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 昼前から猛烈な雨になりました。冒頭の写真は、拙宅玄関前の様子。夕方に撮影しましたので、余計にそう思うのですが、暗くてうっとうしいのです(苦笑)。気分が滅入りそうになります。我が家は、高圧洗浄は終わり、来週くらいにベランダ側の塗装のやり直しの予定。そうしますと、窓が養生されますので、1週間、南の窓が開けられないという事態になります。いやはや、きれいにしてもらうのも大変です。
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 さて、今日は、月1回の市民大学講座の日。午前中、9時半から2時間、中6e3f961c.jpg
央公民館でしっかりと頭を使ってきました(笑)。7回シリーズも、早くも6回目。これで出席8割以上をクリアしましたので、「修了証書」がいただけます。今日のテーマは、桑名の江戸時代、2回目。藩主の松平家のことや、国替えの話。桑名藩は、初代、2代と本多家が続いた後、松平家が移封されています。ただし、松平家といっても、様々な系統があり(徳川家から、松平の姓を賜った家系もたくさんあるのです)、旧姓をつけて区別します。桑名藩では、久松松平家と、奥平松平家が藩主を務めました。まだ復習をしていませんので、詳しいことは歴史書や、リンク先をご覧ください。
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 ところで、あの服部半蔵が、桑名藩に関わりがあったということは案外知られていません。服部半蔵は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍しています。2代目半蔵・正成が、いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られています。3代目半蔵・正就は、配下の伊賀同心の反発を招き、結局は役目を解かれています。その後を正就の弟である正重が継ぎ、4代目半蔵・正重となるのですが、舅である大久保長安の事件に巻き込まれて失脚。紆余曲折の後、5代藩主・松平定綱公に召し抱えられるのです。これによって、服部半蔵家は、桑名藩の家老として存続します。ちなみに、兄・正就の妻は桑名藩主松平定勝の姉であり、その子・服部正辰(正重の甥)も桑名藩に仕えています。こちらは、血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家以上に優遇されたといいます。
 余談ながら、2代目半蔵・正成は、あの「神君伊賀越え」で有名です。天正10(1582)年6月、本能寺の変の後、堺に滞在していた徳川家康が、甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜けたのを「神君伊賀越え」といいます。このとき、先祖が伊賀出身である正成は、商人である茶屋四郎次郎清延とともに家康一行を安全に通行させ伊勢から船で、三河・岡崎まで護衛したのです。伊勢国から船に乗ったのは、白子浜(鈴鹿の長太)というのが定説(四日市だという説もあるそうです)。そのたどり着いた先は、「三河の大浜」です。この「大浜」というのは、小生の故郷なのです。
 子供の頃、「権現岬」とか、「権現松」というのがあって、気になったのですが、それはどうも「熊野権現宮」の関係の名称で、家康との直接の関連はなさそうでした。
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 話を戻して、服部半蔵家は、桑名藩・家老ですので、左の写真のように、お城近くに屋敷を賜っています。現在の立教小学校の東あたりと思われます。兄・正就の系統も、服部石見守として、現在の三の丸町内あたりに屋敷がありました。
 市民大学講座終了後は、メディアライブにある市立中央図書館にも行ってきました。第12回「昭和の記憶」収集資料展「吉田初三郎画 鳥瞰図と在りし日の桑名」が10月24日(火)まで開催されているのです。吉田発三郎の鳥瞰図とか、昔の桑名となると、これは何はさておき、見に行かねばなりません(苦笑)。展示資料だけでなく、何か配付資料も作ってくださるとありがたいのですが……。アンケートにはそのように書いてきました。