2007年11月17日

現代アートがくだらなすぎてワロタ
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某ブログで、2ちゃんねるの編集記事が紹介されていました。

まんざら間違ってもないコメントがいくつかあります。
なかでもこのコメントなんか、言われがちな事だけど、なんかちょっと考えさせられます。

現代アートに限らず、美術なんていかに時の権力者に認められるかにかかってる。
力のある人間が「センスある」て認めれば、その他大勢もそれに流されてセンスあるような気になるわけだ。【2ch】ニュー速クオリティ:現代アートがくだらなすぎてワロタより)


以前「みたいもん!」で紹介されていた株式会社」という本に、今の社会システムが出来る前の世界について書いてあった。

かいつまむと、昔は、国や宗教やそれに準じる力が絶大で、一般庶民の力は弱かったけど、株式会社というシステムがそれらと対当する大きな力を生んで世界を変えたという内容。これを読んで、アート界って株式会社が出来る前の世界に似ているなと思ったのを覚えている。


(出典が曖昧なので話半分で読んでいただきたいのですが)今では現代美術界のトップスターのダミアン・ハーストも、その昔は賛否両論が激しく対立していたのに、エリザベス女王がダミアンの作品を買った事によって評価が確定したみたいな話を聞いた事がある。それが事実なら、それはまさしく株式会社が出来る前の世界と同じだし、先に引用した2ちゃんねるの書き込みもまんざら間違っていないということになる。

勿論、一流のアーティストと呼ばれるような人々はこういった問題に対して盲目的であるわけもなく、
実際、「社会のシステム」とか「美術のシステム」の問題や、システムそのものを喚起するといったコンセプトで作られた作品も多くある。

しかし、その「喚起」力が美術の理解者にしか通じないのはいいかげんわかった事だし、侃々諤々を繰り返したとこで、わかる人にはわかり、わからない人にはわからないのが、悲しきかな、現実です。

そもそも、エントロピーの法則じゃないけど、モダニズムのような影響力のある評価軸が消滅してしまった世界では、評価軸が日を追うごとに無秩序化するのは自然な事。評価軸が無くなれば、個人の趣味趣向だけでソートされる世界になるので、「単なる飾り」とは一線を画したアートの存在理由は薄れて行くだろう。

「何の為のアートなのか」という存在理由が薄れ、わかる人にはわかり、わからない人にはわからない状態のままのアートが未来永劫続くとは思えない。

こんな話はここ30年で語り尽くされてきたのかもしれないが、今僕らはIT革命という大きな波の中にいる。ちょっと前まで不可能だったさまざまな事が今では出来るようになっている。梅田望夫/茂木健一郎の「フューチャリスト宣言」じゃないけど、アートの世界でも、IT概念やIT技術を要した改革及びパラダイムシフトが行われるべきなのではないか。世界が柔らかくなっている今のうちに「国や宗教やそれに準じる力」と対当するような大きな評価軸というか、美術自体がイニシアチブをとれる評価構造を生む努力をすれば、「2ちゃんねる」に反映されるような大衆の深層心理を動す事も出来るようになるはずだ。

最近はそんな事ばかり考えている。まあ、現在はアートバブル真っ最中らしいけど、ちゃんと未来を見据えて、バブル崩壊後「施井泰平はアート界の静岡銀行だった」と呼ばれるようになるわ。



余談だけど、なぜ「ウェブ進化論」じゃなくて「フューチャリスト宣言」を引用したのかというと、20世紀初頭、産業革命が世界に浸透し始めた頃に、アート界にもフューチャリズム(未来派)というアート運動があったのです(フューチャリズムを遂行するのがフューチャリストね、一応)。それとかかっているんです。

フューチャリズム(未来派)の作品はキュビズム的概念に「動き」を加えるという意味で、初期のデュシャンの作品とコンセプトも発表時期もシンクロしています。


未来派は、表現主義芸術の影響を受けつつも、もっと純粋に肯定的に、近代文明の産物や、機械の登場によって生まれた新たな視点を、芸術に取り入れようとした。画家達は、今で言う高速撮影の連続写真のように、主題となる対象物の動きを一枚の絵に同時に描くことで、運動性そのものの美を描こうとした。(wikipedia: 未来派より)

初期には印象派やフォーヴィスム風の作品や、『階段を降りる裸体』(1911年、1912年、1916年制作の3バージョン)のようなキュビスムと未来派の影響を受けた絵画作品もある。
1911年には連続写真を思わせる『汽車の中の悲しげな青年』を制作。翌1912年には出世作『階段を降りる裸体No.2』、『花嫁』などを描く。デュシャンはこの1912年に油絵を複数制作後、油絵をほとんど放棄する。(wikipedia: マルセル・デュシャンより)


フランス出身のデュシャンはその後渡米し、世界におけるアメリカの力が増すと同時に評価を上げて行き、今では「現代美術の父」と呼ばれるまで上り詰めていますが、一方、イタリアで発足したフューチャリズム(未来派)は戦争関係で色んな問題を抱え衰退して行き、現在ではデュシャンに比べると大分地味な評価を受けています。

勿論、初期作品がシンクロしているだけで、その後の展開は属している国家同様、違うルートを辿ったからというのも大きいだろうが、ここでも、少なからず、アート界が株式会社ができる前の世界同様「国や宗教やそれに準じる力が絶大」な影響を及ぼす世界であることを匂わせているのだ。






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この記事へのコメント
はじめまして。
古いブログにコメントするのもなんですが
僕は、日本のアートサークルは、
ここ30年くらいをこつこつやってきた日本の制作者を、
まだまだ活かしきれていないと思っています。
30年経って、あ〜同じこと考えていたんだね、というのがあります。
ハコは変っても、移ろいでしかなく、
アートの循環という点では、これからというところなのでしょうね。
戦後の現代美術から60年。
IT革命という点で、視覚は進化してゆくのでしょうか?
僕にもわかりません。
記号論的に、コモンセンスが発達するには、
アートの力は必要だと思っております。
これからも、頑張ってください。
失礼いたしました。


Posted by Koichi Nishimura at 2008年06月12日 09:32