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 近鉄ハイキング“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”のその2です。「その1」では、スタートして、いきなり楚原神社に寄り道し、その後、ねじり橋・めがね橋で三岐鉄道北勢線のナロートレインを撮影したところまででした。距離にして、1kmあまりしか進んでいません。電車が来るのを待っていたりしましたので、10時にスタートして、撮影が終わった時点ではもう10時55分でした。

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 ねじり橋まで引き返して撮影していましたので、コースに戻ります。明智川にかかる宮橋。めがね橋もこの明智川にかかっています。下流で員弁川に合流。ネットで調べても特に情報はなく、いわれのある橋ではないようですが、欄干が斜めになっているのが特徴。昭和38年3月の銘がありました。この向こうに八幡神社がありますから、それに因んだ名前がつけられたのでしょう。
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 コースマップには載っていますが、立ち寄るポイントではありません。しか2c17edee.jpg
し、ここは寄り道するしかありません(微笑)。コースは、左の写真で、鳥居に向かって左の道を行きます。この八幡神社、旧社格は、村社。勧請年月は、不詳。鳥居の脇にある、大きな燈籠には、「昇格記念 昭和九年十月(?)」とありました。もともとは無格社であったようです。後で思い出したのですが、ここは中井精也さんの「てつたび」(三岐鉄道北勢線)で、取り上げられたことがありました(こちら)。
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 この八幡神社は、鳥居をくぐって境内に入るまでに、三岐鉄道北勢線の踏切を渡らなければならないのです。昨日も書きましたように、北勢線はナローゲージですから、線路幅は762mm。無理をしたら、一またぎできるくらいなのですが、とにかくここを通らないと参拝できません。神社があったところに、後から鉄道を通したためと考えられます。三岐鉄道北勢線は、北勢鉄道として、大山田(現在の西桑名)~楚原間14.5kmが、大正3(1914)年に、また、楚原から阿下喜東(後の六石)間4.6kmは、大正5(1915)年に開業しています。
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 踏切を渡って、境内へ。こちらが拝殿。主祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)。その他、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、菅原道真(すがわらみちざね)、建御名方神(たけみなかたのかみ:大国主命の子。武神としての性格をもつ)、大山祇神(おおやまつのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ:火の神)が祀られています。
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 拝殿には、奉納された額がいくつか掲げられていましたが、いずれも文字が薄くなっていて読めません。かろうじてよめたのはこちら。「御大典記念……」「大正四年十一月十日」とありました。大正天皇の御大典記念でしょう。明治42(1909)年の登極令により、即位式と大嘗祭は、前天皇の喪が明けた年の秋冬の間に続けて行われることが決められました。この2つの儀礼をセットにしたのが「御大典」であり、国家的なイベントとして盛大に行われたといいます。
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 拝殿の前に並んでいて、遠くからも目を引いたのが、こちらの2つ。左側10a1f051.jpg
の球体(調べてみたら、ここに「機雷」であるとありました)には、「通神」「海軍中将和波豊一書」とありました。右側の砲弾型のもの(上記リンク先には、14インチ砲弾とあります)には、「至誠」とあります。おそらく併せて「至誠通神」ということでしょう。「至誠通神」は、「至誠通天」ともいうようで、元は孟子のことばです。東郷平八郎が好んで揮毫したようですし、ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村智先生も、自らを成功に導いたことばとしていらっしゃいました。昭和11年9月に奉納されています。ちなみに、こちらによれば、「機雷・砲弾に関する記録はない。球形で触角のない機雷は明治から大正のもの、おそらく両方とも日露戦の記念品ではなかろうか。この辺の素封家が奉納したものだそうで、和波豊一海軍中将(海兵32期)はその家族。和波中将は昭和11年に予備役編入となっているので、現役を退くにあたって記念に寄進したのかもしれない」とありました。建御名方神が祀られていることや、後述のように護国神社が境内社にあることに関連しているのでしょう。
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 個人的な興味で恐縮ですが、拝殿前の狛犬の確認。ここは「子取り 玉91d0ece4.jpg
取り」ではないタイプでした。
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 拝殿に向かって左手(西側)には、護国神社があります。鳥居は東に向3ffb4dd3.jpg
かって立っていますが、護国神社の拝殿は、右折した右側にあり、南を向いていました。余談ですが、こちらの狛犬は、「子取り・玉取り」になっています。
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 護国神社の境内の西側に鎮魂碑があり、22名の方のお名前が刻まれていました。ほとんどが20代の若者で、日清、日露の戦争の時になくなられた方が4名、他は太平洋戦争の時の戦没者の方でした。
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 護国神社の南側には「神武天皇 明治天皇御陵遙拝御柱」というものが67a54370.jpg
建っていました。これは、初めてみるものです。西の方角に向いています。明治天皇の陵(伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう))は、京都府京都市伏見区の桃山丘陵にあります。また、神武天皇陵は、畝傍山(うねびやま)の北東の麓、橿原神宮に北接したところにあります。石柱の右側には、「紀元節 二月十一日 明治節 十一月三日
神武天皇祭 四月三日 明治天皇祭 七月三十日」とあります。
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 石柱の左川には、「紀元貳千五百九拾六年」とあります。紀元(皇紀)f1b9dd88.jpg
2596年は、昭和11(1936)年。日本がロンドン海軍軍縮会議から脱退した年であり、二・二六事件が起こった年でもあります。いわゆるだんだん「きな臭くなって」行く頃ですから、国威発揚といった意味がある石柱のような気がします。右は、碑陰。「献納 發會記念 昭和十一丙子年十月一丙辰日 下笠田 辰之榮會」と読めます。その下には、12名の方のお名前がありますが、安政5(1858)年生まれで81歳という方がお二人いらっしゃいます。
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 その他、この八幡神社にはいろいろなものがありました。こちらは、「東宮d373e8a1.jpg
殿下御成婚記念水道」と刻まれていました。「大正十三年七月……」となっていました(右の写真)。昭和天皇は、皇太子の時、大正13(1924)年1月26日、久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子良子(ながこ)女王と結婚していらっしゃいます。碑陰には、「○臺翁和浪不○」とありました(○は、小生には判読不能です。もう少し努力は続けます)。
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 境内の南には、伊勢神宮の方向に向かって、「神宮 方位」と刻まれた石fc9baec6.jpg
柱が建っています。よくみられる「神宮遙拝所」と同じだと思います。「寄進 修和會」とあります。建立年月日は、未確認(急いで忘れたのです)。右は、境内の南東側にあった「昇格記念」の石柱。はじめの方に書きましたように、もともとは無格社であったようですが、村社に昇格した記念と思われます。昭和9(1934)年10月に建てられています。鳥居のところの燈籠と同じ時です。
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 その他、新しいものでは、「梅植記念」碑もありました。菅原道真公の「東風吹かばにほひをこせよ 梅の花 主なしとて春を忘るな」が刻まれています。御祭神に菅原道真公が含まれているからでしょう。平成11年11月11日の建立。
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 ご神木は、「カゴノキ(鹿子の木)」。クスノキ科の樹木で、成長すると、樹e8b5a024.jpg
皮が鹿の子模様になるそうです。五国神社の鳥居脇にあります。また、五国神社の境内には、「八天宮浄水」というのもありましたが、水は涸れてしまっていました。「八天宮」は、火産霊神の別名。秋葉さんともいわれます。桑員地方(桑名、員弁を併せてこう呼びます。「そういん」と読みます)では、信仰が多いそうですが、これは、江戸時代・文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされたからだそうです(こちらを参照)。
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 本日は、ここまで。宮橋について少し触れただけで、あとは八幡神社で終わってしまいました。しかし、この八幡さんにもいろいろなものがありました。やはり、神社はワンダーランドであります。このあとは、ハイキングのタイトルにありますように、「早春の鈴鹿山脈を眺め」て歩いて行きます。