猫の欠伸研究室(アーカイブ)

~淡々と飽きもせず……~ チベット・ラサの僧侶曰く、「人の生涯は猫の欠伸のようなものだ」

カテゴリ: 寺院

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 近鉄ハイキング“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あad063149.jpg
げきのおひなさん」へ”もその4でようやく完結を迎えられそうです。左の地図では、若干隠れてしまっていますが、「阿下喜駅」の北あたりから、阿下喜の町中に入ります。詳細は、右の地図の通り(こちらは当日のマップの一部を借りました)。
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 「あげきのおひなさん」の行事は、昨日で終わってしまっています。左はそのポスター。町の至る所に貼られていました。メイン会場のウッドヘッド三重には、800体ものひな人形が飾られた大ひな段があります。それ以外にも、手作り作品や吊し飾りなど、阿下喜の町の商店、民家、寺社など約100軒でもひな人形が飾られていて、自由に見られます。とても全部は見て回れませんが、右上のコースマップ沿いで、展示されているところはいくつか覗いてきました。
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 そのうち、2つほどを載せておきます。左は、以前はお店だったようですが、29b36f81.jpg
現在は普通のお宅。つるしびなが入り口に下げられていましたし、中にもお雛様がありました。右は、おもちゃ屋さんというか、模型屋さんの店先の様子。段飾り2つに、つるしびな多数。なかなか見事でした。
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 さて、コースにしたがって行くと、左折するところの角に浄土真宗大谷派・仏80affc57.jpg
法山相願寺があります。立ち寄りスポットではありませんが、コース沿いに寺社仏閣、名所旧跡らしきところがあるとついつい見たくなります。ここも境内に入らせていただきました。
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 本堂の中にお雛様が飾ってあり、「ご自由にお入りください」となっていました。が、すでに午後1時。あまり遅くなってもと思い、見学はパスして、コースに戻ります。
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 相願寺からすぐのところ、少し入ると、桐林館(とうりんかん)があります。平成26(2014)9be82535.jpg
年に国登録有形文化財として登録された、旧・阿下喜小学校です。この旧・阿下喜小学校の校舎は、昭和12(1937)年に「阿下喜町立尋常小学校」として建築されたものが復元されています。戦前の木造小学校の姿を偲ぶことができます。現在は、アート&カフェで活用されており、「桐林館阿下喜美術室」として平成29(2017)年7月から作品の展示と、カフェが常時一般開放されています。玄関脇には、二宮金次郎像があります。これは、東藤原小学校(いなべ市藤原町 東禅寺所在、平成29年4月閉校)にあったものを移設しています。
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 正面玄関を入ったところや、アート&カフェのスペースにひな人形が飾ら4c518f72.jpg
れていました。ちなみに、アート&カフェの方からは、カレーらコーヒーのよい香りが漂ってきていました(そういえば、まだお昼を食べていません)。玄関の正面には、こんな大きな柱時計。自分が通った小学校にもあったような気がしてきます(記憶はまったく定かではありません。全くのイメージです……苦笑)。
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 廊下なども、自分の小学校時代を思い出させてくれる雰cc2d0465.jpg
囲気。廊下の突き当たりは、「便所」とありました。子供たちがいるところには、昭和30年代の教室が再現されています。こんな机といすで勉強していたような気がします。ただし、黒板は、本当に「黒い板」だったと思います。
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 教室の手前には、校長室が再現されています。ここの調度品は、立田小200bf106.jpg
学校校長室の備品をそのまま移しています。立田小学校(いなべ市藤原町古田)は、昭和の趣が残る小学校だったそうですが、平成29(2017)年、藤原小学校に統合され、閉校しました。花ひげを生やした校長先生が座っていそうな雰囲気です。
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 右上の写真で奥に写っている、黒い金庫のようなものは「奉安庫(ほうあんこ)」です。昭和の初め(1930年代~)、天皇の神格化と戦意高揚のため、「御真影(ごしんえい)」と呼ばれた昭和天皇・皇后の写真がすべての学校に「下賜」されました。この御真影や教育勅語の保管施設で、校舎内に設けたものを「奉安庫」、独立した建物になったものを「奉安殿」と呼びます。耐火式の施設が盛んに作られたといいます。小生の小学校時代にはまだ、校庭に奉安殿だったという建物がありました。
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 上に載せた、復元された教室内には、「番傘」が2本展示されていました。この番傘は、阿下喜小学校に昭和38(1963)年に入学したお子さんが実際に使用していたものだそうで、ご本人から寄贈されたです。小生の小学生時代(昭和36(1961)年入学~昭和42(1967年卒業)、「こうもり傘」が多くなっていましたが、番傘を使っている同級生もあったように記憶しています。雨が降って迎えに北お母さんの中に番傘を差してきた方があったのかも知れませんが……。
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 この桐林館、なかなかハイカラな校舎でした。建築当初、校舎屋根には青色の瓦が茸かれていたといいます。正面入り口にある玄関ポーチの瓦のような色だったのでしょうか。さらに、屋根中央には小塔があり、左右に は換気窓(ドーマー)が付属 していて、なかなかカッコイイ校舎です。午後1時をかなり回ってしまったので、ここの校庭で、コンビニで買ったおにぎりを食べ、お昼にしました。青空の下で食べるおにぎりは美味しい!
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 桐林館のすぐ南西に、今回の「あげきのおひなさん」のメイン会場である66f3a928.jpg
ウッドヘッド三重(いなべ市商工会)があります。ここの2階に、あの大ひな壇に800体のひな人形が展示されているのです。けっこうな賑わいでしたし、介護老人施設の利用者さんも職員の方と見学に来ていらっしゃいました。
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 予告編にも載せましたが、こちらがその大ひな壇。これは、1/3くらいの部分写真。スペースの関係もあって、広角レンズ(18mm)を使っても全体像はとても収まりませんでした。「ひな人形なんか、そんなに興味ない」などと思って出かけたのですが、さすがにこの迫力には圧倒されます。ただ、昼間、明るいところで見るのはよいのですが、夜なんかちょっと怖いかも知れないと思ったりしました。
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 他にもたくさんのひな人形、つるしびな、折り紙性のお雛様など多数が展6ebdd8c2.jpg
示されていました。左は、明治のおひなさんだそうです。今のものより、面長のような感じがします。右は、小は30年代の雛飾り。この頃までは、いわゆる「御殿飾り」がけっこうあったようです。
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 閑話休題。ウッドヘッド三重の前に物販所が出ており、買ってくるように頼まれた(指示された?)草餅がありましたので、ゲット。草餅と大福餅の8個入りセットで、¥500とお手頃価格。地元の丸喜製菓さんの和菓子は、2~3年前に行ったいなべの梅林公園などでも人気商品でしたから、まず間違いないと思ってです。実際、家族にも好評でした。息子などいっぺんに両方ともぱくり(笑)。
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 地図を見るとウッドヘッド三重の近くに「まちかど博物館 プチ鉄道博物ebe25d0d.jpg
館」があると書いてあります。これも見逃してはならじと思ったら、安藤建材店さんの店頭にコレクションが飾られていたのです。駅名表示板や、ヘッドマーク、行き先表示板その他です。サイトには、見学は要予約とあります。
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 さらに西へ。大西神社。マップにある、最終の立ち寄りスポット。由緒書きd34f94f4.jpg
と、神社検索(三重)によれば、御祭神は、次のリストの通り。創建年は不明ですが、織田信長の時代に阿下喜城主・片山大和守が、諏訪大明神を祀ったのが始まりで、建御名方神及び下照姫命、また、境内社として山神を祀っていたと由緒書きにあります。天保7(1836)年に大西神社となり、明治40(1907)年に諸社を合祀しています。そのために御祭神がたくさんいらっしゃるということです(以下の御祭神のところに括弧書きしたのが、合祀した元の神社)。
  • 建御名方神 (タケミナカタノカミ)……大国主命の子。武神。大国主命の命令で武甕槌神と力比べを行ったものの、敗れて信濃諏訪湖に逃れ、この地から出ないと誓った。諏訪大社の祭神
  • 下照姫命(シタテルヒメノミコト)……大国主命の娘
  • 誉田別命(ホンダワケノミコト)……第15代、応神天皇(字八幡 八幡社)
  • 火産霊神(ホムスビノカミ)……迦具土神(カグツチノカミ)ともいう。伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)の子。火の神。(字二俣 八天宮)
  • 須佐之男命(スサノオノミコト)……伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)の子。天照大神(アカテラスオオミカミ)の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された(字二俣 西の神社;字舞野 谷坂神社)
  • 大山祇神(オオヤマツミノカミ)……山をつかさどる神。伊弉諾尊(イザナギノミコト)の子。(字八幡 山神社;字鳥坂 切田神社)
  • 石神(イシガミ)……「しゃくじん」ともいう。奇石、霊石を神体とする神。(字町赤神 赤神社)
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 左は、拝殿。右の写真の中央にあるは、「神輿殿」。神輿殿の中には、後述の「八幡祭」に用い282c1ec1.jpg
られると思われる御神輿が納められていました。また、拝殿にも、神輿殿にも、ひな人形などが飾られていました(ガラス越しの写真ですので、割愛)。この神輿殿の背後には、藤原岳が見え、見ようによっては藤原岳がご神体のような気もしてきます。
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 「八幡祭」についての説明板。大西神社の大祭で、神輿(別名=あばれ神輿)を中心に灯明・高張提灯を前後にして、鉦(かね)・太鼓を打ち鳴らしながら町の目抜き通りを練り歩く、勇壮な祭りだそうです。元は、見性寺東方の小高い丘の頂に中世から「上木(阿下喜)城」の守護神として祀られていた八幡社のお祭り。いったん途絶えたものの、嘉永2(1849)年に再興されています。
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 「お約束の(笑)」狛犬チェック。拝殿前の狛犬さんは、「子取り 玉取り」db8268b4.jpg
になっていました。ここの狛犬さんは、平成4(1992)年に寄進された、まだ新しいものでした。
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 上左の狛犬の写真に石柱が写っています。これは、ご覧のように、「皇太a2d8d0f9.jpg
子殿下御降誕記念」の石柱。「昭和九年一月阿下喜町青年團」とありますので、今上陛下がお生まれになったこと(昭和8(1933)年12月23日)を祝ってのものと思われます。このほか、境内には、「昭和御大典記念」と刻まれた玉垣もあります。昭和の御大典は、昭和3(1928)年11月10日、京都御所において執り行われています。
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 このあと、マップにあるのは忠魂碑。三重県遺族会のサイトによれば、こ61972947.jpg
こは、在郷軍人阿下喜分会が、北勢町旧阿下喜地区全戦没者を祀る慰霊碑として建てたもの。「元帥 陸軍大将 子爵 川村景明書」と読めます。川村景明(かわむらかげあき)は、薩摩の出身で、日清、日露の両戦争に従事しています。
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 これですべて回ったと思い、コースマップにしたがって歩いていると、「卍」マークがあり、道ばたに「西念寺」という看板があります。そちらへ回ろうとしたら、マップにはない神社を発見。これは、立ち寄らなくては(笑)。
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 由緒書きどころか、社名を表すものも見当たりません。距離測βでは、64619d78.jpg
「イチガミ神社」とあります。神社検索(三重)のいなべ市のところには該当する神社はありません。ネットで検索してみても不明。お社の前に石があり、しめ縄が飾られていますから、ひょっとしたら「石神」神社なのかも知れません。
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 イチガミ神社のすぐ南にあるのが、向日山西念寺。浄土真宗本願寺派の5122b5c4.jpg
お寺。三問あたりは工事中。ご本尊は、阿弥陀如来絵像。お寺のサイトにある沿革によれば、創基は、宝徳元(1449)年、千種城主・山北豊後守教尊が、当地に滞留した本願寺第八代蓮如上人のご感化にあい、得度したことによります。天正2(1574)年、織田信長の焼き討ちに遭い、本堂および境内建物を焼失した後、阿下喜の地に寺基を移転しました。寛永元(1625)~6(163)年頃、本願寺第十二代准如上人より「向日山西念寺」の寺号を下附されています。
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 2度目の閑話休題。西念寺から阿下喜駅に向かう途中、お菓子屋さんのシャッターで見つけた文言が傑作。「仰げば尊し 和菓子の恩」でした。思わずにやりとしながら、駅方面へ。
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 阿下喜駅の手前で、阿下喜温泉あじさいの里に立ち寄ります。できれば5089ebf8.jpg
お風呂にも入りたかったのですが、この時点ですでに14時25分。次の西桑名行きは、阿下喜発14時39分と思い込んでいました。それ故、やむなく、特産品 お土産品の「あじさいの店」のみ。
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 お昼はうまくいけば、いなべの蕎麦でもと思っていたのですが、その余裕がありませんでしたので、「いなべ石挽きそば」を一つお買い上げ。いなべは、蕎麦の栽培が盛んで、あちこちに美味しいそば屋さんがあると聞いています。しかし、今日はそんな余裕はありませんでしたので、これはお試し(まだ食しておりません)。¥350なり。
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 ようやくのことで、14時32分に阿下喜駅にたどり着きました。この時点でddf41490.jpg
は、12km以上も歩いたこととはつゆ知らず(笑)。「今日は、相当歩いたな」と思っていただけ。駅について、ガックリ。電車の時刻を勘違いしていたのです。次は、15時1分発。しかも、できれば「マイレール乗車券」を買いたかったのですが、小生の前に出札窓口に行った女性が、ラスト1枚をかってしまわれました(涙)。駅員さんがその女性に、「これ最後の1枚だけど、普通に乗れますし、もしあれだったら、下車して無効のスタンプを押してもらったら、記念に持ち帰れますよ」とセールスしていたのです。泣く泣く自販機で切符を購入。
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 時間がありましたので、駅そばにある軽便鉄道博物館へ。といっても、営ba09937c.jpg
業は、毎月第1・3日曜の午前10時~午後4時までだけ。そのときは、ミニ電車ホクさんに乗車することもできます。220系モニ226形電車が止まっています。
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 懐かしい腕木式信号機もありました。この腕木式信号機は、JR名松線の家城駅から来たといいます。ナローゲージの転車台もあります。
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外周をくるっと回っているのは、たぶん「ミニ電車ホクさん」が走る線路。
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 電車が来る時刻も迫ってきましたので、ホームへ。ここには、「日本最西端のナローゲージ駅 阿下喜駅」という表示があります。ナローゲージの鉄道、現在では、「三岐鉄道北勢線」、「四日市あすなろう鉄道 内部・八王子線」、「黒部峡谷トロッコ電車」の3つしか残っていません。
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 ナローゲージの電車、小さくてかわいいです。270系の電車では、車長fb06a715.jpg
15.6m・車幅2.11m・車高3.67mです。車高はたぶんパンタグラフまで含めて。運転士さんと比べてみてください。車内も右の写真のような感じ。
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 15時1分に乗車。途中、スタートした楚原駅からは、いなべ総合学園の高校生たちがたくさん乗車。西桑名駅には、15時56分着。近鉄ハイキング、JRさわやかウォーキングを通して最長の12.4km+西桑名駅往復2.7km=15.1kmを無事完歩。所要時間は、10時スタート、14時32分ゴールで、ほぼ4時間半。あみま倶楽部のスタンプもこれで6個目。会員2年目ですので、今年12月末までに10個集めると「踏破記念バッジ」がもらえます(苦笑)。20個集めるとバッジの他に商品券1,000円分か、カタログギフト。ボチボチやりましょう。

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 近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”、その3です。2回の記事でようやく、2km地点にある八幡神社まで見てきました(苦笑)。ここからは、「早春の鈴鹿山脈を眺め」ながら、田園地帯を歩いて行きます。地図にありますように、三岐鉄道北勢線の線路に沿って1km半。
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 北勢線の電車を撮影したり、八幡神社に寄り道したりしていましたので、他cc123856.jpg
の参加者の方から遅れ、最後尾かと思われました(苦笑)。藤原岳を目標にひたすら歩きます。道沿いの藪からは鳥の鳴き声も。ホオジロのオスのようでした。田んぼには、ツグミやムクドリの姿も見られます。この日、上天気で暖かく、汗を掻いてきましたので、このあたりでダウンジャケットを脱いで、長袖シャツ姿貳なりました(苦笑)。
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 員弁川の支流・山田川の手前で北勢線の線路をくぐって右(北東)へ。山田1840c942.jpg
橋を渡ります。「昭和貳拾五年四月竣工」とありました。この山田橋からわずかな区間は、昔の「員弁街道(濃州街道)」のはず。濃州街道は、桑名市三ツ矢橋町から、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜、いなべ市藤原町川合などを通り、いなべ市藤原町山口で巡見道と合流します。ちなみにこの写真に写っている後ろ姿の女性、途中で一緒になったのですが、御年80歳過ぎとのこと! 歩くペースもけっこう速く、最敬礼しました。お元気です。
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 山田橋から坂を登って、500mほど行ったところ、昭和電線の南側に次の目2e7ea311.jpg
的地である、麻績塚古墳と、久保院八十八ヶ所道がありました。いささか息が切れています(苦笑)。広場のようになったところの南へ。
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 古墳などへ入るところには、「祈念碑」があります。「陸軍大将桂太郎72b619b7.jpg
書」と刻まれています。桂太郎といえば、明治時代の軍人、政治家(弘化4(1848)~大正2(1913)年)。明治34(1901)年には、総理大臣も務めた人物ですから、この祈念碑、もともとは相当古いものと思われます。
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 祈念碑の側にまだ新しい石碑があり、そこに説明が書か16c94afe.jpg
れていました。西南の役に秘始まり、日清・日露戦争、満州・日支事変、太平洋戦争の戦没者2,005柱を合祀してあります。員弁郡遺族会が、昭和54(1979)年12月に大修理をするとともに、合祀したとありました。
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 碑の南に案内板がありましたので、それにしたがって、鬱蒼とした森の中へと進みます。久保(くぼ)院は、笠田村和波九十郎氏の二男、久保(ひさやす)氏(明治12(1879)年~明治29(1896)年9月没・当時18歳)の追善供養のため、私有地に寺院建立と霊場を作る事を発願し、近隣、同志に呼びかけ篤志浄財(郡内14大字区、個人133名)により明治31(1898)年9月に完成しました。第1番札所鳴門市の霊山寺から88番まであり、石仏だけだったり、石室内におさまっている仏様だったり、色々な表情の仏様に出会えるとあります(こちらにある「ふるさとの紹介」、p.15を参照)。
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 こちらが和南山久保院。阿弥陀如来像、薬師如来像、弘法大師像があるといいます。真言宗のお寺なのですが、現在は無住となっており、境内はかなり荒れてしまっていて、残念でした。北勢線の魅力を探る会が、2013年4月7日に主催した“第20回北勢線の魅力を探る 「再発見!魅力ある北勢線沿線 楚原駅~阿下喜駅」”の報告書に詳しい説明があります(こちらのpp.6~10を参照)。前の写真に「清少納言ゆかりの」とありますが、それについての説明は見つかりませんでした。
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 和波久保之碑。久保は、三重県尋常中学校(現在の三重県立津高等学校)4年在学中の明治29(1896)年7月、夏休みで伊賀に帰省する友人らとともに、荒れ狂う雨の中、徒歩で伊賀に向かっています。一昼夜を要して友人宅に到着。2泊して体を休めた後、友人と二人で高野山を目指して、さらに旅を続けたのですが、帰途、和歌山から津までの船賃がなく、結局徒歩で戻っています。この無理がたたって、体調不良を訴え、9月に息を引き取りました。この「和波久保之碑」は、明治31(1898)年11月2日に建立されています。この碑の背後には、家族の墓3基がありますが、割れて倒れているものもありました。
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 明治39(1906)年4月7日、四国八十八ヶ所の土をもらい受けて、新四国7e9e0bd9.jpg
八十八ヶ所霊場を設けています。開眼供養は、真言宗御室派管長で仁和寺35世門跡の泉智等(1849~1928)を招いて執り行われました。しかし、朽ち果てた御堂や、倒れてしまった碑も多くなっています。
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 久保院の境内には、麻績塚古墳(オミヅカコフン)と呼ばれる2基の古墳c16877c9.jpg
があります。ここ麻生田は、古来、伊勢神宮領として、麻の栽培や紡織が盛んだったそうです。この2つの古墳は、埋葬された人物の名をとって「麻績塚古墳」と呼ばれます。伝承によると、麻績氏の首長墓で、神麻績連が被葬者とされます。1号墳は全長43mの前方後方墳、2号墳は直径16mの円墳です。4世紀中頃のものと考えられています。
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 余談ですが、コースマップの注意事項のところに、「野生の猿が出没する場合があります」と書かれていてビックリ(苦笑)。幸い、猿には遭遇しませんでした。この久保院でほぼ4km。このあと、阿下喜の町に入るまでにはさらに4kmほどを歩かねばなりません。途中、一度コンビニに立ち寄って、お茶とおにぎりをゲット。
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 これは、きわめてローカルなネタで恐縮ですが、コンビニからハイキング・コースに戻る途中の小屋に「扇會館」の看板を発見。九華公園の北、現在は柿安の本社ビルになっているところにあった総合結婚式場なのです(といっても小生は、話を聞いただけで実物は知りません)。「鎮国守国大神奉祀」と書かれています。
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 途中から、北勢線の線路に沿って歩きます。阿下喜から来た西桑名行き76fd1c5b.jpg
の電車。レトロカラーの200系。一度乗ってみたいと思いつつ、まだその夢は果たせていません。この日のハイキングでなんとかと思ったのですが……。7km半ほど歩いたところで、ようやく「阿下喜」の地名表示板。歩いた距離は、帰宅後確認していますので、この時点では、「ずいぶん歩いたな」と思っただけ。
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 阿下喜駅の北の交差点で右折(北へ)。ここから阿下喜の町中へ入りま081b0299.jpg
す。「あげきのおひなさん」では、メイン会場のウッドヘッド三重には、800体ものひな人形が飾られた大ひな段があります。それ以外にも、手作り作品や吊し飾りなど、阿下喜の町の商店、民家、寺社など約100軒でもひな人形が飾られていて、自由に見られます。
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 阿下喜の町では、お雛様も見てきましたし、相願寺、大西神社、イチガミ神社、西念寺なども回って来ました。それは、その4にて。その4で完結予定です。

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 昨日も近鉄ハイキングに行ったばかりなのですが、今日も出かけてきました(苦笑)。こちら、四日市市立博物館であります。今日まで「なつかしいくらしと昭和の元気な子どもたち」という展覧会が開かれているのです。学習支援展示ということで、市内の小学生たちのために企画されている展覧会です。
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 恒例になっており、毎年見に行っています(去年(2017年)は、1月13日に「昭和のくらし・昭和の子ども」展へ……四日市市立博物館 )。今年は行きそびれていて、今日で終了ということで、慌てて出かけてきました。①昭和の元気な子どもたち、②館蔵資料による昭和の再現展示、③四日市の昭和の鉄道の3部構成。①は、人形作家・水澄美恵子さんが、昭和30年代をイメージして作られた子どもたちの人形の展示です。よくできていました。②も、実物が展示され、茶の間や台所、駄菓子屋などの再現もありました。どちらも懐かしさに浸れます。
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 鉄道も興味はありますが、24歳までは愛知県西三河で過ごしましたので、f9d4fc6e.jpg
その頃までの三重県の鉄道については、イメージも体験もありませんが、歴史的なものとして見てきました。今回、展覧会に併せて、写真のような「四日市の昭和の鉄道」という図録が、「むかしのくらし読本4」として作成され、¥600で販売されていましたのでゲットしてきました。写真31点と解説文が掲載され、32ページからなる冊子です。ちなみに、このあと常設展示の「時空街道」を見に行ったら、ボランティアの女性と意気投合し、色々とお話ししてきました。四日市に久留倍官衙(くるべかんが)遺跡がありますが、そこに「くるべ古代歴史館」が3月25日にオープンすることなど、知らなかったことをいくつか教えてもらえ、ラッキーでした。ちなみに、久留倍官衙遺跡は、「朝明郡役所」の跡で、飛鳥時代(7世紀後半頃)、郡の政治を行う中心的な建物として建てられたものです。
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 余談ですが、博物館の総合受付では、マンホール・カードをいただけるとd0e5ace3.jpg
いうことで、簡単なアンケートに記入して、四日市のマンホール・カードをいただいてきました。地元・桑名市のものに続いて、2枚目です。四日市のマンホールのデザインは3種類あるそうですが、このカードになっているのは、歌川広重が手がけた浮世絵「東海道五十三次・四日市(三重川)」を題材にしています。
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 博物館は、30分ほどで済ませるつもりが、結局1時間も滞在してしまいました。他にいくつか回るつもりが、時間が足らなくなりそうです。隣のアピタ四日市店にある宮脇書店で文庫、新書それぞれ1冊を購入。11時になります。旧・東海道沿いの「阿瀬知橋」と、作家・丹羽文雄の生家である崇顕寺を見て、JR四日市駅前の稲葉三右衛門像もと思っていましたが、ちょっと無理。
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 近鉄百貨店の南、中央通りを東へ。国道1号線に向かっていきます。途aaab20bd.jpg
中、四日市のゆるキャラ・こにゅうどうくんをデザインした自販機に気をとられつつも、足を進め、1号線の手前で、右折。国道1号線から1本西の細いとおりが、旧東海道。中央通りを挟んだ北側は、「表参道 スワ栄(スワマエ)商店街」になっています。この奥は、諏訪公園や諏訪神社があるところで、そこへは、去年(2017年)11月28日に行っています (またもや四日市へ……「阿弥陀さまと極楽の世界-四日市の浄土教-」を見て、鵜の森神社、浜田城跡、諏訪神社そして旧・東海道も(微笑))。このときも、博物館へ行ったときでした。
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 こちらが、旧・東海道。南の方角です。この先に「阿瀬知橋」と、作家・丹53d81529.jpg
羽文雄の生家である崇顕寺があるはず。歩いて行くと、何やらよい香りがしてきました。「たいやき 伊藤商店」のお店があります。小生は知らないのですが、「天然物の鯛焼き」を焼いているのだそうです。買ってくればよかったかも(微笑)。
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 しばらく行くと、阿瀬知川にかかる阿瀬知橋がありました。「ホントに歩く1a096e6a.jpg
東海道」の地図に「阿瀬知橋標石」が載っていましたので、歴史的で、有名なところかと思ったのですが、そうでもなさそうです。調べたところ、明治39(1906)年に新しく開削された運河ということでした(こちら)。三滝川から引いた水路で、元は農業用水として用いられていたようです(こちら)。JR四日市駅の先で港に注いでいます(全長は5kmほど)。四日市の政財界の指導者であった九鬼紋七(くき もんしち、慶応2(1866)~昭和3(1928)年)の提言によって作られたという記述があります。
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 さらに進むと、左(東側)、浜田郵便局の手前に、仏法山崇顕寺がありました。想像していたのは、かなり立派なお寺でしたが、旧・東海道の側から見ると、ご覧のようでした。浄土真宗高田派のお寺。ただし、ネットで見るともっと立派な本堂などがありました。保育園を併設していますので、自由には入れないようになっています。境内を拝見すると、小生の間違った印象も訂正されるはず。ストリートビューで国道1号線側からの画像を見ると、本堂その他が見えました。こちらへ回らなければなりませんでした(反省)。
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 東海道沿いには、このような立派な石柱が立てられています。正面には、仏法山崇顕精舎と刻まれています。「崇顕精舎」の部分は、丹羽文雄の筆によるもののようです。向かって左側には、「丹羽文雄誕生之地」とあります。丹羽文雄は、明治37(1904)年、崇顕寺の長男として生まれています(没年は、平成17(2005)年)。小説家で、文化功労者、文化勲章受章者です。近くの鵜の森公園には、句碑も建っています(またもや四日市へ……「阿弥陀さまと極楽の世界-四日市の浄土教-」を見て、鵜の森神社、浜田城跡、諏訪神社そして旧・東海道も(微笑))。
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 もう少し先まで行こうかとも思ったのですが、時間切れ。JR四日市駅前d9b23b74.jpg
へ行くのも諦め、鵜の森公園・鵜の森神社(浜田城跡)へ立ち寄って、一休みして帰宅の途へ。
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 途中、四日市あすなろう鉄道の踏切で、これまたナロー電車を見ました。e9441c25.jpg
ここも昨日乗った、三岐鉄道北勢線と同じく、ナローゲージなのです。まだ乗ったことがありません。右は、今日歩いたコース。2.7kmプラスアルファ。地図に東海道とあるのは、国道1号線。旧東海道は、その1本西の道。
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 余談。帰り、桑名駅で電車を降りて、国道1号線を歩いていたら、飲み屋c419c4a9.jpg
さん(ろばた お勝)の屋根にイソヒヨドリのオスを見つけました。先日は、この近くのビルでメスを見ています。まさか、こんなところに住んでいる??
 なお、昨日の近鉄ハイキング(昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ)の本編は、明日以降、掲載します。写真を800枚くらい撮ってきてしまい、整理が追いつきません(苦笑)。色々と調べるべきこともありますし、ブログの容量制限も迫ってきていて、課題がけっこうあります。

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 近鉄ハイキング・酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」のその3です。椿岸神社には、いろいろ見所がたくさんありますので、今日もその続きです。昨日のその2では、御祭神、猿田彦社、神宮遙拝所、椿岸稲荷神社、皇居遙拝所を見てきました。
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 拝殿に向かって左手(西側)にもお社があります。忠魂殿となっていました。

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詳細についての説明書きなどはありませんでしたが、三重県遺族会のホームページによれば、「桜地区出身159柱の戦没者を祀る」とあります。
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 忠魂殿の南には、地蔵堂。延命地蔵尊が祀られています。延命地蔵は、延662ea8b3.jpg
命・利生(りしょう)を誓願する地蔵尊で、新しく生まれた子を守り、その寿命を延ばすといいます。ちなみに、「利生」は、「利益(りやく)衆生」の意味の仏語で、仏が衆生に利益を与えることだそうです。
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 そして、小生にとっては「新発見」が、この地蔵堂の陰(南西)にひっそりと建383602a4.jpg
っていました。「橿原神宮遙拝所」です。当然、橿原神宮をはるかに拝むところなのですが、小生にとっては初めて見たものです。碑陰に回ってみると、「紀元二千六百年記念」と刻まれていました。建てられたのは、昭和十五年四月とあり、氏子総代として12名の方の名前が連記してありました。昨日の記事では、書き忘れましたが、「紀元二千六百年」は、昭和15(1940)年です。この年は、神武天皇即位紀元(皇紀)2600年ということです。地蔵堂の奥、木々に囲まれ、今では、訪ねる人もないのではないかと思えました。
 ちなみに、Googleで検索すると、他にも「橿原神宮遙拝所」はいくつもあるようでした。
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 椿岸神社、まだ他にもいろいろなものがありました。まずは、こちらの「おad3a23cd.jpg
百度石」。「崇敬百度石」となっています。百度石は、百度参りをする際の標識として設けられている石のこと。百度参りは、社寺で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すことです。向かって右側には、「神徳発揚 天禄永唱 災悪厄除 福栄興産」と刻まれています。左側には、「八方開運 家業隆盛 交通安全 願望成就」の他、「昭和五十八年 吉日」とありました。昭和58(1983)年に建てた割には、「神徳発揚」のように、古めかしいことばや、「天禄詠唱」など、聞き慣れないことばがあります。「天禄永唱」は、普通の辞書には載っていないようですが(こちら)、「天から恵が限りなく降り注いでいる」という意味のようです。
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 境内の東には、句碑が一基。「神苑の 照る日くもる日 さへ……祭」(……c883b218.jpg
は、小生には読めませんでした。「祭」もアヤシいのです)。碑陰には、「昭和六十一年春 桜たのし句会」とあります。
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 手水舎の背後には、鬼瓦などの他、石の輪に花が供えられているところもあります(写真、向かって左下)。これはもうお手上げ。小生ごときの知識では、太刀打ちできません。ご存じの方がいらっしゃれば、是非ともご教示をお願いしたいと思います。
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 もう一つは、土俵。相撲は神事といわれますから、土俵があっても不思議はありません。「神聖な土俵なので 上がらないでください」とありました。
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 これは、よく見られる「掟」を示した触書。小生の目を引いたのは、下にある石製の台座。「奉納 明治百年記念」とあります。今年が明治維新から150年ですから、ちょうど50年前(昭和43(1968)年)のものということです。
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 最後になってしまいましたが、椿岸神社の由緒書き。ここには、御祭神は、天之宇受女命、猿田彦大神、天照大御神となっています。もとは、椿尾という奥地にあったものが、享禄2(1529)年兵火によって灰燼に帰したものの、戦乱の世の中で、30余年を経た永禄3(1560)年、奥七郷の氏子が新たに天照大神、八幡大神を勧請して、智積御所垣内の地に再建したとあります。ちなみに、七郷とは、智積、佐倉、桜一色、森、赤水、海老原、平尾であり、これらが一御厨をなしていました。明治になり、明治43(1910)年一村一社の方針に基づいて、旧桜村内の神社をすべてここに合祀したとあります(このあたり、その2にも若干記しました)。
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 智積養水を見ていないなと思って、神社を後にし、コースをたどって西側eb189f13.jpg
に行くと、水路がありました。ここが、智積養水でした。次の目的地である、西勝寺の前にもこの智積養水が流れています。
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 西勝寺の向かいに休憩所があり、そこに智積養水の案内図・説明板があります。智積養水は、江戸時代に敷設された灌漑施設で、隣町の三重郡菰野町神森にある湧水池「蟹池」の水を引いています。智積養水路の全長は1,784m、幅は1~2mあります。 ここに桜郷土史研究会による詳しい説明があります。
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 智積養水は、昭和60(1985)年に環境省選定の「名水百選」に選ばれています。智積養水のお蔭で、稲作収穫量は安定しているといいます。昭和30年代(1955~64年)までは、住民の方は、この水を生活に用い、その恩恵をたくさん受けてたそうです。そのためいつからともなく、水田を潤し人々を養う恵みの水に対して「養水」の文字を当てて感謝の気持ちを込め、水路清掃も怠りなく、世代から世代へと大切に守り受け継いできたものです。高度経済成長にともない、生活様式が多様化するにつれ、智積養水も生活排水による汚染が広がった時期もあったのですが、自治会が昭和47(19729年、養水の美化を始め、コイの放流や、水路清掃を続けたお陰でかつての清流がよみがえり、「名水百選」に選ばれたのです。
 余談ですが、椿岸神社を出るとき、11時を過ぎていました。まだ雨も続き、先を急いでしまったので、近くにある智積公会所脇にある「延福寺跡」を見忘れました。けっこうよくこういう失敗をやらかします。が、なかなか反省が身につきません(苦笑)。
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 桜岡山西勝寺(浄土真宗本願寺派)。山門の前を智積養水が流れてい

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て、なかなかよい雰囲気です。寺の創建を調べると、いくつかのデータが出て来ます。こちらのサイトでは、「寛正2(1461)年の創建と伝 えられる」としていますが、桜郷土史研究会のサイトを読むと、「1504(永正1)年、教尊法師、智積に一宇造立。(桜岡山西勝寺)」とあります。建物は、安政の大地震で倒壊後、再建され現在に至っているといいます。
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 雨もようやく小降りになってきたのですが、伊藤酒造がすぐ近いこともあってか、椿岸神社よりも立ち寄る人は少ない有様。本堂も立派で、境内も広く、ゆったりしたお寺なのに、ちょっともったいない。
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 ここの境内には、「引石(ひきいし)」があります。桜地区の中央部には、Hikiisi 「矢合川」が流れています。江戸時代、智積村では「生水川(しょうずがわ)」と呼ばれていました。ここには、石橋が架かっていたのですが、欄干がなく、増水時には渡るのがかなり危険だったそうです。そこで、寛政7(1795)年、この「生水橋(しょうずばし)」の両岸に、石柱が一本ずつ建てられ、この石柱を当時の人々は「引石」と呼んだのです。この「引石」には、右図(桜郷土史研究会のサイトからお借りしました)のように普段から1本の綱が張ってあり、梅雨などで川が増水すると、橋の上を水が流れて通行上非常に危ないので、通行人がその綱を手摺りとして橋を渡れるようにしたといいます。
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 引石は、2本が残っていますが、1本は完全な状態、もう1本は短くなっているように思えます24faa33d.jpg
。向かって右の引石は、南岸にあったものといい、「高水の時なわ引石」とあります。裏には「南無阿弥陀仏」と彫ってあり、その縁でここ西勝寺に引き取られたそうです。当時の生水川は、深さ90cmと非常に浅い川で、増水するとすぐに橋も洗われるような状況だったようです。綱を握り、「南無阿弥陀仏」と唱えながら橋を渡ったと伝わっているそうです。短い方は、「北岸の引石」で民家で保存されていたものを平成25(2013)年、ここに移設しています。
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 引石が建てられていたのは、四日市往還(東海道四日市宿から、智積村の生水橋を渡り佐倉村を通って、菰野藩城下を往来する道)にかかる生水橋で、人の往来も盛んだった、重要な橋だったようです。生水橋は、現在の矢合橋(コース途中で、矢合川を渡った橋)と花本橋の中間にありました。ちなみに、大正10(1921)年、国鉄四日市~湯の山間のバス運行(菰野自動車)開始に先立って、橋が架け替えられ、このとき、引石も無用となり、取り払われています。
 長くなりましたので、今日はここまで。その4でいよいよ最終目的地である、伊藤酒造のお話を。

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 2月17日の酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」のその2です。昨日のその1では、東名阪自動車道をくぐるところまで書きました。東名阪自動車道を過ぎてすぐに大師堂があります。今日は、ここから。
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 こちらがその大師堂。ご本尊は、弘法大師坐像(高さ30cmの石像)。弘法大師として知られる空海は、平安初期(弘仁12(821)年)に、現在の香川県にある「満濃池」をはじめとして、各地に灌漑用溜池をつくり、水不足に悩む農民を救っています。これに因み、あちこちの溜池や掘り抜き井戸などの守り仏として「弘法大師像」が祀られています。この大師堂も同様です。
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 江戸時代末期、一生吹山山麓の開発が行われ、山頂の北西にあった窪地に雨水を溜め、「雨池」をつくり、水路を通すなどして周囲を灌漑しました。この大師堂のあたりへは、川を利用するとともに、掘り抜き井戸を用いて給水しています。ここは、地形上も、地下水が集まるところで、豊富な清水が湧き出したといいます。説明板には、この水が永遠に絶えん事を祈って、昭和の初め頃、徳志(篤志か?)の人が弘法大師を祀り、今に受け継がれているとあります。こちらに、桜郷土史研究会の詳しい説明があります。
 大師堂を通った頃は、ちょうど雨・霰・風が強く、見ていく方はほとんどありませんでした。私も急いだため、大師堂の西にある「掘り抜き井戸跡」を見てくるのを失念。慌てるといけませんが、こんな天候ではねぇ……。
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 大師堂から北西に向かうと、「矢合川」を渡ります。昨日の「その1」で触679c258d.jpg
れた一生吹山の歴史に、天文8(1539)年、時の佐倉城主・小林備前守重則が、鈴鹿郡峯大和守盛定に攻められたとき、この矢合川北の殿腹で自刃したということがありましたが、その矢合川(元は、生水川(しょうずがわ)といったといいます)です。左の写真は、下流側、右は上流側。
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 大師堂から1kmほどで、椿岸神社(つばきぎしじんじゃ)に到着。まだ雨が06411089.jpg
降っていました。桜郷土史研究会のサイトによれば、創立年不詳ですが、社伝では、天平12(740)年頃、現・桜町西区字椿尾に創建とあるそうです。「延喜式(延長5 (927) 年完成)」にも椿岸神社の名が記されているといいます。
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 神社検索(三重)によれば、御祭神は、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の他、豊受姫命大御神(トヨウケビメ)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、豊臣秀吉、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、木花之開耶姫命(コノハナノサクヤビメノミコト)、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、品陀和気命(ホンダワケノミコト)、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコ)、八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)、八衢比売命(ヤチマタヒメノミコト)、大山祇命(オオヤマツミノカミ)、猿田毘古神(サルタビコノカミ)、天照大御神(アマテラスオオミカミ)となっています。なんだかややこしいというか、賑やかというか。
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 桜郷土史研究会のサイトによれば、「『明治17年調伊勢國三重郡智積村地誌』には次のように記されています。祭神は、猿田彦大神、天受賣受命(天鈿女命)、天照大御神の三座を祭る。」ということです。その後明治政府の神社合祀により、次の神社が、椿岸神社に合祀されています:須佐社(智積字御所垣内)、浅間社(智積字一生吹)、桜神社(桜村字南垣内)、桜神社(桜村字武佐)と同境内社・浅間社、幸田神社(桜村字南垣内)、桜岡神社(桜村字山上垣内)と同境内社・稲荷社、稲荷社(桜村字砂子谷)、大谷神社(桜村字大谷)、稚瑳良神社(わかさくらじんじゃ。桜村字猪之峡)、そのほか桜地区内各地の「山神」10体。これだけの神社が合祀されたがために上記のように、多数の相殿神がおられるということかと思います。第2次大戦終了後などに、分祀された神社もいくつかあります。桜郷土史研究会のサイトのここに詳しく書かれています。写真は、椿岸神社の拝殿。
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 境内社を見る前に、拝殿前の狛犬を確認します。向かって左が「子取74b68fd2.jpg
り」、右が「玉取り」となっていました。このタイプ、けっこうよく見かけます。
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 こちらは、猿田彦社。境内の東側のエリアにあります。鳥居にある神額は、「宮司 912a2863.jpg
川島敏孝 謹書」とあります。お社は、右の写真の通り。北に向かって拝むように建っていました。猿田彦は、天孫降臨のとき、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
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 猿田彦社の脇には、「神宮遙拝所」の石柱が立てられていました。ここで、例によって、うっかり(苦笑)。裏に回って、いつ建てられたのかを確認することを忘れました。神宮遥拝所は江戸時代に建てられたこともあるようですが、今に残っているもののほとんどは、昭和12(1937)年、近衛内閣の時代に始まった「国民精神総動員」運動の最中に建てられたものが多いといいます。
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 椿岸神社の拝殿の東、猿田彦社の北には、椿岸稲荷神

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社があります。慶長10(1605)年8月に、京都の伏見稲荷神社の祭神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を勧請して、字大門(あざだいもん;現・桜町南公民館の南)に「幸田神社」として創建されました。そこに至る経緯については、右の説明板にもありますし、こちらにもあります。
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 明治政府の一村一社の方針にしたがって、幸田神社は、明治42(1909)年に椿岸神社に合祀されました。しかし、昔を懐かしむ人々の声によって、昭和35(1960)年に、幸田神社は椿岸稲荷神社と名を変えて椿岸神社本殿の東側に再建されています。
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 この椿岸稲荷神社の参道の東には、「皇居遙拝所」の石柱が立っています。裏b08d8dce.jpg
に回って確認すると、「皇紀二千六百年紀念 昭和十六年菊月巳庚會建之」とあります。「皇紀」は、日本書紀の記述をもとに、神武天皇即位の年(西暦紀元前660年にあたる)を元年とする紀元です。亡父から、この「皇紀二千六百年」という事はよく聞かされた記憶があります。これを機会に、当時の日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また、国民生活の窮乏や疲弊感を晴らそうとして、大規模な行事を展開したようです(こちらを参照)。ちなみに、皇居遙拝所は、昨年12月22日に行った、近鉄ハイキングの「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」で、南伊賀留我神社にもあるのを確認しています(近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。
 椿岸神社、まだまだ他にもいろいろとありましたが、長くなりますので、今日は取り敢えず、ここまで。この記事に追記するか、その3として続きを書くか、いずれかにします。

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