長いので、謹んで遠慮しておきました。
c1e8fb6a.jpg 境内の様子もざっと見ておきます。拝殿の南(左手)には、まず白龍大神2c2a1e93.jpg の幟が立った小さいお社があります。龍神は、雨や水の神様ですから、農耕生産と結びついて祀られているかとは思いますが、説明板などでは言及はありません(うつべふるさと探訪マップには、「小古曽神社南方の、もと五百山にあったのが、合祀のためにこの地に移った。白蛇が住み着いていたので、共に移ってもらい定住の場として今の社を建てた」とありました)。その左手には、「橿原神宮遙拝所」がありましたが、これは、昭和38(1963)年に建てられています。これまで観た中ではもっとも新しいものでした。これまで確認したものは、紀元2600年のときに立ったものが多くなっていました。
26e5b3f3.jpg 鳥居の北側(拝殿に向き合うような位置)には、「明治神宮遙拝所」があ6b3f67e5.jpg ります。これはもっと新しく、碑陰には「御大礼記念 平成2年11月」とあります。今上陛下の即位の礼が、平成2(1990)年に行われていますから、その記念ということです。この明治神宮遙拝所も、今まで見た中ではもっとも最近のものです。さらに、白龍大神と橿原神宮遙拝所の南には、「平和の礎」と「表忠碑」が一基ずつ。「平和の礎」は、昭和36(1961)年3月に小古曽町自治会が建てたもので、裏には「殉国者芳名」が25柱記されています。「表忠碑」の碑陰には、「明治三十七八年役戦死者」として、陸軍砲兵お二人のお名前がありました。日露戦争で戦死された方と考えられます。碑は明治41(1908)年9月に小古曽區が建てたとあります。
f828f0c4.jpg もう一つ、地蔵堂もありましたが、こちらは詳細は不明うつべふるさと探訪マップによると「首切り地蔵」のようです。「縁起によると、内部川の河原で光るものを見つけ拾ってみると仏頭であった。石屋に胴体を付けてもらい、お祀りする場所を伺ったところ「お宮に置いてくれ」とのことで、ここに鎮座した」といいます。このほか、境内にある運動広場西には庚申塚が6基と、神宮遙拝の石灯籠があるということでしたが、気づかず残念。石灯籠は、神社の東、東海道沿いの道標のところにあったものが、下水道工事によって平成10(1998)年に移設されています。この「神宮」はもちろん、伊勢神宮のことです。
6d17e9bf.jpg 小古曽神社を10時半前に出て、県道407号線(昔は、ここが国道1号線でした)を南へ。横断歩道橋に「県道407号線」とあったのですが、何度も通った記憶があり、調べたら、元国道1号線だったことが判明(微笑)。このあと、ゴールの内部駅近くを通って、内部川の堤防へと進み、采女城跡を目指しますが、それはその2にて。